殺人リハーサル_01


1.


「月」……月といえば俺……。
それはそれとして、月と地球は約38万キロメートル離れとります。そんでもって月は1年に約3センチメートルずつ遠ざかってます。つまり、今日の月は昨日の月よりほんのわずか、遠くにあるわけです。ふふ……まるで俺やろ? 捕まえてみて? とか言うて……。
月は……。






彼は江戸の町に、颯爽と現れた。

「おおっ!?」

町娘を捕らえていた男たちはその姿に、身を一歩、引いた。まるで風が導いてきたかのようなタイミングのよさ。実際、強風で枯れ葉と砂埃が舞っている。
白い着物を身にまとった浪人銀杏頭の男は、町娘を押さえつけているチョンマゲ頭を睨みつけた。

「離してえっ」町娘が悲痛に、しかし艶のある声で叫ぶ。
「来たな貝割主水介」念の為だが、これでカイワレモンドノスケと読むのである。言ったのはど真ん中に立っている男だ。そして、つづけた。「野郎ども、やっちまえ!」

一斉に刀が抜かれた。敵の数は10名ほど。時代が時代であれば確実に集団リンチであるが、ここは江戸である。
当然、貝割主水介も腰の刀をゆっくり抜いた。このゆっくり抜いているあいだになぜ斬られないのかは永遠の謎であるが、とんでもなくカッコいいことは間違いない。
一人が襲いかかり、あっさりと散っていく。一人、そしてまた一人……右に左にと、なぜご丁寧に一人ずつ襲いかかってくるのか、前から斬りかかっているあいだにもう一人がうしろから斬りかかって……と、10人もいるのだからやれそうなものだが、そうしたことは置いておいて、あっというまにボスにたどりついた貝割主水介は、格闘の末、ボスの刀を地面に落とし、彼を震えあがらせた。

「覚えてやがれっ」

偉そうにしていたボスであるが、たったそれだけで背中を向けて足早に去っていった。ここで、「逃げるな!」と言わないのが貝割主水介の余裕の見せどころである。刀をさっと振り払い、腰に戻していく。その顔にはひそかな笑みもあるほどだ。
しかも、町娘に声をかけることもなく背中を向けて、これまた颯爽と去っていく。当然、町娘は後ろ髪を引かれるように艶のある視線を送った。

「もし」

貝割主水介は立ち止まり振り返った。呼びかけられそうしてしまうくらいなら、最初から颯爽と去っていかなければいいのだが、それも彼のいいところである。実はその声を待っていた、なんて野暮なことは言わないのだ。であるからして、一瞬は黙って町娘を見つめ、その想いをテレパシーで送り、そしてまた背中を向ける。実にまどろっこしいやりとりがくり広げられた。

「あなた様は、もしや、あっぱれ侍……!」

ついさっき貝割主水介と呼ばれていたのだが、あっぱれ侍という二つ名があるようだ。しかしその声には振り返らず、貝割主水介は去っていく。町娘は右手を掲げたまま、胸にともった熱い想いをなびかせていくのであった……。





「はい、カットーッ!」

チャカチャカ、とカチンコの音が撮影現場に響いた。スタッフがざわざわと動きだす。いつもの似たようなシーンの撮影を終えて、大宮十四郎は腰に巻いていた刀をスタッフにわたしながら、用意されていた椅子に着席した。

「先生」

台本と、紙コップに入ったお茶をわたされる。メイク担当の女性がすばやくカツラを整えはじめた。いつもの風景である。十四郎は静かに紙コップを受け取った。

「あとで、御曹司が」
「ん」

マネージャーの声にひとつだけ頷き、十四郎は台本をめくった。おそらく、先日に手渡した嘆願書の件だろう。呼ばれているというわけだ。撮影が終わったら彼の待つ所長室に向かわなければならない。あのおぼっちゃんが納得しているだろうか。あまり期待はできなかった。

そして十四郎のその考えは、案の定であった。
所長室に入るやいなや、嘆願書は突き返されるようにデスクの上に大きな音を立てて投げられた。

「読んだよ。悪いが答えはNOだ」椅子に座って、偉そうに十四郎を見あげている。「もうプロジェクトははじまってるんだ。ここは今月いっぱいで取り壊す」

十四郎は腕組みをしたまま、御曹司こと、城田を見つめた。

「はっはっは。いまさら嘆願書なんぞ持ってこられてもな」

笑っていたのは声だけだった。城田はデスクの上に放り投げた嘆願書を手にし、十四郎に見せつけるように、そばにあったゴミ箱めがけて、これみよがしに落とした。

「……スタッフのみなさんの、悲痛な声なんだ」十四郎は、冷静を努めた。「御曹司……いまさらだが、もう一度、考え直してもらえないか」

城田は上目遣いでタバコに火をつけている。

「このとおりだ。お願いするよ」十四郎は頭をさげた。屈辱に近いものがある。
城田は紫煙を吐いた。「うちで撮る最後の時代劇だ。いいものつくってくださいよ。……それだけだ」

言い放って、城田は設計図らしき書類をめくりはじめた。話し合う気はない、という意思表示なのだろう。それどころか、睨み合うことすら許されない。
十四郎は背中を向けた。一度は所長室を出ようとしたのだ。だが、ドアノブに手をかけたところで、足を止めた。冷静に努めていたはずの心に、荒波のようなゆらぎが襲ってくる。
……ここまでたくさんの人の努力で築いてきた撮影所を、たった一人の人間の思いつきで、なぜ破壊されなければならないのか。先代の息子として生まれてきた、ただそれだけの宿命で、多くの人生が狂わされていく。そんなことが、許されていいのか。

「御曹司」十四郎は振り返った。「例の、明日のシーンだが」
「え? 明日もあるのか?」
「ははっ。自分でやりたいって言ったぞ?」

十四郎はベテランの俳優である。すぐに笑顔をつくることなど朝飯前なのだ。ほぼ9割の仕事が時代劇だが、彼にとってはそれこそが誇りだった。一方で、その誇りをこうした思惑に使うことは、不本意でもあった。

「はっはっはっは。覚えてるかな、立ち回り」笑顔を見たせいか、城田もご機嫌だ。
「じゃあ今夜中に一度、リハーサルをやっとこう」
「今日はいいよ」
十四郎は無視して、つづけた。「最後の立ち回りだが、御曹司には一度、自分の右に避けてもらう。避けたと同時に、私が振りおろす……ん、これは、栄えるな」

眉間にシワを寄せて、城田はシミュレーションするようにわずかに体を動かした……が、すぐに苦笑した。

「口で言われたって、わかんねえよ」
そうだろうな。だからこそだ。「1回、やっとこう」
「え、これから?」
「スタッフにはこれから連絡する」

強引ではあったが、これまでもなかったことじゃない。手をあげて所長室を去りながら、十四郎は頭のなかで立ち回りを再現した。
……大丈夫だ、必ずうまくいく。と、心を落ち着けようとしている最中だった。

「大宮さんッ、十四郎さんッ」

中年女性の声が背後からかかり、十四郎は穏やかな笑みをつくって振り返った。実際のところ、わずらわしい思いがなくはなかったが、彼女たちの強引さは、さきほどの十四郎と似たようなものだ。なにより、こういった熱狂的なファンがいなければ、十四郎はこれまで活躍できはしなかった。その感謝は、十分にあった。

「大宮さんッ」警備員の制止を振り切って向かってきたのは、案の定、二人の中年女性だった。「いつも見てます」
「あのすみませんッ、握手、握手お願いしますッ」

十四郎は笑顔を崩さぬまま、右手を差しだした。汗ばんだ分厚い感触が送られてくる。

「ダメだよあんたら勝手に入っちゃ!」

警備員も大変な仕事だな、と、十四郎は同情した。言っているそばから中年女性の一人がポラロイドカメラで十四郎を写した。こんなご時世だというのに、なんの遠慮もないのが中年女性の強さでもある。

「あ、撮った」自分の行動に自分で説明していた。まるで勝手に自分がやったかのような言いぶんだ。
「頑張ってくださいね!」
「応援してますからね!」
「ほら帰って! 十四郎さん、どうもスンマセンでした!」

手を振って去っていく中年女性たちと、深々と頭を下げてくる警備員にいたたまれない気持ちになり、十四郎は目を合わせることなく頷いた。実際のところ、心情的にそれどころではなかったのだ。高倉健のような沈黙を貫いてきたのは、俳優としてあまり多くを語るべきではないというプライドからだったが、今日だけは別の意図がある。
集中しなければならないのだ……戦いが、もうすぐはじまるのだから。

小道具部屋には、いつものように係の山本老人が鎮座している。

「あ、先生」
「ああ、ちょっといいか」
「聞きましたよ、いまからですって?」

スタッフ間の伝達は早い。とくに小道具はすぐに動くことになるからだろう。山本老人の耳には、すでに入っていたようだ。

「ははっ」
「御曹司ねえ、人のこと考えないですから」やると言いだしたのは十四郎のほうなのだが、都合がいい。
「まあ、そう言うな」和ませるように、目の前にあるきゅうすを掲げ、山本老人の湯呑みに注いでやった。
「あ、どうも……それで、なにか?」

十四郎がここに来ることがめずらしかったからだろう。山本老人はほんの少し、顎を引いていた。

「うん、ちょっと刀をね」
「先生が直々に?」
「弟子たちもう帰しちゃったもんだから」
「ああじゃあ、私が取ってきますから!」
「ああいいよシュウさん、俺が取ってくるから」
「いやそんな」
「いやいや、仕事してて」

ポンポンと両腕を叩いて労うと、山本老人は素直にいつもの場所に戻った。うまくいった。十四郎はそそくさと、刀が置かれている倉庫へと向かった。当然、関係者以外立入禁止の倉庫である。その奥の左側に、小道具として使われる刀が管理されているのだ。
上から2段目を、そっと引いていく。じっと見つめながら、2段目の引き出しをもとに戻し、次に3段目を引いた。
これだ……。十四郎は、黒光りした鞘に収められている刀を、静かに手に取った。

撮影現場であるスタジオ内のセットは、奥に大きな山がそびえ立つ、小さな土手の上を再現していた。
十四郎はその中央に立ち、小道具部屋から持ってきた刀を抜いた。刀は怪しげなオーラを放っていた。照明を跳ね返すほどによく光っている。まったくと言っていいほど、刃に傷もついていない。本来なら試し斬りをしたほうがいいかもしれないが、それはあとで、必ず不利な状況になる。十四郎は刀を見つめ、自分を信じた。
そのときだった。パシャ、ウィーン、という腑抜けた音と同時に瞬間的な光が目に当たる。
十四郎は瞬時にそちらに顔を向けた。

「十四郎さんッ」
「こっち向いてッ」

またである。警備員はいったい、なにをしているのか。それともこの二人の中年女性がとんでもなく俊敏なのか。

「あんたら、あんたらッ! 何度言ったらわかるんだッ!」

警備員が走ってスタジオに入ってきた。何度か言ったところで、わかるはずがないだろう。その証拠に、中年女性の一人が、ポラロイドカメラから出てきた一枚の写真を手に、セットの上部に駆けあがってきた。

「これ、これ差し上げます、どうぞ」強引に十四郎の手に握らせてきた。努めて、笑顔で応える。「頑張ってくださいね!」
「いい加減にしてくださいよ! さあ、帰った帰った!」
「頑張ってくださいねッ!」

女子高生のようにキャッキャッとはしゃぎながら、中年女性たちは警備員に追いかけ回されながら、スタジオから去っていった。
正直、迷惑なのだが……ああしたファンがいることは、ありがたいのだ。十四郎は自分に言い聞かせながらも、その穏やかな心を徐々に鬼へと変化させていった。
鬼となった瞬間に、彼の手から、ポラロイド写真が落ちていった。

電話を受けたのだろう城田がスタジオに入ってきたのは、30分後のことだった。

「おい、さっさとやっちまおうぜ」

ジャケットを脱ぎ捨てスタッフに手渡し、城田はくわえタバコで足早に向かってきていた。監督がその姿に呆れながらも、パイプ椅子に座って静かに待っていた十四郎に声をかけてくる。

「先生」

十四郎は無言でその合図を受け取った。

「開始します! じゃみなさん、スタンバイお願いします!」
「お願いします!」

スタッフが口々に俳優たちに声をかける。全員がセットの土手の上に立ち、十四郎も指定の位置へと向かった。

「それじゃ1回、流してやってみましょう。ね」監督が声をあげた。
「なあ監督」
「はい?」
「一発オレがヤツの腕を斬るってのはどうだ」
城田の提案に、監督は目をまるくしていた。「あっぱれ侍のですか?」
「ああ。だっておかしいじゃないか。いくら主役でも、まるで無傷だってのは」
「そうですね……」苦笑いというより、迷惑そうな微笑みであった。「たしかに面白いかもしれないけど」
「オレにも見せ場くれたっていいだろ? あ?」
「先生……」困り果てたのだろう、監督は十四郎に耳打ちするように声をひそめた。
「私はかまわんぞ?」十四郎は余裕を見せた。
「よし! お許しが出たぞ! はっはっはっはっは」笑っているのは城田だけである。
「じゃあ御曹司は、私が『おぞま寒月』と言ったら斬りかかる。いいですね?」
「うん」
「どうぞ」

十四郎にとってその流れは、どうだってよかった。しかし城田の気分をよくする必要はある。城田は十四郎の言うとおり、あっぱれ侍の背中に位置し、刀を抜いた。十四郎は静かに振り返った。

「おぞま寒月……!」言ったが動かない。十四郎は指示を出した。「山形ふたつ」城田が指示どおり、山形を描くように右、左と刀を振りおろす。十四郎はそれを避けながら、さらなる指示を出した。「突いて抜けて、斬り返して」

バチン、とそこで城田の腕を取る。城田が満足そうに笑みをこぼした。

「おお、なかなかいいじゃないか」ほざけ。
「そうですね。最後までいけますね」監督も納得したようだ。「ではいきましょう!」

うす、うす、という汗臭い男たちの声が響き、監督が土手からはけていく。
さあ、いよいよリハーサルがはじまる……十四郎は身を引き締めた。

「ヨーイ、スタート!」

カチンコの合図とともに、城田が刀を抜いた。じっと睨みつけているが、そのあとどうするのかまったく頭に入っていないのだろう。不穏を感じとったスタッフが城田に声をかけた。

「セリフお願いします」
「……」城田がぼけっとしながらうしろの俳優に耳だけかしげた。
「『飛んで火に入る夏の虫』です」小声でささやいたのは、十四郎の弟子である。
「飛んで火に入る夏の虫たあ、このことだ。野郎ども、今度こそやっちまえ!」

十四郎が刀を抜き、いつもどおりの、何千回とくり返してきた殺陣を披露していく。さきほど終わったばかりの撮影と同様、10人ほどの侍たちがあっぱれ侍に避けられうしろに引いていった。
タイミングを図るように、城田がうんうんと首を折っている。

「死ね!」
「ぐっ……」

しかしここで、バカな御曹司が、力加減もリズムもわからないまま、刀を十四郎の肩に落としてきて、十四郎は思わずうなり声をあげた。あげく、刀を手から落としてしまった。

「先生ッ」
「いい、つづけさせろ」

こんなところで終わらせるわけにはいかなかった。私の本番は、ここからなんだ。
十四郎は振り返った。弟子たちとの殺陣の段取りはまだ終わっていない。もう一度10人ほどに向かっていき、今度こそトドメを刺していく。
それらが終わってようやく、十四郎は城田に向き直った。時が来たのだ。
二度ほど突き、そして右手で大きく刀をかかげ、じりじりと城田に寄っていく。本番さながらの殺意を宿した目で、十四郎は城田を睨んだ。そう、これは間違いなく本番だ。もはや演技の域ではない。
しかし、城田は忘れているようだった。十四郎は念を送った。思い出せ、思い出せ、さっき話したばかりのことを思い出せ……!

――最後の立ち回りだが、御曹司には一度、自分の右に避けてもらう。避けたと同時に、私が振りおろす……ん、これは、栄えるな。
――口で言われたって、わかんねえよ。

はっとしたように、わずかに城田の目が見開く。そして、つぶやいた。

「あ、悪い」

城田が右に避けた瞬間、十四郎は渾身の力を込めて、城田に刀を振りおろした。
同時に、鮮血がスタジオ中に舞っていく。スタッフが悲鳴をあげることも忘れ驚愕しているなか、十四郎は返り血を浴びながら、心の底からホッとしていた。





佐久間伊織が『日本キネマ撮影所』に到着したのは、21時30分のことだった。毎度のことなのだが、なぜ事件の多くは夜に起きるのか。刑事になる前から覚悟していたことではあったが、帰ってシャワーを浴びてすぐだと、やはり、萎える。女性には化粧をするという厄介な一般常識があるためだ。いや、ノーメイクである女性刑事も当然のように多くいる。しかし、伊織としては、それだけはできないのだ。理由はもうおわかりであろう……。

「お、佐久間さん」
「忍足さん! お疲れ様です。お待ちしてました」

上司である忍足は、今日もセリーヌの自転車で現れた。忍足が来ると聞いたのでわざわざ出迎えに来た伊織である。そう、すべては彼と一緒に行動しているためなのだ。忍足にノーメイク姿を見せるなど、伊織にとっては言語道断、あってはならない事態だった。

「家、近くやねん。せやから自転車で来てもうた」そうは言いつつ、忍足ご自慢のセリーヌである。見せたい気持ちも大いにあるだろうと、伊織は踏んでいた。
「いつ見ても素敵な自転車ですね!」であるからして、伊織は必要以上にセリーヌを褒めることにしている。「もうみんな、集まっています」
「ああ、そうなんや。これ、このまま入ってもええかな?」
「え、撮影所に?」
「ん。やって、撮影所のなかにはもっとすごいセットいっぱいあるやろ?」なるほど、どこまでもセリーヌを見せたいということだろう。
「そうですね! 問題ないと思います」
「よっしゃ、ほないこか」

普通に見ればなかなか非常識な光景ではあるが、伊織は忍足が大好きである。彼の非常識などあまり気にならない。忍足がセリーヌでゆっくりと現場に向かう背中を追いながら、時代劇のセットが設置されているスタジオ内へと入っていった。事件はこのスタジオで起きたのだ。

「あっ! 忍足さんっ! どうも!」

忍足と一緒に到着すると、毎度のことながら先輩である今泉慎太郎が声をかけてきた。忍足だけに挨拶をする今泉に、伊織は今日も今日とてわずかながらの苛立ちを覚えていった。

「よう」
「一応、現場検証のほうはひととおり……!」

そう、つまりこの今泉という男は、忍足に媚びているのである。裏では悪口を言っているくせに……と、伊織は苦い気持ちを押し殺した。

「さよか。そらご苦労さん。これ、うまくできとるなあ」

そんなこととは露知らずの忍足は、セットをじっくりと見ていた。事件と犯人には鋭すぎる忍足だが、ほかの人間関係においては鈍感なのだ。

「ええ」
「ほな状況説明、お願いしよかな」今泉が事件用の手帳をスーツの胸ポケットから出しかけているのを横目に、伊織はすっとスマホをかかげた。
「被害者は城田春彦、40歳」
「ちょ、ちょっと佐久間くんっ! 僕が!」うるさい。もたもたしていたのはそっちだろう。
「今泉くん、黙って」
「映画会社の重役で」
「佐久間くんっ! ずるいよっ!」
「黙れっていうとるやろ。ちょ、ふふっ。見てこれ佐久間さん」根っこのついた作り物の草木を引っ張りあげている。感心の意で笑ってしまったのだろう。
「君ね、僕は先輩なんだよっ!? 僕より遅く来たくせに、なんでそんなにしゃしゃり出るんだよっ!」
「すごいですよね」伊織はとことん、今泉を無視した。「それで、ここの所長さんだそうです」
「ふうん。撮影所の?」余計なことを入れながらも、忍足はしっかりと聞いていた。
「というかですね、2代目。2代目ってやつです! 先代の社長の息子さん!」今泉が割り込んでくる。ええい、わずらわしいっ。2代目なら先代の息子に決まってんじゃん!
「ふうん」
「死因は出血多量、前からバッサリですね」
「わあ、ホンマや。血、すごいやん」

白いロープで囲まれた現場を見て、忍足が顔をしかめた。現場というのは大抵の場合が血に染まっているので、どれも同じ様子ではあるが、今回は出血多量。セットの地蔵の頭からも大量の血が滴っており、非常に生々しい。

「殺したのは看板俳優の大宮十四郎。時代劇スターの。たぶんご存知だと思いますが……」
「時代劇映画はあんまり観んからなあ」
「そうなんですね。でも、お顔を拝見すればわかると思いますよ」
「自白してはるん?」ここでようやく、忍足はセリーヌから降りた。伊織以外、誰も触れないからだろう。飽きたのだ。
「ええ……というか、リハーサル中だったようです。ですから、目撃者もいっぱいで。いわゆる、事故ですね」
「そこからは僕が説明するよ!」そして、今泉は飽きもせずしつこい。
「結構です。わたしがします」
「佐久間くんっ!」
「佐久間さん、説明つづけてくれる?」言いながら、忍足がしゃがんだ。現場をよく見るためだろう。
「はい!」伊織もニコニコと隣にしゃがみこんだ。が、すぐに真顔に戻した。「殺された城田さんは、結構、出たがりだったようですね。いま撮っているこの『あっぱれ侍』にもゲスト出演を。悪役で」
「ふうん……」と、忍足が立ちあがる。「あのさ、わからへんのんやけどさ、佐久間さん」
「はい、なんでしょうか?」
「こういう、なんちゅうか、時代劇いうのはさ、ホンマモンの刀を使うん?」
「いい質問ですね!」偉そうに、今泉がはしゃいで忍足に駆け寄った。「大抵は危険なんで、小道具の刀を使うみたいですね」

当然だろう。伊織もそうだと信じこんでいたせいで、この事件の詳細を調べるにあたっては、いの一番にそのことを関係者に聞いたくらいだ。いい質問ではない。普通である。

「ただ場面によっては真剣の場合もあると」
「ふうん……」
「……真剣ってあの、一生懸命って意味じゃないですよ」
「わかっとるわ」

忍足の反応が薄かったせいだろう、今泉がとんでもなくバカにしたような言葉をつづけた。
おのれ……誰が誰に言っているのだ。相手は忍足さんだぞ!

「やはり、光具合とか、重量感とか、違うようです」伊織は仲裁(?)に入った。
「そうなんやあ」
「よう、忍足」

そのときだった。うしろのほうから聞き覚えのある声がかかり、全員で振り返ると、そこには案の定、仁王雅治警部殿が立っていた。

「うっわ……またや。もうレギュラーやん」
「ですね」伊織もいささか、顔が引きつりそうになる。
「相変わらず、殿さま出勤じゃのう、お前は」仁王はもちろん、嫌味も忘れない。
「家に帰っとったんや」
「この事件じゃけど……」
「なんや」
「俺らの出る幕はなさそうやぞ」
「は? なんでや」
「どう考えても完全な事故じゃ。不幸なモンやのう」
「事故はだいたい不幸なモンやろ」
「あんまり深く考えて泥沼に入らんようにと思ってのう」
「……お前、歌舞伎も好きやったし、ひょっとして時代劇も好きなんちゃうん?」
「お前の悪い癖じゃし?」

痛いところをつかれたのか、仁王は適当なことを言ってそっぽを向いた。なんと……。中村右近事件のときは指紋採取のために、伊織は仁王が嘘八百を並べていたのかと思っていたが、実はそこそこ本気だったということらしい。なるほど、そういうことか。中村右近はともかく、今回はガチガチに好きな俳優なのかもしれない。だから仁王としては事故だと決めてかかっている。そんな私情を事件に挟むのは言語道断だが、医者も、病院によっては家族の手術はさせないという話を聞いたことがある。冷静になれないからだ。となると、今回ばかりはこの鋭い仁王でも熱量が邪魔する可能性はある。伊織は時代劇には興味がないが、もしも相手がSMAPだったらと思うと、冷静ではいられないだろう。事故に決まっていると思うはずだ。とはいえ、伊織としてもおおむねの見解は間違っていないように思えた。リハーサル中の不幸な事故というのは、よくある話なのだ。

「今泉、ちと」
「はいっ」

と、めずらしく仁王が今泉の腕を取ってコソコソとしはじめた。伊織と忍足は同時に首をかしげ、二人の背中を見つめた。なんだというのだろうか。

「あっちのセッティング、どうなっちょる……」
「まもなくです」
「かなり、集まっちょるんか」
「はい、かなりの数です」
「そうか……んん、じゃったらなるべく、みんな集まってからはじめんと、あとがうるさいだろうな」
「はい」
「ええの? 練習しちょけよ?」
「はい」

コソコソとしてはいたが、地獄耳の伊織にはまる聞こえであり、忍足もそれは同じようだった。仁王が去ったあと、今泉を見つめる自分の目が棒になっているのがわかる。忍足も同じ目をしていた。

「今泉」
「は、はいっ」
「なんで仁王がおるんや。いつもおるけど、今日は妙やなお前ら」
「実はその……あとで記者発表がありまして。あの、ぼ、僕も抜擢されまして!」

呆れそうだった。仁王のあの様子からして、緊張しているのだろう。常に飄々としつつも怪しげなオーラを放っている仁王は決してそんなタイプには見えないが、実はとんでもなく普通の人だということに、伊織は最近、気づきはじめていた。

「お前、そういうの好きなんやな……」
「いえ、僕はそんなっ。しかし抜擢されましたからっ……!」

今泉の言い訳もむなしく、忍足はじっと正面を見据えていた。今泉の話には興味がなかったので、伊織は忍足の視線を追い、そこに向かった。
現場となった小高いつくり物の土手の上に、なにかが落ちている。セットの土に埋もれてよく見えないので、誰も気づかなかったのだろう。条件反射的に白い手袋をつけながら、伊織はそっと、それを手にした。

「佐久間さん、それ……」
「ポラロイドカメラで撮影されたもののようですね」

写真だった。そこには大宮十四郎が刀をかかげ、土手の上に立っていた。さすが時代劇スターだ。セットも相まって、非常に絵になっているいい写真だった。
が、その地面はいまや、ドス黒い血の海だ。

「かなり、悲惨だったですよ」今泉がつぶやいた。
「遅れて来てよかったわ。俺、血い見るとめまいするんやわ」
「え、忍足さんが?」伊織は思わず顎を引いた。
「佐久間さんもやない?」
「わたしは……最初はアレでしたけど、ようやく慣れてきたというか」今日はたしかに、いつもよりも大量だったので、若干の胸やけがしている。
「よくそれでこの仕事してるよね」今泉がまた、余計なことを言った。伊織に向けられたものだが、それは忍足にも失礼だと気づかないのだろうか。
「なあ、佐久間さん、あれ」

しかし、忍足の意識はそんなところにはなかった。写真をじっと見つめたあと、ゆっくりと天井を指さしている。伊織も上を見た。

「なにか?」
「あれ、ずっとああいうふうになっとった?」

あれ、というのは、満月のセットのことである。室内にある月なのだから当然のつくり物だが、遠目で見るとしっかりと月になるのが小道具の素晴らしい技術である。

「ええ、わたしが来てからはずっとそうでしたが……今泉さん」
「僕が来たときからも、そうだったよ」
「なにか?」
「んん……なんで上がっとるんやろ?」

伊織は、はっとした。たしかに、すでに忍足に手渡した先ほどの写真では、月が下がっていた。いつ撮られたものなのかはっきりしないが、撮影時には下がっているはずだ。しかし、今日はリハーサルである。上がっていても不思議ではない。だが忍足は、それを気にしている。

「さあ……」今泉が首をかしげている。正直、伊織もそうしたい。
「やって、あそこやったら月、見えへんやん」
「月のない夜だったんじゃ……」

今泉が風情のあるようなことを言ったが、忍足は納得しなかった。
眉間に人差し指を当て、またじっと、写真を見つめなおしていた。





「これは、アクシデントだ」

十四郎は楽屋に仁王を呼んでいた。最初にスタッフから紹介された刑事であり、今晩、緊急で行われる記者会見で事件の概要を発表するのが彼らしい。警部と言っていたから、おそらく、今日この現場にいる刑事のなかではいちばんに偉いのだろう。

「わかってます」

仁王は神妙に頷いた。しかし彼は一人で現れたわけではなかった。忍足という男の刑事と、佐久間という女の刑事も引き連れていた。ふたりはおそらく、2番手、3番手というところだろうか。

「罪を逃れようと思って言ってるんじゃないんだ」十四郎はつづけた。
「ええ、わかります」仁王も首を縦に振っている。
「弁解する気は、さらさらないが……その証拠に、私は今後一切、この話はしないつもりだ」十四郎は組んでいた腕をほどき、正面にいる仁王に顔を近づけた。「ただ、あなたには伝えておきたかった。これは、事故なんだ」
「俺も、そう思います」
「ありがとう」うまくいったと、十四郎はホッとしていた。
「……それで十四郎さん、お願いしていたモンは」
「ああ、もちろん用意できているよ。おい」

会ってすぐ、仁王はサインを求めてきた。彼は十四郎のファンであるらしい。十四郎は素直に色紙を手渡した。仁王の職権乱用には、多少、首をかしげたくはなかったのだが。

「ああ、これは……家宝にせんといけんのう。のう佐久間」
「仁王さん、そろそろ記者発表の打ち合わせでは?」呼ばれた女刑事は、軽く無視して話題を変えていた。
「おう、そうやの。十四郎さん、我々の見解としては、事故ということで発表させてもらいます」
「そうですか」それでいい。
「よろしくお願いいたします」

隣で立っていたマネージャーも頭を下げている。ここまで、ヒヤヒヤとした時間を過ごしただろう。十四郎は多少、申し訳ない気持ちになった。
仁王はすっとソファから立ちあがった。が、楽屋を出ていく直前で、ピタリと足を止めた。

「忍足と佐久間も、行くぞ」
「ん」
「はい」
「ご迷惑かけますね」

十四郎は二人の刑事に軽く頭を下げた。女刑事は会釈をしてきたが、忍足と呼ばれた刑事が、チラッと十四郎を見て、背中を向けて去っていく。直観的に、十四郎の体にピリッとした刺激が走った。
そしてその直観は、間違っていなかった。忍足は出ていく直前で振り返ってきたのだ。

「あのちょっと、2、3、伺ってもええですやろか?」
「……どうぞ」

はっとしたように、先に出ていった女刑事まで戻ってくる始末だ。このふたりはコンビなのだろうか。それとも、男と女の関係か。どことなく、そうした色恋の気配も感じる。十四郎にとっては、どうでもいいことなのだが。

「よい、忍足、佐久間っ」
「あ、す、すぐに終わります。終わりますよね? 忍足さん」
「ん。すぐ終わる」
「お前らのう……」
「私は大丈夫ですよ」

仁王に声をかけるように、十四郎は余裕を見せた。ここで焦って帰すようなことをすれば、おかしな疑いをかけられかねない。それだけは避けねばならなかった。

「そうですか」忍足が十四郎に穏やかな笑みを向け、仁王に向き直った。「すぐに終わる言うとるやろ?」
「……すぐやぞ」
「わかった、はよ行け」仁王が上司のはずだが、口ぶりはまるで同期だ。実際、そうなのかもしれない。「すんません、失礼します」
「どうぞ」

仁王が眉間にシワを寄せたまま去っていく。なんにせよ、十四郎にとっては刑事たちの人間関係に興味はない。おおかた、なにか簡単な質問をされるだけだろう。先ほどまで仁王が座っていたソファに、ふたりの刑事を促した。

「申し訳ありません。遅れて来たもんやから、状況がようわかってないんですけども。あ、忍足侑士といいます」
「わたしは佐久間伊織です」
自己紹介に、十四郎は軽く頷いた。「なんでも聞いてください」
「亡くなった城田さん、こちらの所長さんだったそうですね?」
「……」十四郎は腕組みをした。どうも、しらじらしくないだろうか。
「そうですね? でもってあの、役者のほうも?」
「……道楽だな」十四郎は素直に答えた。
「素人さん、なんですか?」忍足の隣に座っている伊織が、にこやかに話しかけてくる。
「若いころ、役者志望だったとかでね」要するに、質問の答えはイエスだ。
「ふんふん。それからあの、映画の撮影で……真剣を使うこともあるって聞いたんですけど」
城田の質問は終わったらしい。が、こっちが本題なのだろう。十四郎は当然、その質問の答えを予め用意していた。しかし、言い訳ではない。つまり、嘘ではない。

「画面に出るんだよ」
「やっぱり違うもんなんですか?」
「ああ全然、違うね」
「せやけどわからんのはですね、リハーサルやったわけですね?」
「そうだ」
「リハーサルでもやっぱり使うもんなんですやろか。本物の刀を」

なるほど、この男はすんなりと納得はしていないらしい。いや、むしろこちらのほうが普通の反応だろう。仁王という警部にはたまたま、どういうわけかうまくいったと思ったほうがいいだろう。十四郎は表情を崩さずに忍足を見つめた。

「……忍足さん」
「はい」
「だからこれは、事故だと言ってるんだ」

忍足がほのかな微笑みを向けて、首をかしげている。十四郎は笑い声をあげた。

「はっはっは。さっきもう、ほかの刑事さんには話してるんですが」デコの光った刑事だった。名前は……忘れたが。
「あれ、佐久間さん聞いた?」
「すみません、わたしも少し遅れたもので」
「さよか。ああ、すんません十四郎さん、あとで聞いてみます」
「いやあ、参りましたよ」

十四郎は自分を労うような言葉をかけながら、ゆっくりとソファを立った。これは事故への感想だ、と言わんばかりの自身の演技に、多少、気分もあがっていた。やり遂げたことへの感嘆のようなものだ。

「間違えたんだ……」とりあえず、ここでも同じことを言っておく必要があるだろう。「本身の刀と、小道具の刀を」
「間違えはった? ということはあの……小道具係の責任ということですか?」
「それは違う」山本老人から仕事を奪うわけにはいかない。「私がしくじったんだ……刀は、私が用意した。違う引き出しを開けてしまったんだ」
「んん、なるほど。ご自分の刀が真剣であることを知らんかったと」
「そうだ」
「あの、持ってみてわからないものなのでしょうか?」伊織が控えめに聞いてきた。
「最近のイミテーションはよくできてるんだよ」
「ふうん。そうなんやあ……」しかし忍足は、納得していないらしい。「あのスタッフの方に伺ったんですけども、城田さんその、殺陣の段取りを間違えたそうですね」
「そうだ」
「それでこういう事態に」
「避けられなかったんだ」
「そうですか……」

十四郎はもう一度、ふたりの刑事の正面に座った。どうも、この男は曲者だ。役者も長くなると、そういう人種をすぐに嗅ぎわけることができる。厄介な人間というのは、目が違う。
隣にいる伊織よりも、忍足のほうがよほどその威力が強い。

「忍足さん」
「はい」
「私は認めてるんだよ、罪を。なにが問題あるのかね」

だからこそ、ここで詰める必要がある。反論してくるなら、この先のやりかたを考えなければいけない。しかし、忍足はにっこりと首を縦に振った。拍子抜けするほど、あっさりとしていた。

「わかりました。ありがとうございました。参考になりました。ほな失礼しよか、佐久間さん」
「え、あ、はい。そうですね」

そそくさと席を立ち、ふたりは扉へ向かっていった。思ったほどしつこくなかったなと、十四郎が胸をなでおろした直後だった。また、忍足が振り返ってきた。

「あ、あと」……やはり、まどろっこしい。人を苛立たせようとしている。
「なにか」
「んん、月が下りてなかったんです。これはどういうことですやろ?」
「……なにか、あるんでしょうかね」
「ですから、セットの月がですね、あの」伊織が補足しようとしているが、十四郎としては、そういうことを聞いているわけではなかった。
「まあ、たいしたことやないんですけどね、妙に気になったんです」
「なんか、関係あるんでしょうかね」十四郎は知らぬ顔で通した。曰く、たいしたことじゃないはずである。十四郎以外の人間にとっては。
「たぶんないと思います」そうだ、関係ない。
「スタッフの誰かが上げたんじゃないかな。私は知らないが」
「そうですか……ほな、ありがとうございました」

ようやく去っていく忍足の背中を見ながら、次に振り返ったらいっそのこと斬ってやりたいという衝動に駆られるかもしれないと思ったが、その衝動はすぐにやってきた。
また、扉から出る直前で振り返ってきたのだ。あげく、忍足は言い放った。

「気を落とさへんように」

……やはりあの男は、厄介だ。





伊織と忍足はスタッフルームに移動していた。いかにも業界人、という面々が揃う男だらけの部屋で、忍足は時代劇のパンフレットを読んでいる。
伊織はスタッフたちの不安げな目に四方八方から見つめられ、いささか面倒な気分になっていた。切羽詰まった、それでいて暗い男の声が降り注がれる。

「先生はどうなるんですか」
「ですから、それは……」50回くらいされている質問に、伊織は辟易した。
「まだなんともやなあ……」忍足はいつもの調子でのらりくらりである。
「あれはどう考えても、事故です」監督だった。まあそう言いたくもなるだろう。仁王と同じだ。私情が大いに挟まっている。
「私たちが証人です」
「それはわかってるんですが……」忍足の言動を見る限り、もう伊織のなかで十四郎はクロである……たぶん。なぜなら忍足が間違っていたことは一度だってない。
「誰かさあ、月……上げた人おる?」
「忍足さん、それ、まだ気になってるんですか」
「そらそうや。佐久間さん、こういう違和感を大事にせなあかんで?」
「はい」

しかし、月が上がっていたからなんだというのだろうか。セットなのだから、上がってたり下がってたりするものではないのか。中村右近事件の「すっぽん」とはわけが違う……と、伊織の頭ではそれが精一杯の解釈である。いや、あれもセットなのだが。
そして、全員が首をかしげていた。ほらね、関係ない。

「ん……。あー、あと小道具係、どなたですか?」
「はい」

奥に座っていた老人が席を立った。でっぷりとした体つきだが、ものすごく人がよさそうな雰囲気である。老人は顔を強張らせていた。刑事に話しかけられれば、誰でもそうなるものかもしれない。

「ちょっと、倉庫、見せてもらえませんか? な? 佐久間さん。そうしようや」
「そうですね。そういえば倉庫についてはまだ、行ってませんでした」

倉庫は地下に位置していた。山本老人の案内で、小道具部屋の奥に進んでいく。いかにも関係者以外立入禁止の金網で仕切られたなかに、問題となった真剣が数本、置かれているとのことだった。

「こっちです」
「せやけど、今夜に限って十四郎さんが自分で……なんでやろなあ?」

廊下を進みながらも、自分が刀を用意したという十四郎の証言について、忍足はぼやいていた。そうなのだ。伊織にとっては月よりもなによりも、そこがいちばん、引っかかる部分である。いつもなら小道具係が準備するものらしい。しかし、今夜に限って、なのだ。

「気遣ってくれたんですよ。私、ほかの仕事やってたもんですから」ぐんぐんと進みながら、山本老人が足を止めた。
「こちらですか?」伊織が山本老人に聞く。うんうんと頷いていた。
「はあ、これがその引き出しか……」日本家屋のなかにありそうな、かなり古い衣装箪笥に見える。
「上が小道具で、下が本身です」
「え、ちょ、ちゃんと書いてる!」伊織は声をあげた。箪笥にはきちんと「替身」「本身」と、シールがしてあった。
「え、あ、ホンマや。ちゃんと書いとるやん!」
「はい……」なぜか山本老人が落ち込んでいた。
「ほな、なんで間違えたんやろか」
「はあ……」山本老人は、む、と口をつぐんでいる。こちらも仁王と同じく、私情を挟んでいるようだ。
「開けてみてええですか?」
「あ、はい」

忍足がゆっくりと引き出しを開ける。山本老人も手伝いつつ、伊織はじっと「本身」である刀を見た。「替身」との違いが、まったくわからない。素人だから当たり前だとは思うが。

「やっぱりその……真剣とイミテーションいうんは、見分けがつかんもんなんですか?」忍足も同じ感想だったのだろう、山本老人に尋ねていた。
「だからこうして……」シールを貼っている、というわけだ。
「持ってみて判別できんもんやろか」
「え……」山本老人は顎を引いた。
「だってベテランの俳優さんやろお?」忍足はとことん疑っているようだ。
が、山本老人は首をかしげた。「難しいと思いますが」
「ふうん、そなんやあ」納得はいってないようだ。私情を挟んでいると、忍足も理解しているのだろう。「佐久間さん」
「は、はいっ」
「ちょお持ってみて」
「えっ、そ、わたし!?」
「ええからちょっと」

忍足に真剣を手渡されて、伊織は心臓がドキドキした。ときめいているわけではない。なにかの拍子に鞘が落ちて手がざっくり! というありもしない恐怖をわけもわからず覚えたためである。

「どない?」
「お、重いです」
「ふんふん。ほなこっち」入れ替えに、イミテーションのほうを手渡される。「どない?」
「お、重いです……」
「そうやなくて。違い、ある?」
「ないです。同じくらい重いです」
「はあ……そっかあ」当然なのだが、当然すぎてがっくりしているようだ。「あの、ちょっとこれ、『本身』のほう。お借りしてもええですか?」
「は、はあ」

本身を手にしながら、忍足は視線を上にした。なにか思惑があるらしいことは、その顔を見れば一目瞭然であった。





to be continued...

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