キャンディ_01


1.


そもそも、こんなところに引っ越したことが間違いだったのかもしれない。
駅から徒歩6分、帰宅までの道のりはパステル・カラーで賑わっているし、だけど路地に入れば静かで、マンション付近は穏やかでいいじゃん、と思っていた。
東京中心地までもそう遠くない。前のアパートは東京といえど中心地までは末端も末端、古い掃除機のやたら長いコードの先にある電源プラグ状態だった。
漫画家を夢見て20年。今年30歳になるというのに、いまだ、きちんと叶えられてはいない。だけどこの2年で、わたしは売れた。売れたと言っていいと思う。なんせ、絵だけでそこそこ稼げているのだから。
それまでは小さな広告チラシの隅っこにあるふんわり背景だとか、よくわからない団体のウェブサイトのメンバーの似顔絵だとか、すぐにサービス終了になったソシャゲに出てくる魔物だとか、いろいろ描いてきたけれど……一時的な収入は得られてもまったく安定しない日々だった。
ところが2年前、奇跡が起きた。
とあるテレビ番組のコンペで、わたしの絵が採用されたのだ。最後のテロップに「佐久間伊織」の名前が流れたときは、(前もって宣伝しておいたおかげで)親戚や友人からたくさんメッセージが送られてきて、歓喜した。しかもその番組が、お茶の間に受け入れられた。半年が過ぎたころには深夜枠から移動してゴールデンタイムで放送されるようになり、おかげで毎週、仕事が入ってくる。それだけじゃない、ほかの仕事もたくさん舞い込んでくるようになっていた。おまけに、テレビ局の仕事はお金がいい。番組が売れたことで、わたしの絵の相場も前より高くなってきている。
要するに、浮かれちゃっていた。通帳にお金が貯まっていく喜びを感じて、ちょっと業界人っぽくない? とか調子に乗って、これから都心でお仕事することが増えるかもしれないし! なんて気取って、まんまと都心……じゃなくて、副都心に引っ越してきた。
そしていま、こじんまりとしたマンションの前で固まっている。

「また、やっちゃった……」

どうしよう、と、グレーの外壁を見あげてひとりごちていた。
3ヶ月前から入居しているマンション『コクーンレジデンス』は、エントランスだけがオートロックだ。各自宅は別で、普通に鍵を挿し込んで開けるタイプ。なのに、エントランスは部屋の鍵を持っていないと開けられない。つまり、鍵を忘れた。部屋のなかに。

「はあ……やばいよ、寒いし」

外は雨が降っていた。もう春だというのに肌寒い。日中よりも気温がぐんと下がっている。当然だ。最後に時計を確認したときは午前1時だった。しかもそこから30分は過ぎているように思う。
なんでそんな時間に部屋に鍵もかけずに外出したの? ですよね。それは明日が火曜日だから。わたしは夜型人間だ。ゴミ回収の時間には起きられないのです。つまり深夜のうちにゴミ捨てを行うのです。倫理的に問題視する人もいるかもしれないけど、うちのゴミ捨て場は暗証番号つきの倉庫みたいなところに入れるので問題ない(はず)。
だから、携帯電話も携帯していなかった。ついでに部屋着というより寝間着だ。そして極めつけは、この失態が2回目だということ。
辺りを見渡しても、もちろん誰もいない。前にも同じことをしたことがあるけど、やっぱり無駄な行動だった。また、あの彼にお願いしようか……いやいや、さすがに2回目は……。

「えっと……302、203、101……で、105」

まだカーテンから明かりがもれている部屋番号を確認していく。わたしの部屋は205号室だ。マンションの構造上、105はエントランスの真横に窓があって、いちばんよく目立つ。だからこそ前回は、本当に恐縮しながら105のチャイムを押した。配達の人が荷物を届けるのと同じ手段を使ったのだ。

――はい?

あのときも深夜2時くらいだったと思う。明かりがついていたのは自分の部屋を除くと305と201と、105だけだった。302も無視、201も無視だった。わかりきっていた。チャイムが鳴るにはとんでもない時間だもの。これで105もダメだったら、信じられないくらい恥ずかしい格好だけれど、どこかにあるだろう警察署に向かってなんとかしてもらうしかない、とまで落胆したとき、105号室の住人は、応答してくれた。

――あ、すみません、あのわたし、205の佐久間です。

インターホン越しに顔を見られるのが嫌で、うむついて、髪の毛で顔を隠すようにしながら早口でつづけた。

――このあいだ引っ越してきたばかりで、あの、鍵をですね!
――ああ、はい。

エントランスから、ガチャーン……という解錠の音がした。

――ありがとうございます! ありがとうございます!

すでに相手は切っていたかもしれないけど、深々と頭をさげた。
涙が出るほど嬉しかったから。思わず105の部屋のチャイムをしてお礼を言いたくなったけれど、もちろん逸る思いを落ち着けて、翌日に大手通販サイトのギフトチケットを500円ぶん購入し、綺麗な封筒に入れ直し、便箋に感謝の気持ちを述べてポストに入れておいた。
それが、3ヶ月前。さすがにまた105の人にお世話になるわけにはいかないよね……と逡巡する。
これも前にやったけど、部屋番号を押してピンポンを鳴らすまでにも、かなりの時間を要する。申し訳なさいっぱいで死にたい、だけどもこのままだと自分が死ぬ、と、大げさに考えても状況は変わらないのに、指先が震えるほど勇気が出ないものなんです。
深呼吸をくり返した。まずは302から呼び出してみることにする、と、決意した。105以外ならはじめてのおっちょこちょい女だ、許してもらえるかもしれない。しかし、302だけではなく、202も、101も、完全に無視だった。世知辛い。

「起きてるくせに……うう」

恨み節がもれでてしまう。いや悪いのはわたしなのだけど。そりゃあ、深夜に急にチャイムが鳴ったら驚くだろう。広めだとはいえ、どの部屋もひとり暮らしだろうし、ここは都会だ。純粋に怖いのかもしれない。
仕方なく、もう一度、決意する。前回よりもより恐縮しながら、わたしは結局、105に向けてチャイムを鳴らした。

「はい?」

あたりまえだけど、3ヶ月前と同じ声だった。

「あ、あのすみません、205の佐久間ですけど、また」

ガチャン! と切られた。切られたと、はっきりわかる音だった。同時に、エントランスが解錠される音もした。助かった……と、思ったのは数秒だった。
理不尽なことに、わたしのなかに怒りがふつふつと湧いてきていたのだ。





「あんな態度で切ることないじゃん?」
「まあ、そうですけど……いやでも、それ佐久間さんが悪いじゃないですか」

そんなことはわかっているんです。
翌日になって、わたしは来訪してきていた編集者に愚痴りまくっていた。

「わたしが悪いよ? だけど、そんな2日連続とかじゃないわけだし、前回は3ヶ月前だしさ、いや、わたしが悪いよ? でも、なんかこう、もっとあるじゃん? 冷たすぎない?」
「ですけど、深夜1時半とかだったんでしょ? 寝るとこだったのかも」

編集者の吉井さんはわたしよりも5つ年上のお姉さんだ。テレビ番組でイラストを見て声をかけてきてくれた業界の人は彼女だけだった。

「わたしだったら、『ああ、やっちゃいますよねー』とか言って、ボタン押してあげるけどなあ」
「まあ、あたしでもそうすると思いますけど」
「でしょ!? 冷血人間なんだきっと!」急に、また怒りがわいてくる。
「冷血人間なら開けてもらえませんよ」
「とにかく嫌な感じだよ! だってさあ、前のときはお礼でギフトチケット500円をポストに入れておいたんだよ? ちゃーんと、お手紙も書いて!」
「何度も聞きましたって……」
「その手紙だって、シンプルに3行くらいで、でも気持ちを込めたの。それにさ、いいじゃん、解錠ボタン押して500円もらえるんならさ、気前よくやってよ!」
「開けてもらった感謝はないんですか……」
「感謝してるよ! でももっと、あるじゃん! あんな態度ないよっ」
「どっちもどっちだと思いますけど……」

そもそも佐久間さんが悪いし……と、吉井さんはぼそぼそと付け加えていた。
わかってます、わたしが悪いんです。でも怒りが湧いてくるんだもん。これが105にとってどれだけ理不尽な怒りかも承知しているけど、「優しい人だな、なんか声もよかったし、きっと素敵なお兄さんなのね」とか勝手に期待してた乙女心が傷ついちゃったんだもん!

「で、今回もギフトチケット、投函したんですか?」
「もちろん! 感謝を込めてね!」

はいはい、と言いながら、ラフを見終わった吉井さんは赤ペンびっしりの用紙を戻してきた。怒りが急転換して落胆に変わっていく。

「題材は悪くないと思いますけど、ノリだけで書いてません? 当時も言いましたよね。取材が大事だって」
「だって時間が取れなかったから……番組のやつ増えてきて、ちょっと忙し」
「それと、こういうグルメ系はもう出尽くしてます」いいわけは無視された。「佐久間さん料理好きだからグルメでもいいですけど、レシピグルメ漫画より、ちょっと違うベクトルでやりましょうよ。じゃないと連載会議、通らないですよ。それじゃなくても佐久間さん、うちでは『いわくつき』なんですから」
「む……」

漫画家を夢見ていたわたしには、一度だけチャンスがあった。大人向け漫画雑誌で賞を獲ったのだ。といっても、佳作だったのだけど。その作品に目をつけてくれたのが、吉井さんだった。
違う路線でなにか1本描いてみないかと言われチャレンジしたのが、不妊を題材にした社会派漫画だった。しかし、その1作目が掲載された途端、出版社に大量のクレームが届いたのである。

――不妊で悩んでいる女性をなんだと思っているんですか!

ほとんどが、そのような内容だった。『不妊』という重たいテーマを読みやすくするために、軽めに、なんなら少しコミカルに描いたことで、同じ悩みを抱えた人たちの琴線に触れてしまったのだ。
おまけに掲載当時、わたしは20歳。世間知らずの若い女が作者と知った読者たちの怒りはふくらみ、連載は中止。わたしは漫画業界から見放された。
近年で流行りはじめたコミックエッセイなら、作者の体験談なのでそうしたクレームもなかったんだろう。本当に浅はかだった……これに関しては反省しかない。

「そうそう、グルメといえばこのあいだ、うちの編集部の子が北海道に行ったそうですよ」
「わあ、いいなあ。美味しいものたくさんの街ですもんねっ」
「ええ、厚岸、だったかな。牡蠣が美味しかったって……ん?」

苦い思い出の落胆を隠すために適当に相槌を打っていたところで、吉井さんがなにかに気づいたように声をあげた。
見ると、窓の外を見ながら目をこらしていた。ゾッとする。ひょっとして、と思ったときには、すでに吉井さんはつぶやきはじめていた。

「また、だ。またいますよ、あの子」
「ええー……マジですか?」
「ええ……ほら」

窓の外、道路脇にある駐車場から、小さな女の子がマンションを見あげていた。ここのところ、よく見る光景だった。見たところ小学生なのだけど、平日の日中なのにランドセルも背負っていない。ただ、とにかくこのマンションを見あげているのだ。

「佐久間さん、見るの何回目?」
「えーと……今日で3回目かな。なにしてるんだろ」
「憧れでもあるんですかね、このマンションに」佐久間さん越してくる前からなのかしら? と、首をかしげた。
「いや、あれ幽霊なんじゃないかって思ってたんだよわたし。でも吉井さんにも見えるんだもんね」
「あたしも佐久間さんも幽霊が見える体質になったのかもしれないですよ?」
「やだあー、え、じゃあ幽霊漫画にしちゃおっかな」
「実体験? でも女の子がただ立ってるだけしか体験してないじゃないですか」
「そこからはもう、創作で。実はいろんな場所にマンションを見あげる女の子が出没してる、とか?」
「同じ時間に? たしかにちょっと不気味」
「ですよね? 東京、横浜、名古屋、神戸、みたいに」
「あはは。ご当地の幽霊みたいじゃないですか」

ふざけた軽口を叩いているうちに、ピン、ときた。
無難なグルメ系を描こうとしている知恵のないわたしだけど、いいことを思いついてしまった……気がした。

「それだ、吉井さん」
「それって?」
「実体験かつ、ご当地グルメ。というか特産物。全国津々浦々、1話にひとつだけ絞って描いちゃう」
「……え、それは、たとえば」
「厚岸の牡蠣です」





封筒ごと、むきだしだった。
その封筒に、赤ペンで『ご迷惑をおかけしました!』とある。書き殴られたような字面から、感情があふれだしていた。

「そりゃわざわざご丁寧にどうも」

ぼやきながら開封すると、これまたむきだしだった。前回はわざわざ絵柄のついた便箋に、『昨夜は大変ご迷惑をおかけしました。ほんの気持ちです。本当にありがとうございました』とか丁寧に書かれちょったっちゅうのに、よほど昨日の俺の対応が気に入らんかったんじゃろう。
とはいえ、悪いとも思わん。どう考えても悪いのは205の女だ。仕事でクタクタになって帰って、さあ寝るぞとベッドに入って30分、ようやくうとうとしてきたところにチャイムを鳴らしよってからに。前回もそうだったが、深夜にインターホンを鳴らしておいてまともに顔も見せずに、ふにゃふにゃ謝ればいいと思っている。だいたいそんなに忘れっぽいならなにか忘れん工夫ができんのか。こっちは仕事柄、体力勝負じゃし健康が基本。人の睡眠を妨げておいて何様だ。
ちゅうても、俺も不注意だった。リビングの電気、消し忘れちょったとはのう。ここに住んで1年になるが、エントランスの真横に俺の部屋があるせいか、鍵忘れのアホどもが何度か夜中にチャイムを鳴らす。こういう不快は慣れやせん。まあそれでも、こうしてなにか礼をしてくるのは205だけだな。
とはいえ、前回は500円だったチケットが1000円に値上がりしているところに、妙なプライドを感じた。「よっぽどご迷惑だったんでしょうね!」と、嫌味やら憤慨やらの意図が読み取れる。
ま、別にどうだっていい。こっちはなんとも思っちょらん。逆にラッキーなくらいだ。
風呂からあがって、パソコンの電源を入れた。仕事で使う資料をまとめたあと、大手通販サイトを開いた。ちょうどいい。連休の旅行用に手袋を買おうと思っていた。あっちはおそらくまだ寒いはずだ。
電話がかかってきたのは、購入ボタンを押した直後のことだった。液晶画面を見て、うんざりする。しばらく無視もしてみたが、切れそうにない。まったく、なんでこんなことになったんか。

「もしもし」
「あたし納得できてないから」
「はあ……そう言われてもの」

女に別れを告げると、いつもこうだ。「なんで?」「突然すぎる!」「意味がわからない!」と、わめき散らされる。それでも彼女はいいほうだった。部屋に押しかけてはこんし、いまのところ今回の電話だけ。数日は静かにしちょったのに、いよいよ我慢できんようになったか。

「あのときも言ったけど、なにが理由かくらい、教えてくれてもいいでしょ?」
「それ、聞いてどうするんよ」
「次の恋の参考にしたいから」
「って言われても、なにがダメとか、そういうのとは違うからのう」

単純に、そこまで熱を入れあげたわけでもなく、穏やかなもんだったのが、冷めていった……それだけだ。最初から、そういう関係じゃなかったはずなんだが。なんで女は急に面倒になるんかのう。

――仁王くんがそうさせているんです。

柳生の言葉がよみがえってきた。さしづめ俺は、メンヘラ製造機っちゅうわけか。

「じゃあ別れる必要ないじゃん」これだ。
「どうしても聞きたいんか」
「どうしても聞きたい」

なにを言っても傷つくくせに、理由を言わせようとする。本音を言えば「本気になりきれなかった」か? 俺にとってはディーティングのつもりじゃったんやけど。

――そういうはっちゃけスタイルは日本では合いません。海外ならわかりますが。
――じゃからちゃんと付き合っちょるじゃろ。
――ええ、相手を本気にさせるだけさせてね。

正直、付き合う前にいろいろ知ったほうが合理的だ。が、日本ではディーティング期間なんて風習はないから、一応きちんと付き合ってはいる。それでも、この元カノとも数える程度しか寝てないっちゅうのに、なんですぐ本気になるんだ。

「ほかに好きな女ができた」
「え……」
「すまんの」

あきらめさせるための嘘で言い逃げて、電話を切った。二股をかけるほど器用でもないぶん、本気じゃないと自分で気づけば、俺はいつも唐突に別れを告げている。本気になれるかどうかは、しっかり相手と向き合ってみんことにはわからん。大人になれば向き合っていくうちに深い関係になる。そうなると、ようやく相手もいろいろとさらけだす。そこからやっと相手の本当の姿を知ることができる。そんなの、男も女も変わらんはずなんじゃけどのう。
チャイムが鳴った。うんざりして時計を確認すると、深夜1時だ。昨日は普通ゴミの日。明日はプラ容器の日……まさかまた、あの女か。

「はい?」
「あーすいません」違う人間だった。「ちょっと鍵忘れちゃ」

が、2日連続は初で結局は頭にくる。これで6回目。
昨日とまったく同じ対応でブチ切りし、俺は解錠ボタンを押した。





生牡蠣は、正直そこまで得意じゃない。だけど、特産品だとものすごく美味しい、ということが稀にある。鮮度が大事な食物は、とくにだ。

「はい、いらっしゃい!」

厚岸に来ていた。昼間はしっかりと観光をし、夜は取材と称して美味しい牡蠣をいただきに有名な居酒屋に入った。もし生牡蠣がダメでも、焼きや蒸しなら十分にいける。なによりわたしには、秘密兵器がある。準備万端だ。

「おひとり?」
「はい、そうです。入れますか?」
「もちろん。空いてるところに座っちゃってくださいな」

ベテランっぽいおばさまに言われて、大きな店内を見渡した。長方形のテーブルの中心には穴があり、そこに炭火焼き用の網が設置されている。いわゆる焼肉屋と同じスタイルだ。おまけにテーブルにも椅子にも区切りがない。カウンターのようなロングテーブル&ロングベンチでロの字になっている(ロが多い)。飲み屋だというのに、トイレに行くときに気を使いそうな空間だけど、これはこれで楽しそう。スマホでパシャリと撮影する。
観光地、そして連休中ということもあって、カップルだらけだった。恋人いない歴2年のわたしとしては、いささか肩身が狭い……という遠慮がちな思考はすぐに消えた。
隅っこにイケメンが座っているのが見えたからだ。おまけに、右隣りの席がちょうど空いている。

「ここ、いいですか?」
「ああ、どうぞ。すみません、どけます」

声をかけてから座った。微笑んで荷物をどけてくれる優しい顔も、美しい。奥二重でシュッとした人だった。ロン毛、とまではいかないけれど、襟足が少しだけ長くてやけに色っぽい。
イケメンは世界の女性を救う。見ているだけで癒やされる。味のある人だなあ。

「なんにします?」
「えーとじゃあ、生牡蠣3種とバケツ牡蠣と……シャブリで!」
「はいお待ちくださいねー」

ほどなくして目の前に置かれた生牡蠣とシャブリをパチパチとしつこく撮影する。バケツ牡蠣の焼き加減も教えてもらいつつ、しっかりとメモに取った。
まずは、レモンをかけていただいた。生なのに、美味しい。クリーミーだった。シャブリを一緒に飲み込むと、また信じられないくらい美味しい。つづけて添えられていたポン酢も試した。こちらも美味しい。新鮮、極まりない。味の感動はセリフにすべきだ。思いつく限りの言葉をスマホのメモに書き連ねる。

「お姉さん」
「えっ」

牡蠣を何回も撮影してスマホをいじりまくっていたところで、声がかかった。頭をあげると、イケメンが話しかけてきている。没頭していたから気にならなかったけど、こうしてじっくり顔を見合わせると、なかなか距離が近かった。

「焼き牡蠣、そろそろ食べたほうがいいですよ。あんまり焼くと、美味しさが半減する」
「えっ、あ、そうなんだっ、すみませんっ」

トングで焼き牡蠣をつかんで、急いで網から離した。ホクホクと、実に美味しそうだ。慌てて口に入れると、アツアツすぎて体がビクッとうねる。

「あっつ!」
「ははっ。気をつけんしゃい」
「すみません……」

しゃい……と、声には出さず復唱した。どこから来たのか知らないが、気さくな人だ。イケメンで気さくで優しいって、本当によくない。と、いい意味で思う。
一方で、やっぱり火を入れたほうが確実に好きだな、と感じる。はあ……あんまりお酒に強いほうじゃないけど、これはシャブリが進んでしまうなあ。火を入れた途端に美味しすぎるでしょう。

「あー、それと、余計なお世話なんじゃけど」
「は、はい?」
「生牡蠣は、すぐに食べたほうがいいですよ」

わたしのテーブルには、あと1つ生牡蠣が残っている。ずっとスマホを触っていたので、到着からかれこれ10分は経っていた。
『カキえもん』『マルえもん』といただいたので、最後のは『弁天かき』だ。

「あ、そうですよね! すみません」
「ん、せっかくの厚岸、こういうのは鮮度が命じゃけ」

じゃけ……と、声には出さず復唱した。ヤクザ映画でよく聞くなあ。ということは広島の人だろうか。いや広島といえばそれも牡蠣じゃない? 地元で牡蠣をたくさん食べれるのに、わざわざ厚岸にまで来たんだろうかこの人……。とは思っても、聞けるはずもない。

「そうですよね、すみません」
「いや、こちらこそ、余計な口出しして」
「いえいえ! ご親切に、ありがとうございます」

ちょうど近くに店員が来たので、手をあげた。たくさん写真も撮ったし、メモもぎっしりだ。今日のところはこのへんでいい気がする。あとは明日にして、食事に集中しよう。じゃないと、このイケメンにも迷惑だよね。となりでずっとスマホいじってるヤツとか、イラつくかもしれないし。

「はい、注文ですか?」
「いえあの、調味料をあの、持参してるんですけど、使ってもいいですか?」
「ええ、ご自由に!」
「ありがとうございます!」

一応、確認を取っておく。一般的にはマナー違反だからだ。でも牡蠣をメインとしている店は、「調味料持参OK」がほとんど。ここも例外ではなかった。そして牡蠣には、これがいちばん合うのだと、わたしは声を大にして言いたい……すごく言いたい!

「持参?」
「あ、お兄さんも試してみますか?」

じゃーん、と言いながら、タバスコを取り出した。ほう、とイケメンが目をまるくさせている。そんな顔まで美しい。ずるい。

「いけるんか?」
「いけるの!」
「ほーう、どれどれ。ちと失礼して……」彼の目の前にも、あと1つ牡蠣が残っている。
「ふふ。あ、あ、それくらいで!」
「こんなちょっとでいいんか?」
「うん、これくらいがベストです。めしあがれー」
「ん……おお、うまいのうこれ!」
「でしょう!?」

いつのまにか、お互いがタメ口になっていた。





シャブリを口に含みながら、盗み見する。

「へえ、じゃ伊織はグルメ特集で、取材に来たっちゅうこと?」
「そうなの、小さなタウン誌なんだけどね」

2階にあるオイスターバーに移動していた。
厚岸はとにかく牡蠣が名産らしい。昔はあまり食事に興味なかったが、酒を覚えてからというもの、すっかり美食に満たされている。
海産物はとくに好きだった。牡蠣も大人になると急にうまく思えてきたから不思議だ。

「なんで厚岸の牡蠣なんじゃ?」
「えっとね……今度10周年企画で応募してくれた人の特賞が北海道旅行なんだよね」

甘い声に、甘い口調。彼女は「伊織」と名乗った。その響きまで甘く聞こえてくる。

「だから魅力をね、伝えようってことになったの。たくさんの人に応募してほしいから」
「なるほどな」

カウンターに座ろうかと思ったが、正面からきちんと顔を見て話したくてテーブル席に案内してもらった。どの角度から見ても、いい女だ。
実際、声をかけられたときからいい女だと思っていた。旅先ではこういう出会いがあるようだ。何度もひとり旅をしてきたが、ナンパはされてもその気になったことはない。意気投合なんてもってのほか。ゆえに俺には縁がない話だと思っちょったし、素性もわからん女とワンナイトするのも微妙じゃったけど……悪くないかもしれん。幸い、いまフリーじゃし。

「じゃけど、北海道といえば厚岸、っちゅう感じはせんけどなあ」
「あ、そこがいいんだよ。うに、いくらはもうやり尽くされてる。あと味噌ラーメンも」
「とか言いつつ、しっかり食べてきたんじゃないんか?」
「それはもちろん、せっかくだもんね。へへ。食いしん坊だから、甘いのも食べた」
「はは。まあ北海道はなんでもうまいからのう。俺でもそうする」

彼女は、話のリズムがよかった。雰囲気がやわらかくて、視線も穏やかだ。俺に興味がある女はたいてい圧が強いうえに自分の話しかしない女が多いが、彼女はこちらから質問しない限り、聞き役に徹していた。だから、一緒にいて居心地がいい。そういう女は逆にどんどん話を聞きたくなる。どんな顔を持っているのか。
目の色を変えて忙しそうに写真を撮っていた様子からして、なにかしらクリエイティブな匂いを感じたが、なるほどメディア関連か、と納得する。

「雅治……って、呼び捨てちゃっていいのかな」
「もちろん」
「雅治の仕事は?」
「あー、俺は……」さて、どうするか。「普通の会社員だ」
「そうなんだ? 何系?」
「何系……あー、食品の貿易関連。海外に送ったりしちょる」
「へえ! じゃあ英語ペラペラだね?」
「いや、そうでもないんよ」
「またまたあ」

息を吐くように嘘をついた。メンヘラ製造機の俺が、間違って厄介なことに巻き込まれたらたまらん。

「じゃあ、仕事で来たの? どこから?」
「ああ、俺はただの旅行じゃき」どこから……さて、どこにするかのう。「いまは沖縄に住んじょる」
「え、端っこ!」
「そう、端っこから端っこに来たっちゅうわけ」

青春時代は海ばっかりじゃったし、これも即興にしてはうまくいった。
適当な嘘をついてごまかしがきかんようになったら面倒だが、今回に限っては、それを心配することもなさそうだ。

「そうなんだ。沖縄いいよね。夏はすっごい暑いけど」
「行ったことあるんか?」
「あるよ。小さいころだけど。雅治は沖縄出身なの?」
「いや、出身は違うんじゃけど」
「ふふ、じゃけど」
「ん?」
「じゃけどって、広島っぽいなと思ってたから、沖縄なんだー、と思って」
「ああ、これは癖なんよ。幼少期の方言が、いまだに取れんでのう」わざとじゃけど。
「ふうん。え、じゃあ出身はどこなの?」
「それは秘密じゃ」

目を細めて人差し指を伊織の唇に当てると、ぎゅん、と目をまるくして、慌てるようにグラスを口につけた。さっきからほんのりと顔が赤い。酔っているようだが、酒癖も悪くなさそうだ。それもまた、ポイントが高かった。

「伊織は? 地方って、どこだ?」
「あ……えっと、神戸!」
「神戸か。おっしゃれじゃのう」
「あはは。おっしゃれかなあ。うん、でもいい街。雅治、来たことある?」
「あるような、ないような感じかの」
「えー、なにそれ。どっちー」くすくすと、口に手を当てて微笑んでいる。上品だな。
「ちゅうか伊織、そのわりに関西弁、でんのう?」
「え、あー……出身が違うからね!」
「ほう、出身は?」
「ん……ふふ、それは、わたしも秘密」

ちょん、と、唇に人差し指を当てていた。無性にキスがしたくなる。
さっきも距離が近かったが、ここだと違う意味で近い。膝がなんどもぶつかり合っていた。ついでに、交わす視線も熱い。年齢も聞けば俺より2つ下……ごまかしちょるかもしれんけど。
どっちにしてもお互いアラサーでいい大人だ。わかりきっている。

「俺のホテル、すぐそこなんよ」
「え……」
「飲みなおさん? あるいは、酔いを覚ます、でもいいが」

わずかに触れていたふたつの足先で、彼女のヒールを、片方だけはさんだ。





連絡先を、聞いておくべきだったかもしれない。

――あ、んっ……待って、あっ、や、イッちゃ……!
――はあ……伊織、こっち見て。
――え、ン……んんっ。
――うしろから突かれるの、好きか?
――そ、ゆ、わけじゃ……あ、あ、ダメ、ダメ、イッたばっかりなのに……雅治っ。
――甘い声やのう……もっと壊したくなる。

とか言いながら、動きはゆっくりで、いじわるで、優しかった。だから久々だったのに、あまり痛くもなかった。至るまでも時間たっぷりで、体中にずっとキスしてくれてたなあ……はあ、いい男だった。

――伊織、こういうこと何度かあるんか?
――な、ないよっ。はじめてだよ……。
――くくっ。そうか。
――なん、なんか、おかしかった?
――ん? いいや。俺がはじめてで嬉しい。
――え……。
――俺だけなんじゃろ? こういう夜。
――そう……だよ。
――どうせなら、このさきも俺だけにしちょって。

終わったあともめちゃくちゃ優しくて、いたずらっぽく、ちょっと嫉妬めいたことまで口にして、どこまでもずるい。
あげく、朝になると消えていた。ホテルのメモ帳にだって、なにも残っていなかった。その去りかたすら、憎たらしいほどずるい。

「ダメだ。なにしに厚岸まで行ったんだ、わたしは」

お酒の勢いもあって、人生初のワンナイトラブとかしちゃったよ。旅行先でとか、噂には聞いていたけど現実に起こるなんて。だって超タイプだったんだもんっ。
それに、すごく優しかったし、話も楽しかったし、いいかなって思ったときにはもう、唇が触れてた。

――伊織、かわいい声やの。
――雅、は、る……ンッ。
――もっと呼んで。俺の名前。

気づけば白紙に彼の似顔絵を描いていた。
あれから2週間も経つというのに、頭のなかからまったく消えてくれない。なんなのあの人。なんなの雅治! 絶対に彼女持ちだよね、あんなイケメンなんだもん、彼女がいないわけない。なのに、なのにひとり旅して、その旅先で女をいただいちゃうなんて……!
悪い男だ雅治っ! はあ……好き!
いや……落ち着いてわたし。取材に行ってもイッてる場合じゃなかったでしょう。
ぶんぶんと頭を振った。せっかく吉井さんにOKをもらったラフなんだ。漫画家デビューのチャンスなんだ。ただし締め切りは明日の昼。なのに、あと3枚もある。
だいたい、連絡先を知ったところで沖縄って、そんなの付き合えるわけがないんだから、煩悩を消して仕事に集中しなければ。
気を取り直して下書きにペンを走らせる。走らせながら、30分もするとまた彼を思いだす。そのくり返しにうんざりしてきたところで、わたしの記憶は途絶えていた。

窓の外から流れてきたバイクの音で目が覚めた。
はっとして顔をあげると、時計が7時50分をさしている。目の前にはまったく完成していない、下書きのままの原稿が1枚ほど残っていた。

「やっば……」吉井さんが来るまであと6時間だ。「ぐううわあ、ギリ? いやギリアウトな気がする、うわあ、どうしようっ」

最後の1枚はかなり入り組んだものである。ああ、これから手をつければよかったのに、楽なページから手をつけたから……と、後悔しても、もう遅い。
頭を抱えながら、とりあえず歯磨きをするために洗面所に向かう途中、冷蔵庫をふと見て、気がついてしまった。今日は、ゴミ出しの日だ。
さっき確認したばかりなのに、また時計を見る。7時52分。ゴミ出しは8時まで。なんならうちはいつも8時にトラックの音がしている気がする!
と、急いで出たが最後。ここまでくればもうみなさん、おわかりだろう。
そう、わたしはまた、鍵を忘れてしまったのだ。

「最悪……」

ゴミを倉庫に入れた瞬間に気づいた。ポケットに鍵を入れてなかったことに。慌てるといつもやるのに、ゴミ捨てでそんなに慌てることがないせいで、なんの対策もしていなかった。
でもこの早朝ならそのうち誰かが出勤で、エントランスを開けてくれるはずだ。その隙きに入るしかない。ああ、急いで部屋に戻らなきゃいけないのにっ。
そこから10分ほどが経過した。ゴミ回収車もやってきた。
単純に、恥ずかしかった。マンション前の道路には出勤で足早に駅に向かっている人がちらほらといる。その人たちとチラチラ目があう。無理ないかもしれない。寝癖のついた髪で、ノーメイクで、寝間着で、マンション前で立ち往生している若い女がいるんだから。
「あの人たぶん、家に入れないんだよウケるー」とか、「ねえねえ、今朝ちょっと見たんだけどさ」とか、会社で話題にされるかもしれない。嫌だ、すごく嫌だ。恥ずかしい。
だからってこの時間に開けてくださいって住人たちにお願いするのは気が引ける。いや何時だって気は引けるけど朝は忙しいだろうし、なんならまだ寝てるかもしれないし。でも早く帰って原稿を仕上げないと……吉井さん怒らせたら怖いのに……!
そのときだった。ガシャーン、と、エントランスの音がした。素早く振り返ると、誰かが扉を開けようとしている。
やった、出勤する人だ! 神の恩恵……! と、はしゃいだのは一瞬で、その人が姿を現した直後、わたしは固まった。

「おっと……」

わたしにぶつかりそうになって、ようやくこちらに目を向けたのは、2週間前にワンナイトラブをした雅治だった。

「え……」

驚愕、である。お互いの目がこれでもかというほど見開かれて、その空間だけ時間は止まったようだ。ここは、沖縄ではない。東京です。

「あら、仁王先生じゃないですかー?」
「えっ?」
「にお……え?」

するとまた突然、今度は背後から声がかかった。またしても素早く振り返ると、人のよさそうな、ふくよかなおばさんがじっと彼を見ているではないか。
におう、という名字なの? におう、まさはる? 名前までイケメン……いや落ち着いてわたし。

「……あ」
「お久しぶりですー! ほら、タクのババですよ」
「あ、ああ、タクくんの」

タクくん……? え、ていうか先生?
え? 高校? 中学? 小学? ていうかこの人、教師なの? あんな、あんな悪くてセクシーな男の人が!? ふ、ふしだらだ! 教師のくせに! いやわたしが言えた義理じゃないけど!

「こちらにお住まいだったんですかー。うちと近所!」
「あ、はは、そうみたい、ですね」

彼は逃げたそうだった。誰が見てもわかるほどの苦笑いをしている。しかしそんなことには気づかないのが、世のなかのおばさまたちである。たぶん、わたしの姿も見えていない。

「今度ね、また孫が生まれたんでね先生、まーたお世話になるかも!」
「おお、それは、おめでとうございます。あーすみません、ちと、急がんといけんから」
「あ、ごめんなさいね引き止めちゃった」

と、言ったところで話が止まらないのがおばさまであり、おまけに個人情報をベラベラとしゃべりはじめるのも、おばさまならではであって……。

「でもここ、あさがお幼稚園からちょっと距離あるのよねえ」
「幼稚園……?」思わず声がもれでてしまった。
「いや……」

要するに、熱い夜を過ごしたずるくて優しい悪い男は、沖縄に住んでいるわけでもなく、普通の会社員でもなく……。

「じゃあまたねえ、先生。あ、あのかわいいエプロン姿、うちの娘がはしゃいでたわよ」
「はは……ああ、最悪じゃ」

なんと、幼稚園の先生だった。





to be contineud...

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