TOUCH_02


2.


「おふたりを見てると本当に幸せそうで、良かったなって。なあ伊織?」
「うん、本当にたくましくなったよね、大石も」
「僕が伊織さんと一緒に働いていたのも、もう10年前ですから」
「やだやめてよそんな話! 新人の頃の大石ったらもう、スポーツトレーナーとしてはすでに出来上がってて、こっちが参っちゃった。先輩面が出来ない厄介な後輩で」
「いやそんな! 伊織さんに比べたら僕なんて全然ですよ」
「でも、女性にはからっきし。その大石がまさかこんな綺麗な奥さんつかまえちゃうなんてさ!」
「アリガトウ伊織サン、秀一郎、イツモお世話になってマス」
「いえもういまじゃ、手伝ってもらいたいくらいの優秀なスポーツトレーナーさんで。でも……やっぱり花嫁さんって綺麗だよね、秋人」
「え……うん、とっても綺麗だ」

大石の奥さんであるアンジェラさんを見ながら、わたしはここぞとばかりにとなりで苦笑いを浮かべる恋人の顔を見つめた。その視線に気づいたからなのか、彼はグラスの中のシャンパンを一気に飲み干して言ったのだ。

「まあでも、結婚って時期があるからね」

わたしはその秋人の言葉に固まった。たぶん、目の前にいる大石も、固まっていた。
秋人のやつ……どさくさに紛れてわたしとの結婚話の返事を遠回しに言ったつもりだ。

「……そうねー仕方ないよねー時期があるもんねー」
「ふたりには、いまがぴったりの時期だったってわけだな!」ごまかすように秋人が笑う。
「ンー時期? あーデモ、秀一郎とワタシ、イツモ結婚の話してマシタ」
「え……ええ、ああ、そういうパターンもあるよね! それって外国式なのかな」
「関係性の問題だと思うけど」しれっと睨んでも、秋人はわたしと目を合わせない。
「まあその……アレだ! カップルの数だけ、パターンがあるってことだよな! あ、まあ大半は、いろいろと……いろいろとなんか、あるからね」
「ソーユーものですカァ? あー、ニッポン式、ワタシ、むずかシー」
「ごめんねアンジェラさん、こんな人の話、放っておいていいから。放るってわかるかな?」
「フールー?」
「Huluじゃない。大石、あとで説明してあげてね」
「あ、あの、はい。アンジェラ行こう。伊織さん、今日は本当にありがとうございます」
「いえいえ、お幸せに!」

大石はわたしの様子にすぐ気がついたのか、アンジェラさんの腰に手を回して、くるっと背中を向けて去っていった。そのエスコートっぷりに、あの不器用な大石が……と何度でも思ってしまう。きっと奥さんのアンジェラさんに、これまで相当に鍛えられたのだろう。
だから最初から結婚を視野に入れて交際してたというわけだ。最初からそういう女の教育がないと、男はいい気になってつけあがって責任逃れの言い訳をだらだらと考え始める。
そう……うちの秋人みたいに。

「さっきの、なに?」

大石の背中が見えなくなったところで、わたしはそう言った。手元のワインが切れたので、おかわりを貰おうとバーカウンターに向かう。秋人の知り合いなんてここには誰もいないから、彼はわたしの背中を追ってくるしかない。
恋人と出席すると、そういうハメになることを理解して二次会に来てくれた秋人のことを見直していたし、やっぱりわたしとの結婚を考えてくれているんだと思っていたのに、さっきのは、なに。

「なにって……」
「わたしがなんのこと言ってるかわかるよね?」うちの治療院でわたしとの結婚についてどう考えてるのか聞いたのが1週間前のことだ。「お客さんが来たからうやむやになっちゃって話す機会も無かったけど、まさかさっきのさ、その返事じゃないよね?」

秋人は黙っていた。
この男は、都合が悪くなるといつも黙る。付き合って5年が過ぎても未だに許せない性質のひとつだ。反論も出来ないくせして、自分に非があると思ってもいないような態度で黙る。きっとわたしのことを面倒臭いと感じている証拠で、余計に腹が立つ。

「ちょっとトイレ行く」
「は?」

秋人のいつもの手口だと思いながら、タイミングよく出てきたグラスワインを受け取って、わたしは彼の背中を追った。

「ちょっと待ってよ秋人」
「大きな声を出すなよ」
「まだ話が終わってない!」

大きな会場の中ですたすたとトイレに向かう秋人の背中は、憤りをにじませていた。どうして彼が怒っているのか意味がわからない。
それっていわゆる、逆ギレってやつですよね?

「大きな声を出すなって言ってるだろっ」
「でた。自分だって大声のくせに、わたしのことそうやって責めて恥ずかしくないの? それって、俺は都合悪いですって言ってるのと同じだよ?」
「お前はそういう、重箱の隅をつつくようなディベート戦法、恥ずかしくないの? ヒステリー起こしてるくせに冷静を装って俺を追い詰めて、それでなんでもかんでも責めて、一切自分は悪く無いって言いたいんだろ? だいたい、ちょっとしつこい。黙って立ち去ったら話したくないってことだってわからない?」
「どっちがディベート戦法なんだか。あのさ、わたしそんな話してない。さっきのなに? って聞いただけだよね」
「それが責めてるっていうんだよ。その口調、その目。なにもかもさっきから圧力をかけてきてる。今日だってなんだよ。どうしてもって言うから来てみたら、わざわざウエディング姿を見つめて俺に感想を求めてきて、ここは結婚を祝う場で、アピールの場じゃないはずだ。もうさ、いい加減にしよう、そういうの」
「いま、そんな話してないっ」

秋人はバカじゃない。
いまだって後輩の結婚式の二次会に恋人を誘ったわたしの心理を正確に言い当ててきたし、3年前までずっと女子バスケのコーチをしていた人だ。いわば、女心には敏感な男。

「あのさ、人様の結婚式の場で、こんな話するべきじゃないだろ」
「するべきじゃないよ。でもしてきたのそっちだよね?」

本当は、仕向けたのはわたし。だけどわたしのなにが嫌でごねられてるのかわからないから。

「俺はただ、時期があるって言ったんだよ」
「それって結婚の話したんでしょ!」
「結婚の話だよ! こないだからお前が急かすから、正直に言ったんじゃないか!」
「それここで言う? いま言う? そんな大事なことを、大石夫妻の前で言う?」

ぐちゃぐちゃと文句を言いながら、言わせたのは自分だとわかっていた。わたしが本当に怒っているのは、この場で結婚についての考えを聞かされたことじゃない。わたしとの結婚についての考えが「時期がある」という答えだったことだ。別に大石夫妻の前だって、「俺らもそろそろと思ってる」と言ったのなら違っていた。
だけど、プライドが邪魔して、そんなこと口に出して言えない。言わなくたって、秋人ならわたしの本音にとっくに気づいているだろうけど。

「俺なりに一生懸命に考えた結果だよ! こういう場で言わなきゃ、お前はいつもこうなる! それを避けたかっただけだ!」

不器用にも、言わせたわたしをかばってくれている秋人の優しさをわずかながらに感じて、泣きそうになった。本当はわたしが仕向けたのに、自分から結婚話をしたってことにしてくれてる優しさに。
こんなときに、やっぱりこの人がいいと思ってしまう自分がいる。

「あらそれはそれは、あいにくでしたね。こういう場でもこうなって!」
「どこまで可愛げがないんだよ! もういい!」

そう言って、彼は男子トイレに逃げ込んだ。いつも逃げる。秋人の沈黙も立ち去りも、逃げの象徴だ。おまけにわたしは素直じゃない。いまだって、「あなた優しいのね」と言えば終わった話を、「あいにくでしたね」と、天邪鬼な態度を取ってしまう。
甘えなんだろうと思う。わたしをかまって欲しい、この気持ちを少しでいいから汲んで欲しい、そういう甘え。
それに秋人はわたしよりも5つ年上……そうだよ。37だよね、秋人。
いい歳して、いい歳の女を恋人にして、結婚に腰が重いってどうかしてないかな、やっぱり。
なんか考えたら腹が立ってきた……と、少し離れたところで秋人を待とうと振り返ったときだった。
トイレまである廊下の曲がり角で、男の背中がそこから立ち去ろうとしていた。ここに来るときは誰もいなかったから、わたしたちが来たあとに来た人物ということになる。
それはつまり……

「ちょっとアンタ、盗み聞き?」
「ちが、そうじゃなくて。オレは男子トイレに行きたくて」
「は? だっていま、会場に戻ろうとしてましたよね? トイレこっちなのに。それって面白そうだからそこで聞いただけでしょ?」
「いやだからそれは……」そこまで言って、彼は気づいたように声をあげた。「あれ?」
そして、わたしも同時に気づいた。「え? え……あれ、え、越前リョーマ?」
「え、あ、うん」

目をひんむいてこちらに振り返った人物は、世界テニス界で活躍する王子様と言われている越前リョーマ選手だった。いまや世界ランク8位の超スーパーアスリートだ。
……なんでここに、この人がいるんだろう。

「もしかして……跡部サンのトレーナーやってた人?」
「そう……だけど」

跡部選手が世界で活躍するとなったときに、わたしは専属トレーナーとして跡部選手に指名された。そのときに1度、越前リョーマとは面識がある。たしかどっか痛めて、マッサージしてあげたっけ。
そうか……跡部選手がわたしを指名してきたのは大石とのつながりで、大石は青春学園出身……そういうことか!

「あの……話は偶然、聞こえちゃったけど。別に、誰かに言いふらしたりしないッスよ」
「あたりまえだし!」
「もちろん跡部サンにも黙っとくし」
「は、別に言ったっていいけど。ていうか、越前選手って盗み聞きとかするような人だったんだ」

負け惜しみで言ってやった。こんな年下の男にあんな場面を見られて恥ずかしいし、年増のヒステリーって……とか思われてるのも癪だ。
いいからさっさと、どっかに行ってほしい。わたしはここで、秋人が出てくるのを待ち構えていないと気が済まないんだから。

「だから違うって言ってんじゃん……アンタ、しつこい」
「どうせ面白がってたくせに」
「あのさ、もういい加減にしてくんない?」

うんざりした顔の越前リョーマが、じっとわたしを見据えてきた。「しつこい」「いい加減にしろ」その2つのワードが、胸の奥をじわじわと抉ってくる。
秋人にも、さっき言われたばかりだ。
わたしはしつこいのかもしれない。結婚、結婚とうるさいのかもしれない。自分の年齢を盾に迫って、いい加減にしろと思われているのかもしれない。
でも、わたしが本当に一方的に悪いんだろうか。32歳になる女が、交際中の男との幸せを求めるのは、しつこくていい加減にしてほしいと言われるほどのことなんだろうか。盗み聞きされた、こんなガキにまで言われるほど、わたしは哀れな女なんだろうか。

「そのまま立ち去ってくれたら良かったのに」
「いや、だからオレ、トイレに」
「わたしのなにが悪いの」
「え」
「なにが嫌だからって、ずるずるこんな引き伸ばされて……身勝手すぎる。女にはリミットがあるって、なんで男にはわからないの?」

気づいたら涙が頬を伝っていて、わたしは驚いて頬を手で覆った。
泣きだしてしまって、やっぱりしつこい? やっぱりいい加減にしてほしい? もうどうしていいかわからない。黙って男のいいなりになれば、いつか幸せになれるってこと? そんなのいつまで待てばいいのかわかんない。待ってたら子どもが産めなくなるかもしれないのに。

「わかってるよ、たぶん、アンタの彼氏」
「え?」

意外にも、越前リョーマは立ち去らずにそこにいた。しかも、盗み聞きした詫びのつもりなのか、わたしを慰めようとしてくれている……?

「リミットのことも」

彼に会ったのは、何年前だったっけ。

「アンタのなにが悪いとかじゃなくて」

アスリートとして技術もマインドも一流なのに、コミュニケーションが下手くそなガキだって、いつも思っていたのに。

「ただ、踏ん切りつかないと思う」

こんな慰め方が出来るほど、この人、大人になったんだ。

「そんなに責め立てられると余計に」

……え?

「それは身勝手な男の言い分なのかもしれない……でも男のほうも真剣に考えるから、簡単に決断ができないんだよ」

……大人になったと思ったわたしがバカだった。結局、男って生き物は、いつだってクソガキで身勝手だ。真剣に考えるから決断出来ないんじゃない。真剣に考えてるのは自分のことだけ。相手のことは真剣に考えてないから先延ばしにするんじゃない。

「優しい気持ちで待てってこと? 責め立てるこっちが悪いってこと? 責め立てられるようなことしてるからじゃん。いつまで経っても腰はあがらない、自分の幸せしか考えてないからこっちの人生がどうなろうが関係ない」

どうせこいつも秋人も、男としては最低のマインドの持ち主だ。だからそんなことが言える。

「偉そうに説教たれて正当化しないでよ! 要するにアンタたち男って生き物は、女への責任を取りたくないだけでしょ!」

いまをときめく越前リョーマにここまで言い放ってしまったことに関しての後悔は、一切なかった。すでにわたしはこのとき、もう赤ワインをぶっかけてやろうと思うほど理性を失くしていたし、そこまで考えてる状態で相手が誰だなんて正直、どうでも良かった。

「ふーん。じゃあ説教ついでにもうひとつ。別にアンタがどうなったってオレには関係ないけどさ。アンタ、あんなふうにいつも男を責めてたら、すぐ逃げられるよ」

……このクソガキ。いましかない。
わたしは思い切りグラスを傾けて、越前リョーマに中身をぶちまけた。でもその瞬間、越前リョーマは咄嗟に身を屈めて、わたしの目の前から消えた。赤ワインの勢いは、憤りが手伝ってかなりのスピードで放たれた。おかげで越前リョーマの後ろに立っていた女性に、そのまま赤ワインがかかってしまった。
その間、わずか1秒あったかないか。

「きゃああああああっ」
「うわあああ!」

反射的に叫んだわたしの声で、越前リョーマも振り返ってから叫んだ。わたしも彼も、まさか第三者がそこにいるなんて思ってなかったのだ。

「越前!」
「えっあっ、仁王さん……」

いつの間にか知らない人が来ている。
混乱しつつも被害を被った女性に謝って弁償して……と頭のなかで考えていたが、わたしは全く動けなかった。
目の前にいる越前リョーマの膝を見つめたまま、スイッチが入ってしまったせいで。

「こっちに来い」
「なんですか」
「ええから、来いって」
「ちょっと、おかまいなくと言って……!」

遠くで聞こえるやりとりはBGM化して耳に流れてくる。

「ちょっとアンタ、さっきの人に謝るくらいしといたほうがいんじゃない?」

越前リョーマはわたしの目の前まで来てそう言った。歩いているときは、不自然な感じはなさそうだ。

「ちょっと聞いてんのアンタ」
「越前選手が避けるから」
「誰だって避けるよね、普通」
「あんなふうに避けれるのは越前選手の反射神経がいいからだから」
「急に褒め出してもごまかされないよオレ」
「越前選手」
「なに」
「いつまで日本にいるの」
「は?」
「いま、帰国中なんでしょ? いつまで日本にいるの?」
「21日の朝には経つけど……」

今日が11日……21日の朝ってことは、あと10日しかない。

「20日までにうちの治療院に来て」
「は……なんで」
「これ、名刺」

怪訝な顔をしたままの越前選手に、わたしは名刺を無理やり握らせた。

「必ず来て。約束よ」





「鍵、締め忘れてたけど?」

そのまま会場をあとにして、わたしは家に帰って専門書を読みふけっていた。声のしたほうを見ると、秋人がリビングの扉のところで呆れた顔をして立っている。

「おかえり」
「いやおかえりじゃないよ。いくらあんな喧嘩したからって、先に帰ることないだろ。今日は伊織の家に泊まるって言っておいたのに」
「別に秋人に頭きて帰ったわけじゃないから」

やっぱりあの屈んだ時の様子、ちょっと気になるな……。あれで痛みはないんだろうか……おそらく、あんな平気な顔してるってことはないんだよね。
でも、やっぱり気になる。

「俺も自宅に帰ろうかと思ったけどやっぱり来たよ。このまま職場で顔合わせるのはまずいと思ってさ……それに話のつづき、しておいたほうがいいかと思って」
「そう」
「なあ伊織、俺、誤解されたくないから言っておくけど、お前と結婚したくないわけじゃない。ちゃんと考えてる。ずっと一緒にいたいと思ってるし……」
「ねえ秋人」
「話を遮らずに、最後まで聞いて欲しい」
「越前リョーマっていくつからテニスやってるんだっけ?」
「は……?」

すっとんきょうな声がしたのでもう一度顔をあげたら、やっぱりすっとんきょうな想像どおりの顔がそこにあった。

「あ、ごめん。ググればわかるよね」
「あの……話、聞いてた?」
「うん、聞いてた。一緒にいたいって思ってくれてるんでしょ」

聞いてたけど、流れてた。いま、それどころじゃない。

「……仕事か、また」
「3歳から……か。いろんな箇所を痛めてはいるみたいだけど、致命傷となるほどの故障らしい故障はこれまでそんなになさそう……いま27歳、そろそろガタがくるころだよね」
「それ、俺に聞いてる?」
「もちろん。あなたわたしの先輩でしょ」
「伊織のほうが知識も技術もとっくに超えてるだろ。院長は伊織で俺は雇われなんだから」
「そういう嫌味を言ってないで相談に乗ってよ」

はぁ、っとため息をついた秋人が、冷蔵庫からビールを取り出してわたしてきた。
息抜きも必要、と暗黙に伝えられている気になる。

「越前選手、そういや来てたな」
「うん。ちょっと気になるんだ。いろいろあって、素早く屈んだところを見たんだけど」
「……素早く屈んだところなんて、どうやったらいろいろあって見るんだ?」

さすがに、そのいろいろについては話せない。

「とにかく、本人は気づいて無さそうだったけどちょっとね……」
「伊織がそういうなら、治療院に来てもらうのがいいんじゃないの?」
「そうは思って名刺をわたしたけど……あのガキ来る感じしないから」
「ちょ……世界の越前リョーマに向かって、ガキはやめとけよ」
「だってホントにクソガキなんだもん」ちなみにあんたもクソガキだけどね。
「でもそれならさ、跡部さんに言ってもらえれば、すぐじゃないの?」
「そっか! さすが秋人!」

わたしがスマホを取り出すと、秋人は「仕事熱心なことで」とまた嫌味を言って、風呂場に消えていった。
跡部景吾はわたしが専任トレーナーとして活躍させてもらったトップアスリートのひとり。
引退までの1年ちょっとだったけど、「いちばん信頼している」と言ってもらえたときは本当に嬉しかった。彼のおかげで自信がついたし、彼はわたしにわからないことは、なんでも相談してくれと常に言っていた。お言葉に甘えて相談すると、的確な答えが戻ってくるから気持ちいい。おかげで跡部さんは年下なのに、すっかり敬語で話してしまう。
わたしはさっそく、跡部さんに電話をかけた。

「もしもし?」
「跡部さん! 夜分にすみません」
「問題ない。今日は久々に会えて良かった。元気そうじゃねーの」
「おかげさまで。あの、ちょっと伺いたいことがあって」
「ほう? どうかしたのか」
「越前選手のことなんですが」
「越前? あいつがどうかしたのか」
「ちょっと今日、ひょんなことから彼が素早く屈む姿を見まして」
「……どうひょんなことがあったらそうなる?」

だから、それは話せない。

「とにかく見たんですけど、ちょっと違和感があるんですよね」
「故障しそうってことか?」
「まだわかりません。跡部さんは越前選手から不調について聞いたりしていないですか」
「なにも。相変わらず元気そうだったが……まあ越前ももう27だしな。テニスプレーヤーとしてはまだいけるが、10代のときほど回復力は強くない」
「そうですよね」

わたしは跡部さんと電話しながら、越前リョーマのファンサイトを開いていた。ご丁寧にこれまでの成績が年代別に掲載されている……ということは、これが越前リョーマの過去の試合スケジュールだ。

「あ」思わず声がもれた。
「なんだ?」
「……本当なら、しあさっての6月15日はドイツのゲリー・ウェバー・オープンの開始日なんですね。でも、越前選手は欠場してます」
「越前はそこまでぶっ通しでやってきてる。1試合前の全仏ではふくらはぎに異変を感じていたという話だ。となれば予定していたドイツを欠場して次のグランドスラムに賭けてもおかしくはない。ノルマ的にもまだ先がある。問題なしってわけだ」

さも日常会話のように話す跡部さんに、わたしは控えめに言った。

「えーと跡部さんすみません……どういう意味ですか」
「どういうって?」
「だからそのー……欠場して問題ないとか、グランドスラムに賭けるとか」
「……お前、よくその知識量で俺の専任トレーナーをやっていたな」

知識量についてはさっき秋人に褒められたばかりのはずなのに、おかしいな。

「跡部さんは細かいことは気にされなかったですし、痛いところを痛いと教えてくれれば、わたしの仕事は事足りたはずです」
「まあ、異論はねえよ。いいか、テニスは世界ランクのトップになること、そしてグランドスラムに出て活躍することが全てだ。それしかない」
「えーとそれは……つまり?」
「だから、グランドスラムに出るためにはATPランキング上位にいなきゃ出れねえんだよ。世界中のテニスプレーヤーが年中ポイント稼ぎをしているのはそのためだ」
「えーと……ポイント稼ぎ……?」
「チッ……お前、話にならねえな」

跡部さんはそれから15分ほどかけて、テニスにおけるポイントやノルマについて教えてくれた。
ランキング上位である越前リョーマには大会出場ノルマがあるということ。
グランドスラムと呼ばれる4大会が世界で一番にすごい大会で、今回欠場しているドイツ戦はグランドスラムの次の次に大きい大会であるため、次に控えているグランドスラムのために安静を取ったということ。
越前リョーマが21日には日本を経つと言っていたのが、グランドスラムのためだということ。

「なるほど試合ノルマですか……だから跡部さんも、あんな無茶をしていたんですね」
「無茶じゃなくて出なきゃならねえんだよ」
「よくわかりました。それだけ体を駆使していたら、ふくらはぎだけじゃ済まないでしょうね」
「越前や俺が体を鍛えていたのはそのためだ。プロでやっていくためには人間の限界を越える必要がある」
「わたしとしてはおすすめしませんが、プロなら仕方ないですね」
「それに、次はウィンブルドンだしな」
「えっ……ウィンブルドン!? それってすごいじゃないですか!」
「お前……俺の話を聞いていたよな?」

わたしでも知っているようなものすごい大会だ。というかテニス大会と言われるとその言葉とグランドスラムという言葉しか思いつかない。
要するに、グランドスラムの中のひとつがウィンブルドンってわけだ! わたしが知ってるほどの大会ってことは……きっと選手にとっては、なにがなんでも出たい大会のはずだ。一般的に言うオリンピックとか、そういうレベルの!

「跡部さん、さっき越前選手はこれまでぶっとおしだと言ってましたけど……どのくらいぶっとおしなんでしょうか」
「たしか1月からドイツまで一度も棄権や欠場はなかったはずだ。今日まで平均で月2大会出てるが、2月の後半から3月はとくに忙しい。休む暇もなく4大会連続で出ている」

跡部さんの説明を聞きながら、同時にファンサイトもチェックすると、2月後半から3月末まで、試合の合間の休みは長くて3日だった。しかも、4月後半から5月末も連続4大会出場している。テニス選手は試合が3時間にも及ぶことがある。こんなスケジュールで試合をしているなんて……はっきり言って、常軌を逸してる。

「あの、跡部さん」
「アーン?」
「ウィンブルドン、ですが……たとえばそれを欠場して欲しいと言ったら、越前選手は聞いてくれるでしょうか」
「お前……やはり俺の話を聞いてなかったようだな」
「いえ、ちゃんと聞いてました。だからこそ聞いているんです、可能性として……」
「納得するわけねえだろ、あの負けず嫌いが」





18日19時48分、ようやく彼は、わたしの治療院に現れた。

「跡部サンにまで手を回して、どういうつもり?」
「いいから寝て」
「嫌だって言ったら?」
「ここまで来てわがまま言わない」

むすっとした越前リョーマは、それでも黙って突っ立っている。
19時半からこの人が来るというから『佐久間鍼灸治療院』のスタッフを全員帰して閉めたってのに、20分も遅刻しておきながら、あげくこの態度。

「越前選手」
「なに」
「腰、痛めてるでしょ」
「え」

触らないうちにそう言うと、ぎょっとした顔でわたしを見る。こういうとき、本当に気持ちいいといつも感じる。トップアスリートだろうがジョギングを始めたてのおばちゃんだろうが、みんな同じ顔するんだなと優越感にひたれるせいかもしれない。

「ふくらはぎを痛めているのは跡部さんから聞いて知ってたけど、腰も最近、きてるでしょ?」
「なんで……そんなこと知ってんの。オヤジしか知らないはずだけど」
「見たらわかる」
「嘘だ」
「嘘じゃない。じゃあ越前選手のお父上と、わたしが知り合いだとでも?」
「ありえない、よね?」
「はい、わかったら黙って仰向けに」
「……わかったよ」

やっということを聞いてくれた越前リョーマに、わたしは鍼治療を行った。鍼をあてる場所を指で確かめながら慎重に施術していく。指に触れる鍼の感覚で、ポイントを探っていく。今回は3箇所目で、ここだ、と熱を感じた。
やっぱりわたしは……天才かもしれない。このわずかなポイントを見つけれる鍼灸師が、世の中にどれくらいいるだろう。自画自賛している場合じゃないけれど、この自信がないとこの仕事はやっていけない。

「ねえ、なんで膝? アンタさっき腰って言ったじゃん」

しばらく黙って施術を受けていた越前リョーマが、ぶっきらぼうにそう聞いてきた。

「あとで腰もやってあげるから」
「そういうこと言ってんじゃないんだけど……」
「っていうか、越前選手にお願いがあるんですけど」
「なに、急に改まって」
「身長と体重は?」
「……ノーコメント」
「たぶん、175の65」

否定しない。そんなに間違ってなさそうだ。筋肉量を考えると、少し体重が少ないか?

「ウィンブルドンに出るんだよね?」
「出るよ。あたりまえでしょ。いままで、なんのためにここまで頑張って」
「欠場して欲しい」
「……は?」
「欠場」
「……バカじゃないの。笑えないし」

無理もないか……と思ってわたしは黙った。あちこち触っていると、いろんな体の不調が、微弱なものから強固なものまでみるみるわかる。
彼は若いからまだいいけど……数年前に触ったときよりかなりきてる。ちょっとつらいぞ、このままは。
あれこれ考えながら、わたしは40分、彼の全身を施術した。

「おわり。お疲れ様」
「どーも」
「もちろん、ボランティアなのでお金をいただくつもりはないんだけど」
「そりゃどーも。じゃあ、また」
「越前選手、お願いがあります」

背中を向けた越前リョーマにそう言って、わたしは彼に近づいた。越前リョーマ……日本テニス界の宝。
跡部さんも言っていたけど、トップアスリートの中でも、テニスは人間の限界を越えたスポーツだ。それにどうしても、あのぶっとおし期間が気になる。彼のこの筋力で今回のドイツを欠場したくらいじゃ……。このまま放っておいて選手生命どうこうとかなったら、きっとわたしは一生、後悔する。
……だって、もう触れちゃったんだから。

「ねえ、冗談じゃないんだけど」
「……なんのこと」
「さっきの。欠場して欲しいって話」

越前リョーマは今度こそ、眉間にシワを寄せた。

「あのさ、なんでコーチでもないアンタがそこに首突っ込んでくんのか、意味がわかんないんだけど」
「スポーツトレーナーとして言ってる」
「オレ、アンタにトレーナー頼んだ覚えない」
「わかってる、けど……!」
「1大会休んでるし、全然どこも痛くないのに、なんでウィンブルドン欠場しなきゃいけないわけ? ありえない」
「さっき腰が痛いって言ってたくせして」
「たいした痛みじゃないし、これくらいどの選手でも抱えてるよ」
「じゃあ、じゃあもし出るなら、わたしを同行させて欲しい」
「はあ?」
「お願いします。検討だけでもしてください」

頭を下げたわたしを、越前リョーマはどう思っただろう。わたしはそんな自分にたいして、心の底からびっくりしていた。





「引き止めた!?」
「うん」

わたしの部屋で料理を作って待ってくれていた秋人が、フォークにパスタを巻き付けながら目をひんむいた。自分だってびっくりしたんだから、この人が驚くのも無理はない。

「なんでそんなことしたの! お前に関係ないだろ」
「関係ないけど、放っておけないよ」
「しかも同行を頼んだって……」
「もちろん、今大会だけ。あの膝どうしても気になる。変なことになる可能性は低いけど、なにか秘めてたの。そういう気を感じた。実際、鍼は反応したし」

パスタを口に含みながらそう答えると、秋人はあからさまなため息をついた。

「治療となると、まるで別人だな伊織は」
「へ?」
「こないだまで結婚がどうとか騒いでたのに、急に目の色変えてウィンブルドンについてくとか」
「ついていきたいわけじゃなくて、出るなら同行させて欲しいだけ。選手生命に関わったらわたし、絶対に後悔するから。あと、結婚となんの関係があるの。別にいまでも騒ごうと思えば騒げるけど」

結婚がどうとか、という言い方の人ごと感に腹が立って、語気が強まってしまった。

「いや、別にそういう意味じゃなくてさ……。それに伊織がそこまで挑むって、ちょっと意外で。滅多にいないだろ、そういう人。跡部財閥のぼっちゃんと、あとは水泳選手だっけ?」
「マラソンと野球選手も」
「そうそう。やっぱりトップアスリート相手にすると、伊織は目の色変わるなって感心したんだよ」

人をミーハーみたいに言うこの人の癖は、一体いつから始まったんだろうとぼんやり思った。彼のこの無気力感に、わたしはずっと不自然さを感じている。

「秋人もやってみたら? 勉強になるよ」
「……簡単に言ってくれるけどさ、トップアスリートから声がかかるトレーナーになんて、無理だよ」
「じゃあコーチに戻ったら?」
「え」
「秋人も輝いてたよ。コーチのとき。どうして辞めたのかわからないけど、少なくともいまよりは生き生きしてたと思う」

わたしたちのなかで交際前に決められた鉄則は「優しい本音」だった。悪口でもなく、ヒステリーでもなく、本人のためになる本音は、必ず言おうという約束だ。それは「口が臭い」とか「太った」とか、そういうことも含まれたものだけど、だいたい、仕事の話になるとお互いが本気で向き合って意見交換している。
だけど3年前に秋人がコーチを辞めた話になると、彼はたいてい、口をつぐむ。自分のことになると、本音は語れないらしい。

「あれ、電話なってない?」
「え?」

話を逸らすかのように、秋人がそう言った。耳を済ませると、たしかにわたしの部屋から着信音が漏れていた。

「ごめん、ちょっと見てくる」
「ん」

秋人はどこかほっとしたように頷くのを見てから、わたしは自室に向かった。スマホを手にしてしばし躊躇する。
まったく知らない番号だ。

「……もしもし?」
「……佐久間サン? 治療院の……」

なるほど、治療院からの転送電話か。留守電にするのを忘れていたらしい。
そして、意外な言葉が続いた。

「オレだけど」
「はい?」
「越前リョーマ」

電話主のその声に、「あ」と声をあげる。
ぼそぼそとしたふてくされたような声は、さっき聞いたばかりの越前リョーマの声だった。

「どうしたの」
「帰ってから軽くオヤジと打ち合ったんだけど」
「どこか痛めた?」
「いや、そうじゃなくて……」
「え?」
「オヤジが……ウィンブルドンにあんたを連れて行くって」

電話を持つ手が、ほんのわずか、武者震いをした。





to be continued...

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