05_そのわけを




5. そのわけを


お腹の奥がうずいていることには、気づいていた。お腹の奥、なんてごまかしたって、自分なんだからわかる。つまり、膣内だ。
美しいラブストーリーであることはたしかだった。だからこそ、あんなに長い官能シーンが必要だったのかと疑問になるほど、それは長かった。AV動画のように思いきり裸が映ってモザイクがあって、もう下品なほどに腰を振って、という映像ではない。でも、逆にそれが刺激的だった。うっとりするような愛に包まれている雰囲気が、わたしの欲望をかりたてた。今度から自分で慰めるときはこういうシーンを妄想しようかなと思うくらいで……おっと、わたしは心のなかだからって、なにを言ってるんだ? いやいや、健全な女子高生ですから、それくらいしますよわたしだって! いやだから、なにを言っているんだ!
……ともかく、上映が終わってからすぐにトイレに向かった。本当なら本編を終えてすぐに出てしまいたいと思っていたのだけど、映画のラストがまた結構よくて……侑士先輩もじっとしていたし、感動に浸るためにも、エンドロールまでしっかりと居座った。

「ほな、たぶん俺のほうが早いから、終わったらここで待っとくな?」
「はい、いってきます」

トイレに行くのに、まるで家を出るような挨拶をしながら女子トイレに入った。幸いなことにそれほど混んではいなかったので、数分しないうちに個室に入り、座ってひと息つく。
とても、いい映画だった。でも観終わって思いだすのは、あのシーンばっかりだ。
ああ、侑士先輩……あのときのわたしのこと、どう思っただろう。思わず先輩の手も腕も握りしめちゃって……それだけならまだしも、胸を押しつけるようなハレンチな真似。
誘っているつもりはなかったけど、「こいつ、めっちゃ発情しとるやん」とか思われてたら恥ずかしすぎる。
いや、実際? 発情してたわけですけど? だって、その直前まで主演のふたりを侑士先輩と自分に置き換えちゃってたんだもん。あんな綺麗な女優さんをつかまえて大変おこがましいけど、そりゃ発情もしますよっ。
と、なんとか精神の折り合いをつけつつ用を足し、いつものようにティッシュペーパーで拭き取ろうとした、そのときだった。

「えっ」

ほとんど息だけとはいえ、声がもれでる。こないだ生理きたばっかなのに、と思って確認すると、全然、血はついていない。だというのに、ティッシュペーパーが勢いよくすべったからだ。
つまり完全に、わたしは潤ってしまっていたというわけで……。





「ああ、濡れちゃったんだ」
「ちょ……そんなあっさり言いますかね?」

月曜日。
恥ずかしすぎる話を悩みに悩んで打ちあけたというのに……、千夏パイセンはパイセンの貫禄を、ド・ドドンパ(©富士急)と見せながら、あまりにもあっさりと返してきた。

「え、違うの?」
「違わないけどさ……この話を告白するだけでも勇気だしたわけだから、わたしは」
「知ったこっちゃないんだけどさ。でもまあ別に、普通じゃない? あたしもエロ動画は見てるだけで濡れるよ」
「ちょ、エロ動画って……千夏、跡部先輩とそういうことしてるくせに、そんな動画まで見てんの?」

今日は10月4日だ。現在、氷帝学園では跡部先輩と跡部ファンクラブと跡部先輩に想いを寄せている本校他校の女子たちで、戦争中である。
この戦争が終わると跡部先輩の家でお誕生日会が開かれるのだが、そこにはテニス部の全員が招待されていた。いまさらなのだけど、規模……。
ともあれ、名づけて「跡部戦争」が終わるのを待つ千夏と部室にこもり、誰にも聞かれたくない話をくり広げている放課後であった。

「たまにね。だってオカズになるもん」
「ちょっと、言いかた……」
「なーに、かわいこぶっちゃって。あんただって見てるでしょ?」
「見……るときはそれは、あるけど」わたしは経験がないから、どんなことしちゃうのかなーって……調査ですよ、調査。
「それにさ、エロいこと普段するから見るんだよ。勉強になんだから、ああいうのは」

すっかり大人になっている千夏パイセンである。ところで彼女はすでに、昨日の夜から前夜祭と称し跡部先輩を0時ピッタリに祝ったらしい。日曜の夜は「伊織の家に泊まりに行ってそのまま学校に行く」という名目だったようだ。それを今日になって知るのだから、いい加減にしろと言いたくなる。
が、千夏のお母さんから絶大な信頼を(なぜか)得ている佐久間家では日常茶飯事で、うちの教育方針があんなだからこそ、もし電話がかかってきても両親はうまく対応するだろうと思われた。
ということは、昨日の夜にこの女、跡部先輩としてたってことよね。なんてこと……! 同い年なのにっ。うらやましいっ。

「それの、なにが悩みなわけ?」
「いや、ちょっと、淫乱すぎるんじゃないかなって、自分が」千夏も十分、淫乱だけど……それは言わずにおいた。「発情期すぎるっていうか」
「普通だよ。みんなエロ動画あさってオナニーしてるし、問題ない」
「いや、そういうことじゃなくて」
「伊織のオカズはなんなの?」
「そりゃ忍足侑士一択……ってちょっと! なに言わせんの!」
「いやん、美しいじゃない。大好きなんだね。早く捧げればいいんだよ。もう誕生日まで待てないってなら、伊織がぐいぐい押しちゃえば?」
「処女がぐいぐい押せるわけないでしょうが!」

「子どもがまだ食ってる途中でしょうが!」ばりにわたしは声を張りあげた(時代がついていけない人は、ググってみてくださいね)。しかし跡部先輩の誕生日に、わたしたちはなんちゅう会話をしているのだろう……侑士先輩とのエッチがまだだということを知られてから、千夏とのやりとりは、そんな話ばかりだ。お互いさらけだして大胆になりすぎじゃないだろうか、と、いささか不安になるほどである。

「なにビビってんのー。忍足先輩ならがっついてくるに決まってるってば!」
「だからあ、そんなのわかんないし、もしそうだったとしても……」
「だとしても……?」
「求められたいじゃん、どうせならさ」

はあーん、と千夏パイセンから、にんまり顔&お声をちょうだいした。
いや、そりゃそうでしょうよ。初体験、自分から誘う女って絶対どうかしてるでしょ。何度か男の立場になってシュミレーションしてみたけど、もしもわたしが彼氏だったら、「君、はじめてじゃないよね?」って聞いちゃうよ。積極性がおかしいもん。もしくは闇を抱えてるとしか思えない。

「じゃあさじゃあさ、あのメッセージ送ったときはどうだったの? ほら、こないだ」

――コンドーム1年分。

「え……? メッセージって……あっ、ちょ、千夏も一緒にいたわけ!?」

あのときはさすがに声にはしなかったが、「あの俺様ツルスケ野郎!」と心のなかでは叫んでいたくらいだ。わたしのめちゃくちゃセンシティブな問題に、ガンガン土足で踏みこんでくるじゃないか! と憤慨せずにいられなかった。
いや、そりゃ跡部先輩はなにも知らないでしょうけど、となりに千夏がいたというのなら話は別だ。そうだよ、あの日は土曜日、中間考査で部活がないこの時期に、一緒にいないはずがない!

「いい刺激になったでしょ?」
「バカじゃないのあんたっ! ホント、なに考えてんの!? ていうかむしろ、跡部先輩ってよりあんたの提案でしょ!?」
「違うよーっ。あたしと景吾、ふたりで考えたよ?」よ? のあとにハートマークがついている気がする。ぶん殴ってやろうか。
「も、侑士先輩とすごい気まずくなって、どうしようかと思ったんだから!」
「えー……そこで盛りあがらないとか……ダメだねえ、おたくら」
「なにがダメなわけ!? どうやって盛りあがるのあれでっ」
「ん、だからほら。『跡部これが好きやねんて。伊織どう思う?』『えー、したことないからわかんない』『ほな、どんな感じが、俺としてみん?』『ゆ、侑士先輩……』『ほら伊織、服、脱いで』って」
「な、な……」

結構いい展開じゃないか。そしたら侑士先輩が、「ベッド行こか?」「伊織、もっと声だして?」「ああ、伊織、俺のことも気持ちようしてくれへん?」とかどんどんエッチになっていくんでしょ? そんで侑士先輩に好きにされちゃって、もう夢なのか現実なのかわかんないくらいに乱れちゃって、わかるわかる! ……って、おい! 乗せられている場合じゃないだろう自分!
この女は絶対にエロ動画の見すぎだ。逮捕しなくてはならん。ちょっと前までは、活発とは言え、もう少し恥じらいがあったように思う。こんな女じゃなかったと思うのはわたしだけなのか。誰だ、こんな女にしたのは! 跡部先輩か! あの俺様ツルスケ野郎か!

「で? ちゃんと買ってくれた?」
「買うわけ、ないでしょっ」
「なんだあ、つまんな……あ、忍足先輩」
「えええええええっ!?」

とんでもない話をしていたというのに、そして部活は休みだというのに、どういうわけか、侑士先輩がドアを開けて入ってきていた。千夏の声に勢いよく振り返ったわたしの目は自然とひん剥かれているだろう。
ききききききききききききき、聞かれてなかったよねいまの!? 聞かれてたら泣く!

「ええ? 大きな声させて、どないしたん?」
「あ、侑士先輩……」聞かれてなかったみたいだ。安心した。「どうして、ここに?」
「うわあ、声が変わってる」
「ちょっと、うるさい」余計なことを言うんじゃないですよっ!
「ははっ……それは伊織が、俺の前ではかわいくおりたいってことやろ?」
「え、あ……は、はは」いつもこんな感じですよ? とは、いまは言えない。嘘だし。千夏いるし。
「猫かぶりまくりがいいんだ、忍足先輩は」
「どっちも伊織やから、俺はどっちも好きってことや。にしても、相変わらず仲よしやね、二人は」

きゅううん。侑士先輩、好き……!
颯爽と現れた先輩は、穏やかな笑みでわたしたちに近づいてきた。

「人のノロケって本当に見ててつまんないよね」
「それ、自分が言うか……」ぼそっと先輩がツッコむ。ごもっともすぎる。
「で、忍足先輩、伊織を迎えに来たんですか? 景吾はどんな様子です?」
「ああ、そうそう。跡部も落ち着いてきたからな。そろそろ帰って準備やなと思ってさ。教室に行っても伊織おらんかったから、部室やろと思って来たんやわ」
「あ、ホントだ。景吾からメッセージ入ってた。気づかなかった」

どうやら跡部戦争は終わったらしい。毎年ご苦労さまなことである。
というか待って……なんかいま、教室って言ってなかった?

「侑士先輩? また教室に行ったの?」
「あー、あかんあかん。口がすべった。けど、今日は説教は聞かへんで?」
「ダメだってあれほど言ってるのになんで……っ」

それじゃなくてもいまだに不幸の手紙とか机に入ってるのに! と、言おうとしたわたしだったけれど、チュ、と音がして固まった。侑士先輩が、突然キスをしてきたのだ。
ちょっと待って……そりゃ、ここには3人しかいないけど……ふたりきりじゃないのにっ。

「やだあ! 見せつけ?」しかし千夏パイセンは冷静だ。
「ん。見せつけ。うるさい口には蓋しとかな」
「見せつけだったのかよ……チッ」しかも舌打ちしやがった。
「侑士先輩……千夏、いるのに……」
「ええやん。俺らもいつも見せつけられとるばっかりやと張り合いないで」

なぜ張り合う必要があるというのだ。というか、親友の前でキスなんて、結婚式じゃあるまいしさあ! ああ、恥ずかしい。さっきまであんな話しておいてアレだけど、恥ずかしい。
が、千夏パイセンはなにくわぬ顔をしてさっさとバッグを持ちはじめている。君は大人だな……。

「じゃあ伊織、あたし先に行ってるから、またあとでね!」
「う、うん。あとでね!」

さっさと帰っていく千夏の背中を見送っていると、侑士先輩はうしろからわたしの腰に手を回してきた。ドキドキと高鳴る胸を見透かしているように、そっと耳もとでささやかれる。

「もっかいしよ? 今度はふたりきりのキス……」
「侑士先輩……」
「かわいいな、伊織」

頬をすり寄せてから、そっとわたしの顎に手をかけると、くいっと斜め上に引きあげられた。ひええええ、カッコいいよう。こんな高校生いる? 信じられない。
身をゆだねるように目を閉じると、しっとりしたキスが落ちてきた。さっきよりも長ければ、音もちゅるっと官能的だし、侑士先輩の舌がわたしの唇をそっと舐めるから、ああ、やばいよ、体がほてってきちゃう。と、頭がぼうっとしていたのだが。

「忘れものー!」
「なあっ!」

バタン、といきなり部室の扉が開かれたのだ。
大げさに揺れたわたしとは違い、見あげた侑士先輩の表情は実に冷静で、目はしれっと扉のほうに向かっていた。

「ホンマ……わざとやろ? 自分」
「くくっ……忘れものですってば」
「……も、千夏っ!」
「みーちゃったー!」

わたしの怒った声なんてなんのその、千夏は「忘れもの」なんてものを取りもしないで、すぐにまた扉を閉め、帰っていった。もう、絶対に狙ってたよあいつ! のぞきが趣味なのか! からかうの好きすぎでしょ!

「ホンマ、あの子は……」

苦笑していた侑士先輩は、もう一度わたしにキスをした。





チャイムが鳴って玄関に向かうと、紺のカジュアルスーツを着た侑士先輩が立っていた。やりすぎだと思われるでしょうが、訪問先はあの跡部財閥一家の自宅である。
わたしだって大変に張り切っていた。これについてはずいぶん前から予定が組まれていたということもあり、母に相談しながら大人っぽいドレスを選んでもらったりもした。
母曰く、

――この出費は佐久間家の名誉でもあるから、心配しなくていいわよ。

である。それほど、跡部家で行われるパーティーというのは、大人の財布の紐もゆるませる恐ろしい響きも持ち合わせているのだろう。
とはいえ実際、わたしも着替えている最中は「やりすぎじゃない?」と思っていたのだけど、ただの高校生のお誕生日会とは違うのだということを、侑士先輩の格好でしっかりと認識させられた。やっぱり、間違ってなかったよね。

「侑士先輩、すごく似合ってます! すっごくカッコいい!」

いつもよりも太めで分厚いネクタイ。髪型はちょっぴりオールバック気味だ。
なんてなんてなんて素敵なんだろうか、侑士先輩っ! イケメンすぎる、悩殺がすぎる、どう見ても高校生には見えない! いやそれは普段からなんだけど!

「ホンマ? おおきに。伊織もめっちゃかわいいで?」
「あ、ありがとうございます……へへっ」

でも今日こそは、わたしも侑士先輩のとなりで歩いてたって、見合う格好ができているはずだ。いつもよりメイクだって濃くしたし、髪の毛もちょっとだけ気合いを入れたし。なんせ、パーティードレスだ。なんだかここだけアメリカのプロム状態だけど、大丈夫。跡部先輩のお家へ行けば、みんなこんなことになっているわけだから。

「ところで、いま、親御さんおって?」
「へ?」
「ん、ほら一応、大事なお嬢さん預かるわけやし、ちゃんと俺が送りますよって」
「いません!」

食い気味に答えると、侑士先輩の目が一直線になった。とはいえここは、譲れない。

「……ホンマ? なんか奥のほう、電気ついてるように見えるんやけど」しかも、目ざとい。
「ちょっと買い物に出ているだけなので、そう経たないうちに帰ってくるんですけど。だからいません! でもわたしたち、もう行かなきゃですねっ」

待っているような時間はないよ、と伝えたつもりだ。
にしても、しつこい……いまだにしつこく出てくるこの、生活指導妖怪はいったいなんなんだろうか。最近はもう、妖怪「親に会わせろ」に改名してもいいくらいだ。
あまりにもしつこいので、いつかは紹介しなきゃとは思っているけど、いまじゃない。ごかませるうちはごまかしておかないと、うちが不良家族だということが絶対にバレるんだからっ。

「ふうん……そっか。ほな、行こか」
「うん、行きましょう、さっさと行きましょう!」

実は母が在宅中だ。でも母がいちばん厄介そうだから、いちばん会わせたくない。「ちゃんと避妊はしてね」「アルコールはほどほどに」とか、めちゃくちゃ余計なことを侑士先輩に向かって言いだすに決まっているのだ。そんなの、失礼すぎるでしょ。
わたしにだって中学のころから、しょっちゅう、言ってきてたし。こちとら彼氏もいなかったってのに! お酒だって親に飲まされたことはあっても、自ら進んで飲んだりはしていなかったのに! 余計なことを言われたら、侑士先輩の心配症がもっと酷くなるし、普段、酒を飲んだり男と遊んだりしているんじゃないかと誤解されかねない。もう、なにが起こるかわからなくて恐ろしすぎるのだ。

「こんなおめかしして、夜に伊織と歩くやなんて、はじめてやね」

ちょっと怪しいとは思っているだろうけど、侑士先輩はそれでも機嫌よく歩きだしてくれた。しつこいはしつこいけど、その場でしつこすぎないのが侑士先輩のいいところだ。回数は多いけど長くはない。そのうち説得にかかられる可能性は、あるかもしれないけど……。

「ですね。なんか、大人のデートしてるみたい」
「せやな。大人になってもデートいっぱいしよな?」
「ふふ。嬉しい。大人になるの、楽しみになってきました」絡まる手も、距離感も、いつもと状況が違うせいか酔いしれそうになる。まさに大人の階段をのぼっている気分だった。
「ホンマ……せやけど、伊織、さあ」

なんて、甘くてうっとりな会話をしていたときだ。ピタ、と侑士先輩の足が止まった。自然とわたしも足を止めると、侑士先輩の視線は、下に向けられていた。その先に、ピンヒールを履いたわたしの足がある。なにか、ついてる?

「侑士先輩?」
「ん……ヒール、歩きにくいんちゃう?」

心配そうに、わたしの顔を覗きこんできた。なぜ、そんなふうに思うのだろうか。

「え? いや、別に……」
「ホンマ? なんちゅうか……ん、ほら、目線もいつもと違うやん? 視界に酔ってない? あー……ふくらはぎもなんか、めっちゃ頑張っとるっちゅうか」

言いにくそうに、目をキョロキョロさせながら、ぶつぶつとつづけた。
心配をしてくれている、ということは、表情からもわかるのだけど……侑士先輩の心が、こんなときばかり読み取れてしまうのはなぜなのか。
もしかして……ガキんちょが、背伸びしているように見えてる、と?

「それは、つまり?」
「やから……歩きにくないかなって」

なるほど……? ヒールを履きこなせていないと、そう思ってらっしゃるわけだ。その大半が優しさでできてるバファリン的なものだということは、もちろんわかってますけども。
でもですよ? 前の彼女さんとか、あの腕組んで歩いてた年上っぽいお姉さんとかには、絶対にそういう心配したことないですよね?
はっ……なんか、悔しいじゃないですかッ! どうせ、わたしは、ガキですよ!

「その……ぎこち」
「歩きにくく、ないもんっ」ぷいっと顔を背けた。しかもいま、ぎこちないって言おうとしました!? ぐぬぬぬぬぬ……おのれ。
「え……伊織、なんでツンとするんっ」
「別に、ツンとしてないですよ?」
「いや、めっちゃしてるって。え、なんで?」
「いえ、別に? どうせ、わたしは子どもですから?」
「ええ!? いやいやいやいや、そんなつもりとちゃうって!」
「どうかなあ? だってまだ歩きはじめてちょっとしか経ってないのに……歩きかた、変でした? 無様とか?」嫌味のつもりだ。わたしとしては颯爽と歩いていましたよ、ええ。
「いや、そ……」

おまけに、言葉を詰まらせている。自分で言ったくせに驚いて、ガーン! となってしまう。ちょっと……ちょっと誰かバファリン持ってきて! なんか胸に突き刺さってる! 痛いよ!
なんなのその反応っ……図星ってこと!? 無様だったってこと!? そりゃ、こんな10センチもあるヒール、履いたことないけどさっ。せいぜい5センチくらいだけどさっ。あるいは厚底で超安定してたけどさっ。そ、そんな、無様だった……!?

「その、ちょっとこう……ぎこちなさそうやったから、痛いんかなーって……」
「……」言ったな。ぎこちないって。
「え、伊織? 大丈夫か? どないしたんや、そんな黙って。足、痛いんやったら無理せんでさ、まだほら、家近いし、ローファーとかに履きかえても」

わたしにだって、プライドというものはある。侑士先輩に見合う大人っぽいセクシーな女性になりたくて、いろいろ努力しようとしているのに。普段はまだその成果がでてなかったとしても、今日だけは違うって思ってたのに。なんで、なんでそんなこと言うかなっ。

「痛くないっ!」
「あ、ちょ、伊織、怒らんでやっ。あ、待ってって!」

カツカツと音を立てながら、早足で歩を進めた。家から遠のいてやるっ! っていうか、こんなドレスに誰がローファーなんか履いてんのよっ! むちゃくちゃダサいじゃんっ!
チクショー、めちゃくちゃショックだぞ……! 侑士先輩は、わたしのこと「かわいい」とは言ってくれるけど、「綺麗」とは言ってくれないし、これまでの歴代セクシー彼女に比べると、それはやっぱりガキっぽいからで、だから性的には興奮しないから誘ってこないんじゃないか説を考えていたわたしとしては、もう、すんごいショックだぞ!
これが千夏でも、絶対に言われないよねっ。だって千夏ってなんかセクシーだもん。大人っぽいし。ええ、ええええ、どうせわたしは子どもですよ。いつもスニーカーが好きだしっ。歩きやすいもんっ。いいじゃん高校生なんだからっ。だからってローファー履け、とか……小学生じゃないんだから! ピアノの発表会かっつーの!

「伊織って! ちょお待っ……あぶなっ!」
「ひゃああああっ!」

ぷりぷりぷりぷり怒って歩いていたら、足首が思いきりぐにゅん、と折れ曲がった。転びそうになった体を、うしろから追いかけてきていた侑士先輩の手がぐっとつかむ。
なんとか転ばずに済んだものの、腕を引っ張りあげられているような状態で、それこそ無様な酔っぱらいのように傾いていた。

「ほら、言わんこっちゃないやんか」
「……う」

すんごく恥ずかしい……怒ったうえに助けてもらって、しかもなんにもないところでつまづくなんて。こんなの、ヒールを履きなれてないから足がもつれたんですと白状しているようなものだ。ああ……侑士先輩に見合う彼女になりたいのに。わたしなんて背も高くないし、大人っぽくもないし……。あげく、言わんこっちゃないだとうっ!?

「立てる? 大丈夫か?」パンパンと、スカート部分を手で優しく払っている。
「大丈夫……」
「伊織、無理せんとってよ。頼むから。心配やねん俺。それだけやで?」
「……わかってますよ」

ぶすっとしてしまう。これじゃ本格的にガキだ。わかっててもぶすっとしちゃう!

「歩けるもん」
「ん……わかった。ほな、ゆっくり歩こうや。そんな急がんでも、間に合うし。な?」
「……はい」

ふてくされたまま、跡部先輩の家に到着した。侑士先輩はずっと声をかけてくれていたけど、わたしは端的に返事をするだけで、かなり困らせていたように思う。
が、それも跡部先輩の家に到着して圧巻のたたずまいを目にした瞬間、どこかへ消えた。わたしもなかなか単純である。

「なんですかこの家……」
「おう、そうか。伊織ははじめてなんやな」
「でぃ、ディズニーランド?」
「ははっ。そこまでデカくないやろけど、まあ、言いたいことはわかる」
「噂には聞いてたけど、こんな……」
「こんなやで。ん……少し機嫌なおったな? よかったわ」
「う」
「あ……って言うたら、また機嫌悪くなるんとかナシやで?」

苦笑しながら、頭をなでられた。まともに侑士先輩のほうを見ていなかったから気づかなかったけど、ずっとこんなに優しい顔で見守っててくれたのかな。
それなのにわたし、ずっとプンプンして……かわいくなかったよね。だけど……悔しかったんだもん。

「……ごめんなさい」
「ん、ええよ。俺も傷つけてしもたんやろ?」
「……なんか、素直になれなくて、謝れなくて」
「ふふっ。ええって。そういうとこも好きや。かわいい」

正門から少し離れたところで、チュッとすかさず唇が触れてきた。
優しい……はあ、侑士先輩、好きすぎるっ。だからこそ見合う女になりたいようっ。どうすればいいのか全然わからないけど、とりあえず拗ねまくって困らせることは、やめよう。誰も得しないし。
悔しさはまだちょっと、残ってはいるけど……。

「もう、大丈夫です」

侑士先輩の胸に身を寄せると、きゅっと包んでくれる。はあ、いい匂い。大人っぽい香水の甘さに、さっきまで怒っていた自分の胸が、また違う意味でじんわりと傷んだ。

「ホンマ? 俺もごめんな? せやけど伊織のことは、俺いっつも、めっちゃかわいいって思っとるよ?」
本当はそれだけで、十分すぎるのに。「嬉しいです。だから、ごめんなさい」
「ええって。な? 俺もごめん。ほな、入ろ?」

なにも悪くないのに謝ってくれる愛をひしひしと感じていると、先輩はわたしの腰にそっと手を添えてきた。そうだよね、こういう場面では男性がエスコートするんだ。ああ、なんて贅沢。こんな素敵な彼氏にエスコートされるなんて。そうだよ、おこがましいよ最初から。付き合えてるだけで奇跡なんだから。交際から1ヶ月が過ぎて、ちょっと欲が出てきてる。よくねえなあ、よくねえよ……ん、なんだろこの口調。どっかで聞きかじってるんだろう、たぶん。

「ようこそいらっしゃいました。会場はあちらです」
「こんばんは。ありがとうございます」
「どうもどうも、おおきに」

いろんな反省をしながら正門を抜けると、広大なお庭にたくさんのライトアップが施されていた。おかげで足もとは暗くないのに、玄関がどこかわからない。が、ほとんどがそんな人たちばかりなのだろう。たどり着くまでに、お手伝いさん(?)のような方々が、「あちらです」と拠点ごとに案内してくださった。
あまりにも異次元だったのだけど、会場に入るといつもの顔ぶれが見えて、ほっと安心する。もちろん大人もたくさんいたのだけど、やはりメインはテニス部だった。

「お前たち……今日は俺のために誕生日パーティーを開いてくれてありがとう、感謝する!」

到着してからまもなくすると、跡部先輩の挨拶がはじまった。
その声が響きわたるのと同時に場が一気に静かになり、先輩が言葉を区切るたびに、信者たちが「うおおおおおー!」と歓声をあげていた。まるで氷帝コールだ。

「侑士先輩、これ主宰は跡部先輩なんじゃ……?」
「伊織、ツッコミどこ満載やけど、それ禁句な……」
「そ、そうですよね」

しばらく終わりそうにないし、遠目に見つけた千夏は跡部先輩をうっとりと見ているのできっと反応しないだろう。
わたしは侑士先輩と相談して、テーブルの上にあるキラキラな料理を楽しむことにした。

「見て侑士先輩っ! これ超きれいっ」
「んん、すごいつくり。まあ、ここには一流のシェフが何人もおるやろしなあ」
「跡部先輩の家のキッチン、見てみたいなあ」
「キッチンいうか、レストランの調理場レベルやと思うけどね。伊織、料理が好きやし、来てよかったな?」
「はい! うわあ、これ美味しそう」鮮やかなトマトのブルスケッタをいただく。パキッというバゲットの音とトマトの甘みが口に広がった。「んんん、美味しいっ」
「俺にもちょうだい? 伊織のかじったのでええから」
「え、ちゃんと新しいの」
「ええの。伊織のが食べたいの」

あーん、と腰をかがめて口を開けてくる侑士先輩に、わたしのかじりかけを口まで運んだ。なんか、申し訳ない気分になってくるのだけど、先輩がそれがいいというので、仕方ない。間接キス、みたいな? くはあ、それもくすぐったいなあ。

「ん、うまい。伊織のかじりかけやから余計にうまい」
「あははっ、そんなわけないのに」
「いや、新しいのより絶対にうまいな」

おどけている侑士先輩に笑っているあいだもまだ、跡部先輩の挨拶はつづいていた。いつまでしゃべる気なんだろう。いいんだけど、別に。
ぼんやりとその様子を見ながら、わたしと侑士先輩は内容そっちのけに美味しい料理を頬張った。氷帝のカフェテリアよりも数倍、美味しい。感激がすごくて侑士先輩とはしゃいでしまう。聞き覚えのある声が背中からかかったのは、そのときだった。

「忍足先輩!」
「ん……? おー! 小野瀬やん!」

もぐもぐとした口をお上品に手で隠しつつ、侑士先輩は声をあげた。
いとこの竜也が笑顔で手を振りながらこちらに向かってきている。竜也の嬉しそうな顔を見ると、こっちまで嬉しくなった。

「忍足先輩すげえ、カッコいいです! めちゃくちゃ目立ってます」
「さよか? けど、男に言われても味気ないな?」
「男にモテる男ってことですよ!」
「せやからそれが気色悪いって言うてんのに……」

とか言いつつ、侑士先輩だってすごく嬉しそうに微笑んでいた。
あのいざこざを乗り越えて、侑士先輩と竜也は、いまやすっかり仲よしの先輩後輩だ。わたしと侑士先輩が仲直りをした直後、先輩は竜也の教室に突然現れ、頭をさげてきたらしい。

――小野瀬、ホンマにすまん。俺の嫉妬に巻きこんだ。許してほしい。
――忍足せんぱ、そんな、やめてくださいっ! あた、頭あげてくださいよっ。
――いや、ちゃんと謝らんと気がすまんし。
――そ、それならあの、えっと、試合してください、また! もう、それでいいじゃないですか!
――ホンマ? ああ、優しいな、小野瀬。おおきに。

そこで二人は、握手を交わしたそうだ。
そんなことが起きているとはまったく知らなかったから、その日の夜に竜也から聞いて、驚いた。翌日にはもう、1年のあいだでは噂になっていたけれど。
侑士先輩がわたしに言わなかったのは、きっとなにか理由があるんだろう。変な気を遣わせたくなかったのかもしれない。だからわたしも、先輩には言っていないけれど、密かにめっちゃくちゃ惚れなおしたエピソードのひとつだったりする。
わたしの彼氏ってば、本当に素敵なんだから……きゅん。

「伊織もすっげえ着飾ってんな?」
「そりゃそうだよ……竜也だって、キメてんじゃん」ちゃっかりスーツ着ちゃってさ。大人びてる。
「まあな。でもお前は、忍足先輩に見られること意識してんだろ?」
「そっ……」あたりまえでしょ! だけど口にすると恥ずかしいのにっ!
「お……? そやったん、伊織? かわいいな?」
「う……」

だから、ヒール問題ひとつで怒ったのだと、侑士先輩ならいまごろ理解しているような気がした。そういうところがますますガキっぽい気がして、情けなくなってくる。けど、怒ってしまったものはしょうがない。ホント、反省しよ。

「とろこで忍足先輩、こないだのジョコビッチ見ました?」
「見た! あいつどうなってんの?」
「マジでヤバかったッスよね!」

反省でまた胸を痛めそうになったころには、会話の内容は変わっていた。
おっと、はじまってしまった、と、思う。竜也は侑士先輩と仲よくなれたことが嬉しくてしょうがなくて、はしゃいでいる日々だ。竜也にはお兄さんがいるけど、お兄さんよりよっぽど侑士先輩のほうが好き、なのは見ていてわかる。
一方で侑士先輩はお姉さんがいるけど、いつも必要以上の舎弟扱いを受けるので、かわいい弟がほしかったらしい。
要するにウィンウィンな彼らは、一緒になるとよく話しこんでしまう。とくにテニスの話題になると、わたしはついていけないことが多い。テニス部のマネージャーだというのに、こちらに関しても反省が必要である……ジョコビッチってたしか、プロ選手の名前ということくらいはわかるのだけど、細かい話になるとまったく意味不明だ。

「わたし、ちょっとその辺、ブラブラしてくるね」
「おうじゃあ、またな!」竜也こそまるで侑士先輩の彼女みたいに見えて、笑いそうになる。
「伊織、気いつけてな」
「はい、ごゆっくり!」

微笑ましい男性陣の会話を質問で邪魔したくもない。毎度のことながら、わたしはその場を離れてベランダに向かった。
大きな豪邸でめかしこんで、喧騒から離れたところで夜空を眺めていると、ガキんちょなわたしも、やけに黄昏れてしまう。頭のなかで『夜空ノムコウ』が流れだす始末だ。
こんなふうに跡部先輩のお家に来るような機会ができるなんて思ってもみなかったし、侑士先輩が彼氏になるなんて思ってもみなかった自分が懐かしい。あのころに比べると、侑士先輩に綺麗だと思われたいとか、愛し合いたいなんて、贅沢すぎることを考えている。キスしまくっていろんな感情が麻痺しているんだろう。初心忘るべからず、だ。千夏は、忘れまくってるけど。

「伊織」
「あ、千夏」

噂をすれば、だった。千夏がコツコツと音を立てながら、こちらに向かってきた。彼女のセミロングにはいつもないパーマがかかっていて、わたしと同様、というかそれ以上に、化粧も濃い。
そして近くで見てはじめて気づいたのだけど、千夏のドレスの背中は、大きく開いていた。あんたはハリウッド女優か。でも似合っているから、なにも言えない。

「跡部先輩の挨拶、終わったの?」
「うん、さっきね。でも後輩たちと話したいみたいだったし、伊織のドレス見てみたかったし」

きゃいきゃい言いながら体をぶつけてくる千夏は、いつもの千夏なのだけど。心地よい香水がふんわりとただよってきて、彼女の大人っぽさをぐっと引き立てていた。

「千夏、すごく綺麗」
「ホント? ありがとう。景吾が選んでくれたんだ」
「そっかあ、だからか」背中が大きく開いてるの、好きそうだもんなあ。「跡部先輩、褒めてくれた?」
「うん、ふふ……美しい、綺麗だって。景吾の言葉のチョイスって、いちいち照れるよね」

嬉しそうにはにかんでいる。それもまた優雅で、ああ、すごく大人だな、と思った。こういう雰囲気に、わたしもなれないものか。羨ましがったところで、ほど遠いこともわかっているんだけど。

「伊織もすごくいいね! かわいい。忍足先輩、目がハートになってたんじゃない?」
「いやいや。そんな……ん、かわいいって、言ってくれたけど」
「うん、だってすごくかわいいもん」
「へへ。ありがとう、嬉しい。ああ、でもわたしも千夏みたいに、綺麗になりたいなあ」
「え? なに、急に」

おだてているつもりはなかったのだけど、千夏は訝しげにわたしを見た。
綺麗系とかわいい系なんて生まれた瞬間に決まっているんだから、残念がっても仕方がないことだというのに。黄昏を一度やらかしたせいで、妙に感傷的になっている自分がいる。

「ごめん、なんか……かわいいってすごい褒め言葉なのにね」というか、それだってお世辞がたっぷり入ってるだろうけど。「綺麗って言われたいなんて、おこがましいかなあ、やっぱり」
「あー、ふむふむ。忍足先輩に言われたいんだ? かわいいじゃ不満?」
「不満じゃないよっ! すごく嬉しいけど……ん、贅沢だよね。だけど侑士先輩のとなりにいた人って、いつも綺麗なお姉さんって感じだったからさ」

あの人たちは、どっからどう見ても、綺麗系だった。いやなんなら、セクシーだった。わたしがそこにこだわってしまうのは、いまも聞こえてくる陰口のせいもある。
「ガキ」「似合わない」「どの面さげて忍足くんと付き合ってるの?」
……はあ!? この面だっつーの! と、そのときは憤慨して無視しても、耳に残った音が、心に蓄積されているのかもしれない。

「あんたは、気づいてないだけだよ、自分の魅力に」
「えー? またあ」
「ホントホント。伊織は化けるタイプ。かわいいも綺麗も、ちゃんと持ち合わせてるよ。忍足先輩はそういうところも見抜いてると思うけどなー。あのヤラしい目で」
「ヤラ……ヤラしいよね、うん、わかる。なんかヤラしい」

否定できない……。
できなかったついでに、今日のちょっとしたピンヒール問題を千夏に話すと、千夏は盛大に笑った。「超わかる」と何度も言いながら、最終的にはそれが、「超マヌケじゃん!」という言葉に変わっていくのが、千夏らしい。

「もー、笑いすぎ。恥ずかしかったんだからこっちはー」
「でもさ、あたしも最初そうだったよ。なんかいきなり訳のわかんないパーティーに連れて行かれてさ」
「跡部先輩に?」
「そうだよ、なんだっけ。ファミリーリユニオンとか言ってたかな。まあ要するに、家族会的なやつだったんだけど」
「うわあ、大変そう」普通に親戚の集まりって言えばいいじゃないか、とは、跡部先輩にはいまさらすぎるツッコミであろうことも理解できる。
「大変だよ。それで同じこと言われた。忍足先輩は優しいよ。景吾なんて、『普通に歩けねえのか』だったからね。あの野郎……」
「なにげにひどいね……怒ったの?」
「怒ったよ。結局は景吾が謝ってきたけどね」

聞けば、千夏もわたしと一緒で、そのときはバカにされたと思って怒ったらしい。けれど、千夏が怒ると跡部先輩は目に見えて慌てる。口調は怒っていても、その顔がすでに謝っているのがわかる。ときどき目にする光景なので、想像して笑ってしまいそうになった。

「なるほど、そのあとニャンニャンだったわけだ」
「まあ、ね。ラブラブしてくれたから許してあげた。なんて、憎まれ口を叩いちゃったけど、景吾も根は優しいから」

おノロケ全開の千夏に幸せな気分になる。そうなんだよね……先輩たちは、優しい。まだ未熟なわたしたちを、いつもエスコートしてくれてる。年下だからと甘やかしてくれているんだから、やっぱり贅沢な悩みなのだ。
大事なことに気づかせてくれた親友は、一瞬わたしから視線を外したあと、くすくす笑いながら背中を向けた。

「あれ、もう行くの?」
「うん、景吾が呼んでるから。じゃあね、伊織はもっと自信を持って!」
「うん、ありがとう!」

千夏と手を振って別れてから、もう一度、夜空を見あげる。ああ、わたしも侑士先輩とイチャイチャしたくなってきたな、と思ってから、まもなくのことだった。
そっと足音が近づいてきて、人の気配を感じた。ついさっき鼻をかすめた香りが風に乗って届いてくる。とっさに振り返ったりせずに、頬をゆるませながら待っている自分が誇らしい。ほらね、わたしだって少しは、成長してる。
やがて、うしろからふんわりとしたぬくもりに包まれた。たくましい腕にトクトクと胸が高鳴っていく。絶妙なタイミングで願いを叶えてくれる彼が、愛しくてたまらなくなった。

「侑士先輩……?」
「俺やなかったら誰がこんなことするんや? そんなヤツがおったらはったおすわ」
「あははっ。うん、ですよね」
「伊織、寒ない? ちょっと待たせたな?」
「ううん。もう侑士先輩があっためてくれてるから、平気」
「へえ? 言うようになったな、伊織も」

微笑んで、ささやいて。わたしの頬に、軽くキスをした。

「くすぐたい……」
「ご機嫌やね。今日は人前やのに、怒らへんの?」
「おかげさまで、少しは免疫がついたのかもしれません」それに、室内に背中を向けているせいで、人は見えないし。頭のなかじゃ完全にふたりの世界だ。
「そうなん? それやったら今度、渋谷のスクランブル交差点でしてみよか?」
「いーえ。絶対にしません」
「はいはい調子に乗りました、えらいすんません」
「ふふっ。『はい』は、一回」
「はーい……かなわんなあ」

静かに、唇が重なっていく。誰かに見られているかもしれないけれど、ここにいるのはふたりだけだから……少しだけ大胆になった。だって、そんなの気にならないほど、侑士先輩の腕と唇が、熱くて。

「さっき、跡部さ」
「うん?」

キスを終えて、侑士先輩は、頬を寄せながら切りだした。

「千夏ちゃんからネックレスもらったー言うて、めっちゃ喜んでた」
「あ、そっか……千夏は昨日のうちにわたしてるはずですもんね」

なんだかんだ言いながら、ネックレスという選択をした千夏がかわいい。彼女のことだから、きっとセンスのいいネックレスをあげたんだろうな、と思う。

「ん。跡部、よっぽど嬉しかったんやで。生涯このネックレスはずさんって言うてたわ。かわいいやっちゃな」
「だって跡部先輩、千夏にベタ惚れですもん……骨抜きって感じ」

からかい半分でそう言うと、侑士先輩がじっとわたしを見つめてきた。ドキンッとする。ちょっと忘れかけていたけど、今日の侑士先輩は一段とキメているから、あまり見つめられると困惑しそうになる。

「俺も伊織にベタ惚れやって、知っとった?」
「……侑士先輩」

くり返し、唇がゆっくりと落ちてくる。リップ音がやけに響いて、頭のなかがぼんやりとしていく。こんなにキスしてたら、いつかバレそう……なのに、やめてほしくない。

「伊織、こないだ俺に、ほしいもんないかって聞いてきたやん」
「うん?」
「……もしかして、俺の誕生日プレゼントのことやった?」
「あ、はは。バレちゃった……」

本当はあのときから気づいていたんだろうけど、いま気づいたと言わんばかりな先輩が、大好き。
むしろ、逆に嬉しかった。まあ、それがバレていたからといって、別になにがあるわけでもないけれど。

「なあ、それやったら遠慮なし、リクエストしてもええ?」
「え、侑士先輩、ほしいものあるの?」
「もちろんある。ええかな?」
「はい! あ、でも、あまり高級だと、難しいかもしれないけど……」
「ああ、そっかあ。ん、困ったなそれは……」
「え?」
「めっちゃ最高級やねん……」
「えっ、そうなんだ。あの、でももしかしたら買えるかもだし……あ、こ、今年がダメでも来年とか……! わかんないけど」

それこそ、ポルシェとか言われたらドタマかち割ったろか……なんて、そんなことわたしが侑士先輩にできるはずもないけど。
実は、「なんでもええよ」と言いそうだと勝手に想像していたせいで、意外なリクエストに驚いてしまう……そんなに、ほしいものがあるとは思いもしなかった。
だけど、最高の誕生日にしたいから、当然、喜ぶものをあげたい。とりあえず、聞くだけならタダのはずだ。

「しかもな」
「え、なんですか」まだなんか、あるの?
「毎年、お願いしたいねん、それ」
「え、毎年……?」

毎年、だと……? さきほど贅沢すぎると反省したばかりだけど、侑士先輩にも反省を促しそうになる。
だって、毎年ほしいものってなに? 最高級エステチケットとか? ありうる!
あとはなんだろう……最高級フレンチのフルコースとか? ぐはあ、だったら高いとこだと8万円とかするよ、無理!
いや、いくらなんでもそんなことは言ってこないよね。侑士先輩だもん……。でもどう考えても金持ちの坊っちゃんである侑士先輩がほしいものって、それなりに決まってる。
じゃあ、じゃあえっと、大相撲のタマリ席とか? あれひとり2万円くらいするよね……ん、難しくはないな。高校にあがってから5千円にアップしたお小遣いをひっかき集めて、わたしのぶんはお母さんに前借りするかな。それも佐久間家の名誉出費にしてくれないだろうか。いやそうなると、侑士先輩を紹介しなきゃならなくなる。
いやいや待って、なんで大相撲? テニスだったらどうすんの。最前列とか絶対に高いよね!? ああ、どうしよう、どうしよう。聞くだけ聞いて、「やっぱ無理」と言うのはちょっとかわいそうな気もするし、ほしいものないかって聞いたのこっちだし。

「伊織? どんな顔してんねん」

頭のなかであれこれ考えすぎて、目がまわりそうになっていた。いまある貯金額を頭のなかで計算してみたものの、大相撲がギリだ!

「あ、ご、ごめんなさいっ。なんか、緊張しちゃって」
「んん……なんか変な勘違いしてそうやけど、金はかけんでええから」
「え、無料のものなんですか?」
「ん。伊織さえ大丈夫やったらな」
「へ?」

うしろから回っていた侑士先輩の手が、肩をつかんだ。同時に、鎖骨にチュッとキスを落とされる。ビクッと体が反応して、そのまま耳もとにきた唇が、ささやいてきた。

「俺な、伊織がずっと傍におってくれたら、それでええんよ」
「え……」

じっとわたしを見つめて……冗談で言ってるわけじゃないのは、その表情ですぐにわかった。
体が、痺れそうになる。なんという殺し文句だろうか。言葉が、出てこない。

「どない……? めっちゃ最高級やけど、都合つくやろか?」
「ゆゆゆ侑士先輩……、そ、そういうのずるいよ」
「なにがあ? 俺はそれがいちばんほしいねんもん」
「だ、だとしてもわたし、ちゃんとプレゼントもあげたいしっ」

顔が熱くなっていくのを自覚しながらも、わたしは反論した。
やっぱり侑士先輩は、想像を超えてくる……なんでもいい、なんかじゃなく、なにも要らない、だったとは……。

「伊織、こっち向いて」
「え、はい」

正面に向くように誘導された。室内に背中を向けていたからまったく気にならなかったけど、こうなってくると横から視界に入る人の多さに圧倒される。いまのとこ誰もこっちを見てはいないけど、何度もキスしちゃったよ……は、恥ずかしい……。

「俺は、伊織がずっと傍におってくれるだけでええ」
「いや、でも……」
「伊織は嫌?」
「嫌なわけないけど、でもそれは、デフォですし……」
「そんなことない。デフォやないことを、俺、お願いしとるつもりやで?」
「え?」

瞳が、強くなった。胸の鼓動が、さっきよりもうるさくなってくる。侑士先輩が言ってることは、きっと本心だし、すごく嬉しい。
でも、もしかして。
その言葉の真意が、実は違うところにあるんじゃないか……体が予感に反応していた。どうしよう、すごく、熱い。

「その日は、ずっと」
「侑士先輩……」
「俺の傍におってほしい。ずっと」

言葉で伝わりきらないもどかしさを、かみしめているような、切ない目。
すっと侑士先輩が息を吸いこんだ。決意したように、大きく胸が揺れている。

「なあ伊織、もっかい言うわ」

わたしが想像しているとおりの、深い意味があるのだとしたら。
ちゃんと、聞いとって……とつづけた彼は、大人の男の顔をしていた。





to be continued...

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