03_妄想の彼方




3. 妄想の彼方


侑士先輩の声が消えた。ああ、やってしまったかな、と少しの後悔が走っていく。ちょっとあからさま過ぎだったろうか。

――最近、気になること、とかないです?
――え? 気になること?
――はい、気になることっていうか……侑士先輩の癒やしになるような、なんていうか、アレしたいとかコレやってみたいとか。ほしいもの、とか……。

頭のなかで反復しても、バカだなと自覚した。だって、もうすぐ誕生日なんて、本人がいちばんわかってるだろうし。それなのに、回りくどい聞きかたをして、でも結局は最後に「ほしいもの」とか言っちゃうあたり、わたしも下手くそだ。
だけどそれっきり、侑士先輩の声が聞こえてこない。どうしてだろう。先輩のことだから、「ひょっとして、俺の誕生日か?」とかすぐに察して言ってきそうなのに。先輩、優しいから、気づかない振りしてくれるのかな。それとも、もしかして考え中だったり……?

「侑士先輩……?」

あまりにも沈黙がつづいたので気になって振り返ると、侑士先輩が同じタイミングで、わたしに背中を向けた気がした。

「……ああ、堪忍。す、すま、スマホに通知きたから、気になってな」

別にそういうのをわたしは気にしないけど、この反応は、なんだろう。らしくないし、なんかおかしい。しかも液晶は真っ暗。通知を見てすぐにオフにした? だけど左手はボウルを支えているし、右手は泡立て器を力の限り握りしめているように見える。

「あ、いいですよっ。すいません、話しかけちゃって……」
「あ、いや……ごめんな、俺もぼうっとして」

なぜか先輩が謝っている。というよりも、取り繕っている? そしてさっきまで、わたしの背中を見ていたような……?
ああ、つまり、アレだ。バレたんだ。だけど気づかない振りをしてくれようとしてるんだ。

「いえいえ。わたしもせっかちだから。侑士先輩の準備ができたらで、大丈夫」

気づかない振りをしていることに、気づかない振りをしようと、わたしはサラサラと話を流した。
向いてないんだよね、最初から。侑士先輩ってすっごく鋭そうだもん。頭もいいし。そんな侑士先輩をわたしがコソコソ驚かそうなんて、よく考えたらできるはずもない。
あげく……この時期に「ほしいもの」なんて聞いたらバレるよ、そりゃ。もしバレてないなら、「なんで?」ってすぐに聞き返してきそうなもんだし。
別に派手にサプライズしようとか思ったわけじゃないし、誕生日サプライズってよく考えたら、たいていが「だと思ったわー」ってことが多い。そういうベタベタなことを侑士先輩が好むとも思えないしなー。ああ、どうしよう。もう素直に、「お誕生日プレゼント、なにがほしいですか?」って聞いて、それをあげるのがいい気がする。

――伊織を、あげちゃいなよ。

またしても、千夏の声が脳内再生された。うう、さっき話したばっかりだし、キャベツ切ってたせいで忘れてたけど、そんな話もあったんだった。
はあ……だけど、侑士先輩を目の前にして、そんなことできるはずがない。

「堪忍……。伊織はまだ16歳なんやし、焦ることないで。もう少しゆっくり付き合っていかへん?」

とかやんわり断られたら、もう死にたいし! それってつまり、わたしじゃ興奮しないから、わたしとはしたいって思わないってことじゃん!?
はっ……しっかりしなきゃ。ネガティブな妄想をしてモヤモヤしそうになっちゃったよ。
頭を切り替えるために首を回しつつ、わたしは千切りの速度をあげた。集中力が必要になると、すぐに頭のなかのモヤが消えてスッキリする。わたしが料理をするのには、そういう理由がある。
いつだったか千夏に、「料理はストレス発散だよ」と言ったら、「は? 気持ち悪。誰にモテたいわけ?」と真顔で言われてしまったけど。おかげであまり声を大にしては言わないようにしているが、実際、頭はクリアになるのだ。
気持ち悪、ってひどくない? まったく、あの女はなにもわかっちゃいないぜっ。
おかげで準備があっという間に終わったので、侑士先輩のお粉つくりを待ちながら、わたしはテーブルセッティングをしていた。
先輩は、いつも料理を手伝ってくれる。最初のころは「いいので待っててください」って言うと拗ねちゃって、うしろからずっと抱きついてきて、いつもの倍、時間がかかった。もうー、思いだすだけでかわいいっ。
そして今日の侑士先輩は、チラチラわたしを見ながらお粉を一生懸命にまぜていて、それもまた、かわいかった。侑士先輩のかわいい姿を見れるのは、わたしの特権だ。おそろいのエプロン姿ってとこもたまらない。ラブラブって感じで。えへへっ。

「な、なあ、伊織……」
「はい?」
「なんでいきなり……あんなん聞いてきたん? さっきの……」
「へ? さっき?」

かわいい侑士先輩が話をぶり返してきたのは、お好み焼きをホットプレートの上で焼いていたときだった。一方のわたしは質問をしていたことさえ、ちょっと忘れかけていた。
あれ、でも待って。侑士先輩は「ほしいもの」を聞いたわたしの真意に、気づかない振りをしていてくれたはず。
なのに、いまになって「なんで」と聞いてきたのは、侑士先輩のなかで考えに考え抜いて、気づかない振りを最後までとことんしてくれようとしているのだろうか。うーん、あり得る。
同時に、このタイミングで話をぶり返してきたことに、ありがたい気持ちもあった。だって、先輩も内心は気づいているわけだし、それならわたしは適当に返事をしていればいいからだ。

「ほら、なにが、ほしいとか……」
「あ! いえ……侑士先輩、最近、ほしいものとか、ないのかなあって」
「伊織……それってさ」
「さ、ひっくり返しますよっ」
「え、ああ、はい」

なんせ、ここからが勝負なのだ。
お好み焼きはつくりはじめだって難しい。先輩が一生懸命まぜまぜしてくれたお粉を、お玉でうすーくクレープのように広げるのがコツだ。うすーくだから、生地はあっという間に焼ける。生地が焼けたら今度は刻んだキャベツをだいたい150グラムぐらい乗せる。さすがにいちいち測っていられないので目分量だけど、少なすぎてもダメ、多すぎてもダメ。押さえつけないよう、ふんわり乗せるのもコツだ。だからキャベツは長めに切る。広島風お好み焼きは『蒸らし』が命。この長いキャベツが、蒸気を逃さない。そこからようやくキャベツの上に天かす、ネギ、もやしを乗せる。もやしは黒豆が原料のものじゃなきゃいけない。水分量がお好み焼きに最適だからだ。さらに昆布と魚を混ぜた削り粉をかけて、主役の豚肉を乗せる。そして、ようやく生地の端が浮いて、キャベツから湯気がではじめたいま、コテのひっくり返しである!
これが! 重要! これが失敗したら! 台無し!
このときばかりは、わたしの目はスッと悟ったように伏せていく。だけどものすごい興奮しているから、顔は赤くなってしまう。なんせホットプレートの上だから、熱くて当然ではあるのだけど。おかげで我が家では、わたしは「お好み焼き奉行」なのだ。
パンッと小気味いい音がした。美しい。今日もこんなに綺麗にひっくり返すことができるとは、わたし、天才じゃないだろうか。そしてすかさず、味付けをしながら焼いておいた麺の上にお好み焼きを乗せ、最後に卵を片手で割りいれ、麺と一体化したお好み焼きを上に乗せた。
完、璧……!

「ん、そろそろいいかな……先輩、もうすぐできますよ」
「う、うん。せやね、上手にひっくり返っとるもんな」

そうでしょうそうでしょう。頭のよさや運動神経では絶対に先輩に負けますけど、こればっかりは負けませんよっ。
広島風推しのわたしとしては、できれば小さなコテまで用意して食べたいくらいなのだけど、勝手に侑士先輩の部屋に調理器具を増やすわけにもいかない(しかも滅多に使わない)ので、それは我慢しているくらいだ。

「ソースはオタフクソースです。これ広島風の定番ですからね!」
「ふんふん、さよか……」

わ、わあ……よかった……流してくれてる!
いやね、関西出身の先輩が、広島風お好み焼きを「ホンマは嫌いやないねん」と言ったときには、正直ホッとしたんだけど、もしかしたらこのオタフクソースはどやされてしまうかも……と、内心ビクビクしていたのだ! だから先輩を探るように見ながら、オタフクソースをお好み焼きに塗りたくって、お皿にそーっと乗せる始末である。

「このソースが、広島風お好み焼きの決め手だと、わたしは思うんですよねえ」
「へえ」

な……全然ピンときてないじゃないですか、侑士先輩っ!
これだから関西出身は……いやわたしだって、広島には縁もゆかりもないですけど。
でもこのオタフクソースが広島風にはめちゃくちゃ重要なんですよ!?

「まろやかな甘味が、お好み焼きを引き立てるんです」
「ふうん」
「だから、これだけは譲れないものなんです」
「さよか」

うう、鉄壁の関西……心を閉ざしまくっている……。やっぱりオタフクソースが気に入らなかったのかな……。広島風までは許してくれたけど、「ソースはちゃうやろ!」とか思ってたらどうしよう。先輩、優しいから言わないで我慢してくれてるだけかもしれない。
だけど……絶対、美味しいもんっ!

「食べてみれば、納得するはずですっ。はい、先輩のできあがり……!」
「ああ、おおきに。うまそうやね」
「美味しいですよ!」美味しいに決まっています。「どうぞ召しあがってください!」
「いただきます……」

綺麗な手を合わせて、先輩はぱく、とお好み焼きを口にした。「ん、うまい」と自動的に出ていくような言葉がそっけない。
侑士先輩……! もっと感動してるでしょう本当は!? もう、いくら関西を愛してるからって、強情なんだから!

「いや、伊織あの、それで、なんで?」
「……え?」

なんでって、なに……あ、ひょっとして、オタフクソースのことを聞いてらっしゃる?
さっき、散々お伝えしたのに……それじゃ納得いかないとか?

「ああ……あーえっと、それは……ですね」

広島風の定番だとデカい口を叩いておきながら、「なんで?」とストレートに聞かれると困ってしまう。たしかにオタフクソースじゃなくても甘いソースはたくさんあるし、広島のお好み焼きの名店がオタフクソースを使っていないことも承知している。
ではなぜ、家庭でつくる広島風のお好み焼きにはオタフクソースが定番なのか……広島風のお好み焼きソースにはブルドックもあるしなあ。ううん、アレはアレで美味しいのだけど……。でも、わたしの好みはオタフクソースで、それを先輩に知ってほしかったのだ。なんとなく。

「わたしたち、まだ付き合って1ヶ月ちょっとですけど……侑士先輩に、もっとわたしのこと知ってほしいっていうか……」

だから、素直に言ってみた。おかしいかな、この返事。たしかにちょっと、自分の好みを押し付けてるみたいになっちゃってる気もしてきた。
ああ、大丈夫かなあ。侑士先輩、そういうの嫌がる人だったらどうしよう。

「そ……伊織こそ、知りたいことが、あるんやない?」
「えっ?」

が、侑士先輩は遠慮するように、目をそらしながら、そう言った。
知りたい、こと……? まあ、たしかに。でも侑士先輩の好みは、いろいろ知っているつもりだ。サゴシキズシと、かす汁と、えいひれが好きで、納豆が嫌い。そしてお好み焼きは関西風ですよね、たぶん。

「俺にばっか聞いてくるけどさ、伊織こそ、あるんちゃうの? 知りたいこと」

はっ……もしかして。関西人なのに、大きな声で「広島風のお好み焼き、オタフクソースめっちゃうまいやん!」って言えないから!?
だから、わたしが突っこんで聞けば、言ってくれるってことですか?

「あ……そ、だけど」
「だけど? なに? 言いにくい?」

でもだとしたら、それはなんか、わたしが言わせたみたいになって? なんか悔しいじゃないですか。ていうか、ずるい。うう、先輩ってときどき、いじわる。楽しんでるんだ、きっと。
でもこれ、わたしの渾身のお好み焼きですよ? お好み焼きをつくるときはいつだって超真剣ですけど、プラス、こんなに愛情かけたのだってはじめてなんですよっ、侑士先輩っ。

「いやその……わたしが言うのは、ちょっと違うかなって思うんですけど」
「なんで?」
「そ……だって、侑士先輩の口から、言ってほしいし」

だから言わせるんじゃなくて、侑士先輩から自発的に、「伊織がつくったお好み焼き、世界一うまい」とか言われたいじゃないですかー! いやん、もう! 照れるっ! 奥さんになったみたい!

「広島風には、オタフクソース合うなあ。伊織、さすがやなあ。とか……? へへっ」

きゃっ。つい口から出ちゃったついでに、恥ずかしくて平手で顔を覆った。
ああん、悔しい。結局わたしが白状しちゃったじゃないですかっ。

「は?」
「え?」

と、うっかりニヤニヤしていると、侑士先輩が口をポカンと開けてわたしを見ていた。ひょっとして、ボケてます? わたしそんなにツッコミうまくないんだけどなあー!

「ふふ。侑士先輩、実際、関西風より広島風のほうが、大好きになっちゃったんじゃないんですか? いんですよ? 正直に言っても」
「え……あ、ああ、うん。う、うまいよこれ」ほらね!
「でしょ? そうですよね? やっぱりオタフクソースが決め手なんですよっ」

ぐいっと身を乗りだしてそう言うと、なんだか先輩の顔が、引きつっていた。もう、またそうやっていじわるして笑わそうとしてっ。侑士先輩って、いつもわたしを楽しませようとしてくれるから、大好き。

「美味しいですよね?」
「あ……ん、め、めっちゃうまいっ! 伊織がつくったんが、世界一うまいやろな」
「はっ……わああ……」
「え、伊織? どないした?」
「う、嬉しいから……へへ」
「あ、さよか。ん、よかった……」

優しい笑みをふんわりと向けて、侑士先輩はそこからお好み焼きを「うまい」と何度も言いながら、3枚も食べた。すっかり満足したわたしは、鼻歌まじりにあとかたづけをした。侑士先輩は粉ものにうるさい。前に、たこ焼きについて語りだしたときは軽く30分を超えていた。そんな侑士先輩が、わたしのつくったお好み焼き、しかも広島風が「世界一うまい」なんて……!
思わず千夏にメッセージを送ってしまったくらいだ。めちゃくちゃ既読スルーされてるけど……。

「……伊織、ご機嫌やね」
「だって、侑士先輩たくさん食べてくれたし。嬉しいんですもん」
「さよか。ん、うまかったでな」

食器洗いをしていると、侑士先輩はわたしの周りを右往左往しはじめていた。微笑んではいるものの、なんだかぎこちない……というか、不安げな顔をしてらっしゃる。昨日は先輩が食器を洗ったから、今日はわたしが当番のはずだし、いつも食事が終わったあとはテレビを見ながらのんびりしているのに、どうしたんだろう?

「侑士先輩?」
「う、ん……?」
「どうかしたんですか? なにか取りたいものとかあります?」
「いや……そんなこと、ないんやけど……あの、伊織、さあ」
「はい?」
「……いや、なんでもない」

言葉を詰まらせて、どこかつらそうな顔をしてうつむくと、先輩はソファに戻った。
ええ……? なんだろう。さっきまで元気そうにしてたのに、ご飯が終わったら急に……あれ、ひょ、ひょっとして具合悪いとか?
……あ、そうかもしれない。だって、わりと大きめのお好み焼き、3枚も食べてたもん。育ち盛り、なんて言ってたけど、お腹パンパンになって苦しいとか? あああ、そっか……わたしが「美味しい」を押しつけたから、渾身のお好み焼きだから、侑士先輩、無理してくれたんだ、わたしのために!
うわあ……どうしよう。ってことは、侑士先輩は優しい人だから、わたしに気づかれないようにしているに違いない。でもわたしがいつものように20時くらいまでいると気を遣うだろうし……でも横になりたいから、早く帰ってほしいのかも。
そうだよ、たぶんそうだ。それを言おうか言わまいか悩んで、それで右往左往してたんだ、あんな不安そうな顔して。なのにご機嫌まるだしのわたしに、そりゃ言いにくいよねっ!
侑士先輩と、まだまだ一緒にいたいけど……帰ろう。明日だって先輩とデートなんだから(中間考査期間だってのにいいご身分だけど)、わがまま言ってる場合じゃないや。とっとと帰って、先輩には休養してもらわなきゃ。
だけどー、具合悪いって気づいてるって言ったら、また先輩、気を遣うだろうしなあ。知らない振りして、適当な理由をつけるのがいいかも。

「侑士先輩、実は今日、ちょっと家の用事でもう帰らなくちゃいけないから……」
「えっ……そ、せ、せやったんか……」

オーバーリアクションで寂しそうな振りをしてくれている。ああん、もう、侑士先輩……本当に優しいんだから。「具合悪いから帰ってもらえる?」って、言ってくれていいのに! でも、そんな侑士先輩が好き……わたしのためなんだって思うと、きゅんきゅんする。渾身のお好み焼きのせいだって言いたくないから、我慢してくれてるんですよね? はあ、ジェントル……!

「はい。だから今日はもう帰ります」
「ああ、ほな送……」
「いやいやいやいや送りは結構です! そんな遅くないし、普通に帰れます!」

食い気味でお断りすると、侑士先輩は目をまるくした。しかも、もっと寂しそうな顔をしてくれている。侑士先輩……その優しさ、わたしはちゃんとわかってます。ああ、愛しい。

「……そ、そんな強めに否定せんでも……ええやんか」

先輩は、いつもわたしを送ってくれようとする。でも今日だけはダメ。お腹パンパンでうちまでの距離を往復とか、絶対ダメ! 余計に具合が悪くなるに決まってるんだから!

「大丈夫、近いし!」
「そっかあ……。伊織やっぱり……かい、嫌なんやな?」
「え? なにがですか?」
「ん……いや、なんでもない。明日のこともあるし、ほな、またあとで電話するわ」

途中、よく聞こえなかった。なにが、嫌だって言ったんだろう?
先輩はパッと表情を変えて、話を切り上げるようにそう言った。ちょっと、気になるけど……でも、先輩の顔、少しあかるくなってる。送らなくてよくなったし、このあとすぐ寝れるもんね。肩の荷が降りたんだろう。

「はい、電話、待ってます」
「ん。今日もおおきに、伊織……」

いつものように、侑士先輩がわたしの手を引いて、唇を重ねてきた。さよならのときは、必ずこうしてキスしてくれて……わたしはドキドキしっぱなしだ。チュ、チュ、と音が漏れていくのは絶対で、しかも先輩、いつも唇をはむはむするから……も、それがすごくエッチ。

「ン、侑士先輩……」
「ん……長い? 今日は一緒におれる時間が短かったでな」
「うん……そうだね」
「せやから、もうちょい補わせて?」

はむはむキッスは、そこから1分以上はつづいた。すっかり火照った体が崩れそうになったころに、ようやく解放された。はあ、死んじゃう……。

「ほな気をつけてな、またあとで」
「はい、また」

色っぽい唇の余韻にうっとりしながら、わたしは自宅へ帰った。





電話がかかってきたのは、22時を過ぎたころだった。
ベッドの上に放り投げられていたスマホが侑士先輩専用の着信音を奏でて、胸が躍るのと同時に、素早く液晶をスライドして通話にした。

「はい、もしもし!」
「おお、こんばんは。元気な声やなあ。今日はホンマ、ご機嫌やったね?」
「えへへ……侑士先輩は? 大丈夫ですか?」
「ん? なにが? なんのこと?」

はっとした。そうだったよ……具合悪いことは気づいてない振りをしなきゃいけなかったんだ! もうー、テンションあがって、肝心なことすぐ忘れるの、わたしのよくないとこだ!

「うんと……ちょっと、寂しそうだったから」
「ん、寂しかったで……いろいろな」
「いろいろ?」
「いや、ははっ……ん、伊織ともう少し、一緒におりたかったからな」
「侑士先輩……」嘘でもそんなふうに言ってくれるなんて、なんて素敵な彼氏なんでしょう。
「せやから伊織の声が聴けて、嬉しいよ」

ああ、たまんない……侑士先輩の声。先輩の目の前だとかなり我慢してるけど、ひとりだと、いつもベッドから転げ落ちそうになっちゃう。いつか慣れるのだろうか、これ。
でも、具合が少しよくなったみたいで、よかった。声のトーンも落ち着いてて穏やかになってるし。ご飯の直後はなんだか、顔色も悪かったもんなあ。

「あれ? 伊織は……?」
「え?」
「伊織は言うてくれへんの? 俺の声、別に聴かんで寝ても平気やった?」
「え、あっ……いや、そんなことないっ。先輩からの電話、待ってたもん」
「ほな、ちゃんと言うて。俺のこと安心させて?」

ときどき拗ねて子どもみたいになるくせに、やっぱりすごく大人。
悪い人だよ本当に。もうー……、好き! 子どもっぽくても大人っぽくても最高に好き!

「わたしも……侑士先輩の声が聴けて、嬉しい」
「ん。好き?」
「す、好きです」
「ん。愛しとる?」
「うん、愛してる……」
「ん。俺も。伊織のことめっちゃ好き。愛しとるよ」
「も……侑士先輩、すぐそうやって……ずるい」
「なんでえ? 愛は確かめ合うもんやで?」

し、死にそう……。電話だとあの声が耳もとで大音量で聴こえてくるし、おまけに侑士先輩、こういうとき、いつもよりかなりセクシーな声だし。

「そ、そうですよね」
「ん。前はからっきしやったけど、最近は聞き分けようなって、ええこやね伊織」
「あー、ひどーい」

笑みがこぼれた。侑士先輩も電話越しでくすくす微笑んでいるのがわかる。ああ、さっきまで一緒にいたのになあ。会いたいよう、侑士先輩……。

「それで、明日やけどさ」
「うん」
「予定どおり、映画と買い物でええ? 映画はまた、ラブロマンスやけど」
「はい! 全然かまいません!」
「伊織が好きなのでもええねんで? そういや伊織って、普段はどんな映画を観んの?」
「え、えーっと……」

普段は、ラブロマンスとはかけ離れたものばかり観ているのだけど……。ドロッドロの人間模様とか、ちょっとエグいホラーとか、心の闇をふんだんに詰めこんだヒューマンサスペンスとか……。そういえば、これを暴露したことはなかった。だってラブロマンスが好きな先輩にこのラインナップは……ひかれたくない。

「いま思い浮かんだ映画、言うてみて?」
「えっ」
「なんか俺に遠慮しとるやろ? そういうのはあかん。伊織、俺のこともっと知りたいって言うてくれたけどさ。俺かて、伊織のこと、もっともっと知りたいんやから」

ドキッとした。知りたい、なんて……こんなわたしに、侑士先輩が興味を持ってくれるなんて。そりゃ、興味を持ってるから付き合ってるんだろうけど。なんだか照れくさい。
でも……せっかく促してくれてるんだから、ちょっと思いきるか!

「ゆ、『ユージュアル・サスペクツ』!」
「ふんふん、まだ遠慮しとるな? 無難なとこ言うたやろ?」
「ええっ!?」ば、バレてる……。
「はい、もう1個くらい思い浮かんだやつ、言うてみて?」
「うー……」これはどぎついのを言わないと、延々つづく予感……どうしよう、どうしようかな。ラブロマンスとは程遠い……。「きょ、『凶悪』、かな」邦画の名作である。
「ああ……アレめっちゃしんどかったな」
「えっ、侑士先輩も、ああいうの観るんですか!?」
「たまにな。気分めっちゃむしゃくしゃしたときとか、余計に自分を落としたなって観るねん」

それはどういう趣向なのだろう……ちょっと変わってるんだよねー、侑士先輩って。
でも、意外と観るんだ……なんかまたひとつ、侑士先輩のことを知れた気がする。こんな先輩、誰も知らないんじゃない? わあ、ちょっと嬉しい。彼女の特権? なんて……もう少し攻めてみようかな?

「あの、じゃあ先輩、『ミスト』は?」
「あれも最悪やった……あの監督、どうかしとるで。せやけど『ウォーキング・デッド』は面白いしな、さすがやよな。ついつい最後まで観てまう」観てる……!
「じゃ、じゃあ先輩、『冷たい熱帯魚』は?」
「あんなんあかんで……どう考えても頭おかしいやろ園子温。いやそもそも、実際に起こった事件っちゅうか、犯罪者が頭おかしいんやけどさっ」
「じゃあ、じゃあ先輩、『ミッドサマー』は!?」
「伊織」
「え、はいっ」
「ちょっと面白がっとるやろ? ええけどね。そんで、なにそれ……?」

……やば。たしかにちょっと面白くなってしまったうえに、完全にわたしのお気に入りムービーリストから言ってしまっていた。でも『ミスト』も『冷たい熱帯魚』も観てるとか、侑士先輩、なかなかマニアックじゃないですか。ラブロマンスとかけ離れてるものばっかりなのに。

「それ、どんなやつ?」
「いや、ちょっと説明は難しいっていうか……」ホラー、なんだけど、ホラーとも言い難いし、なあ……。「しゅ、祝祭の話です」間違っては、ない。
「へえ? 楽しそうやん。ほな今度、一緒にそれ観ようや。配信あるやろし」
「え」いや、楽しい祝祭とはちょっと違……。
「あとさ、買い物なんやけど、今度、跡部が誕生日やんかあ?」

『ミッドサマー』は一緒に観ることになってしまったのだろうか……あんなもの一緒に観て大丈夫だろうか。というか、「伊織こんなん好きなんか、お前も頭おかしいんか!」とか言われてしまいそうで怖い……けど、話を戻すわけにもいかないので、わたしは素直に反応した。

「そうですね。あ、もしかして跡部先輩の誕生日プレゼント?」
「そうそう。今年も氷帝テニス部だけのパーティーやるみたいやから、俺と伊織からっちゅうことでな、一緒に選んで買おうや」
「あ、はい! そうしたいです!」

誕生日ってワードを出しちゃったし、やっぱり気づかれてるよね、今日のこと。でも、いいや。
だって、侑士先輩とわたしからの、とかー! なんか、夫婦みたい? うわあ、嬉しい。くすぐったいけど、侑士先輩とわたしはいつだってペアだからってことだもんね!?
くううう、憎い、憎いようっ。

「ほな、明日は……どっかでランチしてから映画な。12時に、駅前集合でええ?」
「はい。わかりました」

テンションが高くなっていたので、すんなり返事をしたものの、少しだけ違和感が残った。
侑士先輩とわたしのデートは何度かあるけれど、先輩は必ずわたしの家にまで迎えに来て、そこからデートがはじまっていたからだ。

――待ち合わせって不安やもん。俺を待っとるあいだ、変な男にでもナンパされとったらかなわんわ。
――も、そんなことありえないですよ。
――ええから、家でおとなしく待っとき。

って、2回目のデートのときは勝手にぷりぷりしてたのに、なんで今回は駅前なんだろ。
うーん、そろそろ慣れてきたってことかな。わたしがナンパなんてされるわけないのも理解してきたのかもしれない。なんだか、ちょっぴり寂しい気もする……けど、侑士先輩が楽なほうがいいもんね。

「ほな、また明日な。おやすみ伊織……愛しとるよ」
「おやすみなさい」
「……」
「あ、愛してる、侑士……」
「よう言えました。ほなな」

だって、あきらかに言うの待ってたじゃん……。ああ、もう、好きすぎる……頭おかしくなりそう。
電話を切ってからも、しばらくベッドの上でジタバタしていた。





10分前に到着すると、侑士先輩はすでに駅前で待っていた。
ていうか先輩って、遠目から見てもすごく目立つ。むっちゃくちゃカッコいい。さり気なくオシャレだし……あのパッチワークがちょっとついたブルーの羽織物、なに? 素敵だようー! もう、いつも思うけど、私服も最&高!
目をらんらんとさせて走って行くわたしに、先輩はすぐに気づいて、こちらに向かってきてくれた。
昨日はちょっと寂しい気分だったけど、なんだかんだ、待ち合わせもいい! すごくいい!

「おはよう、伊織」
「おはようございます侑士先輩! あの、待たせちゃいました?」
「ああ、いやいや、俺もいま来たとこやで。気にせんでええよ」
「あ、よかった……」

にっこり微笑みながら、手を差しだされた。くいっと眉毛を上にあげて、わたしに合図するその表情も、色気たっぷりでクラクラしそうだ。

「伊織、ええなその服。よう似合ってる」
「本当ですか? このあいだ、買ったばかりで」
「そうなん? うん、オシャレやし、めっちゃかわいい」

いつもちゃんとわたしの服を褒めてくれるのも、侑士先輩の優しいところ。そしてわたしに歩調を合わせて、ゆっくりと歩いてくれる。すれ違う女の人たちが、チラチラ侑士先輩を見ていった。いつものことだけど、ニヤニヤしてしまいそうになる自分がいる。
そうなんです、そうなんですよみなさん! この方、わたしの彼氏でして! って、本当なら大声で言いたいけれど、我慢だ。
軽くランチを終えて、ふたりで映画館に向かった。お目当ての映画は今日から公開で、さらに休日ということもあり、多くの人々のなかを押し分けるように入っていく。
人ごみのなか、侑士先輩は壁になるようにしてぎゅっとわたしを守ってくれるから、最近なんて人ごみが好きになっちゃう始末である。

「いまの……面白そうやったな……?」

ようやく席につくと、すぐに宣伝用の予告上映がはじまっていた。右どなりに座る先輩がそっと耳もとでささいてきて、胸がずくずくと高鳴っていく。

「わたしも思った。よさそうでしたよね」
「ホンマ? せやったら今度また、ふたりで観にこよな?」
「うんっ」

小声で、ひそひそと話しながら微笑み合うのが、くすぐったい。

「そろそろはじまるで、伊織」
「ですね」
「提案なんやけど」
「え?」

街なかを歩いているときのように、先輩がそっとわたしの手を握りしめてきた。
ドキッとする。映画館のなかは暗いから、なんだかそういうムードもすごくって。いや、そういうムードってなに。とにかく、そういうムードだ。

「……こうしとかん? 嫌?」
「嫌じゃ、ない」

つぶやくと、侑士先輩の指が合間をぬって絡まってきた。同時に、腕を肘かけから飛び越すようにして、わたしの膝の上に手を乗せてくれた。わたしが、しんどくならないように。
映画デートは今日で3回目。だけど、侑士先輩がこんなことしてきたのは、はじめてだ。
あんなにいつも、キスしてるのに……いつも密着してるほうだと思うけど、こうして映画館のなかで肩と肩がぴったりくっついてると、なんていうか、「そういうムード」だからこそ、心拍数が早くなっていく。
もう少し、積極的になってしまおうか、と思う。侑士先輩とは、キス以上のことがないから。もっと、大胆になってもいいかな、なんて。
要するに、触発されたのだ。わたしは侑士先輩の肩に、トン、と頭をあずけた。

「お……」
「あっ……お、重いかな……っ」

小さく、息だけで反応した先輩の声が届いて、とっさに頭をあげた。あああああ、やっぱり慣れないことはするもんじゃなかったか? やりすぎ、とか言われたら恥ずかしい。
先輩の顔色をうかがうように視線を向けると、侑士先輩はわたしを見つめながら首を振っていた。その唇が耳にゆっくり近づいてくる。

「ちゃうよ。そんなことない。めっちゃ嬉しい。いまの、しとって……?」

最後に、耳にチュッとキスをして。
きゅうううと音がするくらいに顔から湯気が出てきそうだ。わたしは恥ずかしさを隠すように、侑士先輩の腕に巻きついた。先輩のもう片方の手が、わたしの頭をなでなでして、最後には先輩の頭も、わたしに寄りかかってきた。はああ、甘いよう、甘すぎる。
周りにいる人、大丈夫かな。蹴り倒したくてしょうがないよね……? 近くにこんなのいたら、わたしもきっと蹴り倒してしまいたくなる。でもいい、自分だし。
だってですよ、映画なんて2時間くらいあるのに……そのあいだずっと手をつないでおこうってことでしょ? わずらわしいに決まってる。だけど侑士先輩がそうしたいって思ってくれたことが嬉しい。また少し、先輩との距離が近づいた気がしたんだもの。

バカップルをむきだしにしているうちに、映画ははじまった。ロンドンの街並みが美しく描かれているイギリス映画のストーリーは、とてもロマンチックなものだった。侑士先輩と付き合うようになってからラブロマンス映画を観まくっているけど、これはこれで、なかなか面白い。なぜいままで観ていなかったのか、というくらいよくできた作品も多くて、なにより、心が穏やかになる。
わたしのお気に入りムービーリストは、ほとんど心が病みそうになるものばかりだから、そういえば映画というのは幸せな気分をもたらしてくれるものも多いんだよね、と、個人的には新たな発見をしていた。
そして、事件は映画の後半あたりで起きた。
かなり年上の男性を、主演の美しい女性がデートに誘っていた。ああ、女性からデートに誘うなんてカッコいい、とか、すっかり侑士先輩にもたれかかりながらのん気に観ていたわたしに、そのシーンは突然、舞い降りてきたのだ。

『よかったら今夜、食事でもいかがかしら?』
『僕が、君と……? ハハッ……保護者の代わりかな?』
『いいのよ、それでも……わたしはアンティークが好きだから』

オシャレなセリフだなあ、まったく。と思ったのは一瞬のことだった。
急に濃厚なキスシーンがはじまり、主演の男女はあれよあれよと服を脱ぎはじめ、なんと、エッチしはじめたではないですか!
ちょ、ちょ、ちょっと待ちなさいよ! なな、あああ、なな、あ、な、あ、なんであの会話でそうなる!?
外国人ってホント、意味がわかんない!
展開が早すぎじゃないですか! いやいや、いまデートに誘ったばっかりでしょ!? 付き合ってもないし、ちょーっと告白めいたこと言って、も、もう、もうするの!?
わああああ、おおおお、おっぱい! おっぱいが、でてますよ女優さん……!
男性が女性の胸を揉みしだいてから、唇を当てて吸いあげている。こここ、これは18禁でしょう!? わたしも侑士先輩も観ちゃダメなやつ! いや、そんな表記なかった。学割も使えたし。あ、でもR12とかはついてたかもしれない! そんなのどうでもいいけど!
女性の甘い声が映画館の特別なサラウンドでぐわんぐわんと響きわたり、まったくもってけしからん、非常に官能的なシーンだ。しかも、長い。
次第にふたりの洗い息遣いや声は消えていき、ドラマティックな音楽とともに愛し合う様子だけが流れるようになったけど、それでも十分に興奮する。……すると言っていいでしょう!
しかも、だ。
昨日の千夏との会話のせいなのか、あるいはわたしの頭がどうかしてるだけかもしれないけど、ふたりの俳優が、侑士先輩と自分に見えてきた。
激しいキスでもみくちゃに愛し合うふたり……ベッドの上で女の身体を、男が強く抱きしめ、上下に揺れている。
……侑士先輩と、わたしも、愛し合ったら、あんな感じに……?
ど、どうしよう、どうしよう、どうしよう。心臓がうるさい……どうしよう、すごく、すごく愛されてる感じがする。おまけに、すごく、どっちも気持ちよさそう……。
ああ、わたしも侑士先輩と抱き合って、……愛し合いたい……!
爆発した妄想は、全身に沁みわたっていた。だからだろう。体には、否が応でも力が入っていった。おかげでわたしは、侑士先輩の片腕に胸を押しつけるように絡みついて、その手を、ぎちぎちっと思いっきり握ってしまったのだ。

「……伊織」
「あっ」

侑士先輩が。
あの、いつもクールな侑士先輩が、ビクンッと身体を震わせたことで、わたしはようやく、そのことに気づいていた。
ちょっと……なにやってんのわたし! これじゃ、ただの痴女じゃん!

「あっ……ご、ごめんなさ……」
「い、いや……ええんよ……」

映画館だから、もちろん静かに謝ったけど……侑士先輩がすごく気まずそうな顔をしていたのを、わたしは見逃さなかった。
やばい、まずい、死にたい! 頭のなかのけしからん妄想が、侑士先輩に伝わっちゃったかもしれない!
官能シーンがしつこくつづくなか、わたしはそっと侑士先輩の顔を盗み見たのだけど……侑士先輩は、ごくごく冷静に、映画に魅入っていた。





to be continued...

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