メスとコスメ_01



1.


土曜の午後は気持ちがいい。日曜だと、もう明日には学校じゃん……となってテンションがあがりきらないのだけど、土曜日だと「まだ明日も休みだー!」となってテンションがすぐにあがる。人間というのは単純な生き物だ。学校がそんなに嫌かと言われると、まったく嫌でもないのに、妙な気だるさが月曜日にただようのは、先入観からくるものだろうか。
この「先入観」や「偏見」というものは、あらゆる場面で存在する。いまのわたしにとっては、侑士の過去がまさにそれだった。

「伊織、こういうの似合うと思うねんけど、どないやろ?」

侑士とは、街でデートすることも多くなった。お互いにショッピング欲がわくと、「じゃあ一緒に行って選ぼう」となるのだけど、今回はわたしのバイト代が入ったこともあり、お目当てのブティックに洋服を買いにきていた。
侑士が嬉しそうな顔をして、ネイビーのワンピースをかかげている。

「わあ、かわいいワンピース! 侑士ってセンスいいよね」デザインがめずらしくて、一瞬で心を奪われた。
「ホンマ? 伊織に似合うの選んでるだけやねんで?」
「えー、じゃあ、わたしのこと、よくわかってくれてるってことだあ」
「おー? ようおだてるなあ? おねだりしたいん? ん?」
「違うもーん。でも試着したいなあ。似合うかなあ」
「伊織なら絶対に似合う。試着して俺に見せて?」
「うん! えーっと試着室……あっちかな」
「ああ、はよ見たいなあ、伊織のワンピ姿」

デレデレとした会話をくり広げながら、試着室を探していたときだった。背の高いお姉さんと目が合ったのだ。しかし、合った、と思ったのはわたしだけだったらしい。
彼女は、侑士をじっと見ていた。

「あれー? 侑士じゃない?」

そして、意気揚々と近づいてきたのだ。

「はい……?」

なにも質問されていないのに、うっかり侑士を見あげてつぶやいた。
侑士は顎を引いたあと、さっとわたしとお姉さんから目を逸らすようにして口もとに手を当てた。めちゃくちゃ気まずそうですね。あげく、沈黙してらっしゃるじゃないですか。

「ほらやっぱり侑士だ! ねえちょっと、久しぶり!」
「ん、あ、ああ……」

お姉さんは侑士の表情もすべて無視して、さらに身を乗りだした。目の前で、嬉しそうに侑士を見あげている。どう見ても、話しかけるなって顔してるのに……毎度のことながら、この手のお姉さんは空気を読まないという選択をしているのか、はたまた鈍感なのか。
そしてみな一様に、わたしには目もくれない。

「なに侑士、びっくりしちゃった?」
「せ、せや。急に話しかけられたでな」
「だって、目立つんだもんー。相変わらずイケメンだね!」

なんにせよ……まただ。
また、である。
どこからどう見ても、年上のお姉さん。20代? いやなんなら30代という可能性もある。最近の大人のお姉さんはみな、見た目が若いからだ。なので社会人だか大学生だか知らないが、とにかくわたしよりうんと色気もあって、香水がぐわん、とただよってきて、だいたいロングヘアーで、美人というのがお決まりだった。

「いや、そんなこと、ない、で……」侑士がチラチラとわたしの様子を伺っている。
「最後に会ったのいつだっけ? このところ、連絡くれないからさー」

付きあいはじめて、まだ4ヶ月弱というところ。もちろん、デートはいままで何度もしているのだけど、ここ最近、やたらと遭遇するこの場面。
正直、最初のころはわたしもよくわかっていなかった。まだキスしかしてなかったころは、「ああ、お知り合いなのね」と思っていた。侑士も「遠い親戚やねん」とか聞いてもないのに言っていたくらいだ。いま考えればおかしい。聞いてもないのに言ってくるところがまずおかしい。このあいだ、あれだけわたしに「嘘をついた」と非難轟々だったわりに、自分だって簡単に嘘ついてたじゃん、と、ここんとこ思うようになってきた。まあ、あのころは付きあいたてだったから、もう時効にしてあげてもいいでしょう!
しかしだな! いい加減、わかってきたのだ! 体を重ねて、大きなケンカだってして、お互いなんでもさらけだすようになったからこそ、わかる!
このお姉さんは、いやこれまでの声かけてきたお姉さん全員、一度は侑士とそういう関係になった女でしょう! おまけに、何度も言うけどみんなして年上で、色気あり、香水をしてて、ロングヘアー、ボンキュッボンで、美人! それが侑士の女の趣味! 性癖ってことでしょう!
あああああああああああぶん殴りたい!

「そ……す、スマホ変えてん」たぶん、嘘だ。ブロックしてる。
「あれ? そうだったんだ? じゃあ交換しよ!」
「いやあのそうやなくて……!」慌てて、侑士がわたしの腕をぎゅっと引き寄せた。ちょっと、なに!
「え……あ、え、ひょっとしてこの子、彼女なの?」
「せ、せや」
「あ、ごっめんなさい。てっきりあたし、妹か、親戚の子かなって」

嫌味か。
ああ、嫌味なんでしょうね。わたしよりも10センチは高い視点から、じーっと見おろしてきている。いや、これは見下していると言っていいでしょう! 口元が、ニヤニヤとしていた。完全に、小馬鹿にされている。不愉快だった。なによ、なんなんですか。え? 妹? 親戚の子? それはなに? 侑士にはとても見合わない女って言いたいわけ? え? ガキっぽいですか? ああ!?
ええええ、あなたはとってもお似合いですよこうやって侑士と並んでいると! バカ!

「へえ? お嬢さんいくつなの? まだ若いよね?」
「16歳……です」
「ぷふっ。かわい」

遠くから鋭い矢が何本も心臓に刺さったのかと思うくらい、痛い。かわいいは褒め言葉だけど、使いかたによっては嘲笑だ。侑士に絡んでくる女性は全員、わたしに嘲笑を向けてくる。悔しい……ものすごく。そんなの、気にするほうがどうかしてるのかもしれないけど。
わたしは、ぷいっと背中を向けた。

「どうぞ、ごゆっくり。侑士、わたし試着してくるから」
「ちょちょちょちょ待ってって! あ、ちょ、ほなな!」
「えー侑士、もう終わりー?」
「うるさいねんっ、もう」ぶつぶつと言いながら、侑士はツカツカ移動するわたしの手首をつかんだ。「伊織って、ちょ、待って!」
「なに……」振り向くことはできなかった。目が潤んでいるからだ。
「い……いや、あ、そ……あいつはな?」
あいつ? へえ、親しいんですねっ。「試着室に入るから、手、離して」
「あ……せ、せやな。ああ、きっと似合うわそのワンピース!」

いかにも、ご機嫌を取ってきた侑士の声色に、わたしはあからさまにむすっとした。ぐ……という鈍痛を覚えたような声が聞こえてくる。ああ、侑士のこと、困らせてる。だけど、ムカつくんだもん!

「伊織? あの、着たらちゃんと俺に見せ」

言い終わらないうちに、バタン! と試着室の扉を閉めてやった。
ああああああああああ腹立たしい! だって今日で何回目だと思います!? かれこれ7回はありましたよ! 世のなか狭いって言ったってさ、こんな近所で手当り次第、どんだけなのよ! しかも、しかも毎回、違うお姉さんだし! 

「な、なあ伊織ー……侑士も入ったあかん?」
「非常識なこと言わないでくれますかそこで待っててください」

息継ぎも忘れて、ドアに向かって言った。試着室にカップルで入るとかバカじゃないのか。変なことしようとしてるわけじゃないだろうけど、侑士ならやりかねない。

「敬語んなんの、やめてえやあ……」わたしの敬語は怒っている証拠だからだろう。
「……侑士がなんでセンスいいのかよくわかるよ。目が鍛えられてるからだねきっと。綺麗なお姉さんいーっぱい見て……」
「う……伊織、そんなん言わんとって? な?」

しょんぼりした声に、逆に非難されている気になってきた。
くそお……わかってるよ! 侑士の過去を責めたってしょうがないけど、まだ18歳になりたてのくせに、美人のお姉さんをとっかえひっかえ! わたし以外の女を、色ボケ野郎がああああああああああ!
とは、当然、言えない。いくらなんでもはしたない。黙ったまま、ふうーっと長い息を吐いた。落ち着かなきゃ。嫉妬は醜いぞ、伊織。

「……ごめん。もう大丈夫だから、そこで待ってて」
「……ん。待ってるな?」

なんとか、爆発をおさえて謝った。もう、自分が嫌いになりそうだ。仕方ないんだって、わかってるよ、こればっかりは。当時の侑士がどれだけ女癖が悪かったとしても、彼の過去を責める権利は、わたしにはない。
だけど、悔しい。はあ……ホントに涙が落ちてきそう。ダメダメ、そんなの最悪だ。たくさんのお姉さんを侑士が抱いてきたって思うだけで発狂しそうだけど、耐えなきゃいけない。誰にだって過去はあるんだから……ああ、だけど、すごく胸が苦しい!
いつも、この葛藤で吐きそうになる。わたしがこんなんだから、子どもに見られるのかもしれない。
バサっとワンピースを着て鏡の前で背筋を伸ばした。アシンメトリーな切り替えを各所に入れこんだデザインが特徴のプリーツワンピース。純粋に、美しい。こういうのが着こなせる女性になれば、すぐに彼女だと認識してもらえるんだろうか。
……買おうかな、と思った。内側についている値札をひっぱってみる。

「ぐ……」確認したとたんに、声が漏れでてしまった。
「伊織? どないした?」
「いや……大丈夫……」

2万3千円……わかってたけど、高い。そもそもここのセール品を狙いにきたというのに、このワンピースがあるコーナーには、完全に「NEW ARRIVAL」と書かれていたから、無理もない。

「伊織ー? 着れた? 俺にも見せてや?」
「あ……うん」

試着室の扉を開けた。侑士の目がキラキラっと輝きだす。ずるいなあ、そういう顔しちゃうとか。でも……たしかにさっき、わたし、かわいくなかった。侑士が悪いわけじゃないのに。

「め、めっちゃかわいい伊織! ちゅうか、ちょっと大人っぽくなるな?」
「うん……ちょっとまだ早い感じ、する、かな?」
「そんなことない。めっちゃ綺麗やで?」
「え……」

たった、そのひとことで……購入をあきらめていた心に、ぽわん、と火がともる。「大人っぽく」て、「綺麗」?
侑士はおだてている様子もない。涼しげな目だった。

「そ、そうかな……?」
「色っぽくて、俺、好きやなあ。これ、履いてみいひん?」
「え、あ、パンプス」
「ん。控えめな赤やし、ええと思う」

色っぽい侑士が、色っぽいと言っている。
足もとに用意されたパンプスを履いて改めて鏡の前に立つと、視界がぐっと高くなるのと同時に、足が長く見えた。着ている人間は変わらないというのに、見違えるとはこういうことなのか。
これは……結構、お姉さんっぽく見える! パンプスのおかげだろうけど、むちゃんこ、スラッとするじゃん!

「ほれ、めっちゃええ。似合っとるー」
「う、うん……! す、すごい。なんか、大人っぽい!」
「うん、めっちゃ綺麗やで伊織」

また、侑士が「綺麗」って言った!
パンプスの値札を確認した。パンプスはセール品だったはずだ。が、そこには1万7千円と記されていた。
……ああ! いちいち高い! ええと? 2万3千円と1万7千円で……4万。え……ちょっと待って。それって先月のバイト代の8割……だよね。

「伊織……? どした?」
「えっ!?」
「いや、なんや、嬉しくなさそうやし」
「い、いや大丈夫……えっと、着替える、うん……」

あからさまにしょんぼりしてしまったわたしに、侑士はきゅっと眉をあげた。直後、くすくすと笑いだしている。不思議に思って見あげると、彼は優しく微笑んでいた。

「くくっ……なるほどな。大丈夫や、俺、買うたるから」
「えっ」
「ほしいんやろ? ええよ、遠慮せんで。着替えておいで?」
「でも……っ」
「ええから、ほら」

苦笑しながら背中を押してきた侑士に、困惑したまま試着室に戻された。
着替えながら、思う。侑士が買ってくれる……? いやいや待って。そもそも、そういうのがおかしいって言いだして許してもらったバイトだったはずだ。というかもっとそもそもの話をするなら、全身4万のコーデなんて、普通の高校1年生には生意気にも程があるというものだろう。しかし、物欲がわたしのなかで芽生えているのも事実。
逡巡した。お兄ちゃんへの借金はお小遣いの前借りもできて半額は返せてるし、それなら……いいよねちょっとくらい! という結論にたどりつくまで、わずか10秒ほどだった。

「おつかれさん。よっしゃほな、服、レジに持っていこか」
「待って侑士!」

試着室から出てすぐに、侑士が服を受け取った。すでにお財布を手にしていて、完全に買うつもりのようだ。わたしはそれを、即座に止めた。いつまでも、そんなパパみたいなことしてもらうわけにはいかないんだ。

「ん……なんや伊織? どないした?」
「いいの。わたしが買う」
「え……いや、せやけど、予算がキツいんやろ?」
「大丈夫わたし、バイトしてるから! でもちょっとATMに行くから、侑士はこのワンピースとパンプス、キープするように頼んでおいて!」
「えっ、ちょ、伊織!?」

侑士を置いて、足早にATMに向かった。
先月のお給料の8割が消えるけど、来月にはまた給料日がくるんだ。来月に節約すればいい。それにわたし、どうしても……侑士に見合う、女になりたい。





決心というものは、一度するとなかなか強固なものである。ちょっと高いワンピースを買うとやはり違って見えるのか。翌週からのわたしは見た目が変わった。
まず、あのワンピースとパンプス効果なんだろうけど、街にくりだすとカットモデルで声をかけられることが多くなった。サービスでメイクもしてくれるというものだから、ほいほいついていって、オススメの(安い)コスメを購入した。余った予算はほんの1万円程度だったというのに、もうなんの歯止めもきかくなっていたのだ。

「ちょっと伊織、ホントにどうしちゃったの」
「へへ。へへへ。へへへへへ」

今週、何度目かの千夏の驚きだった。月曜にはアイシャドウをつけ、火曜には髪にパーマがかかり(無料)、水曜にはマスカラを塗り、木曜にはリップの色を濃くし、そして昨日のうちに、髪色を明るめのブラウンに変えた(無料)。どうだ! カットモデル万歳! これぞ! 高校デビューというやつではないのか! もう、すでに二学期の後半だけど……。

「髪! 超いいじゃん! 似合ってる! セクシー!」
「ホント!? そう!? 似合ってなかったらどうしようかと思ったんだけど、いい感じ!?」
「すっごいいいよー! 真っ黒より断然いい! そっちのほうがいい。垢抜けた感じ!」
「や、やった。やったー!」

女は外見である! と、いきなり思いはじめていた。いやもちろん、内面も大事です。人柄はきっと表面にでるんだろうで、内面がグチャッとしてる人は美人でもやっぱりグチャっとしているし、穏やかで美しい人はキラキラとしている。それはきちんと、学んでいかなくてはならない。
だが、しかし。
外見は誰だって努力しカバーできるものなのだ。生まれもったものはもちろんあるだろうが、努力があからさまにでてくるのが外見というものだろう。内面がよければ、わたしのことわかってくれる人はいるのよ、きっと。という甘えた思想は捨てるべきだ、と、最近、強めに思ってきた。要するに、急に美容に目覚めたのである。

「今度さ、予約しちゃった」
「え、なにを?」
「脱毛……へへっ」
「ええええええええ!? マジ! 超いいじゃん! なにそれうらやましい!」
「いままでさ、母さんの脱毛器でちょこちょこやってたんだけど、母さんに相談したら、『やったほうがいい』って。お金、お年玉貯金を崩してくれるって言ってくれてさあ!」
「うっそ……すごいじゃんやったね!」おばちゃん理解あるー! と、はしゃいでいる。
「うん! 彼氏できたってバレてよかったかも!」脱毛について話したとき、母は彼氏の存在をかなり気にしていた。
「ねえ、どこやるの? どこ?」
「そりゃ……脇、VIO」どちらも、母のオススメである。
「VIO!」
「ちょちょちょちょちょ、声でかい!」

クラスメイトの男子が一斉にこっちに振り返った。背中を向けて、千夏と教室の隅にひっこんだものの、ニヤニヤしていて気持ちが悪い……まあいいか、ほうっておこう。
世のなかには学生でも行ける親切な脱毛サロンがある。このさいだからつんつるてんにしてもらおうと画策しているところだ。コソコソ千夏に告げると、彼女は目をまるくした。

「ちょっとー、なに、ずるいっ。なにいきなり綺麗になろうとしてんのよー」
「だって、綺麗になりたいんだもん」
「急すぎだよ。この1週間、毎日のように変わっていくじゃん」なぜかむすっとしている。「なに、その顔」
「あたしが見劣りしちゃうもん。伊織、急に色っぽくなっちゃってさー」
その発言に、大げさに驚いてしまう。「いいじゃん、千夏なんてなにもしなくても十分に色っぽいんだから! わたしの数倍モテてるくせに、なんの不満があるの!」
「そういう問題じゃない!」

いったい、どういう問題があるというのか。あの跡部景吾を手に入れても満足しないこの女の欲望が末恐ろしい。むすっと顔のままである。

「いまは全然、伊織のほうがモテるよ。ねえ、貸してよコスメ。持ってきてるでしょ?」
「うん、あるけど……あ、やる!? トイレいこっか! 鏡あるし!」
「いいの!? やったー! 教えて教えて!」

もともとが美人な千夏だから、きっと少しメイクしただけで格段と美しくなる。まったく不公平だなとは思うけど、親友に褒められて嬉しくなったわたしは、彼女とそそくさとトイレに駆けこんだ。

「でもなんでさあ、なんでいきなり? なんかきっかけがあるんでしょー?」

トイレの鏡の前でビューラーをまつ毛に当てながら、千夏が言った。とりあえず目もとからなんとかしようとしているらしい。わかる、と心のなかで独りごちた。わたしも印象を変えるなら、アイメイクはいちばん大事な気がしている。

「んー、ちょっといろいろ」
「なに、なに濁してんの」

手際よくマスカラをちょんちょん、と塗りながら、視線だけ動かしてきた。
お互いが大好きな先輩たちと付きあいはじめてからというもの、ガールズトークはわたしたちの最高に楽しい時間となっているのだけど、今回に限っては、本当の理由を話すのは気がひけてしまう。
たぶん、おそらく……跡部先輩も、女絡みは半端なさそうだからだ。余計なことを言って千夏を悩ませてしまったらどうしよう、というわずかな不安があった。

「ちょっと。隠しごとはナシだよ伊織。大丈夫だって、誰にも言わないから」
「うん……でも、なんか、余計なこと考えないって約束してくれる?」
「なに、余計なことって」
「だからその……跡部先輩の、過去のこととか、だよ……」

ピタ、と千夏の動きが止まった。片目だけばっちりとマスカラが塗られているので、いささか怖い。ちょっとしたピカソの絵なんですけど。

「忍足先輩の過去が、なんかあるの?」
「……その」鋭い女だ。「前に深い関係だった女の人たちが、みんな綺麗なお姉さん、なんだよ」
「はい?」

悩みはしたものの、結局、ときどき起こってしまうデート時の件について、わたしはぽつぽつと語っていった。
大人の女性が、侑士に声をかけてくること。決まって、わたしが恋人だとは思われてないこと。その優越感まるだしの視線に、深刻な劣等感を覚えてしまうこと。
千夏のマスカラを持つ手が、ゆっくりとさがりはじめた。片方だけパッチリしたピカソの絵が、呆れたような視線でわたしを見ている。

「伊織……前に言ったじゃん、そんなこと言ったって……」
「わ、わかってるの! わかってる、だからわたし、責めてなんてないよ!?」いや若干、態度で責めてはいたけど。「そうじゃなくて、わたしが変わろうって思ってるだけなの! 自分に自信がつけばいいから!」

ため息を吐いた千夏に、情けない気分になっていく。
そう、前に千夏とは話したよね。きっと先輩たちは、たくさんの女の人たちと付きあってきてるって……。

――そんなこと気にしてたら自滅するだけ。嫉妬したってしょうがないことなんだから。
――そうだよね。嫉妬しても、仕方ないよね。
――そ。あたしたちにそれを責める権利もないし、彼らにしちゃ責められる要因もない。

百も承知だ。嫉妬してもしょうがない。過去と張り合っても意味がない。過去は、変えられないんだから。

――気持ちはわかるよ。でも仕方ないの。
――うん……そだよね。

そんなのは、わかってる……。千夏曰く、彼らにはそれを責められる要因などない。自分が醜いってこともわかってる。自信がないから嫉妬するってこともわかってる。

「ダメだよ伊織。それ以上は、考えちゃダメ」
「だ、だから、それは単にきっかけに過ぎなくて、いまは、自分磨きしようって思ってるだけ」
「……本当でしょうね?」
「ほ、ホントだよ! それだけ……」
「なら、いいけど……責めちゃダメだからね?」
「うん、本当にそれは、わかってるよ……」

放置されていたもう片方のまつ毛にマスカラを塗りだした千夏が美しい。もっと大人の、もっと手慣れた様子でメイクしている女性の姿を、侑士は何度、見てきたんだろう。
……でも、わかってるんだ。何度も自分に言い聞かせてきたことだから。
だからわたしが彼の過去を責めることは、このさきも絶対に、ないと思っていた。





今週になってから急に、伊織は綺麗になった。いきなりメイクしはじめて、髪型まで変えて、リップまでつけはじめて、今日はなんと髪色まで変えとる始末や。
どないしたんやろ、とは思うけど、単純に、伊織がどんどんええ女になっていくのは、嬉しい。

「最近、佐久間はどうかしたのか?」

放課後のテニスコートで、俺と跡部は見学しとった。まだ、新しいマネージャーが見つからんらしい。もうマネージャーいらんのんちゃうか、と正直なとこ思うんやけど、マネージャー業がないなったら、どうせバイトが増えるだけの話。ふたりきりの時間はそんなに変わらん気がして、それやったら、こうして遠慮なく見守っとけるマネージャー仕事を待っとるほうが安心やで、余計なことは言わんようにしとった。

「ん? せやろ? なんか目覚めたらしいねん」
「ほう? 急に色気づいてきやがったってわけか」

言いかたどうにかせえよ、とは思いつつ、うんうんと黙ってうなずく。今日の伊織はポニーテールや。その尻尾んとこがパーマでくりんくりんしとって、むちゃくちゃかわいい。
はあ、うっとりするわ。ええ女……俺だけの伊織。

「さりげなくメイクまでしてやがるじゃねえか」
「なんや跡部、よう見とるなあ。あんまり伊織のこと見つめんでや? 俺のなんやから」
「バカか貴様は。千夏がぼやいんてんだよ。佐久間が色気づきやがって、となりで並んで歩いてると見劣りしちまうってな」
「へえ……ああ、そうなんや」

まあ、素直に聞いたったけど、千夏ちゃんなあ……伊織が色気づかんかっても、自分、見劣りしとるで。なにをいまさら。と、思うんやけど、当然、口にはせんかった。こんなん言うたら跡部に殺される……。

「そのせいで、今日は千夏までメイクしてやがるじゃねえか」
「ええやん。なんかあかんの?」
「佐久間はともかく、素顔のままでいいんだよ、千夏は。十分に美しい」はあ、さいですか。いや佐久間はともかくってなんやねん。殺すぞ。
「別に綺麗になるんやったらようない?」
「よくねえな」
「はあ?」

意味がわからん、と付け加えると、跡部はじっとりと俺を見た。なんやねんその目。インサイトとは真逆のアンニュイさが気味悪い。
せやけどさ……彼女が綺麗になってくん、俺、素直に嬉しいんやけど。そら、跡部の言うこともわかるで。千夏ちゃんは知らんけど、伊織は素顔のままで十分にかわいい。せやけど、メイクしたってかわいいんや。ちょっと大人びて、色っぽくなる。ええやん、めっちゃ。なにがまずいことがあるんや。

「てめえはお気楽な野郎だな。なにもわかっちゃいねえ」
「せやから、なにが……」
「よく見てみろ、後輩たちを」跡部がビシィッ! と、部員たちを指さす。俺ら引退しとるのに、部員たちの半分がビクッと肩を揺らした。
「跡部、ビビってんでみんな。やめたりや」
「気づかねえのか忍足よ。俺たちの存在に怯えながらも、マネージャーを舐めるように盗み見てやがる野獣どもの視線に」
「なん……なんやて?」

ちゅうか後輩連中、俺らの見学に怯えとったんか。それにも気づいてないわ俺。
いやいやそんなことより、や。跡部の指さしに気づいてない半分の部員を、俺はそっと眺めた。んん、たしかに。ボール拾いしとる伊織をじっと見とる連中がおる。ちょお待て、なんかニヤニヤしてへん? おい、まさか勃起してんちゃうやろな。俺の伊織を夜のおかずにしようやなんて処刑モンなこと考えとったらホンマに殺したるぞ!

「おい、なんか、忍足先輩、こっち見てね……?」
「うわっ、マジだ。目が死んでる」
「つうか跡部部長も見てるって! ヤバいってフォーム間違ってたのか!?」
「元部長な!」
「どっちでもいいって! 逃げようぜ!」

めっちゃ距離あるから、聞こえてくるわけないんやけど……俺らの視線に気づいた後輩たちの声が、なんとなし聞こえた気がした。
あっちゅうまに別コートに走っていきよるやん。めっちゃ怯えてるやん。

「小野瀬!」
「え……え、オレ……?」
「お前やお前、ほかに誰がおんねん、ちょおこっち来て。はよ」
「は、はい……」

跡部がふんふんと腕を組みはじめた。俺の意図がわかったんやろう。小野瀬は首をかしげながら、俺らの座っとるベンチまでやってきた。
普段はぼそぼそしとる俺の声がコート中に響いたで、遠くで、伊織がきょとんとしながらこっちを見とった。はあ、伊織……遠目でもめっちゃかわいい。きゅん、としてまう。いつのまにそんなに色っぽくなったんやあ。もう、侑士たまらんわ。軽く手え振っといたろ。あ、振り返してくれとる。はああ、かわいい。むしゃぶりつきたいわあ。

「あの……忍足先輩?」
「お? おお、小野瀬、もう来たんかいな」
「はよって、先輩が呼んだんじゃないっすか……」
「せやせや、ちょお聞きたいことあんねん、ここ座り」

跡部と俺のあいだに席を空けた。小野瀬がうへえ、という顔で俺を見る。たぶんやけど、跡部が怖いんやな。大丈夫や、説教ちゃうから。

「すみません跡部先輩、失礼します」
「かまわねえ。俺もてめえに聞きたいことがある」
「え……なん、なんですか。ねえ、忍足先輩、なんですかっ」嫌な予感しかせえへん、ちゅう顔で、助けを求めてきとった。
「落ち着き。取って食おうやなんて思ってへんって」
「本当ですよねっ!?」

どんだけ信用ないねん、お前の憧れちゃうんか俺は。とか思っとるあいだに、跡部がおもむろにベンチから立ちあがった。コートをくまなく見る振りをして、小野瀬に背中を向けたまま語りかけようとしとる。いやまあ、夕日がええ角度で跡部を照らしとるけどやな……お前は昭和のスポ根ドラマか。

「小野瀬、正直に答えろ。マネージャーのことだ」
「えっ……」吉井ですか? と、顎を引いとる。「オレなんもしてないッスよ!」
「誰もそんなこと言ってねえだろうが」
「だだだだって」
「ちゃうんや小野瀬、お前がどうこうっちゅうより、あの二人……」ホンマは伊織だけでええんやけど、跡部もおるから、しゃあなしや。「テニス部での男子の人気とか、どうなん?」
「は、はい?」ごくっと、今度はつばを飲みこんだ。「手え出せるわけないっしょ! 先輩たちの彼女ですよ!?」
「あたりまえじゃお前、手なんか出しとったらぶち殺すからな!」
「だから出してないですってば!」
「そうじゃねえよ小野瀬、注目をされてるかどうかの話だ」
「え……あ、ええ……? そ、うーん」

跡部が冷静に話をつづけた。まあそら、俺らの女に手え出すテニス部員なんかおるわけないんやけど。小野瀬のこの反応を見る限り、そこまでやないけど、やっぱりなんか、あるな、これは。

「なんやねん、はよ言いや」
「いや……正直、二人とも人気ありますよ。今日はその、噂んなってました」
「なに? 噂って」
「いや……そ、えっと」
「はっきり言えよ、小野瀬」

我慢ならんかったんか、ついに跡部が振り返ってきた。小野瀬がめっちゃ嫌そうな顔して、頭を抱える。なんやおい、どんな噂があってんな。めっちゃ気になるやんけ。

「伊織が最近、綺麗になってるのもあるし、まあ、吉井はもともと、モテるから、だと思いますけど。今日、なんか休憩中にあの二人が……その、ぶ、ぶい……」
「ぶい?」なんや、ぶいって。
「ぶい、なんだ?」
「……ぶ、VIOがどうとか、騒いでたらしくって」
「は?」
「なに?」

V、I、O? えーっと……VIPやなくて? チョコの話やない、と? ほなVIOってつまり……。

「そ……たぶん、その、大事な部分の、脱毛……?」な、なんやて……。「じゃないかって。いろんな男子のグループトークで、結構、通知が……」
「おい!」間髪入れず、跡部が吠えた。
「わあ! なんすか!」

待って、混乱しそう。伊織、VIO脱毛するん? うっそやろ、めっちゃ興奮する。いやそれよりも、や。男子のグループトークで、通知やと……?

「見せろいますぐ! スマホ取ってこい!」無理もない。
「ちょ……いや、跡部先輩、そんな……」
「見せて、小野瀬。俺らの言うこと聞けへんの? はよロッカーに行き。はよ!」
「ぐ……」

これだから嫌だったんだよ、と言わんばかりの顔で、小野瀬はダッシュで荷物を取りに行き、ダッシュで戻ってきた。さすがのスピード感や。謙也には負けるけどな。
それはそれとして、黙ってスマホを差しだしてくる。目が完全に色を失くしとったけど、知ったこっちゃあるか。
小野瀬に聞いてグループトークを開くと、高校生男子たちの、ここでは文字にもできへんような卑猥な妄想が「佐久間」「吉井」の名前でくり広げられとって、俺と跡部は、お互いがぷるぷる震えだした。

「これ完全に今日のおかずにするやんけ!」
「し、知らないっすよ! お、オレは絶対にしてないっす!」
「あたりまえじゃボケ! しとったら殺す!」
「全員の名前をあとで俺に送っておけ。とくにこいつとこいつは真っ先に!」
「ややややや、跡部先輩、勘弁してください! そんなことできないっすよ!」
「やれ! やれと言ったらやれ!」
「マジで無理っす! 友だちを売れません!」
「言うじゃねえか小野瀬……俺に逆らうってのかてめえ!」
「なんでこんな人気がでとんねん! こいつらホンマ……全員!」
「そんなの仕方ないっすよ! なんなら先輩たちのせいじゃないっすか!」

わあわあ言うとるあいだに、いつのまにか小野瀬が俺の手から自分のスマホを奪い取った。
同時に俺と跡部は、お互い、ピタ、と固まっていく。ちょお待ってや。なんで、俺らのせいになってんねん!

「どういう意味だ小野瀬、アーン!?」
「ひいっ」殴られると思ったんか、すばやく頭をかばっとる。
「俺らなんもしてへんやろ。お前らに自分のかわいい彼女の共有なんか許すわけないやろが!」
「そ、そうじゃないッスよ!」小野瀬はぎゅっと目をつむったまま、つづけた。「ふ、二人が綺麗になってるのは、先輩たちのせいだって意味ですっ」

俺も跡部も、きょとんとして顔を見合わせる。

「ふふっ……え? なに? 小野瀬」
「はっはっはっはっは! なに言ってやがんだ、小野瀬、いっちょ前に」
「せやでえ、もう。高校1年生坊主が、昼間からなにを言うてんねん」

感情の上げ下げが激しくて、変な笑いしか出てこうへん。よう見たら部員のほとんどが、怪訝な顔してこっちを見とった。なんやねん、俺ら、目立つ? 跡部が笑いだしたもんなあ?

「だ、だって……そういう、こと、してるでしょ、絶対……」
「もう、小野瀬ってえー。やめてえや恥ずかしい」
「まあ当然、千夏は俺に抱かれて日に日に美しくなっているがな」きっしょくわる。なに言うてんねんこいつ。
「はいはい、そうですね」小野瀬が急にしらっとした。
「アーン? いまてめえ投げやりだったな?」
「いやそんな! あのとにかくだから、俺の言いたいことは、ですよ」はあ、と疲れた様子でため息を吐きながら、つづけた。「その、そういうのもあるんすよ、盛りあがってんのは。経験済みの、同級生って、その、オレらにとっては……」

そしてまた、俺と跡部の動きが止まる。
……なるほどなあ? ああ、さよか。結局はそういう話になるっちゅうわけか。

「つまり? 興奮材料ってわけか?」跡部の青筋、滅多に見れへんけど。
「お前らホンマ、ええ加減に……」俺もキレそうや。
「いやだけどあの、オレは、絶対に、想像もしてないですから!」
「アーン!? 本当だろうなてめえ!」
「しとったらマジでお前かて容赦せえへんぞボケが!」
「してませんってば! だけどたぶんあの二人は先輩たちに見合うように頑張ってるんですだからそのぶん人気が出ても仕方ないですだから先輩たちのせいなんで!」

最後はほとんど息継ぎをせんまま、小野瀬はそう言うて走り去って行った。ベンチに残された俺と跡部で、またしても顔を見合わせる。
俺らに見合うように、頑張っとる……? いやいやちょお待って。なんでそんな話になんねん。え? なんでや。伊織はもう十分、俺に見合っとるやろ?

「どういうことや?」
「ふん……まあ佐久間のいとこである小野瀬が言うんだ。千夏はともかく、佐久間はそうかもしれねえな」木村、山下、安藤、と、跡部はいつのまにか、名前をスマホで打ちはじめた。
「ちょ、待ってどういう意味や?」
「アーン? だから、佐久間はお前に見合うように」
「見合っとるやん!」
「はっ。バカだな忍足。お前がどう思っているかじゃねえ。佐久間はそう感じてねえってことだろ」高橋、森、井上……と、まだつづけとった。よう覚えとるな自分。「この1週間の変わりようは、異常だ」
「異常て……」
「さっきのグループトークを見た感じじゃ、千夏よりも佐久間のほうが話題にあがっている。まあ無理もねえな。どう考えても、俺よりもお前の女のほうが安全だ」

言われてみれば、それはそうや。跡部には権力があるけど、俺にはない。テニス部員やったら俺も怖いかもしれへんけど、テニス部員やなかったら、ただの上級生やし……。

「これがバイト先になったらどうなる。クソ、千夏によくよく言い聞かせとかなきゃならねえな。変な虫がついたら厄介だ」

よくよく言い聞かせるって、なにを言い聞かせればええんやろか、と、俺は跡部の横で、ぼんやりした。
こないだ、束縛すなって怒られたばっかりやで……もう縛るようなこと言いたない。
けど……「変な虫」っちゅう言葉は、俺の不安をどこまでも煽っていった。





to be continued...

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