ピアノ・レッスン_02


2.


気を取り直し、リハーサル室で楽譜を調べているときだった。扉が開き、同時に「井口さん」と名前が呼ばれる。振り返ると、今度は若い女の刑事が立っていた。たしか名前は、佐久間伊織と言っていたか。

「あ、すみません、ちょっとよろしいですか」
「どうぞ?」また警察か、と思わずにはいられなかったが、忍足でないのなら幾分か気も楽だ、と思った直後だった。
「ほな俺も失礼します。あ、仕事、つづけてくださいね」

伊織の背後から忍足もやってきて、薫は一瞬、顔をしかめずにはいられなかった。しかしいまは、それどころではない。大丈夫だ。なにも気にすることはない。忍足は殺人だと思っているだけだ。それが直接、薫が犯人ということにはならない。なんの証拠もないのだから。

「なにか?」

それでも、声は尖ってしまう。忍足曰く、今日一番の大事な仕事だからだ。そういう意味で、薫は焦っていた。おまけに、伊織は学院のパンフレットを持っていた。はっきり言って、うんざりである。

「佐久間さん、なに遠慮しとるん。プロに聞いてみたらええやん」
「え、ええ。あの、実はですね井口さん、あのわたし、いい機会なので、ピアノをはじめてみようかなと思っているんです」
「おやめになったら?」

薫は伊織に背中を向けたまま、楽譜を確認しながら返事をした。薫にとってそれは、案の定も案の定の質問だったからだ。じゃなきゃパンフレットを持っているはずがない。

「は、はい?」伊織が呆気に取られたような声をだした。
「ろくな授業ありませんよ」
「はい?」しつこくも聞き返してきた。
「その一般コースはね、死んだ川合がお金集めのためにはじめたんです」

忙しいが、悪態くらいはつける。それにしても、これだけ楽譜を見ているのに、なかなか見つからない。薫はあきらめて、別の楽譜帳を手にした。

「なんだあ、そうなんだ」若い女性らしい反応だった。
「ああ、そらまいったなあ……そうやったんやあ」なぜか忍足もがっかりしている。
「はあ……残念です」まあ、もう成人をとっくに超えているであろう人間がこれからどれだけいい学院でピアノをはじめたところで、たかが知れているのだが。
「そうやねえ。せやけど井口さんが言うならそうなんやで佐久間さん。井口さんは世界的なピアニストやから。やめとき?」
「そうですね。やめときます」バサッとパンフレットを捨てる音がする。
「かわいそうに。佐久間さん、魚肉ソーセージ食べる?」
「え、いいんですか?」
「ん。おやつにと思って取っといたんや。1本あげるで?」
「やった」
「あ、井口さんもどうですか?」忍足が魚肉ソーセージを見せてきた。
「ふふっ。あたしくは結構です」子どもっぽい忍足に、薫は笑みをこぼした。
「ああ、そうですか。ほな佐久間さん、俺らだけで失礼しよか」
「はい。ありがとうございます……でもたしかにこれ、入会金がちょっと、高すぎるなって思ってました」
「ん、それは俺も思っとったわ」

くすくす笑いながら、忍足と伊織は魚肉ソーセージを開けていた。伊織が外袋についている値札のシールを取って、手をぶんぶんと振っている。

「佐久間さん、ゴミはゴミ箱やで?」
「あ、すみません……くせで」
「もう、悪い子やねえ。あれ? どこいった?」
「あ……どっかいっちゃいました」
「ふふ。あかんで? 今度見つけたら逮捕やな?」
「ひゃあ。忍足さんに逮捕されたらわたし、逃げられないじゃないですかあ」
「逮捕の時点で捕まっとるからな」

腹の底からどうでもよかったが、薫は忍足と伊織のイチャつきに視線を送った。この刑事たちは深夜からずっと働き詰めなのだろう。くだらない会話をひとつやふたつしなければ、やってられないのかもしれない。それが仕事とはいえ、多少、気の毒になってくる。

「おふたりとも、お腹空いてらっしゃるの?」
「ん……ふふ。ちょっと中途半端に食べたもんで、小腹が」忍足が照れくさそうに答えた。
「なんかご用意させましょうか」
「い、いえそんなっ」伊織が慌てはじめた。
「いえ結構です、結構です、そんな」と、忍足も恐縮していたが、薫は黙って部屋の電話に向かった。「なんか、すんません」

ここからは受話器をあげれば、スタッフルームにつながる仕組みになっている。薫は受話器を耳に当てた。
机の上に置いた楽譜を伊織が吟味している。別段、見てもらってもかまわないが、その様子は気になった。気になりつつも、薫は片耳で電話の呼び出し音を聞いていた。

「こちら、なに調べてらっしゃったんですか?」
「ん?」が、薫は伊織の質問とは別に、声をあげていた。もう5回は鳴らしてるのに、誰も出ない。
「なんやすっごい楽譜やな」
「忍足さん、楽譜はやっぱり読めるんですね。さすがバイオリンやってただけある!」
「佐久間さんもトロンボーンやっとったなら読めるやろ?」
「ヘ音記号だけなら得意です」
「そうなんや? 俺はト音記号だけなら得意や」
「どうしていないのかしら?」低レベルな話を聞きながら、薫は苛立ちを覚えた。今日は音楽葬だというのに、電話に出ないなど、あってはならない。
「あ、井口さん、ホンマにもうええですよ?」
「そうですよ、おかまいなく」

忍足と伊織の遠慮も無視して、薫はしつこく受話器をとり、もう一度スタッフルームにかけなおした。が、やはり出ない。あれだけの人数が学院にいるというのに、なにをしているのだ。

「みんなどこ行っちゃったのかしら。おふたりとも、ちょっと待っててくださいね」
「なんだか、すみません」

薫は一度、リハーサル室の外に出た。廊下を見渡しながら、声をあげる。

「誰か、ちょっと。いないの!?」

どこからも、返事は戻ってこなかった。ああ、これでは、刑事たちに世話を焼いてしまったせいで、余計な時間を使ってしまう。薫は早々にあきらめ、リハーサル室に戻った。

「ごめんなさい、誰もいないみたい」一応、謝っておく。
「気い遣わせてしもて……」
「すみませんね」薫もにこやかに対応した。
「とんでもないです」伊織が深々と頭をさげている。
「ところで井口さん……」

その横で、魚肉ソーセージを食べ終えた忍足が、じっくりと薫を見てきた。また、心拍数があがっていく。いまはそれどころじゃないというのに、また尋問してくる気だろうか。

「……ちょっとピアノ、弾かせてもろてええですか?」

が、予想外の言葉に、緊張がほぐれていく。薫は満面の笑みで忍足を見た。

「どうぞ」
「すみません」
「忍足さん、ピアノ弾けるんですか?」伊織がきゃっと声をあげている。この若い刑事は、どうやら忍足の虜らしい。まあ、職場にこんな色男がいたら、無理もないかもしれない。
「んん、いやホンマにね、かじった程度なんやけどね」

仕事をサボって事件のあった施設でイチャつくとは、警察も気楽なものだと思いながら、薫は我関せずで楽譜帳の並ぶ本棚の前に戻った。絶対、どこかにあるはずなのだ。これだけの楽譜が並んでいるのだから。ないはずがない。

「わあ、楽しみです」
「あんま期待せんといてな? ん、ほないくで?」

ポン、と子どものいたずらのような音がし、そのまま忍足は『函館の女』のメロディを弾いていた。そのとき、薫はついに目を光らせた。新たに手にした楽譜は彼女が探していた、まさに『それ』だった。
見つけた……これしかない。おまけに何度か、弾いた覚えもある。

「『すたんじゅう』ってご存知ですか?」
「……え?」

滑稽な音をだしている演奏はまだつづいていたが、突然、質問が投げかけられている。薫はゆっくりと頭をあげ、ピアノに座る忍足に目を向けた。

「『すたんじゅう』です」つづけた伊織も、グランドピアノの端に立って薫のほうを見ていた。
「聞いたことありませんけど」

薫は笑顔で答えた。「すたんじゅう」とはなんだ? 新しい丼ぶりの名前だろうか。スタミナ丼、ならば意味がわかるのだが。スタミナ重をもじった商品かもしれない。

「ご存知ない? んん、おかしいやん、佐久間さん」
「いえ、そんなはずは……」
「どういうことかしら?」薫は伊織を見た。さっきまでイチャついていたわりに、急に真剣な顔つきでスマホを取りだし、忍足に見せている。
「実は佐久間さんが調べてくれたんですけども、井口さん2年前に……」伊織のスマホを確認し、忍足はピアノの座席から立ちあがって薫に近づいてきた。「んん、痴漢に遭って撃退されとりますよね? 記録に残っとるんですそういうことは」

薫はゾッとした。まさか、さっきからこのふたりが言っているのは……。

「そのときあなたが使いはったのが、すたんじゅうってやつなんです。ボタンを押すと電流が流れる」

「すたんじゅう」は、彼らの頭のなかでは「スタン銃」と変換されているらしい……と、薫は察した。電流の話は、さっきしたばかりだ。偶然を装う必要がある。ああ、大仕事がひとつ終わったと思ったら、刑事たちの対応までしなくはならないなんて……!

「……ああ!」薫は呆然とした顔から、いま気づいたように顔を綻ばせた。「あれがスタン銃っていうんですか!」
「そうです」
「ごめんなさい、忘れてました」ケラケラと笑ってみせた。あの痴漢被害だって、2年も前のことだ。忘れていても不自然ではない。
「とんでもないです」
「アメリカで買ったんです、護身用に」伊織にも視線を送った。女性ならわかるはずだ。警察の人間なら、余計に。
「いまは?」しかし、忍足がすかさず質問をしてきた。
「さあ……わかりません。めったに使いませんもの」
「ああ、そうですかあ……」忍足がうなだれている。
「どうしてそんなことを?」
「いや実はですね、その、川合さん。おそらくスタン銃のようなものでやられはったんやないかと」

実に正直な男だと、薫は感心した。と同時に、もちろん、また心拍をあげていた。が、表面的にはムッとして見せた。ここまで本音を吐きだしてくるのなら、こちらもそれなりの態度を取っておくべきだろう。

「……忍足さん」
「はい」
「あたくしのこと疑ってらっしゃるの?」
「んなっ、とんでもないっ……!」なぜそこは否定するのか。苛立ちがつのっていく。
「だったらどうしてスタンガンのことなんかあたくしに聞くの?」

そのとき、忍足の目と口が同時に大きく開いた。側にいた佐久間もまったく同じ顔をしている。なんだ、おかしな発言はしていないはずだというのに。薫も同じ顔になりそうだった。

「スタンガン……そうや、スタンガンやん、佐久間さんっ! スタン銃ちゃうやんっ」
「わわ、すみませんっ。そうでした。間違えて報告していましたね、忍足さん!」
「もう、けったいやなあ。俺、てっきり佐久間さんに騙されてもうたわ」
「騙したつもりはなかったんですよ、すみません、わたしの知識不足です。でも井口さんはさすがですね、やっぱりお持ちになられていたから、お詳しくて……! あれ、でもさきほどはお忘れになっていたと……あ、思いだされたんですかね?」

しらじらしい刑事たちの芝居に、薫はいよいよ、目を棒にした。
いくら外部の人間とはいえ、こんなにおちょくられる経験はめったにない。こいつら、徹底的にこの井口薫を疑ってかかってきているのだ。だからわざと名前を間違えて、間違いを訂正させようとしていたんだろう。ついさっき、名称を忘れていた振りをしたばかりだと言うのに……薫は、まんまと挑発に引っかかった自分にも腹が立っていた。

「……忍足さん」薫の棘に気づいたのか、なぜか伊織の背筋が伸びた。「どうしてあたくしに目をつけたかはわからないですけど」
「目をつけたやなんてっ。そんな、そんなん違いますよっ。なあ佐久間さん?」しらじらしい! いちいちこの小娘の名前を呼ぶのはなんなのだ。付き合っているのか?
「そうですよ、誤解ですっ」
「ちょっと不愉快です」薫は忍足を睨んだ。
「すんません、気を悪くしないでください」これで悪くならない人間がいるのなら会ってみたい。
「なんか証拠があって言ってるの? あなたも」
「えっ、いえあの、わたしは、ただ事実関係を、忍足さんに報告しただけで」そうなのだろう。そして忍足が、この猿芝居を恋人にやらせたに決まっている。
「ごめんなさい。ホンマにすんませんっ」

忍足がタジタジと謝ってきたので、薫は大人の余裕を見せるためにも口角をあげた。不愉快では、ある。そして疑われていることもはっきりとわかったが、この様子を見る限りなんの証拠もないようだ。単純に川合を嫌っていたというだけで薫を疑っている。それならばと、薫は一定、安心した。
おまけに、いちばんやらなければならない大仕事の目処もついた。要するに、なんだかんだと機嫌は上向きであった。

「ね!」
「は、はい?」

薫は楽譜を片づけて、思いついたように振り返った。一瞬にして変化した薫の満面の笑みに、忍足が顎を引いている。このまま話をそらしてしまえば、薫としても問題はない。

「もう1回やってみてよ」薫は忍足の両肩に手を乗せて、ピアノに向き直らせた。薫なりの、仲直りの合図だ。
「ピアノですか?」
「そうよ、ピアノピアノ」
「いや俺はそんな、井口さんに聴かせるようなっ」
「いいじゃないの聴かせてちょうだい」

ぐんぐんと忍足の背中を押すと、忍足がよろけながら笑いはじめる。側で突っ立っている伊織が、複雑な顔をしてこちらを見ていた。まず間違いなく、あれは嫉妬の顔だろう。
まったく、この程度で……最近の若い子って、どうして自分に自信がないのかしら。十分にかわいらしい女性なのに。

「もう1回、はい」
「いやいや、井口さんお願いしますって」
「どうぞ」

薫が手を座席に送ると、忍足は困惑しつつも笑顔をこぼしながら、ピアノの前に座った。

「ん……そうですか? いやホンマにかじった程度で」さっきのを聴いていればわかる。かじった程度以下だ。
「お願いします。やって」

薫は忍足の肩を抱くようにして手を乗せた。小さな子どもを教えるときは、いつもこうだ。
忍足がさっそく人差し指を立てている。

「せやけど1曲しか……」
「忍足さん!」

忍足が鍵盤に指を置こうとしたときだった。伊織が声を張りあげて忍足を呼び、忍足の背中が伸びる。薫も、伊織に目を向けた。強張った表情で、伊織は眉間にシワを寄せていた。

「わたし、仁王さんに呼ばれたので、もうここを出ていきます」
「え、ああ、そうなんや。ん。いってらっしゃい」

普通の返事をした忍足に背中を向けて、伊織が去っていく。薫は少しだけ、呆れた。
なかなか嫉妬深い。まだ若いから、仕方ないのかもしれないが。それにしてもこの男、勘は冴えているのに恋人の嫉妬には気づかないのだろうか……それとも、あとで平謝りするのだろうか。
どちらにしても、薫にとってはどうでもいいことなのだが。

「ほな、失礼して……ん……」

ポン、とまた腑抜けた音が鳴りはじめる。もちろん、『函館の女』のメロディだった。たぶん、それしか弾けないのだろう。薫は苦笑いしながら鍵盤に両手を広げた。この程度なら楽譜なしでも即興で弾ける。
薫が『函館の女』の前奏部分をダイナミックに弾いて見せると、忍足の目がキラキラと輝きだした。

「めめめめめめっちゃすごいわあ! この場にサブちゃんがおったら泣いて喜んだはずやわあ!」忍足は、薫の想像以上に感激していた。「いやホンマにすごいわあ」

忍足の大げさな感動に笑いながら、ふとドアのほうに視線を送ったときだった。すりガラス越しに人影が見えた。そっと聞き耳を立てるように、室内の様子を伺っている。一瞬、伊織かと思ったが、伊織よりも髪が長い。あれは女学院生の姿だ。おそらく……佐々木という生徒。

「ほな、ワンモアタイム」
「ちょっとごめんなさい」

ノリノリになっている忍足に声をかけて、薫はすぐにドアに向かい、勢いよく開け放った。
佐々木が逃げるように離れていく。薫はその背中に叫んだ。

「佐々木さんっ!?」
「は、はいっ」佐々木が即座に振り返った。顔が強張っている。
「なに覗いてたの?」
「い、いえ……」
「みんな、なにしてるの?」スタッフルームに誰もいないことに、薫は苛立っていた。
「……知りません」まったく。
「忍足さんになにかお食事を買ってきてあげてちょうだい」
「はい」
「いや、ホンマに俺はええですよ?」なにごとかと思ったのだろう。忍足がリハーサル室から顔を覗かせてきた。
「いえ、買ってきます」
「コーヒー。すんません」遠慮していたわりに、すぐに佐々木にことづけている。
「あと、橋本くんに言っといたんだけど、ステージのピアノ」あれからなんの進捗報告もない。「ちゃんと調律しておくように日高さんに伝えといてね」
「はい、わかりました」
「あのピアノ、弦が切れやすいんだから」橋本はちゃんと伝えたのだろうか。
「はい」
「急いでっ」
「はいっ」

湧きあがってきた苛立ちを押しだした。佐々木がビクッと肩を震わせて去っていく。まったく、どいつもこいつも、なにをするにもノロノロとしている。なぜ若者の多くはテキパキと動けないのか。薫にとっては永遠の謎である。
リハーサル室では、忍足がしつこく『函館の女』のメロディを弾いていた。いよいよ、この男にも付き合っている場合ではないだろう。

「忍足さん」
「はい?」
「もういいかしら」
「え?」
「あたくしやっぱり行ってみます、ステージ。生徒たちだけに任せておくのは、ちょっと不安ですから」
「あの、それやったら俺もご一緒してよろしいですか?」
まだ、疑っているのだろうか。「……いいですとも」

それでも薫は笑顔で答えた。ここで反発すれば、余計に疑いを深めるかもしれないと思ったからだ。『函館の女』の演奏で、忍足の心をつかんだ気もしている。純粋にファン心理の可能性もある。とにかく、いまは難しいことを考えていられない。薫は足早にリハーサル室をあとにした。
そのうしろ姿を生徒に確認されていることなど、知るよしもなかった。





エレベーターに乗りこんで、1階を押す。動きだしたところで、忍足がこちらをチラチラと見ながら聞いてきた。

「あの、ピアノの弦っていうのはよう切れるもんなんですか」唐突だった。が、薫が佐々木に言っていた話が耳に入ったせいだろう。薫は笑った。
「めったに切れないんですけどね。あのピアノ、前にもあったんです」
「ふんふん。弦が切れたらどうするんですか?」なるほど。ピアノを指一本で弾くはずだ。
「高い音のときはすぐに直せますけど、低い音はダメです」
「ダメ……?」
「1週間くらい修理をしないと」
「はあ、そうなんやあ」

ピアノをやる人間にとっては常識ですよ、と付け加えようとしたときだった。ガタン、とエレベーター内が揺れ、照明が点滅する。

「なん、なん、なななななん、なんやっ?」忍足の慌てた声が響くなか、やがて、照明は完全に落ちた。「あっ! 止まっ、あっ、え、ちょっ」
「……停電?」
「どうしたんやこれっ、ちょっ」

忍足が適当にボタンを押したせいなのか、それとも緊急時にはそういう仕組みになっているのか不明だが、ゆるやかな照明がなんとかついた。しかしエレベーターは止まったままである。

「ああ……最低」薫はげんなりした。
「なんやねんもう……」忍足は不安そうな顔をしている。「あかん、動かへん。どうしたんやろ」

薫は目を閉じた。この状態で焦ってもしょうがないのだ。だというのに、忍足はずっとぶつぶつ言っている。この男は本当に警察の人間なのか。

「あの、非常ベル鳴らしたほうがええんやないですかねっ?」
うるさい……というか肝の小さい男だ。「ねえ、あと1分待ってみましょうよ」
「1分、待ちます?」
「うん」薫としては、大げさにしたくなかった。今日は音楽葬なのだ。穏やかに先生を見送りたい。
「あ、せや、佐久間さんに連絡してみよかなっ」

しかし、忍足は騒がしかった。閉所恐怖症なのだろうか。エレベーターが止まったくらいでこんなに怯えて、刑事が務まるとはとても思えない。

「ふふっ。忍足さん、甘えん坊なのね」
「え。ど、どういう意味……あれ、え、つながらへん」
「だって恋人に助けを求めるんでしょう? 警察なのに」
「いや、恋人ちゃうけど……あのでも、彼女も警察やし。え、なんでつながらへんのっ!?」
「圏外ですよ? ほら」薫は、忍足のスマホの右端を指差した。
「う、うわ……ああああかん、どないしよう。ああ、佐久間さんなんで先にどっか行ってもうたんや」案の定、なにも気づいてなかったらしい。
「やっぱり甘えてるじゃないの。そんなに頼りない姿見せたら、彼女、幻滅しちゃうんじゃない?」
「そんなこと……ないと思いますけど」どこか、拗ねたような表情を見せている。恋人じゃないと否定しておきながら、気持ちに嘘はつけないらしい。「井口さん、怖くないですか?」
「怖くはないけど」怖がっているのは忍足のほうだ。
「手、手でも、握りましょか?」
「だから怖くないって」薫は思わず笑みを見せた。
「ああ、そうでした。すんません」ソワソワと、忍足は目を泳がせている。実に滑稽だった。
「ねえ、怖いの?」薫は大げさに驚いて見せた。
「いやいや、怖くないですよ。せやけどはじめての経験ですからね、こんなん」
吹きだしてしまいそうだ。「手は握りませんよ?」
「じ、自分の握れば大丈夫です……はあ」曰く、両手を組んでいる。非常に頼りない。
「あの女刑事さんがいたら、握ってもらえたのにねえ?」
「おってくれたら、心強かったんですけど……」いよいよ本音を吐露しはじめる始末だ。「そ、そろそろ1分経ったんちゃいます?」
「ううん。まだ」薫はいじわるでわざとらしく腕時計を見た。
「まだか……あ、時間は大丈夫なんですか? 音楽葬のほう。たしか2時開始とか言うてましたやん。間に合うんやろか」開きもしないのに、エレベーターの中心部に指を挟んで開けようとしている。「ここ出たら、すぐ楽屋戻って仕度しはったほうがええかもですね」忍足の姿は、薫にとって実に愉快だった。ハンカチまで取りだして額を拭うほど怖いらしい。「ああ、どうしたんやろう。佐久間さん、気づいてくれへんかなあ。俺がおらんかったらすぐ気づいてくれると思うんやけど」
「ふふ。それも甘えてるわね」
「せやけど、じ、時間がないでしょう?」と、いうことにしておきたいのだろう。ただ一刻も早く出たいだけに決まっている。「あ……そうや、そういえば。聞きましたよ、塩原先生とのこと」

忍足の困惑っぷりを面白がっていた薫だったが、この質問で、急激に心が萎えていった。おそらく怖さをごまかすために、方向転換したのだろう。唐突な話題に呆れそうになったが、こんなときにまで尋問をしてくるとは。
肝が小さくても、それなりに据わっているようだと、薫は一定、感心すら覚えた。

「実際のところ、どうなんですか? かなり長いお付き合いやったそうですけど」
「みんな聞くことは同じ」薫はあからさまにため息をついて見せた。「あたくしたちは、お互いの才能に惹かれ合ってたんです。以上」頷いてから、キッと忍足を見あげた。「ほかはなんにも答えませんよ」
「ふんふん。まあ、それもひとつの愛の形っちゅうやつですからね。ふふ」
薫は自然と笑顔になった。わかってるじゃないの。「ふふ」
「あー……そろそろ、ええんやないですか?」
「なにが?」
「ひ、非常ボタン、押しませんか?」
「ああ」

結局、怖さが勝ったのだろう。忍足がソワソワとパネルに向き直った。薫も同時に向き直る。仕方なく、非常ボタンを押そうとした、直前だった。電気が点灯し、エレベーターが動きだした。

「あっ、点いた。ははっ、ああ、点きましたやん、ああ、よかったわあ」

忍足の安心しきった声に呆れつつ、扉が開いてすぐ、薫は足早にエレベーターをあとにした。





廊下からカツカツとハイヒールの音が聴こえてきて、伊織は即座に振り返った。あの、「あたくし忙しいんです!」と言わんばかりのせっかちな足音は、まず間違いなく井口薫のはずだ。ということは、そこに忍足もいると踏んでいた。

「柴崎さん、井口さんだと思います」
「えっ、ありがとうございます!」

柴崎に鉢合わせたのは数分前だ。伊織の姿を見るやいなや、焦ったように周りをキョロキョロとしはじめた。非常に怪しい挙動だったので、伊織は柴崎に近づいていったが、なぜか逃げていく。怪しさが10倍に膨れあがったところで、ステージに向かおうとしていたはずの柴崎は、急に振り返ってきた。

――あ、あの佐久間さん、井口さん見ませんでしたか?
――いま、なぜ逃げたんですか?
――に!? 逃げてなどいませんよっ。

絶対に逃げていたのだ。伊織に見られては、なにかまずいことがあったのだろうか。しかし犯人は井口薫であり、柴崎ではない。彼が伊織に見つかってまずいことがあるとは思えなかったが、それでも、引っかかりを感じずにはいられなかった。それで、忍足に相談しようと思ったのだが。

「井口さん、どこ行ってらしたんですかっ」

伊織と会話する前は探していたようにも見えなかったが、柴崎は慌てて井口に駆け寄っている。そのうしろには、やはり忍足がいた。さっきはツンケンしてリハーサル室を出ていってしまった伊織だが、実はすぐに後悔していた。女の犯人とは二人きりにすべきじゃないと思っていたのに、仲よさそうな二人を見ていられずに、結果的に二人きりにしてしまった。薫はまったく忍足に気がなさそうだというのに、不覚である。だからこそ、忍足と目を合わせてほっと安心したのだが、それもつかの間の感情であった。

「エレベーターが止まってたのよ!?」薫の発言に、伊織は顎を引いた。なんだと?
「急いで仕度してください。音楽葬がはじまりますんでっ!」エレベーターが止まっていたとは、なかなかの一大事のように思うが、柴崎はその発言を無視して、薫を急かした。「お願いしますよっ」
「お客さんもう、入りはったんですか?」
「い、いまもう開場いたしました、ささっ、井口さんっ」

薫の目つきが変わった。なにも言わずに、楽屋に走り去っていく。その背中を見て、柴崎は深いため息をついていた。
ちょっと待ちなさいよ。と、言いたくなる。エレベーターが止まっていた? 伊織としては当然、無視できない出来事だ。どういうことなのだ、それは。

「忍足さん」
「ん?」
「エレベーター、止まってたんですか?」
「せやねん。佐久間さんに連絡しよかと思ったんやけどな、圏外やってさあ」

柴崎が腕時計を見ながら、くるりと背中を向けて去っていく。学院内のエレベーターが止まったことは、なにも気にならないのだろうか。伊織には大変、気になるのだが。

「エレベーターには誰が?」
「ん? いや、そら俺と井口さんやけど」
「はい? 二人きりですか?」
「そら……やって、二人しか乗ってへんかったし」
「は……そ、まさかそれで、怖がってる井口さんの手とか握ってないですよね!?」
「ああ……いや、それは、断られたんやわ」怖がっとったの俺のほう、と、付け加えた。
「ここ断られた!? ってことは、『怖いよう』って、志願したってことですか!?」
「そ、佐久間さん、軍隊ちゃうねんから、志願て……『怖いよう』とか言うわけないやろ」
「だってそういうことじゃないですか! なんなんですかっ。相手が年上女性だからって、かわいいキャラで攻めちゃって!」
「ちょ、ちょおなに怒ってんの? ちゅうか、なに言うてんの?」
「ま、ま、まったく、不謹慎です忍足さんはっ! いつもいつも!」
「ええっ!? お、俺がエレベーター止めたわけちゃうで!?」ちゅうかいつもってなに? と、目をまんまるにした。
「じゃあ誰が止めたんですか!」

もはや伊織は、自分でもなにを言っているのかわからなくなっていた。嫉妬が収まったころにまた嫉妬させられる。自分でもコントロールが効かない。伊織の大変に不謹慎な欠点のひとつである。

「なに支離滅裂なこと言うてんねん……故障に決まっとるやろお?」
「そんなタイミングよく二人きりになったときにエレベーターが故障とか、おかしいじゃないですかっ」
「おかしい言うたってしょうがないやんかあ……もう、なんやねん」

忍足と言い争っているうちに、ざわざわとした声が聞こえてきた。
ホール内に大勢の人が入場してきたのだろう。伊織は仕方なく口をつぐんだ。音楽葬がはじまるのだ。

「お客さん入ってきとるし、とりあえず、バックステージで井口さんの演奏でも見よか。な?」
「そ、そうですね。すみません、動揺してしまって。移動しましょう」

実際に気持ちの切り替えはうまくいかなかったが、伊織は自分に言い聞かせた。わたしは刑事なのだと。いまさら遅いのだが。

開場から30分後のことだった。柴崎が薫の楽屋に向かっていく姿を見て、いよいよだと、伊織の背筋も伸びていく。刑事らしく、会場をざっと見渡した。当然のように、塩原一郎の家族は最前列で遺影を眺めていた。不倫相手が音楽葬の演奏をすることになってしまった今日、未亡人はなにを思うのだろう。わたしだったら中止にしてほしいと願い出るかもしれない……と、伊織はいたたまれない気持ちになった。

「日本を代表する作曲家であり、ピアニストであった塩原一郎先生が亡くなり、はやひと月。塩原先生の意思を次の世代に伝えることこそが我々、残されたものの使命であり、それを実行することが不肖、私の義務と自負しております」

大木が来場者に挨拶をしている。それなのに、あの金儲け主義のパンフレットをつくっているのだからお笑いだ。忍足に頼まれて薫の前で戯言を吐いたものの、もし本気でピアノを習いたくても、この学院には入学しないだろう。入会金だけでなく、授業料も非常に高額であった。
大木のスピーチが終わるころ、井口薫がバックステージに現れた。黒い下地に色とりどりのリボンがついた大ぶりのドレスを身にまとい、化粧はさっきよりも一段とケバく、そして髪をアップにしている。

「よろしく」

ただでさえ厳格な印象の薫だが、このときばかりはそのオーラがすさまじかった。周りのスタッフたちも、体中から臆病なオーラが出ている。忍足と伊織もつい、あとずさった。邪魔にならないように避けたつもりである。

「それではこれより塩原先生を偲んで、先生の最後の愛弟子ともいうべき、井口薫さんに演奏していただきましょう」

だが忍足が、避けながらもじっと薫を見つめている。伊織も忍足に倣い、薫の背中を見つめた。この演奏会では、なにか起こるような気がするのだ。きっと忍足も同じことを考えているはずだ。要するに、刑事の勘というやつである。

「曲目は、今日のこの日にこそふさわしい先生の代表作『追想のレクイエム』です」

大木がステージ横に手をかかげた。合図を受けて、薫がステージに出ていく。その堂々たる佇まいに、会場がわずかにざわつきはじめていた。やはり、長年の愛人だという噂は音楽葬に呼ばれている人々にとって、周知の事実なのだろう。
しかし薫は、そのざわめきをものともせず、スポットライトを浴びながら塩原一郎の遺影に向かっていった。一礼し、そして会場を大きく見渡すように振り返った。

「ものすごい貫禄ですね」
「せやな……」

薫が座席に座り、演奏をはじめた。高く、軽やかで美しい旋律が会場中に響きわたった直後のことだった。
会場の空気が一変した。

「どういうことだ……」すでにバックステージに下がってきていた大木が、驚き、つぶやいている。
「なにか?」忍足が声を沈めて、大木に聞いた。が、大木は唖然としていた。
「もしかしてじゃけど、曲が違うんじゃないか?」

答えたのは、いつのまにかそこにいた仁王だった。伊織は、ハッとした。言われてみれば、レクイエムとはつまり、死者のためのミサなどで用いられる音楽の一種だ。しかしこれは、完全に幸せハッピー感が強い長調である。長調なレクイエムもあるかもしれないが、それにしてはリズミカルすぎる。音楽に興味がないと言っていたわりに、仁王にはそのことが本能的にわかったのかもしれない。

「そのとおりだ。あれはレクイエムじゃない」そして、大木の発言で確定となった。
「ふうん……」

忍足が眉間に手を当てている。刑事の勘が当たったのだ。





演奏が大変長いものだったせいだろう。忍足が仁王と伊織の袖口を引っ張ってきたので、三人は廊下に出ていた。今泉はなにをしているのかさっぱりだが、とくに仕事らしいことをしていないとわかっているので、呼び寄せる気にもならない。

「なんで違う曲を弾きはったんやろか?」
「さっぱり、わかりませんね」伊織は頭を抱えた。
「長年の愛人だけが知る、塩原先生の遺言じゃったとか、かのう?」仁王の推測は一理ありそうだ。
「はあ、それは奥さまが気の毒です」ありそうだが、共感はできない伊織である。
「せやけど、それやったら最初から、これ演奏するって言うとったらよかったやん?」
「んん、じゃのう」

頭の切れる二人の刑事をもってしても、薫が違う曲を弾いた理由がわからない。しかしなにかあるはずなのだ。それが事件と直接関係があるかどうかは、不明だが……どんなことも、手がかりではある。
はあ、と同時に三人がため息をついたときだった。

「だからあんなに言っといたのに!」

薫の大きな声が廊下中に響きわたっている。伊織はぎょっとして、声のするほうを見た。
大きなドレスの両端を持って、肩を怒りに怒らせた薫がどしどしと音を立てて歩いていた。

「日高さんっ!」
「は、はいっ」
「本番前に調律しておくように、あたくしちゃんと言っといたんですけど!」
「ええ、あの」
「伝わってなかったみたいね!」
「い、井口さん」必死に追いかけている柴崎が、遠慮がちに声をかけようとしている……が、
「あのままレクイエムを弾いてたら、あたしくどうなってたと思うの!?」
「井口さんっ」
「いいわけはいりません!」
「ああああの、なに、なにがどうなっとるんですか?」

喚き散らしている薫に向かって、忍足が声をかける。なんという勇気だろうか。となりに立っている仁王なんか、背中を向けているというのに。

「この人たちに聞いてくださいっ」
「ど、なにを聞いたらええんか……」
「やっぱり弦が切れてたのよ! 最低音の『D』が!」

伊織は目を見開いた。そういえば……最初に現場に到着したとき、たしかに弦が切れていた。忍足が『函館の女』を弾いて発覚した、アレだ。

「そういう事情なので、急遽『D』を使わない曲に変更させてもらったんです」
「そういうことだったんですか……」

伊織は思わず声を漏らしていた。急遽『D』を使わない曲がすぐ頭に浮かぶとは、さすが世界的なピアニスト、井口薫だ。それも、あんなに長い演奏を。伊織は心の底から尊敬していた。怖い女性だが素晴らしい。そのままファンになりそうだったが、しかし、その思いはすぐに消えた。

「あたくしを陥れようとしてたの?」薫がゆっくりとスタッフたちに振り返り、ものすごい剣幕を見せたからだ。「どういうつもり? ねえ?」
「いや、井口さんっ」

柴崎が困惑している。しかし無理もない。これは、柴崎が悪い。というか日高だろうか。いや、調律の伝言を伝えなかった橋本か。伊織は頭のなかで登場人物を思い浮かべた。

「信じられない……!」

ぐいっと背中を向け、薫はまたどすどすと去っていった。柴崎が首をかしげている。いやいや、悪いのそっちじゃないですか。なんのことだか、じゃないんですよ。と、伊織は心のなかでツッコんだ。

「レクイエム、弾きたかったでしょうね、井口さん」

伊織はそっと忍足に話しかけた。が、忍足が沈黙したまま、ただぼうっと床を見つめている。薫に感情移入しすぎて、心を痛めているのだろうか。

「仁王さん、井口さん行きましたよ」
「はあ、そりゃよかった」と、背中を向けていた仁王が振り返る。どうも、今泉だけでなく、仁王も井口が全然苦手らしい。
「忍足さん?」
「ん……ちょっと、お客さんはけたら、会場に一緒に戻ろか、佐久間さん」
「へ?」
「気になるんや……」

伊織にとって、忍足の言うことは絶対である。不可解だとは思いつつも、伊織はお客がはけるのを待って、忍足に声をかけた。
誰もいなくなったホールには、まだ塩原一郎の遺影が飾られていた。会場に入った忍足が、7列目に着席する。設置されたままのグランドピアノを見て静かに両手を組み、二本の人差し指を立てて、鼻先に当てていた。どうやら、なにか考えこんでいるようだ。

「忍足さん、気になることって?」
「ん……」

一緒に連れてきたわりに、言葉にはしてくれない。おそらく、忍足のなかでも考えがまとまってないのだろう。

「佐久間さんトロンボーンやっとったんやんね?」
「ええ」活動はしていないが、いまでもたまにやる。「それがなにか?」
「故障したらすぐわかる?」
「えっと……吹いてみてから気づくことがあります。ほらトロンボーンって、スライドさせるじゃないですか。あそこがバカになることがあるんですよ」
「あの部分、前の人に当たったりしたら痛そうやよねえ」
「あはは。そうですね。スライドはちょっとした凶器……」

と、伊織が冗談を言おうとしたときだった。忍足の目が突然にカッと見開いて、ある一点を凝視していた。伊織はその様子にのけぞった。なんという顔をしているのだ。
そして、忍足がそのまま立ちあがる。いつも穏やかに歩いている忍足とは思えないスピードで、彼はステージまで軽いダッシュで近づき、さらにグランドピアノの脚に向かって背中を折り曲げていた。

「お、忍足さん?」なにをそんなに見ているのだ。
「佐久間さん」
「は、はい」
「俺、目、ええんや」
「え?」
「両目2.0やねん」
「は、はあ……」
「お手柄や」
「へ?」

ふわっと、忍足の大きな手が伊織の頭に落ちてくる。静かに微笑む忍足に見つめられ、おまけに頭をなでられている。それだけで、伊織の頭のなかからは、エレベーター事件のことなど吹きとんでしまった。

「わ、わたしですか?」
「せやあ。やっぱり、佐久間さんはええこやね。ほなちょっと、柴崎さん呼んできてもらえる? そのあとで、井口さんも呼んできて」
「は、はい……」
「急いで」
「え」
「はよ行って」
「は、はいっ!」





んん……井口薫は川合健を殺害しました。方法はスタンガンによるショック死。証拠はありません、残念やけど。せやけど……彼女はひとつ、ボロをだしました。彼を殺したのが自分であると、知らず知らずのうちに告白しとったんです。
考えてみてください。解決編は、スクロールのあとに……忍足侑士でした。






忍足さんがホールでお待ちです、と伊織に言われ、薫は裏口からステージにあがってきた。観客席から、パチパチと小さな拍手が聞こえる。見ると、ちょうど中心部に忍足がいた。誰もいない観客席に、ひとり座って待っていたようだ。

「お疲れさまでした」
「どうも」
「素晴らしい演奏でした。んん、せやけどやっぱり、『追想のレクイエム』が聴きたかったなあ……」忍足がしょんぼりと薫を見あげている。「話によると名曲やそうで。塩原先生の代表作」
「いい曲です」薫は笑顔を見せた。こんなふうに、ステージから観客席に向かって誰かと話すことはなかなかない。
「今度CD買って、聴いてみます」
「ぜひ」
「あれはなんちゅう曲なんです? さっき弾きはったやつは?」

なぜそんなことが気になるのか。わざわざ人を呼びだしておいてする質問としては、あまりに軽い世間話だ。

「……『北京の冬』」
「はあ、『北京の冬』。音楽葬にしては、なんやちょっと明るい曲やったですね」
「全然ふさわしくないでしょう?」薫もそれには同調した。そんなことはわかっている。忍足が笑ったので、薫はそのままつづけた。「ここは北京でもないし、いまは冬でもないし。でも最低音の『D』を使わない曲、ほかには思いつかなかったんです」

そう、ほかにはなかったのだ。
薫の言葉を聞きながら、忍足が大きく頷いている。素人にこの難しさが理解できるだろうか。

「とっさにひらめきはったんですか?」
「ええ」
「んん、さすがプロやわあ。普通やったら舞いあがってもうて、頭真っ白になるとこやけど。俺もよう中学のころ、テニスの試合で……あ、まあそれはええか。ふふふ」話がそれたのだろう。クツクツと笑いながら、つづけた。「いつ見つけたんですか? 弦が切れてんの」
「ステージに立ったときです」
「見えたんですか?」
「ええ」
「なかが?」
「ええ」
「ホンマに?」
「ええ」
「そこから?」
「ええ」
「んんん……」

ポンポンと会話が流れていくなかで、ついに忍足がうなった。納得がいってないらしい。それでも、最低音の『D』は切れていたのだ。薫にはその確信がある。たしかに見たのだから。

「ようわかりましたね? どの弦が切れてんのか」
素人ならではの意見だ。「2歳のころから弾いてるんですよ」

薫がそう言うと、忍足は苦笑したように自身の頭をなではじめた。薫は余裕を見せたかったが、そろそろ忍足の相手にも疲れてきていた。この男は最初からずっと、遠回しに自分をつけまわしている。

「なにが言いたいのかしら」もう、はっきりと告げるべきだろう。「まわりくどい話はそろそろやめにしたら?」

薫の言葉を聞いた瞬間、忍足の動きはピタリと止まった。じっと薫を見つめ、わずかに口角をあげ、ゆっくりと座席から立ちあがっている。

「ホンマはもっと前から、知っとったんやないんですか?」
「いいえ」いきなり核心をついてきた忍足に、薫は微塵も動揺を見せなかった。証拠はないのだ。どれだけ疑っていようが、この男に勝ち目はない。「どうしてそう思うんですか?」

忍足が人差し指をかかげて、ふっと微笑む。確実に探りをいれた上目遣いだった。

「あなた、ずっと調律のこと気にされてましたね」ステージに向かいながら、忍足がつづけた。「まあ調律をすれば弦が切れとるのはわかる。低音部の弦は切れたら直しようがない」これまでの忍足とは雲泥の差の早口だった。「当然、自分のところに言いに来るはずやのにそれがない」薫は驚いていた。こんなに早くしゃべれるのか、この男は。「だから……焦ってはったんやないんですか?」

いつものスピードに戻ったのと同時に、忍足はちょうど、ステージにあがってきていた。薫を射抜いてくる目が強い。これが忍足の本気というわけだ。エレベーターで怯えていたあの坊やは、まやかしか。薫は背筋を伸ばした。

「さあ?」
「ふふふ。あなた、リハーサル室でなんか調べもんしてはったでしょう?」薫は忍足から目をそらし、遠くを見つめた。鋭い。しかしそれに至っても、証拠はない。「んん、楽譜のファイルをいろいろ」答える必要はないはずだ。「低音部の『D』を使わんでも弾ける曲を探しとったんやないですか?」そのとおりだった。心臓が跳ねたが、それでも薫はそっぽを向いたまま沈黙を守った。「せやけど大胆な人やわあ。俺が目の前におるのに平然と楽譜とめくってはった」仕方ないだろう、時間がなかったのだ。それに、あなた音楽は素人でしょ、忍足さん。「感服します」

薫は笑顔で忍足に振り返った。もうこれ以上付き合う必要はないだろう。言いがかりだと跳ね除けてしまえば、すぐに終わる。

「ありがとう。もういいかしら帰って」

しかし、忍足が薫を見つめたまま首を振った。帰さない、という意味だろう。いくら警察とはいえ、そんな権限がこの男にあるはずがない。ため息でもついて背中を向ければ終わる。確認を取らなくてもよかったのに。

「あなた……嘘ついとる」

だがその瞬間、薫は硬直した。

「弦が切れたのを知ったのは演奏の前やない」
「いいえ?」薫は忍足の迫力から、もう一度、目を背けた。そんなこと、絶対に証明できるはずがない。
「不可能や」やけに断言するじゃないか。
「どうしてそんなことが言えるのかしら」
「見てわかるはずがない」
「そんなこと言われても困ります。あたくしにはわかったんです」
「んん……ふふ。どう考えてもおかしいんやけどなあ」
「なぜ?」

食いさがる忍足に、薫は呆れそうになっていた。そんな素人考えで逮捕に踏み切ろうとしているのか。この程度なら、やはり言いがかり、証拠なしでなんとでもなりそうだ。

「最低音の『D』っちゅうのは……」と、気づけば忍足がピアノの前に立っていた。「このキーですね」

薫も見える位置まで近づいた。忍足が、左から4番目の白鍵に指を乗せている。素人なのに、それがわかるのか。

「ええ」
「間違いないですね?」ああ、そういえば『函館の女』のメロディも「D」からはじまる。
「ええ」
「この弦が切れとったんですね?」あれしか弾けないから、いろんな「D」から弾いていて、わかったのだろう。
「そうです」

しつこい男だ。忍足の目を見て呆れながら頷くと、忍足がじっと薫を見て、鍵盤を押した。
刹那、薫は耳を疑った。

音が、出たのだ。それは間違いなく、「D」の音だった。

ポン、ポン、と忍足が鍵盤を押すたびに、最低音の「D」がホール中に響きわたった。忍足が、わからせるように何度も押している。やがてそのリズムは、三三七拍子となっていた。

「ご一緒に?」ふざけているのか。
「待って」ふざけているんだろう、三三七拍子に関しては。だが薫の驚愕は、忍足にたいする怒りを上回った。「どういうこと?」
「……弦は、切れてなんかないんです」忍足が途端に真剣な表情になる。「この音も、この音も、この音も」E、F、G、と押した忍足が、端から端までのグリッサンドを披露する。「みんな出ます」

グリッサンドの余韻がホールに響いている。つまり、すべての白鍵の弦が切れていないことが、証明されたのだ。薫の耳にも、それは絶対だった。

「だけど……」切れていた。確実に。それだけは、はっきりとこの目で見たのだ。
「あなたのおっしゃるとおり、低音部の弦は一度切れたら、そう簡単には直りません。せやから……ピアノごと取り換えたんです、スタッフのみなさんが」

薫の呆然となっていた頭のなかに、困惑が走っていく。忍足を見ながらも、瞳は揺れていた。ピアノごと、取り換えた……?

「これ……リハーサル室にあったピアノなんです」
「……」なにを言っているのか。そんな大移動をしていたら、気づくはずだ。
「ふふ。俺ね、さっきひとつ見つけたんです」忍足がグランドピアノの右脚にしゃがみこんだ。その車輪に手を当てて、なにかを取った。「……車輪にくっついとったんです」
「……」なんだ、そのシールは。
「ほら。魚肉ソーセージのシールです。俺が佐久間さんに注意した。アレです。それでわかったんです」

薫は大きく息を吸いこんだ。
あのリハーサル室で、忍足と伊織は、たしかにどうでもいい会話をしていた。ゴミはゴミ箱だとか、悪い子だとか言って、イチャついていた。

「んん、ふふ。スタッフのみなさん、総出でピアノ運びはったみたいですよ。ほら、スタッフルームに電話しても誰もおらんときあったやないですか」忍足は、手についたシールを、手をぶんぶんと振って下に落としていた。しかし薫には、伊織を注意していた忍足の矛盾すらよく見えなかった。「弦が切れとるやなんてあなたに知れると、またなに言われるかわかりませんからねえ。極秘に進めはったみたいです。エレベーターまで止めて。ピアノを運んどるところ、見つかったらまずいですからね」

あれは……スタッフたちの手で、故意に止められていたということか。

「それで……」薫は声を低くしてつぶやいた。それしか、言葉が出てこない。
「んん。とにかく相当に恐れてます、あなたのこと」自覚はしている。みんな、井口薫を怖がっている。「せやから……あなたが、弦が切れとるのを見つけたんは、演奏する前やありません」

薫は、唇が震えだしていた。

「ちなみに、弦の切れたピアノはここにあります」忍足がバックステージのカーテンをめくっていた。そこに、もう一台のグランドピアノが見える。「あなたが知ったのは、もっとずっと前や。昨日の夜です。あなた今日、ここに来てから本番まで、一度もステージに上がってへん」

目の前が歪んでいく。すべて、忍足にはもう、わかっているのだ。だんだんと近づいてくる忍足の顔が、薫を憐れんでいる。

「あなたが弦のことを知ったのは……川合さんを殺したときです」

薫はじっと、客席を見つめた。いつものように、余裕の笑顔など出てこない。

「このことをどうしても言いたかったんです」だから忍足は、わざわざこのステージに呼んだのだと、薫はようやく気づいた。「あなたはどうしても、川合さんやいまの理事会のやりかたについていけへんかった。純粋に音楽に一生を捧げた塩原先生の遺志を、あなたは守りたかった」

そのとおりだ。薫にとって、あんな金儲け主義など、塩原一郎の名に泥を塗るような行為、冒涜以外のなにものでもない。

「お気持ちはようわかります。せやけど……殺しはあかん」

正論だ。薫は、すべてをあきらめた。だが、忍足にはどうしても聞いておきたいことがある。

「忍足さん?」
「はい」
「最初っからあたくしのこと疑ってましたよね?」
「……はい」
「どうして?」

この男にさえ、疑わなければ……そんなお門違いな願いは、滑稽だろうか。

「旅行カバンが軽すぎやったからです」

薫は、心のうちで驚いていた。応接間に忍足が来たときだ。と、思い返す。

――忍足さんっ。
――す、すんません。
――あ、それすみっこ置いといてください、すみません。

「あなたハナから、旅行なんか行くつもりなかったんです。スマホに電話がかかってくるん、知っとったんや。嘘でももうちょっと詰めこむべきやったですね」

出会った瞬間には、もう忍足のなかで、井口薫は犯人だったというわけだ。
……なんという男だろう。薫が塩原の愛人だったからではない。薫が川合らを憎んでいたからでもない。薫を疑うのに、忍足には十分な理由があったのだ。
それにしても……あのキャリーケースにつまいづいただけで、わかったというのか。あまりの天才っぷりに、笑う気にもなれない。

「んん、俺にもひとつ、わからんことが」
「……どうぞ」もう、なにを聞かれても、隠す必要がない。どうやら、天才にもわからないことがあるらしい。
「あなた、殺そうと思えば川合さん、どこでも殺せたはずです。たとえば、夜道を歩いとるところを、うしろから襲うこともできたわけやし。なんでわざわざ、危険を冒してまでここを選びはったんですか?」

そんなことか、と、薫の気がゆるんでいく。お気持ちはわかりますと言っておきながら、忍足はまだわかってないらしい。そう、いくら天才でも、彼は若い。そういうところだけ、まだ子どもなのね……。

「それはだって……ほかの場所じゃ、発見が遅れることがあるでしょう? ここなら、遅くたって朝には必ず見つかります」頬に涙が伝っていった。「早く見つけてくれないと、あたくし飛行機に乗ってしまいますから」

せいせいしているのに、瞳の揺れが収まらない。薫は、心の奥に残ったしこりを味わっていた。
忍足が切ない笑顔で頷いている。

「どうしても音楽葬で、演奏したかったんですね……」
「当然でしょう。塩原一郎の音楽葬ですよ」かしこい忍足には、もう理解できただろう。「あたくしのほかに誰が弾くっていうんですか」

まだ、唇が震えている。

「そう……切れてなかったの」

でもそれは、捕まる恐怖ではない。

「だったら、レクイエムを弾けばよかった」

胸の奥から湧きあがってきた、怒涛の悔しさだ。
忍足の、息をのむ音が聞こえてくる。グランドピアノから顔を覗かせて、彼はゆっくりと腰を曲げた。

「あの、お願いしてもええですか……聴かせてもらえませんか。井口さんのレクイエム」

薫は驚いて、忍足の顔を見た。

「ここで?」
「はい」

張りのある、生徒のような声だった。忍足が同情していることは、薫にもすぐにわかった。だからこそ、薫は笑った。おそらく、この男は優しい。だが優しさの方向を、はき違えている。

「だいそれたこと言うのね……あなた」

忍足は首をかしげて、照れたように笑った。意味がわかってないらしい。それもまた、若い証拠だと薫は感じた。
坊や……もう少し女心を、勉強したほうがいいみたい。

「わきまえなさい」
「……はい」

納得したように頷いた忍足の返事が、合図となった。
ドレスの裾をつかんでステージを去りながら、薫は頭のなかで『追想のレクイエム』を奏でていた。





fin.



[book top]
[levelac]




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