キャンディ_02


2.


「ピョ」
「ピョ、じゃのうて」

俺の真似でもしちょるつもりなんか、4才児の男の子がぶーたれてこちらを見あげた。
頬がぷるぷるだ。膝を折って目線を合わせると、今度は口を一文字に結ぶ。今日はこういう顔を見る一日になるんかもしれん。うんざりするのう。

「ダメじゃろ、人のこと叩いたら。叩かれたほうも痛いし、おもちゃも悲しんじょるぞ」
「ニオせんせえはおもちゃの声が聞こえるの?」聞こえるわけないじゃろ。ガキのくせにご立派に反論しよって。
「聞こえるんよ、これが」
「えっ」
「もしかして……お前には聞こえんのか!?」
「え、えっ!」
「ああー、そうかもしれんのう。おもちゃは大事に使ってくれる人間にしか心を開かんからの。じゃけニオ先生には聞こえるんよ。先生はいつも、こうして、大事に……」児童が右手につかんでいるおもちゃを取って、ヒヨコのエプロンで拭く真似をしてみせた。「お、喜んじょる。さっきは痛かったって言うちょるぞ?」
「う、うそだ」うそに決まっちょるじゃろ。だが、顔が青い。
「じゃけどお前にも人間の声は、しっかり聞こえるじゃろ?」
「む……」

指をさすと、またしてもぶーたれとる。こいつは、謝るのが大の苦手だ。今回ばっかりは悪いことをした自覚があるぶん、余計にじゃろう。あげく……。

「お前の、相手は3才やぞ? それなのに癇癪を起こしてから」
「かんしゃく?」さすがに、まだ難しかったか。
「我慢ができんっちゅうこと。まあそれはいい。ともかく、人をぶん殴ったらいけんのはわかっちょるの? それにお前のほうがお兄ちゃんじゃ。いますぐ謝ってきんしゃい」
「なんで……やだ」
「ああ? 謝れっちゅうのにっ」
「せんせえだって、せんせえだって、ボクよりうんと上なのにっ」
「なんじゃっ」
「怒る! すぐ怒る!」
「これは怒っちょるわけじゃのうて、叱っちょるんじゃっ!」
「そこまで怒鳴ったら怒ってますよ、仁王先生。どっちが癇癪もちなんだか」
「ピョ」

振り返ると、「ボク」よりうんと上の、俺よりもうんと上のキョン先生が腕組をして立っていた。

「キョンせんせえ! ニオせんせえがいじめる!」これみよがしにキョン先生に抱きついちょる。
「はいはい。ニオ先生もいじめてるわけじゃないんだけどね。キミも悪いことはわかっているでしょう? やっちゃったなあって思ってるんじゃないかな?」
「う……うん」よいよい、ずいぶんと素直じゃのう。
「じゃあ、ごめんねしない? 悪いって思ったら、それは言葉にしたほうが、キョン先生はいいと思う。キミはどう?」
「……でも」
「キョン先生が一緒に行ってあげる」
「ホント?」
「うん。キミのタイミングでいいよ。先生、待ってるからね」

そこから5分後、キョン先生に優しくたしなめられた「ボク」は、叩いた3才児に謝りに行った。キョン先生と一緒なら勇気が出るらしい。あいつ絶対に女たらしじゃの。しかも年上好きだ。甘えん坊めが。

「まったく。どうしたんですか仁王先生。今日はやけにピリピリしてる」
「別に……しちょらんし」
「なに拗ねてんの」
「拗ねちょらんし」

キョン先生は今年40歳になるベテランで、もちろん、俺にとっては大先輩の幼稚園教諭だ。本名は今日子。ちゅうことで学生のころから「キョンキョン」と呼ばれているらしい。あだ名に時代を感じるが、キョン先生は実にご満悦な様子でそのエピソードを話してくれた。もう何年も前の話だが。

「へえ? なんかあったんだ?」
「む」
「仁王先生って飄々としてるように見えて、わかりやすいよね」

そんなはずはないと思っちょるんだが……柳生にもよう言われるセリフだ。癪に障る。
とはいえ、旅行先でワンナイトラブした女が同じマンションに住んじょったとか、異性の同僚に話すことじゃない。
よりによって昔の園児の保護者に職業や勤め先までバラされるなんじゃ……考えられん!

「女ね」
「は?」
「わー、やっぱりわかりやすい!」
「ち、ちと待ちんしゃい、俺はなんも言」
「そりゃ仁王先生、そんな感じだし、好きに遊んだらいいと思うけどサ」
「はっ……キョン先生なんか勘違いしちょってようじゃけど」透視能力でもあるんかこの人。
「手を出しちゃいけないタイプの女に手え出しそうだもんね、仁王先生」
「……それは人聞きが悪いように思うんじゃけど」反論できん自分が情けない。
「独身なんだから好きにすればいいけど、ほどほどにお願いしますよ? 主婦は男の遊びにうるさいし」
「……ご心配いただかんでも大丈夫じゃし」
「色恋沙汰で辞めていく先生、多いんだから」

数年前に保護者と恋仲になって辞めていった男性教諭の顔が浮かんだ。あのときはこの男、バカすぎんか? とか思っていたが……ま、ワンナイトラブくらいでまさか二の舞になることはない……よのう?

「仁王先生、見境がなさそうだし」まだ言うちょる。「教えといてあげようか、お姉さんが」
「なんのこと?」
「手を出しちゃいけないタイプの男女について」
「……キョン先生」なんか知らんけど楽しそうやの、この人。
「その1、メンヘラ」
「は、ありきたりな……」
「その2、正論主義」
「ほう?」ちと変わった角度やのう。
「その3、近所に住んでる」
「な……」

やめてくれ、怖い。

「この3つの性質には共通点がある」
「ど、どんな……」やめてほしいっちゅうのに、怖いもの見たさっちゅうか、なんちゅうか。
「楽しめるのは外面がいい最初だけ。こっちが気を許した途端に重荷になる」

最悪じゃ……。





吉井さんは微笑んでいた。頬をほんのりと赤らめて、口角をきゅっと上にあげて。
それでも目の奥に、鬼がいる。経験上、わたしはそれを察知できる。

「締切っていうのは確かに目安とも言えます。しかも仕上げの締切っていうのはもう完成ってことですからね。ネームはできてるわけですから。うちとしてもそのスケジュールで動いてるわけです」
「はい、大変あの、申し訳なく……」
「いいんです、『いいわけ』は。手を動かしてもらえますか。すでに2時間は過ぎてるわけですからね」

手を動かせというわりに吉井さんの口はずっと動きまくっているので、反応せざるを得ないのだけど、そんな口ごたえをしようものなら、目の奥の鬼が表に出てくる。これは避けられないだろう。悪いのはわたしだ。わかってる。

「だいたい今回の締切だってかなり余裕を持って設定しているんですよ。同じ締切の作家さんたちなんて昨日の段階で終わらせている人がほとんどですよ。しかも佐久間さんと違って、連・載・中の!」嫌味たっぷりだ。
「はい……あ、でも逆に連載してないから大事に至らないっていう状況でもあるような……」
「はい?」
「あ……いえあの、すみません、手を動かします」
「連載会議は明日なんです。今日この仕上げを待って上層部に掛け合うための準備はあたしがしなきゃなんです。まずは編集部のいろんな人たちに見せなきゃいけないわけで、プレゼンはそこからはじまってるわけです。資料ってこの原稿だけじゃ完成しないんですよわかります?」
全然わからない。「わか、り……ま、す」

だってそれ、吉井さんの仕事だし、知ってるわけないし……と、言えれば楽だけど言えない。悪いのはわたしだ。ああ、目の前にこんな鬼がいるというのに、頭のなかがこんがらがって、うまく作業が進まない。
あの男が、あの熱い夜を過ごした雅治が、まさか同じマンションの住人だなんて。そんなことあります!?

「ちょっと、佐久間さん。なんか違うこと考えてません?」
「えっ」す、鋭い。
「なんか変ですよねこないだから。ぼーっとしちゃって」チコちゃんばりの威勢である。
「そんなことは……」
「まさか」
「え」

ぐいん、と鬼が顔を寄せてくる。手を動かせというわりにまったく集中させてくれないのはどういうわけなのか。編集者のなかではそういういじめが流行っているんだろうか。なんにせよ、たちが悪い。

「こないだまでニヤニヤしてたかと思えば、今日はやけに顔色が悪いじゃないですか」
顔色が悪いのはあなたのせいでもあるんですが。「そ、う……ですかね」
「男?」
「えっ!」
「あ、男だ!」
「ち、ちが」
「どもった!」
「どどどもってません!」
「いい感じになってうつつ抜かして、手が動かなくてこの有様ですか!」ものすごく言い当ててくるじゃないですかっ。
「ちち違いますってば!」
「じゃあなに? 顔色が悪い理由は? コロナ?」
「まさか! と、とにかく手、手を動かさないとっ!」
「どうも締切の件だけじゃなさそうですね?」

ぐいぐいと迫ってくる鬼の顔が好奇心に満ちていた。こういう話が嫌いではないらしい。が、この無駄話のあいだに刻々と時間は過ぎていく。さっきまで締切の件で怒りまくっていたわりに、彼女の仕事への姿勢というのは、いったいなんなのであるか。

「白状したほうが楽ですよ? ちゃんと『いいわけ』なら聞きますし」

嘘をつけ。とは、言えない。
深いため息をひとつ、もうすぐ仕上がる(はずの)原稿を見つめた。彼女の視線に少しばかりの圧力を感じながらも、言葉を慎重に選ばなくてはならない。

「あのー、えっと、あれです」
「どれです?」切り返しが早すぎる。どうごまかすのが正解か。
「この数日間、ずっと仕事の壁にぶつかっていまして」
「……へえ?」
「クリエイティブなアイデアが浮かばず、フラストレーションが募っていたというか」
「はいはい」

目が一直線だが、これ以上の深掘りは難しいと悟ったらしい。少しだけ背筋を伸ばして、抗議の意を表明した。

「あのでも、わたし、あくまでも真剣ですから」
「当然です。真剣じゃないならやめてもらってます」
「はい……あいや、だ、だからって、いつでもアイデアが降ってくるわけじゃないです。頭のなかが真っ白になって、手も動かなくなることもあるわけです」

嘘はついていない。
一瞬だけ吉井さんの目が見開かれた。どちらかというと小馬鹿にしている表情だが。それでも、さきほどまでの態度よりは和らいでいた。

「ふん。まあ、いいですよ。今日のところは。あげてくれれば」
「急ぎます!」





疲れで体がドロドロに溶けそうだった。なんとか間に合わせることができた原稿は、あまり高いクオリティとは言えないが、手渡すことはできた。あとは吉井さんの手腕にかかっている……とかなんとか、人任せ精神とプロ意識の低い自分にもうんざりしていた。
チャイムが鳴ったのは、熱いシャワーを浴びて髪を乾かし終えたころだった。頼んでいた筆でも届いたのかと、ドアホンの液晶を確認すると、なにも映っていない。
気持ち悪くてのぞき穴を見たら、なんと、幼稚園の先生がそこにいた。

「え」
「……ドア越しにまる聞こえじゃけど?」どうでもいい。なんでいるの!?
「……あ、開けろと?」
「嫌ならここで大声で話すか?」

もちろん開けた。話すことなどないのだが、話すことがあるとすればワンナイトのことでしかない。そんなことご近所さんが行き交うマンション通路で話せるわけがない。音も響くし。
にしても、今朝がた見て驚いたばっかりだけど、改めて正面きって見てまた驚く。間違いなく、あの「雅治」だ。

――伊織、かわいい声やの。
――雅、は、る……ンッ。
――もっと呼んで。俺の名前。

ぎゃーぎゃーぎゃー! 叫び倒したい。この目の前にいる男と、初対面でそんな破廉恥なことをしたというのに、それだってワンナイトだからできたんだ! もうこの先、会うこともないからという保証つきだったはずなんだ! なのに、いま普通に、わたしの日常に、ここにいる!

「なにしに」
「あがるぞ」
「あがりますかね普通……!?」
「こんな狭い玄関で話せっちゅうんか」お宅の玄関だって同じ造りでしょうよ。「お邪魔します」

無礼者め。簡単に女の部屋にあがりやがって。一度は寝たからいいだろ、とか思ってる?
押されてあげるわたしもわたしだけど……とはいえ玄関から一歩だけなので許してやらんでもないけれど。ああイケメン! でも詐欺師! 複雑すぎるなにこの感情!

「あー、えーっと、なんだっけ。えーっと……あー、たしか? 雅治だったっけ?」覚えてないフリをしてやった。「たぶん本名じゃないだろうけど」
「はっ。いきなりご挨拶やのう。自分のことは棚上げか?」
「はい?」
「そっちこそ、本名かどうかわかったもんじゃないじゃろ。神戸にお住まいの伊織さん」

同類のくせに嫌味がすごい。気持ちはわからなくもないが、ここまで言われなくてはならないものだろうか。いや、気持ちなんかわかってたまるか。

「なんの用なんですか」そうだ、肝心なのはそこだ。
「忠告じゃ」
「忠告?」

眉間にシワを寄せている彼を見て、ははーん、と、思う。
思考がそのまま口から出ていくおばさまのせいで、自分の職業どころか職場まで知られてしまった。それで、どうやら口止めしに来たのではないか。もちろん、口止めしたいのは仕事のことじゃなく、あの夜のことだろうけど。

「へえ、焦ってるんだ?」
「焦っちょる?」
「肝が小さいんだ、そういうことか」
「なんの話じゃ」

口止めって、ちょっと待って……。それってなに? わたしがあなたに嘘をつかれたことを恨みに思って、それでナントカ幼稚園で(もう忘れてるし)、保護者のみなさんに言いふらすとかそういうことを想定してるわけ?
はっ、なんでわたしが恨むのよ。え、もしかして、俺ってそういう罪な男だからとか、そういうこと? それともわたしが手を出したらヤバそうな、超ド級のメンヘラ感満載ってこと?

「おい、聞いちょるんか」
「なに調子に乗ってんの」
「は?」

勝手な推測だったのだが、そうに違いないと思い込んでいたわたしには、もうそうとしか思えない。要するに、頭にきていた。なんだかとてつもなく、心外だったのだ。

「黙って聞いてりゃ」
「いや、ちと待ちんさ」
「誰があなたに執着してるって!?」
「な!? だ、誰もそんなこと言うちょらんじゃろっ」
「じゃあなにしに来たわけ!? 変な噂でも流しそうだと思ってんの!? なんでわたしがあなたとの噂を流さなきゃいけないの!? どこで!? 誰に!?」
「なんなんじゃお前は! 病気か!」

耳をふさぐ仕草をした雅治が、顔を歪めて声を荒らげていた。
病気と言われれば病気だろう。たかだかワンナイトしたくらいで舞いあがったのは事実だ。おまけにあの夜から寝ている時間以外はずっと雅治のことを思いだしていた。舞いあがっているどころじゃなく完全にヤラれてる。ヤラれただけじゃなくてその後もヤラれてる! ああああああもう、そんな言葉遊びをしている場合じゃないのに、なんでこの男、こんなにカッコいいんですか!

「だって、嘘つきじゃん!」バツが悪くなったせいで、小学生みたいな返ししてるし!
「お前は年長さんなんか……」しかも同じ意図であろうツッコミをされてしまった。「嘘をついたことじゃったら、お互いさまじゃろ」
「む……」そのとおりだ。「じゃ、じゃあ、忠告ってなにっ」
「鍵じゃ、鍵!」

気づけば、雅治は玄関脇のテーブルの上に無造作に置かれた鍵に人差し指を押しつけていた。当然、それはうちの部屋の鍵だ。思ってもみなかった言葉が投げられて、ぼうっとしてしまう。

「へ?」
「今朝も鍵を忘れちょったじゃろ。どうせまた、ゴミ出しの帰りやったんじゃないんか」
「そ……」

どこまで冷静なのか。
2週間前にワンナイトした相手と同じマンションに住んでいたというだけで縮みあがりそうなものだが(わたしはそうだ)、この男はあの一瞬で、「こいつ、また鍵を忘れたんだな」と察したということ? え、待って。

「またって……」
「205にお住まいの、佐久間さんじゃろ、あんた」
「じゃ、あなた、い、105の……」

あの超絶、感じの悪い男!?





目の前の女の顔がみるみる曇っていった。
前回のあれこれを思いだしているんだろう、そのうちに視線が俺の頭の先から足の先まで流れていく。なにをいまさら……あの夜に十分、見尽くしたじゃろうが。

「わ、忘れてませんし」
「はあ?」
「だから、べつに、今日のは違いますしっ」

嘘をつけ。

「違うっちゅうんか」
「違うって言ってるじゃないですかっ」
「ふうん」

忘れたんじゃなけりゃ、寝癖もついたまま顔も洗ってない状態で、待ってましたといわんばかりに期待の眼差しで振り返るわけがないじゃろ。ったく……面倒じゃのう、カマでもかけるか。

「それじゃったら、なんですぐ入らんかった」
「はっ?」
「すぐ入らんかったじゃろ。ずーっとエントランス前で、立ち往生しちょるように、俺には見えたがのう?」
「なん……なにそれどういうこと? 見てたの?」
「俺は帰宅時だけじゃのうて、外出時にも郵便物を調べる癖があるんよ。深夜に要りもせんチラシが入っちょったりするからのう。郵便受けのダイヤルを回して、中を調べて取り出してエントランスのゴミ箱に捨てるあいだ、あんた、ずーっとエントランスで背中を丸めとったけど?」

彼女は黙った。まあ、黙るしかないだろうな。全部つくり話だが、それで話が済むなら嘘も方便。

「だからって……」おいおい、まだつづけるんか。「鍵を忘れていた証拠には!」
しつこい。「じゃったら、顔も洗ってない寝間着のまま、すぐ部屋に戻らんかった理由を言ってみんさい」
「ぐ……!」
「ちゅうか、俺は警察じゃないけえ、どうでもええんよそれは」

今度は、しゅんとしちょる。起伏の激しい女だ。キョン先生曰く、相当まずいのに手をだしたんかもしれん……ますます、二度と関わりたくはない。おかしいのう、あの夜はかなりいい女に見えたが……それも旅行マジックっちゅうやつか。盛りがついとったんやろう、俺も。

「今日のを入れたら3回目。つまりあんたは、鍵を忘れやすい。この3ヶ月ちょっとのあいだに3回っちゅうことは平均して1ヶ月に1回、さすがに俺だけじゃのうて、ほかの住民にも迷惑がかかる可能性がある」
「でた……嫌味」
「本当のことじゃからの」加えて、一番の被害者候補はどう考えても俺だ。「スペアキーは契約時に渡されちょるじゃろ」
「スペアキーがあったって、防止にはならな」
「うるさい。出しんしゃい、それ」
「はっ!? 嫌だよなんで!」
「いいから出せ。それと、ガムテープもな。用意ができたらエントランスに来んしゃい」

ポカンとした顔に背中を向けて、エントランスで待つこと数分、彼女はやってきた。
まだ状況が把握できていないようだが、これさえ終わらせれば肩の荷も降りる。この鍵問題さえなければ、いくら上の階に住んでいようが、顔をあわせることもない。
わざわざ俺がここまでしてやらないといかん理由はまったくないんだが、手をだしたらまずい女に、知らなかったとはいえ手をだした代償だ。自分の責任は自分で取るしかない。

「ポスト、開けんしゃい」
「……なにするの?」
「ええから早く開けんしゃいって」
「もう、なんなの……」

ぶつぶつとした声が響くなか、ダイヤル式のポストが開かれた。いくつかの封筒を取りだして、予め用意していたビニールの小袋に鍵を入れ、ガムテープで郵便受けの前方内側に貼りつける。
完成した状態を見せると、彼女の目は輝きはじめていた。頭が悪いんじゃろうか、こいつ。しゃべったときはかなり知的に思えたが。

「雅治って……」
「なんじゃ」
「天才?」

単純すぎやせんか。こんな、誰でも思いつくようなこと。

「……と、言われかけた頃もなくはないがの。その肩書は本物の天才につぶされた」おまけに、なにを思いださせてくれるんじゃ。イライラするのう。
「ふうん?」
「どうでもいい。外に出て、取り出せるかチェックしんさい」

ポストを開けたまま待っていると、外側の受け口から手が伸びてくる。指の付け根くらいまではポストに入るから、そこから上手に掴めば、鍵の入った小袋が取りだせるっちゅうことだ。

「取れた……!」
「俺がしにきた忠告っちゅうのは、これだ」なにを勘違いしちょったんか知らんが。
「そ……忠告っていうのかな、これ」

わずか4センチ程度の隙間で視線を交わしながら、彼女はじっと見つめてきた。本当なら、恥ずかしくて目を伏せそうなもんだが……そういえばあの夜もずっと、見つめ合っちょったの、俺ら……いかん、変な気分になってくる。またなにを思いださせてくれるんじゃ。

「深夜にチャイムを鳴らされるのは、迷惑なんでな」
「……2回目、すっごい感じ悪かったですよね」
「そのあとに相当、感じの悪い手紙を寄越したのは誰だ?」
「だってあんな態度とることないじゃん?」
「お前のう、何時やったと思っちょる」

バチン! と突然、郵便受けが閉じられた。ガチャガチャと鍵の音がして、エントランスが開けられる。ふてぶてしい顔をしたまま、彼女は鍵を渡してきた。

「それは……申し訳なかったですよ。わたしが悪いのだってわかってる。だから頭をさげて頼んだのにっ」いまも、ポストに鍵をセットしろと口には出さずに頼んできちょるっちゅうことか。しかも頭もさげてない。図々しいのう。
「だからなんだ? すでにあの日は寝るところじゃったんぞ」
「悪いのはわかってますよ、だからって、あんな、わざわざ人を傷つける態度」
「俺は生活を乱されたんじゃけど?」
「わたしだって十分、こないだから生活を乱されてます!」
「はあ?」
「そ……だから、本当は優しいでしょ、あなたは。そう思ったらなんか余計に、なんていうか……」
「……なんよ」
「あの日はごめんなさい。それと、ありがとうございました……その、今日も」

深々と頭をさげていた。まったく、どっちなんじゃ。
4才児の男の子を思いだしていた。本当は自分が悪いことをわかっていて、謝れない。だが、「ボク」とは違って、謝罪の習得はできているらしい(大人だから当然だが)。
人にもよるんだろうが、出来が悪い子ほどかわいい。それは教育者として体験済みだ。本人の葛藤を理解したうえで成長した姿を見ていると、一気にほだされるのは職業病なんじゃろうか。

「どういたしまして」

自然と、彼女の頭に手のひらをのせていた。ふっと微笑まれて、はっとする。二度と関わりたくないはずだった女に、なにをしとるんじゃ、俺は……。
とっさに手を離す。あの日に触れた髪と同じツヤから、目をそらした。

「佐久間伊織と言います」
「へ?」
「これは本名です。住まいはここ。本当の仕事は漫画家。いろいろ嘘をついたのは、はしたなさがやましかったし、初対面だから身を守るためでもあった。あなたがそうしたように」
「……当然だ。お互いさまじゃし」
「雅治は? 本名?」聞いてすぐ、あっ、とつづけた。「ごめん、言いたくなかっ」
「本名だ。仁王雅治。あとはご存知のとおり。沖縄にはほぼ、縁はない」
「そっか。お互い、名前だけは本当だったね」
「じゃの……」

どことなく気まずい空気が流れたときだった。妙な気配を感じて振り返ると、エントランス前に、人影が見え隠れしている。同時に、「ひゃっ」という小さな悲鳴。伊織の声だ。

「なんよ?」
「い、いま女の子いたよねっ?」
「女の子?」
「女の子! いつもいるのあの子!」

彼女は急いでエントランスを開けた。その姿はすでに……ということにはもちろん、現実には起こらんもんだ。女の子は、そこに突っ立っていた。こちらを覗き見していたところに扉が開けられて、多少は後ずさったが、まんまるな目をしっかりと俺たちに向けている。

「あの……」と、見つかったと思ったのか、女の子はもごもごと口を動かした。
「しゃ、しゃべれるんだね?」
「おいおい、なにを言うちょるんじゃお前」いくら子ども相手でも、失礼すぎやせんか。
「いや、だって……」

どういうわけか怯えた様子の伊織の横に並んで、俺は膝を折り曲げた。子どもと話すときの目線は、なるべく同じ位置に揃えたい。

「どうした? このマンションの子なんか?」

ぶんぶんと、首を振る。

「家に帰る道がわからんようになったんか?」

ぶんぶんと、首を振る。

「それじゃったら……」
「パパを探しに来たの」
「え、パパ? ああ、なんだ、そうだったの。ここに住んでるの?」

おそらく、伊織も同じように推測したんだろう。急に優しい口調になって、俺の隣で膝を折り曲げた。両親の離婚、パパに会いたいが会えない、なんとか知恵を振り絞ってパパのマンションで待ち伏せしてたら会える……くらいの感じじゃろうけど。

「うん……」

こくん、と頷いたあと、女の子はじっと俺を見つめた。そのわずか、数秒後。

「パパ。会いたかった」

なぜか俺は、女の子に抱きつかれていた。





to be continued...



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