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迷子編_4話



 眼下に広がる透き通った鏡面は深緑と曇り空を映し、時折小さな波紋が揺れていた。
 思わず息を呑むほど美しい光景だが、その水底はかなり深くにあるらしい。すなわち泳げない私にとって、あそこに落ちてしまうことは死を意味する。

「あれが、フロリア湖……」
「そうだ。お前が今後失態を演じたなら、あそこに沈めてあげるよ」
「それは嫌です……」

 目を細めて恐ろしい提案を嘯く傍らの主人に、身を震わせて抵抗を示す。冗談だと思いたいが、彼ならば実行しかねないだろう。

 ギラヒム様と二度目に訪れたフィローネの湿地帯。前回はここへたどり着く前に亜人たちに見つかって追い回されたため、私があの湖を目にするのは初めてだった。
 偵察の魔物たちが事前に調べた情報によると、封印は湖の中ではなくそのほとりに広がる薄暗い森の中にあるらしい。
 現在私たちが立つ高台から一見する限りでは、湖の周辺に監視の目はないように見える。だがこの地に住まう亜人たちは魔族の狙いが女神の封印であることを知っている。侵入者を拒むためにも巧妙に姿を隠し、見張っている可能性が高い。

 故に今回は二手に分かれ、ギラヒム様が敵をおびき寄せ、その間に私が封印の場所を探す。私にとって、敵地での単独行動はこれが初めてだった。

「…………」

 傍らで湖を見下ろす主人の横顔を、私は気づかれないように一瞥する。
 亜人の槍に貫かれた彼の傷は既に癒えている。……見かけ上は。
 不意打ちを受けた前回に比べて相手の出方がわかっている分、極端に状況が不利になることはないはずだ。けれど単独での行動を言い渡された時、私の返答を渋らせたのは今も鮮明に残るあの時の光景だった。

 すると胸中に蟠る私の迷いを見透かしたように、彼が唇を解いた。

「……先に言っておくが、お前は封印を見つけることに専念しろ。こちらの戦いに加勢することは一切考えるな」
「え……」

 目を見開いて顔を上げると、整った顔貌が流し目で私を睨みつけている。
 気圧される部下に構わず、彼は低く続けた。

「お前ではあの亜人どもに太刀打ち出来ない。封印を見つけたならすぐにこちらへ引き返して来い。……場所さえわかれば、あとはワタシ一人で充分だ」

 鼻面に皺を寄せてそう言い捨てられ、私の体は射竦められる。返答どころか、私は彼の命令に対し承知も拒絶も示せなかった。

 だがギラヒム様が私の答えを待つ理由はない。彼は一度鼻を鳴らし、魔剣を片手に湖のほとりへ一人飛び降りて行った。

「──来たぞ! 魔族長だ!!」
「取り囲め!」

 予想通り、湖の周りには複数の見張りがいたようだ。号令をかける叫び声が空へ木霊し、崖の下の空気は騒々しく一変する。
 身を屈めて下を覗き込めば、ギラヒム様は先日私たちを追い回したあの亜人たちに取り囲まれていた。そのまま猛然と攻撃を畳みかけてくる亜人と応戦する主人の姿を見下ろし、俯いて瞼を伏せる。

 私が今あそこへ降り立っても足手まといにしかならない。出来ることは命じられた通り封印の場所を見つけ、何もせずに帰ってくるということだけだ。……剣を握らず戦うことを全て彼に委ねた上で。

「…………」

 ここで感情に振り回されてやるべきことを見失えば、迎えるのは前回と同じかそれ以上に悪い結末だ。ならば時が来るまで自分の役割のことだけを考えるべきだろう。

 私は亜人たちと剣を交わす主人の姿をもう一度だけ目にし、立ち上がってその場を後にした。


 * * *


 草木を踏み締め急な斜面を何度か下り、ぐるりと迂回してフロリア湖を囲む森へ降り立つ。
 先ほど高台から見下ろしていた時は生まれて初めて見る規模の湖にばかり気を取られていたが、そのほとりの森の中は昼間なのに鬱蒼としていた。

 水源が近いからなのか、立ち並ぶ木々はやけに背が高く幅も広いものばかりだ。高い位置から見下されているような威圧感すら感じる。
 時折風に乗って遠くの争いの音が聞こえる度、後ろ髪を引かれる思いに駆られるが、私はそれを抑え込みひたすら自身の血がざわめく方角へ足を進める。

 そうして無心を装い歩き続け、やがて行き着いた地で私は真上に顔を上げた。

「これ……木?」

 私の前に立ち塞がったのは山──否、山のように高く聳え立つ、巨大な木だった。

 少し距離をとって目を一杯に押し開いても収まり切らないほどの高さと太さ。先日フィローネの森で雷に打たれた大木もかなりの大きさだったが、眼前の光景に比べればあっという間に存在は霞んでしまう。数千年の間、大地に人の手がつけられなかったからこそ、ここまでの規模にまで育ったのだろう。

 大樹はその根の一本一本を壁のように張り巡らせており、私はそれらを潜ったり乗り越えたりしながら封印の本体である女神像を探す。
 大樹の周りを一周しているだけなのにいくつもの山を越えている気分になって、軽く息が上がり始めてきた頃、

「あ……」

 ふと見遣った大樹の根元。幹と根と地面が複雑に絡み合ったその向こうに、人一人がくぐり抜けられるほどの大きな“うろ”が空いていた。
 見た目だけなら自然が作り出した穴に過ぎないが、一度気を引かれた私はそこへ誘い込まれていく。

「奥、続いてる……?」

 中を覗き込むと、自然が作り出した真っ暗闇は奥へ奥へと伸びているようだった。
 ──そして、私が探し求めている場所もこの奥にあるのだと、自身の内側の血が告げている。

 私は根と根の間に頭から体を捻じ込ませ、姿勢を低く取り奥へと進む。
 突き出した枝に腕を引っかかれながら狭い空間を這って歩き、数分。いつしか空洞は充分に立って歩けるほどの広さとなり、明らかに誰かが通った痕跡のある道へと変わった。

 女神の気配が濃くなるにつれて警戒心が高まり、片手は無意識にも腰の魔剣に触れる。数秒逡巡した後、その手は一度腰のポーチの中へと潜り込み、あるものが入っていることを確認した上で再び魔剣の柄へと戻された。

 やがて木の根に覆われ真っ暗だった空間の最奥に一筋の光が差したことに気付き、足早にその光の元へと向かう。

「……!」

 光を遮る根をかき分け、私はようやく地に足を下ろす。
 まばゆい光に満たされ真っ白に明転した目を擦り、その場所を目の当たりにした私は感嘆の吐息を漏らした。

「すごい……」

 そこは四方を樹皮に囲まれ、吹き抜けとなっただだっ広い空間──大樹の内部だった。
 光が差さないはずの空間を中央で祀られている女神像が温かく照らしていて、あれがこの大樹の心臓部なのだと何となく理解した。

「……う」

 神秘的な光景に圧倒されていたのも束の間、迫り上がる嘔吐感と倦怠感が一気に感動を霧散させ、私は呻き声を上げる。
 これまでにも何度か経験したが、やはり女神の封印を前にした時の血が逆流する感覚はどうしても慣れない。気を抜けばすぐにでも膝を折ってしまいそうだった。

 私はふらつく足を気力で叱咤し、なんとか女神像の前に立って魔剣を抜く。
 深呼吸をして、黒い刀身を石像の頭へと掲げた──その時だった。

「そこまでだ」
「!!」

 唐突に背を突き刺した鋭い敵意と短い金属音に、私はびくりと体を硬直させた。

 おそるおそる首を捻って視線を寄越すと、銀色に輝く三叉の槍が私の後頭部に向けて掲げられている。
 背後に立つのは──青い皮膚を持つ魚のような亜人。湖で主人が相手にしている者たちと同じ種族だった。
 見ればその後ろにも複数の亜人たちが控えていて、先ほど通ってきた道を塞いでいる。気配なんて一切感じなかったはずなのに。

「やはり、魔族長が人間を連れていたのはこのためだったようだな。まさかここまでたどり着くとは」
「…………」

 亜人の口調には薄い驚愕の気配が滲んでいるが、前回私の姿を見た時点で大まかな察しをつけられていたのだろう。
 その予想をもとにあえて封印の場所まで私を誘き寄せ、袋小路に追い込んでから決着をつけるつもりだったのだ。つまり、こちらの行動は完全に読まれていた。
 私は首筋に伝う冷たい汗の存在をはっきりと感じながら、奥歯を強く噛み締める。

「生け捕りにして、魔族長について知っていることを洗いざらい吐いてもらう。このまま頭を貫かれたくなければ剣を収めて両手を上げろ」

 亜人は獰猛な敵意をみなぎらせ、低く言い捨てる。
 この場ですぐに殺すつもりはないようだが、情けを見せるつもりもないらしい。隙をついて魔剣で応戦することは、私の実力では絶対に不可能だ。

 唾を飲み込み、私は魔剣を持つ手をゆっくりと下ろしてその刀身を腰の鞘へと収める。鍔際が擦れ、奏でた金属音がやけに虚しく耳奥へと反響した。
 やっぱり、私一人の力はこうも呆気なくねじ伏せられてしまうのだと、心の内で自嘲の念が浮かぶ。──だが、

「……役目だけは、果たせそうで良かったです」
「何……?」

 魔剣を収めた私の手が次に向かった先は、真上ではなく腰元のポーチ。
 そこにあるとわかっていた一つの石を摘み、すぐさまそれは正面に向かって手放される。
 私の予想外の行動に亜人は動くことすら叶わず、彼らの意識は全て目の前の光景に奪われた。

 そして、亜人たちの驚愕に見開かれた目に映ったのは、

「これで、全員外へ逃がさずに済みますよね?」

 魔石が弾け、木の根の中に生まれた赤い火の種だった。


 *


「……?」

 鮮血に濡れた魔剣を一振りし、視界の端の違和感に顔を上げた。

 フロリア湖を囲む背の高い木々を越えた向こう。先ほどまで無機質な曇り空だけが広がっていたはずなのに、そこには暗い灰色の煙が昇っている。
 周囲に漂う血の匂いに紛れて気づかなかったが、何かが焦げ付いた匂いが風に乗って漂ってきていた。

「──まさか」

 全てを察し、魔族長はその方角を見据えたまま一度舌を弾かせる。
 その足はすぐさま森の中へと導かれていった。


 *


「──ッ!」

 風切り音が鳴り、辺りを囲む炎が大きく揺らめいた。それだけで火の勢いが弱まることは無く、周囲の酸素を食らって再び激しく盛りだす。

 私の足元には真っ二つに断たれた女神像が転がっていた。
 封印を壊したことによりここに満ちる女神の気配は無くなったが、だからといって今の私を取り巻く状況は何も変わらない。

「げほっ……、……う」

 酸素を取り入れようと上向いた瞬間、熱を持った灰と煙が喉を焼き、何度も咽せ返る。
 痛んだ肺を押さえ付けながら座り込み、反射的に瞳に溜まった涙を拭って辺りを見回した。

 魔石を投げ入れ木の根についた小さな炎はあっという間に燃え広がり、今や私が立つ中央の台座を囲む火の海へと変貌していた。
 女神の封印が隠されていた神聖な聖域も、炎に包まれれば呆気なく崩壊してしまうらしい。延焼を妨げるものは何も無いため、ここが焼失するのも時間の問題だ。

 先ほど私を囲んでいた亜人の一部は既にこの場から逃げ出していた。一方で火を消し止めようとした残りの数人は結局何も為すことが出来ず、熱にやられて倒れ伏している。人間に比べ、火に弱い種族だったのだろう。
 おそらくまだ息はある。が、たどる未来はきっと私と変わらない。

「煙、上がったら……気づくよね」

 天を見上げ、外で戦っているであろう其の人を思い浮かべて呟く。
 火事に気づかなくても、封印を壊しさえすれば彼もこの地に用はなくなるはずだ。フロリア湖全体を覆う女神の気配が消え、自然と察することになるだろう。

 しかも、この大樹の中という場所を利用して亜人たちが加勢に行くことも防げたのだから結果だけを見れば充分だ。
 彼の口から褒め言葉を聞きたかったと思いかけて──なんとなく、褒められはしないのだろうと思い直して苦笑した。

「…………」

 目先でゆらゆらと揺らめく炎を眺め、長く息を吐く。
 頭はやけに冷静でいて、思考ははっきりとしている。焼け死ぬのは苦しそうだから、早く気を失ってしまいたいのに。

 それでも、その思いに反して頭に浮かぶのはさまざまな光景だ。
 過去の記憶。思い出。いわゆる、走馬灯というやつ。

 ──空にいた頃は、まさか自分の終わり方がこんなふうになるとは思っていなかった。
 でも、これが私の本来の生き方で、彼の手に落ちることが最初から決まっていたのなら、遅かれ早かれこうなっていたのだろう。

 熱が作り出す陽炎をじっと見つめると、微睡みに落ちていくような穏やかな感覚を抱く。それに身を委ね、意識を手放すようにゆっくりと瞼を閉じる。
 巡る記憶はほとんどが空にいた頃のもの。でも行き着く先は、たった一つ。

「……ギラヒム様」

 最後に口にする名前は、それだけで。
 もう二度とその名前を呼べないのだと思うと、胸に微かな痛みが走った。




「──リシャナッ!!!」

「……え?」

 ──だから、自分の名前を叫ばれた時。
 胸に抱いた願いが叶ったような、温かだけれど鮮烈な感覚が私の意識を急速に引き戻した。

 一杯に見開かれた視界の中で、質量を持った剣風に炎の壁が断ち切られる。
 命を蝕んでいた熱も、火が燃え弾ける音も、赤一色だったはずの景色も、その人が私の目の前に立ったことで全て全て世界から消え失せる。

「──ギラヒム様?」

 唯一世界の中で残った存在の名を口にすると、彼はゆっくりと振り返って視線を重ねる。
 部下を映すその両眼は、鋭利な眼光をたたえ険しく歪んでいた。

「……随分、勝手な真似をしてくれたものだね」

 炎は轟々と唸り続けているのに、彼の声音は鮮明に私の耳へと届く。彼がかつてないほどに怒っていることもすぐにわかった。
 炎に塗れた大樹はあと数分もすれば崩れ落ちてしまう。だが、彼がそんなことを気にする素振りは一切ない。

「お前には戦わず引き返してこいと命令したはずだ。こちらの戦いに加勢することは一切考えるな、とも」

 分かれる前に命じたことを低く繰り返される。
 普段は激情を抑えることなく露わにする彼が、今は青い炎のような静けさで私を見下ろしていた。
 彼はさらに視線を歪め、言葉を継ぐ。

「……ここにいる亜人たちがワタシのもとへ合流しないよう食い止めたつもりか?」
「……っ、」

 考えていたことを言い当てられ、小さく肩が震えた。
 反論も出来ず唇を引き結ぶ私に、彼は容赦のない言葉の刃を突き立てていく。

「何度も言わせるな。あんな亜人どもにワタシが負けるはずがない。数が増えようが、不意打ちを食らおうが……どれだけ手傷を負おうが、関係ない。最後にはワタシ自身の命を削って返り討ちにするまでだ」
「────」
「お前は命じられたことだけをしていればいい。女神の血を使って、ワタシを封印へ導けばいい。それ以上を求めはしない。……簡単な話だろう? それで命が奪われることもお前の身に危害が及ぶこともないのだから」

 留まることのない言葉の刃が、胸を穿つ。心臓を突き刺す。全身を掻き乱す。
 でも、本当に私の内側を引き裂くのは彼が告げる言葉ではない。鋭い眼差しではない。それは──、

「……それとも、こう言われないとわからないか?」

 薄い唇が紡ぐ言葉は、とうとう私の中心を抉る核心へとたどり着く。
 彼は、それを吐き捨てることに何の抵抗も示さず、

「──お前の助けなど、ワタシには必要ない」

「────ぁ」

 これ以上にない、明白な事実を告げた。

 彼は、誰も信じていない。
 私は、彼に信じられていない。

 失望も、諦観も、憎悪も、そこにはない。最初から何もなかったのだ。
 力不足だと、役立たずだと、そう叱責するまでの私への関心がなかったのだ。

 感情の奔流がせき止められて、指先の感覚が失われる。ただ、恐ろしく冷え切った思考は酷薄なまでにすんなりと現状を把握していた。
 そして、思う。彼の言う通り、この血がある限り私は殺されない。出過ぎた真似をしたことを大人しく謝罪すれば、私は死なずに生きていける。生き続けられる。

 だからもうあとは、沈黙だけを選べばいいはずで──、

「────わたし、は」

 小さく、彼の瞼が震えたのがわかった。
 それがわかったのは、自分でも唇からこぼれた声音に驚いたからだ。
 そう気づいても、言葉は自制の範疇を超えてたどたどしく続けられる。

「私は──貴方がくれた理由を果たさないと、意味がないんです」

 地についた手を握りしめれば、熱された砂がちりちりと肌を焼く。すぐそこまで迫った炎の熱が体を舐る。きっと、露出した肌には火傷だってしている。
 それでも、私の口が止まることはない。

「……あの雲海を越えるまでが長い長い夢で、貴方と出会ってからが現実で。現実の私は、貴方の駒として命懸けで戦って生きないといけなかったんです」

 空から落ちて、わたしが私になった日。
 未知なる地で教えられた私の運命を全部受け入れて、恐怖と不安を噛み砕いて、なんとか生き足掻こうとした。
 寄辺のない感情を全て抑え込みながら、ようやく手に入れた“自分がここにいていい理由”が、今日まで私を生かし続けた。

 ──でも、

「あの時剣を振らず役目を果たさなかった私は、何の力にもなっていなかった私は……意味のないものでしかなかった」

 役目を果たせず、理由を与えてくれた人さえも失いかけて、私は追い縋っていた道標を見失った。
 あとはまるで迷子になった子どものように、ふらふらと足取りの覚束ない感覚だけが残った。

 これが“喪失”の恐怖なのだと、私は思い知った。

「生まれて初めて、心の底から悔しいって思いました。何も出来なかった自分が。貴方を傷つけた自分が。結局、空にいた頃と何も変わっていない自分が。……そして、」

 呼吸が一度止まる。唇を閉ざしたのは、その時抱いた感情を思い出したからだ。
 数拍置いて、私は胸を締め付けるその感情の正体を静かに口にする。

「──怖いと、思いました」

 なんて弱くて浅ましいのだろうと思う。
 私に何かを拒絶する権利なんてないはずなのに。役目も果たせてないのに、失うことに怯えるなんて。

「ギラヒム様。……私は、」

 そうわかっていながらも、一度こぼれた感情は抑えられない。
 震える喉が彼の名前を呼んで、両眼に彼の姿を映して、私は、

「私は、やっと手に入れた居場所を、失いたくないんです──!!」

 ──生まれて初めて、誰かに本音を叫んだ。

 振り切れ、はち切れた感情は砦が決壊したかのように溢れ出す。
 高温の煤が喉の内側を焼いて、今にも血を吐き出しそうになりながら、その苦痛すら言葉に変えて、訴えて、叫ぶ。

「戦って、痛い思いをしても、死にそうになったとしても、私が私でいられる理由がここにあるなら!! 私はもう、それを失いたくない!!」

 純粋に、彼の助けになりたいという意志だけで生きていけたなら良かった。彼のように生きられたなら良かった。
 不純で、自分勝手で、たった今発した自分の言葉に後悔は尽きない。
 だって、私が並べ立てた全ての感情は、使われるモノとして余分で余計な雑念でしかないのだから。

「居場所を失うくらいなら、理由が無くなるくらいなら……それを失くす前に、死んでしまいたいんです」

 本当は、純然たる忠誠心だけを持つ部下でなければならなかった。
 自分の中にある寂寥感も、欲望も、消してしまえる部下でなければならなかった。

 でも、もう遅い。
 そんな部下でないことを私は私の言葉と行いで証明してしまった。

 きっと彼もそんな部下のことは見限って、この炎の中に捨て置いていくはずで──、


「調子に、乗るなよ」
「……!」

 瞬間。唐突に伸びてきた彼の手が私の胸ぐらを掴み、無理矢理自身の元へと引き寄せた。
 振りほどこうとしても絶対に離してくれないほどの強さで捕らえられ、真正面から睨みつけられる。

「お前はワタシに使われるモノだ。生かすのも殺すのもワタシ次第。だからお前の死に際を決めるのはお前じゃない。お前がお前の死を納得したとしても、ワタシが絶対に許さない」

 激情を宿した両眼が私の挙動を、表情を見逃そうとしない。言葉の通り、私を死という逃げ道に立たせまいと真っ向から行手を阻んでいる。
 その狂気的な意志に私の喉から掠れた吐息がこぼれる様を見遣りながら、彼は続ける。

「……苛つくんだよ。ここで一人死んだとして、お前は満足するんだろう。使命に準じた結果の死を、身勝手にも受け入れるんだろうな」

 吐き捨てられる言葉は荒々しさを増し、ついに偽りのない感情が牙を剥く。
 凶悪で、冷酷で、慈悲のない──けれど初めてぶつけられる彼の本音が、姿を現す。

「役目を果たせないのなら居場所が無くなる? 役割を失う前にとっとと死ぬ? ああそうだろうな、死にたくなるだろう。絶望して、惨めな自分の姿から逃げたくなるだろうよ」

 言葉の荒さとは裏腹にまざまざと自身の心の内を言い当てられ、今まで見てきた彼の激昂すら本当の姿でなかったことを私は知る。

 しかし、それだけの怒りを突きつけながらもその顔立ちは呼吸を忘れるほどに美しい。
 冷たくて、一人以外の誰も信じていなくて、悠久の時を経て研ぎ澄まされた氷の美だった。

「お前がそうなることは、全て知っている。何故だかわかるか?」

 彼は私の胸ぐらから手を離し、そのまま額を突き合わせる。
 そうして互いの瞳の中から燎原の炎は取り除かれて、唯一写るのは、

「──俺も同じだからだよ」

「────」

 ──“喪失”に怯え、誰かのための自身に固執する、さみしいひとりぼっちの姿だった。

「お前がそれを選ぶなら、俺はお前を手放してやらない。この生き方をする者に死ぬ意志を与えてやらない。そう簡単に、楽にさせてやらない」

 彼の目にあるのは同情ではない。鏡写しのその姿を目の当たりにした苛立ちだ。そして同じでありながら、躊躇なく死を選ぼうとした私への激しい怒りだ。

 愚かな私は今さら気づく。
 彼が持つ美しさは、強さは、気高さは。その覚悟を抱えて長い長い時を戦ってきたからこそ研がれていったものなのだと。

 故に彼は、宣告する。
 誰かのために生きることを選ぼうとする私へ、逃げることは許さないと。
 どれだけ胸が引き裂かれそうになっても戦い続けろと。

「──お前の生きる理由は、誰にも、お前にも渡さない」

 ──自分と同じである私を、手放してやらないと。

 この生き方は彼に強いられたものではない。
 初めて魔王様の名を口にした彼を綺麗だと思った時から、それ以前に初めて彼と出会い安息を抱いた時から。私は自ずと選んでいたのだ。
 それが死ぬことよりも苦しい道のりだと、理解もしないまま。

 深く淀んだ狂気的な感情に私は言葉を失くす。
 やがて彼に返す言葉を、答えを紡ごうと二、三度唇を震わせ目線を上げた。

 その時だった。

「……!」

 彼の背後で、ゆらりと一つの影が立ち上がっていた。
 時間にしてみればほんの刹那の瞬間だ。彼が私の視線の注がれる先に気づく間も無ければ、彼が振り返ってその正体を確認する間も無い。
 しかし私は凍てついた時間の中で、その影──生き残りの亜人が、残る全ての力を振り絞って魔族長へ一矢を報いようとしていることを理解する。
 完全に背を向けている彼に亜人が突きつける槍を防ぐ手立てはない。私が彼に叫んで敵の存在を気づかせることも不可能だ。

「──ッ!!」

 だから、私は──、


「……お前、」

 次に彼の声音が耳に届いた時、私は彼と背中合わせに立っていた。
 咄嗟に抜いた魔剣を両手で持ち、刀身に伝った生温い血液が魔剣の柄ごと指先を濡らす。
 私の肩には銀色の槍の先端が突き刺さり、地面に赤色が滴り落ちている。

 その痛み以上に──手にした鋼を通して、目の前の亜人の生きるための力が急速に失われていく感触が伝わってきた。

 脈動が失われる。体温が流れ出ていく。
 ──命を奪った、感覚。

 亜人は糸が切れたようにその場へ崩れ落ち、物言わぬ死体と成り果てた。

「…………、」

 同時に私の力も抜け、がくりと足が竦む。
 固い地面に倒れ伏すはずの私の体は、その前に柔らかく抱きとめられた。

「……ギラヒム様」

 彼は私の体を抱え、何かを言いたげな顔で見下ろしていた。
 しかしその唇が解かれる前に、私は彼に告げる。

「……勝手に死のうとしたこと、貴方の生き方を汚すような真似をしたこと。これから先、逃げずに戦い続けて償います。……貴方が同じだと言った生き方を、貴方が認めてくれるまで」

 ぴくりと、私を抱える指先が震えた。
 熱と痛苦に蝕まれた思考の中で、何かに驚くような彼の表情が一瞬だけ見えた気がした。

「それに……何より、」

 徐々に薄れ行く意識の中、最後に一つだけ伝えたいことに思い至って、私は無理矢理声を押し出す。
 朦朧とする視界の中で彼と視線が重なったことがわかり、穏やかな安息が胸の内に生まれて、

「……貴方が苦しむところは、出来るだけ見たくないですから」

 おどけるように、へらりと笑ってみせた。弱いところはもう、見せないために。
 彼は数秒目を見開き、何故か苦しげに眉を寄せる。

「…………生意気」

 それだけを返し、彼は私の頬に散った血液を細い指で拭った。そのまま私の下唇をなぞり、赤色を引く。
 奪われた命の生温さがそこにはあって、手には肉を貫く刃の感触が生々しく残っている。きっと、この瞬間は一生忘れることがないのだろう。そして、

「────」

 ──それらを全て共有するかのように、柔らかな唇が重なった。

 色濃く残る血の匂いと、炎に比べればすぐに消えてしまいそうな温かさ。そこには親愛も信頼も存在していないのかもしれない。それでも、


 はじめてのキスがこの人で良かったと、

 心の底からそう思えた。