愛のためいき_02


2.


疑念というのは、一度でも頭によぎるとなかなか消えない。留意するように、と言われたことは案外あっけなく消えていくのに、「バカバカしいこと考えるのはやめなよね」と忠告されたことほど残っていくのは、なぜなんだろう。

「もしもし?」
「おう、伊織……堪忍、さっき電話したときは、まだバイトやったかな?」
「うん、ごめんね、電話に出れなくて。気づかなかったんだ。さっき、帰ったとこ」
「いやいや、ええねん、全然。俺こそしつこく電話して、堪忍な。バイト、楽しかったか?」

千夏とガールズトークをしているあいだに、侑士から電話がかかってきていた。侑士はわたしのバイトが終わる時間を把握しているから、そのころを見計らってかけてくれたんだろう。
前だったら「遅いやん。なにしとったん?」と聞いてくるのに、やけに下手にでてきてる。そんなの全然、悪いことじゃないのに。さっきの話の余韻のせいで、侑士の言葉の節々が怖い。それに……声にあまり、元気がないような気すらする。これって、考えすぎ?

「うん、楽しかったよ?」
「ん……せやけどなんか、元気ないな?」
「え、そ、そうかな」まずい。元気がないのはわたしのほうだったか。ああ、だって、嫌な予感がするんだもん。
「ホンマ……?」

もちろん、浮気を疑ってはいない。一瞬は考えたけど、でも、やっぱり侑士がそんなことをするとは思えない。それよりもわたしの疑念は、侑士がわたしに「冷めてきた」んじゃないかってことだった。
もしかして、わたしが侑士と一緒にいる時間が、減ったから……なのかな、とか。

「うん、大丈夫。バイト終わりだからかな?」適当なごまかしをするしかなかった。メソメソした言葉を吐いて、重い女だなんて思われたくない。

「あ……あ、そうやんな。バイト帰りやのに、疲れとるよな。帰ったらすぐお風呂、入りたいよな。堪忍な、こんな毎日、夜、遅うに電話して」

ほら……ほらね! やっぱりなんか変! 侑士ってそんなこと言う人だった? いつも問答無用じゃん。「声、聴きたいんやからしゃあないやろ」って感じじゃん!
なのに、どうしちゃったの? わざとわたしを遠ざけようとしてる? いつも以上に声がボソボソしてるし、そもそも言ってることが、いつもの侑士じゃないんだ。
侑士の声を聴けて嬉しいのは、わたしも同じだ。こうしていつも、電話をくれることだって嬉しい。それをなんで、わたしが嫌がってるみたいに言うんだろう。
電話、切ってほしいのかな……ここ数日の侑士、いつもこんな感じだ。やっぱり、やっぱりイブキャンセルでわたし、愛想つかされちゃった?

「ふふ。侑士、どしたの? そんなことないよ?」
「あ……ふふ。ホンマ? 迷惑やない?」

お互いが愛想笑いをくり返して、これまでじゃありえない沈黙が訪れた。会話が途切れたことなんて、いままであったっけ? わたしが、つまんないからかな。なにかしゃべらなきゃって思うのに、こういうときに限って、言葉が出てこない。
どうしよう。わたしが妙なこと考えはじめたせいだってわかってるけど、ますます疑念が止まらなくなる。
でも待って。だったら、だったら聞いちゃえばいいじゃん。わたし、一応、彼女なんだし。聞いたっておかしくないよね?
「わたしのこと、好き?」って……「わたしは好きだよ」って……。それでスッキリする。それで、疑念は晴れるはず……!

「ねえ、侑士……」
「ん?」
「……あの」
「ん、どないした?」

なのに、怖くて……その言葉は出てこなかった。

「わたし、お風呂、入ってこようかな……あの、あがったらまた」
「ああ! そうやんな。いやいやええよ、今日はもう、ゆっくりしてな。また。おやすみ伊織」

また、電話するね、と言おうとしたわたしの言葉をさえぎって、侑士は電話を切った。
否定されたときの恐怖が怖くて、口にだせなかった質問を、唇を噛んで飲みこんだ。
いつからだろう……どうして、いつのまにこんな気まずい状況をつくりだしていたんだろう、わたしたち……。





楽しみにしとると、その日になるのがめっちゃ遅くて、毎日のように「まだかなー?」って思うもんやけど……楽しみという感情がなくなるのと同時に、時間は呆れるほど早く進んでいく。
クリスマスイブ……俺は、跡部が紹介してくれたあの都心のホテルに足を運んだ。

「忍足さま、お待ちしておりました」
「あ、今日はお世話んなります」
「お連れさまはのちほど来られる予定ですか?」
「え……ああ、そうですね」

振られたんです、とは、恥ずかしくて言えへん。
ちゅうか、そういう予約の仕方もしてない。跡部の計らいで、今日は姉ちゃんと一緒にどんちゃん騒ぎするってことにしてもらっとる。支配人はなんの疑いもなく、「それならディナーはお二人さまぶんご用意します!」とか、「お姉さまは20歳以上とのことですね。では、ウェルカムサービスでシャンパンと、ノンアルコールのシャンパンもご用意しますね!」とか、いろいろ手配してくれとった。ラッキーやと思ったのに、シャンパンふたつもあるとかまた虚しいな……。
そもそも、俺と姉ちゃんがそんなに仲ええわけがない……あの姉ちゃんとイブ過ごすとか、どんだけ気色悪いねん。そんな姉と弟がおるんかこの世には。考えられへん。どうでもええけど。

「さようでございますか。ではディナーは何時頃にご用意いたしましょうか」
「ああ、ええっと……す、すぐでええです。たぶん、ちょっと遅れるだけやと思うんで」
「承知いたしました。では19時頃にご用意させていただきますね」
「はい、ありがとうございます」

孤独を抱えた俺には広すぎる部屋に、なんも予定がなかったせいで、18時にはチェックイン。空はすっかり暗くなっとって、全面ガラス張りの窓から、街に輝く綺麗なイルミネーションがよう見える……まさに、恋人たちのクリスマスや。
……ええねん。どうせ、返金されんのやし、それやったらひとりで楽しんだほうが。せっかく10万も払ったんやで、堪能せんと損やろ。
何度、頭のなかでそう言い聞かせても、胸の奥の空洞からズキズキと孤独がせりあがってくる。
さっそく風呂にも入ったけど、こっちもビューバスでめっちゃラグジュアリー。どっから照明がきとるんかしらんけど、円形の風呂のなかがうっすらブルーになっとって、夜景との相性がめっちゃええ。おまけに伊織と一緒に入ったら、そら死ぬほど興奮したやろなと思いながら、俺はぽつねんと湯船に浸かった。ははっ、アホらし……俺、風呂に入りに来ただけみたいになっとるやん。

「……笑えるかっちゅうねん」

伊織に聞かせるわけちゃうし、と思ったら悪態が口から飛びだして、それやのに、また胸が痛くなる。そんなこと思う自分も嫌やった。そうやで、伊織が悪いんとちゃうんやから。それでも愚痴くらい言わせてくれ、とか、複雑な感情がうずまいてむしゃくしゃしていく。
19時には、予告どおりにクリスマスディナーが部屋に届いた。ホテルマンがいろいろ説明してくれたんやけど、なんも耳に入ってこん。
ただ、なんの見栄なんかしらんけど、俺は風呂場に向かって声をかける……振りをした。

「姉ちゃん、ディナーきたでー」

言うて……顔をほころばせながらホテルマンは出ていったけど、さらに虚しさがつのっていった。ああ、しょうもない。なにしてんねん俺……。
アルコール入りのほうのシャンパンを開けて、俺はやさぐれた。こんなときでも、さすが高級ホテルの高級ディナー。めちゃくちゃうまいやんけ。はあ、伊織に食べさせることができたら、むちゃくちゃ喜んだやろなあ。
そんなん考えるたびに、グラスのなかのシャンパンはどんどん無くなっていきよるで、とうとう、なんで俺はこんなに寂しいイブを過ごすことになったんやろうと、結局はそこで思考が止まった。
……最近、伊織について考えると優しい気持ちよりも胸が痛くなることのほうが多い。伊織に嫌われたないから、電話も控えめにしとるし、普通の彼氏になれてきとるはずや。
それやのに……ここ数日、俺らのなかで変な空気が流れとる。なんでやか、わからへん。
伊織の笑った顔も、あんまり見てへん気がする。ひょっとしてもうとっくに、俺に愛想つかしとるとか? そんなん、無理や……。いやいや、伊織はそんな子やないよな。せやけど、気持ちが落ち着いてきたとか、そういうんはあるんかも。俺はあがっていく一方なんやけど……やからこそ、俺はいつだって伊織のいちばんでおりたい。それだけなんや。
ああ、あの日からいろいろ考えてまう。あの日の、「ええよ」っちゅう俺らしない答え。
でもあの日、いつもの俺で突っ走っとったら……? ええ結果なんか思い浮かばへん。せやから俺は、無難な返事をしたんや。それやのに、なんで様子がおかしくなるん。嫌われたない。伊織が離れるんは、怖い。俺、そんなん生きていかれへん。

「会いたい、なあ……」

つぶやいた瞬間に、自分を煽ったことに気づいた。体が破裂しそうなほどの寂しさに襲われていく。
けど、こんな俺が……強引にZionに顔をだす勇気も、ない。

「……バイト、頑張っとるんかな」

頑張っとるんやろな……そこでは伊織、めっちゃ笑っとるんかな。
最後のシャンパンを飲み干して、俺はキングサイズのベッドに潜りこんだ。まだ21時にもなってへんのに。伊織がおらんと俺、なにも楽しめへん。ベッドはふかふか、めっちゃあったかい室内なのに、なんでやか、寒い。こういうの依存とかっていうんちゃうん。最悪や……そんな男にはなったあかんって思っとったのに。
伊織を思って握りしめたもうひとつの枕も、俺の心みたいに、やけに冷たかった。





Zionの夜は忙しかった。いつだって夜になれば賑わうカフェなんだけど、今日という日はその毎日を簡単に凌駕するほどの大繁盛で、昼から働いているというのに、忙しすぎて時間はあっというまに過ぎていった。

「ああ……やっと少し、落ち着いたかな」
「それでもあと7組います店長……えーと次は……またマライア」

まったく見当もつかなかった。こんなに忙しいなんて……冬だというのにずっと汗をかいているし、来客したカップルに羨ましさを感じる余裕もない。満員で入店を断ったお客さんもいつもの倍だ。極端に少ない数のスタッフで回しているという状況もあるだろうけど、目まぐるしい10時間30分。休憩をとる暇もないとか……。

「伊織ちゃんマライアは次にして。山下達郎を先にかけよう。さっきからマライアがループしすぎだから」
「そりゃだって、周りカップルだらけですもん。達郎さんは失恋ソングじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどさ……」大人は達郎を聴きたいんだよ、と、やけに哀愁を漂わせている。「マライアは女の子が大胆にくどいちゃってるからねえ」
「あ、そういう歌詞なんですか?」
「そう、『クリスマスにほしいのはあなただけよ』ってね」

ここでようやく、店内のカップルたちに羨ましいという感情が溢れだしてきた。ふうーん。つまりそういうメッセージソングなのか。
徐々に、羨ましい、から、憎たらしい、に変わっていく醜い心が、やつあたりのように山下達郎を手に取らせた。少し乱暴な動作でCDプレイヤーの再生ボタンを押すと、しっとりとしたナンバーと、癖になりそうなあの歌声が店内に流れだす。
JR東海……と頭のなかで再生された。この曲といえばあのCMでしょう。

「まあまあ、そう怒らずに。時給は約束どおり、300円アップだから」
「はい、それくらいの待遇じゃないとやってられません」
「ごめんって……侑士くん、怒ってた? でも許してくれたんだね」彼にも申し訳ないことをしたな、と、つづけた。
「はい、まあ……」

侑士とのやりとりを思いだして、しょんぼりしてしまう。ここ最近、妙な空気のわたしたち。すでに学校は冬季休暇に入ったから、ふたりで過ごす時間は増えているんだけど……。

――伊織……明日、頑張りや。
――あ、うん。あの、クリスマスは、絶対に、ふたりで!
――ん、けど、無理はせんでええからね?
――え、無理って……?
――そら、明日は12時間も働くんやろ? 翌日ゆっくりしたいかもしれんし。せやから、そんときはまた、予定変更でもええから。ほなね、おやすみ。

家まで送ってくれた侑士の笑顔が、真正面から見れなかった。わたしは、会いたいのに……断ってくれてもいいよ、と言わんばかりだったから。
侑士は会いたくないの? なんて、聞く勇気もない。そもそもイブの予定をキャンセルしたのは、わたしなんだから。

「伊織ちゃん? どうかした?」
「あ、いえ……ちょっと、ぼうっとしちゃって」

あと1時間30分で、午前を回る。お客さんたちも山下達郎ソングのせいで熱が穏やかになってきたのか、店内が一気に落ち着いてきた。腕を組んで、お店を出ていくカップルたち……これからふたりで、朝までイチャイチャするのかな……。
本当なら、わたしだって……だから、どれだけ遅くなっても侑士の家におしかける準備だけはしてきたし、プレゼントも用意してきたけど……はあ……迷惑だったらどうしよう。

「……あのさ、怖くて聞けなかったんだけど」

頭のなかでネガティブを発揮しているわたしを見ながら、店長がそっと声をかけてきた。
前振りからして、いろんなことにお気づきな様子だ。

「侑士くんと、なんか、あったの?」

ありました、と顔に書いて店長を見ると、「うわあ……」と青ざめた。店長も、奥さんとこういう時期、あったかなあ。なにかアドバイスをいただけると嬉しいのだけど。

「……なんか、変なんです、最近、お互いの空気みたいなのが」
「んんっと……倦怠期、みたいなこと?」
「わかんないです。でもイブのキャンセルしてから……」
「えっ! お、俺のせい!?」
「あると思います」
「ええっ!?」

天津木村ばりにピシャリというと、店長が慌てはじめた。そんなの、だって、わかってたくせに。と、憎まれ口をたたきたくもなる。強引だったくせに。店長ってなんかずるい。

「でもほら、それだけ怒ってるってことはさ、伊織ちゃんのことそれだけ好きってことでっ」
「逆です」違うんだってば、店長。
「逆? ぎゃ、逆ってなに。嫌いなわけないよっ! 怒るってのは、一緒にいたかったってことだから!」
「そうじゃなくて、怒らなかったんです」
「……へ?」

キャンセルを打ち明けたときの侑士の反応を、店長にぽつぽつと話した。途中、お客さんに呼ばれたり、注文されたものをサーブしたりで時間はかかったけど、定位置に戻るたびに、じっくりと耳を傾けてくれている。いい人だ。

「要するに、すごくあっさりしてたわけだ?」
「そうなんですよ。あんなの、侑士先輩じゃない」
「はあはあ……なるほどねえ。女の子ってのは、本当にわがままだし難しいねえ」
「え、わたし!?」
「そうだよ。怒られたくないけど、怒ってほしかったってことでしょ?」

苦笑した店長に言われて、「まあ……」と、かわいげなく目をそらした。
やっぱりわがままなんだろうな、と、理解はできる。打ち明けたとき、どこかで「そんなん嫌や! 絶対に許さん!」って怒る侑士を期待していたのかもしれない。それだけ愛されてるって、実感したかったのかな。
もちろん、侑士が聞きわけないときは困るんだけど……あっさり「ええよ」なんて言われると、すごくどうでもよかったみたいじゃん。それに昨日も「自由にして」って感じでさ。あんなに、独占欲の塊だったくせに。

「素直にそう伝えてみれば?」
「え……」心のなかでつぶやいていたはずなのに、ぎょっとする。「声に、出てました?」
「いや? でも顔に書いてあるっていうのかな、こういうときは」

さっきは意図的に顔に書いたけど、今回は無意識だった。むむ、さすが店長である。しかしいまさら、そこに驚きはしない。店長はなんだか、そういう人だ。

「……怖いんですもん」
「そうかなあ? 侑士くん大人だから、かわいいって思ってくれそうだけど」

かわいいか……? 正直、勝手だと思う、すごく。おまけに侑士があっさりとしはじめた理由もわからないままで、ずっとよそよそしいし……そうだよつまり、侑士が心を閉ざしてるから、怖いんだ、わたし。

「お、いいタイミングでいいゲストが来たんじゃない?」
「えっ」

もしかして侑士だろうか。はっとして顔をあげると、見慣れた顔ぶれが店内に入ってきた。
期待したぶん、お門違いの落胆をしてしまう。いや、そんな心がバレたら、それこそ怒られてしまいそうだ。相手はインサイトという謎の武器を持っているのだから。
幸せそうに腕を組んで入ってきたのは、跡部先輩と千夏だった。

「いらっしゃいませ! いいね、千夏は休みなんだから!」
「はいはい、30回くらい聞いたよそれ!」

いくら知り合いであっても、仕事中は笑顔でいるべきだと、わたしはおどけて挨拶をした。千夏もケタケタと笑っていることだし、きっと跡部先輩も「ふっ、てめえのくじ運に嘆くんだな」とか意地悪なことを言ってくるんだろうと思っていたのに、だ。
跡部先輩がなぜか、わたしを見たまま固まっていた。その様子に、逆にこっちが固まっていると、状況に気づいた千夏も固まった。固まりドミノ状態である。

「え、あの、跡部先輩?」
「ちょ……なに景吾? どうしたの?」
「佐久間……お前、どうしてここでバイトしてる?」
「え?」「は?」

記憶喪失なのか? なんというすっとぼけた質問だろうか。いやいや、ついこないだまで、その件でモメてたじゃないですか、男チームと、女チームで。と、激しくツッコんでしまいたいけれど、いくら跡部先輩だって、そこまでトチ狂ってはないだろう。

「どうして今日、ここでバイトをしているんだと聞いてんだよ」
「あ、ああ、なんだそういう意味ですか」いささか、ほっとした。
「なに言ってんの景吾? 伊織がここで働いてるからこそ、わたしと景吾は一緒にイブを過ごせるんだよ? 伊織サマサマだよ」

その話、跡部先輩はまったく知らなかったのだろう。目がさらに見開かれた。ただでさえ大きなお目々なのに、そんな目に見つめられると、かなりぎょっとしてしまう。「インサイト、ここに極めり!」じゃないっての。

「あの、跡部先輩?」怖いんでやめてください。
「つまり?」
「つ、つまりってだから……え、ねえ千夏、説明してないの?」少々、イラつくんですがっ。
「あー、とくには。伊織はくじ引きで負けたの」そうだ、しかも店長が勝手にやっていたくじ引きで、だ。腹立つ。「まあだから生贄的な」
「なんだと……?」

跡部先輩、心配してくれてるのかな。そういう優しさがこの人にあることも重々承知だ。だけどなんか、様子が、いつもと違わないだろうか。

「なら、忍足はどうしてる? キレてんのか」
「キレてないっすよ」人差し指をフリフリと、千夏がふざけた。
「お前は黙ってろ」
「はいはい……」熟練夫婦のようなやりとりである。長州小力をだしてくるとは、千夏もなかなかだ。「でもホントにキレてないよ、ねえ?」
「あ、はい。あの、バイトに出るお許しをいただい」
「なんだと……!?」

食い気味で、店中に響くような大声だった。ここはテニスコートじゃないですよ跡部先輩……。店内のお客さんの注目を集めていることに気づいていないのだろうか。こっちが恥ずかしいんですけど。
しかしそんなことは中学時代からおかまいなしの跡部先輩である。突然、拳を眉間に当てはじめた。ぶつぶつと、なにか言っている。

「まさか……あのメガネ……」

メガネ……って、まさか侑士のことだろうか。もっと呼びかたはないんだろうか。
それはそれとして、つぶやいたあと、跡部先輩はスマホを取りだし、店外に行った。怪訝な顔で、千夏が恋人の行動を見守っている。たぶん、わたしも十分に怪訝な顔をしているだろうけど。

「なに、あれ?」
「さあ……ホント、ときどきめちゃくちゃすっとぼけてるからさ、景吾って」
「うん、だよね……」肯定しかない。「あ、千夏、先に席ついとく?」
「そうするー」

呆れた千夏が歩を進めた瞬間だった。派手にお店の扉が開かれて、教会の鐘か! というくらい激しくチリンチリンが響きわたる。今度はなに!?
振り返ると、跡部先輩が足早にこちらに向かってきていた。

「佐久間! いますぐこのホテルに行け!」
「えっ!?」

目の前に、ホテルのショップカードが掲げられた。意味が……わからない。
都心の、有名なホテルだ。高校生の身分では、当然ながら行ったことがない。

「あの……」
「このカードはホテル内のレストランのものだが、とにかくこのホテルに急げ」
「いやあの」

ちょっとなに言ってるかわからないんですけど……と、数日前に口走りそうになったことをまた言ってしまいそうになる。そして、見かねたんだろう店長が、すぐにこちらに駆け寄ってきた。

「ちょっと跡部くん、それは困るよ! なに言ってるの!」
「うるせえ! てめえは働く輩がいればそれでいいんだろう!?」年長者に向かって、なんちゅう口の聞きかただろうか。
「いやそうだけど、だからこそ、あと1時間は伊織ちゃんがいなきゃ困るって! ここからの時間帯はまた混むんだから!」口の聞きかたはさして気にせず、店長は食い下がった。
「佐久間の代わりが、ふたりになってもか?」
「え……?」「え?」「は?」

店長も千夏もわたしも、ポカンと跡部先輩を見つめた。それって……わたしの代わりに、まさか……跡部先輩と千夏が、働くって言ってる?

「ちょっと景吾!? なに考えてるの!?」同じ想定をしたんだろう千夏は吠えた。
「いいだろう千夏。俺らはもう十分に楽しんだ。こういうイブも悪くねえよ」
「いやいや悪いし!」
「それなら、まあ……」店長は嬉しさを堪えているのか、ニヤニヤしていた。そりゃそうだ。人は多いほうが助かるのだから。
「わかったら佐久間、そのホテルへ急げ。2024号室だ」
「そ……」
「ここまで言ってもまだわからねえのか? お前のために予約したイブプランを、忍足はひとりで過ごしてるぞ」

衝撃的な告白に、わたしは言葉を失った。





物音がして、目が覚める。さっきからなんか、部屋のチャイムがずっと鳴っとるし、ドアもガンガン叩かれとる……ような気がする。
俺の目尻には、涙が浮かんどった。寝とるあいだに、泣いとったらしい。

「……はっず」

イブに振られて泣くほど弱い男やったんか、と、情けなくなる。だんだんと、チャイムの音もドアを叩く音もはっきりと聞こえはじめた。
時計を見ると、11時半を指しとった。あと30分で俺のイブも終わるんかと思ったら、規則的に聞こえるこの音に多少の苛立ちもつのってくる。
こんな時間になんやねん……。

「……火事でもあったんかっちゅうねん」

ぼやきながらも、どうせガキのいたずらやと思ってドアスコープを覗いた瞬間やった。
そのまま、俺は硬直した。伊織が、立っとる。

「え、伊織……!?」
「あ……侑士!? いるんだよね!?」

思わず漏れでた声に、伊織がドアの反対側から敏感に俺を察知した。
なん、なんで? 伊織にはひとことも言うてなかったのに。いや、ホンマになんで? 
頭には疑問が浮かびまくったけど、伊織をこのまま放置する選択肢なんか、当然ない。俺が急いでドアを開けた直後、俺はうしろによろけた。
伊織が……俺の胸に、思いっきり抱きついてきたからや。

「伊織……」
「も、侑士、なんで……」

オートロックの扉が、バタン、と閉じられる。その音を聞きながら、胸にしがみつく伊織をただ見おろした。どうしよう……俺、泣きそう。

「ねえ、なんでっ……」
「……」けど、伊織のほうが先に、泣きだしとる。
「なんで侑士……? なんでなにも、言ってくれなかったの?」

たしか、午前くらいまでバイトやって、言うてなかったっけ……やのに伊織、なんでここにおるんやろ。

「侑士ってば! なんで黙ってるのっ」
「いや、堪忍……やって伊織……バイト、どないしたん?」
「早く、あがらせてもらえたから……」
「そんなん、大丈夫やったん?」
「大丈夫。代わりにいま、跡部先輩と千夏が回してくれてるから」
「え……」

なんとなく、跡部の名前を聞いただけで、状況が把握できた。デートの帰りに、なにげなしZionに寄ったんやろう。そんで、働く伊織の姿を見て……まったく、ホンマに世話焼きな男や……そうはいうても、めっちゃ感謝やで、跡部。
やって、ここに伊織がおる。時間もまだ、しっかりクリスマスイブや。

「嬉しい……」思わず、笑みがこぼれた。伊織をぎゅっと抱きしめる。
「侑士……」
「伊織、来てくれたんや。ふふ」
「も、なに笑って……笑いごとじゃないよっ」
「やって、嬉しいんやもん」
「そ、そんなこと言って、ほかに女でも呼んでたら、承知しないんだら!」
「は? な、なんやそれ。そんなわけないやろっ」なんで急にそんな話になるんっ!?
「どっかに、どっかに隠れてたりしないっ!?」
「ちょ、するわけないやんっ! なんでそんなこと言うんや……!」

伊織は、怒ったような顔して泣いとった。そんな疑い持たれるようなこと、した覚えない。
せっかく気分ようなったのに、なにを責められとるんかもわからへん。おかげでムキになって応えると、今度は消沈したように、ぐずぐずと鼻をすすりはじめた。

「伊織……どないしたん?」
「じゃあなんで今日のこと、黙ってたのっ?」
「それは、やって……伊織、バイトやったか」
「侑士、すんなり許してくれたじゃん! こんなすごいお部屋、予約しといて、すっごいガッカリしたに決まってるのに!」せやな……うん、めっちゃガッカリした。「なのに、なのにわたしのこと、少しも責めたりしなかったじゃんっ! おかしいよっ」

なんでやろう。伊織の口調は、強いわけやないけど……やけに、俺が責められとる気がする。
おかしいってなに? おかしいのは、そっちやん……伊織が俺のこと怖がっとるって思ったし、ええ男にならなあかんって思ったし、バイトだけやない、ライブハウス通いやって、あんまり言われんのも煩わしいって顔するし、せやから俺、伊織のために、変わらなあかんって思っただけやのに……。

「あかんかったって、言うんか……?」なんで、俺が怒られるん。
「だって……いつもと全然、違っ」
「全然ってなに?」
「だから……侑士はいつも、わたしがほかのこと優先したら、嫌がるでしょっ?」
「嫌がるよ。せやけど、伊織はいつも『困らせないで』って、言うやんか」
「そ、そうかもしれないけど、でも、今日のことは言ってくれても!」
「そんなん!」やばい。興奮したあかんのに。めっちゃ煽られとる、俺。「そんなん俺かて、言いたいことめっちゃあったわ!」
「侑士……」

伊織が怯えた顔で、俺を見あげた。せやから、あかんと思うのに。止まらへん。

「ずっと……ずっと前から約束しとったのに、あっさりバイト入れたん、伊織やろっ?」
「あ、あっさりじゃないよ!?」
「そうかもしれへんけど! 結局は俺よりバイト選んだやんかっ」
「それは……っ」
「バイトはじめたんやって、そうやんっ。やからお前とバイトのことでめっちゃ喧嘩したよな? そんとき、伊織が言うたんやんっ」
「え……」
「俺と恋愛するためだけの人生なんて嫌やって! 言うたん伊織やろ!?」

――侑士の束縛に悩まされて、ただ侑士との恋愛のためにだけ生きていけっていうの!? そんな人生になんの意味があるの!

「あれは……!」
「束縛されるんが嫌やって! そう言うたやろ!? 俺、もうそんなん……!」
「侑士……」

大きな声をあげた俺の目の前で、伊織の涙が伝っていく。また、怖がらせとるやろか。せやけどもう、黙ったままでやり過ごすこともできへんもん。
やって、なんで俺、どうしたらええんか、わからへん。めっちゃ好きなんやもん、俺だけの伊織なんやもん。やから、ホンマは独り占めしたい。せやけど、嫌われたくもないねん!

「もうそんなん……伊織の口から聞くの怖かったんや。やから、反発せんかった……嫌われたないし、愛想つかされたくもない……そんなん、いろいろ考えとったら、どんどんいつもの自分が不安になってきた。毎日の電話も、料理の邪魔も、伊織は俺に、付き合って『くれとる』だけなんやないかって……!」
「そんなわけっ」
「それやから、俺、ええ男になりたいって思ったんや。伊織に惚れなおしてもらいたかった。それやのに、今度は責めへんかったって、責められるん? それやったら俺……俺、どないしたらよかったん……どないしたら!」
「侑士……侑士、ごめんっ」

ポロ、と涙を流してしもたせいなんかな……伊織が俺の頭を抱えるように、俺を引き寄せた。
思いきり、伊織に甘えたい。壁を背に、俺は座りこんで、伊織の胸に顔を埋めた。情けない……ぎゅっと腕の力をこめて、伊織が髪をなでていく。俺は、さっき伊織がそうしたように、伊織にしがみついた。

「ごめん、ごめんね侑士、本当に、ひどいこと言った。わたし、ごめん」
「……せやけどあれが……伊織の本音、やろ?」しゅんしゅん言うとる俺、子どもに戻ったみたいや。めっちゃカッコ悪いやん。
「あのときは……興奮して、言い過ぎた。もちろん、侑士の束縛に困ってなかったって言ったら嘘になるけど……でも、でもね、侑士」
「……」困っとったんやん。そら、俺も困らせとったことは自覚しとるけど。
「侑士……ごめん、すごく、呆れると思うけど」
「なん……」
「わたし結局、侑士に束縛されたいんだと……思う」

え……と、これに関しては、声が出んかった。
ちょお、待って……言うとること、むちゃくちゃなんやけど、どういう意味や?

「……」は? と、声にだしたつもりやけど、やっぱり音になってない。
「その……イブのこと言ったとき、侑士があっさりOKくれたの、ずっと、腑に落ちてなくて」
「……ちょ」
「ごめん! わがまま期待してたんだと思う! だけど侑士、すごく優しかった。『ええよ』って! 最近も、なんか、すごくよそよそしかったし!」
「ちょ、待てっ。それは、さっき言うたとおりや! その前っ……おま、なんて言うた?」

黙って聞くべきやったんかな、とも、思うけど……やってこんなん……。

「侑士に束縛……されたいんだと、思う……」

混乱も、混乱や。





「なんて……?」

跡部先輩から事情を聞いた。侑士が、わたしに内緒でホテルを予約していたこと。サプライズで、わたしを喜ばせようとしてくれていたこと。

――なんでもはじめては大事だってな。忍足なりにお前に幸せを与えたかったんじゃねえのか?

侑士は、わたしとのイブを考えてくれていたのに。そこまで楽しみにしていてくれたのに。なのにわたし、侑士がホテルを予約した翌日に、バイトを理由に約束をキャンセルして……なのに侑士、なにも言わないで……。
その気持ちを考えただけで、ホテルに向かうあいだ、目が何度も潤んでいった。
今回の侑士の態度だって、わたしのことを大切に思ってくれたからだ。だからこそ、わたしの言ってることは、矛盾だらけで、すごく勝手だと思われても仕方がない。
だけど……。

「だって、だってあんなの、侑士らしくない!」
「……な」
「わたしは、わたしにベタベタな侑士でいてほしい! そういう侑士が好きだもん! だから今回だって、わたし本当は……その……侑士に駄々こねられて、困りたかったのかも!」
「は……」

侑士はあのケンカからずっと、傷ついてたんだ。わたしが、ひどいことを言って傷つけた。
それなのに、あまり時間が経ってないうちに、またバイトを理由に今度はイブデートをキャンセルして……ホント、最悪。侑士を臆病にしたのは、わたしだ。
だからいつもの侑士を取り戻せるのも、わたしのはずだ。謝らなきゃ。ひどいこと言ったって。約束を破ったことも。
でもまずは、わかってほしい……わたしは、そんな忍足侑士を愛してるんだってこと。

「本当にわがままなのは……わたしだよね。でも好きなの。本当に、侑士が大好き。好きだよ、すごく。誰よりも。束縛する侑士も、怒ってる侑士だって、好きなの。全部それだけ、愛されてるんだって思うもん!」

ここ最近の変な空気感の正体がわかった。おかげで不安が一気に吹きとんだせいか、わたしも正直な気持ちを打ち明けた。
怖くない……お互い、愛し合ってるんだから。どんなわがままも、どんな勝手な言いぶんでも、好きだから、受け止められる。受け止めてもらえる。そう、信じる心が強くなった。
侑士が、じっとこちらを見つめていた。さっきまで流れていた涙も止まったみたいだ。そりゃ、そうだよね……あんなひどいこと言っておいて、でも束縛はされたい、なんて。呆れてるんだろう。

「ごめん……意味、わかんないことばっかり、言って……」矛盾についても、謝らなきゃ。
「……なんちゅうか」
「うん……」
「……意味が、わからん」ですよね。
「ご、ごめん……」
「やって、束縛が嫌やって、あんなに怒ってたやん……」
「そ、そうなんだけど……」
「やんやん言う俺が気に入らんかったんやろ? 信用できないの!? とか、言うてたやん、自分……」いささか、しつこい……が、相当な遺恨なんだ。一生、言われつづけるかもしれない。そこについては覚悟しよう。
「そ……だってあれは、バイト先に男がいてどうとか、侑士が……嫉妬するから」
「ほんで? 今回も、バイト入るとかありえんって、やんやん言うと思っとった?」
「思ってた……」
「けど……?」
「けど……あっさり、『ええよ』って」
「普通やんな……?」
「普通……だけど、そんなの、なんか、寂しい……侑士じゃないみたい」
「はあ……」
「ご、ごめんっ!」

盛大なため息をつかれて、わたしは下がっていった頭をあげた。相変わらずの呆れ顔で、侑士がこちらを眺めている。
この顔……テニスの試合前にやるよね。ちょっとすでに、怒ってるみたいな顔。すごくカッコいい。好き。

「……わがまますぎやない?」
「う……」ですよね。わかってる。「だけど、それが本音だもん」
「ほな俺は、伊織の都合のええようにやんやん言うて、ときには普通にならなあかんってことやろか?」
「ち、違うよ! いつでも、素直な侑士でいい。だってわたし、忍足侑士って人そのものが、好きなんだから……」
「……ホンマ?」
「ホント。好き。大好き。好きだよ、侑士」

好き。その言葉を目を見て伝えたことで、侑士がやっと、微笑んだ。
ちょっと怒ってるみたいな顔から、急に優しい目つきになって。その笑顔から、いまの時間は、侑士のいじわるタイムだったんだと、ようやく気づく。

「もっかい、言うて?」
「……侑士が、好き」
「束縛するで?」
「うん、されたい」
「嫉妬もめーっちゃするで? 俺を優先してくれんと気に入らんし」
「う……そ、たまには、折れてほしいかな」
「せやけどたまには、駄々こねろってことやろ?」
「う、うん」たしかに、むちゃくちゃ……。
「わがまますぎ。どんだけ勝手なんや、伊織は」
「ごめん……」
「ん……せやけど、嬉しい。伊織……俺も好きや。そういう伊織が、大好きや。ホンマ、めっちゃ好き」

静かに、唇が重なっていく。次第にくすくすとした笑い声に包まれていくなかで、お互いの想いをたしかめるように、抱きしめあった。





飽きるほどキスをしたあとに、俺は伊織の手を引っ張った。せっかくここに伊織がおるんや。明日11時までの短い時間になるけど、たっぷりこのスイートルームを堪能してほしい。

「わああ……すごい! 綺麗!」
「めっちゃええやろ?」

目の前はクリスマスイルミネーションが輝く東京の夜景。伊織をうしろから抱きしめると、回した腕に伊織の小さな手が乗せられる。
はあ……かわいい。どんだけこうしとってもええくらい、うっとりした時間やわ。

「侑士、スカイツリー見える!」
「見えるねえ?」
「侑士あっち、東京タワーも見える!」
「ふふ。せやな」

めっちゃ喜んでる伊織がかわいい。ディナーも置きっぱなしになっとるで、俺が残したぶんもあたためなおして、一緒に食べた。すでに午前を回っとるのに、俺らのイブはここからやと、お互いが張り切ったっちゅうわけやな。
まあ……正直、伊織の言うとることは矛盾しとると思うし、しばきまわしたい。せやけど女ってそういう生き物やっちゅうことを、俺は知っとる。経験っちゅうよりも、それは教育やった。……姉ちゃんや。
あいつなんか知らんけど、ときどき男の話をしてきよる。こういうところが嫌い、こういうところどうにかならんのか、言うて……男がなに考えとるんかわからんっちゅうことで、男心を俺から聞きだそうとするわけや。
その姉ちゃんの言いぶんも、わがままやったもん。いつやったか似たようなこと言うてはったわ。嫉妬してほしいやら、束縛は嫌いやら、言いたい放題……姉ちゃん相手やとホンマにしばきまわしたろかなと思っとったんやけど……伊織やと、そんなわがままがホンマにかわいいとも思う。やって俺、そういう伊織も好きやから。

「でもさあ侑士、ここ、高かったんじゃないの……?」
「んん、そういうの聞いたあかんねんで?」
「だけど……気になるよ、侑士にはこないだもお金を使わせたし」

食事を終えて、ソファで体をくっつけながら、ただひたすら窓の外を眺めた。ロマンチックすぎる。目の前にあるんはノンアルコールシャンパンやけど、それでも酔いそうになるくらい、伊織との時間は甘い。
ちゅうのに、野暮なこと聞いてくるなあ?

「あれはクリスマスプレゼントやって」
「じゃあ、じゃあここは割り勘でしょ?」
「あかん。これはサプライズプレゼントやから」
「もうー」

伊織がくすぐったそうに笑っとる。でも、そういう俺も好きなんやんな? はあ、さっきの言葉、めっちゃ嬉しかった。
泣きながらめちゃくちゃ言う伊織には混乱したし、戸惑いもしたんやけど……それでも、「好き」って言葉が、全身に沁みわたって、俺の不安な気持ちは一瞬で消えていったでな。

「あ、ねえ侑士」
「うん?」

体を離した伊織が、すぐそこにあるバッグに手を伸ばす。ひょっとして、と思っとると、案の定、伊織の手からラッピングされた袋が差しだされた。

「あの……これ。侑士がくれたものの、半分にも満たないけど……」
「伊織……」
「メリークリスマス、侑士」

伊織、最近は美容でお金カツカツやろに、俺のためにクリスマスプレゼント用意しとってくれたんやと思ったら、それだけでテンションがあがる。
かわいらしい真っ赤なリボンをほどくと、ふわふわの生地が俺の目に飛びこんできた。

「つけてみよかな?」
「うん、もちろん!」
「くくっ……ドキドキするな?」

シックなネイビーのマフラーを取りだして、巻いてみる。伊織が手伝うように首もとをなでていくこの時間も、愛しい。肌触りがええし、あったかい。しかも伊織のバッグにずっと入っとったからなんか、ちょっと伊織の香りがする。

「侑士、すごく似合ってる!」
「ホンマ? めっちゃ嬉しい」
「うう、ホント? ごめんね、侑士からもらったものには、とても敵わないんだけど」
「もう、ええんやってそんなん、俺が勝手にやったことなんやから」気にしすぎや。せやけど、そういう控えめな伊織もかわいい。「ありがとう。もう、これ伊織やと思って、ずっと巻いとくわ、俺」
「あはは。うん、嬉しい」

それやったら俺もこのタイミングやな……と、ソファから立ちあがって自分のバッグに手を伸ばした。今日、伊織が来るとは思ってなかったんやけど、買ったときそのまま、バッグのなかに入れとったから。あれ、そういえば……。

「伊織さ、今日は予定キャンセルやったやん?」
「え? あ、うん」
「せやのに、なんで俺のプレゼント用意しとったん?」
「それは……だって、バイト終わったら、侑士の家に押しかけようと思ってたから……」

12時間も働いてヘトヘトやろうに、それでも家に来てくれるつもりやったんや。そんなん、考えてもなかった。むちゃくちゃ嬉しい。伊織も俺とのイブ、めっちゃ楽しみにしとったんやなと実感して、胸がきゅん、とうずいていく。俺はそっと伊織を引き寄せた。

「わ……」
「ありがとう……な、これ、俺から」
「へ?」

バッグから取りだした小さな箱。伊織が目をまんまるにして俺を見あげた。そうや、それそれ。俺はサプライズのなかにもサプライズを用意しとったから。
その顔が見たくて、めっちゃ悩んだねん。なんにしよって。

「侑士これ……え、だってドレス!」
「あれはクリスマスプレゼントやな」
「え、でもこのホテルも!」
「これはサプライズプレゼントやな」
「ちょ、じゃあこれは……!」
「これは、今日、俺と過ごしてくれた伊織へのお礼」

口をあんぐり開けたまま、もう、と眉を八の字にしながらも、これ以上あれこれ言うのは粋やないと思ったんやろう。しっとりと俺の胸に頭を寄せながら、リボンをほどきはじめた。
するするとリボンが膝に落ちるのと同時に、箱がパカッと開けられていく。中身を見て、同じように伊織の口も開いた。
あかん、めっちゃかわいい。そないに喜んでくれると思ってなかったわ。

「侑士、こ……」
「メリークリスマス。受け取ってくれるやろ?」

じっと伊織が見つめる先に、ふたつの指輪がある。ありきたり……ま、誰もがそう思うやろう。それでも俺は、ペアリングを選択した。
周りの連中はわりと安易につけよるけど、俺は、将来を誓うくらい好きになった女とやないと、こういうことはしたないっちゅう性分や。
せやからもちろん、はじめて……なんでも、はじめては大事やから。

「侑士……」
「ホンマにめっちゃ好きやから。ずっと、伊織と一緒におりたいし。あと、お前の好きで嫌いな独占欲な」
「も、嫌味……。でも」じわじわと、瞳が揺れとった。「泣いちゃう……」

綺麗な涙を流した伊織の頬にキスをして、左手をそっと持ちあげた。薬指に通すと、涙がポタッと手のひらに落ちていく。感動の一瞬すぎて、俺もちょっと泣きそう。
なにがあっても、ずっと一緒におろうな、伊織……ホンマの結婚は、まだ先やけど。これはそのときまでの、事実婚ってことにしてくれへん?

「愛しとるよ、伊織」
「侑士……わたしも、すごく、愛してる」

伊織の指先が、残された大きな指輪を手にした。俺がそうしたように、左手を持ちあげて、薬指に通されていく。指輪って、邪魔そうやなって思っとったし、もちろんつけたてのいまはひんやりとした違和感もあるけど……こんなに胸があったかくなるもんなんやな。
やってこれ、俺と伊織の、愛の証なんやもんね?

「ふふ。なんか、予行練習みたい」
「お? 言うようになったやん」伊織も将来、意識してくれとるんや?
「だって……嬉しいんだもん。こんなの、調子にのっちゃうよ」
「ん……俺も調子にのる。せやから、今夜は好きにさせて?」
「あ……あー、侑士、すぐムード壊すー」
「逆や逆ー。これこそムード満点、やからやろ?」

唇を重ねて、そのまま首筋に顔をうずめた。ん、と漏れる吐息が、俺たちの時間を溶かしていく。
俺と伊織の、はじめてのクリスマスイブ……夜は、これからやね?





to be continued...

next>>03(R18)



[book top]
[levelac]




×