秘密_03
3.
カフェ『Zion』で働き始めて、1週間が経とうとしていた。
「千夏、いま何時!?」
「12時55分、大丈夫、まだいける!」
最高のオシャレ空間に、高校生にしては高い時給という環境はもとより、いちばん神に感謝すべきは、あの侑士と跡部先輩にバレる気配がまったくないということだった。
二人を納得させてから、なにごともなく1週間が過ぎているのだ。こんなにうまくいくとは、実のところ、思っていなかったわけで。
「ぎゃー! 間にあう!? ねえ!?」
「いけるいける! 早く……! あー! 早く信号、変わってよ!」
さて、この日わたしと千夏は横断歩道の前で慌てていた。信号が変わった瞬間に走りだし、なんとかギリギリ遅刻にはならずお店の前に到着する。もはや裏口から回っている余裕がないので、1段飛ばしで階段をかけあがって正面入口の扉に手をかけると、同時にでてきた女性とぶつかりそうになってしまい、必死に頭をさげる始末である。
「すみません!」とっさに謝った。
「あ、大丈夫です」
「ホントにごめんなさい!」千夏も焦って謝罪する。
「いえいえ、大丈夫です」
ぱっと見、綺麗なお姉さんだった。落ち着いていて、さらさらとした髪の毛からなのか、それともなにかつけてらっしゃるのか、とてもいい香りがただよってきた。
思わず、ピュウっと口笛を吹いてしまいそうになる。マブがいるじゃねえか。ってなもんだ。時代錯誤も甚だしいが。
「ねえ伊織……」
「ん?」
「さっきの人、めっちゃいい女の匂いがしたよね」
「あ、やっぱり千夏もそう思った!? 顔はよく見えなかったけど、いい女っぽい感じだったもんね!」
店内に入って、すでに入っていた早番スタッフに挨拶をしながら、わたしたちは裏口にあるロッカーに入っていった。
どうやら、千夏も思っていたらしい。わたしも千夏も、侑士と跡部先輩に関わらないでいてくれる綺麗なお姉さんが大好きである。
「あたしはっきり見たよ! めっちゃいい女だった! あたしもあんな女になりたい! そしたら景吾はもっとメロメロ?」
「わかる! 雰囲気だけでもうっとりする感じ。すごく大人感が満載だった! わたしもあんな感じになれたら、侑士メロメロかな……いやあん、もう!」
働きはじめてわかったことだが、『Zion』にはオシャレな感じの人しか来ない。ライブハウス通いをしているわたしとしては、音楽好きにオシャレな感じの人が多いのは一定理解してはいるものの、そのなかでもオシャレな人がこの店にやってくる、という印象だった。
そういうのもいろんな刺激になるのだ。オシャレの勉強にもなるし、お金も稼げて、いろんな音楽に埋もれて、一石五鳥くらいの気分。
きゃいきゃい言いながらエプロンをつけていると、店長が呆れた顔をしながらこちらに向かってきているのが見えた。ボスの登場に、二人で背筋が伸びていく。
「今日もギリッギリ、おつかれさま」嫌味である。
「店長おはようございます! いつもギリギリで生きてたいんで、あたしたち」千夏がおどけた。あの歌も名曲だよねえ。さすがスガシカオの歌詞に松本孝弘のメロディだ。
「結構。ところで二人とも、念のために言っておくけど、今日の時給は1200円だからね」
「えっ!?」「えっ!?」
今日は、いつも夜に働いているわたしと千夏が土曜のお昼出勤となった。明日は3年生が引退となる高校テニス大会のため、氷帝学園テニス部は個人練習日なのだ。侑士と跡部先輩はテニス練習に励んでおり、マネージャーたちは自由参加なので、我々は吉井家の昼間の家事をやるという説明を彼氏たちにしていた。いつも土曜日に無理して出ちゃっているバイトの先輩も多いに喜んでくれたし、人助けした気分になってバイト代を稼げる。要するに、ラッキー、というわけだったのだけど……。
まったく聞いてもいなかった話に、盛大に驚いた。待ってよなにそれ……! せっかく土曜の昼間にでてきたってのに、なんで時給がさがるんですか!
「な、ちょ、なんでですか! そんな話、面接のときは言わなかったじゃないですか!」
「そうだった? でも労働契約通知書には判子が押してあるよ? これは君たちも承諾済みってことになる」
店長がバッと書類を見せてきた。用意していたということは、この反発を見越していたということだ。というか、いつもこれをやっているんじゃないだろうか。常習犯の臭いがぷんぷんとする。
「ほらここ。見て」
店長が指さした先に、ものすごく小さい字が見えた。これは、フォントサイズいくつだ! マイナス2とか3じゃないのか!
「えっと、や、夜勤手当として200円……?」老眼なのかというほど顔をしかめて、わたしはざっくりと読みあげた。
「そう、いつもは夜だから1400円。今日は昼間だから1200円だね」
「こ、こんなの詐欺じゃん!」千夏が吠えた。
「この世は食うか食われるか。ほら千夏ちゃん、お客さん来てるからでて。伊織ちゃんは裏にある今週のおすすめCDを手早くラックにインしといてね、よろしく」
うちの店長は、とにかく気が若い。ノリもいいし、まるで友だちのように話してくれる。そして何度もいうが、かなりイケメンだ(侑士先輩には及びませんが)。
あげく、頭がいいというのは話していてわかる。今年25歳らしいけど、若くしてひとつお店をかまえている経営者。当然、お金にはちゃっかりしてらっしゃる。
「よろしくって……」ひどい、と千夏がぼやいた。
「仕方ない……1200円でも高いほうだよ」
「そうだけど……まあ、そうなんだけど」
「早くしないと遅刻扱いにするよー?」店長がさらに声をあげた。
「わああ! もう、わかりましたってば!」
がっくりと肩を落としつつ、わたしたちはそそくさと仕事に向かった。
常時3名のホールスタッフ(全員バイト)と、社員である調理師の2名、そして店長の合計6人体制で、このカフェは回っている。店内にある4人掛けのスクエアテーブルは全部で8つ。そんなに大きくないカフェなのだけど、アルコールの提供を朝から晩までやっているせいか、お客さんも多い。
店内中央には、キッチンカウンターがあった。そこがホールスタッフの主な作業場だ。簡単なドリンクはそこでつくるのだけど、もしも侑士と跡部先輩が入ってきたら一発でバレるので、いつも多少の緊張感がある。まあでも、このカフェは彼らの趣味じゃなさそうなのだけど……。
千夏がカウンターへ向かっていた。その背中を見送りながら、裏口に歩いていったときだった。
「ん……?」
人影に気づいた。『Zion』は2階に位置するカフェである。裏口には階段があり、上れば事務所に通じる扉と、そのまま店の裏から入れる扉と2つあるのだが、そこに人が立っていたのだ。
「あれ……あ、どうかされました?」
すりガラス越しに見えた人影に話しかけながら扉を開けると、女性だった。どっかで見たような……と思っていると、ふんわりといい香りがただよい、はっとする。
「店長、いますか?」
「え、ああ、はい、います。ちょっとお待ちくださいね……店長! お客さんいらしてます!」
斜め前にある事務所の扉をノックしながら叫ぶと、「え?」と声をあげながら、店長が扉を開けた。お客さんを見た店長は一瞬、目をまるくさせた。が、すぐに笑顔になった。
「めずらしい客だな、入れよ」
「ん」
どうやら久々に会った人らしい。
たしか、さっきぶつかりそうになった女の人だ。顔をはっきりと見てないのでわからないけれど、いい女感満載だったということだけは覚えている。ただ、お店でお客さんとして入ってきて、今度は事務所に店長のお客さんとしてやってくるのは、どうも、妙な感じがしなくもないけれど……。
「なに? 伊織ちゃん。なにじっと見てるの?」
「あ、いえ……」もしかして、彼女とか? いやいや、店長に限ってそんな。彼にはご家庭がある。「お茶とか、おだししましょうか?」
「いや、大丈夫。伊織ちゃんはホールに戻って」
「あ、はい。じゃあ、わたしはこれで」
店長だけでなく、お客さんにも軽く会釈をしたが、お客さんである綺麗なお姉さんは、わたしを見ようとはしなかった。そこはかとなく、直截的に嫌な予感がする。
綺麗なお姉さんで連想してしまうのは、わたしにとっては侑士だ。氷帝学園のなかでも外でも、ここ数年で何度も見てきた……彼のとなりを歩く、何人もの綺麗なお姉さんたちを。思いだすだけでイライラする……。
それはそれとして、氷帝学園からさほど遠くはないこの街だ。彼女が店長と侑士の共通の知り合いなんてことだってありえる。氷帝は生徒数が多い。上級生の顔などいちいち覚えていられない。外部の人間なら余計にわからない。だけど相手がもしも、侑士の彼女ってことで、わたしを知っていたら? 侑士にチクられる可能性はゼロじゃない。
――ところでさっきのバイトの子、氷帝学園の子でしょ?
――え? ああ、そうだよ。知り合い?
――ううん、そうじゃないけど……こっちが一方的に知ってるだけ。ふふふ。いいこと知っちゃった。
なんて会話がくり広げられていたら、どうしよう。心配しすぎ? そもそも侑士がバイト禁止彼氏だということを知っているのかってツッコミが入りそうだけど、一度でも侑士と付き合ったことがあるなら、あの束縛っぷりを知らないはずがない。うーん、バレるのが怖すぎるゆえの、考えすぎかな。
ああ、跡部先輩の歴代彼女なら、侑士の歴代彼女とは違ってすごく目立つからわかるのに。侑士の歴代彼女ってサラッとした感じの美人が多いから(あと、あまり目に入れたくなかったから)、全然、顔を覚えてないんだよなあ。千夏に話してみようか。
考えながらホールに戻ると、当の本人は接客をしていた。彼女はカウンター仕事よりも断然、接客のほうが好きらしい。
「ランチB、ドリンクはコーヒーで」
「はい、かしこまりました」
すっかり手慣れた様子の千夏の背中を見ながら、わたしはホールにあるCDラックへ向かった。彼女が接客している男性もまた、とてもオシャレな感じのイケメンである。
「聞いてもいいですか?」
「はい?」
「CD、エイフェックスツインはありますか?」
注文をし終えた男性は、すぐにCDの話をしだしていた。うちの変わったメニューシステムを見つけたからだろう。このカフェでは、ラックに並ぶCDのなかから、好きな音楽を1曲10円、アルバム1枚50円で店内に流すことができるのだ。
そんなんサービスで流してよ、と、最初、貧乏なわたしは思ったのだけど、働きはじめてわかった。このお店のスピーカーはめちゃんこにお金が掛かっている。タダで聴かせてたまるかという、店長の意地のようなものがあるんだろう。
それにしてもエイフェックスツインとは! なんというセンスのよいお客さまなのか!
「ああえっと……それは、CDタイトルですか?」
感激していたところで、ずっこけそうになってしまった。千夏の返答にである。
だあああああああ! と大声をあげてしまいそうだ。千夏にとってはごく普通の返答だったんだろうけど、我々音楽好きからすれば、「ワンオクありますか?」「ワンオーケーロックですね!」と言われるくらいすっとんきょうな返答なのだ!
急いで千夏の接客しているテーブルに駆け寄った。ていうか、だよ。店長があれほどエイフェックスツインを熱弁しているのに、千夏、わかんないのかな。いやあれは、聞いてないのか。めんどくせ、とか思ってるんだ、きっと。跡部先輩の話も、ときどきそんな感じで聞いてる千夏だもん。
「あ、違うよそれ! アーティストの名前だから!」千夏がぎょっとして振り返る。一方でイケメンは、お、という顔をしてこちらを見た。「エイフェックスツインですね、全部、そろってますよ! どれか流しましょうか?」
「おお。それなら、ジャケット見て選ばせてもらうっちゅうのは……」
「もちろんかまいません! ご案内いたします、こちらにどうぞ!」
関西の人だろうか。語尾に訛りがあった。わたしは極上の笑みを浮かべていたに違いない。関西人のイケメンって侑士だけかと思っていたけど、こんな感じのイケメンもいるんだあ、と、少し(ほんの少しね!)浮足立ったからだ。男性も、ふふっと優しい微笑みを浮かべていた。ああ、こういうコアな音楽ファンと会えるから、このバイトはやっぱり絶対に辞められない!
エイフェックスツインがずらっと揃っている棚に案内して、キッチンカウンターに戻ると、千夏が軽い合掌をしつつ、わたしを待っていた。
「サンキュ伊織、助かったー」
「いいのいいの。でも、これでエイフェックスツインは覚えたよね。千夏、店長がいつも熱弁してるの聞いてない?」
「そうだっけ?」やっぱり聞いていなかったらしい。「ていうかあのイケメン、どっかで見たことない?」
「え、まさか氷帝?」
「いやいや、さすがに氷帝にはいない。いたら有名人レベルでしょ。でもなーんか、見たことあるんだよね……」
「ええ? なにそれ」まずくないか? 関西人で見たことある? もし侑士の知り合いだったら! ああまた、嫌な予感がめぐってくる。「そういえばさ千夏、さっき事務所にさ……」
まだ働きはじめて1週間だというのに、舞いこんできた不安をなんとか解消させたい。千夏に店長のお客さんについて話そうとしたが、今度はイケメンが棚から声をかけてきた。
「すみません、これ、お願いできますか」
忙しい。まったく不安が解消できない。途中になってしまった会話にモヤモヤを残したまま、イケメンのいる場所まで駆け寄っていく。
彼の手にはエイフェックスツインの最新アルバムがあった。くはあ、さすがすぎる。さすが音楽好きだ。ああ、感情も忙しいっ。
「はい! ではこちらのアルバムをおかけしますね」
「ああいや、この、12曲目だけでええんじゃけど」ええんじゃけど……? 関西弁じゃなさそうだ。
「そうですか、かしこまりました、ありがとうございます!」
関西出身じゃないなら、侑士と知り合いの可能性は低いか? いやでも、千夏が見たことあるって言ってたのが気になる。ああもう、仕事に集中したいのに、なんだかヒヤヒヤしてしまう。
オーダー票にメモしつつも、若干、その指先が震えている気すらした。
「お姉さん」
「え? あ、はい…?」ドキッとした。忍足侑士の名前がでてきたら、一巻の終わりだ。
「エイフェックスツインって、どんな音楽じゃと思いますか?」
が、イケメンの質問は、まったく方向性が違っていた。いやどちらかというと、方向性が違うのはわたしの思考回路のほうで、イケメンの質問のほうが、この状況にはふさわしい。
緊張が一気にほどけていく。千夏が見たことあるというのは、きっと気のせいだ。そう思うと、さっきの綺麗なお姉さんにたいする疑いも、かなり被害妄想的だと、ここにきてようやく、落ち着きを取り戻しはじめた。
「うーん。そうですね。難しい質問ですね……ひとことでは説明しにくいですからね、この人」
「そこをなんとか、ひとことで」
「あははっ。あー、なら……そうですね」
茶目っ気のある切れ長の瞳に、また侑士を思いだしてしまう自分がいる。ああ、まずい……ひょっとしてこの一連の焦りは、バイトを楽しんでいるはずの、心の奥底にある本音が吹きだしはじめている証拠じゃないのか。
「ご乱心音楽、ですかね!」
「はははっ……ああ、ようわかった。ありがとう」
ようわかった。
侑士に、このイケメンとはまったく違うトーンで言われる未来を見た気がした。低く、呆れて、怒った顔で。
……ご乱心なのは、ほかでもない、わたしだ。
ついに、この日がやってきとった。
高校最後のテニスの試合。秋やっちゅうのに照りつける太陽がまぶしい。
「……今日で俺らも引退やなあ、跡部」
「ああ、そうだな……このチームメイトとも、今日で終わりか」
感慨深い。中学からずっと一緒やったチームメイト。大学に入ってまでテニスをやる連中はほぼおらん。跡部はどうせプロ転身。俺にも当然その選択肢はあったけど、やっぱりどうも、プロの世界でやろうっちゅう気にはなっとらん。
とりあえず、せっかく氷帝におるんやから、このまま氷帝学園大学部に進学して、大学で遊び呆けながら将来なにをするか考えることにした。
「打ち上げどこ?」
「アーン? 俺の家に決まってんだろうが」
「ああ、せやよね」
そんなことより、今日は日曜日……この1週間、夜はあんまり伊織と一緒におれへんかった。
跡部もなんとなーし元気がない。そらそうや。俺が伊織に会ってないってことは、跡部も千夏ちゃんに会ってない。二人は週3で千夏ちゃんの家のお手伝いさんをしとる。昨日なんか個人練習日やったで、なんならサボって伊織と遊ぼうかと思っとったのに、昼から夜までバイトするって言いだしたもんやから、俺も仕方なし、個人練習に行った。せっかく今日で引退して、伊織とふたりきりの時間が増えるいうのに、今後しばらくこんな感じなんやろか。
はあ……はよ治ってんか、千夏ちゃんママ。
「なあ跡部……」
「ん? どうした忍足」
「千夏ちゃんママ、いつ治んねん」
「……知らねえよ」
テニスラケットをキュッキュッと手入れしながら、跡部もぶすっとしとった。そうやんな、お前も俺と同じ気持ちよな。あんだけ毎日のように一緒におったのに、学校でしかベタベタしてへん。
「俺が病院を紹介してやるっつったんだが、掛かりつけがどうのこうのと、一向に聞く耳を持ちやしねえ」
その話は、伊織からも聞いた。せやけど、跡部財閥御用達の医者に見せたらすぐ治るかもしれへんのに。けど、伊織は伊織で、バイトが楽しいんやろう、「いいじゃないですか」って、なんや適当な返事ではぐらかすし……。
「最近、伊織イキイキしとるで……俺はこんなしょぼくれとるっちゅうのに……」
「千夏も同じだ。あの女どもは金さえありゃいいのか」
「まあそら……自分が働いた成果が金として出るんやから、嬉しいかもしれんけどなあ」
俺も跡部も、自分を納得させようとしとった。
恋人と会う時間が決定的に少なくなったっちゅうのにキラキラしとる、俺らとは対象的な彼女たち。正直、めっちゃモヤっとる。
やって先週、伊織と一緒におれた放課後は2日だけやった。これまではほぼ毎日、一緒におったのに……。ああ、俺の伊織をはよ返してほしい。ちゅうかあいつ、寂しくないんやろか。
「捻挫って普通、どんくらいで治るんやっけ?」
「普通の捻挫なら2日ほど安静にしていれば、動けるはずだがな。完治には1ヶ月強ってところか。しかし家事を任せるほどの捻挫となれば、もはやそれは捻挫じゃねえかもな」
「んん……なあ、そいや、病院に行ったあとの診断結果とか聞いとる?」
「聞いてねえな。重症だったとしか」
また重症か……それでもテーピングやらで固定しとったら日常生活にはそないに響かんと思うけど……まあ、千夏ちゃんのお母さんも、楽なほうがええからそこは甘えとるんかな。にしてもあと1ヶ月とか……長い。いや、1ヶ月で済むんやろか。このまま「お手伝いさんいたほうが楽だわー」とかなって、しばらくバイトすることになる可能性がないわけやない。
考えれば考えるほど、一緒におる時間を大事にしたくなってくる。今日は試合やし、終わったらすぐに帰って伊織とふたりきりになりたいんやけど、打ち上げあるで、一緒にはおれるけど今日も俺のなかではカウントされへんし……。
「会いに行こ」せめて今日は、試合しとらんあいだだけでも伊織とおりたい。「跡部、二人はどこ行ったんや」
「水場だと言っていた気がするが」
跡部がベンチを指さした。大量の氷とレモンの蜂蜜漬けが入っとったクーラーボックスが消えとる。水を入れて、試合後にキンキンのドリンクを準備しとくためやろう。
「ほな俺、伊織に会いに行く……」
「……待て忍足、俺も行く」
もぞっと立ちあがった俺に、跡部も立ちあがった。こいつも千夏ちゃんになかなか会えへんからやろう。テニスラケットを握れば、青学の河村ばりにやる気もでてくるもんやけど……ここ最近、テニスをしてないときの俺も跡部もぐだぐだやった。
鋭気を養える相手がおらんからや……週2や足りんねん。それでも少し寂しがってくれたらかわいいものを、まったく寂しい顔もしやがらん。それもひっかかるしやな……。
「忍足……いたぞ」
ともかく、なるべく傍におれるときは、ふたりきりやなくても一緒におりたかった。
その思いだけで試合会場をのんびりたらたら歩いとると、跡部がピタッと足を止めた。見つけたんやろうと跡部の視線の先を見ると、そこには案の定、伊織と千夏ちゃんがおった。それは、ええ。
せやけど、二人だけやなかったんや。俺らは二人の正面に立って、なにやら楽しそうに会話しとる男を見て、そのまま固まった。
「……なんやねんあれ」
「なぜあの野郎と、話している?」
「知らんわ」
「なぜだ」
「知らんって」
俺も跡部も混乱した。いちばん話してほしくなかった相手やと言っても過言やない。
そこにおったのは、立海の仁王雅治やった。
「行かないのか、忍足よ」
「お前もやん、跡部」
あの男はあかん、と、いつやったか、初対面のときに感じたことを思いだす。なにがあかんって、俺にめっちゃ好きな子ができたら、あるいは俺に娘が生まれたら、この手の男にだけは絶対に会わせたないっちゅう意味の「あかん」や。
仁王はなんちゅうか、少女漫画に出てくる男みたいな、危険極まりないセクシーさをかもしだしとる。色気が服来て歩いとるような男で、それやったらクズが定番やのに、なんやちょっとアツいとこを持っとるから厄介やった。声も優しい感じやし、いたずらっぽい表情も、儚くて消えてしまいそうな雰囲気も、俺が女やったら確実に抱かれたいと思うやろうと、勝手に妄想してまうくらいや。
いや、色気どうこうとか、そんなん俺も言われたことあるし、跡部やってそういう感じなんやけど、俺や跡部とはまた違う感じや……俺に仁王みたいな儚さはない。どっちかっちゅうとねちこいと思われるタイプ。一方で跡部はイケメンやけど王道って感じやで、「逆に王道苦手ー」ちゅう女子にはひっかからん。ちなみに俺はまったく王道やないで、俺に惚れる女が跡部に惚れることはあんまりない気がする。知らんけど。
せやけど仁王はあかん。とにかく危険や。危険数値が高すぎんねん! 誰もが一度は惹かれるタイプの男やねん、腹立たしい!
「……初対面っつう、感じじゃねえな」
「な……初対面な感じはせえへんよな……」
足が動かへんかった。どういうわけやか、三人は楽しそうに会話をしとる。なんでや。氷帝のジャージ着とるから話しかけたん? いつや。いつそんなチャンスあんねん。初対面やないっちゅうことは、前にも会ったことあるんやろ? なんで? マネージャーやから? どっかで偵察が入っとった? 立海にはデータマンの柳がおるからな、その可能性はある。ちゅうか、千夏ちゃんより伊織のほうが親しそうやない? なんでや!
じっと食い入るように見る俺らの姿は、三人には見えてへんのやろう。それだけ会話に夢中になっとるのも腹立たしい。
そのうち、仁王がクーラーボックスのなかを指さした。えっ、と思う暇もなく、伊織がクーラーボックスのなかからタッパを取りだして開けたかと思うと、仁王に1枚やりよった。俺の心臓が、ぎぎぎぎぎっと音を立てて痛みだす。
伊織……それレモンやん。レモンの蜂蜜漬けやん。お、お、おおおお俺との想い出やないか……! なんで仁王にやんねん!
あああああああああああああああああ簡単に食べよった仁王! 味わえや! 伊織の! あいや、味わうんちゃうわ! ああああああああ!
「あかん、跡部、もう俺は限界や……」言うとるあいだに、レモンの蜂蜜漬けを食べた仁王がくるっと背中を向ける。
「まあ落ち着け忍足……」どうやら会話は終わったようだ、と付け加えた。
「これが落ち着けるかっ……ああ、あああああああ……あいつホンマぶちのめしたいっ」
「いいか。こういうとき、復讐ってのは男にするもんだ、来るぞ……」
俺と跡部はさっと木陰に身を隠した。仁王がこちらに向かってくる。指に蜂蜜がついたんか、チュッチュと指先を舐めながら、ご満悦な様子でとおり過ぎていこうとする仁王……いちいちエロいんじゃお前!
俺と跡部は目配せをした。お互いが、うん、と頷き、瞬間、素早い動きで跡部が仁王の口をふさいだ。
「なんっ……」
「忍足!」
「任せときっ」
俺は勢いよく、近くの芝生に跡部ごと仁王にぶつかって倒れこんだ。どす、と鈍い音がする。跡部と仁王が俺の下敷きになって、二人ともめっちゃ痛そうな顔しとるけど……成功や。俺が無事やったんやで、言うことなしや。
「あれ!? あの人もういない!」
「え……? あっ……あれ、どこ行っちゃったんだろ……」
少し離れた場所から、伊織と千夏ちゃんの声が聞こえてきよった。二人が振り返る寸前に、仁王の姿はこつ然と消えたっちゅうところやろう。
「なるほどな、やるやんか俺っ……!」
やるやんか俺も……と、言いかけた瞬間やった。うしろからどえらい勢いでふたつの拳に頭をどつかれて、目の前がチカチカしだす。
「い、いったあ!」
「こっちのセリフじゃ!」
「な、なにすんねんボケ! グーやないか!」跡部と仁王の拳がわなわなと震えとる。いや待て! なんで跡部まで殴るねん!
「ったく、誰が俺にまで被害を及ぼせと言った! アーン!?」
「しゃあないやろ! こうでもせんかったらこのアホ……!」
「ぐっ……!」
つづけて、仁王はまたしても俺の頭をどついた。同時に、恐れを知らんこの男は、跡部の頭まで、グーでどつきよった。
「つっ……く……そ、痛いわ!」
「貴様、仁王……いい度胸してんじゃねえか!」
「痛いのはこっちも同じじゃ……グーが妥当じゃろう。なんなんじゃお前らは!」
仁王は眉間にシワを寄せたまま立ちあがり、冷静に自分のジャージをパンパンと叩きながら俺らを睨んだ。
「貴様こそどういうつもりだ。人の女に手えだしやがって……」
「はあ? なんの話じゃ……」意味がわからん、とぼやいとる。
「お前な、引退試合で女ナンパして恥ずかしないんか?」
「ナンパ……? なんのことなんよ。なにを勘違いしちょるんじゃ」
「おまけに俺と伊織の想い出のレモンの蜂蜜漬けあっさり食いよってからに! 俺かて、この俺ですら、今日まだ食べてないんやで! どういうつもりやねん!」
「お? おお、レモンの蜂蜜漬け……うまそうじゃったんでな、もらったんよ」
「もらっ……もらったちゃうわあ!」
「よいよい、なにをこんなにキレとるんじゃ忍足は……跡部、説明しんしゃい」
「その説明は貴様から納得のいく説明を聞いてから説明してやる……」
「はあ……難解じゃのう……なんなんじゃ、まったく」さっぱり、意味がわからん。と、また付け加えとる。「あー、ひょっとしてアレか? あのマネージャー二人は、お前らの恋人か?」
仁王は気づいたような顔をして俺のほうに向き直った。のん気な声をだしながらニヤニヤと……この男のこの余裕が腹立つわ……。
「恋人や! コ・イ・ビ・ト、や!」
「そんなおもてなしみたいに言わんでもええじゃろ……」なんや、ええツッコミするやないか。
「お前にレモンを差しだしたくもないやろうに、無理くり脅されて差しだした、あのめっちゃかわいい女の子は、俺の恋人やねん!」
「……別に脅したわけじゃないんじゃけどの……案外あっさりくれたぜよ?」
「うっ……うっさいねん! お前が脅したからじゃボケ!」誰があっさりじゃ! 伊織は嫌がっとったんや絶対!
「うるせえぞ忍足、落ち着いて話をさせろ……で、仁王、あの二人となにを話してた」
いろんなことで怒りがいっぱいになって興奮した俺を、跡部がピシャリと止める。クソ……千夏ちゃん、あんまり仁王と話してへんかったで……レモンの蜂蜜漬けも千夏ちゃんには関係ないし、やでこの男、冷静なんや……。
せやけど気になってしゃあないのは跡部も一緒。お前、冷静な振りしとるけど、血管が浮きでとるで。目がインサイト状態や……仁王、あんな顔に見つめられて怖ないんか?
「……まあ……ちょっと気になることがあったんでな」
「なんやねん気になるって……俺の彼女のこと気になっとんちゃうやろな」
「はあ……忍足、世のなかの男、全部が全部、お前の彼女に惚れると思いこみなさんな。こんなに嫉妬深かったら、あの彼女も大変じゃろうのう……」
「なんっ」
「ああ、実に大変そうだ、あの女は」
「ああ!? お前に言われたないわ跡部!」
「どういう知り合いだ、仁王」
あげく、めっちゃ無視された。
まあでも、ええ質問や。それを聞かんことには話が進まんのはたしかやった。
「どうって……『Zion』に昨日行って、食事しただけじゃ。音楽に詳しいスタッフを俺が覚えちょったから、見かけて声をかけた。それだけじゃき」
ふう、とため息を吐きながら、仁王はごく当然のようにそう言うた。せやけど意味のわからん説明に、俺と跡部はポカン、と口を開くしかない。
「アーン?」「はあ?」ついでに、ハモった。
「ん、なんじゃ……なんでそんなすっとんきょうな声をあげちょる……」
仁王の口からいきなり出てきた話に、俺たちも同じ方向に頭をもたげた。思わず顔を見合わせるほどや……。
いやいや、仁王くん、かなわんな君……。
「あんなあ仁王、順を追って話せや。それだけやったら俺ら、意味がわからへんやろ?」
「頭はいいほうだろうと勝手に推測してたんだがな……仁王よ……」
「いや、順を追うっちゅうてものう……俺の彼女が音楽好きなんよ。それで俺も音楽に詳しくなった……まあそんな流れで、あのカフェに入ったっちゅうだけなんじゃけど」
「アーン?」「はあ?」また、ハモってもうた。
「ん……さっきと同じ反応じゃの……なにから説明したら納得がいくんじゃお前ら」
かみあってへん……この疎ましい雰囲気を跡部も俺も、仁王もめちゃくちゃ感じとる。そのせいで、しばらく俺ら三人のあいだに沈黙がつづいた。
「……あれだ、つまりだ、なんでそのカフェにあの二人がいたかを聞きたい」
「せやせや。付き添いやろか。土曜やから?」たまには外食っちゅうやつか。「となりにおばちゃんがおったやろ?」
「当然そうだろうな。だが、なぜお前と知り合いになっている。ナンパしやがったのか」
「そうやで。あの二人を、おばちゃん差し置いて、音楽の話で、なんでお前となんで仲ようなんねん。やっぱりナンパしたんやな!?」
今度こそ、仁王も頭をもたげた。
「さっきからお前ら、ナンパのことばっかり言うけどのう……なにを言うちょるんよ? 音楽を聴くのに1曲だけ注文した、そのときにちと談笑しただけじゃき。それがお前らにとってはナンパになるんか?」
「アーン?」「はあ?」
「もうやめてくれんか、そのユニゾン」
仁王の願いも虚しく、俺らのハモりはしばらくつづいた……。跡部はそこから、考えこんどった。おかげで、だんだんと俺も仁王も口を閉じたんやけど……その長い沈黙をやぶったのは、仁王やった。
「お前ら、ひょっとしてじゃけど……」
「なんだ」「なんや」
「……まさか、恋人のバイト先も知らんのか? カフェ『Zion』っちゅう店」
「……」跡部がカッと目を見開く。俺に視線を預けてきた。
「……」バイト先は……千夏ちゃんの家やろ?
「おい、跡部、忍足……? おーい……戻ってきんしゃい」
目の前で、仁王の手のひらが、ふらふらと右往左往していた。
「侑士先輩さすがでした! あっという間に倒しちゃったね! 相手の選手!」
「んん、せやろ? 伊織が応援してくれたおかげや」
俺のシングルス終了後、氷帝ベンチで伊織がドリンクとレモンの蜂蜜漬けを持って、俺に駆け寄ってきた。
めっちゃ笑顔で。めっちゃかわいい。せやけどなあ、俺、いまめっちゃ怒ってんで。もちろん、そんな感情、微塵もだす気はないけど。いまは、な。
「ん……侑士先輩、具合でも悪い?」
「なんで? そんなことないで」
おっと、あかんあかん。お得意のポーカーフェイスかましてんのに、俺の疑心がじわじわでてきたんやろか。眉間にシワでも寄っとったか?
それともアレか? 伊織の疑心暗鬼がそう思わせるんやろか。なあ伊織?
「うん、そっか。ならいいんだけど!」
俺の顔色をうかがいながら、伊織は腑に落ちん顔をしつつ、タオルを差しだしてきた。レモンの蜂蜜漬けのタッパも開けて、はい、と微笑む。はあ、かわいい。キスしたい……。
ああ、あかん! ほだされとる場合ちゃう! 俺はもっと腑に落ちんことあんねん……お前よりももっとや、もっと!
「伊織、今日はバイトないねんな?」
「うん、今日はお休み!」
「バイト、楽しいんか?」
「うん、楽しいよ! すごく!」
「そうなんやあ……ただの家事やのにね?」
「それは……だって、千夏の家族すごく面白いからっ」
「ほうほう、さよか。ほな俺も今度、一緒にお手伝いしに行こかなあ」
「えっ!?」
「え? あかん? バイト代はいらんけど?」
「い、いやでも、男の人だとその……千夏、千夏のお姉さんが、緊張しちゃうかも!」
腹の底からせりあがってくる怒りが体をビリビリと刺激しはじめる。こんなわかりやすい慌てかたをしとるのに、よう俺も騙されとったな。まあ、それだけ伊織を信じとったってことや。
それやのに……面白い嘘ついてくれるやんけ。ええ度胸しとるわホンマ……。
「へえ……こんな高校生相手に?」
「す、するよ! 侑士先輩は、だって、すごいセクシーだから!」
「ふうん」
あのあと、俺と跡部は仁王から何度も確認を取った。あの二人に間違いはないんか、ホンマにカフェでバイトしとったんか。
――音楽に詳しいほうの……レモンの蜂蜜漬けのほうじゃき、忍足の彼女かのう? 真んなかにキッチンカウンターがあるんじゃけど、手慣れちょった。急な手伝いとは思えん。
――千夏は、どうだったんだ?
――彼女のほうは、俺が店内に入ったらすぐに、エプロンをつけて注文を取りに来てくれた。手際も悪くなかった。音楽には疎い感じじゃったけど……。ちゅうか、その前に、二人がカフェに慌てて入るのを見たんよ。遅刻しそうな雰囲気じゃったし、やっぱりバイトじゃないかと思うけどのう。
――跡部……。
――忍足……。
――確定やろ、これ。
――悪いが……俺は戻る。なんとなく、後味が悪い気が、せんこともない。
どこか気まずい空気を感じたんか、仁王はそのまま、去っていった。
俺と跡部は、しばらく沈黙しとった。はっきり言って、お互い、絶望しとった。そら、千夏ちゃんはともかく、信じとったもん伊織のこと。俺に嘘なんかつく子やないって。それやのに……嘘ついて。俺を騙すつもりやってんな、最初から。そんなん、立派な裏切り行為やないか。
――ナメられたもんだな、俺らも……なあ忍足。
――どんだけじゃあいつら……ええ根性しとるやないかい……なあ跡部。
――千夏の家の話は全部、真っ赤な嘘ってことか。なあ。
――1週間でバレるような作戦で俺らを騙そうとしとったっちゅうことや。なあ。
――忍足……俺は騙された振りをつづけてやろうと思う……お前はどうだ。なあ。
――面白いなあ跡部、なんでやろ、俺も同じこと考えとったで……。なあ。
――ふっ……。俺らなりの、復讐だな……Xデーはいつにする。なあ?
――せやな……。Xデー。ま、少し、様子見でえんちゃう……? なあ?
――完膚なきまでにしてやろう……。なあ!
――ああ……めっちゃヒヤヒヤさせたるで……。なあ!
いますぐ辞めさせてやる! 言うて、怒り狂うかと思いきや、跡部は意外にも、冷静やった。俺かて、ホンマやったらどやしつけて辞めさせたいとこやけど……俺らに嘘つくっちゅうことがどんだけ罪か、身を持ってわからせる必要がある。結局、通用せん、ちゅうことも。
今回のことが「最初からバレとった」と知れば、嘘をつこうなんてアホなことは二度と考えへんやろう。いやホンマは最初からとちゃうけど……ええねん、そんなんは。
覚悟しいや、伊織……。
「にしても千夏ちゃんのお母さん、たかが捻挫やのに、まだ治らへんの?」たかが、を強調したった。
「あー……なんか、わりと重症らしくて、ですね」
「ふうん……せやけどそれなら、長くても1ヶ月で終わるな?」
「そう……なんですけど、なんかほら、千夏のお姉ちゃんの子どももいるから、いてくれると助かるーって言われてて、ひょっとしたらその、延長? なんてこともあるかもしれません」
よう見たら、伊織の顔がすでにヒヤヒヤしとる。おまけに、敬語になっとる。そういや前も急に敬語になっとったことあるな。ああ、あのときも嘘つきまくっとったもんな!
俺に嘘ついて、楽しいんか……ええ加減にしいや自分……。
「おい忍足……ちょっと」
「ん……なんや?」
となりに座っとる伊織にしらっとした視線を向けとると、これから試合にでる跡部が、耳もとで声をかけてきよった。すっと立ちあがって伊織から距離を取る。
跡部は試合前から、使用人に頼んで千夏ちゃんの周辺のことをいろいろと調べさせとった。
「佐久間がいるから手短に小声で話す。まず、新聞配達の会社に息子はいなかった。経営している夫妻には沖縄の大学に通う一人娘のみだ」
「おいおい……そこからか」
「ああ、そうだ」跡部が懸命に怒りを押し殺しとる。「つぎに、千夏と佐久間の母親が同じママさんバレーのチームメイトなのは事実らしい。だがそのチームに、負傷者が出たことはこの1ヶ月ない」
「はっ……マジか」
1週間どころちゃうやんけ。捻挫した人が実在せんやん。まあ、どうせそんなことやと思ったわ。
「それから、千夏のお姉さんは結婚して新潟で暮らしている。子どもはいるようだが、最後に産んだのは2年前だ。さらにいま、こっちには戻ってきてはいない。新潟の嫁ぎ先にセールスを装った電話をして確認済みだ。本人が出た」
「……なるほどな」
呆れてため息がもれていく。跡部はもっと、落胆したやろう。ようまあそんな口から出任せが言えたもんやで。こうなってくると、千夏ちゃんはノリノリで嘘をついたってことや。おそらく、一連の流れは千夏ちゃんの提案……せやけど、カフェのバイトをけしかけたのは、伊織に決まっとる。音楽好きが集まるカフェやし、俺にもバイトしたいって言いだしたときも、カフェって言いかけとったしな。
「それから仁王が言っていた『Zion』にも電話で確認をとった。佐久間も吉井も今日はお休みです、だってよ」
「……笑えへんな」あの女どもホンマに……!
「どうやら重症なのは、互いの女だったようだ。なあ、Siriよ……」
『すみません、よくわかりません』
「だろうな!」
Siriも跡部のツッコミも流した。怒りでどうにかなりそうや。
さあ、覚悟しとけよ伊織……お前が自分から謝るまで、こっちもとことんやったるわ。
to be continued...
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