愛するということ_02


2.


伊織先生は呆然としながらただ、黒板を見あげとった。そこにおる生徒全員が固唾をのんだ。ほとんどの連中の顔が、好奇心に満ちとる。気に入らん……めっちゃイラつく。面白がってんのか? 

――佐久間伊織の父親は殺人者!

「伊織先生、すぐに」

消します、と言おうとしたのをさえぎって彼女の口からでた言葉に、俺はずっこけそうになった。

「綺麗な字ですね」
「は?」いま、なんて……?
「ほら、チョークを鉛筆のように持って書いて綺麗な字ならわかります。でもこれ、ここを側面にして黒板に書いてるでしょう?」チョークの長い面をわざわざ見せてきた。「これで書くの難しいと思うんですよ。まず持つのも指先でしか持てないでしょう? しかもこんなに大きく書くと、普通はバランスが取れません。でも、この方、字が綺麗です」

教室中がスーパードポカンタイムに入ったで。
いやいや、え? なに、なにをのん気に言うとるんやこの人は!

「お、俺、消します」
「忍足、俺も手伝う」

伊織先生の第一声にずっとドポカンしとった俺も跡部も、我に返る。こんなもん、いつまでも黒板に残しとってたまるか。けど、俺らが黒板消しを手にして駆け寄ったのもつかの間やった。そんな積極性は、伊織先生によって阻止された。

「あ、二人とも消さないで! せっかくだから」
「え?」「アーン?」

跡部とユニゾンしてまう。これにもまた、全員が呆気にとられた。せっかく……? な、なにが「せっかく」なん。まさか、これドッキリなんか? 伊織先生自身が書いたわけちゃうやろな。

「席についてください。授業がはじまりますよ」
「せやけどっ」
「消したくなったら、わたしが消します。忍足くん、いまこそ『信頼』です」
「そ……俺の課題やないってことですか?」
「……忍足、席につくぞ」

跡部やって、意味がわかっとったわけやないやろう。それでも俺の腕を引っ張った。仕方なし、いちばん前の席が空いとったで、そこに跡部と二人で着席する。いや待ってくれ。ここから座って見てもめっちゃ強烈なんやけど……。なんで消さんまま、授業を進めようとしとるんや。

「なあ、跡部、どういうことやこれ……」
「わからねえ。だが、あの人にもなにか考えがあんじゃねえのか」

コソコソと跡部と話しとると、伊織先生がパッとこっちを見て微笑んだ。声はださんままに、口だけが動く。それは、「ありがとう」やった。うっかり、きゅんとする。

「みなさん、今日は2回目の授業ですね。ひょっとしたら何人もいなくなるんじゃないかと思っていたのですが、全員ここに残ってくださっています。とても嬉しいです。ここにいるみなさんはわたしから個人心理学を学ぶ、または、不具合があったときには個人心理学を実践すると決めてくださったということでしょう。さて、まずは前回、こういうところがわからなかった、などの質問を受けつけたいと思いますが、なにかありますか?」

先生が見渡すと、さっそく生徒の手があがった。嫌な予感がする。にこやかな伊織先生とは対照的な生徒たちの顔が、ほとんど強張っとったからや。

「前回の質問ではないですが、いいでしょうか」
「もちろん、どうぞ」
「黒板にアレを書いたのは僕ではありませんが、気になります。あれは『意見』ですか、それとも『事実』ですか」

ほらな、と思った。そらそうや……。あんな落書き残したまま、授業がどうとか、頭に入ってもこうへんやろ。にしても、嫌味なヤツやな……わざわざ個人心理学の言い回ししよるとか。ホンマにお前ちゃうんやろな! たぶんちゃうやろけど! ああ、あの女、また笑てるやんけ。めっちゃ腹立つ……お前どういうつもりやねん!

「はい、これは事実です」
「ええ!」

ニコッと微笑んだ伊織先生の即答に、教室中がどよめいた。嘘やろ……俺も目をまるくしたまま伊織先生を見てしまう。ただの嫌がらせの戯言やと思っとった。え、伊織先生のお父さん、さ、殺人犯なん!?

「そ、冗談じゃなく、本当ですか!?」
「はい、事実です」
「ちょ、そ、詳細を、教えてください! じゃないと僕たち、不安です!」ほかの生徒からも声があがった。
「それは、わたしが殺人者の娘だからでしょうか」伊織先生は、うんうん、と頷いとる。いやいや、うんうん、ちゃうってば。
「そうですよ! それ以外ありますか!」
「こんなんで、『不安が趣味』とか言いださないでよね!」
「そうだよ、殺人犯の娘に心理学を教わるなんて怖すぎるじゃん!」
「なにしたの、先生のお父さん!」
「いまも刑務所にいるんですか!?」
「伊織先生、そのことどう思ってるの!?」
「なんでそんな人が、学校の教師になってるの!」

何人もの生徒がやいのやいのと声をあげはじめた。まるで記者会見の糾弾で、俺が「ええ加減にせえ!」と、声を荒らげそうになったときやった。

「いい加減にしろてめえら! みっともねえ!」

となりにおった跡部が、先に吠えた。聞いてられへんかったんやろう。さすが跡部や……教室が、また一気に静まり返る。伊織先生は、そのときはじめてマイクを取った。

「わたしの父は、医師でした。患者さんがあまりに苦しんでいる姿に耐えきれず、安楽死させたのです」誰かの、ひゅっと息をのむ声が聞こえる。「裁判で父は有罪となりました。日本では安楽死は認められていません。患者と合意のうえだろうが、それは無関係です。ちなみに父はいまも服役中です。その件について、わたしの思いは……そうですね。父はバカだったと思います。そうした自分を振り返り、しっかり罪を償ってほしいとも思っています」

つまり、嘱託殺人やったっちゅうことか……。

「……本当に合意のうえだったんですか」誰かが、遠慮がちに声をあげた。
「その事実については、わかりません。両者のあいだだけで行われた会話だからです。証拠はなにもありません。それに、患者さんは」
「もう十分です」伊織先生が、なにか言いかけたとき、跡部がそれをさえぎった。横におる俺が、ぎょっとする。「先生の父親がどうであれ、先生の人格や授業内容にはなにも関係がない。納得いかねえってなら、この授業から降りればいい」
「そ……そうだよな跡部! やっぱお前、いいこと言うわ!」と、今度は岳人まで加勢しとる。「伊織先生が犯罪者なわけじゃねえんだからよ!」

……なんとなし、俺の気分がちょい萎えた。やって、なんか、伊織先生モテモテちゃう? おい跡部、お前まさかやけど、伊織先生のこと気になってんちゃうよな。と、いまのこの状況でモヤモヤしとる俺は、いったいなんなんや。

「つうか、誰だよこんなこと書いたの! どういうつもりだよ!」と、岳人は勢いづいたんか、怒りだした。おい待てお前、なに伊織先生の前やからってカッコつけはじめてんねん。
「はい、そこで向日くんに質問です」
「は? え、オレ?」
「はい。これを黒板に書いた人の目的は、なんでしょうか」

はっとした。もしかしてこれ、授業、はじまってんの? え、伊織先生の言うとった「せっかく」って、そういうこと?

「そ……伊織先生に、恨みを持ってんだろ?」
「かもしれませんね。だから?」
「え、だから……伊織先生を、貶めようと、した?」
「はい、それもあるかもしれません。ですが、わたしのこの反応を見て、あるいは跡部くんや忍足くんや向日くんがわたしをかばった様子を見て、これを書いた人はいま、どんな心境でしょうか」
「……え、どんなって……」

なるほど、と思う。前にもなんか言うとった。不適切な行動、やったっけ。あの女は単純に復讐のつもりやったんやろうけど、授業には来とるし、1回目の授業で積極的に質問したところから見ても、真面目に取り組んどった。ちゅうことは、実際の目的は、最終的には……。

「おそらく目的は達成されなかったと思いませんか? この人のとりあえずの目的は、わたしの動揺や、傷つく姿を見ること、あるいは、恥をかかせることかもしれません。『このあいだ、さんざん偉そうなことを言っていたくせに、あの教師はとんでもない家柄だ』とかですね」

「せっかく」の意味が、俺にもようやくわかってきた。置いてけぼりになっとる生徒たちを無視して、伊織先生は落書きされとる黒板を上にスライドしたあと、なにも書かれていない黒板にチョークを走らせていった。このため、やったんや。この落書きを題材に、授業を進めるつもりやったちゅうわけか。

「向日くん、ありがとうございました。座っていただいて結構です」岳人が着席するのと同時に、カツカツと、小気味のええ音がしはじめた。「この人、と言いつづけるのもややこしくなりそうなので、仮に『Aさん』とします。さて、ではAさんはなぜ、そんなことをしたかったのでしょうか」

わかる。言おうとしとることが。せやけど待って。伊織先生、冷静すぎるやろ。どういう神経しとんねん。いや、これはええ意味やけど、ちょっと信じられへん。

「ひょっとしてこれも、『社会への所属』の道っちゅうわけですか?」

当てられてもないのに、俺は声をあげとった。いちばん前の席やったことが幸いして、俺の声は伊織先生にすぐに届いた。伊織先生はパッと俺に顔を向けると、嬉しそうに微笑んだ。

「さすがですね、忍足くん。理解も、頭の回転も早いですね。前回の復習を少ししましょう。Aさんに限らず、人間のすべての目的は『社会への所属』です。なぜなら、人間はひとりで生きられないから、でしたね。わたしたちはたくさんの人の力があって生きています。電車を走らせてくれている人。着ている服。栄養を摂取するための食材。住んでいる家。廃棄物の処理、などなど……生きていくうえで必要なことは、あらゆる人の助けによって成り立っています。だからわたしたちは、人の役に立ちたいし、人を大切にしたい。そのために、よい方法で『社会への所属』をしたいのです。前回、わたしは後半に『個人心理学を学べば魅力的になれる。愛すこともできる、愛されることもできる』という言葉を使って、みなさんを誘惑しました」

え、誘惑? と、女子生徒が声をもらした。

「嘘だったってことですか!?」必死や。どんだけ愛されてへんねんお前。
「ふふ。嘘ではありませんし、洗脳でもありませんから安心してください。ですが個人心理学は、みなさんが幸せをつかむためでもある一方で、まずはみなさんの周りの人を幸せにするために学ぶものです。なぜなら、周りを幸せにできない人は、絶対に幸福にはなり得ないからです。真の幸福とは、お金でも地位でも名誉でもない。『わたしは人々の仲間だ』『わたしは貢献している』と感じることなのです。そこに『わたしの居場所』を感じることでしか得られないものなのです。ですからまずは、自分が変わる。相手を変えようとしても変わりません。まずは自分がよい方法で『社会への所属』ができるように学んでいきましょう。心の『構え』を変えてほしいんです。目標は、人を援助することができるようになること。それが『愛し、愛される』こと、『わたしもいい、あなたもいい』に繋がります。ここまではいいですね?」
「……はい、まあ、わかりました」
「ありがとうございます。さて、話を戻しましょう。所属するためにはなんらかの行為をしないと、所属できません。たとえば、贈り物をあげるとか。たとえば、悪口を言うとかで所属するわけです。人の役に立って所属するという方法と、人の邪魔をして所属するという方法がある。 個人心理学では、これを大変難しい言葉で、『conjunct』『disjunct』と言います」カツカツと、今度は難しい英単語を書きじはじめた。「これは『人のほうに近づく』『人のほうから遠ざかる』という意味です。中身は、人の役に立って所属するか、人の邪魔をして所属するか。どっちも所属できます。忍足くんが前に、幼少期の話をしてくれましたね」

――俺が、小さいころです。母親の家事の邪魔ばっかりしてました。わざと水をこぼしてみたり、忙しいとわかっとるときに限って、部屋をひっちゃかめっちゃかにしたり。

恥ずかしげもなく、俺は前の授業でオカンを困らせた話をした。ぶり返されて、余計に恥ずかしくなる。

「お母さまの家事の邪魔をして所属しようとしたわけです。あれも所属の道なんです。一方で、お手伝いもできたでしょう。それも所属の道。ふたつの道のどちらも選べます。この『どちらも選べる』がすっごい大事なんです。我々はどんな場合も『どちらも選べる』んです。あらゆる場合に複数の可能性から選択をしていってます。この考え方を、『個人の主体性』といいます。ここまではいいでしょうか?」
「ちょ、ちょお待ってください、先生」

俺は、たまらず手をあげた。前に授業で聞いたことやけど、話がぐんぐん進んでいきそうや。その前にケリつけときたいねん。なにを意気揚々と無かったことにしようとしとるんや、伊織先生は。

「はい、なんでしょうか」
「所属が目的やからって、こんなんしたらあかんでしょ。たとえそれが、事実やとしてもです。先生は、腹が立たへんの?」俺が子どものころはともかく、や。もう俺ら、高3や。善悪の判断もつく。
「立ちますよお。わたしは仕事が好きですが、ずっとハッピーかというと、そんなこともないです。いまも、『ムカつくガキがいるなあ』って思ってますよ。誰かはわかりませんが、Aさんのこと」
「え……」お、思ってたんや。この伊織先生の急なキャラ変え、まだちょっと慣れへんな。
「ですがその『ムカつく』は一瞬でした。Aさんをこの行為に及ばせたのは、Aさんにとってわたしがムカついたからでしょう。その点は反省です。ひょっとしたら競合的だったのかもしれません」
「へ?」
「なにかしたのかも。あまり覚えはありませんが、Aさんに競合的になって、劣等の位置に落としてしまったのかもしれません。だいたい教師やカウンセラーになろうなんて人間は、そもそも強烈な競合精神の持ち主です。人の課題に口を出したいんですから。あるいは、適切な行動にわたしが注目しなかったので、不適切な行動で注目をしてもらおうとしているのかもしれません。ですが、わたしは不適切な行動には注目を与えないのが、いちばん賢いと思っています。『だけど先生、題材にまでして、注目しちゃってるじゃん』と思うでしょうね。実はこれは注目とはちょっと違います。それについてはあとで説明しますね。さて、忍足くんがいい質問をしてくださったので、ここで少し『注目』についてお話します」

伊織先生が黒板に向き直った。「正の注目」「負の注目」と書かれていく。俺の話、まだあるんやけど……しゃあない、とりあえず、黙った。

「個人心理学でいう『注目』とは、感情を与えることです。人はなにかに注目するとき、必ずそこに感情を持っています。感情は『考え』からくるからです。『正の注目』とは喜びや親しさのようなプラスの感情をもって関心を示すこと。『負の注目』とは怒りや不安のようなマイナスの感情をもって関心を示すことです。わたしがこの落書きにたいし、ニコニコしながら『これを書いたのは誰ですか。どういうつもりですか。犯人は手を挙げなさい』と言ったら、これは『正の注目』でしょうか、『負の注目』でしょうか。みなさん、Aさんになりきって考えてみてくださいね」
「……怒ってんじゃんって、思う」前方におる女子生徒が、ぽつりとつぶやいた。周りの生徒も頷いとる。ごもっともや。「だから、『負の注目』かな?」
「そうですね、ニコニコしていますが怒っている、と感じるでしょう。みなさんもよくありませんか? たとえば男性が女性にたいして『なに怒ってるの?』『怒ってないけど?』と返される。だけどなんだかツンツンしてる。とても不毛なやりとりですね。つまり言葉でどう取りつくろっても、怒りや不安のマイナス感情というのはオーラでわかります。あれと同じことなんです」

教室に笑いが起きた。みんな、思い当たる節が大いにあるんやろう。俺のオトンとオカンも、しょっちゅうそんな会話しとるわ。
しっかし……自分が貶められた落書きで、よう笑いが取れるなこの人……メンタルどうなっとるんや。

「そして、わたしを怒らせている、という事実に、あなたはどう思いますか? Aさんになりきって答えてみてください」伊織先生は女子生徒につづけた。
「え……あー、うまくいった?」
「そうですよね? つまり、自分の不適切な行動により、相手が反応してくれたことに価値を得る、ということです。注目してくれているのは、まったく見捨てられているわけではない、と感じます。小さいころの忍足くんの不適切な行動と、似ていると思いませんか?」

今度は冷やかすような笑い声があがって、俺はまた恥ずかしい気分になった。せやけど、あの女はもっと恥ずかしいやろう。ガキがやっとることと変わらんって言われたも同然や。

「えっと、すみません。そもそもなんですけど、なんでそんなことで注目させようとするんですか? 普通に、いいことをして注目を得たほうが、えーっと……『正の注目』ってのを、得られるんですよね? そっちのほうが気持ちいいと思うんですけど」

ほかの生徒が割って入ってくる。当然や。あたりまえに生きてきとったら、こんなアホな真似しようなんて思わへん。ホンマ、これこそ親の顔が見てみたいっちゅうやつやろ。

「おっしゃるとおりです。ですがAさんはずっと、いろんな人に勇気をくじかれてきたのかもしれません。ずっと無視されてきたのかもしれないんです」
「え、無視?」
「端的にいえばそういうことです。考えてみてください。『正の注目』も『負の注目』も得られず人から無視された場合、どんなふうに感じますか? これは人間にとって、最もつらい体験です。人間は、無視されるよりは『負の注目』をされてでも関心を引きたい。だから不適切なことをして、せめてでも『注目を得よう』と考えているのかもしれません」
「え、でもそうなると、結局なんていうか、堂々巡りにならないですか?」
「そうですね。『負の注目』を与えるということは、マイナスの感情で反応するということ。そしてまた、マイナスの感情を与えられる。マイナスの感情のキャッチボールがはじまると悪循環に陥ります。この状態を『権力争い』といいます。『権力争い』がある限り、人が人を援助することはできません。ですからみなさんにまず実践していただきたいことは、人間との『権力争い』をやめることです」

そこまで聞いて、俺はすかさず声をあげた。

「先生、待ってください」
「はい、どうしましたか?」
「ほな伊織先生は、これを黙って見過ごせって言うとるんですか?」うやむやになっとったとこ、悪いけど。俺はハッキリさせたい一心で、黒板を指さした。「俺は許せへんけど」
「あ、忍足くんは、そうなんですか? 許せない?」きょとん、としはった。いや、きょとん、ちゃうがな。
「許せんでしょ、普通、こんなん誰やって」

ああ、そうや。前もそうやった。なんかしらんけどモヤモヤすんねん。言うとることはわかるけど、なんでこっちが我慢せなあかんの? なんで真っ当に生きとる人間が、悪どい人間に合わせていかなあかんねんな。だってそうやろ。俺は大切な人を……は、ちょお言い過ぎか。とにかく伊織先生を傷つけられて、それを許すことなんかできへん。

「いいタイミングな気がします」と、伊織先生が人差し指をあげた。「みなさん、近くの席の人と、『許せない』エピソードについて共有してみてください。最近のほうがいいですが、昔のことでもかまいません。相談役と相談者になりきって……そうですね、5分ほど時間をつかってやってみましょう」
「相談、かあ」誰かがぼやっと声をあげる。悩みなんかなさそうな声やった。
「はい。相談を受ける人は、これまで学んだ個人心理学をフルに使ってみてくださいね。ポイントは、相談者を尊敬、信頼すること。裁判官のように相手を『善い/悪い』『正しい/間違っている』などと判断することを避けて、相手を援助することを目的に、『相手の目で見、相手の耳で聞き、相手の心で考えて』聴くことです。では、どうぞ」

パン、と伊織先生の手が叩かれた。生徒たちは次々に仲のいいヤツらと組みはじめとる。岳人……と思っとったけど、岳人はすでにほかの生徒に取られとるあげく、席も遠い。当然のように、俺は跡部と顔を見合わせた。

「……お前になにを相談しろと?」
「俺が聞きたいわ……」腕組みをしとる。全然、話す気ないやろこいつ。まあええ、それやったら俺やな。「俺の『許せへん』はもうアレや、アレ」

黒板にある『佐久間伊織の父親は殺人者!』に指をさすと、跡部は静かに頷いた。

「熱くなってやがったな、最初から」
「お前もやんけ。ちゅうか、正直、みんなもおかしいと思ってんねん。結構前から教室におったヤツもおるやろ。ひょっとしたら書いとるの見とったヤツもおるかもしれへん。それやのに、なんで誰も注意せんかったん? なんで消さんかったんや。いじめを見て見ぬ振りする連中と一緒やないか」

この落書きが残っとったっちゅうことは、お前らにそういう正義感はないってことなんやな。と、考えれば考えるほどイライラは募る。せやけど、俺の声は静かやったはずや。ごく冷静に、抑揚もつけずにしゃべっとった。

「まあ、その意見には同意する」
「せやろ? はあ、話せば話すほど、ホンマに我慢ならん。ちょうどええわ、ちょお言うてくる」

俺は席を立とうとした。犯人に向かって行って、文句を言わな気が済まんかったからや。せやけど、すぐさま腕が強くつかまれて、え、と固まりそうになる。なんでかしらんけど、跡部が俺を止めにかかっとった。

「それ以上は熱くなるな、忍足」しかも、眉間にシワが寄っとる。
「いや……なんで止めんねんな」
「誰かは俺もわかってる。だが、お前が文句を言ってどうなる。ただの落書きだろ」
「は……はあ? ただの落書きやと? 跡部なあ、それくらいって思ってんのか? 俺はちゃうで。こんなん、人のこと傷つけようとしとる最低の行為やろ」

女を睨みつけとったら、目が合った。さっと逸らしよったで。わかっとったけど、やっぱりお前やな。

「伊織先生も面倒やろ。Aさん、本名で呼べるように俺がケリつけたるわ」
「忍足、いい加減にしろ。授業中だぞ」だんだんと、跡部の声が尖ってきたことには気づいとった。いや、なんでなん?
「授業中やからなんなん? お前も黙って見過ごせ言うんか?」ちゅうか、お前も怒っとったやないか。いまさらなんやねん。「なに? 跡部、優等生ぶってんの?」
「ぶってねえよ。授業中だと言っているだろうが。みっともねえ真似すんなって言ってんだ」
「待て待て、誰がみっともないやと? 俺はケリつけたいだけや」
「放っておけ。犯人がわかったところで、あそこに書かれてあることは事実だったんだからな」

耳を疑うっちゅうのはこういうことや。事実やからなんやねん。事実やったらなんでもやってええんか?

「……お前、さすが氷の帝王やな。冷たい男やわ。こんなん先生だけ晒されて、フェアやないやろっ」
「それは人の課題に土足で踏み込んでることになるだろうが。まったく、なにも学習できてねえな、てめえは」
「そんなん、俺がイライラしてんねんから俺の課題でもあるやんけ。人のつらい過去をほじくり返して晒したんはあいつや。ほなこっちも晒したろやないか」
「絶対にやめろ。ぶり返してどうする。いいか、やるってんなら貴様はグラウンド100周だ」
「はあ? なんでそんな話になんねんなっ。晒したあかん、みんな仲よく、とか思ってんのか? 悪いことしたら謝るんが筋やろが」
「いまやることじゃねえって言ってんだよ。マジで走らせるぞバカが!」
「誰が走るかボケ! ほんでバカって言うたないま?」バカは頭にくんねん、関西人はな。「カッコつけ。ボンボン。天然。俺がまた坊主にしたろかっ」
「貴様、忍足!」
「なんや跡部!」
「はい、そこまでにしましょうか」

最初は冷静に言い合っとったつもりやったけど、一気に跡部と俺の喧嘩がはじまりかけたところで、伊織先生がパン、と手を叩いた。その音が近すぎてビクッとする。見あげると、すぐ横に伊織先生が立っとった。
うわ、あかん……聞かれとった? いまの。

「本当は、みなさんが相手役から聞いたエピソードを題材に、個人心理学的にはどう相手の話を聴くか、を実践したかったんですが、忍足くんと跡部くんが、いますごくいいタイミングで言い合いしていましたので、このまま題材にさせてください。忍足くん、ちょっとこちらまで来ていただけますか?」
「え……」
「オープンカウンセリングをさせてください。いま、跡部くんにイラッとしてましたよね?」
「……し、してへん」
「ふふ。本当に? 頭で考えず、ご自分の体を観察してみてください。体が緊張しているはずです。さっきから組んでいる足が貧乏ゆすりしていました。しゃべっているとき、忍足くんの右手は何度もぎゅっと拳をつくっていました。忍足くん、どうでしょうか」

伊織先生の穏やかな笑みに負けて、俺は黙ったまま教壇に向かった。授業を受けとる全生徒がこっちに注目しとる。やってもうた……こういうんだけは、避けたかったんやけど。

「さて、みなさんもお友だちの相談に乗ることがありますね。今回はちょっと、そんな気楽な風景だと思って見ていてください。忍足くん、なにがありましたか。さきほどの跡部くんとのやりとりを、わたしが知らない想定で話してみてください」
「え……」

見とった人に知らん想定って、えらい難しいな。まあでも、伊織先生も最初から聞いとったわけやないんやろう。ちょうどええ。あの女を晒す機会にもなる。俺は跡部にあれほど言われてもまだ、諦めてなかった。

「跡部が、いじわる言うた」ぷ、と誰かが吹きだす。なにがおもろいねん。
「そうですか。どう思いましたか? ここは正直に答えてくださいね」
「……偉そうに。邪魔すんなや、かな」はっ、と、跡部の苛立った声が響く。ホンマのことやからな。
「ありがとう。さてここで、『なるほどね。跡部くんにも問題はあるでしょうが、きっと忍足くんにも問題がありますね』とわたしが言ったら?」
「え、冷た……」急にドライになるん、やめてえや。
「ふふ。そうなんです。わたしが言っていることは事実なんですが」事実なんかいっ。とツッコむ気力も失せてくる。「こんなことを冒頭でいうと、だいたいの人は勇気をくじかれます。しかしズバッと言う人は意外と多いものです。でもみなさん、注意してください。個人心理学的な生き方をしたいわたしたちの目的は、事実を伝えることよりも『勇気づけ』をすることです」
「ちょっと待ってください先生。俺にも問題があると……? それが事実だってのか?」跡部も黙ってられへん様子や。
「事実上はそうだと思います。ここでは忍足くんと跡部くんの諍いを、少し大げさに『不幸』と定義しましょう。ある人の不幸は、その人がつくりだしているんです、残念なことに。だって周りの人には、その人を不幸にする理由がないんです。意見の食い違う友人であれ、嫌な上司であれ、困った恋人であれ、『わたし』をわざわざ不幸にするために努力をする理由は、普通ないんです。『わたし』が、なにかある行為をして、相手を怒らせるなり嫌がらせするなりして、相手がそれに反応して『わたし』が不幸になっているので、『わたし』の不幸のイニシアチブを取っているのは、『わたし』だということに気がついておきたい。『わたし』の不幸は全部『わたし』がつくりだしています。100パーセント『わたし』がつくりだしています。すごく面白い考え方なんです。だから『わたし』が100パーセント取り除けるんです」

目から鱗が落ちそうになる。俺は「不幸」と呼ばれるほどの体験はないけどやな……たとえば伊織先生の「離婚」とか、落書きの「嫌がらせ」もそうやけど。それってまあまあ「不幸」やろ。でもそれは、当事者がつくっとるってことか? ちゃうやん。あの女がつくったやん? 離婚かてどうせ、旦那がろくでもないヤツやったんや、絶対。伊織先生、ええ人やもん。

「では、つづきをどうぞ?」
「え、ああ……いやせやから、跡部がいじわる言うたってだけです。いつもやねん、こいつ」
「おい忍足」
「ホンマのことやろ。ことあるごとに、なんや反発したらいじわる言うてきよる」
「忍足!」
「なんや跡部!」
「はいはい、ちょっとストップ。ふふ」

伊織先生だけやない。教室の生徒たちまで笑いはじめて、俺と跡部はむすっとした。ホンマやし。ちょっとなんか言うたら、跡部すぐ、グラウンドって言いはじめよる。気に入らん。部長やからって、なに偉そうに命令してんねん。

「忍足くんがいま話したのは、『いつもこうですよ』ということなんですが、これは『レポート』と言います。一方で、わたしは『エピソード』を聞きたいのです。エピソードとは、『ある日あるときこういうことで、1回だけこういうことがありました』というものです。このふたつをきっちり区別して、我々はいつもエピソードを材料に話をします。それはどうしてかというと、個人心理学は科学だからです。科学は事実をもとにして考えはじめます。事実という観察ができるもの。五感でもって観察ができるものから出発して、理論という目に見えない理屈をそこへ当てはめて、結局どんなことが起こるかを予測して、起こることがまずいんだと、どうすればそれを予防できるかを考えるというのが、科学技術というものなんですね。だから出発点として、事実をおさえなきゃいけないんです。心理学においての事実とは、『エピソード』なんです。ある日あるところで1回だけ起こった出来事が事実です。ですから、そこから出発します。さて、忍足くん。エピソードを話してください」
「……ん、せやから、俺がまず、『イライラはあれや』って言って、黒板を指さして……」

さっきの跡部との会話を思いだしながら、ぽつぽつしゃべった。伊織先生が黒板にすらすらと俺と跡部の言ったセリフを書いていく。
書きだされると、めっちゃ間抜けや……しょうもない諍いやったことがさらにバレて、教室中がくすくす笑いで満たされとる。跡部もめっちゃ、嫌そうな顔をしとった。

「はい、これで全部、書きだしました。忍足くん、跡部くんのセリフのひとつひとつに、ご自身の感情の点数をつけてください。マイナス5からプラス5まで。もちろん、マイナスは嫌な感情、プラスは気持ちのよい感情です」
「自分の感覚でええんですか?」
「もちろん、忍足くんの感情ですから、忍足くんにしかわかりません。どうぞ?」

言われたとおり、跡部のセリフの横に、俺は「−4」とか「−2」とか書きはじめた。
たとえば、「いい加減にしろ」には「−1」、「みっともねえ」「放っておけ」に「−2」、「学習できてねえ」に「−3」「グラウンド100周」に「−4」、「バカが」には「−5」や! ちゅう感じで……。
そうやって俺が思いだしてムカムカしとる横で、伊織先生はグラフみたいなもんを書きはじめた。縦棒の真んなかから右方向に横棒が入っとる。縦棒の上半分はプラス、下半分はマイナスの領域や。マイナス領域に何個も、マイナスが円で囲まれた図が点在しとって、それを棒線でつなげとる。まるで数学の授業やった。ちゅうか、俺のマイナス、暴落したんかっちゅうくらい綺麗に下がっていっとるな。

「ありがとうございます。この図は、忍足くんの感情の動きを推測したものです。ずっとマイナスで、どんどん下がってます。そもそも黒板の落書きに苛立っていたようですから、マイナス感情からのスタートですね。そのマイナス感情が、跡部くんによってさらに落とされている。実際は、こんなグラフにしなくても頭のなかでわかっていればOKです。なぜいまグラフにしたかというと、人間の感情ってこんなふうにずーっと連続的に動いているんだってことを知ってほしいんです。グラフに書けるような動き方をしているんですね。エピソードを聞けばそれがよくわかります。つまり人間は、突然に怒るってことがないんです。それまでなにかあって怒るんですが、前後があるんです。それがだんだん収まったりする。ただ、忍足くんの場合は下落しつづけていますね。それが1点」

たしかに……間抜けやけど、グラフにすると自分がいかに単純かようわかる。めっちゃ挑発に乗ったんやな、俺……ちょっとはずい。

「もう1点は、感情の名前です。これは日本人の特徴ですが、我々日本人は、感情の名前をはっきり答えられません。ためしに聞いてみましょう。跡部くん、忍足くんとの諍い中、いろんな感情がありましたね。名前を教えてください」
「む……そうですね。いきがってやがると思ったんですが」
「誰がやねんっ」
「忍足くん、少し落ち着いてくださいね。さて跡部くんの言った『いきがってやがる』は、果たして感情の名前でしょうか。実はそれは、感情ではなく思考です」

全員が、はっとした。たしかに。俺も「バカにしよって」と思ったけど、それは思考や。感情とは違う。

「これは跡部くんが間違ったのではありません。日本語は、考えると感じるとを、きっちり区別しないんです。なぜかというと、多分、これはわたしの推測ですが、『思う』という単語があるからです。日本語の『思う』に相当する言葉は、実は英語にはありません。 英語だと、『I think』と言ったら、うしろに考えがきます。『I think that』というふうに。『I feel』と言えば、うしろに感情がきます。『I feel anxious』とか『I feel angry』とか、感情の名前がきます。明快に、思考と感情が言語上区別されている。しかし日本人は思考でも感情でも言える『思う』という動詞があります。便利な動詞なんですね。その結果、日本人は感情をあまり細かく区別しない。なるべく感情をあからさまに言葉にせず、『月が雲に隠されたようです』とか『いきなり風が吹いたようです』とか、象徴的にいうのが昔からの日本の文学の習慣です。百人一首のころからそうなんです。『不安』というものも、『anxious』という不安と『fear』 という不安と、実際は細かく違うんです。でも日本語は全部『不安です』で終わります。 ですから、『怒りですか?』『そうです』と、これくらいでパスします」
「あの先生、せやけどそれやと、適当にならんのですか?」
「なりますね。だからここで、一応の点数をつけているんです。『−5』から『+5』で採点をしています。『0』を入れると11段階評価です。これはわりと正確なんです。『−2』だとまだ理性が残っていて、『−3』だとブチ切れかかってるんです」

生徒たちが笑いだす。俺と跡部の会話が、先生が言うとるまんまやったからやろう。めっちゃ悔しいんやけど……あの女やなくて、俺の恥部が晒されとるやんっ。

「そして『−5』だと完全に怒っ てます。だから一応、『−3』になったら、次の行動はやめたほうが得策です。『−2』だと動いてもまあ大丈夫だけど、『−3』で動くと、ろくでもない競合的なことするんです。ね? このとおりです」
今度こそ、みんながはっきり笑いだした。「ちょ、勘弁してくれ……」
「ふふ。いいんですよ忍足くん。みんな笑ってますが、みんな同じような経験があるはずです。さてエピソードを聞いたら、今度は対処行動について考えます。跡部くんの行動にたいして、忍足くんがやった行動を見つけて注目します。本来は相談者の方と一緒に考えますが、ここでは一旦、いちばんの見どころを抜粋しましょう」

――いまやることじゃねえって言ってんだよ。マジで走らせるぞバカが!
――誰が走るかボケ! ほんでバカって言うたないま? カッコつけ。ボンボン。天然。俺がまた坊主にしたろかっ。

「跡部くんの『バカが!』にたいして、忍足くんの対処行動は『誰が走るかボケ!』からの言葉にあたります。対処行動を起こさなければならない困った事態のことを『ライフタスク』と言います。覚えていますか? 人生で解決すべき課題のことです」
「こ、こんなんが俺の課題ですか?」
「そうですよ? ご飯を食べるのも、トイレに行くのも、跡部くんの挑発に忍足くんがどう答えるか。すべて同じ課題です」
「……ぐ」なんや、屈辱なんやけど。
「ある出来事にたいしてライフタスクだと感じると、そこには『劣等感』があります。理論的には劣等感には深い意味がありますが、時間がまったく足りないので説明を省きますね。ここでは、具体的にはさまざまの陰性感情として感じられるものだと捉えていてください。怒り、不安、焦り、悲しみ、モヤモヤ、イライラ、などのことです。たいしてハッピーなのは、陽性感情です。相手があることを言って、こちらが陰性感情を感じたら、相手の言葉はライフタスクです。陰性感情を感じないとか、陽性感情を感じたら、別に処理しなくていいので、ライフタスクではありません。相手の行動に、感情をプラスかマイナスでひくのは、それを処理すべきライフタスクだと思ったかどうかを知るためです。陰性感情をどういう目的で持つかというと、この出来事に対処しないといけないかな、放っておいてもいいかな、を知るために我々は陰性感情を持ちます。つまり、陰性感情をもった相手の行動は、放っておけないんです。なにかしないといけないんです。『ああ、そうですか』と言えないんです。言えなかったんですよね? 忍足くん」
「……言えへんかったですね」ホンマに情けなくなってくる。
「大丈夫です、跡部くんも言えてません」
「む……」跡部も気まずいんか、目を逸らした。
「だからタスク。処理すべき課題なんです。さて、みなさん。すべての行動には目的があります。ということは、忍足くんの対処行動にも目的があるんです。目的はなにかというと、相手をある状態にすることです」
「ある状態……?」
「そうです。『−5』はすでに話し合いを放棄していますので却下。では忍足くん、自分が対処行動を取ったな、と思う部分はどこでしょうか? ご自身がライフタスクを感じて、現状を打開し解決しようとした行動です」
「ここ……ですかね」まだはっきりわからんかったけど、跡部に「冷たい男」と言うた部分を指さした。
「そうですね。わたしもそう思います。忍足くんはAさんが誰か、なんとなくの見当がついているので、その人の名前を公表しようとしていました。それにたいして跡部くんはこう言いました」

――放っておけ。犯人がわかったところであそこに書かれてあることは事実だったんだからな。

「この跡部くんの発言に、忍足くんは『−2』をつけています。このときの忍足くんの対処行動は……」

――お前、さすが氷の帝王やな。冷たい男やわ。こんなん先生だけ晒されて、フェアやないやろっ。

「そして忍足くんの対処行動に、跡部くんはこう言いました」

――それは人の課題に土足で踏み込んでることになるだろうが。まったく、なにも学習できてねえな、てめえは。

「ここでは『−3』がついていますから、忍足くんは思った反応を得られなかったということになります。現状が理想通りではない、という危機を感じています。つまりこれが『劣等感』です。では忍足くん、跡部くんの発言、なにが気に入らなかったんでしょうか」
「えっと……事実やからなんでもやってええことにはならんっちゅう、感じなんですけど」
「なるほど。どんな感情でした? 怒り? 不安?」
「……怒り半分、悲しみもあるかな」
「うんうん、いいですね。詳細に答えてくださってありがとうございます。さて、忍足くんにとって、跡部くんの発言は理想とは違うものでした。では忍足くん、このとき、跡部くんになんて言ってほしかったですか?」
「え……いや、そら、賛同を得たかったかな。『たしかにフェアじゃないな』とか」
「それだけ?」
「え、それだけって?」
「それはキラキラした理想状態ですか?」
「き、キラキラ?」
「そうです。跡部くんの言葉にうっとりして、周りがお花畑、すべてが輝いて見える、くらいのキラキラ状態です」
「……跡部にそんなん期待してません」また笑い声があがる。いや、そらそうやろ。なんで跡部とキラキラにならなあかんねん、気色悪い。
「ふふ。頑固ですね。ですが、人間には必ず『仮想的目標』というのがあるのです。自分ではなかなか気づきにくいんですよ」
「先生、『仮想的目標』とは、どういう定義ですか」むっとしたまま、跡部が質問する。はっ、お前はどこまでいっても優等生やな。
「ええ、ご説明します」

先生が黒板に向き直った。さっきのグラフの斜め上に、「仮想的目標」と書いて、ご丁寧にもその周りに、キラキラした星やら、花とかを描いて、あげくふわふわした雲みたいなものでぐるっと取り囲む。いかにも……キラキラお花畑の世界や。こんなん俺が思っとるって? 頭わいとるヤツやないか。俺、そういうキャラちゃう!

「対処行動によって解決しようとしている目標があります。個人心理学は『原因論』ではなく『目的論』だと言いましたね。この分析は、相談者の目的を知るためにやっているんです。それはキラキラした理想状態なのですが、イメージのなかにだけあって、エピソードのなかではほとんどの場合、実現しません。そのような理想の目標を『仮想的目標』と呼びます。なぜ『仮想的』かというと、実際には実現していないからです。ただイメージのなかだけに存在します。人はイメージのなかの目標に向かって対処行動を選んでいます。さて、そろそろ忍足くんに本音を言ってもらいましょう。『たしかにフェアじゃないな』は、一旦の目標でしたね?」
「まあ……そうですね」
「もっとハッピーなのはなんでしょう。たとえば跡部くんが、『たしかにフェアじゃないな。お前が言うことは正論だ』と言ったら?」
「あ……うん、それはちょっと、ええかも?」悪くない。跡部が言うたら、気分もええ。
「では、『たしかにフェアじゃないな。お前が言うことは正論だ』だけが、忍足くんのキラキラ状態? 『+5』ですか? いいんですよ? 仮想なんだから遠慮せず。たとえば、こう付け加えられたらどうでしょう。『お前は情深いヤツだな。俺には思いつきもしなかった。さすが忍足だ。それでこそ氷帝の要。俺はテニスではNo.1だが、お前の優しい心には、足元にも及ばない。忍足あっての氷帝テニス部だ。いや、忍足なしでは成り立たない。これからもよろしくな』とか」

ありえへん、わかっとる。それでも俺は伊織先生が妄想した跡部発言を聞きながら、ニヤニヤ頷きはじめとった。教室中が爆笑しとる。岳人やなんて手え叩いて笑っとる。跡部は大きなため息を吐くように、天井を見あげとった。

「はい、みなさん。表情を見ればすぐわかりましたね? これが忍足くんの『仮想的目標』のようです」
「めっちゃ、気持ちええ」言われた気になって、満足やった。
「言うわけねえだろ!」我慢ならんかったんやろう、跡部がついに吠えた。
「ふふっ、跡部くん、落ち着きましょう。だから『仮想的目標』なんです。つまり跡部くんの言う、『言うわけない』ものに向かって対処行動した、ということがわかりました」
「いや先生、俺、気分はようなったけど、さすがにこんなこと思ってへんで?」
「はい、そう思うでしょうね。でも、そういうものなんです。気分がよかったということは、それが理想なんです。これは、忍足くんだからではありません。多くの場合がそうなんです。このときはじめてわかります。つまり、人間というのは、すっごく大それたことを願って行動してるんです、いつも。はっきり言葉にしてみてそれがはじめてわかる。跡部くんがおっしゃるとおり、厚かましすぎる目標ですね。ですが、忍足くんだけではありません、みんなそうやって行動しているんです。みんな笑ってしまうものなんです。でも、みなさんもうおわかりのはず。忍足くんの対処行動では、目標は達成されません。さて、『仮想的目標』を出したことには意味がありますし、実は『仮想的目標』には条件もあるのですが、今日はそろそろ授業も終わりそうですから、つづきはまた次回にしましょう」

えっ、と、全員が時計を見た。めっちゃ面白くなってきたとこやったのに。たしかに、もうすぐ50分が経とうとしとる。
あ、あかん、なんかやわらかいほのぼのした雰囲気で終わっとるけど、あいつに文句、言えへんやんけ!

「ちょ、待って先生」
「いいえ、忍足くん。席についてください」

ピシャリと言われて、俺はしぶしぶ席についた。モヤモヤする。あの女、絶対にホッとしとるよな。次の授業は1週間後や。そのころにぶり返したところで、なんの効果もなくなるやん。

「今日わたしがみなさん知ってもらいたかったのは、人間、誰もが欠点を持っているということです。わたしなんて忘れん坊さんだし、お寝坊さんで、欠点だらけの人間だと思います。よくいろんな人に『あなたね』って言われます。本当にそのとおりです。けれども、収支決算すると黒字なんです、わたしという人間は。みなさんも黒字です。それでいいんです。この落書きをした方も、もちろん黒字です」

そんなわけない。あの女は根性がひねくれとる。こんな方法で、伊織先生を傷つけようとして。陰湿や。卑劣で、最低やないか。

「はじめに、不適切な行動には注目しないのがいい、と言いました。ですがわたしはこの落書きを題材にしましたね。それは注目ではない、と言ったのは、そこにわたしの陰性感情がないからです。落書きの内容への執着ではなく、授業の題材にしてみんなと一緒に考えようとしたのは、陰性感情を消すためです。『負の注目を与える』というのは『陰性感情をもって接する』というのが定義です。ですから不適切な行動にも、陰性感情がなければ接してもいいです。その結果、この落書きは今日の講義を豊かなものにしてくれました。不適切な行動かもしれないですが、貢献になりました。ですからみなさん、まず、大きな花を咲かせましょう。マイナスを取り除いたら素晴らしい世界がくるという発想は違います。プラスをはっきりとイメージしてプラスをつくっていくということなんです。だから、『自分はどんなふうにして世のため人のために役に立って生きていくか』というのがわたしたちの課題で、そのことに向かって花を咲かせれば、あとはゴチャゴチャもあるけど、そんなものは放っておいたらよろしいのです」

正直、難しい。このときの俺にはまだ、伊織先生の言葉が綺麗ごとにしか聞こえへんかった。それでも伊織先生の言いぶんに、強く惹かれた自分がおった。





午後になると、雨が降ってきた。部活も中止になったで、俺は一旦、教室でぼうっとしてから、今日の授業のことを考えとった。全然、腹の虫がおさまらん。跡部のいうとおりや。なにも学習できてないんやろう。めっちゃ競合的やし、めっちゃ陰性感情が噴出しとる。
せやけど、伊織先生の教えに背くことは、やっぱりしたない……。俺は周りの目を気にしつつも、相談室に向かった。
こんなモヤモヤ抱えたの久々やで、それを収めてくれるんは、伊織先生しかおらんやろ……。

「すんません、失礼してもええですか」

相談室の扉を開けると、伊織先生はバッグのなかを整理しとるところやった。はっとして時計を見る。
そうや、相談室の時間って、17時までやったような気がするわ……あかん、10分も過ぎとるやん。なにしてんねん俺……。

「あら、忍足くん。今日は、ありがとうございました。授業、とても助かりましたよ」
「そうですか? 俺はちょっと、はずかったけど」
「ふふ。陰性感情でした?」
「いや……」先生の笑顔を見るだけで、ちょっと癒やされる自分がおった。「そこまでやないです。授業は今日も、おもろかったですし」
「よかったです。でも、ここに来たってことは、ひょっとして相談ですか?」
「ん……まあ、なんちゅうか。まあ、そうです。けど、時間が過ぎてますよね。出直します」
「あらら、いいんですよ。少しくらいどうってことないです。さあ、座って」

心が綺麗な人に見つめられると、自分がめっちゃダメ人間に思えてきた。一旦は遠慮しようと思ったけど、伊織先生の優しさに触れたい欲求が我慢できへん。こういうんも、実はめっちゃ図々しいよな……けど、欠点のない人間なんかおらんって、先生も言うてはったし。 

「なんで、伊織先生は許せるんですか」
「……落書きの件ですか?」
「ん……。伊織先生の課題やってことはわかってます。せやけど、嫌な気分なんや。書いたのが誰か、わかっとるからかもしれんけど。伊織先生は、犯人の追求はせんのですか」
「ふふ。忍足くん、あなたは、優しいんですよ」

めっちゃ穏やかな笑みでそんなん言われて……俺は一瞬、言葉に詰まった。

「そんなん……ごまかされません。やって、こうした感情は、競合的なんですよね?」そうや、クラクラしとる場合か。
「ええ、それも否定しない。でもイライラしたりザワザワしたり、それは当然ですよ。わたしも行為自体にはムカついている、と言ったでしょう? それに、誰が書いたかは、わたしもわかっています。だから余計に、ね」

伊織先生が唇をとがらせて人差し指をあてた。シー、のポーズや。
あ……あかん、それどういう目的があっての対処行動や? ああいや、陰性感情があるわけやないから、ここに仮想的目標はないんやっけ。
ああ、混乱する! なんにせよ、あかんでそんなん、そんな、伊織先生みたいな綺麗な人が、そんなんしたら……! ま、惑わせんといて!

「ほ、ほな先生は……」動揺してどもってまう。「なんで怒らずにおれたんです。陰性感情、ないって言うてはったけど」
「はい、ないです。落書きをしたこと自体には。内容にはありましたけどね。でもね忍足くん、物事ってそうすぐには切り離せないです。しかもわたしはこれから授業ってときだった。怒ってる場合じゃないですよね? 悪い例になりますから。わたしはなるべく、生徒さんたちにとっては個人心理学的に生きている人、という立場を取らなくてはなりません。さてこういうとき、どうするか。魔法の言葉があるんです」
「え……」魔法使い、やから? そんなん、たしか言うてたよな。
「心のなかで、まず思います。『あーよかった』って」
「は?」
「よかった、です。聞いたことないですか? まずはなんでも、『あーよかった』って言ってみる」
「いやちょ、待って」そんなどっかの自己啓発本に書いとるようなこと、言われても……。
「陰性感情というのは、敵に対して使う感情です。味方に対して陰性感情は使わないんです。怒りとか不安とか怯えとかいうのは、敵に対して使うんです。『あなたといると本当に不安になるわ』って言われたら『この先生は味方だ』って思わないじゃないですか」
「そうやけどさ、いや、そうやけど……」教師なんかみんな、なんかあったら怒鳴り散らしとるで。
「だからそれは、相手と自分とを協力的人間関係に築くのに、邪魔になります。 講義を受ける生徒さんたちにとって、わたしは味方であるべきですよね? そして好き嫌いしてはいけない対象です。ですから、陰性感情を使わないことが必要。そのために手っ取り早い方法として、嫌なことがあったらとりあえず、『あーよかった』と心をこめて言うんですよ」
「いやせやけど、ようないやんっ!」
「そうそう、普通、そんなふうに言ったところで、マインドは嫌がりますね。なにがよかったんだよ! となる。忍足くん、なにがよかったでしょう。説明してみてください」
「え、説明!? いや、俺にとってはようないしっ……」
「そこを越えてみて? あなたはわたしに個人心理学を学ぶと決心したはず。頑張ってみましょう」
「ん……せやけど、ん……」そう言われると、なんも言えん。ない。なんもない。けど、伊織先生、言うてたな。「……授業の題材になった、とかやろか?」
「そう、たとえばそれです。わたしたちは動物ですから、物事のマイナスの側面を本能的に見つけちゃうんです。そうしないと動物は身を守ることができないから。ところが、プラスの側面はいくら見逃しても身の安全を確保できる。だからプラスの側面は、意識して探さないと見つかりません。忍足くんにも、プラスの側面を探す習慣をつけてほしいんです」
「そん……無理があるって、先生。プラスの側面って言うてもやで、あの女がそんな目的でやったんとちゃうのは、わかりきっとるやないですか」
「うん、そうかもね。でもわからないですよ? それは『意見』ですから」
「え……」
「だって、『事実』じゃないでしょう? 彼女がわたしに注目をしてほしかったのは、個人心理学の理論からいって確定ですね? つまり、関わりを持とうとしてくれたんです。では、わたしはなにができるでしょう? 『自分もいいし、生徒たちもいい』というのがわたしの目標なんですよ。そのためにわたしは、そして彼女は、いったいどんな協力ができるのかな? という問題整理をするわけです。わたしも貢献したいけど、彼女にも貢献することで勇気を持ってほしい。そしたらまずはね、『うん、綺麗な字だね』って思う。『授業の題材になるね。だってこれ、みんなのための授業だもんね』でいい。殺し文句を、最後にハンコで、ポン! と押す」

トン、と伊織先生の人差し指が、机を静かに叩いた。

「だからいちばん怒っていた忍足くんに手伝ってもらいました。あのままだと、忍足くん、爆発しちゃいそうだったから」
「え、それも……全部、計算済みやったってことですか?」
「計算、と言われると、なんだかカッコいいですね。でもそこまで凝ったことはしてないんです。あの授業はみんなのための授業でしょう? みんなにも『自分たちのための授業だ』って意識を取り戻してほしかったんです。あそこで彼女をつるし上げたら、それは適わないですよね? みんな置いてけぼりになっちゃう。でも今日の授業なら、同じ客観的存在なんだけども、主観的にみんなが幸福になれた。みんな楽しかったと言っていました。忍足くんと、跡部くんのおかげです」
「けど……あいつは、あの女は、ほくそ笑んでますよ?」
「どうかな? それも意見ではないですか? ひょっとしたら『やっぱり先生はわたしの味方だ』って思ったかも」
「そんなわけ……!」
「ないって言い切れますか? 個人心理学はね、いつでもそのように思いたいんです。こういうの、『かのように心理学』っていうんですよ。『こうであるかのように思ったほうがいいなら、そう思おう』ってことです。客観事実がどうであるかが問題じゃない。『わたしの生徒ですもん』って思ったほうが、『こんなのクールな契約関係です』って思うよりも、みんなが幸福になるんだったら、いいじゃないですか。いまのところはそうじゃなくても、まるでわたしたちが本当に心から信頼している味方である『かのように』、ふるまえばいいじゃないですか」

ぐうの音もでんかった。もっと、伊織先生の話を聞きたい。たしかに人生を快適にするためには、めっちゃ合理的な考えなんや。俺なんかいつも冷静に見せとるけど、カチンとくることやって結構ある。今日やってそうやし、中学んときなんかチームメンバーとの喧嘩はしょっちゅうやったし、オカンとかオネンとかもっとしとるでな。やで、納得いっとるわけやない。やって全部あいつらが悪いからな! ああ、ええねん。どうせ俺は競合的な人間や。陰性感情バリバリ野郎や。
それでも、それやからこそ確実に……伊織先生に、憧れてまう。

「あの、伊織先生……」
「はい?」
「俺の相談が終わったら、帰りはるんですよね? そろそろ」
「そうですね。ちょうど、帰ろうかなと思っていたところだったので」
「あの俺、送ってってもええですか。家まで」

伊織先生が、今日イチのきょとん顔で俺を見つめてきた。なに言うてんねんこのガキ……とか、思われてるやろか。いやいや、いやいや伊織先生、そういうんちゃいますやん。ただ、単純に俺はその……もうちょい話を聞きたいっちゅうか。つい、口から出てもうたっていうか……。

「忍足くん」
「え、はいっ!」急に冷たされるんかと思って、俺はビシッと背筋を伸ばした。
「それは逆じゃないですか? わたし、車です」
「あ、あ、すんません、変なこと言うて」アホすぎるわ俺……同級生と一緒に帰るくらいのイメージしとった。そんなわけないやんな、相手は30歳の大人やで。
「ひょっとして、傘、忘れたんですか? お家まで、送ってあげましょうか?」
「いや、ええんです、ホンマに、変なこと言うて」

たしかに、傘は完全に忘れとるんやけど。おまけに、結構な感じで雨は降っとるな。ちゅうか、お家までて……まるでガキ扱いや。いや伊織先生からしたら、ガキなんやろうけどさ。

「かまいませんよ。校長に届けを出せば問題ないはずです。さあ、行きましょう。今日は忍足くんのおかげで授業がはかどりましたから。お礼だと思ってください」
「……ほな、そんな遠くないですけど、お言葉に甘えます」

まだ、伊織先生と話したい。その欲求にあらがえんまま、先生と並んで駐車場に向かった。正直、それだけで顔が赤くなりそうやった。
一緒に歩いとる。これから伊織先生の車に乗る。俺はめっちゃガキ扱いされとるけど、はたから見たら、ちょっとええ感じなんちゃう? とか、いろいろ舞い上がって……今日の陰性感情はあっちゅうまに吹き飛んで、陽性感情が満タンになる、その寸前やった。

「あれ、秀紀」
「あー、やっと来たか。伊織、今日の約束、忘れてただろ?」

彼女の車の前には、大人の男が立っとった。





to be continued...

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