愛するということ_03


3.


誰やねん、ヒデノリって……。
学校の教師にこんなヤツおらんし、たぶん関係者やない。ちゅうか、「伊織」って……先生のこと呼び捨てにしとる時点で気に入らん。めっちゃ馴れ馴れしいやん。彼氏? 彼氏なん?

「今日だったっけ?」
「お前ねえ……」
「ごめんごめん、すっかり忘れてた」

いつも、誰にでも敬語な伊織先生の口調がタメ口になっとって、俺は辟易した。
いや待って。なんでこんなにガッカリしてんねん俺。そら伊織先生にかて彼氏くらいおるやろ。こんな綺麗な人なんやし。わかりきっとったはずやん。
これからふたりきりで車のなかでのおしゃべり期待しとったから? 待ってくれ俺、ちょっと冷静になろうや。

「あー、ほな俺、やっぱりひとりで帰ります」
「えっ、あ、いいんですよ忍足くん」
「せやけど先生、これからデートやろ?」
「え? ああ、ははっ。そうか、そう見えちゃいますね」

納得したように笑った先生と一緒に、ヒデノリとかいう男も苦笑しとる。なにがおもろいねんお前。照れ隠しか?

「すみません、紹介もせずに。彼は前夫です」
「へっ?」
「どうも。辻谷秀紀です」微笑みながら、握手を求められる。「君は伊織のクライアントかな?」
「ちゃいます。忍足侑士です。先生に心理学を教えてもらってます」

余裕のある男の手が、ガッチリと俺の手をつかむ。元旦那……と、仲ええんや?
ほななんで別れたんやろ。デートやないって言うてはるけど、約束しとったんやろ? どういうこと? 離婚って仲が悪くなるからするんちゃうの?

「カッコいい名前だなあ。忍足くん身長高いね? 何センチ?」
「え、あ……183……やったかな」まだ伸びとるから、正確なのはわからんけど。
「でっかいなあ。オレ176。もう少し欲しかったんだよねえ。スポーツやってるの?」
「はあ……テニス、やってますけど」
「そうか、氷帝は強豪校だもんね!」
「忍足くんはすっごく強いの。成績もとてもいいし、優秀な生徒さんなんだよ?」
「そのうえイケメンかあ、いいねえ、モテモテだろうね!」
「いや、そんなでも……」
「ふふ。謙遜してますね忍足くん。実際はモテモテでしょう? わたしは知ってます」

親戚の大人たちにからかわれとる気分になる。
ちゅうかヒデノリ、いきなりめっちゃフレンドリーやん。初対面から開始1分足らずでこんなに質問されることある? 悪い人やなさそうなのはわかるんやけどさ……ものっそいガキ扱いされとる気になるわ。

「突っ立ってるのもなんだから、車に乗りましょう」
「え、せやけど」
「構いません。彼との約束はこのあと果たせますし、忍足くん、傘を忘れたんでしょう?」
「それは……そうなんですけど」さすがに割り込みはあかん気がする。
「家まで送るって感じだったのか?」
「そうなの。相談室が時間切れだったから。ね、忍足くん。まだわたし、お話が足りないと思ってたところですから」

ちゃう。時間切れのあとに俺が押しかけたんや。それに、俺が一緒に帰りたいってわがまま言うたから。傘なんてどうでもよかったんやけど……ちゅうか伊織先生、俺がまだ話したいの、気づいてはったん? うわあ、めっちゃ怖い。ホンマに魔法使いやん、お見通しやん!

「なるほど。じゃ、忍足くんも一緒に呼べばいいんじゃないの?」
「は?」呼ぶって、なにに?
「でもそれは……忍足くんのご両親にも確認を取らないと。急だとご迷惑かも」
「取ってもらえばいいんじゃない? どう忍足くん? いまからさ、伊織の自宅で食事するんだよ。彼女の家族と一緒に」
「え、は……?」どういうこと? 自宅? 離婚したくせになんなんその関係。
「ちょっと、秀紀」強引だよ、と付け加えた。
「だけどにぎやかなほうが、お義母さんも喜ぶよ。若者にも滅多に会えないだろうし。ご両親への説明なら伊織からしてやればいいんじゃない?」

お母さん? いや、この場合、お義母さん、やろか。いやホンマにどういう関係や。
せやけど……伊織先生の自宅は、めっちゃ行ってみたい。俺も大概、図々しいな。でもこんなチャンスないやろ。ヒデノリ、ええこと言うやん。

「俺、ひとり暮らしなんです」
「えっ、そうなんですか?」伊織先生が目をまるくした。
「はい。実家は大阪です。せやから、大丈夫です」
「お、じゃあ決まりだな! よし、車に乗ろう!」

フットワークの軽いヒデノリのおかげで、俺はようやく、伊織先生の車に乗れることになった。





運転席はもちろん、伊織先生。助手席は元旦那。で、俺はうしろやった。はあ……そらそうなんやけどさ。
元旦那は先に車で伊織先生の自宅に到着したものの、先生の帰りが想定より遅いから徒歩で迎えに来たらしい。なんでやねん。車で来たらよかったやんけ。そしたら助手席は俺のもんやったのに。

「そっか。伊織は非常勤講師になったんだっけ」
「そう。今年度からだけど」
「教員免許って持ってた?」
「ううん。特別非常勤講師だからいらなかったの。大枠は『社会』だったかな」
「なるほどね。日本はまだその文化が根強いか」
「でも氷帝学園はかなりグローバルな意識を持った学校だよ」

前方の会話にまったく入っていけんまま、俺は黙って二人の仲よさげなやりとりを聞くハメんなった。
伊織先生がめっちゃ普通の女子みたいにしゃべっとるのは新鮮や。それが元夫婦なんやからと思うと、モヤモヤするけど。
聞いていくうちに、秀紀も心理学者やと理解した。二人は留学先で出会った数少ない同級生らしい。ふん、ええけど別に。

「お二人はどこに留学されとったんですか」
「シカゴだよ」伊織先生に聞いたつもりやったんやけど、答えたのは秀紀やった。「個人心理学研究所がそこにあってね。アメリカってところは日本人が歯医者に行くくらいの感覚で、行きつけのセラピストがいるのは当然の国だからね。すごく盛んなんだ」
「はあ、そうなんですか」
「忍足くんも、心理学を選択したってことは興味があるんだね?」

秀紀がぐるっと上半身を半分向けて聞いてくる。なんかこいつ……ええ大人やのにむっちゃ無邪気やな。伊織先生、こういう人がタイプなんやろか。

「正直……まだわからんことが多いですけど。個人心理学は、考えかたがおもろいなと思います」
「個人心理学の常識は世間の非常識だからね。オレもはじめて触れたときは驚いてね。ちょうど、忍足くんのころだったなあ」懐かしそうに、秀紀がうんうんと頷いとる。
「秀紀さんは、大学とかで教えてはるんですか?」
「いや、俺は教鞭には向いてないからね。少年院とか刑務所とか、児童自立施設とかね。そういうとこで働いてるよ」

不穏な響きをいくつか聞いたものの、優秀なんやろうことはわかる。
エリート同士が結婚して、ほんで離婚か。なにがあったんやろ。しかも約束までして前の嫁さんの家で食事するとか、ホンマになんなん。

顔だけは愛想笑いしながら、心ではむすっとしとるうちに、伊織先生の自宅に到着した。
東京ではなかなかめずらしい古民家や。せやけどめっちゃ風情がある。

「古くてびっくりしたでしょう、忍足くん」
「いや、びっくりはしましたけど、めっちゃええです。古風なん、好きやし俺」
「ふふ、それはよかった。どうぞ入って?」

ガラガラの引き戸を開けて、伊織先生が促してくれる。西日がちょうど玄関口に差し込んできとったせいで、俺は一瞬、その奥で待っとる人に気づけんかった。

「お義母さん、お元気でしたか」

秀紀の声で、はっとする。見ると、猫を抱っこした老人がそこにおった。ニャア、という声が先に返事をして、次いで、「うん」という頼りない声が返ってきた。老人の背中は折れ曲がっとった。

「うん、うん、元気」
「そうですか。よかったです。お久しぶりですね」

ひょっとして、これが、伊織先生のお母さんなんか? 娘の別れた旦那に向かって見せるには、ものすごい笑顔や。いやそんなことより、俺からしたらめっちゃおばあちゃんやった。ちゅうか……伊織先生からしても、ギリ、おばあちゃん世代やない?

「会いたかったですよ」
「お母さん、今日は生徒さんも一緒に食事することになったの」
「ふうん」
「あ、はじめまして。忍足侑士いいます。お邪魔します」
「……あら、あらあ」

近寄って挨拶をすると、おばあ……やない、お母さんが、俺をじーっと見て、声をあげた。めっちゃ動揺する、なん、なんやろ。なんか変なこと言うたかな。いや普通に挨拶しただけよな?

「浩司さんだわ」と、ぽつり……え、いや俺、コウジさんちゃうで。
「お母さん、彼はお父さんじゃないですよ」
「え、おと……」え、伊織先生のお父さん? いやちょっと待って。間違えとるってことは、やで。
「ううん、伊織、浩司さんなの」
「そうかな? でもよく見て。お父さんじゃないよ?」
「うん? うん……あ、本当だ」
「でしょう? よし、じゃあ夕飯にしようね。すぐできるから、先生たちと話しながら待っててね」

俺がポカン、としとるうちに、先生はいつのまにかエプロン姿になっとった。引っかかることがたくさんある。先生、と呼ばれたのは秀紀や。ほんで、俺のことを自分の旦那と間違えはったお母さん……。

「忍足くん、手を洗うでしょう? こっちにあるの」
「あ、はい」

洗面台に向かう途中で、先生がくすくす笑いだす。俺の呆気に取られとる顔が面白かったんやろう。なんとなく、やけど……学校におるときより、伊織先生の表情はやわらかい。

「ごめんなさい。急なことばかりでびっくりするでしょう?」
「はあ、まあ……あの」なんて返すべきか、言葉に詰まった。
「母は、認知症なんです。わたし、彼女が47歳のときに生まれたんですよ」すご……めっちゃ高齢出産や。ちゅうことは77歳か。どおりでおばあちゃんや。
「そうやったんですね。あの、お母さんは……」

聞いてもええもんやろか。認知症の話はオトンからも何度か聞いたことあるけど、進行具合によっては大変らしいでな。

「10分くらい前のことは忘れちゃいますね」察したんか、伊織先生は言った。「わたしのことは覚えています。でも前夫のことはよくわかってないかもしれません。客観的なサポートもほしくて、彼には離婚してからもちょっとした心理的なケアを頼んでいるんです」
「今日の食事会は、それでやっとるわけですか?」
「ええ。離婚したからといって、辞退するのは違うと。そう言ってました」なるほど……秀紀、ええ男やん。ちょっと、イラッともするけどな。「父が事件を起こしてから、さらに進んでしまって。彼としては、そこも気がかりなのかもしれません」

手を洗いながら、いろんな想像が頭のなかをかけめぐっていく。前はこの家、伊織先生のお父さんとお母さんのふたり暮らしやったんやろか。それでいきなり旦那が逮捕されたら、いくら認知症でもその瞬間はショックやろう。忘れてたとしても、ずっと傍におった人がおらんようになる。寂しいに決まっとる。

「母は、父の状況をよくわかってはいません」
「……忘れてはる?」
「いえ、詳しいことも話していないんです。ただ最初は、一緒に住めなくなったと話しました。でもおっしゃるとおり、忘れてしまいますから。当時は夕方になるとね、毎日、父の帰りを待っていたんです。それで、『何時に帰ってくるの?』ってわたしに聞いてくるんですよ」切ない話に、俺は黙って頷いた。「嘘をつくのも嫌で、『帰らないよ』って事実を告げていたんです。直後はわたしも心が乱れてたんですね」

当然や。お父さんが逮捕されたばかりで、認知症の母親にあれこれ聞かれたら、いくら心理学者やっていうても冷静ではおられんやろ。人間は、感情の生き物なんやから。

「でもその話をしたらね、前夫に注意されちゃったんです」

――かわいそうに。
――うん、寂しそうにするの。
――だろうね。いまこそ個人心理学だよ伊織。いちばん大切なのは、お義母さんを勇気づけること。俺ら、それを勉強してきたんだからさ。

「そのとおりだと思いました。10分置きに聞くので、わたしは10分置きに母に寂しい思いをさせていたということになります。だけど嘘をつきたくないわたしも大切にしたい。なので、『そうだね、何時だろうね?』って返すようにしました」
「え……せやけどそれ、曖昧やないですか?」
「うん、でもそれでいいんです。『遅いかもね』っていうと、『そうなんだ』って納得はするんですよ。そしたら寂しい思いはさせないでしょう?」

伊織先生の返事は、授業で聞いた「勇気づけ」には相当せんやろけど、寂しい思いをさせん、ちゅう目標は達成できる。「帰らんって言うとるやろ」って言われたら、相手の気分はマイナスになるんやから。プラスにはできんでも、フラットを保てたらええっちゅうことやろう。

「気づかせてくれた前夫には感謝していますし、やっぱり身内だとスイッチの切り換えがうまくいかないときがあると知ってからは、メインは彼にお願いするようにしたんですよ」
「個人心理学は、そういうことにも役立つんですね」
「はい。授業でもお話したように、個人心理学は社会との調和を目的にしていますから、認知症患者のサポートという部分でも有効なんですよ。母が元気に、幸せに最期を迎えることがわたしの目標のひとつです。彼の協力もあって、個人心理学的に母と向き合うようになってからは、母も少し明るくなりました」

にっこりと笑った伊織先生に、胸の奥がトクトクとうずいてきた。父親の逮捕に、母親の認知症、旦那との離婚……30歳にしては人生経験豊富すぎやと思うけど、やからこそ、先生にはずっしりとした貫禄のようなものがただよっとるんかもしれん。こんなん言うたら失礼かもしれへんけど、めっちゃ、カッコええ。やっぱり、憧れるわ。

「伊織先生」
「はい?」
「お母さんの好きな話って、ありますか?」

タオルで手を拭きながら質問すると、伊織先生はゆっくりと微笑んだ。俺の意図が、魔法使いには通じたらしい。

「はい。母は、昔の話がとっても好きです」

背筋が伸びた気がした。すぐに居間に戻ろうとする俺の背中に、先生の手が軽く触れる。驚いて振り返ると、伊織先生は俺を見あげて、首をかしげた。

「ありがとう、忍足くん。あなたはやっぱり、とても優しい人ですね」
「……先生、ホンマ勇気づけうまいですね」俺は、視線をそらした。顔が赤くなりそうやったから。
「ふふっ。はい。だってそれが仕事ですから」

ほんの少しだけ、伊織先生との距離が縮まった気がした。





――猫、めっちゃかわいいですね。なんて名前なんですか?
――うん、キジ丸。キジちゃんって呼ぶの。
――そうなんや。キジちゃん、お母さんの膝の上で幸せそうですね。
――うん、いつもここにいるの。
――そらあったかいですね。昔から猫は好きなんですか?
――うん、猫はいつも傍にいた。モモちゃん、ミケちゃん、サスケちゃん、クロちゃん。
――おお、めっちゃ多い。どれが最初の猫ですか?
――うん、あのね、クロちゃん。クロちゃんはね、あたしが小さい頃にね、いつも来てた野良でね……。

「ありがとうね、忍足くん」
「え?」
「お義母さんの話をたくさん聞いてくれてただろ? あれ、勇気づけだよね」

帰りは電車でよかったんやけど、秀紀が家まで送ると言いだした。
断ろうかと思ったんやけど、聞きたいこともあったで、俺は黙って承諾した。はあ……伊織先生の手料理、めっちゃうまかった。こんな思いしとるん氷帝で俺だけやろ。ものすごい優越感や。
ちゅうのに、となりで秀紀に感謝されて、妙な気分になる。俺としては伊織先生のために、いやお母さんのためにと思ってしたことで、お前のためちゃうねん。

「なんで秀紀さんがお礼を言わはるんですか」
「ん? なんでって?」
「やって、元旦那さんやから、もう『お義母さん』でもないわけやし」
「ああ、なるほど。でもほら、お義母さんは患者だしね」いまだにお義母さんって呼んでんのも、なんなん。マウントか。
「そういうん、彼女とかに嫌な顔とかされません? 前の嫁さんと連絡とりあって、食事とかしとる感じ」
「忍足くん……」

眉を八の字にしとる。なんや、なんやねん。俺は別に普通の質問しとるだけやで。普通に疑問やから聞いてんねん。陰性感情とちゃう……は、嘘やけど。

「オレはねえ、君のようにモテはしないんだよ」

八の字の眉のまま、苦笑される。はあ……これもめっちゃガキ扱いされとる気がしてなんか知らん腹が立つわ。秀紀はバカにしとるつもりないんやろうけど、俺のこと相手にもしてへん感じが気に入らん。

「別にモテませんて」
「それはないな。君ほどのイケメンでそれはない」まあ要するに彼女はおらんって言いたいわけや。あっそ。わかったわ。「あげくテニスで強いってのもカッコいい」
「そうやろか……」めっちゃ、どうでもええ。「せやけどホンマに、患者とカウンセラーってだけなんですか?」患者は、お母さんやとしても。
「ん? どういう意味?」
「いや、カウンセラーなら、食事とかまどろっこしいことせんと、普通に会いに来るなりして話せばええだけちゃうんかなって」
「ああ、なるほど。実は、お義母さんはいまだに、オレと伊織を夫婦だと思ってるからね」なん……なんやと。「混乱させないようにしてるんだよ。子どもの離婚は悲しいだろうから」それに食事は、リラックスして話せる場だしね、と、付け加えた。
「せやけど……実際は離婚したわけですやん? 俺、結婚したことないからわからんけど、離婚ってめっちゃ我慢ならんようになるからするって聞いたことあります。先生も言うてました。原因は無数にある。でも目的は自由になるためやって」
「うん、そのとおり」
「せやけど、仲よしですやん」

実際、めっちゃ仲よさげやった。食事のときのちょっとした言動が、俺のなかには残っとる。「伊織、アレない?」でソース取ってくる先生とか。誰が誰に命令して動かしとんねん! 先生かて怒ってもええのにニコニコして。なんやねん。めっちゃ夫婦感だしとったやん。

「なんで離婚したんか、聞いてもええですか?」

反応を確認する前に、声にだしとった。初対面やのに不躾すぎやろか? でも、止まらへん。気になる。やって、元夫婦以上のなにかが見え隠れしとるやん。
ちょうど赤信号で車を止めた秀紀が、顎を引いて俺を見た。淡々と聞いたつもりやけど、驚かせたみたいやな。

「忍足くん、さ」
「はい」
「原因は無数にあるって、伊織が言ってたんだろ? それが答えだよ」
「それは……わかってますけど。せやけどそれは伊織先生からの視点やから」
「うん、それが事実だよ。もう習ってるだろう? 個人心理学は人の心に興味がない」
「俺いま、感情として聞いとるんです。個人心理学の授業を受けとるつもりはありません。あるでしょ、理由。俺は結婚したことはないけど、男女の別れなら経験したことがあります。大抵はきっかけがある。束縛が嫌になったとか、そういう」
「ふむ。忍足くんはそういう子が元彼女だったんだね」
「いや、俺の話やなくて」
「伊織が好きなの?」
「え」

唐突に聞かれて、固まった。大人の男が、じっと俺を見据えとる。
す、好きとかちゃう……って、ついさっきまで思っとったのに。なんで、なんも否定できんほど固まってんねん、俺。

「そうか……まあ、伊織は昔っから年下にモテるからなあ」
「ち、ちゃいますよっ! そういうんやなくて、ただの興味本位です」
「興味があるって時点で、すでに揺れていると思うけどね、ライバルとしては」
「え?」

年下にモテる、とかいう言いかたも、理路整然とした分析も、全部、負けた気になる。
せやけどお前、いまなんて言うた? ライバル? ライバルやと……? ちゅうことは、秀紀は、まだ……。

「オレはいまも、伊織が好きだよ。別れたくなかった。でも別れてほしいと懇願されて、仕方なく離婚したんだ。だからオレはいまも……」

信号が、青に変わった。車を発進させながら、秀紀がポケットをまさぐりはじめる。
取り出したものをそっと左手の薬指にはめながら、大人の男が、照れくさそうに微笑んだ。

「伊織の前では外してる。苦しめたくないからね。でも手放せないんだ。実際は違う。オレは前夫だ。だけど心のなかでは、ずっといまも彼女の夫でいるんだよ、オレは」

俺のなかにあった優越感が、呆気なくしぼんで消えていった。





「みなさんこんにちは。さっそく、授業をはじめます」

あれって、挑発されたんか?
秀紀へのモヤモヤが収まらんまま、伊織先生の授業に参加しとった。何度も相談室に行こうとしたけど、先生は前よりも人気が出とって、相談室には常に生徒たちがたむろしとった。そういうとき俺は踵を返す。伊織先生も無理に追いかけてこうへんし。まあ、ドライすぎてちょっと寂しいけど。

「前回のおさらいをしていきたいと思いますが、その前に、個人心理学についてなにか質問がある方はどうぞ」

今日はどんな質問が飛びでてくるやろか、と思ったけど、誰も手をあげてない。みんな相談室におしかけて話しまくっとるから、いろんな疑問は消えとるんかもしれん。
それでも、伊織先生は沈黙のまま待っとった。その間が長すぎて、みんなそわそわしはじめたころに、ようやくマイクを手に持って。

「なさそうですね」
「ながっ」誰かがツッコんで、くすくすとした笑いが起こる。一緒になって伊織先生も笑っとった。今日も綺麗やな、先生は……。
「そうですよね。現代を生きる我々は、せっかちですから。しかしある心理学者が言いました。『生きるのに望ましくない性格は、待てないことだ』と。ですからみなさんも『待つ』を心がけてみてください。たとえば誰かの相談に乗っているようなときです。話が尻切れトンボになったら、20秒ほど待ってあげましょう」

そういや伊織先生、俺にはじめて会ったときも、待ってくれとった。あのときも個人心理学実践中やったってことか。

「わたしの師匠は20分も待ったことがあるそうです。相談者が10歳だったので、たっぷり時間を使ったのでしょう。相手が15歳以下の場合は、とくに注意して待ってみてあげてください。考えをまとめているのかもしれないからです。20秒くらい経ったら、それで? などと水を向けるか、あるいは相手が最後に話したことをくり返します。たとえば、忍足くんは、跡部くんに褒められたかったんですね? とか」

急に名前をだされてぎょっとする。教室中が俺に注目して、含み笑いをしはじめた。そういや前回、俺の話で終わったんやったっけ……はずい。俺、こういうん苦手やねんけど。

「さて忍足くん、前回の『仮想的目標』を覚えていますか?」
「お、覚えてません」
「ふふふ。嘘でしょうが、追求はしません。ではどなたでも。忍足くんの仮想的目標を覚えている人は、発表してみてください」
「はいはいはーい! オレ、覚えてるぜ!」岳人が意気揚々と手をあげた。お前……めっちゃおもしろがっとるやんけっ。「たしかにフェアじゃないな。お前が言うことは正論だ。お前は情深いヤツだな。俺には思いつきもしなかった。さすが忍足だ。それでこそ氷帝の要。俺はテニスではNo.1だが、お前の優しい心には、足元にも及ばない。忍足あっての氷帝テニス部だ。いや、忍足なしでは成り立たない。これからもよろしくな」

伊織先生が岳人の文言を追っていくようにチョークをすべらせて、黒板に俺の仮想的目標が書かれた。また、全員に大笑いされる。岳人のヤツ……ノート見ながら発表しよった。どアホが! そんなことメモしとくなや! たぶんやけど一語一句、間違ってへんわ!

「ふふ、ありがとうございます。忍足くん、間違いないでしょうか?」
「あの、間違いやないけど、ちょっとええですか?」何度聞いても心地ええけどさ。
「どうぞ」
「さっき、俺が跡部に褒められたかったんやと言いましたよね?」
「はい、この仮想的目標でそのように感じました。重要ではなくとも、多少はありそうですね」
「や、そら言われたら気持ちええですけど」なんやしっくりこん。
「気持ちがいい、は陽性感情ですし、褒められたいという感情は誰しもあるものです」
「ですが先生、最初に褒めるのもいけない、と習ったような気がするのですが」

唐突に、跡部が割り込んでくる。わかる。俺もそれを聞きたかったとこなんや。

「部活でもよくあります。後輩たちが、完成したプレー技術を見せにくる。だがそこでも褒めてはいけないと?」
「陰性感情がある場合はいけません。褒めることによって、跡部くんが後輩をコントロールしようとしていたら、NGです。褒めればもっと伸びるだろう、とかね」
「では、どうすれば?」
「純粋に褒めるのは構いませんし、1回くらいならいいんです。ですがたとえばわたしが、この生徒さんは『とにかく』褒められたいんだなと感じたら、褒めてほしいんですか? と聞くことにしています」
「ん……それで、褒めてほしいです、と答えたら?」
「じゃあ褒めます、と言ってから、褒めます。どうですか? うんと値打ちが下がりませんか?」
「なんや……めっちゃ嫌なのはたしかやな」思わず口から本音がもれ出てまう。
「ふふ。こうした場合は、普段から『ありがとう』とか『嬉しい』とかを真心で言っておきますと、こんなことしなくて済むんです。子どもによくありますよね? 『ねえねえ、こんな綺麗な絵かけた』『すごいね』と言う。そしたらまた来るんです。『さっきの見て、綺麗でしょ』『そうですね』と、しばらくするとまた来るんです。こうなると病的なんです。普段から正の注目をしていないからです。そうしたときは『また褒めてほしいの? あと何回くる?』と言います。これは『注目関心を引く』という行為ですね。不適切な行動に注目関心を与えないというのはひとつ大事なことなんですけど、なぜ注目関心を引いてくるかっていうと、ポジティブなことにたいする注目関心が普段から少ないからです。ですからまずは、自分の普段から見直してみましょう」
「たしかに、跡部はいつも厳しいことしか言わねえしな」
「うるせえぞ向日」

岳人がおどけたことで、教室になごやかな空気が流れはじめた。伊織先生も一緒になって笑っとる。
そのあいだ、先生はスマホを見ながら黒板になにやら書きはじめた。前回の俺と跡部のやりとりや。予想はしとったけど、またあの喧嘩が題材にされるんか。そういや、途中やって言うてはったもんな……。

「では話を戻して簡潔に前回のおさらいをします。忍足くんと跡部くんが、黒板の落書きについて諍いを起こしていましたね。忍足くんには跡部くんの発言に感情の点数をつけてもらいました。すべてマイナス。ということは、それらは全部ライフタスクだったわけです。跡部くんの発言に忍足くんは言い返しています。現状が理想通りではないので、それを打開し解決しようとした『対処行動』です。忍足くんは対処行動を取ったとき、実際はこのように……」と、先生が仮想的目標をコツコツと叩く。「返事をしてほしかったのに、叶わなかったので『陰性感情』を持ちつづけたまま言い返し、対処行動は失敗。ここからが前回のつづきです。実は仮想的目標には条件がある、と説明しましたが、覚えていますか?」

たしか、仮想的目標はキラキラしたお花畑状態の目的。人間はいつでも、だいそれた厚かましいことを願って行動しとるんやったな。厚かましいうえに条件があるって、それもまた厚かましいけど。

「まず1つめ。『陽性感情をともなう』。忍足くんの表情を見れば一目瞭然ですので、これはクリアです」
「ふん」

跡部がツンツンしとる。俺の仮想的目標に、まったく納得がいってないようや。まあ……跡部からしたら当然やろけど。

「では2つめ。『行為を含まない』。仮想的目標は、対処行動がすでに成功してしまっているイメージですから、それ以上になにか『する』必要がありません。行動はすでに終わっている、ということ。それ以上、忍足くんも跡部くんもなにもする必要がない状態、達成されている、ということです。もしこのあとで『と言って、ハグする』が入っていたらNGということです」
「あ、跡部と侑士のハグ……ぶふふっ」岳人をはじめ、数人がふきだしとった。しばきたい。
「あら、みなさん面白いのかな。わたしはそういうのも素敵だと思いますが……」先生、そこ広げんでええねん。「それはそれとして忍足くん、跡部くんにあのセリフを言ってもらえたら、一件落着になりますか?」
「まあ、そうですね。話はおしまいです」
「ということで、これもクリア」
「俺は耐えられねえがな」
「ふふ。では3つめ。『対処行動の結果』。これは対処行動が成功した結果であるかどうか、ということです。『現状が勝手に変化した』ではなく、『わたしが対処行動を起こしたから現状が変化して理想状態になった』というイメージです。対処行動をしなければ、理想状態は達成できない、ということ。これもクリアですね」

跡部に向かって俺が吐いた言葉が、対処行動やったっちゅうことや。

――お前、さすが氷の帝王やな。冷たい男やわ。

ん……どう考えても、ええ対処行動には思えへんけど、まあええわ。

「では最後、4つめです。『否定文ではなく肯定文』。これは大事なところです。仮想的目標は肯定的かつ積極的なもので、『○○でない』とか『○○がなくなる』とかいうような否定形ではいけません。『○○になる』とか『○○が起こる』とかいうような、肯定形の感じを持っています。忍足くんの仮想的目標を見てみましょう。フェアじゃない、これは否定形。もうひとつ、思いつきもしなかった、これも否定形。さらに、足元にも及ばない、これも否定形。極めつけに、忍足なしでは成り立たない、も否定形ですね」
「ちょ、それ全部、先生が言うたことです」
「はい、すみません。否定文と肯定文は少し難しいので、わざと入れ込みました。でもこれでわかりやすくなったと思います。これらの否定文をすべて肯定文にします。『たしかに忍足はフェアだな。お前が言うことは正論だ。お前は情深いヤツだな。お前だから思いついたことだろう。さすが忍足だ。それでこそ氷帝の要。俺はテニスではNo.1だが、お前の優しい心には感動を覚える。忍足あっての氷帝テニス部だ。いや、忍足がいるからこそ成り立っている。これからもよろしくな』……さて、いかがですか忍足くん? これでも気持ちいいのでは?」
「ん……めっちゃ気持ちええ」

そう、結局は気持ちよかった。また、生徒たちに笑われはじめとるけど、もうええわ。やって嬉しいやん、跡部にこんなん言われたら!

「ではこれで4つの条件を満たした仮想的目標が整いました。さて、すでに呆れた顔をされている跡部くんに聞きましょう」
「俺はあんなバカげたことは思ってませんよ?」伊織先生に顔を向けられた跡部は、ホンマに呆れた顔して立ちあがった。
「大丈夫です。実際は思っているでしょうが、跡部くんの仮想的目標はお聞きしませんので、安心してください」
「アーン?」

さくっと先生に言い返された跡部が不服そうな顔をしとる。そうや、跡部も俺に陰性感情があったから喧嘩になった。それなら跡部にも仮想的目標があったはずやねん。まさか俺に褒めちぎられたかったんちゃうやろな。誰が言うかボケ!

「跡部くんは、前回の授業でもおっしゃってましたね。言うわけねえだろ、と」
「絶対に言いません」
「とは思うのですが、この仮想的目標、読みあげていただいていいですか? 実際に心を込めて、忍足くんに向かって」
「は?」
「授業の一環です」

教室から冷やかしの声があがるなか、跡部がマイクを持って俺に視線を送ってきた。顔が嫌がっとる。それでも、さすが優等生や。黒板を見ながら読みあげはじめた。

「たしかに忍足はフェアだな。お前が言うことは……はあ、正論だ。お前は……」
「間が多いで跡部。ささっと言えや」
「うるせえ黙ってろ。お前は……情深いヤツだな。お前だから思い……ついたことだろう。さすが……はあ」
「ため息やめろ」はよ気持ちようさせてや。
「黙れと言っている。……さすが忍足だ。それでこそ氷帝のか……先生、無理です」

跡部が投げだしたところで、今度は拍手が起こった。どんだけこのネタで盛り上がるねんこいつら。ほんで跡部は、どんだけ言いたくないねん。

「あはは。跡部くん、ありがとうございます。仕方ありませんね。最後まで言えないようですから、ここで中断しましょう。さてみなさん、跡部くんはとてもじゃないけど言えない、という結論をだしました。ということは、です。忍足くんの仮想的目標は、『協力的』でしょうか? 『競合的』でしょうか?」

一気に教室が静かになる。そういや個人心理学は、協力的であることが大切やった。
たぶん、生徒たちもそれを思いだしとった。授業が進んで俺と跡部のアホエピソードで湧いとったせいで、全員がそのことをすっかり忘れとる。

「あ、大丈夫ですかみなさん? ポカンとされていますが。初回の授業でわたしが言ったことを思いだしてください。わたしたちは不都合が起きたら個人心理学を実践する、ということで合意を取っています。個人心理学が大切にしていること4つ、覚えていますか?」
「『尊敬・信頼・協力・目標の一致』でしたよね?」跡部がすかさず答えた。
「さすがです跡部くん。では我々のテーマはなんだったでしょう?」
「『自己への執着』を『他者への関心』に切り替えていくことだと……」
「それと……『競合性から抜けだす』や」

跡部につづいて俺がそう口走ると、伊織先生がにっこりと微笑みかけてくれた。あ、嘘みたい……めっちゃ嬉しい、かわいい、綺麗。伊織先生、俺、覚えとったで。褒めて? あ、これ病的なんかな?

「大正解です。では質問。忍足くんの仮想的目標は、協力的ですか? 競合的ですか?」
「それは……」あかん、俺めっちゃ悪い例になっとるやんこれ。
「みなさん、これは本人が決めることですが、協力してあげてください。ポイントは『相手が悪い』と、この場合は忍足くんが跡部くんにたいして、人格が不適切だと考える心があるかどうかです」
「侑士はぜってーに不適切だと思ってたよな」岳人がちゃちゃを入れた。まあ、そのとおりなんやけどさ……岳人に上から言われると腹立つわ。
「ふん、誰が誰に向かって不適切だと?」
「しゃあないやろホンマのことやねんから」
「アーン!?」
「はいはい、そこまでです。つまりですねみなさん。忍足くんは跡部くんを心のなかで裁いているということになります。そしてその裁きにもとづいて仮想的目標を考え、それに向かって対処行動を行ったということです。このような場合の仮想的目標を、『競合的目標』と言います」

伊織先生が断言したことで、俺が競合的やったことが確定する。がっくりやわ。はあ……俺は全然ダメってことやんね。まあ、わかっとったけど。

「しかし先生、忍足をフォローするつもりはないですが、仮想的目標をキラキラしたお花畑状態で点検した場合、そのほとんどが競合的になりませんか?」跡部がもっともなことを言うた。たしかにそうや。このパターンだけちゃう。だいたい喧嘩なんかそういうもんやろ。
「それは『共同体感覚』が欠けているからなんです。だからこそ、我々は個人心理学を実践する。ライフタスクを感じたときに仮想的目標が協力的であれば、喧嘩にならずに済んでいます」
「では、キラキラお花畑状態にも関わらず、協力的思想が存在すると?」
「もちろん、存在します。それを知るためにこの分析を行っているのです」

先生が黒板に向き直って、「協力的目標」と書き、そのとなりに「目的論」と書いた。

「跡部くんがいい質問をしてくださったので、少し説明しましょう。今回の場合だけでなく、みなさん陰性感情を持つことは日常的にあると思います。すぐには仲直りできない諍いの経験、ありますよね? たとえば親御さんにお皿洗いを頼まれた。でもすごく見たいテレビをやっているからいまはしたくない。『あとでやるね』と答えたものの『いますぐしなさい!』としつこく言ってくる。『あとでやるって言ってるじゃん!』『そう言っていつも翌朝まで残ってる!』など。さてこのとき、なぜ陰性感情を持ったのですか? と聞かれたら、どう答えますか?」
「ムカついたから?」先生の目の前におる生徒が答えた。
「そう。個人心理学用語で言えば、『不適切な行動をしたから』と答えるでしょう。これは親御さんのほうもまったく同じことを思っているわけです。これこそが『原因論』。しかし、個人心理学では原因論では問題解決につながる答えはでないと考えます。ですが多くの人は原因論的な考えかたに慣れているので、陰性感情を持つとすぐにその原因を考えて、答えをだせないままでいるか、あるいは間違った答えをだしてしまって、間違った対処行動をし、問題をいっそう深刻にして悩みつづけます。陰性感情はもっと砕けた言いかたをすると、『わたしたちは仲間じゃない』と思っているんです。陰性感情は動物が敵に使う感情ですから、どんな言葉をかけようと、陰性感情を持っている限り必ず伝わります。もしここで、『録画すればいいんじゃないの? あとでだとあなた忘れがちだし、いまやってほしいのよねえ』とネチネチ言ってきたらどうでしょう。乱暴な口調から優しい口調に変わりましたが、結局ムカつくと思います」
「ていうかそっちのがムカつくかも。なんか嫌味っぽくて」さっきの生徒が笑いだす。
「そうですよね。だからまず、自分に陰性感情があると気づいたときはストップです。相手を観察しない、自分を観察する」
「つまり……この分析は、問題を解決する手がかりを見つけているということですか?」また、跡部が割り込む。お前、めっちゃ理解早いな。さすがや。
「そのとおり。ですからまずは、相談者の目的を聞きました。それが仮想的目標ですね。前回もお話したとおり、ほとんどの人がだいそれたことを願っており、そしてかなり幼稚なんです」先生、ひどい……いや、たしかに俺の妄想は幼稚やったけどさ。
「そんな顔しないでも大丈夫ですよ忍足くん、みんなそうなんです。わたしももちろん、モヤモヤしたときの仮想的目標は、かなり幼稚です」
「ほ……ホンマですか?」
「本当、本当。陰性感情がある場合の対処行動は、競合的目標に向かって動いていることが多いのです。競合的目標の場合、それは勇気づけにはなりませんよね? 現に、跡部くんはさらに怒ってしまわれた。つまり忍足くんは勇気づけではなく、勇気くじきをしてしまったということになります。ではどうすればよかったか。競合的目標を協力的目標に変えればいいんです」
「せやけど……」
「はい、なんでしょうか忍足くん」

あたりまえのことのように言うた先生に、俺はつい、口ごもるようにつぶやいた。
気づいた先生がパッと顔を向けてくれる。はあ、嬉しい。俺、どの授業よりも発言しとるよな、ここでは。

「たぶんこのさき、協力的目標をだす分析をさらにするんやと思いますけど」
「はい、お察しのとおりです」
「ここにくるまでにも、かなりの自己分析力がいりますよね。ポンポン会話のやりとりしとるときに、しかも喧嘩やと頭にきとるし、そんなに冷静に考えれるとは思えんのですけど」
「とてもいいことを聞いてくださいました。人間は、陰性感情を覚えるとせっかちに行動しがちなんです。だから『待てない』は望ましくないんですね。ではどうすればよいか。逃げましょう」
「は?」
「逃げます。あ、これはまずいな。これから『権力争い』が起こるな、と思ったら逃げます」
「に、逃げる? 話し合いから逃げるっちゅうことですか?」
「そうです。権力争いを起こすよりよほどいいです。さきほども言いましたが、完全に、なにもかもストップしましょう」
「いやせやけど……に、逃げたらまた、相手は怒りませんか?」
「そうですね。いまは話し合うチャンスじゃないからごめんねって、とりあえず言いましょうか。それでも追いかけてくるかもしれません。逃げるんか卑怯もん! とか言ってね」急な伊織先生の関西弁に、笑いが起きた。先生、俺に合わしてくれとるんかな。そういうちょっとした優しさ、きゅんとするわ。「それでも、そうや、卑怯もんや、とか言って逃げる。それで冷静になって、よく考えましょう。だいたい喧嘩してまで解決しなきゃいけないようなものって、そんなにたくさんないんです。ここでは授業の題材にさせていただいてますが、跡部くんと忍足くんの諍いもそうなんです。例題のお皿洗いの件も同じ。相手をねじ伏せてまで解決しなきゃいけないほどのことじゃないんです。親子関係とお皿洗いと、友情と黒板の落書きと、どっちが大事か考えてほしいんですよ。だから冷静になってから、またやり直しましょう」
「先生、ちょっといいですか」

伊織先生が人差し指を立てたところで、また跡部が割り込んでくる。俺も跡部も自分の身に起こったことやからこそ、客観的になれんからやろう。疑問が湧いてくるのは、俺も同じやった。

「はい、跡部くん」
「ここでの忍足の間違いは、俺を挑発したことですね。それに乗った俺も、間違っていたということになる」
「そうですね。そしてお互い、かなり怒ってらっしゃいます」
「怒る、という時点でお互いが勇気をくじかれている、ということになりますよね?」
「そのとおりです。ですから権力争いに突入しています。現に跡部くんは突然、『なにも学習できてねえな、てめえは』と黒板の落書きから忍足くんの劣等感をあおり、さらには話をすり替えて『グラウンド100周だ』などとまったく関係のない挑発をし返しています」
「ん、んん……」恥ずかしかったんか、跡部の咳払いは貴重や。「しかしそれ以前の会話は、お互いの信念に基づいて会話をしています。俺からすれば忍足は間違っているが、忍足からすれば俺が間違っている、という考えが怒りの感情を引き起こした。この意見の食い違いは、現場から逃げ、冷静になったところでそう簡単に埋まるものだとは思えないんですが」

うんうん、と生徒たちも頷いた。あいつ間違っとる、と思うことはすでに競合的なんやろうけど、意見が食い違うことは当然のようにある。せやけど仲ようするためにその意見を曲げるやなんてことは、簡単にはできへん。跡部の疑問には納得感がある。

「跡部くん、とてもいいご意見をくださいました。ではみなさんも一緒に考えてみてください。まず第一に、忍足くんと跡部くんの諍いは、お互いが怒らず冷静に同じことを言っていたら、かなり簡単に済む問題だ、ということに注目してください」

――それ以上は熱くなるな、忍足。
――いや……なんで止めんねんな。

「ここです。もうこの時点でお二人は怒っておられるわけです。跡部くんの言動に忍足くんは劣等の位置に下がり、結果としてお互い怒ってしまったわけです。それで、そのあとにこんなやりとりをされています。少し省略しますが……」

――誰かは俺もわかってる。だが、お前が文句を言ってどうなる。
――こんなん、人のこと傷つけようとしとる最低の行為やろ。Aさん、本名で呼べるように俺がケリつけたるわ。
――忍足、いい加減にしろ。授業中だぞ。
――お前も黙って見過ごせ言うんか?
――放っておけ。犯人がわかったところで、あそこに書かれてあることは事実だったんだからな。

「おさらいすると、黒板の落書きに忍足くんは怒っていました。落書きした人に文句を言いたかったうえに、その名前をみなさんにも知らせようとしていた。一方で跡部くんは、忍足くんがその行為に及ぶことに嫌悪感を抱いています。ここに、お二人の価値観が存在しているのがわかりますか?」
「そっか、これが信念だ……」誰かがつぶやいた。
「そうです。たとえばこの状況をライフタスクだと考えるのも主観的な判断ですし、それにたいして、ある仮想目標を考えるのも主観的な判断です。それらは同じひとつの価値観のマイナス側とプラス側なんです。ちょっと難しいですよね? つまりこういうことなんですが……」

伊織先生は黒板に横線を一本引いた。線の上にプラス、線の下にマイナスの記号を書きこんどる。

「これは無意識的な価値観で『私的感覚』といいます。この図は私的感覚を表したものだと思ってください。忍足くんの仮想的目標はさきほど読みあげたとおりですね。この私的感覚のプラス側は、仮想的目標からきているものなんです」
「えっ、それが俺の価値観っちゅうことですか?」
「そのとおり。忍足くんの仮想的目標、みなさん笑っていましたが、よく読み解いてみてください。どんな私的感覚のプラス側が含まれていますか?」

――たしかに忍足はフェアだな。お前が言うことは正論だ。お前は情深いヤツだな。お前だから思いついたことだろう。さすが忍足だ。それでこそ氷帝の要。俺はテニスではNo.1だが、お前の優しい心には感動を覚える。忍足あっての氷帝テニス部だ。いや、忍足がいるからこそ成り立っている。これからもよろしくな。

「えっと、『フェア』?」どこかから声があがる。
「はい、まず『フェア』ですね」先生が、フェアを丸で囲んだ。
「『正論』も、かな」岳人の声やった。
「そう、『正論』もです」同じく、丸で囲まれる。
「あ、『優しい心』も、だ」
「よくお気づきでしたね。おそらく『情深い』も同義でしょう」
「まさか……『忍足がいるからこそ成り立ってる』までじゃねえだろうなてめえ」跡部がキレかけとった。そんなん、言われても……。
「ふふ。跡部くん、それは忍足くんが言われたかっただけなので、少し違います。でも、ここには跡部くんに認められたい、という願望があるかもしれません。あるいは、こんなに正しい俺を、褒めるべきだ、とか」
「ちょお待って。俺そこまで思ってへんって」

急にぶっこんできた先生に、慌てふためきそうになる。いくらなんでもそこまで図々しい……いや、仮想的目標やから、あるんかもしれんけど。あかん、めっちゃ恥さらしや。

「忍足くん大丈夫です、いまのはわたしの意見ですから。意見は事実ではありません。冷静に、冷静に、ね?」
「はい……」そうは言うても、生徒たちがニヤニヤしとるのがしんどいねんけど。伊織先生の「ね?」もきゅんとするし、俺、忙しい。
「説明に戻りますね。『私的』というのは、その人特有のものであって、世間一般に通用するものではないからです。『感覚』というのは価値の感覚のこと。この私的感覚のプラスは仮想的目標から推測されます。裏を返せば、そのプラス面から仮想的目標が出てきています」
「ではマイナス面はその対義語というわけですか? 忍足の私的感覚のプラスが『フェア』『情が深い』『正論』だとしたら……」
「跡部くん、理解が早くて大変ありがたいのですが、私的感覚はもっとわかりやすい言葉にする必要があるんです。この作業と同時にマイナス面もだしてみましょう。さて、プラス面は仮想的目標。ではマイナス面はどうでしょう。実はこれを分析するのに手っ取り早い方法があります。忍足くん、起立していただいていいですか?」
「え、ああ、はい」
「先週の会話を思いだしてください。そして言葉にはしなかったけど、心のなかで思っていた本音を、どんな暴言でも構いません。そのまま口にだしてみてください。跡部くんは、なにを言われても我慢してくださいね。心のなかですし、授業のためですから、大目に見てあげてください」
「……まあ、わかりました」

跡部が了承したところで、俺はすうっと息を吸い込んだ。あかん、すでにめっちゃ楽しい。

「偉そうにしやがって」教室中がくすくす笑いはじめた。「しばいたろか」
「わお。いきなり怖いですねえ」
「アホが」
「ふふ。そのままつづけてください」
「悪いことは悪いやろ」
「ふんふん」生徒たちが笑っとるあいだに、先生はチョークをすべらせていく。
「こんなんしたヤツ、制裁されるべきやのに」
「べき論が登場しましたね」
「なにカッコつけてんねんボンボン」
「てめえな忍足……」
「跡部くん、落ち着きましょう」
「事実やからってなんやねん」
「いい調子ですね」
「やってええことと悪いことがある」
「なるほどなるほど」
「丸坊主が」
「忍足!」
「はいストップー!」

パン、と伊織先生が手を叩いた。跡部も俺も途端に黙る。伊織先生はニコニコしたまま、俺の言ったことを全部書きだしとった。

「忍足くん、ありがとうございます。さてみなさん、感情は考えからくると言ったことを覚えていますか? 忍足くんの本音に余計なものがたくさん混ざっていることは、こうして書きだしてみると一目瞭然ですね」また、教室中に笑われた。俺は見世物か。「ですがみなさんも諍いを起こしているときは同じであるはずです。しかしこのなかに私的感覚のマイナス面があります。どれだと思いますか?」
「『悪いことは悪い』、とか」また、どこかから声がする。
「そうですね。ほかには?」
「えーと、『制裁されるべき』」
「うんうん、ほかには?」
「『事実やからってなんやねん』と『やってええことと悪いこと』かな」
「はい、そのとおりです。全部、丸で囲んでしまいましょう。この部分が、忍足くんの私的感覚のマイナス面です。本来であれば、ここから私的感覚をみなさんで考えて言葉にしてもらいますが、時間がないのでわたしがざっくりと考えてみますね」

伊織先生はじっと黒板を見ながら、私的感覚図のプラス面に「人は優しく、正しくあるべき」と書き、マイナス面に「過ちを見過ごし、過ちを犯す」と書いた。
俺は、そのまま何度も頷いとった。そうや俺……こういう感覚めっちゃある。

「忍足くん、これを見て納得感がありますか?」
「はい、めっちゃあります」不思議やった。たしかに推測はされる言葉やろうけど、ここまで分析されんとわからんかったような気もする。
「それはよかった。実はこれは、相談者が納得しなければ意味がありません。なのでこの私的感覚の分析は非常に時間がかかります。たとえばここでわたしがプラス面に『正義は勝つ』とか、マイナス面に『罪から逃れる』とか書いたら、たぶん忍足くんは納得しないんです」
「ん、それはたしかに、ちょっとちゃうかも」
「はい。ですので、ここは相談者が納得する言葉が出るまでやりつづけます。さて、つまりひとつの価値観のなかに、プラスとマイナスが働いている。私的感覚というのは、磁石のS極とN極みたいな価値観のセットなんですよ。『勤勉なのはいいことで怠け者なのは悪いことだ』とか『正直なのはいいことで嘘つきは悪いことだ』とかが二項対立して、2個1組で動いてる。『私的感覚』はいつも2個1組です。プラス側がこれ、マイナス側がこれ、というように。つまりライフタスクだなと思うのは、この私的感覚のマイナス面なんです。たいして、仮想的目標は私的感覚のプラスの面なんです。そこからある出来事が生じると、どこかの私的感覚と関係して、これはマイナスだな、これはプラスだな、と判断する。マイナスと判断したのがライフタスク。そしてプラスだと判断したのを、仮想的目標というんですね。残念なことに、人はこれを放っておけないんです。だから、つながないと! ってちょっと元気をだすために、『劣等感』をつくります。劣等感があったほうが元気になるんです。忍足くんと跡部くんもそうです。この選択授業なんか6時限目で、朝練もあってお昼ごはんも食べて眠たいうえにたくさん頭をつかって勉強もして、さらにこれから部活でますますぐったりなのに、急にカチン! ってきて、お二人がどれだけ元気になったことか」

全員がゲラゲラ笑いだした。いよいよ跡部まで顔を伏せはじめとる。完璧やと言われる跡部のギャップが俺らは楽しいし親しみも湧くんやけど、あいつにはめちゃめちゃ恥ずかしいことなんやろう。

「陰性感情をもつと、アドレナリンが出てものすごく元気になるんです。我々はそのために陰性感情をだすんです。そしてその対処行動をやると、きっと仮想的目標にたどりつくはずだという幻想を持っている。だから、仮想的目標は忍足くんに限らず、みんな大変に幼稚で厚かましいことを考えているものなんですが、一連の筋の通ったつながりになっているんです。『わたしの私的感覚に照らすとあれはマイナス。そしたらプラスってなんだろう。私的感覚に照らすとこれがプラス。じゃあそれって、どうやったらつながるかな。ああ、こう言えばいいんだよね。じゃあいこうか』など、意識して考えてなくても、ひとつの筋道になっているんです。この全体像を『私的論理』と言います。英語で書くと『private logic』です」

黒板にチョークで書いて、先生はパッと生徒たちに向き直った。
全員が腑抜けになったみたいに伊織先生を見あげとる。難しい。けど反論はない。まさかあんな感情的な喧嘩が、実際は論理的に動いとるやなんて誰も思わへん。みんなたぶん、そこにびっくりしとった。

「これがなにを意味するかおわかりですか? 人間の行動はすべて論理的だということです。非論理的で飛躍した不条理な行動は存在しない、と、個人心理学では分析します。全部、無意識のレベルでは筋が通っているからです」





授業はあっという間に終わった。浮かれた気分で相談室に立ち寄ることにする。
心理学の授業はいつも6限目やから、そのあとなら相談室にはほとんど誰もおらん。部活には遅れるけど、ラッキーや。
17時ちょい前……先生が帰るときにちょっと話すことができたらええ、と思って相談室の扉を開けると、伊織先生がめずらしく慌てた様子で、電話をしてはった。
俺に気づいて、目線だけで挨拶をしてくる。

「ええ、はい、そうなんです。はい、ちょっと遅れそうで……」

どこに電話してはるんかは、まったくわからんのやけど。伊織先生の声がちょっと焦っとって、そのかわいらしさに、また心臓がトクトクうなりだす。
あかんって……いやわかっとるで、いくらなんでも。俺、先生にめっちゃ惹かれとる。せやけど教師と生徒とか絶対にあかんやつやろ。そのくらい俺かて知っとるわ。知っとるし……先生は俺のこと、相手にもせえへんやろ。それも、わかっとる……。

「あ、そうですよね。それならちょっと、知り合いに声かけてみますので。ええ。はい、わかりましたらすぐに。申し訳ございません。またご連絡します」トン、とスマホをタップして、先生は焦った表情のままで俺を見てきた。
「忍足くん、すみません。終わりました」
「いや……え、大丈夫ですか? なんや、めっちゃ忙しそうですね」
「はい、少しバタバタとしていて」
「どうしはったんですか?」
「いえあの実は……これから緊急の職員会議で、今回から非常勤も出席するようにと」
「あ、ああそれやったら、今日こそ俺は帰らなあきませんね」
「ああいえ、まだ職員会議までには時間があるので、相談は大丈夫ですよ? ですがちょっともう1件、電話をかけたいので待っていてもらえますか?」
「電話?」
「ええ、今日は母のデイサービスの日なんですが、お迎えに行けないので、前夫にお願いしなくちゃ」

それだけで、さっきまでの電話内容がどういうことやったんか、すぐに理解できる。せやけど俺にとって重要なのは、「前夫」っちゅう言葉やった。おいおい、それ聞いただけで陰性感情とか、俺も大概やんけ。せやけど、こないだからめっちゃモヤモヤしてんねん、秀紀には。

「伊織先生、ちょお待った!」
「えっ!」

電話をかけようとした先生のスマホの前に手のひらを置いて、俺は秀紀と伊織先生がつながるのを阻止した。この場合の私的感覚ってなんなんやろな。ああ、せやけど短時間でそんなんまったくわからん。でも俺は「人は優しく、正しくあるべき」がとりあえずはプラス面なわけやから。

「俺が迎え、行きます」
「へ……」
「俺が。お母さんの迎えに行きます。おぶってでも家まで送ります」
「い、いやいやいやいや! ダメですよ忍足くん、生徒さんにそんなことさせられません!」
「なんでですか? こないだ俺は伊織先生のお母さんと食事しました。お話もいっぱいしました。それに秀紀……さんも、お仕事なんちゃいますか? ほな、のん気に学生しとる俺が迎えに行ったほうがええです」
「いやでも忍足く」
「俺、お母さんの猫の話もっと聞きたいと思っとったし、もっとお母さんの昔の話も聞きたいと思ってました。先生が帰ってくるまでしっかりお母さんの傍におります。安心でしょ?」
「ダメですよ、そんな」
「なんで? 先生は俺のこと尊敬・信頼してないんですか? あれ? これって協力的やと思うんやけど、あと、あとなんや、ああ、目標の一致ちゃうかな? どうです?」
「それはその、そ……」
「せやから先生、俺のこと、褒めて?」
「え……」
「褒めてください。いっぱい。俺のこと」

俺がたたみかけると、伊織先生はポカンと口を開けたまま、ついに苦笑した。しばらくは言葉に詰まっとるようやったけど、さっきの「絶対にダメ」な表情が、優しく変わっていくのを見て、心のなかでガッツポーズする。
やった。説き伏せたで、こんな偉い先生を、俺が。

「忍足くん、部活は?」
「今日は自主練なんです、俺だけ」
「もう、嘘ばっかり」
「嘘があかんっていうんは先生の私的感覚ですやん。俺はついてもええ嘘はあると思う」
「……こういうときだけ、急に個人心理学的になるんですね、忍足くん」
「ええから、はよ褒めてください」
「まったく……ふふ。褒めてほしいんですか?」

伊織先生のいつもの微笑みが俺に降り注いで、一気に胸の奥が熱くなった。
ああ、あかんって、さっき自分に言い聞かせたばっかりやのに……めっちゃ綺麗。先生、ホンマに、見とれる……。

「褒めてほしいです、伊織先生に」
「わかりました。じゃあ、褒めます。ありがとう、忍足くん」
「くくっ。それ、感謝やん。褒めてへん」
「あはは。でも、それがわたしの本音ですから」

今度こそ……ホンマに伊織先生との心の距離が縮まったと確信した放課後やった。





to be continued...



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