Twice_11
綺麗な思い出ばかりではない。
それはこれまでも、きっとこれからも、そうだと思う。
だけど起こったことは、すべて必然。
わたしが本当に幸せになるための、回り道なんだ。
きっと、すべて――。
Twice.
11.
「……伊織」
「ん……、……」
「め〜っちゃかわええなぁ……寝ぼけ眼……もっかいチュウしたろ」
「ん、んん……」
大変すぎる毎日が突然幸せ過ぎる毎日に変わって、呆気に取られている。
挙句、この夏休みという期間には学校に行くという用事がない。
おかげで毎日のように好きな人と一緒に過ごしているから、余計そう思うのだろう。
夜遅くまで遊んで、夜遅くまで電話して、寝るのはいつも午前過ぎ。
かと思えば割と早くから遊ぶ約束なんかしてるから、こうして全然目が覚めないことも時々ある。
「……っ、……!」
「お、目ぇ覚めた?」
「侑士!」
「侑士やでー。伊織全然来うへんから、来てもうた」
全く怒っている様子もなくわたしのベッドの中にごそごそと入ってきて顔中にキスしてくる侑士は、すっかり二時間前には目覚めて待ってましたというような爽やかさを漂わせていた。
顔も洗っていないわたしとは訳が違う。
「ごめっ……今何時!?ていうか、どうやって……!」
「んー?今なあ、10時。一時間経ったら迎え来よう思ってたからええねん。おばちゃんに遊ぶ約束しとってんけどーって言うたら、部屋で寝てるから起こしてやってーって許可もらって」
「し、信じられないなあのおばさん……娘の寝室に彼氏を勝手にあげる?普通」
「俺やから信用してくれとんちゃうやろか」
「それはない」
「……さよか」
タオルケットをくぐって、キャミソールと半パンという肌を露出したわたしの姿に目を輝かせながら、侑士は躊躇い無くわたしをぎゅーっと抱きしめた。
ぼそぼそと、寝起きの伊織もかわええなぁ、と呟きながらわたしの頬に唇を寄せる。
付き合い始めて三週間ちょい。侑士はもう格好つけることも忘れて、べったりさんになってしまっている。
……なんだかんだ、嬉しいけど。
「でも……ごめんね、寝過ごしちゃって」
「ええんよええんよ。俺は伊織に会えるならなんでもええんや。あー、このベッド伊織の匂いするわあ」
親友やってた頃からは想像もつかなかった侑士の彼氏っぷりにも、そろそろ慣れてきた。
最初はドキマギして、こんな甘ったるいことを言われる度に失神しかけていたのだけど。
慣れというのは良くも悪くも恐ろしいものだ。
「ご機嫌だねえ侑士」
「もう全国も終わったしな。跡部に呼び出されん限りは伊織と一日中一緒におれるでな。幸せなんや」
「なるほどなるほど……ちょっと暑いかなあ〜侑士〜」
「クーラー強くしたらええやん。俺離れられへん。堪忍」
あちこち素肌を触りまくってくる侑士がちょっぴりエッチな気分になっていることは百も承知なのだけど、わたしもずっと片想いしていた人にここまで愛されると拍子抜けしてしまう部分もあり……。
少し強引に体を離したら、侑士は非難轟々な視線でわたしを見つめてきた。
「なんでやん……ええやんちょっとくらい」
「今日は千夏さんとこ行く日だし、いちゃいちゃはその後でもいいでしょ?」
「伊織とふたりきりん時はいっつもいちゃいちゃしてたいねん。伊織が可愛いてしゃーない!」
「はあ、そうですか……ってか、侑士って誰にでもそうだったんだろうね。なんかむかつく」
わたしが冷めた表情でそう言うと、侑士はぎょっとした顔をして今度は自分から体を離した。
なに、その目……だってそうじゃんか。
誰かと付き合いだすとべったりべたべたで、メールだってろくに返事しなくなったくせに。
「お前、言うとくけどそれはちゃうぞ」
「はいはいもういいから。侑士の過去は誰よりも知ってるけど、それに嫉妬なんて、もうし飽きたくらいだし」
「ちゃうねん、お前全然わかってへん。こんなに可愛えのは伊織だけやねんぞ!今までで初やぞ!」
「あーそー」
「ちゃ、ホンマやもん!」
「うんうん」
侑士が力んでそういうのを背中に、わたしはぱっとベッドから降りて、侑士に覗かないように忠告してから彼を一旦部屋の外に締め出した。
ドアの向こうから「ちょお聞け、ええか」と前置きをしている。
わたしはその隙に適当な相槌を打ちながら着替えるのだ。この様子はこれで三度目くらいになる。
エッチとかしちゃったら、こういう恥じらいも無くなっていくのだろうか。それはそれで、どこか寂しい。
「俺はな、伊織、お前はずーっと俺のこと、出会ったときから好きやってくれたやろ?」
「はいはい、その話恥ずかしいからそこじゃなくて部屋に入ってしてくれるー?」
厳密に言えば出会ってからいつの間にか好きになっていたのだけど、まあ、似たようなもんだからいいや。
「開けてええの?」
「うん、もういいよ」
すっかりデニムとTシャツ姿になったわたしに少し残念そうな顔をしながら、侑士はひょこっと部屋に入ってきた。
根は変態の侑士くんも、ルールを破って覗こうとはしないところに真面目さが感じられて、わたしはそんな侑士を飽きもせず「愛しい」などと感じてしまう。どっちもどっちかな、あはは。
「で、俺が初めての彼氏やん?小学校ん時、まさか誰かとなんてないやろ?」
「まあ適当な恋くらいはしてますよ、多分」
ちょっと格好つけてみた。
嘘だと思う。
覚えてない恋はあるのかもしれないけれど、どちらにしても本当の恋は侑士が初めてだ。
言わば、初恋の人だ。
「せやけど彼氏は俺が初めてやろ?」
「うん、そうだね」
「てことは、全部俺が初めてやん!俺、そんな彼女初めてやし、ずっと俺のこと想ってくれとった伊織が愛しいてしゃーないねんて!伊織の初めて、全部俺のもんやねんで?俺色やあ〜」
「はいはい」
自分のことを高い高い棚に上げてよくもいけしゃあしゃあとそんなことを……と思いながらも、そうわたしに言うことでなんとなく「抱かせてくれ」アピールを感じてしまうから、怒る気にもなれない。
高校男子の頭の中はそのことばっかりなのだとこないだ幼馴染に聞いたけど、どうやら本当らしい。
だってあの宍戸がねぇ……宍戸がそうなら侑士なんかもうあっぱれ変態の域だろう。
「全然伊織、真面目に聞いてくれへんなあ。こっち向いてえやあ」
「今支度してるんだもん、ちょっと待っ……、……もう」
「チュウしたなったやもん、ええやん」
鞄の中にタケ兄から託った手紙を入れたり薄い化粧をしてみたりと忙しくしているわたしに、侑士はまとわりつくようにして、こうして振り向いた瞬間にキスしてきたりする。
うー、でもそんな侑士がやっぱり大好きだ!!言わないけど!!
言ったらすぐにでも服を脱がされてしまいそうなので、わたしは最近セーブしていたり……。
でも今の話を聞いていると、どうにも恋愛経験が多い侑士と、わたしの経験に関しては何でも知っているという口振りに少なからず癪だなと思う自分がいた。
「よし、支度出来た!」
「千夏さん元気やろか?何分くらいで出てくる?」
「大丈夫。侑士を待たせるようなことしないから」
「今日一時間待たせとったくせに」
「ぐ……まあまあ。五年間わたしのこと待たせたんだから大目に見て」
「それ言われたら俺立場ないやん……」
部屋を出る直前、侑士が後ろからぎゅっと抱きしめてきた。
いつものことなのだけど、いつもわたしの胸はこの瞬間にときめく。
ふたりきりの時間が無くなる寸前、侑士はいつだってそれを名残り惜しむように、こうしてわたしを引き寄せて、キスをせがんでくるのだ。
「可愛え……伊織」
「……あ」
「ん?」
わたしの自室でキスをするのは初めてじゃないのに、さっき侑士がした演説のおかげで、わたしはふと、その唇の感触に数ヶ月前のことを思い出していた。
少し意地悪をしたいという気持ちがずっと募っていたせいだったのかもしれない。
まるでフラッシュバックのように、切ない片想いに胸が締め付けられる瞬間が、脳裏に浮かんだ。
「ねえ、侑士」
「うん?どないした?」
「侑士はあのピクニックでしたキスが、わたしのファーストキスだと思ってる?」
「……思ってるって……だって、そうやろ?」
目を真ん丸にしてわたしに首を傾げる侑士に、にまーっと口端が上がっていくのが自分でもわかった。
侑士が途端に慌てたように黒目を大きくさせる。
「なに、その顔……」
「わたしのファーストキス、あの時じゃないよ」
「そ、どうせおとんとか、おかんとか、その類……!」
「ううん。ちゃんと、男の人。それも、あの日のほんの数ヶ月前だったりして」
目が点になって言葉を無くした侑士に苦笑して、わたしは先に部屋を出た。
ああ、あの時、侑士は本当に寝てたんだと思うと、ちょっぴり悔しい気もした。
□
□
「千夏さん」
「伊織ちゃん!今日はちょっと遅かったね」
「うん、わたしが寝坊しちゃったんだ。ごめんね」
「ううん。来てくれるってわかってたから、大丈夫」
病室で本を読んでいたんだろう千夏さんは、わたしの顔を見るとすぐにそれを閉じて、冷蔵庫の中にあるリンゴを出してくれた。
わたしが来るとわかっている日は、こうしてフルーツやアイスクリームなんかを用意してくれている。
「経過はどう?」
「うん。順調だよ。時々すごく辛いときもあるけど、この調子なら早く退院できるだろうって。特にね、伊織ちゃんが来るってわかってる前日と当日はすごく調子がいいの。イライラもしないし。欲しいなあって思うものを考えても頭がスッキリしてる」
「わー、なんかそれはすごく嬉しいな!来る日増やそうかな。せっかくの夏休みだし」
「うん、でもそれだと結局伊織ちゃんの存在に甘えちゃうから、やっぱりこのペースがいいって。先生が」
「あ……そっかそっか。うん、そうだよね。あ、これ、タケ兄から」
「ありがとう。タケちゃん元気?」
もちろん、と笑顔で答えると、自分のことのように嬉しそうに笑う千夏さん。
実はわたしじゃなくて、この手紙が千夏さんの精神状態を落ち着かせているような気もした。
そんなこんなを考えると、やっぱり入院は正解だったような気もする。
まだ一ヶ月も経っていない入院生活で安易な判断は出来ないけれど、顔色はあの頃よりも大分いい。
「侑士くんとは、うまくいってる?」
「あ……うん、えへへ」
「ね、言った通りだったでしょ?侑士くん、自分の気持ちに鈍感だっただけで、伊織ちゃんのこと好きだったと思うよ。ずっと」
「えー!それはナイナイ!」
まさか!と言わんばかりに手を顔の前で振ったら、千夏さんは大真面目な顔をしてぶんぶんと首を振った。
わたしの手の動きと千夏さんの首の動きがリンクしているみたいで、少し面白いほどに。
「侑士くんと付き合ってる時ね、侑士くん、自分の周りのこと話す時、必ず伊織ちゃんの名前出してたの。親友だって思ってたから深い意味は無いと思いながら言ってたんだろうけど、伊織ちゃんのことすごく大切そうに話すし、現に、伊織は一番大切な友達やって言ってたんだよ」
「え、ホントに?」
「ホントホント!あたしはその……ごめんね、侑士くんのこと、本気じゃなかったから話半分だったけど、ああいう話、今までの彼女にもしてたんだとしたら、そりゃあ別れちゃうよねって思ってた」
「……た、確かに……異性、だもんね」
千夏さんの今の告白を侑士が聞いたら、少なからずショックを受けるだろうなと思いながらも、心の奥底で、今までの歴代侑士の彼女に対して、少し、溜飲が下がった……結局醜い嫉妬を今も隠し持っているということだ、わたしは。
「うん……だからね、侑士くん、気付いてないだけだったんじゃないかな。本当は自分もわからない深層心理が、伊織ちゃんのこと好きって気付かせるきっかけを探していたのかも」
「なんか千夏さん深い〜……」
「病気のおかげで、精神的なことちょっと勉強してるっていうか……気になるようになってね」
そう言って千夏さんがさっき閉じた本の表紙をわたしに掲げた。
精神医学的なタイトルにぎょっとする一方で、こないだまでの千夏さんとは大違いだなと感心もする。
「だからあたしね、今回本当にふたりには、迷惑かけたり、傷つけたり、いっぱいしたけど……」
「千夏さん、それは……」
「ううん、聞いて。したけど、でも、侑士くんと伊織ちゃんの恋が実るきっかけのひとつになれたってポジティブな解釈してもいいなら、少し救われるなって思ってるの」
「!……そっか!そうだよ千夏さん!そう思って!」
「本当?いい?都合良過ぎない?ちゃんと侑士くんにも聞いてね?」
大丈夫だよ!と言いながら、なんだか嬉しくて。
涙ぐみながら、わたしは差し出されたリンゴを頬張った。照れ隠しだ。
すると千夏さんも少しだけ涙ぐみながら、そして、リンゴを口にしながら、微笑んで。
二口目には、あ、と何か思いついたように、引き出しを開けてわたしに手紙を差し出してきた。
もぐもぐと口を動かしながらそれを手に取る。わたしへの手紙かと驚いたのも束の間。
ひっくり返すと、封筒の裏には「仁王雅治」と書かれていた。
「え……これ」
「うん。雅治があたしのこと知って、病院に手紙を届けてくれたの」
「そう……みたいだね。千夏さん、大丈夫だった?」
「うん。平気だった……読んでみて」
「え、いいの?」
「うん」
今から恐ろしいものでも見るかのように、わたしはゆっくりと手紙を封筒から抜き取った。
仁王雅治が千夏さんに出した手紙を読むことに躊躇いはあったけれど、何故だか、千夏さんが読んで欲しそうにしていると感じたことで、躊躇いは薄れた。
白い便箋を、しつこくもゆっくりと開く。
そこには、バランスのいい字体が並んでいた。
吉井千夏様
元気にしちょる?
いきなりの手紙に驚いとるかもしれんけど……まあ、気張らずに読んで。
練習試合の日は、冷たいことしか言えんかったことを、まずは謝りたいと思う。
あの日は試合だったりプライベートのことだったり、いろんなストレスが重なっとった。
全部言い訳にしかならんけど、その延長に現れたお前を、面倒にしか思えんかったんよ。
本当に、悪かった。
それと、もう過去のことをほじくり返さんほうがええとは思うが、やっぱり言わせて欲しい。
俺はお前を、良いように利用して、散々使って、捨てた。
お前の病気を知りながら、丁度いいくらいに思っちょった。
最低の男だ。お前からしたら、こんな懺悔も手紙も意味はないんかもしれん。
結局これも俺のエゴに過ぎん行動だ。だが、本当に後悔しちょる。
どこかで、お前を利用して、捨てて、知らん顔しちょる自分に罪の意識があったせいか……だからあの日、冷たくあしらうことしか出来んかったんかもしれん。
これも言い訳じゃけど、自分の醜さを蒸し返された気がしたんよ。すまん。
だからお前が入院したと聞いて、本当に良かったと思うのと同時に、俺もきちんと、お前との過去にけじめをつけたかった。自分のためにも。
闘病生活は辛いと思う。
想像しか出来んし、ありきたりな言葉しか出てこんのが悔しいが、諦めずに、頑張って欲しい。
心から、応援しちょるよ。
そうそう。退院したら、結婚するっちゅう話も聞いた。良かったの。
お前には、幸せになって欲しい。本当にそう思う。おめでとう!
最後に。
あの後、俺も俺でいろいろあって、最愛の人と別れたりした。
けれど、お前を看護しちょる氷帝学園の女子生徒のおかげで、その最愛の人と、また一緒に歩いていこうと誓い合うことが出来た。
彼女は恐らく、本当に俺の、生涯愛する人になる。
だから氷帝の女子には、何度感謝しても足りんくらいに、感謝しちょる。
会うことがあれば、ありがとうと伝えて欲しい。
あと、忍足と、末永くお幸せに、と。
それじゃあ、元気でな。
仁王雅治
三枚に渡って書かれていた手紙は、仁王雅治という人の心をそのまま映し出しているようだと思った。
最後の伝言で、ああ、あの彼女と彼がうまくいったんだなと安心もした。
侑士とわたしのことを知っているところからして、千夏さんの結婚も知っているところからして、内通者は侑士だな、とすぐに察しがつく。まあ、接点はテニスくらいしかないものね。
「ありがとう。読んだよ」
「うん。意外に綺麗な字でしょ?」
「綺麗な字書きそうじゃん、あの人。なんか、隙がない感じ」
「そうかも。だから惹かれたのかなあ。隙がない上に、こうやって手紙くれるくらい、優しい人だから」
千夏さんの表情は穏やかで、仁王雅治のことを思い出しても、フラッシュバックに悩まされることもなくなったようだった。
手紙を読むときは怖かっただろうと思う。一瞬で欲求が戻ってしまう可能性があるからだ。
「千夏さん、それで、どう思ったの?」
「うん……なんか、みんな幸せになったんだなって思うと、嬉しかった。雅治の、誠実な気持ちも……後悔してるって謝罪も、全部全部、嬉しかった。あたし、味方は誰もいない、世界で一人ぼっちくらいに思ってたのに、間違いだったなあって」
「……うん」
「あたしが、拒絶してたのかもね、そういう暖かい人たちを。だからさ……」
「うん」
「やっぱり伊織ちゃんに会えて良かった。伊織ちゃんに会ってからだよ。こんな風に、世界が違って見えるようになったの。本当に、感謝してる」
千夏さんの言葉に、相変わらずわたしは涙して……もう一度、照れ隠しにリンゴを頬張った。
□
□
「侑士お待たせ」
「おかえり伊織。千夏さん、どうやった?」
「うん、元気だった!」
「あれえ?伊織また泣いたん?」
「え!」
「お見通しやでー」
今日はたくさん話し込んでしまったせいで、侑士をいつもよりも待たせてしまった。
だけど侑士は、何も言わない。
なんだかんだ言いながら、侑士はわたしが千夏さんに会いに行く時、他の用事で待たせる時は必ず口癖のように言う、「早く戻ってきてな?」なんてこと、絶対に言わないようにしてくれている。
そういう侑士が、大好き。
「だって千夏さん、会う度に表情が穏やかになってってさ」
「うんうん。良かったわあ。俺もそのうち、見れるんかな」
「うん。多分、もうすぐ侑士も一緒にお見舞いOKしてもらえると思うよ」
「おお!楽しみやなあ」
そっと手を握ってきた侑士がそれと同じくらい優しい顔をしてわたしを見る。
やっぱり突然幸せになりすぎている気がして、少し怖くもなった。
だってこの温もりは、辛かった五年間を一瞬にして忘れさせてくれるから。
「それよりなあ、伊織」
「うん?」
侑士の自宅に向かいながら、今までの事を思い出す。
本当にいろいろあったけれど……千夏さんの言ったことは、決してご都合主義のポジティブな意見ではない。
「誰や。俺の前にキスした男」
「え」
「お前、俺という心に決めた男がありながら、酷いやんか!」
「まだその話……するんだ」
「まだって何?すっごい大事なことやで?俺、ずっと考えとってん。宍戸か?宍戸やろ?宍戸しか考えられへん!それともあれか!?ちょっと火遊び的な感じで、ああああああ、跡部とか……!」
「……はぁ」
考えたくもない!と言わんばかりに、侑士が頭を抱えだした。
なんて幸せな悩みだろう。こうして侑士に呆れる一瞬一瞬も、幸せなひとときだ。本当に。
それを教えてくれたのは、紛れも無く千夏さんで。
「言うてや!病院行く間もずっと問い詰めとるのに、お前、口割らん気か!あんな残酷なこと俺に言うて!」
「なーにが残酷……今まで散々違う女子とキスしまくってたくせして……」
「それとこれとは話が別やろ!?俺はな、伊織と幸せんなるためにちょっと回り道し過ぎただけやねんで。全部それもこれもあれも、伊織との愛を育むためにや。でも、伊織は何でも俺が初めてやないとあかん!」
「なにその自分勝手な願望!!」
侑士とこんなおのろけ全開の言い争いが出来るのも、千夏さんのおかげだ。
彼女はそう思うことで救われると言っていたけれど、それは紛れも無い、事実じゃないか。
「なあ、なあ伊織。嘘やろ?俺が初めてやろ?ちょっと意地悪して嘘ついただけやろ?」
犬が寂しくて鳴いているような声で、侑士は尻尾をぱたぱたと振るようにわたしの袖を引っ張った。
この人……いつからこんなヘタレキャラ……いや、意外にずっと前からか。
「しょうがないなあ」
「え、なに?」
耳元で本当のことを囁いたら、溢れんばかりの侑士の愛が、人が行き交う歩道の上で、恥ずかしげも無くわたしにぶつけられた。
「伊織、めっちゃ好き!!」
「ちょ、とりあえず家に帰ろうよー!」
「帰ったらちょっとエッチなことしてもええ?」
「バカ!まだだめ!」
「いけず……」
笑い合いながらお互いがお互いの手を引いて歩き出す。
この瞬間は、もう二度とこない。だから、大切に胸に刻んでいたい。
どんな一瞬も、誰との一瞬も。
人と人が笑い合い、愛し合えるその一瞬は……本当に贅沢な、二度とない、一瞬――――。
(可愛えなあ、寝てる間やなんて……)
(別に。侑士とジュード・ロウと間違えただけだし!)
(なにその言い訳!可愛いくな!)
fin.
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