ピアノ・レッスン_01


1.


んん、自分が人に嫌われとるんやないかと心配してはるみなさん……安心してください。そういう場合はたいてい本当に嫌われています。
問題なのは、自分が人に嫌われとるのがわかってない人のほうで……。






塩原音楽学院の大ホールステージから、『追想のレクイエム』が流れている。楽譜どおりには弾けているが、あの美しい旋律からただよう嘆きや、震えるような心の悲鳴がまったくと言っていいほど聴こえてこない。
塩原一郎の遺影の前で、あの男はどういうつもりでこれほどに単調な感情を浮かべているのか。なんの尊敬の念も感じない軽い演奏を、明日、音楽葬で披露するつもりなのか。
井口薫にとってそれは、塩原への侮辱である。
最初からそうすると決めていたにも関わらず、彼女のなかで憎しみが燃えあがった。スタンガンの動作を一度確認し、演奏者の背後から近づいていく。
この男が『追想のレクイエム』を、この神聖なるステージで、あろうことか塩原一郎の音楽葬で演奏するなど、もってのほかだ。
後頭部に、スタンガンを強く押し当てた。演奏していた川合健の体が、低い悲鳴とともに跳ねあがる。そのまま鍵盤に上半身ごと倒れ、ピアノの下でのたうちまわっていた。薫は、四つん這いになって逃げようとする川合を追いかけた。振り返った川合が、薫を見てさらなる悲鳴をあげる。
いまさら気づいても、遅いのよ。
薫は川合の首根をつかんだ。つかんで、もう一度スタンガンを振り下ろす。数秒しないうちに川合は仰向けに倒れ、目を大きく見開いたまま動かなくなった。
絶命を確認した薫は、その場を立ち去ろうとした。が、屋根の開いたグランドピアノを見て、違和感を覚えた。
……これが、井口薫の運命だというのか。




刑事である以上、深夜に呼び出しをくらうことはめずらしいことではない。しかし今日、佐久間伊織は早朝に呼び出され、あげく、ろくに食事もできないまま急な報告書作成を押しつけられたうえに残業確定となり、ようやく自宅に到着したのが23時だった。
というのに、だ。その数時間後に事件発生で現場直行とは、これがわたしの運命だというのか。と、伊織は目をしぱしぱさせながら「塩原音楽学院」の正門を眺めた。
とはいえ、現場直行の連絡をしてきた仁王警部からは、無理をするなと言われていたのだが。

――休んでもらってもええんじゃけどのう……。
――え、本当ですか?
――じゃけど、忍足も動いちょ
――行きます。
――だろうな。伝えてないと、あとで俺が恨まれると思ったんよ。
――忍足さんは関係ありません。仕事ですから!
――はいはい、ご苦労さんじゃのお前も。

呆れた仁王の声を振り払いつつ、現場調査を簡単に済ませた伊織は、いつものように忍足の登場を待っていた。忍足の自宅からこの学院までは距離があるので、今日はあのご自慢の自転車ではないようだ。向かってくるタクシーからいつもの黒スーツが見えたことで、伊織はすぐに察知し、駆け寄った。

「忍足さん、お疲れさまです!」
「おお、佐久間さん、来たんや? 大丈夫なん? 今日ずっと働きっぱなしやったやろ?」
「全然、問題ありません! これも仕事ですから!」
「んん、さよか。ええこやねえ」にっこりと向けてくれる笑顔が優しい。はあ、忍足さん、好き。「えっと運転手さん、1万円でお釣りありますか?」
「あー、すみません。ちょっといま、切らしてますねえ」
「さよか……佐久間さん、小銭ある?」
伊織はすぐに財布を確認した。「すみません、わたしも1万円しかなくて」
「そっかあ……ほな運転手さん、細かくなるけどええかな?」
「ええ、いいスよ」
「いくらやったっけ。ああ、780円……」
「あ、忍足さんわたし、100円あります」
「んん、あ、ほなちょっと借りてもええ? ええっと? ちょっと待ってくださいね」
「ええ……」

運転手が、迷惑そうな顔をしている。いやいや、いまどきこんな深夜帯でお釣りを用意していないそっちのほうが迷惑でしょうに! と、伊織は心のなかで悪態をついた。いつだって伊織は、忍足の味方なのだ。

「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう……で、佐久間さんの借りて……はい、ちょお数えてもらえます?」
「ああ、はい。ひい、ふう、みい、よう……」
「ひい、ふう、みい、よう……佐久間さん10円ない?」
「10円……あ、あります。はい」
「おおきに。ええこやねえ。運転手さんあります?」
「ああ、あります」
「はい、ほなこれ70円。5円玉、入ってええですよね?」
「え? ええ、ああ、まあ。ひい、ふう、みい、よう……」
「7つありますやろ? ほな5円玉ひとつ。ああ……佐久間さん、1円ない?」
「1円、あ、ありますよ、3円あります」
「1円でええわ。ひい、ふう、みい、よう……と、1円。これやね」
「い、1円玉なんですか?」
「細かくなるって言うたやないですか。ほなまた」

タクシー運転手との小銭ラリーを終えて、伊織は忍足と一緒に「塩原音楽学院」のなかにある大ホールへ向かった。ステージの左端にグランドピアノが置かれている。懐かしい景色に、伊織は自然と深呼吸をしていた。この空間にただよう香りすら、懐かしい。

「忍足さん、ご苦労さまです」

先輩である今泉慎太郎が、伊織と忍足の姿を見て声をかけてきた。いつも思うのだが、「ご苦労さまです」と上司に向かって言うのはなんとかならないのか。「ご苦労」という言葉は上から下へ向かって告げる労いの言葉であり、今泉のような冴えない部下がキレッキレである忍足に向かって言っていい言葉ではない。
要するに、伊織は今泉のことがそこはかとなく気に入らないのである。

「ん……あー、これは?」忍足は今泉には答えず、伊織に顔を向けた。
「塩原一郎ですね」
「作曲家やったっけ?」
「結構、有名やぞ忍足。俺でさえ知っちょるのに、お前、知らんのか?」
「うっわ……またおるやん。なんで? なあ、なんでなん、いつも」

伊織との会話に割りこんできたのは、おなじみの仁王警部殿だった。ここ最近は実に頻繁に現場に出てくるので、もはや忍足の監視役ではないのかと噂されている……が、真相は定かではない。まあ、警部が現場に来てもなにも問題はないのだが。

「ええじゃろ。管轄なんじゃから」
「現場に来る必要ないやろ警部殿は。はあ、疲れる」
「まあそう言わんと」
「ほんで? 死んでしもたんや? この人」忍足が伊織に向き直った。
「あ、ご存知なかったですか?」きゅん、と、忍足が首をかしげてきて、伊織はめまいを堪えながら答えた。「ずっと入院されていたらしいです」
「明日、あ、正確に言うと今日の午後2時から音楽葬ってやつがあるみたいですね」今泉が補足をした。
「ふうん」
「忍足、肝心の仏さんはこっちじゃ」

デカデカとした塩原一郎の遺影に向かう忍足に、仁王が声をかけた。白い布に全身が覆われた遺体を指差している。
忍足がそっと近づき、布をめくった。

「川合健、40歳。ここ、『塩原音楽学院』の理事長です」

忍足に報告しながら、伊織はもう一度、被害者の顔をじっくりと見た。目が見開いた状態で倒れている。顔はすでに真っ青になっているが、死亡してからそこまで時間は経っていないようだ。まだ綺麗なものだった。

「死因は心臓発作と見られます。外傷はありません」
「まだ若いのになあ……」
「じゃの。俺らもそろそろ、健康には気を使ったほうがええかもしれん」
「お前は殺しても死なんと思うで仁王、安心しい」
「どういう意味なんよそれ……」
「遺体は見回り中のガードマンが発見したそうです」忍足と仁王の掛け合いを無視して、伊織はつづけた。これはイチャついているのだ、と、伊織は最近、心得ていた。
「ふうん」

忍足が布をもとに戻した。「もうよろしいんですか忍足さん?」
「ええで」

あまり確認しなかった忍足に不安げな声をあげつつ、今泉が「お願いします」と鑑識に声をはりあげた。川合の遺体を、今度は鑑識が確認するのだ。
一方で、忍足はゆっくり左端にあるグランドピアノに向かいはじめた。伊織はその背中を追いかけつつ、さらなる報告をするためにスマホのメモを立ちあげた。

「守衛さんの話によりますと、ゆうべの9時頃に川合さんから電話が……」
「なあ佐久間さん」
「へ?」
「このピアノ、弾いてもええ?」
「え、ああ、はい。どうぞ」
「ふふ。んん、さすがにええピアノ使ってはるわあ」

YAMAHA製のグランドピアノである。もちろん、物はいいだろう。が、伊織にはそれ以上に気になることがあった。

「忍足さんひょっとして、ピアノ、お弾きになられるんですか?」
「んん? ふふ、まあ、かじった程度なんやけどね」両手をしっかりと組みながら、ふう、と準備をしていた。「俺、昔はバイオリンもしとったから」
「うわあ、あ、さ、さすがですね忍足さん!」さすがエリートだ。というか、共通点を見つけてしまったことに伊織は舞いあがっていた。「あ、あの実は、あの……わたし、昔から吹奏楽でトロンボーンを……!」

ポーン、と、単音が響いて、伊織はハッとして口をつぐんだ。しかし、忍足のものすごい演奏がはじまるのかと思ったのは、その一瞬だけだった。
まず、鍵盤を人差し指でボタンを押すように置き、彼はそのまま耳馴染みのあるメロディラインを弾いた。
「はぁぁぁぁるばるぅぅぅ来たぜぇはぁぁぁぁこだてぇぇぇ」である。つまり、北島三郎の『函館の女』である。もちろん、ずっこけそうになった。あの仁王ですら、少し体勢を崩したくらいだ。

「佐久間さんトロンボーンしてんの? んん、楽器が趣味なんやね? 俺と一緒や」
「は、はあ……」

半音が入っているので黒鍵を弾くぶん、『チューリップ』よりは演奏難易度は高いと言えるだろうが、『函館の女』のメロディラインを人差し指だけで弾かれても、小学生のお遊び程度にしか感じられない。が、口にすることはできない。

「えっと、報告をつづけます」伊織は気を取り直した。「守衛さんの話によりますと、昨夜11時頃に川合さんはひとりで現れて、ピアノの練習がしたいと……」

忍足は同じ箇所をしつこく弾きつづけていた。おかげで言葉がいちいち止まってしまうどころか、低レベルな演奏を堂々とくり返すその根性に、若干、恐怖めいたものを感じてしまう。ものすごく滑稽なのだが、本人は気づいてないのだろうか。しかし、そんな忍足をも結局はかわいいと感じる伊織であった。

「忍足、やめんしゃい気が散る」
「仁王、シッ……佐久間さんの報告、聞いとるから俺」
「聞いとるなら余計にやめんさいよ」
「佐久間さん、つづけて」ポーン、と、また弾きはじめる。さっきから1フレーズしか弾いていない。
「あ、はい。あの、2時から塩原一郎の音楽葬で、1曲、演奏することになっていたそうです」

仁王に咎められてもなお、忍足は「はぁぁぁぁるばるぅぅぅ来たぜぇはぁぁぁぁこだてぇぇぇ」を弾いていた。なんなんだろうか。『函館の女』に取り憑かれた妖怪なのだろうか。帰宅してからトロンボーンで同じ箇所を吹いてしまいそうだ。

「あの……そっからさき、弾けないんですか」

近くで怪訝な顔をしていた今泉が、いよいよツッコんだ。今泉にしては、正しいツッコミである。
が、忍足はチラッと今泉を見たあと、ふん、と鼻を鳴らして、低音部に指を移動させた。ひょっとして、つづきが弾けるのか……! と、誰もが期待したが、流れてきたのはやはり、「はぁぁぁぁるばるぅぅぅ来たぜぇはぁぁぁぁこだてぇぇぇ」であった。

「音が低くなっただけじゃないすかっ」

今泉の正しすぎるツッコミに、今度こそ忍足が睨む。伊織はいたたまれなくなって、報告をつづけることにした。今泉に同情したのは、はじめてのことである。

「あ、ええとつまり、いまから3時間前の、えっと、あの昨夜午後11時からですね、遺体が発見された午前2時のあいだに死亡したということになります」

報告を終え、忍足がさらに低音部から同じメロディをはじめようと白鍵を押そうとし、もう気が狂いそうだと伊織が思ったときだった。
カコン、と腑抜けた音がして、忍足と伊織は顔を見合わせた。カコン、カコンカコン……忍足が何度そこを押さえても、結果は同じだった。

「あれ?」
伊織はグランドピアノのなかを覗いた。「あ、忍足さん、これ」
「ああ、ホンマや。弦が切れとるな、これ。この音」
「あー、Dですね」左から数えて、一番最初の『D』の弦が切れていたのだ。
「誰か関係者の人おりますかー?」忍足が声をあげた。
「はい?」
「ああ、弦が切れとりますよ、これ。この音。『D』が」

バイオリンを習っていたのは本当のようだ、と、伊織は思った。少なくとも、あの場所が『D』であることは忍足にもわかっていたらしい。
呼ばれた関係者は「すみません、ちょっと」と言いながら慌てていた。一方で、なにやらソワソワとこちらに向かってくる人物がいる。仁王だった。

「佐久間……」
「ど、どうしたんですか仁王さん」なにをソワソワとしているのだろうか。
「『D』ってなんよ?」忍足に聞かれたくないのだろう、コソコソ声だった。
「え? ああえっと、『レ』のことです」

至極どうでもいい質問に、伊織は拍子抜けしそうだった。今日の上司たちは、どうも、様子がおかしい。

「『レ』? ドレミファの『レ』か?」
「そ、そうですけど……」

それ以外になにがあるというのか。相手は楽器じゃないか。まあ、トロンボーンをしていた伊織としてはミなのだが、そこは標準的な音階に合わせ説明する。しかし仁王は、納得がいかないように「うーん」とうなりはじめている。なんだというのか……いささか面倒くさい予感がした。

「のう……なんで、『レ』って言わんのじゃ」
はあ、なるほど。と伊織は一定、仁王のうなりを理解した。「えっと、『ドレミファソラシ』は、英語表記だと『CDEFGAB』になりまして。音楽やってると、英語で言うのが標準的というかですね……」
「な、なんで『A』からはじめんのじゃっ」驚愕している。どうしたんだこの人は。
「いや、そう言われましても……」ひょっとして、仁王は音楽が苦手なのか。「あの、だから本来は日本でも『ハニホヘトイロ』だったんです。あるじゃないですか、ハ長調とか、イ短調とか」
「もうええ聞きとうない」

聞いてきたくせに、ぷいっと背中を向けて、仁王はどこかへ去っていく。もういい、と言ってしまいたいのは伊織のほうだが、これも口にはできない。仁王は伊織からすれば大変に偉い人だからである。

「そんで? 佐久間さん」
「え?」
「結論は?」
「ああ、ええと」そうだ、ここは事件現場なのだ。伊織は一瞬、そのことを忘れそうになっていた。「自然死と考えて、いいのではないでしょうか」

忍足が、また高音部から『函館の女』を弾きはじめた。いい加減にしてほしい。

「忍足さん、聞いてます?」
「もちろん」
「ですから、練習中に、発作に襲われて……」
「ストップ!」

急に制止をかけられてぎょっとする。が、座席から立ちあがった忍足が止めていたのは、鑑識だった。
遺体の確認が終わったのだろう、ステージ上から運びだすところで、彼らはピタ、と動きを止めた。

「はい?」
「忍足さん? どうされたんですか?」
「んん、ちょっとな」

担架に乗せられている遺体から、左手がぶらさがっていた。忍足が腰をかがめて、その手をじっと見つめている。

「死亡推定時刻、何時やって言うとったっけ?」彼は、遺体の左手首にある腕時計を見つめていた。
「11時から、2時のあいだですが……」腕時計が、12時10分で止まっている。その秒針が、ビクビクと小刻みに震えていた。
「今日は何日やっけ?」
「今日っていうのは、昨日でしょうか?」いまは午前2時台なのだ、ややこしい。
「今日は今日」
「今日は、15日になったところです」文字盤のところにも、「15」と出ている。日付まで表示されるタイプの腕時計のようだ。忍足が眉根を動かした。
「ありがとう」

鑑識に言って、忍足が立ちあがる。

「忍足さん、なにか?」
「ん……佐久間さん」
「はい」
「今日も、そこそこ長くなるかもしれへんよ? 体、大丈夫か?」
「まさか……殺し、ですか?」
「ふふ」

忍足の不敵な笑みに、伊織は目を見開いた。





伊織たちは応接室に移動していた。学院理事のひとりである柴崎がお茶をテーブルに置いていくタイミングで、口火を切ったのは仁王だった。

「川合さん、これまでにも心臓発作のようなものは?」
「あ、何度か。ええ」柴崎は何度も首を縦に振った。
「そうですか」
「まあ体がもともと、丈夫じゃなかったようですので」
「1回倒れたのは、去年だったか」メガネを拭きつつ、仁王の正面に座っているもうひとりの学院理事である大木が付け加えている。
「そのときも?」
「ええ、心臓です。それからずっと病院に通ってました」
「あの……」

そこまで会話を聞いていた忍足が、額縁に飾られている塩原一郎の写真を眺めながら声を発した。遺影と同じ写真である。あれを拡大コピーしたものが、音楽葬にデカデカと飾られていた遺影なのだろう。

「川合さん、心臓が悪かったんは、結構、有名な話ですやろか?」
「ええ、学院のなかでは皆、知っていたと思います」柴崎がテキパキと答える。
「へえ。そうなんや」

現場を離れるとき、忍足は今回の事件が殺しだと踏んでいた。伊織にとって忍足の言うことは絶対である。忍足が殺しだと言ったら殺しなのだ。つまり犯人がいる。それもあり、伊織は大木にも柴崎にも目を光らせていた。

「しかし、こうもつづくとなあ……」大木がつぶやいた。この男はさきほどから冷静である。言っていることもなんだかしらじらしい。犯人じゃあるまいな。「川合くんまで」
「お祓いしてもらったほうが……」柴崎が大木を覗きこんでいる。しかも大真面目だ。お祓いとか言いだす人間もなかなか怪しい。犯人じゃあるまいな。
「そうですね。こういうのはつづくっちゅうから……」が、非科学的な発言に仁王が乗っかったのでぎょっとする。「よい佐久間、お前さっきからなに顔を強張らせちょる。お茶、いただきんさい」
「は、はいっ」

上司に言われてしまっては、仕方ない。伊織は仁王のとなりに座り、お茶をすすった。が、眠気が吹き飛ぶほど熱くて、あやうくこぼしてしまいそうになった。

「あつ、つつ」
「ん、佐久間さん大丈夫? 慌てたあかんで?」応接間をぐるぐる歩き回っていた忍足が振り返ってまで気にかけてくれた。
「えへへ、だい、大丈夫です」胸がキュンキュンである。これなら何度やけどしてもかまわない。
「お門違いな推理でぼーっとしちょるからそうなるんよ」が、めざとい仁王にツッコまれて、一気にしらけた。
「佐久間くん、君、なにを推理してたの?」さらにめざとい今泉にちょっかいを出される始末だ。「さっきも忍足さんとコソコソ話してたよねっ」ほっといてほしい。
「ええから今泉、はよいただきんしゃい」

刑事たちがガヤガヤとしたやりとりをくり広げていると、大木が盛大なため息をついて、机から立ちあがった。人が死んだというのに能天気な連中が気に入らないのか、それともほかに問題が山積みなのか……。

「打ち止めにしてもらいたいもんですな」

大木の口調は、面倒だ、と言わんばかりだった。おそらく、不幸がつづいたこの現状のことをいろんな意味で嘆いているのだろう。人が死んだというのに、こういう冷血人間は、どこの現場にも存在する。

「ところで塩原先生って方は、なんで亡くなりはったんですか?」
「ああ、あの、肺炎です」柴崎が答えた。大木は離れた場所でネクタイを締めはじめている。
「ふうん。それで、川合さんがあとを継がれたんですね?」
「ええ。でも先生は半ば引退されてたもんですから。ここ数年は実質的には、川合さんが」
「はあ、そら大変ですね、これから。お察しします」
「ええ、ああ、そりゃもう……」柴崎が深く忍足に頭をさげ、ネクタイを締めている大木にすり寄った。なにか内緒話があるらしい。「大木さん」
「ん」
「明日の音楽葬、中止されますか?」

そう、これがもし殺しだとすれば、だ。このタイミングにはなにかある。明日は音楽葬。その前日に心臓発作で亡くなるというのも不可解だが、事実は小説より奇なり。現実では、そういったことが起きることは稀にある。しかし殺しであるなら……伊織は、大木と柴崎の会話に聞き耳を立てた。それは今泉を除く、刑事全員がそうだったようだ。一気に、部屋の空気が変わった。

「そうはいかん。来賓も呼んである。いまさら中止にはできんよ」
「川合さんのことは?」

刑事たちから距離を取ってコソコソしていた大木と柴崎だが、顔をしかめはじめていた。内緒話をしっかり聞きたい刑事たちが、急に机から立ちあがってあれこれ応接間の見学をしはじめ、異様な光景になっていたからだ。伊織は棚に飾られているトロフィー、忍足は壁にかかっている賞状を読みながらうんうん、と頷いている。おそらくなにも読んでいないだろう。仁王にいたっては観葉植物を愛でていた。キャラが若干、くずれている。今泉だけが、ずるずるとお茶を飲んでいた。使えない先輩である。

「それは、とりあえずこっちが片づいてからだ」大木の声は、刑事たちを気にしてさらに小さくなった。
「いや、しかし」
「しょうがない」
「追悼コンサートは?」
「今泉くん、俺にもお茶くれる?」

ますます距離が離れていく大木と柴崎に、気にしてないということを知らせたかったのか、忍足が急に声をあげた。これは伊織からしても、十分にしらじらしい言動だった。
が、意外にも柴崎はそれにまんまと乗せられたのか、声が大きくなったのだ。

「川合さんの代わりは?」
「それがあったな……」
「どうぞ、忍足さん」今泉はなにも知らずに張り切っていた。
「誰に弾かせますか?」
「ん、ありがとう」
「井口か」
「それは……」柴崎が大きくかぶりを振っていた。井口、とはじめて耳にする名前に、伊織はスマホで検索をはじめた。
「川合じゃないとすれば井口しかおらん」だんだんと、大木の声も響きはじめている。
「どんなもんでしょうかね」
「こういう状況だ、しょうがない」
「しかし、先生の遺族の方がっ!」

なにくわぬ顔をしつつ、しかし忍足も仁王も伊織も、全員で目を合わせた。井口、という人物と塩原一郎の遺族には、なにかあるらしい。これは、かなりきな臭い。

「私から説明する」
「はあ……あっ、それに井口さん、明日からアメリカですよ!?」
「延期させろっ。朝イチで電話を入れて、井口を呼びだせ」
「……よろしいんですか」柴崎は実に嫌そうである。
「かまわん……ほかに誰がいる?」
「あのー……井口さんというのは?」

ここで、ようやく忍足が声をあげた。いつのまにか背後に来ていた忍足に、二人の男はビクッと肩を揺らしている。聞かれたくない話だったのだろう。だからこそ伊織たちは聞き耳を立てたのだ。殺しであるなら、かなり重要な話である。

「あ、ええ、あの、うちの理事のひとりでして、先生の教え子なんです」柴崎が慌てるように答えた。さきほどよりも、ずいぶんと焦っている。
「もしかしてあの井口薫? ピアニストの?」
「なんよ忍足、知っちょるんか」
「世界的なピアニストやで仁王」

伊織もちょうど、その情報をスマホで確認していた。井口薫。テレビで何度か見たことのある顔だった。音の名称を確認してきた仁王には、まったく無縁の話だろう。

「ええ、まあ、そうです」
「なんか問題あったんですか?」
「いやちょっとそれが……」
「ん、んんんっ」柴崎が忍足に気を許しそうになったところで、大木がわざとらしく咳払いをし、それを制した。
「あ、いや別に、たいしたことじゃ……ええ」

やはり、学院にとってなにやら聞かれたくない話だったことは、これで十分だった。





赤い車を飛ばしながら、井口薫は「塩原音楽学院」に向かった。計画通りに、ことが進んでいる。大きなキャリーケースには、今日着用すると最初から決めていたドレスと靴を入れていた。
ただ薫には、懸念がひとつ残っていた。が、まもなく到着する。音楽葬がはじまるまであと6時間ある。それだけあれば、十分なはずだ。

「柴崎さん! 井口さんお見えになりました」
「おっ!」

いまごろ、学院の連中は大慌てで廊下を走り回っているに違いない。遠くから柴崎が向かってくる様子が見てとれた。どんな顔をして頭をさげてくるつもりなのか。薫にとってそれは、溜飲のさがる瞬間でもある。楽しみだった。
車から降りると、すぐに柴崎が腰を折り曲げながら近づいてきた。さっそくごますりがはじまっているというわけだ。

「あっ、あの井口さん、おはようございますっ」
「柴崎さん、鞄お願いします」

薫は颯爽と廊下を歩いていった。喪服に身を包んだ生徒たちは、薫の姿を見るやいなや、廊下の端に避けて一礼していく。今日、薫がこの学院に現れるなど、誰が予想しただろう。最高の気分だった。
応接間では、大木が待ち受けていた。ずっと腰が折り曲がっている柴崎がお茶をだし終えて着席すると、いよいよとばかりに、大木が重たい口を開いた。

「単刀直入に言う」

薫はかけていたサングラスを外した。きちんと目を見て言わせたい。

「今日の音楽葬で、川合くんの代わりを務めてほしい」
「お願いいたします」柴崎がフォローを入れるように付け加えた。
「勝手な話ね」薫は不敵な笑みを浮かべた。わかりきっていた言葉に、あらかじめ用意していたセリフを投げつけたのだ。
「井口くん」大木は、この期に及んで咎めるような口調で薫の名前を呼んだ。
「あたくしに葬儀に出るなって言ったのは、あなたたちですよ?」
「事情が変わった」偉そうに、ふてぶてしい男だ。
「あちらの事情は同じなんじゃないかしら」だからこそ、いい気味だ。
「向こうは私が説得する」
薫はタバコに火をつけた。これほどうまい一服があるだろうか。「川合さんのほうはどうするの?」
「幸いマスコミはまだ感づいていない。1日だけ発表を遅らせる」
「家族の了承は取ってあります」

柴崎が、また付け加えている。薫はゆっくりとタバコを吸いあげ、紫煙を吐いた。川合が死んだことを世間が知ったところで、今日の音楽葬にはなんの影響もないだろう。そもそも、あの程度の男が「塩原音楽学院」の理事長をやっていること自体が間違っている。

「いまはね、先生の音楽葬を無事に行うことが、我々の役目なんだ」
とってつけたような大木の発言に、薫はわざと目をまるくした。「知らなかったわ……あなたたちがそんなに先生のこと思ってくださってるって」

嫌味な微笑みも一緒にくゆらせたときだった。薫の背中側にある応接室の扉が開けられて、大木と柴崎が同時に頭をさげた。誰かが入ってきたらしい。薫は気配だけでそれを感じ、振り返ることもしなかったが、直後、大きな音がして、結局は振り返るハメになった。

「忍足さんっ」
「す、すんません」

若い女が慌てた声をあげている。忍足と呼ばれた男が、扉の横に置いていた薫の持参していたキャリーケースにつまづいたのだ。
見ると、男は長い足をさすり、若い女のほうは倒れたキャリーケースをまっすぐに立て直していた。

「あ、それすみっこ置いといてください、すみません」見たことのないふたりの顔に、薫は挨拶がてらそう声をかけた。
「佐久間さんお願いしてもええ?」
「もちろんです、足、大丈夫ですか?」
「ん、大丈夫やで?」
「井口くん」

誰なのかよくわからないままだったが、薫は大木に名前を呼ばれて、正面を向いた。眉間にシワを寄せた大木の憎たらしい顔が目に飛びこんでくる。

「川合がああなってしまった以上、音楽葬でレクイエムを弾けるのは君しかいない」当然だ。それがわかっていたからこそ、今日があるのだから。「世間が納得しない。君だってそのことくらいは……!」
「結局あなたの頭のなかには世間体のことしかないのね」

見ず知らずのギャラリーが入ってきたことで、薫はさらにペースを乗せた。パフォーマンスである一方で、これは薫の本音でもあった。それが、人にものを頼む態度なの? 相手は井口薫なのよ?
その意図が伝わったのか、大木は座席から立ちあがり、嫌そうに頭を下げてきた。となりの柴崎もそれに倣っている。

「このとおりだ。力を貸してくれ」
「大木さん」薫も笑顔で立ちあがった。「いいこと教えてあげましょうか。頭を下げればなんでもことが片づくと思ったら大間違いですよ?」そのまま、薫は堂々とタバコを吸いあげた。ますます、いい気味である。「覚えておいたほうがいいわね」

側で立って聞いているギャラリー2名が、じっとこちらを眺めていた。男のほうは無表情だが、女のほうは顎を引いている。しかし薫にとっては、その男の冷静さのほうが新鮮だった。
ゆっくりと窓に向かって歩いていく。そのあいだも、男は薫を見つめていた。どう見ても薫より若いはずだが、不思議な貫禄がある。新しく入ったスタッフなのだろうか。気にはなりつつも、薫は最初から言うつもりだったセリフを、外の景色を見ながら告げた。

「引き受けるつもりがなかったら戻ってきたりしませんよ」
「……井口くん」弾かれたように、大木が下げていた頭をあげる。そうよ? これでも根っこは優しいほうなの。
「はじめから言ってたじゃないですか。レクイエムを弾けるのはあたくししかいないって」そして、これは誰もが認める真実だ。「だめよ、川合じゃ」
「ありがとう」
「ありがとうございます!」

大木と柴崎の感謝の言葉は、今度こそ心から告げられている。薫はそれがわかって、一層、気分が高まった。
うしろにいるひとりの男がじっと自分の背中を眺めているなど、まったく気づきようがなかったのだ。





ガチガチに怪しい。あのひと言で、伊織は確信していた。犯人は、井口薫である。そう思ったのは忍足も同じだったようだ。

――はじめから言ってたじゃないですか。レクイエムを弾けるのはあたくししかいないって。

薫が発言したときの忍足の顔は、犯人を見つめるそれだった。ということはやっぱり、確定である。つまり、ここからが忍足の本領発揮だと伊織は踏んでいた。
案の定、忍足は応接間から出ていった薫を即座に追いかけていた。いつもなら「なるほど」と納得してあとは調べに回る伊織だが、しかし今回は、なんだかケバい大人の女である。
白いあみあみのニットドレスに赤いレザーグローブ、大きなつばに、大きな花がついた麦わら帽子と、顔の3分の1はありそうなイヤリング。ケバすぎる。ケバいが、ケバいなりに美人なのだ。犯人が女のときは要注意である。小石川ちなみは相合い傘にたまごスープ、笹山アリのときなんか二人で楽しくクッキングしてディナーしていたと聞いたときは、伊織は嫉妬で気が狂いそうになった。いくら犯人を追い詰めるためとはいえ、もう二人きりにはできない。今回も公私混同甚だしい伊織である、一緒になって薫を追いかけた。

「井口さん」

声をかけられた薫は、階段を降りたところで足を止め、振り返った。どう見ても忍足より年長である薫だが、年下の男好きかもしれない。見た目からして色気ダダ漏れの忍足に声をかけられてテンションがあがっているんじゃないのか。伊織は忍足から一歩下がった状態で、うがった視線で薫の顔を観察した。そう、これは犯人調査なのだ。断じて嫉妬ではない、と自分に言い聞かせながら。

「どうも。ご挨拶が遅れました。あの……」忍足がそっと警察手帳を見せた。薫がわずかに目を見開き、伊織にも視線を送ってきた。
「どうも」と、伊織も会釈をしながら警察手帳を見せる。
「警察の方?」
「忍足といいます。あ、こちらは部下の……」
「佐久間伊織です」再度、会釈をする。
「実はですね……」忍足がメモ帳を広げた。いまどきメモ帳を持ち歩いている警察はめずらしいが、なにをする気なのか。「サインをいただけませんでしょうか。すんません」

いつもの忍足の手口(というか結構ミーハーなのだ)だと思いつつも、伊織の胸はすでにチクチクと痛みはじめていた。井口薫の名前を聞いたときも、忍足は嬉しそうに反応していた。井口薫が年下好きではなくても、忍足が年上好きという可能性はある。ギロりと目を光らせた。
サインと言われて、薫がふっと微笑んで頷いている。ああもう、すでに女をむきだしにして! 逮捕しますよ!

「あの、『忍足さんへ』って書いてくれますか? 忍び足で、忍足です。すんません」

薫はますます微笑んだ。忍足がキャピキャピしているからだ。今日は年下のかわいいキャラで攻めるつもりだろうか。なんとも許しがたいっ。とはいえ、忍足の捜査を邪魔するわけにもいかない。伊織はヤキモキした。

「一度コンサートを拝見したことがあります。めちゃめちゃ素晴らしかったです」
「どうも」薫は余裕の表情でサインをつづっていた。右近のときもそうだが、著名人はファンだと言われると実に嬉しそうである。胸が大きく反っていた。
「ダイナミックやし、繊細で……もうホンマに感動的なステージやった」
「どこでご覧になったの?」
「ええと、あれはたしか……ああ、そうや。大阪の実家です」

正直な発言に、薫は拍子抜けしたように忍足を見あげた。肝心なところで嘘をつけないのが忍足のいいところである。

「テレビ?」言いながら、手帳を返している。
「そうです、どうも」

それでも薫はふっと微笑んですぐに背中を向けた。忍足に気はなさそうだと感じて、伊織はほっとした。やがて甲高いヒール音が廊下に響きはじめた直後、薫は二人で並んで歩く学院生に声をかけていた。

「あ、橋本くん」
「はい」
「応接室にあたくしの荷物があるの。あとで楽屋に運んどいてくれる?」
「わかりました」
「あ、あとステージのピアノ。本番前に調律しておくようにって、日高さんに言っといて」
「はい」
「警察の方たちがいろいろ触ったみたいだから……」と、薫がチラりと視線を送ってくる。忍足はぽりぽりとこめかみを掻いたが、伊織はうっかり睨みつけそうになった。
「わかりました」
「あと」

まだあるのか、と言いたくなったが、伊織は同時にピリッと背中が伸びた。薫の声が急に低くなったからだ。本能的に「怖い」と感じる。そしてそれは、伊織の直感通りとなる。

「あなたがいま手に持っているものはなに」語気が強すぎる。
「……クラリネットです」一方の橋本くんはポカンとしている。
「ケースはなんのためにあるの?」
「あ……」が、一瞬で緊張した表情に変わった。「すいませんっ」
「あなた前にも同じことを注意されたわね」
「……はい」
「何回言われればわかるのかしら」
「気をつけますっ」
「何回、言われればわかるのかしら?」
「……2回です」

ぎえええええええ……と、これまたうっかり、声が漏れていきそうだった。奥からきた女生徒が薫の姿を見て、ハッとしてすぐに方向転換する。彼女がいる場所を通り過ぎたくないのだろう。さらに反対側から来ていた女生徒も、薫がいる場所から90度に折り曲がっていった。伊織も降りてきた階段を駆けのぼり逃げたくなる。警察学校時代にも、ああいう教官が何人もいた。全員、「死ねばいい」と思っていた。

「いいわ」もう行って、と言わんばかりに、薫は顎を廊下の先に投げた。
「……失礼します」

恐縮そうに、橋本たちが立ち去っていく。忍足を見ると、彼はニヤニヤとしていた。この人は全然、怖くないのだろうか。それとも、チャンスだと思っているのか。

「いやあ、なんや学生時代を思いだしました」チャンスだと思ったらしい。直後に声をかけるとは、すごい度胸だ。「ふふふ。なんや、自分が怒られとるみたいで、こっちが緊張しました」

忍足の笑みを見ても、薫はなんの反応もしなかった。いやいやいやいや怖すぎますって! 忍足さん! 空気、空気やばい感じですよっ!

「ん……あ、これ、どうもありがとうございました」忍足もそれを察知したのだろう。しかし薫は黙ったまま、じんわりと口角をあげた。
「あ、あの演奏会、ぜひ拝見させていただきますっ」伊織は、とてもじゃないが黙っていられなかった。黙っている薫が怖すぎる。緊迫感が強すぎる。
「ああ、せや。俺も楽しみにしてます。どうも、ありがとうございました」

伊織は失礼とは思いつつも、忍足の腕を弱々しく引っ張った。忍足が合図に気づいて、ふたりでそそくさと去っていく。間もなくして、薫のヒール音が響いてきた。
そっと見つからないように振り返ると、彼女は背中を向けて足早に歩きはじめていた。臍の下まである、ピンポン玉ほどの大きな木珠がついたネックレスの音も一緒だ。二重にしているからジャラジャラとうるさい。外見もさることながら、中身まであんなにうるさいとは。あんなもの、どこに売っているのか。

「はあ……忍足さん、神経、図太すぎます」
「俺かてビビっとるって……はあ、お腹空いたわあ」
「あ……そうですよね。もう朝ですし。わたしコンビニで、おにぎり買ってきましょうか!」
「え、ホンマ? 嬉しい。せやけど佐久間さん、昨日から働きっぱなしで疲れるとるやろ?」
「だからこそ、腹が減っては戦ができませんから」
「ふふ。ええこやね。ほな気持ちだけ受けとって、今泉に行かせようや」

と言ってきた瞬間、緊張がほぐれたのか、忍足の腹からぐうっと音が鳴って、忍足と伊織は顔を見合わせて笑った。

「ふふ。忍足さんかわいい」かわいすぎて抱きつきたい。
「上司からかったらあかんで? よっしゃほな、今泉、探そか」
「ですね! わたし明太子がいいなあ」
「俺、肉そぼろがええなあ」

食べたいおにぎりの具材を話しながら、伊織は忍足と校庭に向かった。





喧騒から少し離れた場所に位置しているせいか、学院内は広い。小学校の運動場ほどある校庭では、生徒たちがオーケストラで演奏していた。
ベンチに座って、忍足が演奏に合わせ体を揺らしている。本当なら伊織がとなりに座って一緒に体を揺らしていたいところだったが、忍足のとなりに位置していたのは、仁王だった。

「眠たくなるのう……今泉はまだなんか」仁王はピクリとも動いていない。
「ええ音楽やないか、無料で聴けるなんてラッキーやで」
「昔から音楽にはあまり興味がなくてのう……」
「すうっと目を閉じて聴いてみたら心が洗われるようやで?」
「そしたら寝てしまうんよのう」

じいさんや、ばあさんや、と言ってしまいたくなるような、老夫婦さながらの会話である。そこに、ようやく今泉が戻ってきた。穏やかな空気をぶち壊すダッシュで向かってきた今泉が忍足の正面に立ち、「なかったですよ、肉そぼろ」と喚いた。

「どけ。邪魔や」スーツの首根っこをつかんで、忍足は今泉を視界から消した。乱暴だが、伊織には忍足の気持ちが理解できる。穏やかな雰囲気を台無しにするのが今泉という男なのだ。
「うっ。えっと仁王さんのベーコンエッグもなかったです」
「お前……ファミリーマートに行ったんか。セブンイレブンじゃなきゃないんよ、あれは」ビニール袋を見て、仁王はため息をついていた。
「だ、だって近くにセブンイレブンなかったんですもん!」
「はあ……じゃったらなに買ってきたんよ」
「シャケと、おかかと、うにマヨネーズ、明太子、梅、半熟煮玉子……」
「俺、うにマヨネーズ」
「わたし明太子でお願いします」
「俺は半熟玉子じゃのう」

口々に言いながら、近くにあった木のテーブルに移動する。学院生たちも天気のいい日はここで昼食をとるのだろう。伊織も学生時代を思いだし、今度こそ、すかさず忍足のとなりに座った。

「そんで佐久間さん、あっちのほうはわかった?」

となりに着席した伊織に、忍足はすぐに顔を向けて優しく聞いてきた。今泉との差に伊織の胸がうずいていく。これだから忍足が好きなのだ。

「はい! まず、井口さんですが」
「あ、あとこれも忍足さん! 魚肉ソーセージ」伊織が張り切ったところで、今泉の邪魔が入る。
「おおきに」
「うまいんすか本当に」
「ソーセージは魚肉に限るで?」忍足さんは魚肉ソーセージが好き、と、ついスマホに打ち込みそうになる。「そんで? 佐久間さん、つづけてええよ」
「あっ、はい。どうもあの、井口さんの出席を拒んでいたのは」
「忍足さん、これおつりです」
「ちょっと今泉さん、わたししゃべってるんですけど」いい加減、イラッとした。
「おつりは返さなきゃならないじゃないかっ!」黙ってわたせばいいだろ! と声を荒らげそうになるが、忍足の前である。伊織はぐっとこらえた。「だいたいなんで僕がコンビニなんだよっ!」
「俺の命令やし、しょうがないやんか。なあ、佐久間さん。これ、さっきタクシーで借りたぶん、返すな?」
「はい! 忍足さん」
「ずるいよいっつも佐久間さんばっかり! ああもう、うるさいなぶんちゃかぶんちゃか!」
「うるさいのはお前じゃ今泉。食事くらい静かにさせてくれんか」

オーケストラに八つ当たりをした今泉だったが、すでにおにぎりを頬張っている仁王にたしなめられて、ようやく口をつぐんだ。
ふうっと、伊織は息を吐いた。お前がコンビニに行ってるあいだ、こっちは調査で走り回っていたんだからな、とは、もちろん言わない。忍足の前である。

「つづけますね」つん、と今泉から顔をそむけて、伊織は忍足に向き直った。「井口さんの出席を拒んでいたのは、塩原先生の奥さまだったようです」
「はい、佐久間さんの明太子、やっといたで」忍足が、包装を解いて伊織に差しだしてきた。
「え、あ、ありがとうございます!」そっと受け取る。忍足さんが触った海苔……と、思わず口走ってしまいそうだが、もちろん言わない。本人の前である。「長年の愛人だったみたいですね、井口さん」

この件に関して調べがついたとき、伊織は心の底から安心した。井口薫は断じて年下好きではない、ということが立証されたからだ。あんなおじいちゃん……と言っては失礼だが、とにかく伊織にとってはおじいちゃんと言っていいほどの男と長年交際していたわけだ。
忍足へのそっけない態度にも納得がいく。好みではないのだろう。

「先生の?」
「はい。噂ですけど」
「そうなんやあ」
「まあ、そういうことじゃないかとは思っちょったけど」仁王がもぐもぐしながら反応した。
「あの井口って人、相当な女って感じしましたよねえ」今泉が顔をしかめながら、必死におにぎりの包装をなんとかしようとしている。うまくいかないらしい。
「怖そうな人やよなあ?」さきほどのことを思いだしたのか、忍足も賛同した。
「苦手。もう全然苦手。やっぱ女は優しくなくちゃ」チラ、と今泉が伊織を見た。睨み返すと、すぐに視線をそらしたのだが。
「お前の趣味なんかどうでもええねん」ぱくん、と、忍足が上品におにぎりを口にした。その口もとを、じっと見てしまう。「俺は勝ち気な女の子もええと思うけど。ね? 佐久間さん」
「え、あっ……は、はいっ」が、忍足に首をかしげられて、ずきゅん! と心臓を撃たれた。見つめていたことがバレてしまっただろうか。「井口さんは、生徒たちからも一目置かれてるって感じですよね」

ごまかすように、伊織もいよいよおにぎりを頬張った。忍足のとなりにいるおかげで、あまり味はしないのだが。同時に、返してもらったおつりを財布にしまう。はあ、忍足さんが触った小銭がここに……幸せすぎる。

「でも、殴ったりするらしいですよ」一方の今泉はまだおにぎりにたどり着いていない。モタモタとなにをやっているのか。
「そういえば、2年くらい前に痴漢を逆に殴り倒して、半殺しの目に遭わせたという話も聞きました」伊織は忍足の触った海苔を口に運んで、さらなる幸せを堪能しながら報告した。
「なんちゅう女じゃ……」

目の前では仁王が、顎を引いていた。これは薫の報告にたいする反応だろう。忍足の触った海苔に興奮している伊織への反応ではない。ないと信じたい伊織である。

「やっぱピアノやってると、腕の力が強くなるんですかね」今泉のおにぎりは、海苔からむきだしになっていた。見ているだけでイライラとする。「仁王さん……これ、どうやるんですか」
「お前なにしちょるんよ……もう取り返しつかんじゃろそれ」

がっくりとうなだれて、今泉は海苔がむきだしになったおかかおにぎりを頬張った。
忍足がなにやら首をひねっている。そしてまた、ふと伊織のほうを見た。

「佐久間さん、その痴漢の件、詳しく調べといてくれる?」
「あ、はい。わかりました」なにか引っかかるのだろうか。
「そんで、川合さんのほうは? 恨んどる人とかおらんかったん?」
「ええ、敵は多かったみたいですね」
「うるさいなあ、ぶんちゃかぶんちゃか!」今度はおにぎり包装の八つ当たりだろうか。
「やかましいぞ今泉。ぶんちゃかはええから、シャケくれ」仁王はもう1つめを食べ終えたらしい。
「川合さんがここの理事長になってから、この学院が大きくなったようですね」報告しつつも、伊織はまた、じっと忍足の口もとを見てしまう自分に気づいていた。「ピアニストとしては井口さんのほうが上ですが、経営者としては川合さんのほうが一流だったみたいですね」とにかくドキドキするのだ。「ただ、金儲け主義に走りすぎているという批判も多かったようです」上品なのに、色気がある。「とにかく生徒ばかり集めて、パンフレットにお金かけて、ばんばん宣伝して……」相手はおにぎりだというのに。たまらない。
「……佐久間さん」
「え、はい」
「さっきからじっと俺のこと見て、どないしたん?」

ぎょっとした。忍足はぼうっとオーケストラを見ながら報告を聞いていたはずだというのに、急に伊織のほうを向いてきて、図星すぎることを言われたからだ。
仁王が、笑いを噛み殺すような顔をしている。海苔に興奮していたことはバレてなくても、忍足の口もとを見つめていたことはバレていたようだ。真っ赤になってしまいそうだった。

「そ、いえ、あああの」
「ひょっとして、うにマヨネーズ食べたかったん?」
「え……あ、ああ、そそそ、そうなんです。うにマヨネーズってどういうのかっ」
「気になっとったんや?」
「は、はいっ」

伊織は必死にごまかした。仁王がさらに吹きだしそうになっているが、咎めればおかしなことになってしまう。伊織は耐えた。耐えたというか、仁王は警部でずっと偉い人だからこそ、心のなかで悪態をつくことしかできない。が、伊織は忍足の発言に、目をひんむくことになった。

「ほなちょっと余っとるし、食いさしでもよかったらあげるけど」
「ええ!?」
「よいよい忍足、いくら佐久間でもそれは」
「いいんですか!?」
「……佐久間」

仁王のツッコミも無視して、伊織は叫んでいた。忍足が頷いて、食べかけのおにぎりを差しだしてくる。これはもう、間接キスどころではない……間接細菌交換ではないのか! もはやこのおにぎりはうにマヨネーズ味ではなく、忍足さん味ではないのか!
伊織のテンションは足もとから突き抜けていくようにあがっていった。

「そのかわり、佐久間さんの食べさしの明太子もくれる?」
「えええええっ!?」
「お前らのう……」
「いい、いい、いいんですか!?」こんな、わたしが、かじったのに!? おにぎりかじり虫したんですよ!?
「明太子、ちょっと食べたいなって思っとったんよ」

伊織は震える手で、忍足におにぎりを差しだした。人生初のおにぎり交換である。しかも、大好きな忍足と。なにくわぬ顔ですぐにおにぎりを口に放りこんだ忍足に、伊織は倒れてしまいそうだった。しかし、この忍足の食べかけのおにぎりを口に入れるまでは、断じて倒れるわけにはいかない。

「はあ……見ちょるだけで疲れるのう」
「ん、なにがや仁王?」
「なんでもない。それで忍足、なんかつかめそうか?」
「せやね。とりあえず佐久間さんの調べが終わったら、やな」

耳にまったく入ってこない会話の横で、伊織はそっと忍足がくれたおにぎりに口をつけ、静かに目を閉じた。





今日のために用意したとっておきの衣装を持ちあげ、胸がいっぱいになっていたときだった。楽屋のドアがノックされ、薫が「はい」と機嫌のいい声をあげると、「忍足です」と低い関西訛りの声が響いてくる。
あのサインを求めてきた警察の男か。と、即座に思いだす。さっき生徒を叱ったときも茶化すようなことを言っていた。あまり好きなタイプではなかった。

「開いてますけど」扉を振り返ることもなく、薫はハンガーラックに、ビニールで覆われた衣装をかけた。このビニールを剥がすまで、あと数時間だ。
「失礼します」
「どうぞ」やはり美しいドレスだ。自然と笑みがこぼれていく。
「ちょっとお時間ええですか?」
「なにかしら?」
「んん、ちょっと2、3、伺いたいことが……ああっ、これ!」と、忍足がドレスを指差している。声色が急に変わっていた。「今日のお衣装ですか?」
「ええ」

薫はまた、気分があがった。忍足は、世間的にいえば非常に色男である。服も黒スーツに白シャツでノーネクタイと、シンプルに着こなしている。しかしシンプルを着こなすというのは、意外と難しいのだ。この男はそれも心得ている上級者だろう。

「うわあ、素晴らしいですねえ……」

忍足が衣装の目の前に立って、じっくりとそれを見あげていた。彼のような男に純粋に褒められたことが、薫は嬉しかった。

「んん、レクイエムを弾くにはぴったりのお衣装ですねえ。ああ、これは素晴らしいわホンマに」

忍足の感想を聞きながら、薫はキャリーケースから真っ赤なハイヒールを取りだした。
今日の衣装の準備はこれで完璧だ。あとはメイク直しとヘアのセットアップ。それと……。頭のなかで思考をめぐらす。

「外国へはよく行きはるんですか?」
「ええ、ツアーでね」
「本当は今日も行かれる予定やったんですよね?」
「ええ」
「どちらへ?」
「ニューヨークです」
「お仕事で?」

薫は赤いレザーグローブを外しながら、静かにため息をついた。この質問になんの意味があるのかわからないが、嫌なことを思いださせてくれる。

「ていよく追い払われたんです」だからこそ、薫は正直に答えた。
「ん、どういったことでしょう?」

警察が質問してくる内容にしては、妙である。相手は仕事中なのだ。世間話をしにわざわざ楽屋まで押しかけてきたわけじゃないだろう。

「ご存知じゃないんですか? もう」薫はじっと忍足を上目遣いで見た。
「あ、いや……」YESともNOともつかない返事だが、おそらく内心はYESで表面的にはNOと言いたいのだろう。まあ、どっちだっていいわ。
「あたくし、先生のご家族に嫌われてるんです」
「ああ、伺いました」急に頷きはじめた。なんだ、結局YESと言うわけか。だが、正直な男は嫌いではない。
「最初はね、大木たちが向こうに気を遣って、わざとこの日に仕事を入れたんです。あたくしが出席できないように」忍足が苦笑いしながら頷いている。「でも川合があんなことになっちゃったんで、みんな大慌て」
「ふふっ、ふふふっ。まあやっぱりファンとしては、井口さんに弾いてほしいですからねえ。んん」

忍足は、不謹慎を照れ笑いで隠すようにそう言った。ファン、と言われて悪い気はしない。
コンサートを実際に観に来たことがないとしても、ファンというのは存在するのだ。

「そんで、今朝はどこで連絡を受けはったんですか? お荷物がありましたよね?」と、忍足がキャリーケースに気づいて、指を差した。「あれです」
「空港に向かうとこでした」
「はあ、ちゅうことはスマホから?」
「そうです」いまどきはほとんどそうじゃないのか、と言いたくなる。どうも、まどろっこしい男だ。
「はあ、そうですか」

言いながら、忍足がじっくりとキャリーケースに向かっていく。なにか言いたげだ。薫は本能的に、この男は自分を疑っているのではないかと、このときようやく気がついた。

「なにか?」そのせいで、声が尖ったのが自分でもわかった。
「いやいやいや。んん、ちなみにゆうべはどこにいらっしゃいました?」

大当たりだ、と思う。薫はすぐに忍足に近づいた。目を大きく開きながら、驚きを表現したつもりだった。

「これは尋問ですか?」
「んなっ、とんでもないですっ。これはあくまでも形式的なものですよっ」なんともしらじらしい口調だった。
「……川合は心臓発作で死んだって聞きましたけど」
「ああ、はい」
「こういう質問になんの意味があるのかしら」

語気を強めて、薫はわざわざ楽屋のドアを開けて確認した。誰かに聞かれていたらたまったものではない。しかし幸い、ドアの向こうに人はいないようだ。

「んん、実はですね。まあ、詳しいことは解剖の結果を見てみんことにはなんとも言えへんのですけど……」言いながら、忍足は鏡に向かって、薫の麦わら帽子をかぶりはじめていた。
「解剖?」なんですって?
「ええ」右の角度、左の角度、と気にしている。どう見ても男に花つきの麦わら帽子は似合わない。
「……どうして?」薫は鏡の前まで足早に近づいた。
「俺は……あ、失礼」そのまま振り返った忍足が、麦わら帽子を取る。こんな話をしているというのに、この男はふざけているのか。「俺はですね……」そして長髪を整えるようにかきあげ、忍足は顔をしかめながら薫を見た。「殺人やと踏んでます」

どうやら、ふざけた話をしたいわけではないらしい。行動はふざけていたのだが。

「……そうなの?」

薫はさらに大きく目を見開いて、忍足のとなりに並んだ。内密な話なのね、という大げさな芝居を打ったのだ。さながら、ワイドショーを見ている主婦になった気分だった。

「はい。時計が……」忍足が左腕をあげた。「腕時計が。止まっとったんです。0時10分で。それがちょっと引っかかってしもて」

忍足の早口に、今度こそ芝居ではなく、薫は目をまるくした。
腕時計が……止まっていた? だからなんだ。なぜ忍足はそこに引っかかりを覚えているのだろう。

「わかんないけど」これは薫の本音だった。
「実はですね、止まった時間がですね、川合さんが亡くなった時刻とほぼ一致しとるんです。どう考えても妙です」
「倒れた拍子に壊れちゃったんじゃないかしら?」あの男は派手に倒れていた。それならば腕時計が壊れてもおかしくはない。
「いや、表面には傷ひとつありませんでした。それに……」

忍足が腰をかがめながら、薫の正面に立った。そして顔の位置をしっかり合わせながら、たたみかけるように訴えてきた。

「完全に止まったわけやのうて、秒針がなんかこういうふうに」忍足が人差し指を立てて、小刻みに揺らして見せてきた。「痙攣しとるみたいな。つまりまあ、完全にイカれとったわけです」忍足が、じっとりと薫の目を覗き込んでくる。「……持ち主が死ぬと同時に時計もイカれる。こんな偶然あると思いますか?」

薫は心拍数があがっていた。まばたきがうまくできない。

「ご意見を」

と、忍足が告げた瞬間だった。薫がつけていたネックレスが切れ、一本の糸で支えられていた大粒の木珠が一気に床に散らばった。心臓が跳ねあがりそうになる。が、薫は声をだすのを、かろうじて堪えた。

「ああああああ、あかんあかん、拾いましょうね」

忍足が即座にしゃがんで、木珠を集めはじめている。薫は喉の奥までせりあがってきたものを一度飲み込み、必死に頭を回転させた。

「思い出の時計で……」薫もしゃがみながら、木珠を集めはじめた。「よっぽど心が通じあってたんじゃないかしら」
「んふふっ、はは、なるほど」忍足が小さく笑いながら、テーブルの上にある灰皿を取り、そのなかに木珠を入れはじめた。几帳面な男だ。
「いい話ねえ」バカバカしいと思いながらも、薫はなんとか話題をそらしたかった。
「たしかにええ話ですね、その場合は」
「子どもたちに語って聞かせたいわ」
「ホンマに。ふふふ。せやけど、悪い話の場合もありますよ?」

が、当然、そらしてはくれないらしい。わかってはいたが、なにも知らないはずの薫にとっては、これ以上、説明のしようがないのだ。

「俺やったらどっちかっちゅうと、こっちを信じます。川合さんはですね、んん、体に強い電流を流されて、そのショックで心臓が止まり、時計も止まった。子どもにはとても聞かせられへん」

薫は木珠を集めながらも、忍足の顔を見ながら、また思わず目をまるくしていた。ということは……まさかスタンガンのせいで、時計が止まったということか。薫にとってそれは、予想もしていない出来事だった。

「電流が流れると、時計って壊れちゃうんですか?」
「そうですよ? あの、クレジットカードとかも全部ダメになるんですよ?」
「……そう」
「そうです。んん、で、話を戻しますけども」床に散らばっていた木珠が片づいたのと同時に、忍足の目がまた、薫を覗き込んでくる。「ゆうべ、どちらに?」

さっきは立っていて、今度はしゃがんでいるが、目線の位置はまったく同じだった。すでに疑いをかけられているのはわかっている。が、払拭したい。

「自宅にいました」薫はすかさず答えた。
「おひとりで?」
「ええ」
「そうですか。ありがとうございました。ほんならこれ、ここに置いときますね」木珠でいっぱいになった灰皿を鏡の前に移動させている。「ほな、失礼します」

それだけだったのか。いや、それだけのはずがない。忍足はこの話を聞かせて、自分の反応を伺っていたのだ。突然、薫のなかに焦燥が駆け抜けた。おかしな反応を見せてはないだろうか。いや、大丈夫だ。ずっとワイドショーを見ている主婦を演じていた。
と、そのとき、出ていくはずの忍足の足がハンガーラックの前でピタリと止まる。さっき褒めてくれた、ドレスを見ていた。

「これ、ぴったりの衣装があってよかったですねえ」さらに一歩ドレスに近づいて、忍足が手を伸ばしていた。ビニールに貼られている明細を指で挟んでいる。「んん、昨日、クリーニングから帰ってきとる」

絶望的な気分になっている薫に、忍足はニコニコとしながら告げてきた。

「グットタイミングとはこのことやわあ」
「……」どんな表情をして、この男を見ればいいというのか。
「ほな、どうも」

忍足が出ていった楽屋で、薫はようやく、ゆっくりと立ちあがった。両手いっぱいに握りしめていた木珠がふた粒、薫の手からこぼれ落ちた。





to be continued...

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