メスとコスメ_03




3.


テレビに視線を向けながらぼうっとしているわたしの顔を、侑士が覗きこんできている。

「伊織、大丈夫か? ひょっとしてホンマにのぼせた?」
「あ、うん……少し」

のぼせたのは、お湯のせいじゃない。侑士と、侑士に抱かれてきた過去の女性たちとの関係性にのぼせてしまっている。もちろん、全然いい意味じゃない……卑屈で、醜い嫉妬が、全身で渦巻いていた。

「ほな、なんか飲む? ポカリがあるはずや」
「あ、じゃあお金……」
「お金はええって。どうせあとで払うんやし、俺にまかせといて」

わたしの言葉になんの疑いも持ってない侑士が、心配していろいろと配慮してくれた。
慣れないバスローブを着たわたしを振り返って、にっこりと微笑みかけてくれる……そうだよ、侑士が悪いんじゃない。だけど……心の痛みが、消えない。

「……慣れてるよね」
「ん? なに?」

冷蔵庫まで行った侑士の背中に、わざと小声で、思いを吐きだした。ダメだって……さっきから幾度となく自分に言い聞かせても、彼が大人の女と交わっていた姿が浮かんでくる。
こないだの人もそう。その前に会った女もそう。学校にいる、あの元カノさんだって……彼女たちは侑士にしがみついて、侑士と一緒に揺れて、キスしてる。わたしに触れるみたいに、あの人たちにも、侑士は触れてきたんだ。
上に乗って、強く抱きしめて、愛撫して、耳もとでささやいて……。わたしがそんなふうに体をあずけたのは、侑士だけなのに……侑士は、違うから。

「ほら、飲み?」
「うん……」
「俺も、ちょっともらってええかな?」

ひとくちだけ飲み込んだペットボトルに、侑士が手を伸ばしてきた。黙って手渡すと、ソファに座っているわたしの横に腰をおろして、ぴったりとくっついてくる。
ペットボトルの中身を口に含んだら、彼はわたしの頬を包みながら、口づけてきた。

「ン……」

冷たくて甘い液体が、唇からわずかにこぼれ落ちていく。静かにテレビを消しながら、侑士はわたしを抱きかかえて、ベッドに移動した。
スプリングに沈んでいく自分の体が意識のなかでほかの女に移り変わっていく。もう嫌だ……なんでこの想像、止まらないんだろう。侑士のいまだけを見ることが、どうしてもできない。
……ねえ侑士、何度こんな夜を過ごしたの?





ぬるま湯の長風呂、やわらかい照明、はじめてのラブホテル……。
伊織がぼうっとしとるのは、そんな新鮮な空気がうみだすセクシーなムードのせいやと思っとった。それは、もちろん俺もや。風呂に入ったあたりから言葉が少なくなっていった伊織の様子に、じわじわとでてきた色気を感じて、その雰囲気をぶち壊さんように、俺もだんだんと静かになっていった。
ベッドに寝かせた伊織の目が、切なげに俺を見つめとる。綺麗になった伊織……抱くのに少し緊張しとる自分に笑いそうになる。何度も抱いたのに、ええ女すぎて頭がおかしくなりそうや。
それでも伊織の艶やかな唇を見て、もう我慢なんかできへん。ゆっくり頭を落として、それに吸いつこうとした、そのときやった。

「何人、こうして抱いたの?」
「……は?」

聞き違いやと思った。降りかかってきた言葉が、あまりに俺の感情とはかけ離れとって。触れ合う寸前の唇が、ピタ、と止まった……ちゅうか、俺が固まった。
視線だけ動かして、伊織の目を見つめる。いじわるな視線を期待しとったけど、伊織の目はめっちゃ真剣に、揺れとった。
思考が停止しそうになる。ちょお待って、いま、なんて言うた……?

「え、なに?」
「いままで侑士……何人、抱いてきたのかなって」
「……伊織……なに、言う」
「答えたくない?」

言葉を失った。
答えたない。答えられるわけがない……なんのために?
なんでそんなこと言いだしとんのか、全然わからへん。いきなり伊織の言葉で、俺が汚されていく。
……はっきり言うて、俺は女のこういう問いかけが嫌いや。いままでも、何度かある。何人くらい付き合ってきたんかとか、前の女はどういう女やったんかとか、冗談ならまだしも、真剣な顔で聞かれるうっとうしい質問。そんなん、聞いたところでどうなんねん。なんでそれが知りたいんや。俺にはまったく、理解できへん。それでも目の前におるんは、俺がはじめて惚れた女や。誰よりも大切で、愛しとる、俺の伊織。ゆっくり体を起こして、背中を向けた。動揺しとる。心臓が、違う意味でめっちゃバクバクしてきた。
伊織はなにも言わんかった。いま、俺の背中を見つめとるんやろうか。俺、完全に拒絶した感じになっとる。やって、どうしたらええんかわからへん。
長い沈黙やった。いまにも叫びだしたくなるような、沈黙……。

「ごめん、変なこと言って……わたし帰る」
「えっ」

ようやく声がしたと思ったら、伊織はさっとベッドから降りて、服を着替えはじめた。喉が鉛を飲んだみたいに、うまく声がでていかへん。

「……ちょ、ちょお待って、伊織」

やっとでてきた俺の声は、掠れとった。俺の声にも振り向かず、ただ淡々と着替えを済ましとる伊織に震えそうになる。
どうしたん……なあ、どうしたんや伊織……ちゃんと教えてや。なんで? なんでいきなりそんな態度なん? 俺のほう、向いてや。

「なあ、伊織、待って」
「いいの、今日は帰るから」
「待ってや、なあ、なにが聞きたいん、なんでそんな」
「言ったじゃん!」

出ていこうとする手首をつかんで振り向かせると、伊織は声を強めて反抗した。その目から、涙がボロボロこぼれ落ちる。振りほどかれた手のひらが、痛い。
いままで何度も見てきた、女のヒステリックな涙。伊織がそんな、「大人の女」の顔を見せてきて、俺は困惑した。

「伊織……」
「聞きたいことは、さっき!」
「そんなん、なんで」
「なんで!? 知りたいからだよ! 侑士はわたしと違って、いっぱい経験してきてるんでしょ!? だから知りたくなったの! どれだけの女に触れて、交わって、愛してるってささやいてきたのか!」

伊織の頭のなかに入ることができたら、どんなに楽やろう。
せやけど伊織、そんなん酷や……俺に……俺にどうせえいうねんっ。

「伊織、このさいやで、はっきり言うとく」
「だって侑士は……」
「俺、そういうこと言われるんめっちゃ嫌いや」
「いままで……」

冷静になれへんかった。さっきから、俺の言葉をさえぎってまで、心のうちを吐きだそうとする伊織に、この俺が……煽られとった。

「やからって、伊織が嫌いになったわけやない。せやけどな、そんなん言われても」
「たくさんのほかの女と!」
「俺の過去はお前がどんなに願っても消せへんねん!」

こんなこと、言うつもりやなかった。
怒鳴り声に、目の前の体がビクッと揺れる。同時に、俺を非難する涙目が、胸の深いところに突き刺さっていった。

「ごめん……」

パタン、と扉が閉められた。伊織は泣きながら、俺に背中を向けた……。





恋は人を盲目にする。だけど盲目なんて言葉で片づけていいんだろうか。わたしの場合、ただのバカだ。

「伊織、まだ寝てたの?」
「あー、うん……」

部屋に入ってきた母がベッドの上のわたしを見て、呆れた声をだした。起きあがる気になれないのだ。横になりながら何度スマホを見ても、侑士からの連絡は入ってない。

「あんたさ、目、どうしたの」母が、わたしの顔を見て顎を引いていた。わかっていたけど、やっぱりそうなってるかあ。
「え……あー、昨日ちょっと……超いい映画をついつい見ちゃってさ」
「……へえ?」
「なに、母さん」
「別に。まあ、いろいろあるわよねえ。男ができると」
「いやだから」
「ホットタオルと保冷剤を巻いたタオル、交互に目に当てたらよくなるわよ」

余計なことと有効なことを言って、母は部屋を出ていった。黙って言われたとおりにしながら、目にタオルを当てているあいだにも涙があふれた。ホント、バカすぎる。
窓の外は、嫌味なほどの快晴だ。この最低な気分をどうにかしなきゃと思うのに、頭がうまく働かない。
今日は、侑士とのデートだったはずなのに……。10時には「Zion」で待ち合わせて、軽くお茶をしてから、ふたりでショッピングをする予定だった。
再来週、跡部家で行われる氷帝学園主催のクリスマスパーティーがあるからだ。すっかり忘れてお金を使っていたものだから、慌てていたわたしに、侑士、言ってくれたっけ。

――俺が買ったる。クリスマスプレゼントや。せやから遠慮せんで、好きなの選んだらええよ?
――え、いいの?
――もちろんや。かわいい伊織のためやもん。俺かて奮発するで?

侑士は、いつだってわたしにすごく優しいのに。
なんで昨日、あんなこと言っちゃったのかな。侑士から連絡がないのは当然として、わたしから連絡すればいいのに、それだって、できないままでいる。
当然、デートなんか中止に決まってる。今日、このあいだ買った服、着ていこうって思ってたのに。侑士、喜んでくれるだろなあって……思ってたのに。

「バカすぎる……」

とりあえず、外の空気でも吸って気分を変える努力をしたかった。今日のデートで着る予定だったはずの服を身にまとって、メイクをほどこす。目の腫れは完全にはひいていないけど、どうせ侑士に会うわけじゃないし、別にいいか、と自分を納得させた。

「バカすぎる……」

同じ言葉を何度つぶやいても、状況の変わらない後悔がじくじくとわたしを蝕んでいる。
侑士が言っていた、「俺の過去は消せへん」という言葉が、ぐるぐると心のなかを徘徊していた。あたりまえなんだ、そんなこと。わたしの過去だって消せないんだから。
そこまで思ってたわけじゃなかったと、自分にいいわけしても、もう遅い。
……認めるべきだよね。
わたし、侑士の過去を消してほしかったんだ。そんな不可能なことを、願っていた。だからあんなことを言った。愚かすぎないか。
消せないことわかってて、侑士を責めたなんて……。

「はあ……寒い」

気温だけじゃなく、わたしもサムい。公園のブランコに揺られながら、頭を抱えそうになる。
どうしたら満足だったんだろう。侑士がどうしたら、わたしは救われた?

「めっちゃ後悔しとる。堪忍な伊織。昔の俺を許してほしい。せやけど、信じて。こんなに想うのは、伊織だけやねん」とか? え、もしかしてそんな謝罪めいた言葉を聞きたかったのかな。……二度目になるけど、愚かすぎないか。なんでそんなこと、侑士が謝らなくちゃいけないわけ?

「バカすぎる……」

昨日から、この言葉を何度つぶやいているんだろうか。何度つぶやいたところで、侑士からの連絡はない。
だったら自分からすりゃいいじゃねえか、なんてお説教は、少し待ってほしい。いまのわたしには、かわいげがないんだ。心の整理がついていない、嫉妬の塊の醜い女だ。はじめて喧嘩したときは、あれほど何度も侑士にメッセージを送ったというのに。余計なことをいろいろと考えてしまう。

「バカすぎる……」

録音ボイスを再生しているんだろうか。それともロボットに成り果てたのか。さっきから同じことばかり声にして、そのたびにスマホを立ちあげて、メッセージアプリのバッヂがないことに落胆して……こんなんで侑士に見合う女になりたいなんて、本当にどうかしてる。

「だったら自分からすりゃいいじゃねえか」

だからそのお説教は、ちょっと待ってって言って……じゃないんだよ!

「えっ!?」
「なにしてやがる。今日は土曜だぜ?」
「なんで……っ」

振り返ると、跡部先輩が立っていた。心のなかまでインサイトされた文言に思わずノリツッコミしてしまったけど、驚きすぎて、ひゅっと、声にならない息をのんだ。

「ど、どうしたんですか」
「アーン? 見りゃわかんだろ」

跡部先輩の横に、毛並みの綺麗なワンコが、すん、とした顔でこちらを見ていた。
たしかあれは……マルガレーテだ。しばらく「マルゲリータ」だと記憶違いしていたので(それはピザ)、逆によく覚えている。それにしても、むちゃんこ品がある。あと、カッコいい。

「お前はなにしてんだよ。いつも週末は忍足と一緒だったじゃねえか」
「あ……いや、それは」ずばり、聞かれて言葉に詰まる。「跡部先輩こそ……今日、千夏はどうしたんですか」
「質問に質問で返しやがって」しらけた目をされてしまった。「聞いてねえのか? 今度こそ本当の親戚の用事があるらしいぜ」

今度こそ本当の……と、しっかり嫌味を混ぜてくるあたり(詳しくは前の話を読んでほしい)、目の前にいるのは間違いなく跡部景吾だなと思ってしまった。いま心のうちをインサイトされたらグラウンドを走らされるだろう。

「そういえば……言ってたような気がしました」
「俺の質問には答えねえ気か? アーン?」

前に侑士が言っていたことを思いだす。

――跡部のヤツ、あんなんでめっちゃ世話焼きやねん。せやけどそう思われたないで、ようわからん態度を取ってくるんや。

これも世話焼きの一種だろうか。親友の彼氏に甘えるのは、なんだか悪い気がしてしまうけど……。

「ちょっと、いろいろ、あって」
「ま、だろうな」ですよね。それこそ、ツルスケだぜってことなんだろう。「それだけスマホを気にしてるんじゃな」
「う……」なんでわかったんですか? と、聞き返すまでもなかったか。
「今度はなんだ……」

跡部先輩はため息をにじませて、となりのブランコに座ってきた。ものすごくめずらしい光景を見ている気がする。写真を撮って跡部ファンクラブのみなさまに売りつけたいくらいである。

「……言いたくねえってか?」

言いながら、跡部先輩はフリスビーを投げた。マルガレーテは馬のような綺麗なリズムでフリスビーに向かって走っていくと、パクんっと上手にそれを咥えて、すぐに跡部先輩のもとに戻ってきた。嬉しそうに尻尾を振っている姿が、とてもかわいい。跡部先輩も嬉しそうだ。よしよし、と頭をなでて、またフリスビーを投げていた。
絆って、こういうことをいうんだよね……と、妙に感傷に浸ってしまう。動物って、余計なことを言わないから愛されるんじゃないだろうか。わたしも単純に、侑士に愛されて嬉しいって、素直にそれだけ伝えていればよかったのに……。

「情けない話なんですけど……」
「んなことは百も承知だ」

おっと、余計なことを言うのはこの人もか。だけどわたしとは違って、かわいげがあるんだよね。
話しはじめるまで、黙ってじっと待ってくれていた跡部先輩の優しさが、わからなかったわけじゃない。心配してくれているんだ。もちろん、わたしだからじゃない。わたしの恋人が、侑士だからだ。

「跡部先輩にも失礼になっちゃうかもしれなくて、ですね……」
「前置きがなげえぞ。俺はな、月曜に忍足と打ち合う予定なんだよ。それがお前らのくだらねえ諍いで影響がでたんじゃ真剣勝負ができねえだろうが」

やっぱり、跡部先輩ってかわいい。

「ふふっ」
「アーン? なに笑ってる」だって、ごまかしが下手なんだもん。
「や、跡部先輩、優しいなあって」
「……おい佐久間、今日の貴様はひどい顔だ」
「あ、ひどい」優しいって言われるのも嫌なんだ。ぷふ。「これでも、腫れを抑えたんですけど」
「早くその理由を話してみろって言ってんだ。俺が聞いてやるんだぞ? もったいぶってんじゃねえよ」

少しだけ、胸のざわざわが穏やかになっていくのを自覚していた。なにも話していないうちから、跡部先輩に癒やされていたというわけだ。心のなかで、そっとつぶやく。千夏、ごめんね。ちょっとだけ、跡部先輩に甘えます。

「要するに、今回はお前が嫉妬したってわけだな?」

10分程度だった。昨日、爆発してしまった理由も含めて、打ち明けた。黙って聞いてくれていた跡部先輩だったけど、話し終えたころには、肩で息をするように呆れた声をだした。

「そうです……しかも、過去に」
「わかってんじゃねえか」
「はい……すごく、バカな嫉妬だってことも、わかってます」
「それなのにまだ嫉妬してんだろ、お前は」
「え……」
「忍足に自分から連絡できねえのは、お前の気持ちの整理がついてねえからだ。つまり、頭では理解していても心が拒否してるっつうことだ」
「それは……」
「だから過去という抗えないものに嫉妬すんだよ、お前は。自分自身がいちばんわかっている。見た目の問題じゃねえ、そんなものどれほど磨こうが無駄だ」
「ぐ……跡部先輩、耳が痛いです」
「いいか佐久間、いくら耳が痛かろうがよく聞け」目を閉じたくなるほどの眼光に動けなくなりそうである。
「は……はい」
「お前は内面がガキなんだ。ガキを自覚しているから自分が人より下に見える。敵わないと自分で決めつけている。それが嫉妬の正体だ」

マルガレーテが、フリスビー遊びに飽きたのか、それとも跡部先輩の声色が変わったからなのか。静かに飼い主のとなりで伏せた。
わたしもマルガレーテを見習って、耳が痛くても黙って先輩の話を聞かねばなるまい。

「お前は、忍足のことを信じてねえのか?」
「そ、それは違います! 信じてます……」
「ならばなおさら、忍足の愛する女のことを信じてやれよ」
「え……」
「お前のことだ、佐久間」まっすぐにわたしを見据えて、先輩はつづけた。「本気で、忍足がこれまで何人の女を抱いてきたのか、聞きたかったわけじゃねえだろ?」

ふいに泣きそうになる。そうだ……本気でそんなこと、聞きたかったわけじゃない。ちゃんとした数字を聞いたら、嫉妬はもっと深くなる。
なのにわたしは、答えない侑士を責めた。

「忍足は、お前が傷つくようなことをわざわざ言う男か?」

黙って首を振ることしかできない。そんなの答えるはずがないとわかっていて、聞いた。駄々をこねたのだ。自分の醜さに、また胸が痛みだした。

「過去は誰にでもある。その過去を責めるのは、お前が忍足って人間を認めてないのと一緒だ」
「そんなっ……」
「そうだろ。お前は忍足の過去を認めていない。誰もが平等に歩んできている時間そのものを否定している。それは忍足という人間を否定しているのも同然だ」
「……わたし」そんなつもり、なかったのに……。
「本当のお前の怒りは忍足への過去じゃない。お前は、自分自身に怒っている。そんなことを気にする自分にだ。だが自分じゃどうにもできなくて、忍足に委ねた。忍足に自分の感情を収めてもらおうとした。それはな佐久間、自己の放棄だ。お前の人生を、お前自身が歩まなくてどうする。最愛の人間とはいえ、他人に預けてどうする。甘ったれてんじゃねえよ」

跡部先輩の言葉は厳しかった。自分がどれだけバカなことをしたのか、あれほど自分に言い聞かせてもわかっていなかったことに、このとき気づいた。
わたしは、自立できていない幼い精神状態を、侑士に立たせてもらおうと丸投げしたんだ。

「認めろ佐久間。人は認めれば強くなれる。自分は弱い、自信がない。だからこそ変わらなければならない。お前が強くなるには、お前自身が、しっかりと自分の弱さを認めて愛していくしかねえんだよ」
「弱さ……ですか」

弱い人は、嫌いだ。わたしは弱くない……そう思いこんで、強い人に憧れてきた。だけど憧れを持つこと自体が、本当は弱いってことだよね。そんな自分を愛することなんて……できるんだろうか。

「プライドを捨てろ。醜くていい。情けない自分から目を背けるな。その役目を忍足にすべてに押し付けて、お前は一瞬の安らぎを得ようとした。だが忍足はお前のために生きてるわけじゃない。あいつはお前の所有物じゃない。あいつもひとりの人間だ。だから過去がある。どれだけ汚れた過去でも、それが忍足という人間の証だ。それを認めてやれ。そして同時に、お前はお前という人間を認めろ。お前は、忍足がいなくても自分の力で立っていけるはずだ。そうして強くなってくんだ。そうだろ?」
「跡部先輩……」
「自分の感情をぶちまけて人を動かそうとするのは、ガキがやることと一緒だ。もうそんな愚かな真似はするな。お前は自分の不安を忍足に埋めてもらおうとした。そのままでも忍足なら許すだろうが、お前が満たされることはない」

強く、胸が打たれていく。熱くなっていく目頭を堪えるのに、必死だった。ああ、だけど……堪える必要はないんだ。だって、わたしは弱いんだから。この涙は、それを認めたから流れてる。
そんな自分を愛すべきは、自分だ。侑士の役目じゃない。侑士の愛情は、侑士が決めることなんだから。過去も未来も、侑士が愛を送るその相手が、わたしじゃなくたって。悔しくても、腹を立てていいわけがないんだから。

「心に品格を持て佐久間。じゃねえとお前は、いつまでも自分を許せないままになる。違うか?」
「違いません……本当に、そのとおりです」
「……いいか、佐久間。お前は、ひとりでも幸せだ。それを強烈に信じろ」
「ひとりでも、幸せ……」
「そうだ。お前が幸せになるために忍足がいるんじゃない。自分の幸せを他人に委ねたら終わりだ。当然、忍足も同じだ。ひとりでも幸せなんだ。だが、ふたり一緒にいることで、もっと幸せをわかちあえる。そういう関係性であるべきだろ」

跡部先輩って、こんなにすごい人だったんだって……わかっていたはずなのに、はじめて思い知らされた。この気高さが、跡部景吾なんだ……。

「……本当に愚かでした。わかってたのに、いま跡部先輩に言われるまで、本当の意味で理解してなかった……わたし、すごく弱いです」
「だな……だが、もう認めた」

はっとして跡部先輩を見ると、先輩はわたしの目をまっすぐに見て、微笑んだ。これも知ってたけど……この人、めちゃくちゃイケメンだ。

「それでいい。これから変わっていける。人間はな、自分がかわいい。だから自分を裁こうとはしない。楽なほうに向かっていく、それは自然なことだ。ほとんどのヤツがそうして自分をごまかして生きている。本当の自分を認めるのは苦しいからな。だが佐久間……お前は、いまそれを越えた」

な、マルガレーテ。と、跡部先輩が目を向けると、マルガレーテはピクン、と耳を動かし、尻尾を振って反応した。
強力な応援団ができた気になって、わたしもようやく、頬をゆるめることができた。

「ありがとう、マルガレーテ」

思わずかけよって、首をなでた。すん、としたまま首をあげたマルガレーテのやわらかくてツヤツヤの毛が、跡部先輩の心のように美しかった。先輩の心の品格を視覚化すると、こうなるんだろう。

「……だがな佐久間」その様子を見守っていた跡部先輩は、なにか逡巡するように、つづけた。「忍足は、わかってると思うぜ?」
「え?」

マルガレーテにじゃれあいながら振り返ると、先輩は地面に向かって目を伏せていた。ふっと、息を吐いている。

「千夏にも、前に似たようなことを言われた」
「え、千夏が!?」

嘘だと思った。だって千夏は、ずっと「彼らを責める権利はない」と言っていたのだ。わたしもそれはごもっともだとわかっていたから、心の隅にはあっても考えないようにしていた……結局は昨日、爆発しちゃったんだけど。

「ああ。あたしは景吾とは違うってな」
「……その、跡部先輩の、過去のことを、言ってたんですか?」
「まあ話の流れが、そういう感じだったからな」

――あたしも、もっと遊んでおけばよかった。

信じられなかった。ひょっとして千夏は、そんな自分に後悔して、いろいろと忠告してきたんだろうか。わたしにそれを打ち明けなかったのは、やっぱりそんな自分を、恥じていたから?

「正直、キツかった。当然、うんざりもしたがな」
「……跡部先輩でも、うんざりしちゃうんですね」
「あたりまえだろ。過去のことを言われても、俺らにはどうにもできねえんだからな」
「そう、ですよね……」

どうにもできないことを求めてしまったことに、また後悔が襲ってくる。だけどそれこそ、もうやってしまった過去なのだ……取り返しはつかない。

「だが、当然のように後悔した。おそらくそれは、忍足も同じだ」
「そ……わたしが責めたから」
「いや、そうじゃない。後悔なんてもんは、とっくにしてた、俺もそうだ。忍足も、同じはずだ」
「え……」
「してた後悔を、さらに責められたんだ。そこに、好きな女の気持ちを汲んでやれなかった後悔も加わった」

ふわっと風が通り過ぎていった。それは侑士と跡部先輩の虚しさを、わたしに教えてくれているような冷たさだった。寒くて、凍えてしまいそうで……胸が、痛い。

「……嫉妬なのは、百も承知だ。当然、忍足もそうだろう。あのいつも冷静な男が、お前の言葉には冷静になれなかった。怒号を浴びせてお前を泣かせて、追いかけもしなかった。佐久間、人間てのはな、自分に非がなけりゃねぇほど、相手を冷静に見れるもんなんだよ」

跡部先輩と、視線が重なる。わたしは何度も瞬きをくり返した。
自分に非がなければないほど冷静になれるなら、冷静になれなかった侑士は……自分に非があると、感じた?

「忍足は自分を責めてる。お前に言われるまでもなく、過去を後悔をしている。その過去について煽られ、冷静さを失った。なぜなら、お前に出会ったからこそ後悔した過去だったからだ。その傷を、いちばん掘り起こされたくなかったお前に抉られた」

ぼろ、と、また涙が頬を伝っていく。わたしは侑士が、自分の過去を後悔しているなんて、思ってもいなかった。
侑士の過去に痛みを覚えているのは、わたしだけだと思ってた。

「そんな……はず」
「そうじゃないと、言い切れるか?」
「だ……だって」

――俺、そういうこと言われるんめっちゃ嫌いや。
――俺の過去はお前がどんなに願っても消せへんねん!

怒ってたから……でもあれは、自分の過去を否定されたからじゃなくて、侑士自身が、自分の過去を取り消したかったから……なの?

「俺も同じなんだよ、佐久間」
「え……」
「千夏には、『くだらねえことを言ってんじゃねえ』と告げた。だが俺も、千夏に出会ってから後悔していたからこそ、声を荒らげた」
「跡部先輩が……?」
「ああ。知ってるだろ。俺は忍足とは違って、すぐにムキになる」

ふっと微笑んだ。わたしも、ふふ、と声をあげてしまった。跡部先輩は、そういう、ちょっぴり恥ずかしい自分を認めているってことだ……世話焼きと、優しいことは認めないけど。だからこそ、あれほど人を魅了するんだよね。

「お前らにとっちゃ、なにもかも、俺らがはじめてだ。でも俺らは違う。その事実がお前らを苦しめるかもしれないと、どこかで気づいていた。当然、俺は後悔してない恋もあるが……忍足は違う。だから、忍足の後悔は俺より根深いだろう」
「え?」
「アーン?」

いま、よくわからないことを言われた、ような気がした。侑士だって、後悔してない恋も、あると思うんだけど……。

「……まさか、忍足からそのことを聞いてねえのか?」
「え、なんのこと、ですか……」

はっ、と、跡部先輩が呆れたように笑っている。なんのこと、なんだろう。そのことって。

「忍足のことだ、いの一番に伝えていると思うがな」
「あの、なんですか? すごく気になるんですけど……」
「あいつはな、まともに恋愛なんかしてきたことがねえんだよ。要するに、恋心ってのを知らねえでここまで来てる」
「へ?」でも、あんなにたくさんのお姉さま方と……付き合ってたよね?
「多少の語弊はあるかもしれねえが、要するに忍足にとっては、お前が初恋ってわけだ」
「は……初恋!?」
「ああ、バカみてえに遊んでるけどな」

また余計なことを言われたけど、それよりもわたしは衝撃のほうが大きかった。

――俺な、いま、はじめて恋しとるんやわ。

じわじわと、記憶がよみがえってくる。

――女の人のこと、本気でこんなに好きんなったことなんか、ないねん俺。

そうだ、あれって初デートのとき……侑士、言ってた。

――自分からこんなに口説いて、口説いて、口説きまくって自分のものにしたいって思ったの、伊織がはじめてなんや。

嘘だって、決めつけてた。リップサービスだろうって。

――ホンマ、なんよ。信じてくれる?

待って……あれ、本当だったの?
じゃあ侑士は、これまで付き合ってきた人、誰も、ちゃんと、好きじゃなかったってこと?

「上辺で好意を伝えたことはあるだろうが、それはそう伝えるのがマナーだと思っていたからだ。だがいまは違う。伝えたくて伝えている。心からの言葉ってやつだ」
「そ……本当、なんですか?」
「俺がわざわざ忍足の株をあげるような嘘をつくと思うのか?」
「……侑士」
「だからな、佐久間」

跡部先輩が、ブランコから立ちあがった。わたしとマルガレーテに、優しい目を向けてきている。家族や、侑士との包容力とも違う。この距離感でしか味わえない、人情深いあたたかさが、全身にただよってきた。

「あいつは俺なんかより、激しい後悔の渦にいる。はじめて人を本気で愛したからだ。お前もだろ、佐久間」
「え……」
「本気で『愛している』と言い切れるほどの男は、忍足がはじめてだろうが」
「そ、それは、はい、もちろんです!」

これが、部員200人を束ねる男の包容力か……わたしはいま、完全に後輩になっていた。いや、もともと後輩なんだけど……。

「なら……はじめて本気で愛した男を、今度はお前が、許す番じゃねえのか?」

大切なことを教えてくれた跡部先輩に、わたしは大きく頷いた。





to be continued...

next>>04



[book top]
[levelac]




×