ざわざわきらきら_02


2.


「好きな気持ち、感じタラすぐ伝えル。ソレが出来ないから、伊織は損してル」
「そうかなあ……」

写真撮影をした後、結婚式の主役であるアンジェラにそう言われた。

「日本女性みんなシャイね。いいと思ったらすぐモーション。告白したら強引にデートに誘う、コレです。ワタシはそうして秀一郎ゲットしたよ!」

秀一郎というのはアンジェラの旦那さんになる人で、とても気さくで優しい笑顔の人だった。わたしが絵本作家だと知って、「いい知り合いがいるよ!」と声をかけてくれたのも秀一郎さんだ。
だから、わたしはなけなしのお金を払って二次会にまで行った。本当なら、遠慮しようかと思っていたけれど、これは自分への投資だった。コネがあれば、コネさえあれば……そう思いながら作家活動を続けてきたわたしへの、待ちに待った大チャンス。

「透桜社の忍足です」

そう言って渡された名刺から、ほのかな優しい香りがした。香りがする名刺を渡されたのは初めてで、その瞬間、虜になったのかもしれない。
秀一郎さんが紹介してくれた大手出版社の忍足侑士さんは、息をのむほどわたしのタイプだった。少しだけ長い黒髪。力強い意思を感じる切れ長の目。長い指先に大きな肩幅。見上げるほど高い背丈。心地良さが耳に残る、静かで穏やかな関西弁と、低い声。
なけなしのお金を使ってここまで来た甲斐があったと思った。絵本がどうにもならなくても、この人との出会いにはウン万円以上の価値があると、結構、本気で思ってしまった。
しかも彼は、見た目だけじゃなく、中身まで最高に紳士だったから。

「ずっと絵本作家してはるんですか?」
「5年前に一念発起して始めました。アンジェラと一緒だった職場も、その時に退職したんです」
「へえ、すごい勇気や」

穏やかな微笑みを浮かべて、人によってはバカにするようなことも「勇気」だと讃えてくれた。
わたしが謙遜しても、

「夢を追いかけてる女性は輝いてます。僕はそういう女性、社会がもっと応援すべきやと思いますけどね」

と、わずかに首を傾げて気遣ってくれた。名刺に香りをつけるような細かい心遣いが出来る人だから、当然のことなのかもしれなかった。
でもそれを、男性が言ってくれることが嬉しい。いままでわたしをゴミのような目で見ていた編集者とこの人は、まったく違う。
忍足さんは「拝見させていただきます」と言ってから、自費出版したわたしの唯一の絵本を手にとって、ゆっくりとめくっていった。その指先が本をめくっていく度に、わたしの心臓は、はちきれそうになった。
忍足さんの表情で、わかっていた。全然、この人にはわたしの本が響いてないということが。でもそんなことよりも、感情的に動く忍足さんの表情のひとつひとつが、めまいがするほどカッコ良かった。
彼がわたしの絵本を読んでいるということに、すでに恍惚を覚えていた。そしてふと、アンジェラの言葉を思い出していた。

『好きな気持ち、感じタラすぐ伝えル。ソレが出来ないから、伊織は損してル』

読み終わった忍足さんがしばらく黙っているのを見て、わたしは決心を固めた。

「あの、忍足さん」
「はい」
「わたしの作品が……忍足さんの胸を打たなかったのは、よくわかりました」
「え……」
「いい絵本は、子供だけじゃなくて、大人が読んでも笑顔になるものだと思います。でも忍足さん、ちっとも笑わなかった。だから胸を打ってないんだなって思いました」

そのちっとも笑わない顔が、逆に色っぽかった。
あなたをスケッチしたいと思ったわたしは、もう、完全にあなたの虜なんだと思います。絵本であなたの胸を打てなかったかもしれない……でも、だけど。

「佐久間さん、そんなに落ち込む必要は……」
「だけどわたし、あの……あなたが好きです!」
「は……?」
「だからあの……あなたが、好きです」

どのくらいかはわからない。わたしたちはお互いを見つめて黙っていた。

「……俺のこと、バカにしてます?」
「まさかしてません!」
「それやったら、いまなんでそんなこと言うんや?」

突然のタメ口に、苛立ったその表情に、わたしはぎょっとした。怒らせてしまったのかと思うと、もう居ても立ってもいられなくなった。アンジェラの言うとおりに損しないようにしたつもりが、裏目に出てしまったということだ。

「いやあの、その、創作とはどういうものか、忍足さん、一緒に考えていただけないかと」
「それが、俺のこと好きっていうのと、なんの関係が?」

人間として好きだという意味でごまかそうとしたわたしの思いは、むなしく終わる。
忍足さんはわたしの顔を見ていて、すぐにわかったんだろう。こいつ、発情していると。
きっとこの人はモテるだろうからそんなのすぐにわかるんだ。だから怪訝な顔をしているに違いない。
だったら開き直りだと、わたしはすぐにシフトチェンジした。そしてアンジェラの言葉を思い出す。『告白したら強引にデートに誘う、コレです』そうだ、そう言ってた!

「あの、忍足さん! 今度、一緒に舞台を観に行きませんか? さっき歌ってた人の舞台があるんですよ! ほら、このチラシ」

慌てるように差し出すと、忍足さんはチラシを手に取って、さらに眉間にシワを寄せていた。

「あんたなあ……これのどこが舞台のチラシなんや。おちょくってんのか」
「え……」

忍足さんの手元を見ると、それはホストクラブのチラシだった。
そんなはずはない、さっき絶対、二次会会場で手にして、バッグに入れたのに……!

「違いますこれはさっきここに来るまでにホストに無理やりつかまされたやつで……!」
「人間、やましいと早口になんねん。あんた、ただの男好きなんちゃうんか」
「違います本当にわたしは舞台のチラシを……!」

急いでバッグの中をあさっても、舞台のチラシは出てこなかった。どこかに落としてしまったらしい。
どうしよう……きっとすごい発情女だと思われてる。忍足さん、すごい顔でこっち見てるし。

「言うとくけど、舞台チラシあったとこで一緒になんか絶対に行かへんぞ」
「あ……そ、そうですよね」

人が変わったみたいに怖い。完全に怒らせてしまっている。

「絵本売りたかったんちゃうんか。こんなとこまで人を連れ回して、なにを急に言い出しとんねん。ナンパ目的か?」
「違います、そんなつもりはなかったんですが……!」
「中途半端な気持ちで本を出そうと思ってんやったら、諦めや」
「そんな、中途半端な気持ちじゃ……」
「あのなあ、世の中の作家がどんだけ創作に人生かけて死にもの狂いで戦ってきとると思てんねん。人生の選択に葛藤して、それでもプロの道を選んだ人たちを、あんたナメてんちゃうの。あんたはいま、作家としてのチャンスと俺を天秤にかけて俺を選んだんや。しかも、はじめて会ったばかりのただの男をや。そんなふらふらした気持ちの人間が、プロでやっていけると思わんことやな」

そう言って、忍足さんは伝票をつかんで喫茶店を出て行った。





ずーっと下に向けたままの頭をほんの少しだけあげながら、出前や宣伝のチラシでいっぱいになったポストを覗いて、その中から請求書らしきハガキだけを取り出す。いつもの日課を繰り返し、わたしの1日は終わりを告げるらしい。今日は違う1日になると思っていたら、最後は毎日と変わらない。請求書の金額を見て、通帳の残高と見比べる。そのたびに、わたしは最低の気分になる。

「残高6万……」

死にたい。毎日、お金で死にたいと思うのに、今日はその気持ちが、より増している。あんな素敵な人をあんなに怒らせて……しかも好きになったその日に失恋。順風満帆という言葉とは程遠いわたしらしいというか、なんというか。
大学を出て、外資系のコンサルティング会社に入社して数年。わたしの人生は本当にこれでいいのかと思っていた。それでも、昔から大好きだったイラストを趣味で描きながら、外では自分と全く関係ない会社の戦略を立てている入社当初はまだ良かった。
時が経つにつれてだんだんと仕事は忙しくなり、睡眠時間はどんどん減り、趣味にかける時間もなくなったせいで、人生にやりがいも面白みも感じられず、ただただ流れていく日々。お金には不自由してなくても、心の中はぽっかりと空いていた。
やがて心身ともに疲労したわたしはついに倒れて、1ヶ月の休暇を余儀なくされた。
当時、交際していた彼が結婚しようと言ってくれた。両親は転職もいいかもしれないと優しくなだめてくれた。上司は好きなだけ休んでまた戻っておいでと見舞いにまで来てくれた。
でも、その全てが、死ぬほどうっとおしかった。気を遣われて、励まされて、「うん、わたし頑張る!」と涙を流せるほど、わたしは純粋じゃなかった。ひねくれてひねくれてどうしょうもなく、こんな人生は間違っていると思い始めた。
その入院中に、少年がわたしに話しかけてきた。

『お姉ちゃん、笑わないね』
『笑うときもあるよ』
『でも今は笑わないね』
『笑える気分じゃないの』
『笑える気分って、難しい?』
『そうだね、難しい。つまんないんだ、毎日』
『それは、お姉ちゃんがつまらないから?』
『え……』
『これ、面白いよ』

彼が手渡してきたのは、1冊の絵本だった。
なんとなく気味が悪くて、わたしは読まずに、それを1週間も放置していた。しかしわたしが退院する直前に、その少年が亡くなったと看護師さんから聞いて、わたしはようやくその絵本を手に取った。
あのときにしか話さなかった少年に、「これを読んで笑って」と、都合よくも、言われている気がした。わたしはその絵本を、1枚1枚、丁寧にめくった。
絵本は、あらゆる工場が爆発する話だった。

 ヌルヌル
 ベトベト
 ベタベタ

 おかあさん
 おとうさんが
 つぶされた

 キャー、たすけてー、
 でも
 きれいないろねえ

 キューッ、くるしい
 ほんとにきれいだねえ

えのぐ工場もクレヨン工場も爆発し世界が色とりどりに染められていく。そのペンキとえのぐとクレヨンを食べ尽くしたみみずが、泥としてそれらを排出し、やがて大地が生まれ、ずっと昔に戻る、そういう話だった。
この作家が訴えたい本来の意味は、たぶん、わたしが感じたこととは違う。だけどわたしは思った。
苦しくても、辛くても、でも、わたしの人生は綺麗だと、この世に生まれて良かったと、そう思える時間を送っていたい。きっとあの少年は、だから笑っていたんだと思った。自分がこの先どうなるかわかっていながら、彼は微笑んでいた。
わたしのいまの安っぽい悩みは何なのか。バカバカしくなった。苦しくて、辛くて、それだけの人生に、なんの意味もない。やりたいことがあるなら、やればいい。それだけのことだ。あの子が言ったとおりだと思った。
わたしの毎日がつまらないのは、わたし自身がつまらないからだ。
そしてわたしは、少年に敬意を示すためにも、大好きなイラストを活かした絵本作家になろうと決め、会社を退職した。
生活で依存するつもりはなかったから、彼とも別れた。毎日の暮らしを誰かに支えてもらえる甘えた環境で夢を追いかけるのは、わたしの性格上、ちょっと違うと思っていた。それが5年前のことだ。
なのに……あれから5年も経つというのに、わたしはこの有りさまだ。
創作チャンスの神は未だに降りてこない。わたしの作品は、間違ってないと思うのに。
一目惚れした男に説教されて、チャンスだったはずの話も無駄にした。いや、無駄なのはもう、1ページ目を開いた彼の表情でわかっていた。だからちょっと、告白に走っただけだ……。
神さま、そんなにわたしが悪いか。





「あっはは! その話、ケッサクじゃん。それこそ絵本にしなよ」

結婚式から2週間ほどが過ぎていた。わたしは、元会社の同期と会っていた。

「冗談じゃないよ、どうやって絵本にすんの。そんなバカ女の話」
「たしかに、バカ女」
「うるさいなあ」
「見てみたかったなあ。アンタのその奮闘ぶり」
「残念だわー、高熱でドタキャンした女に見せてあげれなくて」

目の前に座る同期の吉井は、アンジェラの結婚式に呼ばれ二次会の幹事まで引き受けていたにもかかわらず、当日、「高熱が出ました」とだけメッセージを送ってきて、妹と旦那を結婚式に出席させた不義理な女である。

「仕方ないじゃない、体調を崩しちゃったんだから」
「妹さんもいい迷惑だわ」
「あの子は大丈夫。公務員だから。それより肝心の結婚式はどうだったの」
「妹さんから聞いてないの?」
「聞いたけど、あの子はほら、コミュ障だから」

くすくすと笑う吉井に、相変わらず綺麗だなと少しだけうっとりする自分がいる。
旦那と結婚して5年も経つのに、その間に仕事もバリバリやって、ここまで美しくいられるのはどういう秘訣があるのだろう。

「ちょっと、なに。じっと見てきて、気持ち悪い」
「吉井はどうしてそんなに、いつまでも綺麗なのかなって」
「はー? おだてたってなにも出ないよ」
「だって、もうわたしたち32になるんだよ? 体も見た目も結構ボロボロ」
「アンタだってまだイケてるから大丈夫。そのナントカって編集者が言ったみたいに、見た目若いと思うよ?」
「それこそ、おだてたって……」

吉井のそのひとことに、わたしはまた忍足さんを思い出してしまった。
多少は酔っ払っていたとはいえ、やっぱりあんなふうに急にアプローチされたら男の人は引くんだよね……アンジェラの言葉を真に受けたわたしがバカだったか。

「でもなんでそんな焦ったの? アンジェラに焚き付けられたからって、別にどうしても男が欲しかったわけじゃないでしょ」
「欲しかったわけじゃないけどさ……。損してるって言われたから。それにもう5年も彼氏いないし」
「だったら前の男、手放さなきゃ良かったのに」
「彼は結婚したい人だったの。わたしみたいに、結婚に甘えたくないとか言ってる強情な女と付き合ってたらいつまで経っても結婚できないじゃん」
「ホント、融通の効かないバカ女」
「吉井……」
「アンタ、結婚に重きを置きすぎ。別に結婚したって頼らなきゃいいだけの話でしょ」
「頼るのが目に見えてるから自制してるんです。そこで甘えたら絶対にプロになんかなれない。自分の生活は自分が守る。元カレは一緒にいたら絶対に助けてくれちゃうような人だもん」
「ふーん。なのに初対面の編集者に甘えるなって怒られたわけだ」

とても情けない話だが、そういうことになる。

「……でも忍足さん、勘違いしてる」
「勘違い?」
「そう。忍足さんはわたしのこと、チャンスと男を天秤にかけて男を選んだ発情女だと思ってる。でも別にわたし、天秤にかけたわけじゃない。忍足さんが1ページめくった時に気づいてた。あ、この人の心には刺さらなかった。きっとこの絵本じゃ出版の見込みはないし、ここから一緒にやってみようなんてことも言われないだろう。だったら……素敵だから告白しちゃえ。っていう、思考回路だったんだけど」
「……そんな高速で物事を考えてるなんて、当然、思わないでしょうね。男ってみんな、女を見下してるからね」
「えっ……ちょっとそれ、男をバカにした発言だよ」
「そんなもんだって。うちの旦那だって偉そうだもん。その点、若い子はかわいいよ。慕ってくれるし、敬意を払ってくれるし」
「あー、新卒入って教育してる時期だもんねー」
「そういうことー」

吉井の美貌の秘訣は、そういう若いエネルギーの傍にいることかもしれない。
でも忍足さんだって年下だったんだ。それに最初はちゃんと、敬意を払ってくれてたはず……。
そんなことをおぼろげに考えていると、わたしのスマホがブーッと鳴り始めた。
見ると、登録されていない番号からの着信で、わたしは不可解な気持ちでじっとその番号を見つめながらも、電話に出ることにした。

「ちょっと失礼」
「どうぞ」
「……もしもし?」

うかがうように耳に神経を尖らせていると、少しの沈黙のあと、「もしもし? 佐久間さん?」と、心地良くて耳に残る、静かな低い声がスマホから流れてきた。

「え……お、忍足さんですか?」
「そうです。先日はどうも」

驚愕の表情をしているだろうわたしを見て、吉井も同じ顔をしてこっちを見ていた。びっくりしすぎて頬に手を当てていると、自分の体温があがっていくのを感じる。
わたしやっぱり……32にもなるのに、すごいこの人にときめいてる!

「いえこちらこそあの、先日は本当に本当に本当に、失礼しました……!」
「いえ、僕もちょっと言い過ぎたなって反省しとったんです。あんなふうに女性にアプローチされるんも、はじめてやったんで、ちょっと……動揺したっちゅうか」

それはどう考えても嘘だと思ったけど、突っ込んでまた嫌われたくはないので黙っていた。

「すみません、それで、要件はその、謝罪だけやなくて」
「謝るのは、こちらのほうですから……」
「んーじゃあそれは、お互いさまっちゅうことでひとつ」

忍足さんの穏やかな笑い声が耳をくすぐって、わたしはまたも恍惚を覚えていた。目の前の吉井がちょっと引いている。それくらい、やばい顔をしているのかもしれない。

「それで佐久間さん……突然なんですけど、明日、予定とかあります?」
「へ?」
「良かったら食事でもどうかなと思ってまして……」

ドン! と、レストランの机を叩いてしまった。吉井が「ヒャ!」と声をあげて、驚かされてムッとしたのか、わたしを非難轟々の目で見る。

「ぜ、ぜひ……!」
「ありがとう。ほんなら明日、19時に赤坂で待ち合わせでもええですか?」

忍足さんにどんな心境の変化があったんだろう。この2週間のあいだに、きっとなにかあったに違いない。
でも……もうなんだっていい。
わたしは喉の奥から声を絞り出して、「はい」と答え、電話を切った。

「どうしたの?」

吉井が覗きこむようにわたしを見ている。

「誘われた」
「え……!」
「デート……だと思う」

この5年、創作のチャンスの神さまは降りてこない。
けれど今日、恋のチャンスの神さまが、降りてきているのかもしれない。





to be continued...

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