08_欲求


8. 欲求


打ったボールがバウンドして戻ってくる。何回やってもピンポイントで同じところに当たるのを見とった後輩たちが、「すげえ」とつぶやいた。
すごない……こんくらいできんと、レギュラーにはなれへんで? 手塚ゾーンとか勝手にこんなことになるんやで? どんな魔法やねん。ちゅうか、ああいうときみんな、当然のように「無我の境地だ!」「百錬自得の極み!」とか言うけどさ……それ、有名なやつ? その名前はいつからついとったん。なんとかごまかしてノッたけどさ、ツッコミどころ満載やで……。
跡部とか俺はそのへんわかりやすい。自分で言うもんな。「氷の世界」とか、「SSAS」……いやいや、それもどないやねん……とか、関係ないことまで言いたいところけど、口をつぐむ。
ちょっかいかけたら、「忍足先輩、ご指導お願いします!」って言われるのが目に見えるからや。そうなったら面倒くさい……ちゅうわけで、俺は心を閉ざしたまま壁打ちをつづけた。
跡部の誕生日会から、5日が過ぎとる。休日にはいつも伊織が傍がおるのがあたりまえになった日常に、今日ほど気合いの入らん日はない。

「さっきからなんなんだよ、てめえのその覇気のねえ顔は」
「ええねん跡部、俺のことなんか気にせんと、日吉でもかまったりいや」
「あいつはいまジョギング中だ」
「はあ、さいですか」

雲ひとつない青空。気持ちええ土曜日……こんな日に個人練習とか、どんな予定にしてくれとんねん、と、文句のひとつでも言いたくなる。せやけど、そろそろ俺らも引退やし、もうすぐ試合もあるもんやから、つべこべ言うたらまた跡部にどやされる。
いや、ホンマは……個人練習なんやから、わざわざ来る必要はなかったんや。勝手にやりたいヤツだけ学校に来てやったらええよーってことなんやから。けどそれは、このご時世ならではの表向き。レギュラーやない人間がどんだけサボっても言われんやろうに、このテニス部で休むヤツなんてほとんどおらへん。そんなんでレギュラーの俺がサボったら、なに言われるかわかったもんやない。こっそりブラックや。

「そんなにやる気をなくすくらいなら、佐久間を呼びゃよかったじゃねえか」
「ええねん、伊織やってたまにはひとりになりたいんや……たぶん」

そう、個人練習の日はマネージャーは不参加でもええ、という決まりがある。せやけど千夏ちゃんは今日も当然のように来ることを、俺は知っとった。実際、来てはるし。いまもなんや、コートの外で部員たちのドリンクを整理しとる。

「ん……? つうことは、今日の不参加は佐久間から言いだしたのか?」
「……」うっさい、それ以上は聞くな。
「……忍足お前、佐久間になにかしたのか?」
「なんもしとらんわ。しとらんけど来うへんって言われて、個人練習日やのに、強引に来いとも言えんやんけ」

それに、ちゃんと夕方に会う約束しとるしっ。
けど……ホンマに、なんで今日、来てくれへんのやろ、伊織……いつもやったら、「もちろん行きます!」って言うてくれとったのに。

「ほかの男とよろしくやってたりしてな?」
「お前ホンマそれ以上は殺すで」
「おっかねえ。冗談もつうじねえか、忍足よ」
「つうじへん」お前の冗談がそもそもつうじへんのに、お前の冗談で伊織のこと言われてつうじるわけないやろっ。「伊織のことは、とくに、や!」

やれやれ、とボヤきながら、跡部はくるっと背中を向けた。そうや、あっち行ってほかの練習せえっちゅうねん。俺はいま、壁打ちでぼうっと考えごとしてんねん。
たしかに……俺は昨日、伊織との電話で、「たまにはゆっくりしてもええんやで?」とは、言うたよ? 言うたけどもやな……。

――そうですよね、たまにはゆっくりしようかな。
――え。
――え?
――ああ、いや、うん、せっかく、学校もないのに、わざわざ学校に来るの、億劫やもんな?
――ふふ。じゃ、せっかくだから休んじゃおう、そうします!

「侑士先輩に会いたいから行きますよ」とか「侑士先輩がいるのに、億劫なわけないじゃないですか」とか、期待しとった俺がおる。いや、自分で言うたよ、言うたけど……やっぱり寂しい。伊織にゆっくりしてもらいたいのはホンマやったけど、あんなん、ただカッコつけただけやん! わかるやん!
それに、それに結局、俺はまだ、はっきり伊織に伝えきれてへん。伊織を、抱きたいって。俺がそんな情けない感じやから、伊織、いよいよ俺に愛想つかしはじめたんちゃうかとか、変な勘ぐりをしてしまう。

「おい忍足……あれ、誰だ」
「は……?」

ああでもない、こうでもないと考えとったときやった。背中を向けてすっかりどっか行ったはずの跡部が、めっちゃキレそうな声で俺に話しかけてきた。
いやいや、まだおったんかーい! とツッコむこともはばかられるような声やったで、気になって振り返ると、ただ一点を見つめて顔が怒り狂っとる。

「どないしたん跡部、そんな怖い顔して」
「あれは誰だと聞いている」

跡部の視線を追って、俺もその方向を見ると、コートの外におる千夏ちゃんが、なんや大学生くらいの兄ちゃんに話しかけられとった。
はあ、なるほど、と思う。そら跡部の機嫌も悪くなるはずやわ。こいつ、めっちゃ嫉妬深いから。まあ、俺も人のこと言えへんのやけど、さ。

「俺に聞かれたってわかるかいな。んー、まあ推測するに、ナン」
「だよな。あれはどう見ても千夏がナンパされてんだな!?」めっちゃ食い気味。
「いや、わからんで? ただ道を聞いて」
「ここでわざわざ千夏に話しかけて道を聞く必要がどこにある!」

跡部はカッカしながら、その怒りを全身で抑えるように歩きだした。あーあー、面倒なことになってきたで千夏ちゃん、あかんって、そんな笑顔をたやすく振りまいたら。

「待ち待ち、跡部、ちょお待ちって……」
「うるさい、あれが待てるかっ。てめえはなんでそんなに冷静なんだ忍足っ」

闊歩する跡部にうしろからついていった。こういうときは、俺が止めに入ったらなあかん。跡部が爆発しそうなときに止めるのは、中学んときからの俺の役目や。
ちゅうかな、なんで冷静なんって……そら、あそこにおんの千夏ちゃんやし、俺の知ったことやないからに決まっとるやろ。とか、声にだしたら殴られるやろで、黙っとく。

「跡部って、少し落ち着」
「落ち着けるか、バカがっ!」

なんで俺がバカとか言われなあかんねん。
ずんずん足音を立てながら向かっていく跡部の髪の毛が逆立っとるように見えるのは、俺だけなんやろうか。あかんな。想像以上にキレてはる。

「おい!」
「うわあっ! びっくりした、なに景吾!」
「ちょ、跡部、待ち……!」いきなりそんな声かけないやろ。大学生のお兄さんもびっくりしてはるやんっ。
「貴様……っ!」
「ちょーーーーーーーっと待った景吾!」

お兄さんが顎を引いて跡部を認識した瞬間のことやった。千夏ちゃんが、お得意の大声を張りあげて跡部を制する。おお、さすが跡部の彼女や。すぐに状況察知したんやろう。

「なんだ!」
「なんか勘違いしてる! こ、この人は景吾が思ってるような人と違うから!」

千夏ちゃんは頭の回転が早い。跡部がいまから食ってかかることを理解しとった。その千夏ちゃんの声に、今度は引いとったお兄さんが「ああ」と声をもらして、微笑んだ。こっちも頭の回転が早いんか、跡部の様子が尋常じゃないからか、すぐに状況を理解したんやろう。

「そうか! 千夏ちゃん、彼と付き合ってるんだよね!」
「そうなの、ごめんなさい、ちょっと誤解しちゃってるみたいで……」

物腰の柔らかい話しかたで、女にめっちゃモテそうなお兄さんやった。どういうわけか、どっかで見たことがあるような、懐かしい雰囲気。それと同時に、おかしな違和感が俺のなかに入ってくる。なんでや? なんか、しっくりけえへん。

「……おい、千夏」

すんでのところで冷静になったんか、跡部からは怒りのオーラが消えた。切り替えが早い。たぶん、千夏ちゃんに止められたからやろうけど。跡部のヤツ、千夏ちゃんにはとことん弱いからな……。

「ああ、うん。紹介するから。あのね景吾、彼は……」
「はじめまして、跡部くん。小野瀬の兄です」

はっとしたのは、跡部だけやない。俺もやった。小野瀬の兄ちゃん……そういえば小野瀬が、個人練習を見に来るって言うとった。せやからか、と合点がいく。どこかで見たことがあるような懐かしい雰囲気は、小野瀬に少し似てはるからや。せやけど……違和感は、なんやろか。

「小野瀬……1年の?」
「そう! 伊織のいとこだよ、覚えてるでしょ?」ほら、いろいろあったし……と、千夏ちゃんが俺をチラ見した。ああ、すんませんね、ご迷惑おかけして。
「はじめまして、忍足侑士です。ほれ、跡部も挨拶しいや」
「はじめまして、部長の跡部景吾です」

軽い挨拶と握手をすると、千夏ちゃんはペラペラ話しはじめた。要約すると、小野瀬だけやなく、小野瀬の兄ちゃんとも伊織は当然、いとこやで、仲がええらしい。そんで、千夏ちゃんと一緒になって遊ぶこともあったっちゅうわけで、千夏ちゃんと小野瀬の兄ちゃんも顔見知りやったということや。つまりただの世間話をしとっただけや……と。

「ほう……なんだ、そういうことか」
「うちの弟が、いつも息巻いて跡部くんたちの話をしています。お世話になっています」
「いえ、こちらこそ……じゃあ千夏、とりあえず、俺は練習に戻る」
「はいはい、頑張ってねー」

跡部は勘違いしまくった自分が急に恥ずかしくなったんか、さっさとその場を離れるように背中を向けた。
けど、俺はどうも、足がうまく動かんかった。なんやこの、わけのわからん胸騒ぎは。

「いやあ、やっぱり彼、すごい迫力とオーラだね。竜也の言ってたとおりだ」
「そうなんです、なんかすみません」
「いや、いいんだよ。愛されてるってことだろ、千夏ちゃん、このこの」
「もう、からかわないでよっ!」

親しそうな千夏ちゃんと、小野瀬の兄ちゃんのやりとりをぼうっと見つめる。千夏ちゃんとでさえ、こんなに仲がええ。当然、伊織と小野瀬の兄ちゃんは、もっと仲がええよな? いとこなんやから。

「あ、忍足くんは、伊織の彼氏なんだよね?」
「あ、はい」

どこかホッとする自分がおる。伊織から伝わったんか、小野瀬から伝わったんかは、わからんけど。知っておいてくれてよかったと、なぜか思った。

「さっきはああ言ったけど、うちの竜也、忍足くんのこと大好きなんだ。むしろ、君の話しか聞かないくらい」
「ああ、いや、恐縮です……いつも竜也くんには、お世話んなってます」社交辞令的にくいっと頭をさげると、小野瀬の兄ちゃんは慌てるように俺の肩に触れてきた。
「あ、いやいや! お世話になってるのは竜也のほうだよね。ありがとうね、いつも。竜也、ずっと忍足くんが憧れでね……だから、伊織と忍足くんが付き合って、君と近づけて、おかしなことだけど、竜也のほうが浮かれちゃってるよ」

スキンシップが自然で、まったく嫌な感じもせん。社交性が高くて、優しい人なんやろう。他人にバリアを張ってない人は、こういう雰囲気をいつも持っとる。
要するに、兄として生きてきた面倒見のよさっちゅうか。人当たりがとにかく、ええんや。せやから、弟として生きてきた俺にとっても、印象はめっちゃええはずやのに……。

「いや、俺もめっちゃええ友だちっちゅうか、後輩ができたと思ってます。光栄です」

笑って、もう一回くらい握手しよう思ったのに、思うように顔も体も動かへん。違和感が疑念に変わっていく。俺の本能的なものが、小野瀬の兄ちゃんを恐れとる。
それでも俺は、無理に笑って手を差しのべた。ニッコリと、握手を返される。

「伊織のことも、よろしくね。あの子、ちょっと変わった家庭で育ってるけど、本当にいい子だから」
「変わった家庭……?」
「ちょっと、それ……」千夏ちゃんが、じっとりとお兄さんを見あげとる。警告するような視線やった。
「あー、ユニークなんだよ、うん。忍足くんもいずれは、会うと思うけど」
「そうやろか……俺、全然、ご家族に紹介してもらえへんのです」
「あー、えっとそれは、なにかと忙しくしてる家だからね、おばさんのとこは」

ごかますような言いかたに、妙な苛立ちが湧いてくる。俺の知らん伊織を、この兄ちゃんはよう知っとる。それは小野瀬も同じなんやけど、俺のこの嫉妬心、なんなんや。いとこなんやから、あたりまえやんけ。むしろ、いとこの人らにも彼氏って認識されとることに、俺はなんで喜べへんねん。

「お兄さん」
「うん?」
「伊織が言うてました。竜也のお兄ちゃんはめっちゃカッコいいって。小さいころは、よう懐いてたみたいですね?」

俺のはったりに、千夏ちゃんが困惑した顔で見あげてくる。もうそれだけで十分にわかったけど、俺は小野瀬の兄ちゃんを静かに見つめた。優しい顔つきが、もっと優しくなっていく。昔からカッコよかったやろうなと思う。いまも好青年を発揮したイケメンや。

「ふふっ。伊織はさあ、自分の兄弟とはケンカばっかりしてたんだよ。たしかに昔は、自分のお兄ちゃんが僕だったらいいのにって、何度も言ってたかな」
「はい、その話もよう聞いてます。ものすごいかわいがってもらったって、言うてました」これも、はったりや。
「あはは、そっか。うん、僕は僕で、竜也とはケンカばかりで、おまけにうちは女の子がいないから、伊織が本当にかわいかったんだよね」本音やろう。この人は純粋に、妹みたいに接しとったんや。
「そういうん、ありますよね。うちも姉ちゃんだけで、俺が末っ子やから。竜也くんのこと、弟みたいにかわいいんです。あ、すんません、失礼なこと言うて」
「いやいや、そんな、竜也が聞いたら喜ぶよ! ありがとう、よくしてくれて」
「あ、竜也くんなら、あっちにおりますよ?」

はったりからはじまった会話で、ああ、と納得がいった。この違和感、このモヤモヤの正体は、やっぱり俺の本能が、こんなときばかりに働く勘が、全身に訴えかけてきとったんやって。

「……お。ホントだ、いたいた。行っ……ても、いいのかな?」
「もちろん、ええですよ。今日は個人練習の日やから、自由に見てってください」

はよ行ってくれへんやろうか……。そんなふうに思う醜い自分が、もう負けた気分になる。

「ありがとう! 忍足くん、会えてよかった。またね。千夏ちゃんも、また!」
「あ、はい! また!」

会えてよかった……そんな言葉が自然と出てくるか、普通……。去っていく小野瀬の兄ちゃんの背中を見て、胸がしめつけられていった。
俺よりも数倍、大人の雰囲気を持った、頼りがいありそうな男。俺みたいに、嫉妬に狂ったりせえへんで、わがまま言うたりせえへんで、包容力がめっちゃありそうな、ええ男。

「……忍足、先輩?」となりで黙って聞いとった千夏ちゃんが、途中からずっとソワソワしとることには気づいとった。それも、確信となった理由のうちのひとつや。
「……千夏ちゃん、小野瀬の兄ちゃんって、いくつなん?」
「えっとたしか……22とかだと思います。今年、大学卒業するって伊織が言ってたし」
「ん……伊織がな」
「あ、いや、まあ、ほら、いとこなんで!」

目が、泳いどる。あかんな……もうバレバレや。千夏ちゃんは、跡部のことになるとうまくやりよるけど、俺が相手やと、全然、あかんな。

「……せ、先輩、練習に戻」
「聞かせてくれへんか。俺のこの直感は、絶対に間違ってへんと思うねん」
「直感って……なん、なんですか」
「しらばっくれんでもええ、言うてくれ。ごまかすやなんて、逆に残酷やって思わへんの?」

千夏ちゃんが、体を強張らせる。なにかを探すように地面に目をやって、ごくんと生唾を飲んだ。この子は、頭の回転が早い。せやから俺の言いたいことも、すぐに理解しとるはずや。
俺はその時間を、黙って、待った。逃げられへんで? と、それが千夏ちゃんにはっきりわかるまで、待つつもりやった。

「初恋です……伊織の」
「……せやんな」

しばらくだんまりでうつむいとった千夏ちゃんやったけど、そこから動こうとせん俺のしつこさにあきらめて、白状してくれた。
思ったとおりや。おまけにあの兄ちゃんには、なんも気づかれてないままやろう……。

「小6までずっと好きやったとか?」ずっとアレが近くにおったらそうなるよな。そのころ、小野瀬の兄ちゃんは18歳。ああ、もう手にとるようにわかる。
「い、いや、それは……あたしも伊織と会ったの、中学からだし」
「でも聞いとるやろ? そんであの兄ちゃんに彼女ができて、あきらめたときに俺が目に入った」

きっとそういうオチや……せやからこそ。叶わん恋やったから余計に、心に残る。
初恋のお決まりパターンや。俺は、あの兄ちゃんと入れ替えになった……失恋がきっかけや。伊織は新しい恋で、傷心をまぎらわせたんやろう。

「そ、それはっ……で、でもいまは当然だけど、忍足先輩にゾッコンだし!」はい、いま認めたね。
「ああ、せやな。それにしても、ええ男やったな、小野瀬の兄ちゃん」
「忍足先輩、あの」
「堪忍、ええんよ、大丈夫……それよりな、千夏ちゃん」
「な、なんですかっ」

知らんでもええことを、わざわざ聞いて、確信もって、俺、なにがしたいんやろ。聞いたら後悔するってわかりきっとること、なんでや……。知りたいけど知りたない。でも、聞かずにおれんのは、なんで?

「伊織、いつから好きやったんやろ? あの人のこと」

ぐ、と千夏ちゃんが言葉に詰まる。絶対、話しとるよな。中学のときに出会ってから、ずっと親友やっとるんや。跡部や俺に恋する前はどんな恋しとったんか……そういう話でもちきりやろ、あの年頃の女子たちは。

「教えて?」
「そんなの聞いて、どうす」
「わからん。でも知りたいねん」
「忍足先輩……」じっと千夏ちゃんを見おろすと、彼女はため息をついた。そうや、千夏ちゃん。知っとるやろ? 俺、めっちゃしつこいねん。「……気づいたらだって、言って、ました……」

ああ、しびれる。Mなんか俺。けどこれは快感とはほど遠いわ。胸に針でも刺さったんちゃうかと思うくらい、痛い。

「ははっ、せやんな? 小野瀬とも、生まれたときから一緒やって言うとったし。せやな、さよか、気づいたらな。まあ初恋ってそういうもんやんな。ん、ずっと好きやったんやな」
「ちょっと、忍足先輩っ……忘れてません? 伊織は、中1のころからずっと、忍足先輩のこと好きなんですよ?」

乾いた笑いかたをする俺を見て、千夏ちゃんは必死になっとった。
いや、わかってんで。初恋やなんて、誰にやってあることやし……そんなん、俺の過去やなんて、伊織以外の女と濃厚接触しまくってきとるのに……自分のことは棚上げか。
せやけど、めっちゃ胸が痛いんや……。

「わかっとるって、ええねん。ちょお気になっただけやから」

そのとき、跡部の声がコートから響いてきた。

「忍足! いつまでサボってやがる! 俺の相手をしろ!」
「ああ、はいはい。いま行くわー」
「忍足先輩っ」
「堪忍な千夏ちゃん、大丈夫や、安心して。ほなね」
「だって、忍足先輩……!」

千夏ちゃんの言いかけたことも聞かんと、黙ってコートに戻った。
その目の端に、小野瀬兄弟が楽しそうに会話しとるのが見えた。目があって、小野瀬の兄ちゃんが俺に会釈する。俺も、会釈を返した。また、胸が痛くなる。
自分勝手やってわかっとっても、どうしても、どうしても……伊織は俺だけのもんにしたい。それはいまだけやなくて過去もって、俺、どんだけ勝手や。わかっとる。
けどな、伊織……俺の初恋は、お前やから。

「だって……忍足先輩……泣きそうなんだもん……」

遠くでかすかに聞こえた千夏ちゃんの声は、俺には届かんかった。





まともに人のことを好きになったこともなくて、体ばっかり成長して、やることだけは一人前にやって。これまで、そういう汚れた自分が嫌になったこともない。
けど、伊織と付き合いはじめてからは、自己嫌悪に襲われることがある。今日なんか、とくに。あんなにキラキラした好青年……それが伊織の初恋なんや。ちゅうか、伊織は……俺とは違って、俺以外の男を、真剣に好きになったことがあるんよな。

「侑士先輩、寒くないですか?」
「ん? 寒ないよ? なんで?」

小野瀬の兄ちゃんのおかげで、醜い嫉妬心と歪んだ伊織への疑心に完全に自己嫌悪に陥った俺は、みんなより少し早めに部活を終えて、伊織に会いに行った。必死やった。
めっちゃ会いたかった。不安でたまらんかった。伊織が俺のこと、ちゃんと好きやって、信じとるのに……。
小野瀬の兄ちゃんの口振りから、いまも伊織と仲ようしとることがわかったのもある。そらそうやろ、いとこなんやから。と、何度も自分に言い聞かせても、ブルーや。

「練習あとだし、汗が冷えると、よくないなあって」
「ふふ。伊織は優しいなあ?」

今日、練習に来んかった伊織。その来んかった理由が……ひょっとして小野瀬の兄ちゃん来るってわかっとったから? それを俺に見られたなかった? まだ小野瀬の兄ちゃんに淡い気持ちがあるんやない? とか、死ぬほど疑いかけて、また自己嫌悪する。そのくり返し。
伊織が俺だけのモンやって、確信したかった。せやから俺は、伊織を電話で呼びだした。
変な空気を感じたんか、伊織が急いで来てくれたことが、めっちゃ嬉しいて。

――わたしも早く侑士先輩に会いたかった。

伊織を強く抱きしめながら、俺は心のなかでめっちゃ謝った。

「風邪ひいちゃったら、大変だもん」
「ほな伊織が、その状態でぎゅうってして?」

スーパーでの買い物を終えて、チャリのニケツで俺のマンションまで帰る。俺の肩に手を乗せてうしろに立っとる伊織は、黙って、ホンマにぎゅっと抱きしめてきた。
せやんな……伊織はさっきから、ずっとなにか感じとるよな。俺かて、あんな電話して、伊織をごまかしきれるやなんて、思ってへんけど。

「めっちゃ、あったかい……」
「よかった……」首に巻きついてくる伊織が、めっちゃ愛しい。「あ、侑士先輩、今日の晩ごはん、予定変更してお鍋にする?」
「え、今日の材料でいけるん? 俺は全然ええけど……」俺の身も心もあっためようとしてくれとるんやと思うと、ちょっと泣きそうや。
「いけます、大丈夫。洋風の、ポトフみたいにしちゃおう」
「おおー。さすが伊織や。めっちゃ楽しみ」

なんも気づいてない振りをして、あかるく無邪気に笑って。伊織はたった一度きり、なにかあったんですか? と聞いてきただけやった。
「癒やされたかっただけや」の返事に、納得しとるわけがない。それやのに、そっとしといてくれるのは、伊織の優しさや。俺のことを、誰よりも理解してくれとる。

「じゃあ、つくっておきますから、侑士先輩はそのあいだにお風呂でも入ってきちゃってください」
「ええの? 玉ねぎのみじん切りは?」
「あはは。予定変更だから、大丈夫。お鍋にみじん切り入れないでしょ?」
「ああ……そうやんなあ? おおきに。ほな、お言葉に甘えさせてもらうな?」
「今日は先輩だけ疲れてるんだから、いいんですよー」

部屋に入ってエプロンをつけた伊織が、奥さんみたいにニッコリ笑う。ああもう、絶対に俺が将来、伊織を奥さんにしたるねん。
伊織をぎゅっと抱きしめてから、風呂場に向かった。汗と一緒に邪心も洗い流したい。熱いシャワーを、頭からひたすら浴びつづけた。

「ほんま、情けな……」

伊織を俺だけのモンにしたい……風呂に入って裸になって、さらに想いが強くなる。
俺だけのモンやって、周りは言うかもしれへんけど……初恋の男なんか見てしまった俺としては、もう伊織の一生を俺にしたいと思うくらいまで、伊織に惚れとるんやって気づいた。
相手も悪かったよな……あんな、俺とは正反対の汚れない感じとか……。

「はあ、カッコよかったなあ……小野瀬の兄ちゃん」

シャワーの音に、ひとりごとがかき消されていく。
さんざん女と寝てきて、伊織を責めれる立場やないのに……なんで俺だけやないんや、とか、めっちゃ勝手な思いが何度も湧きあがってくる。せやかて、俺は好きになった女、伊織しかおらんのやもん……伊織はふたり目やん……。
んん……じゃあ逆に、伊織がさんざん男と寝てきて、俺が初恋やったらええんか? いやいや、それはあかんやろっ! そんなん絶対あかん、想像だけで気が狂いそうや。
まあつまり、どっちにしても、俺は勝手やっちゅうことやな……はいはい、わかってました。

「あ、先輩、もうすぐできますよー」
「んん……ホンマ、ええ匂いしてるわ……」

頭を乱暴に拭いてから、自分を律するためにも顔をパシパシ叩いた。
脱衣所から出ると、すぐにええ匂いが鼻をくすぐった。キッチンにおる伊織が俺に気づいて、振り返るように声をあげる。
ホンマに俺の奥さんみたい……もう、めっちゃ愛しい。うしろからそっと近づいて腰を抱くと、伊織が小さな悲鳴をあげた。はあ、かわいすぎ。

「ひゃっ……先輩、あぶないよ」
「ぐつぐつええ匂いなんやもん……覗きたいやん」

もちろんそれも嘘やないけど、単に伊織に触りたかっただけ……そんなん、伊織も気づいとるやろけど。

「ふふ。あー、侑士先輩も、いい匂いがするー」
「ん、シャンプーのええ匂いやろ? こないだから伊織とおそろいやねんで?」
「うんうん、わたしがおすすめしたヤツだ。侑士先輩のは、香りが違うね?」
「せやねん。髪質の違い? とか、美容師さんが言うてはった。あと、シャンプーだけでええって。トリートメントせんでええらしい」

それは、美容室でしか売ってないシャンプーシリーズやった。どうやら、伊織はお母さんの影響を受けとるらしいけど……わざわざ売っとるとこにまで顔をだして、カウンセリングしてもらったわ。
伊織と同じシャンプー使ってると思うだけで、ずっと一緒におれる気になるし。はは、俺ってめっちゃ乙女……。

「たしかに、先輩の髪の毛、綺麗だもんね! 効きすぎちゃうのかな?」
「伊織の髪の毛も綺麗やで……? 俺には効きすぎ……すんごい効能」
「ふふっ。もう、恥ずかしいなあ」

首筋から香る、ほのかなコロンの香り……俺の伊織……。
さらさらとした髪の毛を梳くように指を入れていくと、伊織の顔が赤くなる。愛撫しとる気になって、無性にキスしたくなった。
ええんよな? 俺、彼氏なんやから。したいときに、キスしても。

「ひゃっ……!」ぐいっと、伊織の体を無理やり振り向かせた。「ゆ、侑……!? ン……」

なんも言わんまま、俺は伊織の唇を貪った。舌を絡めて、角度を変えて……夢中になって貪った。
伊織は菜箸を持った手をどうすることもできずに、そのまま固まった。ときおり苦しそうな、それでいて甘い吐息が口からもれる。

「ン……はあっ」

その色っぽい声が、俺の欲情を一気にかりたてた。
あかん……もう、待てへん……。俺だけの伊織にしたい。伊織の頭のなかから、過去の恋を消して、俺だけにしたい。

「伊織……」
「ン……侑士、先輩……っ?」

唇を離して、伊織をじっと見つめた。俺の体がすっかり火照って、伊織のつくった料理よりも、なによりも、目の前におる伊織だけを欲しとる。伊織も前からそのつもりやったって……そうや、跡部が言うてたやん。俺、それだけは都合よく信じとるねん……。
もう、勢いしかないって、頭のなかで合図した。俺は伊織の腰を強く引き寄せて、無言で伝えた。

――お前がほしい。

ひゃっと、喉の奥から、怯えたような、つっかえた声が飛びだした。同時に、ガタン、と虚しい音が響く……。一瞬で、くっついとった体が離れた。
俺の存在を腰に感じた瞬間に、ビクン! と体を震わせた伊織は、逃げるように……俺から、離れとった。

「あっ……」

それは、はっきりとした拒絶やった。頭で考えるよりも先に、体が勝手に……そんなふうに見えたけど……勝手な俺の欲望は、一気に消沈した。
変な間が流れたのは、そのわずか数秒のことやった。伊織がはっとして、声をあげるまで。

「あっ……ち、ちがっ……!」
「ん、やっぱり伊織がつくったのは、いつ見てもめっちゃうまそうや」
「え……」
「やってええ匂いもそうやけど、彩りもええし……な?」
「侑士先輩……」
「はよご飯しよ。腹が減ったわ……俺、テーブル準備するな?」

伊織の頬に軽くキスして、さっと背中を向ける。こんな顔、もうこれ以上は見せられへん。カッコ悪……なにやってんねん俺……。勝手に嫉妬して、勝手に独占欲まるだしにして、勝手に興奮して、いきなり欲望を伊織に押しつけるとか……めっちゃ恥ずかしい。
伊織になんて思われたやろ……ああ、めっちゃ怖い……嫌われとるかもしれん、もう、最悪や。

「侑士先輩、あの……」
「伊織、なに飲む? さっきポカリも買ったし、こないだのコーラも残っとるで」

伊織に気を遣わせたなかった。俺が悪い、俺が悪いんやって、何度もそう頭のなかで唱えながら、機嫌ええように振るまって、テーブルの準備を進めた。

「どないしたん、はよ食べようや。あー、鍋やし、お茶でええかな?」
「え、あ……うん」

それでも……伊織が俺を拒絶したという事実だけは、頭に、しつこく残った。





to be continued...

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