秘密_02




2.


練習後のシャワーは格別に気持ちがええ。なんせアホみたいな練習量やで、死ぬほど汗だく、ベタベタ、体がまっこと気色悪い。いうて、これがめっちゃ贅沢やってことは自覚しとる。さすが氷帝、シャワールームついとるとか金持ち校やで。まあ跡部がつけさせたんやろけど……。どっちにしても普通の高校にはシャワールームなんかついてへん。ありがたいこっちゃ。
キュ、とシャワーを止めた。体を拭きながら伊織のことを考える。さっきはなんやめっちゃ大騒ぎしとったけど、ああいうところもホンマ、かわいいんよなあ。

「それで?」
「え?」
「なんだったんだ、さっきのは」

となりのシャワー室に入っとったのは跡部やった。急に話しかけてこられて混乱する。見ると、俺のシャワー室の前ですっぽんぽんで堂々と立っとった。そこまでして聞きたいことって、なんやねん。

「おま、どういう状況やねん」
「シャワーが終われば誰だってこうだろ。アーン?」
「アーンちゃうわ。タオルで隠せや」
「で? なにか話してたんじゃねえのか、あの二人は」

タオルで隠せ言うとるのに、跡部はそのままぶらぶらさせながら牛乳を飲みはじめた。いやちょっと……ええけどさ。なんやいろいろごちゃつくやんけ。
見てみい、周りの連中も迷惑そうな顔しとるわ。6年にわたって見つづけた跡部の景吾も成長せえへんなあ、言うて……殺されるやろなそんなこと言うたら。

「ああ……えーとなんやったかな。重症? とかどうとか言うとったで」

仕方なし、バサバサとタオルで髪やら身体やら拭きながら答えたった。ようやく、跡部がバスローブを羽織る。そうそう、それでええ。もしも牛乳こぼして跡部の景吾に落ちたらもう、そういう感じに見えてしまうでな、気色悪い。ちゅうかこんなとこでバスローブって頭わいとるんかこいつ。

「重症?」もっと気にするとこあると思うで、跡部……。
「そう、重症とか……なんや、伊織のほうが重症らしいで。ようわからんけど」

千夏ちゃんがなにを話しとったんか、気になってしゃあないんやろう。わざわざすっぽんぽんで聞いてくるんやから。跡部は、こう見えて千夏ちゃんの全部が知りたい独占欲でまみれとる。

「ほう……頭の悪さの話か?」
「お前、俺に殺されたいんか……」

誰が頭の悪さやねん! バカにしやがって!
伊織の頭は悪ないで。成績は平均的や。ええねん、氷帝で平均やったら世間的にはええほうやろ。
せやけど、なにが重症なんやろ……たしかに気になる単語ではある。怪我とかしてへんよな。あとで伊織に聞いてみよ……。

「えー! いいなあ千夏、いいなあいいなあ!」
「ん?」
「おいおい、また奇声をあげてやがるじゃねぇの」

俺と跡部がシャワールームから出た直後やった。またいきなり伊織が叫びだしとる。
目がめっちゃらんらんとして……楽しい話でもしはじめたんかと思った矢先、や。

「じゃあ時給もあがるし、手伝ってもらえるしで、いいことづくめってことだね!?」
「そうなの、そう! いいでしょ!」
「今度はどうした? 相変わらず騒いでるな、お前たちは」

時給、っちゅう言葉にひっかかった。
そこに跡部が入ったことで、千夏ちゃんが跡部に向き直る。ふんわりと穏やかな笑顔で跡部を見あげる千夏ちゃんは、彼氏を待っとった恋人って感じのあったかい雰囲気をだしとるっちゅうのに、伊織はなんでやか、俺をぶすっとした顔で見てきた。
おいおい待て……なんでやねん。なんでそんな機嫌が悪そうなんやお前はっ。

「侑士先輩! わたしにもバイト許して!」
「は、はあ? またその話か」案の定や。時給っちゅうワードやったしな。やっぱりそのことか。「あかんって言うとるやろ?」
「なんでわたしばっかり……跡部先輩は千夏に許してくれてるのに!」

完全にふてくされとる。駄々こね炸裂やんけ。こんな伊織を見るのもはじめてや。その話、昨日で決着ついたんちゃうかったんか。
そもそもやで、なんでそんなにバイトがしたいねん。ほしいものは俺が買うたるって言うてんのに……まさか新しい出会いとか求めてんちゃうやろな。

「よそはよそ、うちはうち。俺は跡部とちゃうねんから」
「跡部先輩のほうが理解ある! 優しいし!」
「はいはい、跡部は理解あるなあ。優しいなあ。俺は理解ない。優しくもない。ええよそれで」そんな安い挑発にのるかっちゅうねん。腹立つわ。
「も……もうううう! いいじゃん別にバイトくらい!」

挑発にのらん俺にイライラしたんやろう、伊織はまたしても、ぶーぶー言いだした。周りは気まずそうに、せやけどみんなしらっと俺を見て、どんどん部室から出ていきよる。
おいおいなんやその、「バイトくらいさせてやれよ」的な視線は。あかんっちゅうたらあかん……誰がなんと言おうとさせたらん。

「まあ当然だな。俺のほうが優しく、そして理解がある」跡部が自慢気にくり返した。伊織の挑発やっちゅうねん、調子のんな。「あきらめな佐久間。そういう男を好きになったお前の責任だ。なあSiri!」
『すみません、よくわかりません』もうやめたれや跡部……いつまでSiriにハマっとんねん。
「ぐ、Siri……」おい伊織、言葉を詰まらせるとこちゃうで。なにを、そうですねちゅう顔をしてんねん。
「それで? 千夏、どんないいことがあったんだ?」

優しいと褒められたせいか、跡部の声が一段と優しくなりながら、千夏ちゃんの頭をなではじめた。
はあ、俺も伊織とイチャイチャしたいのに、こっちは剣山のような視線が刺さってきとるしな。それでも、バイトだけはあかん。

「うん、あのね、明日から時給があがるんだよ! 配る区域が増えたから!」ふてくされとる伊織の横で、千夏ちゃんは意気揚々と答えた。
「ほう、よかったじゃねえか」

あっちがふたりの世界に入ったからやろう、伊織はそこから距離を取りながら、それでもじっとりと俺を見てきよる。はあ……ホンマに聞き分けのない女やな……ライブハウス通いを許したんやこっちは! それ以上どんだけ見つめてきても、もうこれ以上はないからな!

「いいなあ千夏……なんでわたしは……ねえSiri?」小声でつぶやきだす始末や。ふざけとるだけやろけどSiriに聞くのやめろ。
『すみません、よくわかりません』
「ほれ、Siriもそう言うてはるわ。あのな伊織……千夏ちゃんやって許されとるの新聞配達だけやろ?」
「でも侑士は、新聞配達でさえダメなんでしょ……」
「あかん」
「強情」
「なんとでもいい」
「石頭」
「おお、結構や」
「ときどき伊達メガネ」
「それは事実を言うとるだけやろ」
『はい、伊達メガネについて、こちらが見つかりました』
「見つけんでええねんSiri、いま呼んでへん」

まったく……なにに反応してんねん。だいたい俺がときどき伊達メガネかけたらなんかあかんのか。喜びよるくせに。
新聞配達でも、俺にとっては危険な仕事や。早いとこは3時やら4時やらに出勤せなあかん。これから冬になっていく。まだまだ空は暗い時間帯や。あげく、悪い連中が一番うろついとる時間帯やで。ええわけないやろ。
はあ……まさか伊織がここまで反抗してくるやなんてな。そろそろこの話も終わりにしたいのに、千夏ちゃんが余計なことを伊織に言いだすからやでホンマ……。

「しかし大変じゃねえのか? 区域が増えるってことはそれだけ時間も前倒されるだろ」

まだつづけとんのか。もうええって。伊織のうらやましい熱を冷ましたいんねんこっちは。いまだけ伊織がめっちゃ浦山しい太になってんねん、勘弁してや。
と、思ったのは、ここまでやった。

「あ、それがね、新聞配達のとこの息子さんが、今度から一緒に回って」
「なんだと!?」
「ぎゃあ!」

いきなり大声をだした跡部に、目の前におった千夏ちゃんだけやない、俺も伊織もビクッと肩を揺らす。
ななな、なんや、なんやねんいきなり!

「千夏、新聞配達、いますぐ辞めろ」
「えええええええっ!?」
「ええっ!?」
「え……おいおい、跡部、どないしたん?」

跡部のキレかけた顔を見て、俺と伊織は慌ててふたりに駆け寄った。
仲裁に入らなと思ったんやけど、あれ、なんでこんな展開になってんの? 千夏ちゃん、なんて言うとったんやっけ?

「いいか、いますぐだ!」
「ちょっと待ってよ! なんで!? やっと時給あがったのに!」
「ダメだ! 新聞配達の会社の息子と一緒に回るだと!?」はっとする。ああ、そういやそんなん言うてたか……はあはあ、なるほどな。
「そうだけど、なんでそれが!」
「その息子、まさか小学生じゃねえだろうが!」
「そ……そりゃ小学生じゃないけど……!」
「ということは中学生以上だろうが! いいか千夏、中学あたりから男はいきなり発情しやがんだ。そっから男っつうのは死ぬまで発情している生き物だ。要するに、中学生以上の男と一緒に働くことは許さねえ」

しん、と静まり返った部室内……。
「じ、じいさんもダメなのかな?」っちゅう伊織の声がボソッと聞こえて、うっかり吹きだしそうになる。
そうやね……あの跡部にかかったらじいさんもあかんやろな。ちゅうか、中学生以下の男と働くことやなんてまずないわ。
まあ、せやけど気持ちはわかるで、跡部。そう、こういうことがあるからバイトはあかんねん。跡部の場合、千夏ちゃんがご丁寧にいろいろ伝えてきたことで、なんとか阻止できるようやけど、これが伊織やってみい……。俺の知らんうちに息子と働きだしとるわ。なんせ不良娘やからな!

「電話をしろ、千夏」
「えっ!」
「いますぐここで電話をして、俺の目の前で辞めろ」
「そんな……! ううううう、伊織ー!」
助けを求められた伊織が、あわあわしながら跡部を見あげた。「跡部先輩、ちょっとそれは横暴っていうかっ」
「うるせえ。お前には関係のないことだ。これは俺と千夏の問題だ!」
「いや千夏とバイト先の問題かと……」んん、めっちゃ正論。せやけど通用せんやろな。
「お前とディベートする気はねえよ」ほらな? 通用せんかった。「早くしろ千夏。俺を怒らせるな」
「うう……」

もうお怒りやけどね、どう見ても。
千夏ちゃんは伊織に助けを求めても無駄やとわかったんやろう、めっちゃしぶしぶとスマホで電話をかけはじめた……ま、跡部がああなったら下手に反抗せんほうがええ。ここで千夏ちゃんがゴネても、跡部の権力で辞めさせらるんがオチや。それやったら、自分から辞めたほうがええもんな、恥かく前に……。

「んん、まあええ展開や」
「え? ちょ、どこが?」伊織が非難轟々の目で俺を見る。その目をやめ言うとるのに。
「これで伊織も比較対象がなくなったやん。わかったやろ? 新聞配達でもこれなんや」

千夏ちゃんがバイト先に電話をしとるのを見ながら、伊織はしゅんとした。
ん……はあ、ずるい。せやけどこの「しゅん」に負けたらあかん。ここは心を鬼にせんと。

「カフェなんてあかん。跡部やって同じ。どこも一緒。ええな?」
「もう……わかったよ」
「んん、ええこやね伊織」
「……あきらめる。わがままばっかり言ってごめんね侑士」
「ええんよ。ほなこれで仲直りやね?」
「うん」

なんやあ、伊織めっちゃ聞き分けええやん! かわいい! かわいいわあ。
そうやで、伊織はもともと素直でええこなんや、ちょっとハメはずしたくなっただけやんなあ? たまには俺を困らせてみたかったんかな。かわいいなあもう。

「はい……すみません。突然なんですけど。はい、ちょっと事情があって、はい……本当にすみません。今日づけで……」

千夏ちゃんは電話をしながら、何度も頭をさげとった。しかし……思ったより千夏ちゃんも、なんや意外にあっさり言うこと聞いたやないか。
んん、ええこやで。これで跡部もご満悦や。





うまく、いっている……いまのところ。
それを確信したのは、マンションに到着してから侑士が切りだしてきた質問のおかげだ。

「そういや伊織、さっき話しとった、重症ってなんの話やったん?」
「ああ、うん、それが……」

千夏はすごい。
見た目の美しさが能力だってことで店長には紹介しようと思っていたけど、巧みすぎる「読み」も能力になるんじゃないだろうか。いや、それがカフェでどう役立つのかは全然わからないけど……。
「時給があがる」と言いだし、新聞配達のバイトを辞めさせられるまでのくだりは、全部、わたしたちの芝居であり計算だった。さらに、侑士がこうして「重症」というワードについて聞いてくると予測したのも、千夏の計算である。
まさか……ここまでとはな。って、赤井さん(©名探偵コナン)になってしまいそうだ。

――景吾もそうだと思うんだけど、忍足先輩も、絶対にあの話のつづきを聞いてくるはず……どうやら「重症」って部分は聞いてたみたいだから、あたしたちは、それを逆手に取るんだよ。

エスパー、いやコナンくんなのかあの女……。
でも、もし聞いてこなかったとしても、侑士のなかには「重症」というキーワードは残っている。だからどのみち、この展開にならずともこちらから話すという計画も、一方では立てていた。

「実はうちの母と千夏のお母さん、同じママさんバレーにいて」
「へえ。そうやったんや?」

さて、これについては事実である。
千夏とわたしが遂行している作戦のなかで、唯一の真実だ。つまり、あとは全部が嘘……新聞配達で時給があがるのも、息子が手伝うのも、それを聞いたわたしがうらやましがって侑士に駄々をこねたのも……。
すべては、いかに自然に「こと」を運んでいくかという魂胆からくるものだ。跡部先輩が無理にバイトを辞めさせることも想定の範囲内。
ついでに、千夏はバイトを許してもらっている、という題材がなくなってしつこく駄々をこねられなくなったわたしが、「ついにあきらめた」と、侑士に思いこませる。そんな若干の心理的作用もあるらしい。

「うん。それで、昨日の練習中にうちの母と千夏のお母さんがぶつかっちゃったらしくって。うちの母はたいしたことなかったんだけど、千夏のお母さんが結構な勢いで手首と足首を捻挫しちゃったみたいで。そういう意味で、重症」
「え……そうなん? なんや、話を聞いただけやと、伊織のほうが重症とか言うてたような気がしたんやけど」
「えっ、あ、それは」
「重症、喜んでるあんたも重症、みたいなこと言うてなかったっけ?」

――重症でしょ。喜んでるあんたも重症だけど。
――だってえ、そういうとこもかわいいんだよう。

めちゃくちゃしっかり聞いてるじゃん! 地獄耳かっ。どうしよう、どうごまかそうか。わたしが侑士のことかわいいってデレデレしちゃったもんだから、変な感じになっちゃうよ!

「ああ、それはあれですよ。うちの母の打ちどころが悪くて、千夏が心配してそう言ったんです」
「ん? そんで伊織はなにを喜んどるん?」尋問かよ。
「あー、いつもわりと家のなかで騒がしい母が昨日から、ちょっとおとなしいんで、なんか、静かでいいなって喜んでる感じ……」
「ええ? 伊織……悪い子やなあ?」
「だ、だから、そういうとこもかわいいって、母のことを! ね!」
「ホンマ……人が痛い思いしてんのに、そんなこと言うたあかんで? まったく、思った以上に不良娘やわ」

誤解は不本意であったのだけど、わたしは言葉を飲みこんだ。当然だ。ここで違うと言ってしまえば計画は終わってしまう。でもなんとか、ごまかせたような気がする。

「せやけど、そうなると伊織のお母さんも、千夏ちゃんのお母さんも、家事とか大変やろなあ? ちゃんと手伝ったらなあかんで?」
「え、あ、はいっ」

あまりのナイスな質問に、声がうわずってしまいそうだった。まさか自ら家事のことを聞いてきてくれるとは。
ちょっと千夏、あんたマジですごい……わたしら、本当に手強い彼氏たちをあざむけるかもしれないよ……!

「あ、いま千夏のお父さん出張中らしいんですよ。だから問題ないみたいだけど……ただそれでも大変だから、家事はお手伝いさんとか、少し考えたいとか言ってたみたいですけどね」
「ふうん。大変やねえ? ところで、さっきからなんで急に敬語になっとるん」
「えっ」

ビクッと体が揺れてしまう。やばい、やましいせいでうっかりめちゃくちゃ後輩気分だった。いや後輩なんだけど!

「あはは。まだ癖が抜けないみたい」
「くくっ。まあ、タメ語でも敬語でも伊織はかわいいけどな。せやけどやっぱり、タメ語のほうが親近感あって、ええなあ」
「う、うん、だよね!」

侑士がご機嫌なあいだに、わたしは彼の目を盗んでそっとスマホを操作した。
メッセージを送れば、ここからちょうど1時間後に千夏から電話がかかってくる算段になっている。
なんせわたしは今日、バイト初日なのだ。最初だから1時間だけだけど、なんにせよこのマンションを20時くらいにはでなきゃならない。
そう、勝負はここからなのである。





晩ごはんを食べ終わったころやった。リビングにあるテーブルの上からブブブ、と音がして目を向けると、伊織のスマホが鳴っとった。
めずらしいこともあるもんやなあ、と思う。いつもはポケットに入れとるのに、今日はこんなとこに置きっぱなしや。伊織もだんだん、この部屋を自分の家みたいに思ってくれとる証拠やろか。やとしたら、嬉しい。

「伊織ー、電話かかってきとるで」
「え? 誰から?」
「千夏ちゃんみたいやけど」

キッチンにおる伊織に伝えると、「ああ、千夏か」とやけに冷静に答えた。いつも電話がかかってくるとちょっと慌てる伊織やけど、妙に落ち着いとるやん。

「侑士、ごめん、わたし食器洗ってるから、出てもらってもいい?」
「ああ、まあええけど」

かけなおせばええだけやと思うんやけど……頼まれてしもたで、俺はさくっと伊織のスマホをもって、通話にスライドさせた。

「はい、まいど」
「え、忍足先輩?」
「せや。伊織、いまちょっと手が離せへんねん」
「あ、そうなんだ。どうしよう、大事な用なんだけどなあ。じゃあ先輩、伊織に伝えておいてもらえます?」

そんなんメッセージでやりとりしたらええやん、と言いたなる。こういう伝言パターンは、はじめてやな。ちゅうかこの二人、いっつもメッセージでのやりとりがメインやのに。そもそも電話がかかってきとることがめずらしい。そんな急用なんか?

「ええけど。なにを伝えたらええんや?」
「忍足先輩には悪いんですけど、伊織には、いまからうちに来てもらいたいんですよ」
「は、はあ? いまから俺と伊織がイチャつくっちゅうのに、なにを横取りしようとしてんねん」
「ああ、すいませんねそりゃ。でもちょっと、伊織の助けがいるんです!」
「なんでやねん」
「伊織にとっても悪い話じゃないと思うし」

なんでやねん、の質問には答えんまま、千夏ちゃんが勝ち誇ったような声をだした。
やけに、胸騒ぎがしてくる。伊織にとって悪い話じゃない、って、気になる言いかたやな。俺にとっては悪い話なんか?

「なんや? なにを吹きこむ気や?」
「吹きこむって……人聞き悪いなあ。伊織にいいバイトの話が」
「あかーん!」

間髪いれずに、叫んでもうた。
ほれ見てみい! いわんこっちゃないで! またバイトの話か! 胸騒ぎの正体はこれやったんや!

「……う、うるさいなあ先輩! 最後まで聞いてよ! 耳がキンキンする!」
「ちょ……ど、どうかしたの侑士?」伊織が目をまんまるにしてこっちを見とる。わあ、驚いた顔もかわいいなあ。
「ああ、いや、なんもないで。なんもないよ伊織」にっこりと返したった。
「なにがなんもないですか! 鼓膜が破れるかと思ったじゃないですか!」

電話越しの千夏ちゃんの声も十分にうるさい。
ったく……こんな話、伊織に聞かせるわけにはいかへんわ。ラッキーやった。俺がこの電話を取ってよかったわ。なにかと思えばしょうもない話……あかんって言うとるやろ! ホンマ、昨日からバイトバイトって、ええ加減にせえっちゅうねん!

「あんな千夏ちゃん……伊織は今日ようやく、あきらめたとこやねん……変な話、持ってきたあかん」

キッチンにおる伊織に聞こえへんように、コソコソとつぶやいた。
いやぶっちゃけ、バイトしたいって言いだした昨日のうちにあきらめさせたんやけど、今日は今日でめっちゃ駄々こね炸裂させよったで、まだあきらめてなかったんかい! と思ったんや。それでもなんとかかんとか、今日になってあきらめた。後半は、聞き分けよかったんや、ホッとした矢先やっちゅうねん。

「いやそれが、変な話じゃないんですって」
「……信用ならん」とくに千夏ちゃんの言いだすことは、や。
「いや本当に! 安全ですよ、雇い主、うちの母親だから」
「え……ちょおそれ、どういうことやねん? 千夏ちゃんのお母さん、なにしてはる人なんや」

聞けば千夏ちゃんのお母さんは普通の会社員らしいねんけど、フルリモートやから自宅で仕事をしとるらしい。せやから家事はまるっとお母さんの仕事、という感じのことを説明しはじめた。

「だけど、いまちょっとうちの母親がちゃきちゃき動けないんですよ」
「ああ……なんやっけ? 捻挫?」
「あ、先輩、伊織から聞いたんですか?」
「んん、さっきな。手首と、足首やったっけ?」どんなぶつかりかたしたら、そんなことになるんやろか。ええけどさ、別に。
「それなら話が早いです」
「え?」
「しっかり動けるようになるまで、うちでお手伝いさん雇おうとしてるんだけど、だったら伊織がいいんじゃないかって、あたしが提案したんですよ」

そういやさっき、伊織もそんなこと言うとったな……。
ついでに、重症、とか言うてた二人の会話を思いだした。たしかバレーボールのときにぶつかったんやったな。まあ、普段あんまり運動してへん人やと、年齢的なもんも含めて、たかが捻挫もされど捻挫になることがある。しっかり動けんっちゅうのは、まあまあ心配な症状や……。

「ほな伊織に、千夏ちゃんの家でお手伝いしてほしいっちゅうこと?」
「そうです。伊織ってほら、料理得意だし、家事全般、結構やるから」それは、そのとおりや。「まあ、あたしがやれば済むんですけど……それがね、うちのお姉ちゃんが甥っ子姪っ子だけならまだしも、赤ちゃんまで連れて帰ってくるんですよ、今夜から」
「え……そうなん?」千夏ちゃん、お姉ちゃんおったんや? ちゅうかそれ、なにごとや。離婚やないよな? あ、いや、そんなデリケートな話を聞いたあかんか。「それは結構、バタつくなあ?」

詳細は聞かんように、俺はあたりさわりのない程度に相槌を打った。
赤ちゃんが家におると、家のなかは華やぐんやけど、そこにガキんちょ数人はしんどいやろう。お姉ちゃんはその世話で手一杯やろし……。

「そう。だけど、お姉ちゃんも夜にバイトに行くことがあって」ああ、これ絶対に離婚やわ。いや決めつけはようないけど。夜って、水商売やろか。「そのあいだは、あたしが子守りをするじゃないですか。でもそんなことしてたら、ほかの家事とか、とても無理だし」
「まあ……千夏ちゃんじゃ無理やろな」
「千夏ちゃんじゃ、っていうの、余計じゃないですかね」
「聞き流しい」

せやけどたしかにそれは、なかなかや。育児は戦争みたいなもんやと、うちのオカンもようぼやいとった。あの人はそのうえしょっちゅう引っ越しがあったで、めっちゃ普段からイライラしとったからな。
そんで男親はそういうとき、まったく使いモンにならん、と、これもオカンからの教訓やった。

「だけどお手伝いさん雇うのって高いんですよ。週に2、3回でいいって言うんだけど、それだって高い」
「せやろね」
「それ、伊織にちょっとバイト代を払うって形でやったら、伊織もバイトしたいし、ウィンウィンってやつなんです」
「そ……」
「ちなみにあたしも今日バイトを辞めさせられたって話したんですよ。そしたら、伊織のお手伝いが実現化したら、伊織が手伝ってるあいだは仲介手数料を払ってくれるってことに! つまりあたしもウィンウィン!」
「ウィンウィン、なあ……」

世のなかのウィンウィンには、たいていうがった見方をしてまう俺なんやけど……伊織はたしかに、めっちゃバイトをしたがっとる。今日の千夏ちゃんの退職劇もしっかりこの目で見た。
伊織と千夏ちゃんの不満がいったんここで終わるんやったら、悪い話やないかもしれへん……ような気はする。

「うちには男はいないし、いてもたまに帰ってくる出張中の父親だけです。そういう男はいいでしょ別に?」
「まあ、なあ……」
「忍足先輩だって安心だと思うんですよ。ほかで働かれるより、うちで働いてくれてたほうが」
「まあ、ほかやったら働かせんけど」
「わかりましたって……だから、うちならいいでしょって話!」

苛立った口調の千夏ちゃんやけど、まあ、言うとることはわかるで。

「……要するに、千夏ちゃんも千夏ちゃんのお母さんも伊織が必要なんやね?」
「そうそう」
「……千夏ちゃんのお母さん、そんな大変なん?」
「わっかんないですけどね。でも腫れてきてるし、思った以上に動けないから、もしかしたら、ヒビ入ってるかもですよ。とりあえず、明日、病院には行くって言ってますけどね」

ふむ……。まあ、千夏ちゃんのお母さんの助けになるんやったらええか。家の手伝いしてお小遣いもらうみたいなもんやもんな。
せやけど、俺が伊織に会う時間、減るな……それだけがネックやけど、あんまりそういう自分ばっかりな考えかたもようないかな。俺が……我慢すればええだけか。

「週2、3やったっけ?」
「そうです。だいたい、19時くらいから子どもらが寝る22時くらいまでだと理想ですね」
「夜、遅いなあ……」
「なに言ってんですか。いつも忍足先輩の家でそのくらいまで過ごしてるじゃん。それに伊織の家は」
「わかっとるって」放任主義、門限なし、やからな。「せやけど帰りが心配や」
「ちゃんと送りますよ。うちの車で。お姉ちゃん、車、持ってるから」
「んん、さよか……。わかった。まあ、伊織が力になれるんやったら、俺もそれは賛成や。千夏ちゃん家やったら、たしかになんの心配もないしな」
「やったね! じゃあ早速なんですけど、細かい家事についての説明とかしたいんで、伊織にこれから来てもらってください! よろしくお願いしますね忍足先輩!」

反論の余地もなく、電話は切れた。いま連絡あって、いきなりこれから、か……。時計を見ると、もうすぐ20時になるところやった。
スポーツで負傷した体のつらさは、俺もよう知っとる。伊織は夜だけのお手伝いやけど、昼間も千夏ちゃんのお母さん、大変やろしな。しかもヒビ入っとったらかなり痛いで……。

「伊織ー」
「はい? あ、千夏、なんだったんだろ?」
「んん、それなんやけどな。実は……」

週に数回、3時間程度のことやけど。千夏ちゃんのお母さんの力になったり、伊織……。





勤め先となったカフェ『Zion』からの帰り道、わたしは罪悪感でいっぱいになっていた。

「千夏……やっぱりこれってまずい気がする……」
「大丈夫だって。にしても店長さんめっちゃイケメンだね。しかもなんかいい人じゃない? あたし、音楽のこととかほとんどわかんないのに雇ってくれたよ」
「まあ、わたしが結構、強めに推したからね」

主に見た目と、エスパー&コナンな能力についてだけど。
わたしの仕事中、千夏は面接中だった。店長はすっかり千夏が気に入ったようで、今回もかなり話が盛りあがったらしい。たぶん、店長も最終的には千夏の見た目のよさで採用したんだろう。それはそれで、なんとなく失礼な気がするので、本人には黙っておくことにした。

「伊織は? 初日どうだった?」
「うん、1時間程度だから簡単なことしかしてないけど、バイトの先輩たちもいい人たちだったし、うまくやっていけそう。それよりさ、やっぱりまずくない?」
「なにさっきからー!」
「いやなんていうか……道徳的な問題? 的な」
「どうしたの急に。なにその罪悪感満載な顔」
「だってさあ……」

かかってきた電話をわざわざ侑士に取らせるようにしたのも、千夏の指示だ。
彼女曰く、わたしから事情を話す場合は、侑士の真剣な表情に罪悪感がつもりまくって失敗する可能性があると踏んだらしい……それは、本当に見事な推理である。だっていま、遅れてきた罪悪感でいっぱいだ。
やはり侑士は、わたしにとっては想像以上に強敵だった……。

――送っていかへんでホンマに大丈夫か?
――大丈夫! 千夏の家、遠くないし!
――ん……お母さんによろしく伝えとってな。なんなら跡部に、ええ病院を紹介してもらったらええよ。
――あ、そうだね。うん。

侑士の、心配そうな顔ったらなかった。基本的にあの人、とっても優しいから。
その目に疑いの色が全然なかったのも、胸が苦しくなった理由のひとつだ。

――じゃあ、行ってきます!
――あ、ちょお待って伊織。
――えっ……。

侑士の涼しげな表情がつらくなってきて、そそくさとマンションを出ようとすると、突然、体が包まれたのだ。玄関先で、ぎゅうっと力をこめる侑士の手が熱くて……胸が苦しみと高鳴りでおかしなことになっていっていくのを、自覚していた。

――今日はもうちょっと一緒におれる思っとったで……寂しいやんか。
――侑士……。
――わかっとるよ、しゃあないことや。せやけど、俺のわがまま許してな……?

求められた唇も、同じように熱かった。何度も、角度を変えてキスをする。
最後に唇が離れたとき、侑士はちょっぴり寂しそうだったけど……でも、優しい笑顔で。

――ほな、気いつけてな。夜、電話してな?
――うん、いってきます。

あんなの、ダメだよ、ずるい。
いや侑士はずるくないんだけど、あんなのもう、いますぐにでも謝りたくなったよ!
そういう意味でも、やっぱり千夏はすごい。わたしが事情説明役なら、間違いなくギブしてたと思う。

「でもバイトするのって、そんなにいけないこと?」
「違うよ、それがどうこうって言ってるんじゃないよ……けどなんか、なんか、手段がさ! 侑士、わりと本気で千夏のお母さんのこと心配してたから」
「そりゃそうでしょ。あたしは忍足先輩の情に深いとこにつけこんだんだから」
「あ、あんたホント……跡部先輩じゃないと容赦ないよねっ」侑士がかわいそう! お前が言うなって感じだろうけど……。
「それはあんたもでしょ。景吾を騙すのはあたしも無理。だから、明日の事情説明は、約束どおり伊織が景吾にしてよね?」
「うん、それはできる」即答した。相手が跡部先輩なら、どんな顔をされても罪悪感がわかない自信がある。
「あんたも自分の男じゃなきゃ容赦ないじゃないのよ……」

千夏の軽快なツッコミを流しつつ、それでもやっぱり、まだ胸が痛かった。
侑士のしゅんとした顔にも弱いし、なによりわたし、侑士に嘘ついちゃって……。

「ああ、でもやっぱり、ひどい女じゃない? わたしたち」
「もう、伊織? あたしたち、浮気してるわけじゃないんだよ?」
「そうだけど……」
「伊織さ、あんた家をでる前に、忍足先輩になに言われたのか知らないけどさ」ギグッとした。お見通しですか……さすがエスパー&コナンである。「だけど、よく考えて。そもそもが間違ってるんだから」
「そもそも?」
「そうだよ! なんでバイトしちゃいけないとかって、彼らにあたしたちの人生を決められなきゃなんないの。あたしたちの自由はどこよ? あたしたちの人生の選択肢は、あたしたちが決めていいはずじゃないですか!」

まるで政治家の演説だ。大きな声だった。あげく、手まで広げて大げさに言った。
夜道を歩く人たちが、こそこそと振り返っていた。そりゃそうなる。

「それが人権ってことじゃないですか!? 校則で禁止されてるわけでもなし、家庭で禁止されてるわけでもなし、もちろん法律を犯してるわけでもないのに、勝手な彼らのルールで、あたしたちがコントロールされているんですよ!」
「ま、まあ……そうだね」すごい社会問題みたいな言いかたするじゃん……。
「好きだからって、その気持ちにつけこんでるのは、そもそもあっちが最初なわけです! 束縛が強すぎ! もちろんかわいいですよ? でもあの束縛野郎たちに我慢してたら、あたしたちは一生、自由に生活できないんですよ!?」

お前は土井たか子か。いや田中真紀子か。いやどっちも古すぎる……わたしもどうかしてるんだろう。せめて片山さつきか、蓮舫にしておくべきだったか。
いや、そんなことはどうでもいい。

「んん……まあでもさ、千夏」
「なんでございますか!」すっかり政治家気取りである。
「結局わたしたちさ、そうは言っても、自由にできないから、いま、彼らを騙してるんだよ……ね?」
「う……」

急なドライ発揮はわたしのよくない癖なのだけど、いきなり正論をぶつけてしまうことがある。
千夏の言ってることはごもっともなのだけど、それを正面切って言わないのは、わたしたちの弱さだ。もちろん、説得できないというあきらめも、理由のひとつ。
でももっと根底にあるのは、それでギクシャクして、嫌われるようなことがあると怖いから。だからこそ、好きという気持ちは厄介なんだ。自分が自分じゃなくなるときがある。その想いに負けてしまって、こうした不道徳な決断をしてしまう。ものすごく矛盾しているけど。

「でも! これは本当に最後の手段的な罪だよ! こうするしかないじゃん!」
「そうだね……聞き分けないもんね」跡部先輩も、侑士も……。
「そうだよ、彼らの説得に時間かけてたら、いつまで経ってもバイトできないんだから!」

好きな人に嘘をついてバイトするなんて、もちろん、わたしたちだって嫌である。
だけどバイトしなきゃ、お金が足りない。パパみたいな彼氏になってほしくない。ちゃんとした贈りものをあげたい。いつも彼がかわいいと言ってくれる自分でいたい。
うん……やっぱり必要なんだ、そう、そこは間違いない!

「伊織、もう考えててもしょうがない」
「そうだね……うん、わたしも覚悟を決める」
「そうだよ、もうはじまっちゃったんだから。ここまでやったからには、やりとげるしか道はない!」
「そ、そうだね……」しかし、捻挫でいつまで引っ張る気だろうか。
「でしょう? あんただって、あのCDの山、手ばなせ」
「無理」
「すごい即答……」

あのカフェは、音楽マニアにはたまらん宝の山である。あの店長が集めたCDとLPレコードの山だけは……。
捻挫でどこまで引っ張れるかもこれから考えなくちゃいけないけれど、とにかく、やりとげるしかないことは明白だった。

「とにかくお互い、絶対に崩れないように頑張ろう。わたしも頑張るから」
「うん、あたしも頑張る。大丈夫だよ絶対! 伊織、あたしたちやっぱり親友だね!」
「親友だよ、千夏!」

こうして、わたしと千夏の秘密生活がはじまったのだった。





to be continued...

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