殺人リハーサル_02



2.


小道具部屋から出てきたところで、撮影所内が騒がしいことに気づいた。なるほど、仁王警部殿が緊張しまくっていた記者会見がこれからはじまるのだろうと察しがつく。

「よい佐久間、お前、なにを物騒なモンを持っちょるんじゃ」

行き交う記者を眺めていたところで、ちょうど、仁王が声をかけてきた。刀を持っているパンツスーツの伊織の姿は、たしかに滑稽であり、そして物騒だ。

「えっとこれは……」

伊織は忍足の様子を伺った。流し目で見つめてくる忍足の心の声が聞こえてくるようだ。「佐久間さん、今夜、デートせえへん?」ではなく、「余計なことは言うな」と。セクシーなのだが、残念ながら圧倒的に後者であると、さすがの伊織も理解している。

「触ってみたくて!」
「ふうん……」しかし仁王は、そのことまでお見通しのように伊織を見てきた。怖い。「ところで忍足、お前、どうする?」
「なんの話や?」
「記者発表じゃ。同席せんのか?」
「冗談やろ。俺、そういう場所は嫌いなんや」
「そうか……」仁王はなんてことないという顔を懸命につくっているが、やはり緊張しているのだろう、心細そうだ。「まあ、そう思っちょった。じゃったら俺がなんとかするしかなさそうじゃのう」

精一杯、自分を鼓舞しているようだ。警部という役職につけば当然のように与えられる役割のひとつだが、忍足はひょっとすると、これが嫌で警部補のままでいるのかもしれないとすら思う。

「ただな、仁王」
「なんじゃ?」
「発表はもうちょっと待ったほうがええと思うで?」
「お前のう……」仁王の顔があからさまに引きつった。「なにを言うんじゃ、いまさら。もう記者が集まっちょる。迅速に報告せんといかんのよこういうのは」
「まあお前も上からプレッシャーかけられて焦っとるんやな。わかるで。せやけど、まだ事故やと決まったわけやない」
「……どういうことじゃ忍足。どう見ても事故じゃろ。十四郎さんは自分でやったのを認めちょる」
「自分でやったの認めとるからって事故やとは限らんやんけ。俺はな仁王、いくつか気になる点がある」
「忍足、お前はいつもなんかしら気になっちょる」
「そうやとしてもや。それを解消せんことには事件は解決せえへんやんけ」
「それにやぞ、テレビカメラまで入ってきちょるんやぞっ」

思わず吹き出してしまいそうだった。仁王の緊張はMAXなようだ。とにかくさっさと終わらせたい。その思いが痛いほど伝わってくる。

「やからこそやん。仁王な、警察の記者発表はNHKをはじめ全国で流されるんやで? そこで間違ったこと言うんかお前? どんだけイケメン刑事やいうても叩かれるで?」
ぐ、と仁王が言葉に詰まっていた。伊織ははじめて、この警部殿をかわいいと思った。「……間違っとるって、証明できるんか、忍足」
「するに決まっとるやろ仁王。俺がこれまで、解決できんかったことがある?」

じりじりとした睨み合いの空気が、ほんの少しだけやわらかくなった。信用しろ、という強い意思と、これまで信用してきた男の熱い友情が交差していた。これこそ真剣勝負というやつだろう。

「今泉」
「はい!」いつからそこにいたのか、仁王のうしろに位置していた今泉は背筋を伸ばした。
「お前、なんとかしてきんしゃい。記者発表」
「えっ、んぼ、ぼ、僕がですか!?」
「仁王、先走らんほうが……」
「じゃったら忍足、俺が出て時間を伸ばせっちゅうんか? 無理に決まっちょるじゃろう! 俺はしゃべるんが得意じゃないんじゃ。ネタもない」それは今泉にもないと思うのだが。
「わ、わかりました、僕、やってきます!」
「ちょ、ちょちょちょお待て今泉。お前……ほんのり化粧してへん?」

今度は、今泉が言葉に詰まっている。忍足の気づきに驚き今泉を見れば、たしかに、いつもより眉が濃く、なんと、アイラインを引いていた。これには伊織も卒倒しそうなほどドン引きしてしまった。

「め、め、メイクさんが、いましてっ」
「めっちゃテレビ意識しとるやん……」
「ぼ、僕はただ、同席を命じられましたからで」
「せやけど仁王はしてへんやん」
「そこまで準備しちょるんじゃから、今泉がやりんしゃい」仁王は押し付けるのに必死だ。
「なあ、お前、目バリ、なんなんそれ。ここに、こうっ。入れとるな? なんなん?」
「い、い、行ってきます!」

忍足の手から逃れるように、今泉は走りだした。呆れてものが言えなくなる。仁王は胸をなでおろすように背中を向けて去っていったが、そこに残された伊織と忍足は、げんなりと顔を見合わせて、目が合った瞬間に、弾けたように大笑いした。





そのころ十四郎は、楽屋でひたすらサインを書いていた。雑誌特集で応募者にプレゼントという場合もあれば、スタッフの親戚がほしがるという場合もある。今日の仁王もその類いだ。サインを書くのも業界で生きる人間の仕事のひとつだった。面倒ではあるのだが、十四郎はそれが嫌いではない。

「いやあテレビで見たことある顔がずらりと並んではりますわ」そこに、ノックもなしに急に入室してきた男がいた。忍足である。「芸能レポーターいうんですかね、ああいうの。記者発表もうすぐはじまるみたいですね」
「ははっ、そうらしいね」十四郎は余裕の笑みを返した。
「すごい数やわあ」
「あんた、ここにいていいのかね?」
「俺、人前にでるん苦手なんですよ。せやから、逃げてきました」
「はっはっは」普通はそうだろう。十四郎は頷きつつ、忍足をソファへ促した。
「すんません。ありがとうございます……あ、これ先生のサインですか?」1枚取り、忍足はじっくりとそれを眺めた。「んん……達筆」しかしあまり興味がなかったのだろう、すぐに色紙をもとに戻していた。「なんや、撮影所が閉鎖になるそうですね」
なるほど、本題はそれか、と思う。「お、さすが耳が早いね」
「商売ですから」十四郎は苦笑する忍足にコーヒーを出してやった。「あ、すんません」
「……スーパーにするって話だ」本当にふざけている。
「ああ……城田さん、あんまり映画に関心がなかったんやろか」砂糖を入れながら、忍足が顔を向けてきた。
「それは違うな。あまりじゃなく、全然だ」
「んん、全然ですか」
コーヒーを口に含みながら、十四郎は正直につづけた。「できもしないのに多角経営なんてもんに手え出してね」
「はあはあはあ、相当、借金もあったみたいですもんねえ」
「御曹司一人の都合でここを潰されたんじゃ、そりゃあみんな怒るよ」十四郎は笑顔を向けた。あくまで、怒っていたのはみんなだと主張したつもりだった。
「はあ、そうですやろねえ」忍足が何度も頷いている。
「そりゃね、時代劇は金がかかる。かかる割には、儲けは少ない。でもね……ここには、伝統があるんだ」思い起こすように、十四郎は席を立った。「歴史があるんだよ」振り返ればそこに、歴史が垣間見える。「約40年だ」楽屋の鏡台に、十四郎は思い出の写真を何枚も飾っていた。「あ、みんなここで撮った写真だ。これ」
「はあ……」穏やかな感動の声をあげながら、忍足も席を立ち、写真を眺めはじめた。「これみんな先生ですか。ふうん……ああ、これ、めっちゃカッコええですねえ」

忍足が指さしたのは、十四郎のなかでもかなり思い出の深い写真だった。うさんくさい男ではあるが、見る目がある。美しい月のセットの下で撮影したあの日のことを、十四郎はいまでもすぐに思い出すことができるのだ。

「『忠治 故郷へ帰る』……私の初めての主役だよ」
「そうなんやあ。ああ、お若いですねえ」そうだろう。なんせ40年前だからな。
「ここで、火を消すわけにはいかん」
「んん……お気持ち、ようわかります」
「ありがとう」

本心かどうか定かではなかったが、それでも十四郎にとってはありがたい言葉だった。忍足はおそらく、城田と同年代だろう。十四郎からすればまだひよっことも言える若者に、時代劇の歴史の重みを感じてもらえたことは、素直に嬉しかった。

「せやけど、こうやって話を聞いとると、あなたは最初からなんや、殺すつもりやったような、そんな気がしてきます。ふふ、ふふふ」

十四郎のなかで、一瞬にして忍足への浮ついた感情が警戒へと変わった。口調はふざけている。まるで冗談だと言わんばかりの笑い声もセットだが、忍足のその言葉の真意が見抜けないほど、十四郎もバカではない。あおられているのだ。
十四郎は、じっくりと体を忍足に向けた。そして努めて冷静に、言った。

「かんぐりなさんな」
「ああ、ふふ、はい」
「これは、事故なんだ」十四郎は忍足に背を向けて座った。顔を直視されるのが、どことなく怖かったのだ。
「先生……」まだ食いさがるつもりだろうか。十四郎は無視してコーヒーを口にした。「お願いがあるんですけども、聞いてもらえますやろか」
「なんだね?」
「ちょっと、付き合ってもらいたいところが」

嫌な予感を胸に秘めながら、十四郎はじっとりと忍足を見あげた。





忍足と十四郎がスタジオに現れたのは、伊織が準備を終えてから20分程度のことだった。
長テーブルに、数本の刀を用意する。そこに「本身」も1本、混ぜておいた。これは当然、忍足から命じられたことである。

「えー、あなたにはお辛いことかもしれませんけども、どうしてもその、問題の立ち回りいうのを再現してみたいんです。佐久間さん、準備ええよね?」
「ええ、ばっちりです」
「ん、ありがとう」
「なにがわかるんでしょう」おとなしく忍足に連れられてきた十四郎だが、やはり苛立ちを覚えているようだ。
「なにがわかるんでしょうか?」オウム返しは忍足の得意技である。伊織はニヤけそうになるのを堪えた。「ただどうしても、めっちゃ、城田さんの動きが気になるんです。すんません」忍足は1本の刀を抜いてセットの土手へ登っていった。「ここに立っとったんよなあ、城田さん。なあ佐久間さん?」
「え、ええ! そのはずです。そうですよね先生?」
「そうです」事務的に、十四郎が答えた。
「あがってきてもらえませんか」

動かない十四郎に、忍足が促した。長テーブルには残り2本、刀が置いてある。伊織はじっくり見ないように、十四郎から目を背けた。とはいえもちろん、視界には入っているのだが。
十四郎の手が、ほんの少しだけ迷うように刀を見ている。最初に触ったのは右、しかし、結局は左を選び、鞘を抜いた。
そのとき、伊織は背後に気配を感じた。誰かがスタジオ内の様子を覗いている。こればっかりは刑事の勘としか言いようがないが、間違いない。仁王? 今泉? いやいや、彼らはいまごろ、結局は引き延ばせなかった記者発表をやる段取りをしているはずだ。

「ええっと……ほなじゃあ、向かって来てください」

忍足の声にハッとして土手を見ると、刀をしっかりとかかげながら、少しだけ微笑んでいる。その瞬間、伊織は背後の気配がどうでもよくなった。
忍足が、信じられないほどイケメンであったからである。胸の鼓動がどんどんと音を立ててあがっていくことに抗えなかった。
十四郎が、黙って突きをする。忍足はそれを払うように刀を振るった。

「ええっと、こう……」
「ひゃあ! 忍足さん! 上手です!」
「ちょ、黙って佐久間さん。すんません先生。こうですね? そんで……」
さらに十四郎が突きをする。同じく、忍足が払う。「こう……」
「素敵です忍足さん!」
「黙ってって佐久間さんっ」
「はい! とても様になってます!」黙っていられない。むちゃくちゃカッコいいのだ!
「すんません、ええっと、ほんでなぜか、ここで右に動いた。そこを前からバッサリ、どうぞ」

十四郎が、忍足の刀に自身の刀を振りおろす。急激な重たさを感じたせいだろう、忍足の手からは刀が落ちた。

「わあ! 忍足さん大丈夫ですか!」
「黙ってって! はあ……まあええか、もう終わった。これで合ってますね?」
「ああ……」

忍足のチャンバラシーンに恍惚としていた伊織は、一瞬で過ぎ去ってしまった時間に落胆した。終わったらしい。黙っていられなかった伊織は当然、よくないのだが、それでも十四郎が刀を選ぶところがポイントであり、さらなるポイントはこのあとにある。そう、だから立ち回りに興奮して声をあげたところで、本当に捜査の邪魔になっているわけではないのだ。あとで、怒られるかもしれないが。

「ふんふん……そこでひとつ、わからんことが」
「なんでしょうか」十四郎も体勢を戻している。
「一番ひっかかっとるのがですね、亡くなった城田さんの最後の言葉です。スタッフのみなさん、全員が聞いてます。そうやな佐久間さん?」
「はい、そのようです」伊織もキリッと姿勢を正した。
「先生、覚えてはります?」
「いや」
「……『あ、悪い』。佐久間さん台本のほう調べてくれた?」
「はい、そのようなセリフはありませんでした」
「んん、これもスタッフのみなさんの証言どおり。台本には書かれてへんセリフなんです。要するにとっさに出たいうことになる。なんでこんなこと言いはったんでしょうか。『あ、悪い』……まあ、悪役やから最後にアドリブで謝ったんでしょうか」忍足のいつもの癖だが、とことん早口になっていた。伊織もテンションもあがっていく。「せやけど時代劇の悪者にしては軽すぎるやんなあ、言いまわしが。佐久間さんどない思う?」
「軽すぎますし、なんだか状況に合ってない気がします!」伊織は声を張った。
「せやんね? 先生どう思われます?」
「御曹司は段取りを間違えた。だから謝ったんじゃないかな」
「あとなら、わかるんです」

忍足が人差し指をかかげる。この忍足の攻めの迫力を目の前で見れることが、伊織にとってはなによりの幸せである。とんでもなくシビれるのだ。

「あなたのおっしゃったとおり、段取りを間違えたんで謝った。せやけどどうも、言いはったのは……佐久間さん?」
「はい、踏み込み前だという証言ばかりです」

忍足がじっと十四郎に目を向ける。

「つまりええですか? 踏み込んで」忍足が実際に右に踏み込んだ。「『あ、悪い』やなくて」もとの位置に戻っている。「『あ、悪い』」そしてもう一度、右に踏み込んだ。「バッサリです」
「……」十四郎が、ただ黙って忍足を見つめている。
「どう考えても逆です」さあ、どう言い逃れるつもりだ。伊織は心のなかで十四郎に問いかけた。「これやったらまるで、誰かに右に動くように言われとったのを忘れとって、慌てて思い出したような、そんな印象を受けるんです」

この話を忍足から聞いたとき、伊織は十四郎が意図的に殺人を犯したのだと確信した。こうした矛盾を絶対に見逃さないのが忍足のすごさであり、いい意味での執念深さとも言える。……大好きだ!
しかしこの局面が訪れると、犯人というのは大抵、だんまりを決め込む。いまの十四郎のように。伊織が犯人であれば、「カッコいい!」と抱きついてしまいたいくらいなのだが。

「んん……殺陣いうのは、どなたがつけるんですか?」忍足がさらに詰め寄った。
「普通は殺陣師がつけるんだが、私が自分でつける場合もある」
「ふんふん。十四郎さんがご自分で? 今回は?」
「私がつけたんだ」
「ふんふん、そうですか」

十四郎の口調は、あくまで事務的であった。あの忍足に詰め寄られてここまで余裕をだせるというのもすごい。伊織は素直に感心した。

「もういいですかな」

十四郎はこの状況を避けるように、舞台からおりた。と、同時に、伊織がそこはかとなく感じ取っていた気配も消えていく。思い切って振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。
しかし、忍足の追撃はまだこれでは終わらなかった。十四郎の背中を追いかけながら忍足が放った言葉に、伊織は目をひんむいた。

「あの、俺、あれ一度やってみたかったんです……真剣白刃取り」
「お、忍足さん!?」

そんなこと、予定されていなかったではないか!
十四郎も呆れたのか、一度は振り返ったものの、すぐにまた背中を向けて去っていこうとした。

「1回やらせてください」
「ダメですよっ、危ないですよ!」十四郎が持っている刀は当然イミテーションなのだが、それでもハズしたら頭に直撃だ。
「ええやん佐久間さん、やってみたいんや。人生で一度はやってみたいことリストってあるやん?」だとしても、そのなかに真剣白刃取りはない。そして真剣ではない。
「あんたね……」さすがの十四郎もげんなりとしていた。
「お願いします」

はあ、とため息をつくのかと思いきや、そう見せかけて、十四郎が俊敏に振り返り、忍足に刀を振りおろした。伊織はそれと同時に「ぎゃあ!」とかわいくない悲鳴をあげてしまった。
刹那、静かになったスタジオから忍足の苦しそうな声が響いていく。

「くうー……あ、はは」忍足が、見事に白刃を取っている。なんという反射神経だ。
「……おやりになりますな」
「いやあ、いきなりすぎますやん……」
「お見事」

本当に見事だ。伊織は過去最大級の悲鳴をあげたくなったが、恐怖と歓喜と恋心がないまぜになって、うまく声がでていかない。ただそれでも、たしかなことはひとつだけだ。
忍足が、死ぬほど、カッコいい……。

「どうも……んん、交代します?」
「もういい」十四郎はくるりと踵を返し、長テーブルの上にある鞘のなかに刀を収めていった。
「せやけど、やっぱりベテランの方はちゃいますねえ。ちゃんと区別つくやないですか、本物とイミテーション」

伊織はまたしても、ハッとした。なるほど、そういうことだったのかと、合点がいったのだ。
本身をどこに置いたか、並べたのは伊織なので、実はあれが真剣でないことは理解していた。しかしそれを知っているのは忍足と伊織だけだ。十四郎が真剣白刃取りを引き受けたということは、イミテーションだと気づいていたということになる。
忍足はそれを立ち回りだけでなく、どうしても本人の意思とともにたしかめたかったのだ。

「小道具の山本さんは無理やっておっしゃってましたけど、ちゃんとイミテーションのほうをあなた、つかみはった」

じっと十四郎が、伊織を見つめてきた。準備したのが伊織だと気づいているのだろう。そうだそうだ、と言わんばかりに、伊織は何度も頷いて見せた。

「これが確認してみたかったんです。ありがとうございました」

忍足はくすくすと笑いながら背中を向けている。キマった……キメたのは忍足だが、伊織は心のなかでそうつぶやいた。
その、直後だった。
十四郎が、じっと刀を見つめながら、一度は鞘に収めた刀をもう一度、引き抜いていった。
なにをする気なのか、伊織がその様子を見ていると、十四郎とまた目が合う。その目は真剣そのものだった。真剣なだけに。

「忍足さん」
「はい?」

瞬間、十四郎が側にある竹を真っ二つに斬った。
というか、正しい感想はこちらのほうだ。なんと、竹が、斬られている……!

「あ、あ……」

伊織の唇は震えた。これは完全に、恐怖のほうだった。
嘘だ、そんなはずはない。たしかに左に本身、右は替身を、忍足の指示どおりに……え、あれ、え、逆? こっちから見て右と左……あっ。

「……いくら私だって、持っただけじゃわからんよ」

忍足も、目をまんまるにして十四郎の背中を見ていた。その表情は、伊織としてもはじめて見るほどの驚愕をにじませていた。

「佐久間さん、なんか、震えてへん?」
「そういう忍足さん、も、ですっ」
「あ……」そこでようやく、忍足が自分の手を眺めた。「ん、皮むけとる……なんや不思議やけど、このやりとり、どっかでした気いするわ」

忍足の言っていることの意味がわからず伊織は首をかしげたが、忍足にわずかに睨まれていることに気づき、ゾッとして背筋が伸びていく。それとは違う意味で、十四郎はすっと背筋を伸ばし、忍足の手を覗きこんで、微笑んだ。

「ああ……無茶をされるお方だ。はっはっは」

十四郎は去っていった。忍足の目が睨みから恨めしのそれに変わった。忍足に指示されたとおりに刀を置いた、はずだった。あの位置にはたしかに、イミテーションを置いたはずなのだ!

「……佐久間さん」
「違います本当に違いますわざとじゃないですし、わたし、たしかにっ!」
「ええから。ちょっとこっちおいで」
「お、忍足さあんっ」今泉のような声をあげてしまう始末だ。
「おしおきや」

にも関わらず、どんなおしおきをされてしまうのかドキッとしてしまう。どうしようもないな、と呆れつつ、忍足の背中についていく伊織であった。





『えー、大変、長らく、お待たせいたしました。警視庁の今泉でございます』

忍足のおしおきが終わったころには、会見会場から今泉の声が聞こえてきた。どんなおしおきをされたかって……?

――あかんやろ? 悪い子やな。めっ。
――ふぁ……っ。

軽くて、かわいくて、いじらしいデコピンであった。胸がキュンキュンにときめいて、すでに壊れかけている伊織であるが、その気分はテレビ画面で今泉を見た瞬間に消えていった。
あの目バリを全開にした恥ずかしい顔で全国放送されているのかと思うと、なにを言っても警視庁の面目はまる潰れなのだが、仁王はそれでいいのだろうか。

『えー……こ、これより事件の経緯について、仁王警部よりお話がございます。ど、どうぞ』

しかし仁王はそれどころではないのだろう。なんなら今泉のメイクにすら気づいていないかもしれない。引きつった顔でカメラを睨みつけているその様は、誰が見ても「目つきの悪い兄ちゃん」である。しかし一方で、中継を見ているスタッフの女性たちから黄色い声があがっているのも事実だった。

「ねえねえこの仁王警部さん、カッコいいわよね!」
「さっきあたし、握手! 握手してもらっちゃった!」

うちの警部はアイドルか。どこに行っても女性を(ここにいるのは中年女性だが)虜にする顔つきなのは否めない。伊織は忍足にしか興味ないが。

『今回の件につきまして、現状でわかっていることだけ報告させていただきます』
『真剣によって所長である城田氏が殺害されたというのは本当なんでしょうか!』
『先ほども申しあげましたとおり、わかっていることだけ報告させていただきます。まずは聞いてください。今晩、午後8時30分……』

仁王の緊張とは裏腹に、意外にもしっかりとしゃべっている。最初の予定では、「事故」とはっきり明言するはずだったが、そこはうまく避けているようだ。
忍足への信頼の証だろう。肝心の忍足はスタジオで考えたいことがあると言って、姿を消した。本当はついていきたかったのだが、伊織はテレビ中継でなにが起こるかわからない懸念を払拭できず、いまはスタッフルームで静かに拝聴をしているというわけである。

「佐久間さん」

そこに、声がかかった。振り返ると、山本老人が立っている。

「はい」
「あの、お話したいことが……」

直観的に、伊織にはそれがなんなのか理解できた。背後から近づいてくる気配が、あのときのそれと同じだったからだ。

人のいない場所に移動し、伊織は電話で忍足を呼んだ。山本老人は静かにうつむいて待っていたが、忍足が来ると、生唾を飲み込むようにして顔をあげた。

「私がやりました」
「……どういうことでしょうか」

伊織は眉間にシワを寄せて問い返した。やっぱりだ、と思ったからだ。
忍足も同じだった。首を左右に折るようにして、ふうっと息を吐いている。悲しいのだ。

「私がすり替えたんです。大宮さんには罪はありません!」
「すり替えた?」忍足が、ゆっくりと山本老人を見た。密かな迫力を込めた視線だ。伊織よりも断然、効き目があるということを本人も熟知してのことだろう。
「ええ、『本身』と『替身』……」
「なんで?」
「あ、あいつをどうしても」
「城田さんですか?」伊織もわずかに口調を強くした。
山本老人は頷いて、つづけた。「ここがなくなったら、私やほかのスタッフ、どうなるんですか。いくら商売にならないからって、あんなこと」
「山本さん……」気持ちはそのとおりだろう。だが、自白はいただけない。
「40年、ここにいます」忍足が黙って頷いている。「だから……! 私が、すり替えたんです」

忍足は目の迫力を消したようだったが、表情では、すべてを把握しているように見えた。





「なんじゃと!?」

大声をあげたのは仁王のほうだった。記者会見中に中断を促し、別室に呼び寄せたのだ。現状、わかっていることを発表すると言った手前、これはこれで、自白した人物がいるが調査中、と言わねばならないだろうと判断したのだ。

「のう、もう、発表したんやぞ。記者会見がはじまっちょる」
「わかっています、ですから緊急でお呼びしたんです」
「せやから、記者発表はもう少し待ったほうがええって言うたやないかあ」
「斬ったのは十四郎さんっちゅうことも、言うたんやぞこっちはっ」
「それは事実だからいいんじゃないですか?」仁王の慌てっぷりに、伊織は目が重たくなっていった。
「ちゅうことは、なんじゃ、あの、あの小道具係の犯行やったっちゅうことか」
「一応、自白してはるからなあ」
「忍足! お前、十四郎さんを追っちょったんじゃないんかっ。俺はお前を信用しちょったのに! 小道具係の殺人っちゅうことになるじゃろっ」
「おいおい、仁王、落ち着けって。小道具係の言うことは鵜呑みにせんほうがええで」
「どういうことよ。自白しちょるんじゃろうっ!?」

普段、怪しい者は片っ端からしょっぴいてとにかく吐かせる仁王にとって、自白は完落ち、つまりクロである。この時代では自白は証拠にならないのだが、仁王にとってはなによりの証拠であり、事実それで、冤罪を生んでいない。だからこそ、すぐには理解しがたいのだろう。

「十四郎さんをかばっとるいうことも十分にあり得るやろ?」
「な……なんでそんなことするんじゃ」

仁王には理解できない情動のひとつなのだ。おそらく彼は、誰かの罪をかぶるようなタイプの人間ではないし、そんな人間はいないと思っている。

「とにかく、や。もう少し調べてみんとな」
「どうなっちょるんよ、忍足……俺はどうすればええんじゃっ」
「訂正するしかないでしょう。まだ捜査中ということは間違ってませんから、自白した者がでてきたという事実だけをお伝えすればいいのでは」
「そうは言うけどの佐久間、記者たちが、聞かせろっちゅうて……!」いつまで緊張してるんだこいつは、と、伊織は暴言を吐きたくなったが、もちろん堪えた。
「今度はできるだけ曖昧にしとくとええんやない?」うんうんと、仁王が素直に首を振っている。まるで親と子だ。かわいらしい。「記者が残っとるうちやな。はよ、はよ、はよ、はよ!」
「い、今泉!」

結果、自分でやらない仁王に命じられ、今泉だけが記者発表の場に立つことになった。
相変わらずの目バリでフラッシュを浴びている今泉は、テレビのなかで見ても実に滑稽である。そこに加えて、情報が錯乱する警視庁の発表。

『ええ……先ほどの発表はとりあえず忘れていただいて……』

間違いなく、面目まる潰れとはこのことだ。

『詳しいことはあのー……まだ現段階ではなにも申し上げられませんが……概要につきましては、のちほどお話するとして……おおむねは、おおよその範疇であるという以外にございません』

絶対に仁王がやるべきだったというのに……。

『なにか、質問は?』
『それじゃ発表になってないよ!』
『さっきの警部はどうした! お前じゃ話にならない!』
『事故なのか事件なのかはっきりしろ!』
『だって……くうう……』

今泉も一定、被害者である。





忍足の姿がいつのまにかスタッフルームから消えていたので、伊織はスタジオに走った。
案の定、セットの岩に腰をかけている忍足が、現場となった土手をじっと見つめている。

「忍足さん」
「ん」
「山本さんの自白、もちろん」
「ありえへん」
「ですよね……」

伊織も横に腰をかけた。眺めているだけで事件が解決できるのだろうか。これという証拠がつかめない。しかしもうこの窮地を救えるのは、忍足の頭脳だけである。

「刑事さんだよね」

そのとき、奥のほうからスタッフが大きな板のようなものを持ってやってきた。関係者のひとりである。山本老人は小道具係であるが、彼は大道具であった。

「はい」
「その岩、気をつけたほうがいいよ。ハリボテだから」

言った瞬間、忍足と伊織がふたりで座っていた岩がバキッと音を立てた。一緒になって状態を崩し、「わあ!」と同時に声をあげる。
コケた! と思ったが、痛みはなかった。しかし伊織は、急激な胸の痛みを覚えていた。なんと忍足に、抱きかかえられるように支えられていたからである。

「あ……」
「危ないとこ、やったな……」

忍足はごく冷静であるが、そのまま動かず伊織を見つめた。大道具がそこにいるというのに、伊織はめまいを起こしかけていた。すでに倒れているので問題ないが、これではまるで、まるで、少女マンガのラッキーハプニングではないか!

「おおおお、忍足さん……」
「ん、佐久間さん……」

これは、これは、これはもしかして、キスしてしまうのだろうか……!

「近くで見ると、鼻の頭、テカテカんなっとるな」
「は……」

伊織は引きつった顔で、ドン! と忍足を押し返した。「おっと、堪忍……」と、なにに謝っているのかわからない忍足が、ポンポンと自分の膝小僧を払っている。
……んなわけないよね! わかってたよ! 期待した自分が恥ずかしい! しかも鼻がテカっているだと!? 失礼じゃないですか!

「映画、どうなンのかね」セットを端に片付けていた大道具は、なにも見ていなかったのだろう、のん気な声をあげた。
「俺が決めることやないからなあ」なにごともなかったように立ちあがっている。憎たらしい。

「あんなクソガキが一人死んだくらいで中止になっちゃ、たまんねえよなァ」

口が悪すぎるのだが、これが撮影所スタッフの本音なのだろう。伊織はささっとコンパクトを取り出して鼻の上にファンデーションを押し付けながら、それを聞いていた。実際、テカっていたことにも腹がたった。

「そんなことより、あの月なんやけど……」
「え?」

コンパクトをポケットにしまい、大道具がそうしたように、伊織も忍足の指さした月を見あげる。そういえば最初から、忍足はずっと月のことを気にしていたのだ。

「いつから上、あがっとるん?」
大道具は眉間にシワを寄せて、腕を組みはじめた。「んん……知らねえ」
「来たときから気になっとったんやけども、あそこやったら見えへんやん」
「撮影のときに下げんじゃないの?」
「んん……」

大道具が、また動きだした。まだセットを移動させる仕事が残っているのだろう。
伊織の意見は、彼の意見と一緒だ。リハーサルだからあげていた。本番撮影のときは下がる。やはり、そこになにも違和感はないのだが。

「忍足さん、月、なにかあるんです?」
「んん……」

忍足がそれには答えず、背広の内ポケットから写真を取り出した。伊織が見つけた、現場に落ちていた写真である。土手の上、十四郎が刀をかかげて立っている。月は下がっている。絵になるポラロイド写真だ。

「大宮の先生、平気だよね?」大道具としても、そこは気になるところなのだ。あの大宮十四郎という役者はスタッフの信頼をたっぷりと得ているらしい。
「ん、どゆこと?」忍足はうわの空で答えていた。
「捕まったりしないよね。事故なんだから」
「んん、事故やったらな」
「事故だよ」

当然だろ、と言わんばかりの大道具が、ぐいっとなにかを持ちあげている。ひっくり返されたそれは、月だった。伊織は思わず声をあげた。

「あの、あ、あ、あ、ちょっと大道具さん!」
「え?」
「それ……なに?」忍足も声をあげた。
「月だよ」
「いや、それはわかるんやけど」
「本当はあそこに吊ってあったはずなんだけども、ミスちゃってね」いまは舞台の上で吊るされている月を指さした。
「ミスですか?」一方で、伊織はスマホを取りだした。これは、重要な証言かもしれない。
「どういうこと?」
「今朝、ぼやがあって。たいしたことはなかったんだけども、焦がしちゃったんだよ」そうなのだろう。どう見ても焦げている。「ほら、ここ」

指をさされるまでもなく、遠目から見たって焦げていた。だから思わず声をあげたのだ。なにかあるに、違いないと。

「ライトがあたって、燃えちった」
「ほな……あれは?」忍足が、舞台の上にある月を指さした。
「慌てて別なの吊ったんだよ」
「あれはどこにあったん?」
「倉庫の奥に転がってたやつをね。ちょっとボロいけど」

忍足が急いで舞台である土手の上に駆けあがっていく。走り出す忍足はめずらしいが、事件でなにか発見するとき、忍足はいつも動きが俊敏になるのだ。

「あの、ひょっとして、ずいぶん使われてなかったんでしょうか」伊織も必死になった。
「だろうね。昔の映画で使ったやつじゃないの」大道具はそれに気づく様子もなく、忍足にも聞かせるように、つづけた。「映画、再開されるのかね。されるんだったらいまのうちに、これ直しとかないといけねえんだけど」

気の毒だが、再開されない。伊織は心のなかでそうつぶやいた。

「あの、月が変わったことほかに、知っとる人は?」
「人の話、聞かない人だねー」映画の再開について答えないからだろう。忍足に顔を向けて笑っている。
「誰が知っとる?」
「一応、監督には伝えといたけど」
「十四郎さんは?」
「ああ、言ったよ。あの人、美術とか小道具とか、すごくこだわるから」

忍足の口角がじっくりとあがっていく。嬉しそうに語る大道具に、何度も頷きながら。

「おおきに、ありがとう」

残酷だ。それでも、真実はあきらかにすべきなのだ。伊織は忍足に顔を向けた。

「佐久間さん」
「はい。お呼びしましょうか」
「せやね。あと昔のフィルム、どこに行ったら見せてもらえるやろか」
「ライブラリーに行けば?」大道具が代わりに答えてくれた。
「そのライブラリーってどこにあるんや?」
「知らん」

言いながら、大道具は去っていった。
伊織は苦笑した。いい人だ。おそらくみんな、いい人だ。だからこそ、胸が痛い。

「忍足さん、わたしが調べてきます」
「ん、頼むわ。ありがとう」





俺の勘が正しければ、これで事件は解決です。んん……大宮十四郎はあきらかに殺意を持っとった。これは事故やない。歴とした殺人です。彼の殺意を証明する手がかりは……「月」と一緒に彼が写っている、このポラロイド写真。おわかりですね?
……忍足侑士でした。






十四郎は小道具部屋にいた。山本老人が自白したと聞いて、居ても立っても居られなくなったのだ。

「どうして、嘘をついた」十四郎は、山本老人のまるまった背中に優しく問いかけた。「どうして、罪をかぶるんだ」
山本老人が、ゆっくりと振り返る。「あの刑事たちは、先生を疑ってんですよ。あの、背の高い男の刑事と、若い、女の刑事も」

わかっている。山本老人に言われるまでもなく、忍足はずっと、十四郎を疑っている。だからこそ、十四郎はここまで努めて冷静に対処してきたのだから。

「なに余計なこと心配してるんだ。私はやましいことなんか、これっぽっちもないんだぞ。ん?」
「先生……。私には、わかってんです」山本老人との付き合いは、長い。「先生が私たちのために……!」

十四郎は目をそらした。彼には通用しないだろう。そして十四郎を責める気はさらさらなさそうである。だが、それでかばったのだとしたら、余計に胸が痛いのだ。

「いいんですよ。小道具係は、私ひとりじゃない……。だけど、大宮十四郎は先生、あんたひとりだけなんだ!」
「ばかやろう!」十四郎は、声を強くした。「私があんたに罪を押しつけて、黙っていられると思うか」
「私のことは、忘れてくださいよ」
「シュウさん……」
「私は平気ですから!」

十四郎は、山本老人と握り合っていた手を押し返した。拒否ではない。むしろ受け入れた。しかしそれは、すべてではない。彼が罪をかぶるなど、あってはならないことなのだ。

「気持ちだけで、十分だよ」

そのとき、奥からノックが聞こえてきた。誰かに聞かれたらまずい。十四郎は即座に山本老人と距離を取った。入ってきたのは、伊織だった。

「大宮さん、ちょっとよろしいですか」
「なんでしょう」
「忍足さんが、お話があるそうです」

伊織の目は警戒一色だった。彼女に罪はない。上司のいいつけを守りここに来ている。それでも、十四郎や山本老人にとっては、悪役なのだ。
だが、あの上司あって、この部下ということだろう。困難を目の前にした男たちの視線をものともしない伊織の強い目に、十四郎は立ちあがるしかなかった。

スタジオに入ると、そこには忍足が待ちかまえていた。舞台である土手の上に座って、にっこりと微笑んでいる。

「お待ちしてました。ほな、どうぞ」

十四郎は黙って歩を進めた。

「いやあ、せやけど映画のセットいうのは、面白いモンですね。これ、みんなホンマモンのように見えても、実際は全部つくりモンなんやから」

これからこの男との、まさに真剣勝負が待っている。

「この岩もこのお地蔵さんもこの土手も。これがスクリーンで見るとみんなホンマモンに見えるんやから、不思議なもんです」

回りくどく、しかし飄々としている忍足の刃をなんとしても跳ね返さなければならない。

「忍足さん」
「はい」
「もういいですよ。シャッポを脱ぎます」古い言いかたではあるが、それが一番、この状況には合っている。「しちめんどうくさい話はやめましょう。私が殺したのはたしかだ。お縄をちょうだいすると言ってるんだから、早いとこ、逮捕しましょう」

それでいい。山本老人が罪をかぶるくらいなら、一度の逮捕くらい、どうってことはなかった。そもそも、事故であっても逮捕はされるだろうことは、最初からわかっている。
しかし忍足は、岩の上に足を組み、さらに膝の上で両手を組み、余裕の笑みを見せていた。

「まあそう先走らんで」わずらわしい。
「うだうだするのは、私の性に合いません」だからこそ、斬ったのだ。
「逮捕はします。スタジオの外で部下の佐久間も手錠を持って控えとるやろし。そこは確実」用意はしているということか。「ただし、過失致死と計画殺人じゃ大きな違いがあるんや、そこんところ慎重にいかんと……で、これは?」人差し指をかかげ、立ちあがり、つづけた。「計画的な殺人です」
「ほう」十四郎は冷静に頷いた。
「はい」
「面白いじゃないですか」
「ヒントは、あれです」忍足が、吊るされている月を指さしている。「月」

十四郎は固唾を飲んだ。まさか、月を気にしていたとは思っていたが、この男はしつこくも、それを調査しつづけていたということか。

「俺、学生のころ『月』って呼ばれとったんですわ。せやからどうも気になって。太陽はいつも光り輝くけど、月はなかなか輝かせてもらえへん。せやけど、『そろそろ月が輝いてもええよなあ?』って、当時『太陽』とか呼ばれとった偉そうな部長に……」
「話がよくわかりませんな」本当に、なんの話なのだ。
「おっと、すんません。脱線してもうた……俺が言いたいのは、月を飛ばしたのは先生ですやんね?」
「なんのことでしょう」
「ん、話は戻したんやけど、通じへんかったかな。それとも、通じへんふりしてはるんやろか。俺が最初に聞いたときも『知らない』っておっしゃってましたけど、そんなはずない」

忍足が背広の内ポケットからなにか取りだした。こちらにかかげて見せてくる。ファンの中年女性が撮った、あのポラロイド写真だ。

「んん、先生が写ってはります。ファンの方が撮ったんやろか、そこに落ちてました」そこまで当てるとは。占い師にでもなれるんじゃないか。「セットが組みあがったのは今夜ですから、当然これは今夜の先生です」

十四郎は口をつぐんだ。

「ちゃんと月が写ってます……。スタッフが集合したときにはもう月はなかったいうことで。ちゅうことは、先生が上にあげたんです。みんなが来る前に。……なんで上げたか?」

もう全部、わかっているというのか。忍足と、数秒だけ睨み合った。が、すぐに顔をほころばせて、忍足は土手からおりてきた。

「こちらへ来てください。どうぞ」

忍足が十四郎の横を通りすぎ、進んでいった。しかし、十四郎は動かずにいた。忍足が進む先に、大きなフィルムが用意されている。あれでなにを映すつもりなのか、十四郎にはもう、わかっていたからだ。

「んん、そこからや見えにくいやろから、どうぞ、こちらへどうぞ。どうぞ」しつこい。しつこく、忍足が腕をつかんでまで引っ張りはじめる。どうしても見せたいのだ。「佐久間さん、明かり消してくれるかー?」
「はい!」

遠くから伊織の声が聞こえ、スタジオ内の照明が消えた。忍足がフィルムのスイッチを押す。それと同時に、思っていたとおりの映像が目の前で流れはじめた。

「んん、覚えてらっしゃいますか? 先生の出世作です。昭和55年制作『忠治 故郷へ帰る』……んん、はい、ここでストップ」

十四郎が土手の上、正面を向いたところで、忍足はフィルムの再生を一時停止した。

「クライマックスシーンです。赤城の山で忠治が子分たちと別れる場面です」

忍足が映しだされている映像に近寄っていく。忠治を指さし、つづけた。

「これ、先生です。主役の忠治です。んんん、さすが絵になっとるわあ」

まどろっこしいにもほどがある。しかし、そうしてたっぷりと感動の声をあげたあとに、ようやく目的だったのだろうものに向かって、彼は指をさしたのだ。

「ここ。これ見てください。月が写ってます。はっきりと写ってます。どこか、見覚えのある月です」

告げてすぐ、忍足が側にあった大きな照明のスイッチを入れた。ギコギコと音を立てながら、その照明を、土手の上に吊るされている月に当てていく。

「あそこの月……。ええですか? この月と」フィルムの月を指さした。「あの月は……」照明を当てられた月を指さした。「同じ月です」

十四郎は言葉を失っていた。反論のしようがない。そこまで突き止められてしまったのだ。たかが、月が上がっていたというだけで、この男は……。

「んん、書き割りの裏を調べてみたらちゃんと書いてありました。『昭和55年[忠治 故郷へ帰る]にて使用』と……」

侮っていた。厄介な男であることには間違いなかった。しかし若い男だからと、十四郎はどこか忍足を見くびっていた自分に気づき、そして、恥じていた。だからこそ、言葉が出てこない。

「普通、一度でも使った書き割りは取っておかへんようですね? せやけどあなた、思い出の月やから、大道具さんに言うて保管してもらっとった」

忍足が早口にまくしたてながら、十四郎に近づいてきた。それでもまだ、十四郎は冷静さを保とうと必死になっていた。いやむしろ、諦めに近いものがあったかもしれない。心臓はバクバクと音を立てていたが、もう、言い逃れはできないと悟ったのだ。

「つまり、こういうことです。あの月は、他人にとってはただの古い書き割りにすぎません。せやけどあなたにしてみれば大事な、極めて大事な思い出の書き割りやった!」

そのとおりだ。だから……。

「せやから、返り血で汚されるんが、忍びなかったんや……せやから上へ飛ばしたんや、スタッフが来る前に」

十四郎は、決して忍足と目を合わせようとはしなかった。

「要点はおわかりですやろか? あなたは知っとったんです」

いろんな思いがこみあげてしまいそうだったからだ。

「刀が本身であることを」

なんという愚かなミスをしてしまったのか。

「最初から、殺すつもりやったんです」

自分勝手なエゴのせいで、殺人をした俳優が世間に広まってしまう。

「これは、立派な殺意の証明です」

そして結果的に、この撮影所の存続が……消えてしまう。

「まだ事故やと言い張りますか?」

十四郎は、ゆっくりと忍足に向き直った。覚悟の意味をこめて目を合わせると、真剣そのものだった忍足の瞳が、わずかに揺れている。それを見て、十四郎は腹をくくった。くくらざるを得ない、というほうが正しいが……十四郎はそこに、忍足の優しさを垣間見た気がしていた。

「もういい」

告げると、忍足のほうから目を伏せた。はあ、と、短くも悲しみを帯びたため息を吐いている。その音に、十四郎は涙を堪えながら、背中を向けた。
40年前にも立った土手を眺めながら、十四郎は肩の荷をおろした。

「シュウさんのことだが。小道具係の」
「はい」
「彼は私のことをかばって」
「わかってます」忍足は、十四郎の言葉をさえぎった。「あの人には刀をすり替えることはできても、城田さんに殺陣の段取りを変えさせることはできません」

さすがだ。そう、褒めたい衝動にかられる。

「彼に……右に動くように言えたんは、あなただけや」

そうだ。そのことも、忍足は最初から見抜いていた。この真剣勝負に勝とうなど、最初から無理な話だったのだ。
十四郎は頷き、土手をあがった。思い出の月がこちらを見ている。

「十四郎さん……あなたは、みんなに愛されとる」
「……忍足さん。誤解しないでもらいたい」

十四郎は静かに月を見あげた。

「私は、これっぽっちも後悔してない。これっぽっちもね」

愛されている……忍足から告げられた、わかりきっていたはずの言葉が、胸にじわじわと響いてくる。

「男にはね、命に代えてでも守らなきゃならないものがある」

振り返ると、忍足は静かに頷いていた。十四郎は、胸がいっぱいになった。
男同士だ、あんただってわかるだろう?

「私はね、何回だって、やるつもりだよ」

優しさを帯びていた忍足の目が、ほんの少し、憐憫を混ぜて伏せられていく。
やがて振り返り、彼は目配せをした。伊織が足早に向かってくる。彼女の顔は、涙に濡れていた。なるほど、と、十四郎は最後に、心から微笑んだ。

この上司にして、この部下ありだ。





fin.



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