07_パズル


7. パズル


まったく勉強をしないままの中間考査が終わり、跡部先輩のお誕生日会も終わり、侑士先輩のお誕生日まで、残すところあと6日となってしまった。
いまだに誕生日プレゼントをどうするか、まったく決めていない。買いに行くチャンスはもちろんある。部活は個人練習日。すなわちマネージャーは不要。そして侑士先輩は絶賛テニス中。そう、まさに今日、土曜日である。チャンスのはずだ。

「とはいえ、なんにしよ……」

口にだしてぼやいてしまうほどだ。パソコンをつけて「18歳 誕生日 彼氏」と調べてみても、財布やらスポーツタオルやらと、侑士先輩がすでに持っているものしか出てこない。いや持っていても別にいいんだけど、先輩が使っているのはいい品物なのだ。劣化版をおわたしするわけにもいかない。
ネックレス、なんて恋人らしいものも出てきたけど、それだと千夏が跡部先輩にあげたプレゼントとかぶっちゃうし、ブレスレットもありだけど、侑士先輩ってアクセサリー身につける感じ、しないんだよなあ。
考えていると、ノック音が聞こえてきた。「はい?」と返事を聞く前に扉が開けられる。それはノックの意味がないですよね? まったく、このデリカシーの無さは、うちの家族特有だ。

「お前、今日は部活ないの?」
「お兄ちゃんさ、いつも言ってるけど、返事してから開けてくれる? わたし女子高生なんだけど」
「そうだよな、オレ大学生だから」
「そういうこと言ってんじゃないんですよ」
「だろうな」

こいつはロボットなのか、というくらい、兄とは会話が噛み合わない。それはいつものことなのでいいのだけど、いったいなんの用があるというのだろうか。兄がわたしの部屋に訪れることなどあまりないので、妙な気分になってしまった。

「ちょっと出かけね?」
「え、一緒にってこと?」
「そ。オレとデート」
「ええー……」

デートは侑士先輩としかしたくない。いや、まあ兄弟なんだから本当の意味でのデートじゃないのはわかっているが、なにが悲しくてせっかくのお休みに、兄と出かけなきゃならないというのか。

「彼女の誕生日プレゼント、悩んでんだわ。相談にのってくれよー、伊織ー」
「誕生日?」兄よ、お前もか、とブルータス感満載で口が滑りそうになったものの、堪えた。裏切りでもないし……。
「パフェ、おごってやるからさ」
「小学生か」
「お前ね、そういう生意気な態度とってると、チクるぞ?」
「チク……?」

やけに突っかかってくる兄を睨むと、ふふん、と不敵な笑みが注がれた。「チクる」、という言葉に一抹の不安がよぎっていく。
うちの家族は、前々から言っているように非常に不良家族である。とくに悪いことはしないけれど夜遊びは両親公認だ。だからこそ、「チク」られるようなことは、我々兄弟には存在しない。そう、恋愛以外は。

「まさか!」
「おー、やっとお気づきで。妹よ、お前もだろ?」兄までブルータス感満載だ。
「ちょ、ま、なんっ……」

家族には絶対にバレたくなかったというのに、いったいどうしてこの兄が知っているのか。どこかデートしてるところでも見られた!? いやいや、侑士先輩とはそこまで頻繁に外出デートしていないし、兄がいれば絶対に気づく。というかわたしがデートしてるときは、だいたいこの兄は女の家に行ってるか麻雀してるか寝てるかのはずなのに!

「忍足侑士先輩……? とかって言うんだろー?」
「なあああああああっ」
「よしよし。両親にバレたくなかったら、さっさと支度しろ、妹よ」

いちいち最後につけてくる「妹よ」が兄のなかで流行りはじめている。
跡部先輩か! と言いたくなるのは置いておいて、なんでバレているんだろうか。
チクられたくなかったので、着替えを探した。クローゼットを開けると、跡部先輩の豪邸にお邪魔したときの、ボルドードレスが揺れている。
結局あの日、侑士先輩の言いたいことは、聞けないままだった……わたしは5日前のことを、じんわりと思いだしていった。





「侑士先輩……」
「ん? どないした?」

帰り道、家まで送ってくれている侑士先輩に寄りそいながら、聞かなきゃと思っていた。

――俺は、その日ずっと……ずっと伊織が俺の傍におってくれる、それだけでええ。

「ずっと」、その意味を。
だって、「ずっと」の解釈っていくつかある。ロマンティックに「永遠に」って意味の「ずっと」かもしれないし、ざっくりその日いい頃合いまでって意味の「ずっと」かもしれないし、わたしが期待しているような……朝、目覚めるまでの「ずっと」かもしれないし……。でもその期待が、ただの勘違いだったらとんでもなく恥ずかしいことになる。淫乱と思われたらたまらない。だから、ちゃんとどういう意味の「ずっと」なのか、教えてほしかった。
夜道の街灯が照らす光だけじゃ、先輩の顔もしっかりと見えなかった。まあ見えていたところで、いつもクールなお顔をされてる先輩の真意なんて、わたしに読めるはずもない。

「……その、涼しいですね、夜は」
「ん、そやね。もう10月やからね」

そんなことが言いたいわけじゃなかったのだ。だけど勇気はでなかった。
とろけそうなキスのあとに侑士先輩を見つめたのが精一杯だったわたしが、「それはセックスしようってことですか?」なんて意気揚々と尋ねることなんかできない。そこまでダイレクトに言わなくてもいいだろうけど、お泊まりめいたことを口にした瞬間に「スケベな女やな……」とか思われたら死にたくなる。いや、したいことがスケベだって言われりゃ、そりゃスケベなんだけどさ! そうじゃなくて……ああ、混乱。
ゆえに、唸り声をあげそうになっていたときだった。わたしを落ち着かせる、ふんわりとしたぬくもりと優しい香りが肩の上に落とされて、胸がときめいた。
侑士先輩がジャケットを脱いでわたしにかけてくれていたのだ。

「あ、いや、そういう意味じゃなくて!」涼しいとは言ったけど、寒いわけじゃなかったのに。
「ん? そない慌てんでもええやん。それに今日の伊織はセクシーすぎやわ」
「え……」

ずっと「かわいい」しか言ってなかった侑士先輩の口から、「セクシー」という言葉がでてきたせいで、ドキッとした。
嘘……侑士先輩、わたし、セクシーですか!?

「あんまり人に見せたないし、風邪ひいても嫌やしな?」
「あ、ありがとうございます……あったかい、すごく」

人に見せたくない? それ、わたしを独り占めしたいってことです? ひゃああああもうもうもう侑士先輩、ずるい! わたしは侑士先輩を見せびらかしたいですけど!
ああ、しかも先輩のジャケット、いい香りすぎたんだ。思いきり嗅ぎたかったけど、ひかれると思うとできなかった。ああでも、あの香りに抱きしめられながら眠れたら……うう、死ねる。

「ん、よかった。もうすぐやな? 家に帰ったらすぐお風呂に入るんやで?」
「も、侑士先輩、お父さんみたいなこと言わないで」心配性というかなんというか……面倒見のよさに笑ってしまう。
「思ったより伊織の肩、冷えとったから。さっきキスしたとき、ちょっと気になっとったんや。ずっとベランダにおったせいやろな」

優しい笑顔で、そっと肩を包んでくれた。
いまなら聞けるかな……と、思った。ムード抜群だし、なにより、セクシーって言われたし。

「あの、侑士先輩」
「ん?」
「その……さっきのその、あの」

あと数メートルで、家についてしまう。しどろもどろになりながらも、こんなモヤモヤを残したまま終わりたくはなかったから。

「お、伊織……そうか。覚えとってくれとったんやな」
「え」

伏せていた目をあげると、侑士先輩がじっとわたしを見つめていて、鼓動が早くなった。
先輩もさっきの話のつづきをしようとしていると、確信したからだ。
「ずっと」の意味……。ああ、侑士先輩も同じ気持ちなんだ。だって、「セクシー」だって思ったんですもんね!?

「ぷはっ、かわいい顔しよって」

が、緊張感MAXの状況だというのに、先輩はどういうわけか、吹きだしたのだ。
ちょっと待ちなさいよ君……って、どこかの部長が言っていたようなフレーズを思い浮かべてしまったよ。
笑うとこ!? めちゃくちゃ緊張してるのにっ! ひどい!

「そ、そんな、笑わなくたって……」
「ごめんごめん、やって伊織……ちょお、ガン見しすぎちゃう? 目え閉じてや」
「え……?」なん、なんで? すごい大事な話するんでしょ? いまから。
「そんな見開かれてたら、キスしにくいやん。緊張してんの? かわいいな」

ふんわり微笑みながら、また、「かわいい」と、子ども扱いされる始末。
そっちか……と、嬉しい反面、若干の落胆であった。そうだった、「キスしよう」って約束していたんだ。
ああ、それなのに……セクシーなお誘いかと思ったとか……やっぱり助平か! うっかり八兵衛ならぬ、やっぱり助平! 語感よし、行ってよし! これぞ氷帝! じゃないっつの。うまいこと言ってる場合じゃないのよわたし。
うう、侑士先輩に感化されすぎだ……心のなかでノリツッコミして、なんなの。

「すみません、まだ、慣れなくて」

半分嘘で、半分本当のことを言いながら目を閉じた。
自分を落ち着かせるのに、そう時間はかかっていない。いいんだ、ガッカリすることじゃない。侑士先輩とキスできるってだけで夢のような話なんだから。

「いっぱいチュウしとるのに……ホンマにかわいい、伊織」

「かわいい」を強調しているような優しいキスで、その日は終わった……。





「こっちのグレーもいいけど、このピンクもいいだろ? だから悩んじゃってるわけ。女子からしたらどっちがかわいい?」
「……ん」

マジでどっちでもいいと思いながら、わたしと兄は家電量販店にいた。5日前のことを思いだしていたから、兄の話をほとんど聞いていなかったけど、どうやら兄は彼女の誕生日に、マッサージ器をプレゼントしたいようだ。
最初に聞いたときは、「はあ!? なに考えてんの!?」とキレかけたわたしだったが、よくよく聞くと、ふくらはぎのむくみを抑えるというフットマッサージャーだった。兄いわく、「エロいことばっか考えてんのはお前だろ」というわけだ。お恥ずかしい限りである。

「グレーでいんじゃない?」ピンクはかなり、目に痛い。
「でもピンクもいいと思うんだよなー」
「じゃあピンクにすれば?」
「お前ねえ、冷たすぎるだろ。彼氏以外の男にも優しくしないと、いつかその本性がバレて振られるぞ?」

いちいち彼氏の話を持ちだしてくる兄にうんざりしながらも、無事に買い物を済ませ、わたしたちは帰路についていた。
しかし誕生日に家電をプレゼントする20代の彼氏ってどうなんだろうか。まあ彼女がほしいものかもしれないし、兄と彼女がどうなろうがわたしにはまったく関係ないのでどうだっていいのだけど……ああ、わたしも侑士先輩の誕生日プレゼント、本当になんにしよう。今日がチャンスだったのに、なにも思いつかないから、なにも買えなかったじゃん……。

「で? お前はなにを悩んじゃってるわけ?」
「別に……悩んでないってば」

兄は母と同じく、非常に目ざとい。わたしの気分の浮き沈みをだいたい言い当ててくるので、それがまた鬱陶しいとさえ思ってしまう。

「ていうかさあ、お兄ちゃんなんでそんなこと知ってんの」
「ああ、彼氏の話? 竜也からの」
「ぐわ、そっちか……」

うちの兄は千夏とも仲がいいので、その可能性もあると思っていたけれど、竜也が発端だったとは。彼にも、兄がいる。そして偶然にも、彼の兄とわたしの兄も同級生なのだ。
どんだけ同じ時期に子どもを生むのだ、うちの母姉妹は。

「前にしれっと聞いてきた色気の話か?」

大人になったねえ、と、親戚のおばさんのようにつぶやいている。
兄には以前、色気とはなんぞやという話をしてしまったことがある。それで、「イチャイチャしたいとヤリたいは別」とか言われて悩んでいる部分もあるっちゃあるのだけど、今日わたしが起こしたマッサージ器への勘違いで、兄はさらに目ざとくなってしまった。

「いや……違うよ、誕生日プレゼント」

とはいえ、そんな話を兄妹でする気には当然なれないので、さくっと話題を変えた。正しくは、色気とプレゼントで悩んでいるのだけど。

「え、お前も?」
「うん。先輩ももうすぐ誕生日だから」
「なるほど。じゃ、ひとつしかねえじゃん」
「え?」

空が夕暮れに近づいてきていた。兄を見あげると西日が差して、逆光になっている。でもその西日と同じくらい、兄の顔はまぶしかった。しかも、足を止めている。
なんだその、少女漫画みたいな立ち振る舞いは。気持ち悪いからやめてほしいのだけど、兄はいたって真剣に、すっとわたしの左手首を指さしてきたのだ。

「その腕時計、彼氏からもらったもんだろ?」

まんまと言い当てられて、ぎょっとする。なんでそんなことを、知っているのか。思わずさっと手で覆うように腕時計を隠したけれど、逆にバレバレだった。兄が、ケタケタと笑いはじめる。

「隠さなくてもいいだろー? いいセンスしてるな、お前の彼氏」
「そ……」そこは否定しない。だって侑士先輩って本当に素敵だから。きゅん。
「16歳がするにしちゃ大人っぽいし、それ、そこそこ値段するしな。お前が自分のためにそんな小遣いをはたくとも思えない」
「や、やっぱりこれ、高い?」

侑士先輩に悪い気がして、ネットで調べたりはしないようにしてたけど、高そうだなとは思っていた。どのくらいするんだろう……でも兄に聞くのも悪い気がする。
先輩を気遣ってか、兄は、さあな? と言いながら歩きだした。

「高校生には高級品だろ。だから、お前が先輩にあげるモンもそれしかない」
「え、あ、え、腕時計?」
「お前、それ大事にしてんだろ?」
「そりゃそうだよ、もちろん」わたしの宝物だ。こんなに大事にしている物はない。
「先輩も大事にしてくれると思ってお前にあげたんだと思うよ? ってことは、先輩が同じものもらっても大事にしてくれる。それに、同じモンあげるのってなんかよくね? お互いの腕時計、お互いがあげたモンとか」

わたしは兄が大好きでもなければ大嫌いでもない。弟にたいしても同じで、兄弟は兄弟でしかないと思っている。お兄ちゃんらしいと思ったこともなければ、頼りになると思ったこともあまりない。だけどどうしてだろう、そんな兄が、大きく見えてくる。今日のこの発言ばっかりは、100点をあげたかった。なんて、上からすぎました、ごめんなさい。

「お兄ちゃんって……お兄ちゃんをたまに発揮するんだね」
「お前な……」目を棒にしている。
「ね、ねえ、どういう腕時計がいいかな!? カッコいいの知ってる!?」
「あー? それは自分で考えろよ。そうじゃねえと意味ないだろが」

いけず……と、侑士先輩のようにつぶやきかけたときだった。兄の兄らしさに感動していたわたしのバッグから、着信音が流れてくる。
はっとしたときには遅かった。ニヤニヤした兄の顔が、思いっきりわたしの表情を伺っていたから。

「おっとー? 噂をすれば彼氏だろ?」
「う、うるさい」
「おい、なんだよそのラブソングは? ん?」
「うるさいっ!」

侑士先輩用の着信音は『Feel Like Makin’ Love』だ。しかもD'Angeloバージョン。まあこんな話はさして重要じゃないからいい。セクシーな黒人が歌ってるってだけ。また、この声がボソボソとつぶやいてる感じで、侑士先輩っぽいんだよね。声は高いけど。
兄がいるというのに、顔がニヤけそうになる。なんとか歯を食いしばりながら、わたしは電話を受けた。

「もしもし!」
「……伊織、でてくれた」
「え……?」

ひゅるっと、秋の風がわたしの前髪を揺らした。胸がざわつくような、生あたたかさを持っている。いつもなら、「おう、伊織。なにしとった?」と、優しく話しかけてくる侑士先輩の声が、消え入りそうだったから……。

「侑士先輩? どうかしたんですか?」
「……ん? なんもないよ。部活が終わったから、無性に伊織の声、聴きたなってん」

なんもない、とは思えなかった。言葉に詰まっているというよりも、想いをはきだすことを躊躇っているような、悲しい響きが伝わってくる。

「……ちゅうか、俺さ」
「う、うん?」
「……いますぐ、伊織に会いたい」
「え」
「……いますぐ、伊織を抱きしめたい」
「え、あの」
「……いますぐ、伊織にキスしたい」

ほとんど絶句しかけていたけれど……わたしは、弾けるように走りだした。うしろからわたしを呼ぶ兄に、「ごめん!」と叫びながら。

「すぐに行きますっ」

侑士先輩のマンションまで、ただ必死に、走った。





あんな侑士先輩の声、聞いたことがない。とても冷静ではいられなかった。
いつだって、先輩が愛情たっぷりなのはたしかだ。だからあんなふうに愛をささやくことが、めずらしいわけじゃない。
だけど、だけど今日のは、いつものそれとは、絶対に違う。なにかあったんだとしか思えない。

「はあ、はあ……ダメだ……運動不足すぎ」

普段から運動をしていないわたしである。全速力はどれほど頑張っても10秒ほどしかもたない。その後もなんとか走っているものの、3分を過ぎるとよれよれとしはじめた。
でも、もう少しで侑士先輩のマンションにたどり着くから、頑張ろう。歩いてもあと数分だろうけど、1秒でも早く侑士先輩のもとへ行きたい。
というのに、体が動かない。額の汗をハンドタオルで拭きながら両膝に手をつく。背後から足音がしたのは、そのときだった。
わたしは、特別に耳がいいわけじゃない。でも、前にも言ったが、足音は個性だ。わたしがこの足音を、間違えるはずなんてない。

「侑士先輩?」

振り返って名前を呼ぶと、テニスバッグ片手にうなだれながら歩いていた先輩の頭が、さっとあがった。一瞬、その足が止まったけど、すぐに動きだした。わたしとは比べ物にならないほどのスピードで。

「伊織……っ」

あっという間に目の前まで来た侑士先輩が、テニスバッグを放り投げて、強く抱きしめてきた。たくましい二の腕が包んでくる力は、いつもより、ずっと強い。
どうしたんだろう……本当に、なにがあったの、侑士先輩……。心配だよ。

「侑士先輩……」
「めっちゃ早いな伊織……急いで来てくれたん?」
「だって……いますぐ、会いたいって」
「ん、会いたかった。わがまま言うて、堪忍」
「そんな、わがままじゃないよ……」

少しだけ体を離して見あげると、その瞳がわずかに揺れていた。どうしてそんなに切なくなっているんだろう。
部活で嫌なことでもあったんだろうか。跡部先輩と試合して負けたとか? ううん、侑士先輩はいつも悔しがるけど、それでもこんなにつらそうな顔をしない。
心配でたまらなくなった。だけど、見つめれば見つめるほど、侑士先輩の表情は、穏やかに変化していった。
ああ……彼は、こういうとき、それがすごく残酷だって、気づいていない。

「なにか……あったんですか?」
「なんもない」ぶんぶん、と首を振った。「部活、疲れてん。癒やされたかっただけや」
「本当……?」嘘だ、嘘に決まってる。
「ん、せやから伊織に会って、伊織のご飯食べて、伊織とイチャイチャして、ええ気分になりたかったんよ」

最後には、笑顔になった。いつものポーカーフェイス。こんなときにまで、使ってくるなんて。これ以上は……問い詰めたところで、答えてくれるはずもない。少しだけ、情けない気持ちになってくる。
だけど、先輩はそういう人だよね……心のなかを伏せて、わたしを気遣ってくれてるんだ。心配させないように。それが彼の、優しさでもあるから。責めることなんて、できない。

「うん……わたしも早く侑士先輩に会いたかった」
「ホンマ……?」
「本当。じゃなきゃ、こんなに汗だくで来たりしませんよ。あ、ごめんなさいっ。ベタベタしないかな」
「ははっ。全然、平気や。伊織の汗やったら、浴びたいくらいやわ」
「な……ちょ、ちょっと変態っぽいよ侑士先輩」
「男はみんな変態ですー」
「もう……あ、お腹、空いてるんですよね? このまま、お買い物する?」
「おう、そやな。そうしよか」

笑いながらテニスバッグを持ちあげて、わたしの手をそっと握る。スーパーに行き、マンションに帰るまでの道のりは、いつもと変わらない時間が流れていった。

「今日は侑士先輩になにしてもらおっかなー」
「俺も伊織のおかげで料理うまなかったからな。なんでもやるで」
「ふむふむ。じゃあ玉ねぎのみじん切りやってもらおうかな」
「ああ、あかん。俺な、死んだばあちゃんが玉ねぎ好きでさ。ばあちゃんの魂、玉ねぎに入っとると思うんよね。せやから玉ねぎを切ることだけはできへんねん」
「ええっ。玉ねぎのなかにおばあさまが……じゃないんですよ、先輩」
「おおー、伊織、かなり上達しとる」
「まったく……おばあさま亡くなってないですよね?」
「ん、縁起悪いな? 今度ばあちゃんに会ったら謝っとこ」
「たぶん余計に怒られますけどね」
「んん、伊織、ツッコミもうまなってきとる。鍛えた甲斐あるわあ」

いつもどおりの笑顔。いつもどおりの穏やかな声。先輩はわたしを安心させようとしてくれている。だから、冗談を言いあって、笑いあって、隙間なく体をくっつけて。なにごともなかったかのように、振る舞った。侑士先輩が、そう望んでいるとわかるからだ。
だからなにも、話さなくてもいい。詮索はしない。わたしはいつまでも、あなたに好かれる彼女でいたいから……。

思いがけず真実を知ることになったのは、そこから数時間後のことだった。





to be continued...

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