09_愛の居心地





9. 愛の居心地


息をするのも苦しいくらい、強引なキスだった。ゆっくりと転がる侑士先輩の舌が、唇を塞ぐように入ってきて……あまりに突然すぎたから……どうしていいのかわからなくて。
刹那のことだった。予想もしてなかった硬い熱が、わたしの中心に触れた。前に押しだされるように腰を強く抱かれて、なんだか急激に怖くなって。

――あっ……。

ガタンッ、と音がするほどに、わたしの体は侑士先輩の熱を避けた。驚いたから? もちろんそれはある……だけど、こんなにはっきりとした拒否をしたかったわけじゃない。
だってあれはずっと待ってた、侑士先輩からの、合図だったのに……。

――あっ……ち、ちがっ……!
――ん、やっぱり伊織がつくったのは、いつ見てもめっちゃうまそうや。
――え……。
――やってええ匂いもそうやけど、彩りもええし……な?

絶対に、傷ついてた。
侑士先輩の瞳が、絶望と喪失をおりまぜたような色をまとわせて揺れたのを、わたしははっきりと見た。
なのに、なにごともなかったかのように夕食の準備をはじめて、微笑んだ。わたしの額に、短いキスをして。

「んん、冷えてきたし、お鍋めっちゃ美味しそう。しゃぶしゃぶせんとな?」
「あ、うん……はい先輩、お箸」
「おおきに。よっしゃ、めっちゃ食べよ。めっちゃ腹減った」

なんで、あんな反応をしてしまったんだろう。頭のなかはそのことでいっぱいだけど、侑士先輩が空気をもとに戻そうとしてるのに、ぶり返すことはしづらい……というか、勇気が出ない。
でもさっきのは、あきらかに先輩からの「お誘い」だったんだよね……。ずっと、待ってたのに。侑士先輩に抱かれたいと、思ってるのに……。想像してたのとタイミングが違ったから動揺した? だからって、あんなふうに拒否することなかったじゃん。

「伊織、お皿かし? 取ったるわ」
「え、あ……ありがとうございます」
「俺もいっぱい食べるけど、伊織もいっぱい食べや? 宍戸も言うてたけど、最近、ちょっと痩せたやん。心配やで?」

先輩がどう思ったか、それが不安で仕方ない。いまだって普通に接してくれてるけど、どこか悲しい感じがする。
あんな、押しのけるように、音まで立てて抵抗して、ああ、嫌われてたらどうしよう……ガッカリしたかな、先輩……したに決まってるよね? 落胆してるから、いまこんなおかしな空気になってるんだから。

「伊織ー? どないしたん? 食べへんのか……?」
「あ、いえ。食べますっ」まずい、と思った。この空気を変えられないのは、わたしのほうだ。
「ん、しっかり食べや?」
「うん……」

いいんだろうか。いや、いいわけない。勇気をだして聞いてみる? ていうか、嫌だったわけじゃないって、ちゃんと伝えなきゃわかんないよね。

「侑士先輩、あの……さっき」
「ひょっとしてダイエットしとる?」
「えっ」

しかしまんまと、さえぎられてしまった……今度はわたしが、拒否されてる。
ああ、でもなんで、そんな話になってるんだっけ。えっと、えーっと……なんだ? そうか、宍戸先輩が痩せたとか言って、心配してるとか、そういう話してた、たしか。

「あ……女子は基本、痩せたいからっ」そんなこと、話したいわけじゃないのに。
「もう痩せんでええって。伊織はいまのままで十分かわいい。それ以上はあかん」
「ん……でもわたし、小学校のときとかモチモチしてたから、ちょっと油断するとまずいことになりそうだなあって」

侑士先輩がわたしの言いたいことを聞かずに食い気味に質問してきたのって、もうその話題はしたくないってことなんだろう、たぶん。ただでさえガッカリさせてるだろうに、これ以上ガッカリさせるのは気が引けて、ボソボソと口を動かしながら何気なく会話をつなげると、彼はなにかに気づいたように顔を向けて、まっすぐにわたしを見てきた。

「……小学校んとき?」
「え、うん……」なにか、引っかかりますか? え、変なこと言ってないはず。「小学校のとき、ちょっとモチッとしてたんです。よくそれで、竜也にもからかわれてて。残酷でしょ、小学生って。竜也、『デブデブ』って、ひどくって」笑ってみせる。そうだよ、楽しい時間にしなきゃ。いまは笑い話だから。「それでよく泣かされたりして。だから小さいころから、ちょっと気になっちゃうんですよ。先輩だって、わたしがデブになったら嫌でしょ? ふふっ」
「へえ……」

え……む、無視? わたしの質問は!? え、クスッと笑ってもくれない、え?
いつもだったらここで、「いやあ、俺は伊織がデブになっても好きやで?」とか、あるいは、「んん、ま、あんまり太ったら病気とか怖いからなあ? せやけどそんな気にせんでもええよ?」とか、なんか、なんかあるじゃん!
いや、たしかに? どうでもいい話だったとは思うけども? え、でも、「へえ」で終わらなくてもよくないですか? え、なんか、そんなにスベったかなわたし!? わたしたち恋人同士でしょう侑士先輩!? もう少しリアクションあっても……あいや、これがリアクション? いつもよりドライだから、それはそれで、新鮮っちゃ新鮮……いやいや、やっぱりなんか変だよ。
ああ、やっぱり、侑士先輩、さっきのこと怒ってるのかな。どうしよう、冷めちゃったりしてたら。嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だっ。

「そんで、からかわれて泣いとったら、どうせヒーローみたいなのが慰めに来てくれてたんやろな?」
「え……」
「違う? 小野瀬に泣かされてそれで終わりやないやろ、どうせ」

なにその、気になる感じ……「どうせ」って。なんか、突っかかってきてる?
そりゃ、場合によってはほかのいとことか、なんなら弟にすら慰められたことがあるけど……。

「それは、まあ、慰めてもらったりは、した、かな」
「せやろな。そうやと思ったわ、どうせ」

また言った……! なに、「どうせ」って。
うぬう……もう、どうしよう。なんだか、ご機嫌ナナメだ。やっぱり、わたしのあの態度に怒っているのかな。嫌われっちゃった……?
考えるほどに、なにも言えなくなってしまって。いつも笑い声が飛びかう先輩との食卓は、カチャカチャと、食器と箸がぶつかる音だけが響いた。先輩の顔からも、すでに笑顔が消えている。まずい、泣きそうだ。ああでも、泣きそうだけど、泣くのは卑怯だ。我慢、我慢……わたしが悪かったんだから。話題、なにか話題……。

「あ、侑士先輩、今日の個人練習はどうだったんですか?」
「どうって?」じ……とわたしを見てくる。なんですかその、怖い感じの目は。
「え、あ……その、楽しかったかなあ、とか」
「ああ、まあ楽しかったで……」

いやいやいやいや、全ッ然、楽しくなさそうなんだけど……ああ、なんでこうなった!? か……会話がつづかない! そのあとは!? さっきまで笑顔を見せてくれてたのに! わたしが子どものころモチモチしてたって言ってからおかしくなってる! なんで!?

「見慣れへん顔も……来とったしな」
「え?」

唇をかみしめそうになっていたところで、侑士先輩がぽつり、とつぶやく。顔をあげると、相変わらず不機嫌そうにお鍋をつついているものの、また、チラッとこちらに視線をなげてきた。
侑士先輩も、会話をつづけようとしてくれている? そんな感じで? でも、この空気をなんとかしたいと思ってくれているのかもしれない。それならもう少し話しやすい雰囲気でいてくれてもいいようなものだけど……。
ああでも、そうだよ、落ちこんでいるのは侑士先輩なんだ、わたしがあんなふうに先輩を押しのけたから。気を遣わせてる場合じゃないっ。

「誰が来てたんですか? OBとか?」
「どうなんやろ。そこまで知らんけど、知らんでええこと知って、知らんかったらよかったって思う」
「へ?」

じゅ、呪文……? 難解すぎる。なんですかその詩人みたいな言い回しは。あかるくお返事してるのに、混乱しそうなんだけど……。

「いや……堪忍。なんでもない。伊織、お肉まだあるで? たくさん食べてな?」
「あ、はい。はい! いっぱい食べます!」
「ん、ええこやね」

ここでやっと、侑士先輩は笑顔を見せてくれたのだけど、やっぱり、なんだか切なそうだった。
むちゃくちゃ情緒不安定な様子が見てとれて、結局ぎこちないまま、食事は終わった。





恋人同士なんだもん、そういうことだってあるよねきっと。
うちの兄だって言ってたし、なんならこないだ、千夏も言ってた。「なにが理由かはわかんないけど、なんか気まずい空気になることがあるんだよね」とか、なんとか。
ただ、曰く、そういう場合は理由はわかんないほうがわかってないだけで、相手がなにか思うことがあるから気まずくなっているそうなのだ。でも相手は口にせずに「察してください」状態らしい。「そんなの言われなくちゃわかんないに決まってると思わない?」と千夏は納得いってない様子だったが、相手(千夏の場合は跡部先輩)からすれば、言うのが嫌だってことなんだろう。
つまり……? 侑士先輩は口にはだしたくないけど、なにか思うことがあるってことになる。ああああああ本当に言ってもらわなきゃわかんない! でもどう考えてもキッチンでわたしが拒否ったことだよね!? でもそれを話そうとしたらさえぎるし……ううう、どうしたら……。

「伊織、片づけは俺がやるで、置いとってええよ?」
「あ、大丈夫です! 今日は先輩、疲れてるんだし、ゆっくり休んでてください」
「んん……ほな、手伝うよ」
「あ、いいですよ先輩、そんなにないしっ、すぐ済んじゃうので」

食事が終わっていつものあと片づけに入った瞬間、侑士先輩は心配そうに流しを覗きこんできた。いつもは自然と一緒にやっている作業なんだけど、食卓の空気が悪かったからなのか、わざわざ聞いてきた。でもその空気を引きずったまま手伝ってもらうのも困惑しそうだから、「どうぞどうぞ」状態だ。
だからって、他意はまったくなかった。本当に、そんなつもりで言ったわけじゃなかったのに。

「……嫌なん?」
「へっ?」

驚いて侑士先輩を見あげると、その目が、ものすごく悲しくなっていた。そんな、なんでそんな、捨てられた子犬みたいな目をするんですか? なのに口調は攻撃的だし、こ、これがなんか気まずい空気ってやつなの? いやさっきからずっと気まずかったけどさ、いまはもう、気まずいどころじゃなくて突っかかってきてるよ! ホントにどうしたらいいのか全然わかんないっ!

「……俺がここに一緒に立つんが、怖い?」
「えっ!? あ、いや、そうじゃなくて!」
「わかった、ええよ。ソファにおるわ」
「ゆっ、侑士先輩……!」

ぷいっと、先輩は背中を向けた。呼んだのに、振り返ってもくれない。
うわあああ……もう、雰囲気が、最悪だよ。違うのに……さっきのことを拒否したからって断ったわけじゃないのに。それに、侑士先輩のことを嫌とか怖いとか、わたしがなるわけないのに……あいや、怖いはときどきあるかもだけど……はあ、どうしよう、謝る? でも謝ったらなんか拒否したこと認めてるみたいにならない? いやでも、わたしのせいで侑士先輩、あんなに情緒不安定になってるんだったら、やっぱり謝る? でもぶり返されたくなさそうだったし……ああもう、どうしたら!
半泣きになりながら、それでも鼻をすする声は聞こえないように、蛇口から出る水の音でごまかしているときだった。エプロンのポケットにあるスマホが、ぶるぶると震えている。
さっとタオルで手を拭いてスマホを見ると、千夏からメッセージが届いていた。なんとなく、このタイミングに予感のようなものを感じてしまう。
というのも、液晶画面に出てきた通知センターの文字が『ごめん!』だったからだ。

『なにが、ごめん?』
『えーと、いやあの……いま大丈夫? 近くに忍足先輩、いない?』

なんだって……?
じんわりと、頭の片隅に浮かんでくる。もしかして、この女はなにか知ってるんじゃないか、と。
だって、ごめん、に重ねて、侑士先輩に見られたらまずいことをこれから告白しようとしているわけだから。ふうん? ……これはますます、怪しい。

『いないよ。大丈夫。どうしたの?』
『やー、それがいま景吾に話したら、早く佐久間に伝えろってうるさくってさあ』

ははーん……しっくりくるじゃないですか。どうやら、侑士先輩の様子がずっと変なのは、わたしだけの問題じゃないようだ……それが、しみじみと伝わってくる。
そうだよ、よく考えたらずっとおかしい。あんな切実な電話してきて、心配でかけつけたら「なんもない」とか小学生の男の子みたいに首をぶんぶんしちゃって(すっごくかわいかったけど)、いつもの侑士先輩に戻ったかと思ったら、今度は急にセクシー全開でキスしてきて、エッチなブツを当ててくるし、びっくりしたらすごいショック受けちゃって、でも優しさでご機嫌にしてくれてるのかなと思ったら、食卓で急にテンションガタ落ちになるし、もう、わたしは気が狂いそうだよっ!
はあ……でも、侑士先輩が好きだから……それでもいいって思ったけど、千夏のこの物言いは、どう考えてもおかしい。きっかけがあるんだ、そうだ、それはわかってたけど、とにかく、ずっとそのことで頭がいっぱいで、侑士先輩はおかしいんだ。

『ねえ、なにがあったわけ? 侑士先輩、ずっと様子が変だよ。こういうこと言いたくないけど、マジでメンヘラだよ!』
『ああ、ですよね……いや、基本メンヘラだと思うけどさ、忍足先輩は』
『失礼なこと言ってんじゃない! 早く本題に入れ!』
『落ち着いてよ……。いや、あのね……実は今日さ、小野瀬のお兄ちゃんが来たわけですよ、練習の見学に』
『あ、そうなんだ?』

ん? と思う。それが関係あるのだとしたら……。嫌な予感に、ギギッと、歯を食いしばりそうになった。まさか……まさかだとは思うけど。

『ちょっと待って。それで? なに? 千夏なんか余計なこと言った?』
『違う! 違うって! だけどなんか忍足先輩って、変なとこですっごい鋭いじゃん、伊織とどうにかなろうってときはさ、あんなに鈍感まるだしだったくせにさ、もう今日はなんか目をギラギラさせちゃってさ、なんなのあの妖怪?』
『おい! 失礼なんだよさっきから! いいから話を進めてよ!』
     
急かしてみたものの、だ。
すでにここまでのやりとりで、もうなんとなく見えてきた。竜也のお兄ちゃんで侑士先輩の様子が変になることなんて、わたしのなかで、心あたりはひとつしかなかったから……。

『だから……ごめんって……』
『千夏あんた……バラしたんだ……?』まったく、この女……!
『バラしたわけじゃないよ!? でもすんごい詰めてくるんだもん。それにあたしがごまかしたって、いろいろ詮索したに決まってる!』

まあ……それは、ごもっともだ。さっきの会話もなんか変だと思ってた。慰めとかヒーローとか、あと「どうせ」が、妙に引っかかると思ってた! 

『でも、ごめんよ……マジで。耐えられなかったんだよ。言わなきゃ殺す、みたいな目で見られてさ……』大げさすぎるだろうけど、わからなくは、ない。
『はあ……なるほどですね。わかった。大丈夫。ご機嫌とっておくから。千夏も気にしないで。どうせいつか、バレてただろうしね』
『だよねー?』
『おい』

メッセージを終えて、わたしは静かにスマホをオフにした。全部、つじつまが合う。そういうことだったのか……。
竜也のお兄ちゃんは、わたしの初恋だ。わたしが8歳のときから、ずっと好きだったお兄ちゃん。わたしが12歳になったころ、お兄ちゃんに彼女ができた。静かにした失恋。侑士先輩を見つけたのは、それから2週間後のことだ。
あっという間に恋に落ちた。お兄ちゃんに恋してたのってなんだったの? ってくらい、侑士先輩が好きになって、竜也だけじゃなく、お兄ちゃんにも自慢げに話したことだってある。

――すっごいすっごいすっごいカッコいいの!
――へえー! よっぽど好きなんだな。見てみたいなあ、その彼。

竜也もずっとテニス部だったから、お兄ちゃんを連れて試合を見に行ったこともある。つまりそれくらい、侑士先輩はわたしの初恋を簡単に凌駕するくらい、惚れまくってる人だっていうのに。侑士先輩に彼女ができようが、年上のお姉さんと腕組んで歩いてようが、結局のところ諦めきれなくて、ほかのどんなイケメン男子を見ても胸が躍らなくて、いまだってこんなに、日を増すごとに好きになっているっていうのに……。
先輩、嫉妬しちゃったってこと? もう、全然わかってない……どれだけわたしが侑士先輩のこと好きだと思ってるの……? 竜也のときもそうだったけど、嫉妬なんてお門違いすぎるよ! あああああ……もう……かわいい! 好き!
愛しさが氾濫して、わたしは、ゆっくり侑士先輩の背中に近づいた。いつもなら絶対に気づくのに、拗ねてるからなのか、まったくわたしの気配にも気づかない。だから今日、あんな急に誘ってきたんだ。それをわたし、拒否しちゃったから……余計、傷つけちゃった。

「え……」

黙って、うしろから強く、抱きしめた。
声をあげた先輩の体が、ほんの少しだけ反応を示す。そのまま先輩の右肩に頭を埋めると、彼はそっと、頬を擦すりよせてきた。
なんだか、猫になった気分……。コツン、と、侑士先輩は頭を預けてきた。嬉しくて、ニヤけそうになる顔を隠すようにしていると、先輩がようやく、声を発した。

「どないした……?」髪をなでられる。優しい手つき。優しい声。
「なんでもなーい」いじわるに答えた。「どうしてそんなこと聞くんですか?」
「やって、いきなりやん……伊織、こんなんしてきたこと、ないし、やな」

さっき拗ねたからのか、まだぎこちない。仲直りしようとは、お互いが口にはしない。だって、ケンカしたわけじゃないもんね……。それでも、変な空気だったことはもちろん、わかってる。

「付き合ってまだ半年も経ってないですよ? わたし、こういうことしょっちゅうする女だったりして」

顔をあげて笑うと、ようやく、微笑んでくれた。ああ、素敵な笑顔。今日、やっと本気で笑った侑士先輩が見れたとわかって、胸が高鳴っていく。

「甘えたさんなんかな? 今日の伊織は」
「……うん、侑士先輩に甘えたくなっちゃった」

本当は、愛しくてたまらなくて、抱きしめずにはいられなかった、が正解なんだけど。
今日の行動のすべてが、侑士先輩が嫉妬したからなんだと思うと、そこまで愛されている現実がたまらなくて、涙が出てきそうだ。
ずっとずっと、わたしの憧れだった先輩が、わたしに夢中になってくれてるなんて、信じられない。恐縮すぎるけど、こんなに実感しちゃうと、どれだけ謙遜しようと思っても調子に乗ってしまう。

「ホンマ……? 伊織やったら俺、毎日、甘えてくれてええんよ?」
「いんですか? そしたら侑士先輩がわたしに甘えられないよ?」
「へえ? 言うやないか。俺がいつ甘えたんや?」もうー、今日はずっと甘えてたくせにー。「ん? 言うてみ?」
「ふふっ……いっつも」
「お前、言うてくれるなあ?」

だってめっちゃくちゃかわいいとこあるんだもん、侑士先輩。すっごくクールで、すっごく理路整然としてる人だと思ってたのに、付き合ってからはその印象がガラッと変わった。もちろん、いつだってカッコいいけど。わたししか知らない侑士先輩のかわいいとこ、みんなに自慢したいくらいだ。

「ねえ、侑士先輩」
「ん? なんや?」

侑士先輩の首筋から、甘くて優しい香りがする。石鹸と、シャンプーと、先輩のあたたかさがある、おだやかでうっとりする香り……。
はあ……大好き。すごく好き。

「伊織? なに?」

じんわりと胸が熱くなって、黙ってしまった。自分の想いで悦に入って感動しちゃうなんて、わたしも相当キちゃってる。わかってるけど、本当に夢みたいなんだもん。
侑士先輩にまわしている手に少し力を入れて、抱きしめなおした。頬にそっと、唇をよせる。
愛してる……そう、小声で伝えた。

「……俺もめっちゃ、愛しとるよ、伊織」

わたしの顎をもって、侑士先輩の唇が落ちてくる。チュ、と音を立てて、確認するように目を覗きこんできた。じっと見つめながら、今度は唇をとがらせてくる。
もう……ほらあ、言ってるそばから、甘えてきてる。かわいい、かわいい、わたしの彼氏。笑いながらキスを何度も送ると、侑士先輩は満足したのか、まんざらでもない顔をした。

「めっちゃチュウしてくるやん……ホンマにどないしたん?」まったく、してほしそうな合図しといて。かわいすぎ!
「ん? 嫌だったのかな。じゃあやーめよ」あまりにかわいいので、いじわるしたくなってしまう。ああ、わたしにはこんなSっ気があったんだ。
「あ、ちょ、そんな、嫌やなんて言うてないやろ……!?」もう、その反応、ずるいよっ。
「だって侑士先輩、どうしたどうしたって、そればっかりだし」

パッと先輩から手を離して、体も離した。スン、とした顔のままとなりに座ると、困惑の表情でこちらを見る。
侑士先輩……鋭いところあるから。態度が急に変わったら、また変な勘ぐりをしそうだし。そういうことに気づかせないためにも、わたしは気まぐれな女を演じた。
なんかちょっと……カッコよくないですか? 千夏ってモデルが近くにいるからすぐできるけど、なんかカッコいいよね。大門未知子みたいじゃん。わたし失敗しないんで。的な!

「どうしたって、聞いとるだけやん……?」
「なんか思うことがあるってことでしょう? なら、いたしません」あ、やばい、大門未知子やっちゃったよ。
「そ……そんないじわる言わんでや」
「いじわるなのは、先輩ですよ」

じっと見ると、先輩は慌てたような表情になった。わああああ、なにそれ、かわいいっ。わたしが怒ってると思って焦ってる? やっぱりなんか、こういう女ってちょっと気持ちいいのかも! たまにやろうかな。調子に乗るってこういうことだよね?

「お、俺がいつ……」
「わたしが甘えるの好きじゃないんだ?」
「は、え? ちゃう、ちゃうよっ。誰がそんなん言うた? なんでそない解釈やっ」
「だったら黙って甘えさせてくれたらいいじゃないですかー」
「あ、甘えさせてないって言うん?」いま甘えさせとったやんっ! と、先輩は必死だ。
「その長い脚も。そんなふうに組まれてたら、わたし膝枕いたしたくしてもいたせませんよっ」
「ちょ、さっきからなんなんその言い回し……」あ、いかんなこれは……若干、ひかれてる。大門未知子になりきりすぎたか。「ちゅうか、膝枕なんて、伊織、せがんできたりせえへんしさ……」
「先輩がいつもそうしてるからですよーだ」
「そ、それやったら言うてくれたって……大歓迎やで?」
「ホント? じゃあ、膝枕いたしたいので、脚、借りていいですか?」

笑ってみせると、先輩も落ち着きを取り戻してきたのか、ふっと呆れたように笑う。ああ、やっと変な空気が、いつものわたしたちに戻った、と、思った瞬間だった。

「……御意」
「うわあ、さすが先輩」大門未知子って気づいてたんだ。
「途中からおかしいと思っとったわ。ボケとったん?」
「いえ、なんとなくです」
「難しいやっちゃな……なんやねんホンマ」

くすくすと、先輩がわたしの頭を軽く小突いてくる。
ラブラブな時間が舞い戻って、わたしはすっかり有頂天になった。

「あー、叩かれた!」
「アーホ、なでたんや。ほら、おいで?」
「えへへ。お邪魔します」

するっと横になると、仔猫をかわいがるように、頭をなでてくれる。先輩のお膝、筋肉で硬いけど、すごく心地いい。はあ、このまま眠っちゃいたいなあ。

「あったかい」
「ん、そらよかった……」

髪を掬うように、先輩の綺麗な指先が行ったり来たりして……それがとっても気持ちいい。さっきお鍋でお腹いっぱいにしちゃったせいか、わたしは自然と目を閉じた。

「侑士先輩……寝ちゃいそう……」
「ん……少し寝たら? ちゃんと起こしたるから」
「……侑士」
「ん?」
「大好き……」
「……俺も、大好きや、伊織」

まどろみは、すぐにやってきた。侑士先輩の手のあたたかさが、わたしを眠りに誘っていく。
侑士先輩……悲しい思いをさせて、ごめんなさい。過去に先輩以外の人を、好きになってごめんなさい。
でもこれからずっと、ずっとずっと侑士だけ……誓うから……。





to be continued...

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