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天廻編1_Advent



 暗闇に染まった視界を二つに分かつその太刀筋は、息を呑むほど鮮やかで、魂に刻まれてしまうほどに美しいものだった。

「──っは、」

 男は走っていた。
 血液が混じった荒い呼吸を繰り返して、既に感覚が麻痺した四肢を引き摺り回すように動かして。
 ただ、走る。走って、駆けて、逃げ惑う。すぐそこに這い寄る死から逃れ、生き抗うために。

「──フ、」

 背後の闇が、何かの感情に塗れた含み笑いをこぼした。
 男は走り続けている。にも関わらずその笑みは耳朶を直接震わせ、顔も見ていないのに唇が綺麗な三日月を描いているとわかった。
 そいつを満たしている感情は、悦楽と快楽と、獲物に対する愛情だ。苦鳴を上げ情けなく逃げ出す後ろ姿が愛おしくて仕方ないのだと、瞬き一つしない歪んだ双眸が伝えている。

「ッくそ……くそが……」

 血の泡と共に吐き捨てられた怨言は自身とそいつ、どちらに対するものなのかわからなかった。

 ──あの存在と対峙した瞬間。
 手の中の剣が、否、あの存在自体が一振りの剣に見えて。その太刀筋の美しさに思考の全てが刈り取られてしまった。
 気づけば男が手にした刃は折られ、息があったのはそいつと男だけで、脳内に満ち溢れたコロサレルという警鐘に突き動かされるまま駆け出していた。

 自身が名だたる騎士と称されていた自覚が男にはあった。
 だがそれは剣を手にしていればの話だ。剣を失った今、騎士は力ない市民に成り下がり、情けなく命乞いすることしか出来ない。

「……なんで、」

 答えの返らぬ疑問符が、冷えた空気に投げ出される。
 女神という万物を見通す存在を擁立しながら、その手に抱えられた兵隊はほとんどが人間と亜人の一族から成る。どの種族であれ、もともとは争いなどとは無縁の者ばかり。魔物に住処を食い荒らされ、脅かされ、抗うための手段として即席の武力を身につけただけだ。

 これまで生温い平穏に浸かっていた者たちが、武器の使い方を覚えて間もない戦場における赤子である我々が、果たして地の底から這い出た魔の者に勝てる未来など、あるのだろうか──?

「──ッ、」

 息を切らしながら、鉄の味を噛み締めながら、心臓を鷲掴まれながら、男はある確信を抱いていた。
 今全身を支配しているこの感情こそ、まさに『絶望』という名で呼ばれるに相応しく、

「捕まえた」

「…………ぁ、」

 敵を切る、それだけのために残酷なまでに美しい太刀筋を持つこの男が──正真正銘の『魔の剣』と冠されるに相応しいということに。


「──逃げ足だけは、随分と速かったね? とは言え、足を動かす手間をかけられるほどでもなかったけれど」

 腰が抜け、ついに走ることも立つことも出来なくなった男は、尻餅をついたまま自身を見下ろすその姿を目の当たりにする。
 そいつは乱れのない白髪を掻き上げ、蛇を思わせる赤い舌で頬に飛んだ返り血を舐めとり、艶然とした微笑をたたえていた。

 相手はたった一人だった。騎士団の重鎮を担う剣豪に比べ体つきは華奢にすら見えるのに、その手にある漆黒の刀身は今までに見たどの刃よりも凶悪なものに見えた。

「いや、だ……嫌だ、」

 意味などないとわかっているのに、男の生存本能が側にあった尖った石の破片を拾い上げ先端をそいつに向けさせる。
 それを目にした彼は「ああ、」と熱に浮かされた感嘆符をこぼした。

「勝ち目はないとわかっているのに、抵抗してしまうんだね? 愚かしい姿も度が過ぎれば実に健気で愛らしくて──無茶苦茶に、壊してあげたくなってしまうよ」

 黒き刀身を持ち上げてそいつの目が細められる。滑らかな頬は薄赤く染まっていて、これから始まる一方的な剣戟の宴を心待ちにしている。

「その愚かしさに敬意を表して、ワタシの名を聞く名誉を与えてあげようじゃないか」

 黒刃が鈍く光る。頭を満たす警鐘の残響が尾を引いて脳髄を侵していく。コロサレル、ニゲタイ、シニタクナイと叫んで、叫んで、叫んで。

 ──しかし、

「ワタシは──魔剣の精霊、ギラヒム」

 薄い唇から紡がれた名は、それらの慟哭を全て掻き消すほどに朗々としたもので。

「ギラヒム様、とだけ覚えて──あとはせいぜい、イイ顔を見せて逝ってくれたまえ」

 やはりその太刀筋は、魂が震えるほどに美しいものだったと、
 男はそれだけを思い、空気を裂く風切音だけが耳に残った。

 ラネール地方、女神軍最後の防衛線はたった一人の魔の者の手により呆気なく落とされた。


 *


 かつて見渡す限りの万緑と豊かな生命に満ち溢れていた地は、一晩にしてその全てが炎に包まれていた。
 女神が抱える要地のうち一つ──海と新緑の地ラネールは、この日攻め入った魔族の一団により為す術もなく陥落させられた。

 魔剣、ギラヒムが率いる魔物の軍は正面から街へ侵攻し、真っ向から対峙した女神軍を完膚なきまでに追い詰めた。
 加え、権力が集約された要の地である神殿に攻め入ったのはギラヒムただ一人だった。

 彼は漆黒の魔剣を片手に数百の兵隊を薙ぎ払い、塵芥に帰して、最後の防衛線をものの数分で突破してみせたのだ。

「……拍子抜けだよ」

 身を包む赤いマントについた埃を払い、片手の魔剣を一振りする。無機質な石の床に深紅の飛沫が迸り、持ち上がった彼の視線が捉えたのはラネールで最も大きな神殿、その最奥だった。

 ラネールはフィローネ、オルディンと並ぶ女神軍の三大要地のうち一つだ。ギラヒムの──そして彼の主の目的を達するためには、遅かれ早かれ落とされるべき場所だった。

 そうは言え、敵ながら哀れだと思えてしまうほどに呆気ない幕引きだった。女神軍は確立されたばかりだと聞いていたが、戦い方も命の懸け方もままならない、吹けば消えてしまうほどに些末な抵抗しか見せられなかった。

「……フン」

 通常ならば敵軍を殲滅した後は早々に主の元へ引き返し、新たな命令を授かりに行っていた。だが、此度はまだすべきことが残されていた。
 それはラネール陥落とは別の、もう一つの目的。命を受けた際、主はラネールの地そのものよりもそちらに興味を持っていたように思えた。

「──時の神殿と、時の扉」

 その目的の名を口にする。今目の前にしている神殿の最奥。閉ざされた空間のさらに奥に眠っているもの。
 それは近年、人間どもが完成させた『時を超えるための技術』であった。

 ──くだらない技術だと、初めて耳にした時ギラヒムは思った。
 その技術を使って過去に行こうと未来に行こうと、脆弱な体しか持ち得ない人間が魔族以上の発展を見せる可能性はごくわずかだというのに。

 それに、どれだけその技術が有用なものであっても、自身の関心は主が存在する時代にしかない。
 故に、主が欲する『時』だけが自身が興味を持つべき対象だった。

「──ッ、」

 味気ない岩で出来た壁に魔剣の刃を数度走らせ切り崩す。予想通り、その壁にはさらに奥へと続く空間が隠されていた。

「……おやおや」

 そしてそこで魔族を待ち受けていた者たちを一瞥し、ギラヒムの顔に愉悦を滲ませた笑みが浮かぶ。
 女神が率いる賢者と最上位の騎士たち。どうやら一番強い守りは最初からこの場所に集約されていたらしい。

「ここで決着をつけることは織り込み済みだった、という訳だね?」
「────」

 身に迫る鬼気と傷一つついてないその姿を目にした賢者たちが、息を呑んで身を固くする。ギラヒムはそれすらも心地よいというように悠然と鼻を鳴らした。

「捨て駒にされた兵隊は何とも哀れだよねぇ? 最初の最初から勝ち目のない争いをさせられて、無駄に命を費やすことを定められていたなんて」

 見え透いた挑発と嘲笑を受け賢者の顔が屈辱に歪む。そうありながら何も言い返せなかったのは彼の言説が事実でしかなかったからだ。

 その沈黙を背景に、一人の騎士が前に踏み出し剣を抜く。闘志を宿した眼光とともに目先の魔の者を睥睨し、重々しく口を開いた。

「全て、貴様ら魔族を退けるためだ」

 その声音の裏で燃ゆるのは、挺身の覚悟だ。
 彼に倣って他の騎士や賢者たちも各々の武器を構える。ギラヒムは白い肩を竦めて煽るように剣先を掲げた。

 目の前の騎士が先ほど対峙した兵隊たちに比べ手練れの剣客であることはすぐさま察した。
 無論、そうであってもこちらを圧倒するには微塵も及ばないが少しは楽しむことが出来そうだ。
 ギラヒムは獰猛な獣のように瞳孔を細め、顎を引いた。

 ──その時だった。

「────」

 騎士と魔族が対立する緊迫した空気が、一瞬にしてある存在に塗り潰された。その場にいる者全員に襲ったのは、姿を目にせずとも魂が屈伏し統御されてしまう威圧感と覇気。
 その姿を前にした騎士たちは目を押し開き、続く言葉の全てを失う。背を向けていたギラヒムまでもが存在の根底を揺さぶられる感覚を抱く。

 女神側を染めたのは絶望一色だ。
 だがその時のギラヒムを満たしたのは、心地よい忠誠の温度。

「──魔王様」

 敬称が紡がれ、誰もがその存在に目を奪われる。ある者は魂を縛られるほどの恐怖に膝を折り、ある者は震えの止まらない体を奮い立たせようと足掻きを見せる。
 そしてある者は、自身に流れる生の衝動を再び実感する。

 戦場に立つ者全ての視線を集め──そこに訪れた“王”はただ一言、告げた。


「『時』を、我が手中に」


 魔剣の精霊は主の言葉に跪き、低頭する。
 たったそれだけの行為に全身が脈動する。今から始まる、その存在の野望がまた一つ叶う瞬間を心から祝福する。全て、全てを捧げ、全てを尽くす。

 ──心からの敬愛を、胸に。