動く死体_01


1.


新しい機械を買ったときには必ず説明書を読んでください、少なくとも3回。箱から出す前と、セットしたあとと、寝る前に。ひと晩は置くのがポイントです。
気いつけんとあかんのが、外国製の機械で……。






夜の部の出番前だった。警備員の野崎が「話がある」と突然に楽屋を訪ねて来た。その時点で、すでに妙な胸騒ぎを覚えていた。

「話が違うんじゃないか?」

紅を唇にのせながら、中村右近は野崎を鏡越しに見た。野崎の表情は固い。それどころか、右近を睨みつけている。たかだか警備員の分際で、ずいぶん偉そうじゃないか、お前さん。

「……すいません」

首をぴょこっと下げてくる。それを言うなら「すみません」だろうが。いい歳して、ちゃんとした日本語も知らない。

「じゃあ払ったぶんは?」

右近は痛いところをついたつもりでいた。口止め料のことだ。野崎はしがない警備員である。その日のうちに繁華街でも行ってつかったに違いない。だから、返せるはずもない。右近はそう高をくくっていたが、野崎が胸もとからゴソゴソと封筒を取りだした。あげく、鏡台の前にそれをそっと置いて、背中を向けた。右近は腹の底から落胆した。こいつは本当に男なのかね?

「そういうこと言ってんじゃないんだよ」失笑するしかない。
野崎が、ゆっくりと振り返った。また、鏡越しに右近を見ている。「これ以上は、耐えられんのです」

バカを言ってんじゃないよ。

「……これから警察に行って、洗いざらい……」右近は自分の目つきが悪くなったのを自覚していた。目元に落とす赤がズレるところだった。「一緒に行きませんか?」
「あたしゃ悪くないよ」顔ができあがった。俺が悪いはずがない。
「なに言ってんですか」
「あれは向こうが飛びだしてきたんだ」ティッシュペーパーで紅を整える。そう、すべて整えたはずだろう。
「六代目!」
「ばあさんが悪い!」いきなり目の前に出てきたんだ、あのばあさんが。「避けられる人間なんていやしないよ」

声を荒らげたせいで、また紅がはみでてしまった。本番前だというのに、苛立ちがつのっていく。

「あれは、立派な殺人です」

この男をなんとか黙らせるしかない。どうせ倍の金額を払えば収まりがつく。罪悪感などその程度のものだ。と、右近はこのとき、まだ多少の余裕を持っていた。

「六代目、そろそろ支度を」

楽屋の扉がノックされた。右近はパフを片手に、まだ鏡台前で頬を押さえていた。
どのくらいの時間が経っただろうか。「あいよー」と、いつもどおりの声をあげて扉の外に伝える。汗をかいてしまったせいで顔が乱れている。
鏡台裏には、ファンからの贈りものである花束がいくつも積まれていた。右近はそこに、視線を送った。
麗しい香りのする植物たちに埋もれて、顔だけが見えている。鼻には血がたまっていた。




彼の顔には簡単に手ぬぐいをかけてきた。楽屋には右近以外の人間が出入りするわけでもなし、気づかれることはない。右近は足早に移動した。
ステージ下にある「奈落」の大きな鏡の前に立ち、自分の顔を確認する。大丈夫だ、おかしなところはどこもない。
上にある神棚に、手を2回たたき合わせた。本番前のお決まりである。今夜も無事に、舞台を終えれますように。

「よろしく」
「はい」

長い袴を引きずりながら、右近は「せり」に乗った。リフトのようなもので、舞台上に突然に登場することができる装置だ。この演出に、客は一気に沸く。右近はその瞬間が、いつもたまらない。歓声はすべて自分へ向けられたものだ。
せり上がって右近が登場した途端、大きな拍手に包まれた。「中村屋!」と会場のうしろのほうから、これまたお決まりの声がかかる。これこそ伝統芸能だと、右近は芝居と同時に悦に入った。
しかし頭のなかで、さきほどまでの熱がチラついていく。

――あれは、立派な殺人です。

ええい、煩わしい。いまさら聖人ぶりやがって、あの男……。

――失礼します。
――ちょ、ちょっと待って!

右近は、立ち去ろうとする野崎の背中にかけよった。すぐに手をつかんで、向き直らせた。
なんとかしなくてはならなかった。警察に行かれてはたまったものではない。

――共犯だよお? お前さんも。目撃して3日も黙ってたんだ……金まで受け取ってさあ。

右近はしつこく、痛いところをついたつもりでいた。一度は受け取った金だ。見なかったことにすると約束した。こっちはそれを信じて金を払ったというのに、とんでもない裏切り行為だ。
それでも野崎は、右近を睨みつけていた。引き止めている手首から逃れようと乱暴に腕を振りほどき、楽屋を出ていこうとする。だが右近にも、我慢の限界というものがある。
扉の前に立ちふさがった。まだ説得の余地はあるはずだ。右近は必死だった。

――話すことありませんから!
――ちょっと、聞けっ。
――どいてください六代目!
――話を聞け!

気づけば、野崎の体を突き飛ばしていた。楽屋に引き止めていたいだけだった。話し合おうとしただけだった。野崎を、扉の外に出すわけにはいかなかった。警察に、行かせるわけにはいかなかった。
だが瞬間、鈍い音が楽屋に響いた。右近は呆然とした。ずるる、と机の角から力の抜けた体が倒れていく。野崎の鼻の穴に、たっぷりとした血が浮かんでいた。

「よっ! 中村屋!」

歓声のなか、右近は逡巡した。殺してしまった野崎をどうするか……自然とでていくセリフを吐きながら、そのことだけを考えていた。





夜の部も無事に終わった。右近は楽屋で、静かにお茶をすすった。舞台後のお茶は格別である。顔も落として、すっきりと晴れやかな気分だ。しかしもちろん、まだ鏡台の裏には野崎がいる。
右近は駐車場につながる部屋に向かった。誰にも見つからずに、自家用車に向かうためだ。堂々と出入りするわけにはいかない。裏の出入口には、当然、警備員がいる。事件があかるみになったとき、あとでなにをしていたのか、きっと聞かれるだろう。

――夜の部が終わったら、すぐに帰りましたよ。

そうだ、そう言えばいい。自宅にいたということにすれば完璧だ。それを確実なものにするためにも、いまここで、目撃されるわけにはいかない。
しかし、右近はどうしても外出をしたかった。思いたったのだ。野崎を処理する前に、準備を済ませておかなくてはならない。そのためには、外出する必要がある。コンビニに行くためだ。それだけは、あきらめきれずにいた。
結局、革手袋をはめ、窓から忍びでて、車を走らせコンビニに向かった。目的のものを買って、右近はもう一度、菊座に戻った。窓から倒れこむように菊座に入り、そのあとすぐ自分の楽屋に入り、ようやく、死体の処理に取り掛かる。
野崎は重たい男だった。体の小さい右近には、死体の移動は骨の折れる仕事だ。しかし右近にはひとつ、計算があった。そうだ、アレを使えばいい。
野崎の両足をつかんで、奈落まで引きずっていく。まるで墓でもリヤカーで動かしているような重さだった。まあ、野崎はすでに死体であるから、ある意味それも間違いではないのだが。
最後は仕方なくおぶって、右近は野崎をせりに乗せた。これを使いさえすれば、ステージ上にはすぐにたどりつく。この重たい男を奈落からステージ上へと抱えていく気には、さすがになれなかった。
1メートルほど離れた場所に設置されてある、せりの操作盤に向かう。「UP」「START」のスイッチを同時に押せば、せりが上がっていく仕様になっている。右近は革手袋のなかから、しっかりとその2つを押した。
せりが動きだす。右近はかけよって、野崎と一緒にそこに乗りこんだ。
あっという間に、ステージ上への移動が終わった。また両足をつかんで、野崎をさらに移動させる。舞台の中心だ。上から落ちたとすれば、場所的にはここがいちばん納得感がある。
右近は野崎の靴を脱がせ、お手玉でもするように投げて放った。ポケットをまさぐって、いつもかぶっている帽子を取りだし、同じように放っていく。
最後に、野崎の左手首をつかんで、床にたたきつけた。パリン、という音がして確認すると、うまい具合に腕時計が壊れてくれていた。
野崎は、たったいま死んだのだ。





ビニール袋から米を取りだした。水の入ったやかんを火にかけ、そのあいだに米を茶碗に移していく。永谷園のお茶漬けは、久々に口にするものだった。そのせいか、こんなに美味いものだったかと、右近は感心した。それとも、やはり「いま」だからなのか。
茶漬けをすすっているあいだにも、サイレンの音が聞こえていた。見つかったのだろう。食事を終えて、右近はそっと楽屋をでた。万が一のためにいろいろと細工はしたものの、できれば菊座をでるこの瞬間、誰かに見つかることは避けたい。
右近はそっと足音を立てないように移動した。自動販売機の横を通りすぎれば、また駐車場につながる部屋にたどりつく。そっと、そっと……。

「あ、ちょっと……」
「ひっ……」

背後から、突然であった。低い声が降り掛かってきて、右近は跳ね上がるほどに驚いた。思わず肩をビクッと震わせてしまい、声にならない吐息がもれでていた。
なんとか心を落ち着けて、振り返る。長身の男が自動販売機の前で、首をかしげていた。

「はい?」
「いやあ……お金、入れたんですけどね……。うんとすんとも言わんのですわ、これ」男は関西訛りだった。カチカチ、バチバチ、と音をさせながらボタンを押している。「どうしたもんでしょうか、これ」

右近はうしろからそっと近づいた。どうやら、困り果てているようだ。財布を片手にガチャガチャと釣り銭レバーもしつこく回している。真っ黒なスーツに真っ青なシャツで、ノーネクタイ。こんな洒落た都会風の人間が、舞台関係者にいただろうか。それとも……。
右近は妙な気分になった。

「調子悪いんだよ、これ……」

事情がつかめたところで、右近も同じように呆れた声をだした。菊座は、実に古い会場である。自動販売機も、いつの時代だと言いたくなるものが設置されている。もはや時代は、電子マネーだというのに。いまだに小銭をつかわせるのだ。まるで廃れたサービスエリアだった。

「まいったわあ……」
「ちょっと失礼……まれに、こうやるとね」

右近は男の正面に手を入れるようにして、自動販売機をバコバコたたいてみた。昔から、機械が壊れたときはこれが定番である。砂嵐になりかけたブラウン管テレビなどは、これだけで映像が直ることがよくあった。
男も、右近に倣うようにバコバコと自動販売機をたたきはじめた。若干、右近よりも強い迫力である。どうやら、コーヒーが飲めない恨みが強いらしい。しかし、自動販売機はあいかわらず、うんともすんとも言わないままであった。

「ああ、こりゃあきらめたほうがいいね」
「ダメやろか……」男はしょんぼりとしていた。
「ダメだね」
「しゃあないなあ……ほな、あきらめます」
「うん」
「どうも、おおきに」
「はい」

即座に背中を向けて去っていく男にほっとする。うっかり会ってしまったが、顔を見合わせてはいない。が、結局この時間に菊座にいたことは証明されてしまうかもしれない。右近は考えた。それなら、楽屋にずっといたことにするしかないだろう。と、逡巡しつつ、右近が反対側に歩きだしたときだった。

「あっ」

大げさな声に振り返ると、さきほどの男が足を止めている。

「連絡先かなんか、書いてないやろか」

かけよって自動販売機に戻っている。なんとも執念深い男だ。たかが100円もしないコーヒーがそんなに飲みたかったのか。それとも100円を返してほしいのか。おそらく、どちらかというと後者だろう、と右近は踏んだ。関西人とはそういう生き物である。偏見だが。

「ここにシールあるよ」自動販売機の横を指さして教えてやった。
「あ、あります?」
「うん」
「ほな、メモしといたろ……」男がスマホを取りだして、メモをはじめている。やはり関西人はがめついのだろうか。金への思いが強そうだ。「明日にでも、連絡してみますわ」

右近は立ち去れなくなった。これまでにそんな男がいれば、おそらくこの自動販売機は違うものに変わるか、しょっちゅうの故障を防げているはずだ。ということは、やはり舞台関係者ではありえない。
風貌からして違うとは思っていたが、この細かさとしつこさを見る限り……。

「あのー……」
「ちょっとすんません」いまは話しかけるな、と言わんばかりだった。仕方なく、スマホ操作が終わるのを待つと、数秒しないうちに男が顔をあげてきた。「はい、どうも」
「警察の方?」
しかし男は、まだスマホをいじっていた。「ええと、ん、ん、んん、よっしゃ間違いないな。あ、写真に撮ればすぐやったんや。ああ、あかんな俺も」おそらく、ひとりごとである。こっちの質問には答えない気だろうか。
「なんかあったんですか? パトカーなんか、来てるけど」
しつこく問いかけると、彼はようやく顔をあげた。「あれっ」

しっかりと顔を合わせると、美しさもさることながら、実に味のある顔立ちの男だった。まるで俳優のようだ。右近は目を見開いた。いまの時代は、こんなのが警察にいるのか。

「もしかして、中村右近さん?」しかし、まったく質問には答えない。
「ええ……」
「んん、やと思ったあ!」

思った以上に、まばゆい笑顔を向けてきた。目が輝いている。こんな風貌で、ミーハーなのだろうか。だが芸能をやっている身としては、会っただけで喜ばれる存在であることは嬉しく、ありがたいものである。
右近も、思わず笑みをこぼしていた。歌舞伎のよさを知る若者は少ない。客層はほとんどが初老以降の人間だ。だからこそ、若い男性ファンというのも悪くない。が、一方で少し照れくささもある。
男は、嬉しそうに距離を詰めてきた。

「いやこないだ、テレビで拝見したばっかですわ」
「なんでしたっけ……?」テレビ番組には最近、よく呼ばれるようになった。いちいち覚えてはいない。
「ええと、なんやったかな……」眉間をコツコツと叩いている。「クイズ番組、堺正章の」
「ああ、はいはい」アレか。「たまたまね、知り合いのプロデューサーに頼まれて、でたんですよ」
「ああ、そうやったんですか。ここなら誰かに会えるやろとは思っとったんですけどね」ウキウキしている。やはりミーハーなようだ。「あの、忍足といいます」ようやく自己紹介をしてきた。
「なにがあったんですか?」

右近はすかさず声をあげた。さっきから質問に答える気配がないが、ここでもう一度、聞くしかない。ミーハーでお調子者の警察だ。それならば、どういう状況なのか把握しておいたほうがいいだろうと、右近は考えていた。

「……全然ご存知ないんです?」忍足は、口をOの字に開けていた。
「はい」右近も同様に、すっとぼけた顔をした。演技の腕が光る瞬間である。
「はあはあ、ええとですね」忍足がスマホを取りだす。事件の詳細がどこかにメモされているのだろう。パチパチと操作しはじめた。「ああいうクイズ番組とかいうんは、答えを教えてくれたりするんですか?」
「しませんよそんなもん」話が戻ってしまっている。そんなに気になるのか。
「やっぱりそなんやあ……」
「こっちは教えてくれって言ってんですけどね」
「ガードマンの野崎さん」

乗ったらこれである。実に一方的な男だ。話があっちこっちで混乱しそうだった。自分のしゃべりたいことしかしゃべらないのか。右近は若干の苛立ちを覚えつつも、出てきた野崎の名前に、静かに呼吸を整えた。

「どんな人かな?」警備員のことなど、覚えているほうがおかしい。右近は最初から、そう言おうと決めていた。
「小柄で40歳くらいの方」
「はい」
「えー……お亡くなりになりはって」

右近は声をあげなかった。大げさな芝居は禁物だ。目を見開いて、「え?」という気持ちを表情にだけ入れる。忍足が納得したように頷いた。

「さきほど遺体が発見されましてね」
「……なんで」ここでやっと、右近は声をだした。
「えー、直接の死因は後頭部の打撲」忍足が、指先で首の後ろ側をトントンとたたきながらつづける。若干の早口だった。「まあ詳しいことは明日になってみんとわからんのですけどね」
「どっから落ちたの?」
「……んん」忍足が、頭をひねった。「ええとなんて言いましたっけ。ほら舞台の上のあの、人が通れる……」
「すのこ?」舞台の真上にある格子状の設備のことだ。
「そうです、あそこから足を滑らせた可能性が高いんです」
「そう、まいったねそりゃ……」

深刻な表情で声を落としながらも、右近は内心、ガッツポーズをしていた。予想どおりの展開だ。これで事故と警察が判断すれば、すべてが終わる。

「ええ、いまのところはそこまでしか……」
「そう。そいじゃまあ、ひとつ、よろしくお願いいたしますよ」探りをいれておいてよかった、と右近はほっとした。あとは家に帰るだけだ。
「とんでもないです」
「それでは」

が、心のなかは浮足立ったままの右近が、背中を向けたその瞬間だった。

「あの……」
「はい?」まだ、なにかあるというのか。右近は振り返った。
「ちょっとよろしいですか」
「なんですか?」
「ちょっと……!」

忍足の申し訳なさそうな顔と片手で拝んでくるその姿勢が、果たしてどこまで本音なのか。このときの右近には、なにもわからずにいた。





向かってくる忍足侑士の姿が見えて、佐久間伊織は目を輝かせた。こんなに夜も遅い時間だというのに、事件があれば忍足に会える。それでなくとも職場で顔は合わせているのだが、現場だと忍足と話す機会が格段に増える。被害者には申し訳ないが、伊織は事件があったときこそ、よこしまな気持ちを9割にした仕事へのやりがいを感じていた。
すぐに、おや、と思う。忍足が誰か連れていたからだ。小柄な男性だった。メディアでもよく見ることのある顔である。ここは菊座、歌舞伎が行われる舞台会場だ。事前調査によれば「義経千本桜」の公演中。つまりあれは主役の中村右近だ、と、距離が近づくにつれ、伊織にもはっきりとわかった。

「あ、ちょっと」

遺体を乗せた担架が運ばれている。忍足は右近とともに、その担架を運ぶ警察官に声をかけていた。

「ご覧になりますか?」
「ええ? いやいいです」
「いや滅多に見れるもんじゃありませんよ」すでにシートをめくりかけている。
「あいやパス! ああっ、いらないいらない、ああっ……!」

右近の抵抗も虚しく、忍足はシートを一気にめくっていた。伊織は二人にそっと近づいた。忍足の行動が、どうもおかしい。わざわざあんなことをする人ではない。ということは、中村右近に見せたい、なにかがあったのだろうか。

「ほらほら」おどけるように、忍足が言う。
一方の右近が、じ……とそれを横目で見ながら、つづけていた。「いい死に顔だ……」
「いやそんなことないと思いますよ……」

完全に、忍足の意見に同意だった。どこが、いい死に顔だったのだろう。右近も、おどけたつもりなのかもしれないが。
遺体の死因は後頭部の打撲によるものと推測されている。片方の穴につまっている血は凝固しカピカピになっていた。死んでからしばらく経っているのじゃないだろうか、と、伊織はさらなる推測をしている。
忍足が、シートをかぶせた。用事はそれだけだったらしい。

「はい、いってええよ」

その横で右近は目を閉じ、両手を合わせていた。眉間にシワが寄っている。直後、伊織の立っている場所に、右近がかけよってきた。
遺体の周りを囲む白い線、いわゆるチョーク・アウトラインを見つけて、頬を緩ませている。人が死んだというのに、不謹慎である。伊織は複雑な気持ちになった。忍足に会えて喜んでいる自分も、十分に不謹慎だからだ。

「こういうの、本当にやるんだねえ」
「刑事ドラマみたいですか?」忍足が、にこやかに対応していた。
「これ、いつまで残しとくんですか?」
「最後には消して帰ります」伊織は、背筋を伸ばして答えた。
「それ聞いて安心した。芝居中にこんなのあったんじゃ、お客さん気になっちゃってさ、だーれもこっち見てくんねえから。くくっ」
「ああ……ふふ、そうですね。綺麗に消しておきます」

伊織は愛想笑いを返した。が、忍足は完全にそのやりとりを無視して、天を見あげていた。被害者はステージの上にある「すのこ」から落ちたと推測されていた。仕掛け物を吊って上下させたり、舞台に散り花や雪などを降らせたりする場所である。

「で?」

と、伊織との会話に飽きたのか、右近は忍足の背中に声をかけていた。おそらく忍足が右近を無理やりここまで引っ張ってきたのだろう。だから、「で?」なのだ。

「ええ、このセットなんですけど……なんていうんでしょか、これは……?」
「これは『義経千本桜』の河連法眼館の場。通称『四の切』。いわゆる、『狐忠信』ね?」
「いや……」ふっふっふ、と、忍足は苦笑した。「なんのことやら全然わからんですね」

となりで聞いていた伊織も、なにを言っているのかさっぱりだった。呪文のようである。

「わからない? あたしがその『狐忠信』。みぎかた」
「みぎかた?」忍足はさきほどから、首をひねりっぱなしである。
「主役だよ」
「はあ、主役ですかあ」感心したように頷いた。
「クイズばっかりやってるわけじゃあないんだよ」

大げさに、おどけるように右近が言う。忍足とどんな話をしていたのだろうか。忍足もくすくすと頭を下げつつ笑いはじめた。実に仲がよさそうだ。

「あの……これ、登ってみたことありますか?」と、今度は忍足が、例の「すのこ」に指をさした。
「ああ、あたしは……」ない、と言いたげだ。まあ、右近ほどの人間になればありえないだろう。生まれたときから主役のようなものだ。
「ふん……ちょっとどんなもんなんか、知りたいなあ」
「あ、忍足さん、わたし、行ってきましょうか!」

ここぞとばかりに、伊織は忍足にかけよった。彼の役に立てるのであればなんでもやりたい。それに、高いところも平気だ。

「あかんよ、佐久間さん。女の子やで、危ない」
「え? で、でもわたし、刑事ですからっ」
「んん、ええこやねえ。せやけど、いくら刑事でも、無理に危険なことする必要ない。そういうのはな、いざってときでええねん」にっこりと微笑まれる。伊織はあやうく、気絶しそうだった。わたしにとって危険なのは忍足さんです! と言ってしまいたいほどだ。「ああ、ええと、君」
「え?」
「今泉くん、言うたっけ?」
「あ、はい!」

忍足が近くにいた今泉に声をかけた。今泉は伊織の先輩刑事である。よって、伊織よりも今泉のほうが、忍足と何度も顔を合わせているはずなのだが、忍足は今泉のことをなかなか覚えない。なぜなのだろうか。

「はい、今泉慎太郎であります!」忍足にかけよって、ご丁寧に挨拶している。
「ああ、そう。ご苦労やけど、ちょっと上に行ってみてくれへん?」
「はい? え、上ですか」
「うん、大至急」
「た、高いですか?」
「うん、落ちんようにな」
「え、あ、そ、いま、佐久間くんが、立候補していたような気が、するのですが!」

今泉は怖がりである。恐怖症があるわけではないが、とにかく危険を避けたい男だ。伊織もそれは、よく知っていた。知っていたので、いい気味でもあった。

「せやからなに? 俺が指名してんのは君や。はよ行き」
「はしご、あっちだよ」ついには右近までが、加勢しはじめた。
「はしご、あっちやって」忍足が指をさす。
「あそこあそこ」右近は楽しそうだった。
「あっちだそうです、今泉さん」伊織も調子に乗った。
「ちょ、佐久間くんっ」
「女の子になすりつけようとしたあかんで。ほれ、大至急。はよ、はよ、はよ」

今泉というのはそういう男である。なんとなく、初対面の人にまで無下に扱われるという特殊能力を持っているのだ。そのくせ、伊織には先輩後輩というだけで偉そうに振る舞うので、伊織にとっても今泉が無下に扱われるのは気持ちのいい瞬間であった。悪い人では、ないのだが。
今泉が、実に嫌そうな顔をしながら走りだした。伊織は決して今泉のことが嫌いではない。しかし、愉快である。

「どうも引っかかるんですね」一方の忍足が、「すのこ」を見あげながらなに食わぬ顔でつづけていた。
「なにがですか?」右近が、忍足の表情をうかがっている。
「野崎さん……あそこでなにやっとったんでしょうか」それは伊織も気になっていた。公演中でもないというのに、わざわざ「すのこ」に登ったのはなぜなのか。
「……猫ですよ」

右近が、忍足と同様に「すのこ」を見あげながらつぶやいた。伊織は、首をかしげた。

「猫?」「猫?」

さらに、忍足とハモった。

「ええ。いるんですよ一匹、うるせえのが」
「どういうことですか?」忍足が、考えこんでいる。
「野良猫がね、住み着いてるんですよ、ここに」
「はあ……」
「それがまた鳴くんだなあ、芝居の最中にさあ……。こないだなんかもね、『しらなみ』やっててさ」

伊織はスマホを取りだした。歌舞伎については無知である。「白波 歌舞伎」と検索すると、どうやら演目のひとつであるらしいことがわかった。盗賊を主人公とした一連の世話物の演目を「白浪」と通称するようだ。
なるほど、「白波」ではなく「白浪」と書くんだ……またひとつ勉強になりました。と、納得した直後だった。

「あたしが、『弁天小僧菊之助だあー!』」

突然、右近が叫びだした。
いきなり芝居に入られて、忍足も伊織も同時にビクッと肩を揺らす。さすが中村右近ともなると、迫力が違う……ような、気がした。

「って、言った途端に、『にゃあー』……」
「はあはあ、はあはあはあはあ」忍足が何度も頷く。
「くくくっ。またこれがいい間で入ってくるんだよお。お客さんもドッカーンだもの」忍足も、右近につられて笑っている。「だからね、お願いしといたんですよお、なんとかしてくれって」
「ああ、捕まえとってくれ、と」
「そうそう。そういうことそういうこと」
「ふうん……」
「だからきっと、アレじゃないですか? 猫、探しててさ……」

落ちた、ということか。伊織は思わずため息をもらしそうになった。なんという気の毒な亡くなりかたであろうか。犯人は猫というわけか。非常に体験したくない最期である。

「そうだよ」右近も自分で言いながら頭のなかが整理できたのか、発見したような口ぶりである。「ひょっとしたら追い詰めて、捕まえようと思った瞬間に足、滑らせた!」

やけに芝居がかっているような物言いなのは、歌舞伎俳優だからだろうか。

「なるほどねえ……。大道具のナントカさんって人も同じようなこと言うてはりました」

伊織はぎょっとした。すでに、忍足はその話を聞きかじっていたということだ。であれば、なぜわざわざ右近に同じ質問をしたのだろうか。人によって見解は違うかもしれないから、念のため聞いてみた、ということなのか。

「ただ、どうもなあ……」忍足がステージ上を歩きはじめた。
「なんか問題?」右近は、いぶかしげである。
「そうなるとねえ、辻褄が合わなくなってくるんですわ……」さっと、また「すのこ」を見あげる。「聞こえるかー?」
「聞こえまーす!」

今泉の声が、頭上に降ちてくる。辻褄、とはなんだろうか。伊織は頭をひねった。猫を捕まえるなら公演後のほうが絶対にいい。辻褄は、合っているように思うのだが。

「どんな感じ?」

忍足がつづけて、今泉に声をかけている。伊織も同じように見あげた。今泉は、会場を見渡すようにキョロキョロとした。

「……高いです!」
「それはこっちからでもわかるんやわ」穏やかなツッコミである。
「あっ……狭いです! すごく!」
「あー……なんか乗っかってへん?」
「……なにもありません!」
「ないんやな?」
「はい!」
「んん……」非常に残念そうな顔をして、忍足がうつむいた。「やっぱり引っかかりますね」

忍足はなにかを探しているのだろうか。伊織が距離を縮めて声をかけようとすると、しかしそれは、右近にさえぎられた。

「なに探してるの?」まさに、いま伊織が聞こうとしていたことと同じだ。「まさか……猫?」

右近がケラケラと笑いだしていた。伊織はむっとした。
忍足さんがそんなすっとんきょうなこと言いだすわけないでしょう! いやすっとんきょうなこと言うときもあるけど! そこは忍足さんのチャーミングなところであって!

「いるわけありませんよー!」

まだ笑っている。笑いながら上に向かって大声をあげた。遺体があった場所、チョーク・アウトラインのなかに足を踏みいれてきたので、伊織は軽く注意した。

「すみません、ちょっと」伊織は不躾にも右近の体に触れた。意気揚々としている右近に苛立っていたせいである。
「あっ」

右近が慌てて後ずさった。伊織は近くにいる鑑識のバッグからチョークを手にし、線をつなげていった。
まったく、踏んだところが消えかけているじゃないか!

「猫じゃありません」と、忍足がようやく、否定した。「もし野崎さんが猫を探しに上がったんやったら、絶対に持っとらんとならんもんが、ないんです。ええよ佐久間さん、つづきは俺がやるわ」
「え、でも忍足さんの手が汚れて……」
「こんなんたいしたことない」と、忍足が伊織の手からチョークを取った。少しだけ触れ合った熱に、伊織は完全にときめいた。「それより佐久間さん、遺体の近くにあったもの、服のなか、もちろん調べとるよね?」
「あ、はい! 調べています」
「あった? ほら、チカチカ光る、アレや」

伊織は、はっとした。しかし右近の目は、忍足をじっと見ていた。探るような目つきだ。

「懐中電灯……」伊織に聞いてきていたはずだが、忍足もまた、右近をじっと見つめた。右近の眉間にシワがよった。「佐久間さん、堪忍やけど、ちょっと電気、消してくれる?」
「え、あ、はい!」

忍足に言われたことは、伊織にとっては絶対である。すぐにステージの隅に移動し、伊織はバチッと電気を消した。

「なにするんですかー! ちょっとー!」

今泉の声が、上からガンガンと振ってきている。
しかし、忍足は完全な無視を決めこんで、右近に向かってつづけていた。

「死体が発見されたとき、明かりは消えてました」

忍足がパンツのポケットから、ジッポライターを取りだしている。小気味のよい開閉音が、やけに響いた。

「どうして懐中電灯を持っていかへんかったんでしょうか……?」
「うーん……たし、かに……」

忍足が、静かな炎をくゆらせていた。





次に移動してきたのは、ステージ下にある「奈落」と呼ばれる場所だった。花道の床下となっており、通路にもなる。大きなせり出し用の装置もあり、全体的に地下室のようなつくりだった。
伊織は感心した。普段あまり観劇をしない性分である。エンタメの世界は、なるほどこうなっているのか、と、華やかであるステージ上とのギャップに、裏方の努力を見た気がしたのだった。

「おう忍足、こっちじゃ」

伊織が現場を確認しているあいだのことだった。仁王雅治の声に反応して階段を振り返ると、忍足と右近がやってきていた。

「ちょっと待っててもらえますか?」忍足が、仁王の声に反応する前に右近に頭を下げた。
「はい」
「すんません」

言いながら、忍足が近づいてくる。仁王の登場に、顔がひきつっていた。

「お疲れじゃのう、忍足」
「なんで警部殿がこんなとこまで来るんやろか。呼んでへんで?」
「俺、歌舞伎が好きなんよ。ちょうど寝る前に連絡があってのう。ちと見学」
「邪魔やわあ。帰って?」
「帰らん」

相手は警部だというのに、一階級下である忍足はタメ口だった。最初は伊織も驚いたものだが、これには事情がある。仁王と忍足は同級生なのだ。学生時代は二人ともテニスプレイヤーだったらしい。ともに強豪校に在籍しており、他校のライバル関係。よって、付き合いも古いそうだ。しかし、伊織には疑問があった。
仁王はたしかにキレ者である。よって、警部という階級は頷ける。キャリア組なので、階級も警部補からのスタートのはずだ。そこは忍足も同様なのだが、伊織にとっては忍足も相当なキレ者である。ではなぜ、忍足は警部補のままなのであろうか。昇給試験を受けていないという噂もちらほら耳にする。たしかに、出世にはてんで興味がなさそうではあるのだが。

「ほな働いてもらわんとなあ。仁王警部殿、なんかある?」
「その呼び方、嫌味なんじゃろうけどやめてくれんか」
「いややわあ、上司なんやから、尊敬してつかっとるだけですやん」
「それがどうも、嘘っぽくてかなわんのよ、俺」

仲がいいのか悪いのかわからない会話を耳にしながら、そこから距離を取りつつ、伊織はじっと右近を見つめた。忍足と仁王がやりとりしている様子を、右近もまた、じっと見つめている。どこか緊張しているようにも見えた。
右近の表情に集中しているあいだに、伊織は逡巡した。今日の忍足は、ずっと右近のそばにいる。ということは……もしや中村右近が、この事件になにか関与しているのか。

「なに、話してるんだろうねえ」

右近と目が合った。刹那、右近は伊織に近づき話しかけてきていた。ドキッとしてしまう。観察していたことが、バレただろうか。

「さあ。事件についての詳細でしょうか」伊織は適当に相槌を打った。
「お前さんは聞かなくていいの?」
「わたしは自分の仕事がありますので」わたしからなにか聞きだそうという魂胆か?
「そう……」

右近の視線はまた、忍足と仁王に移動した。忍足と仁王も、チラチラとこちらを見てきた。仁王がさり気なく右近を指さし、忍足にヒソヒソと声をかけている。忍足もまた、頷きながら右近のほうを指さして、一瞬、眉間にシワをよせた。
右近の表情が固まっていた。目の色は不安に染まっている。ゾクッとしているのだろう。右近について話しているというのが、嫌でもわかる状況だ。しかも会話内容は聞こえない。
やはり右近のことについて、不審な点があるに違いないのだ。右近など放っておいて、自分も会話に参加すべきだったかと、若干の後悔が襲ってきたときだった。

「はあ、さよか……ほな仁王、その調べ、進めてもらえるか?」
「お前のう……俺、一応上司なんじゃけど? 誰に頼みごとをしちょる」
「大事なことやで警部殿。どうせここに来たんは冷やかしやろ? 現場こっちに任せてええから」
「困った部下じゃのう……俺じゃなかったら殴られちょるぞ」
「せやから、お前にしか言わんねん」
「まったく、精進しんしゃい」

仁王が、最後にチラッと右近を見て去っていく。右近が忍足のほうに歩を進めていた。一方の忍足は、神妙な面持ちで右近を見つめ、やがて右近に歩を進めた。

「な、なんでした?」忍足が正面に来た途端、右近が切りだした。我慢の限界だったようだ。
「右近さんねえ……」忍足の表情が、非常に険しくなっている。そばにいた伊織も、緊張するほどだった。「嘘つきはりましたね」

まるで自分が尋問されているかのように、伊織は背筋を伸ばした。会話が聞こえなかったせいで、右近が追い詰められているのがよくわかる。

「えっ……?」
「……見た人間がいるんですよ?」

右近はさらに、表情を固めていた。いや、絶句したというほうが正しいか。彼の喉仏が上下するのを見て、思わず、伊織が生唾を飲みこんだ。

「ゆうべも出とったそうやないですかテレビに、徳光さんと!」

愕然とした。いや、伊織だけではないだろう。右近も固まった表情のまま、目を大きく見開いていた。

「んんもう、たまたまみたいなことおっしゃって、結構やってらっしゃるやない」なんの話なのか、伊織にはさっぱりだった。
「……く、はっ……ま、まさかそんな話?」一気に緊張がほぐれたのだろう、右近は笑っていた。
「くくくっ。ああ、堪忍、佐久間さん。さっきの人、連れてきてもらえるか?」
「は、はあ……わかりました」

無駄に緊張させられてしまった自分勝手な落胆に、ため息をつかずにいれなかった。伊織はすっかり忘れていた。
忍足は、性格がねじまがっているところがあるのだ。





「舞台スタッフの村岡さんです」と、伊織が伝えてきた。

慇懃無礼ではないか、と、右近は感じていた。伊織にではない。忍足にである。さっきのはなんだったのだろうか。安堵感は当然あったが、一方で苛立ちもあった。思わせぶりな忍足の物言いに、腹が立っていたのだ。

「当然ご存じやとは思いますけど」

伊織のバカ丁寧な紹介を茶化すように、忍足はそう言った。直後、村岡が丁寧に頭を下げてきた。そうそう話すことはないが、長年活躍している裏方スタッフのひとりである。

「ああ、毎日、世話になってます」右近は感謝を伝えるつもりで、対応した。
「はい。今夜は残業で残ってらっしゃって、最初にナニを発見されたのも、村岡さんで」
「お前さんが?」
「ええ」村岡は頷いた。
「で、村岡さんがおっしゃるには……ええと、これ」と、忍足が移動する。「なんでしたっけ、名前」
「『すっぽん』です」と、村岡が答えた。
「『すっぽん』ね……」業界では、そう呼ばれている。「下げとったっておっしゃるんですよ、作業のために。で、食事に行ったんですね?」
「ええ」
「何時ごろ?」
「ええと、11時ごろ」
「そのときは間違いなく、下がってたんですね?」
「はい」
「ところが、いまは……」

忍足が首をひねりながら「すっぽん」を指さした。右近も忍足に倣った。そしらぬ顔で答えるのが、当然、ここでは正解だろう。

「上がってるな……」
「ほかに残ってらっしゃる方は? 佐久間さん、確認したよね?」
「はい、確認はしましたが、目撃情報などはありません」テキパキと伊織が答えた。
「んんん……どうお考えになりますか?」
「うーん」

そんなことを聞かれてもわかるものか、と言ってしまいたい衝動を、右近はなんとか堪えた。反発して、急に態度が豹変したと思われたくはない。それに、この忍足という男の近くにいれば情報は入ってくる。さっきは警部と呼ばれた男がいたようだが、どうやらこの現場では忍足がいちばん偉い人間だ。

「忍足さん、鑑識が到着したようです」

話に割って入ってくるように、伊織が強い声をあげた。右近のなかに、また緊張が走っていく。ヘマはしていないはずだった。もちろん鑑識が入るということくらいは想定済みだ。だから革手袋をしたのだから。忍足の態度は気になるところだが、なんにせよ、証拠があるはずがないのだ。

「危うく帰るとこじゃったぞ」
「まいど。って、なんでまた警部殿がおるんやろ」
「俺が連れ戻してきちゃったっちゅうのに、その言い草はなかろう」
「はあ、まあええわ。すんませんねえ、鑑識さん。これなんやけど」

忍足が鑑識に「すっぽん」の操作盤を見せていた。あそこの指紋を取ろうというわけだ。右近は内心でほくそ笑んだ。あたしはそんなに詰めの甘い男じゃないんだよ、忍足さん。

「中村右近さん、ですよね?」
「え」

忍足の物言いを呆れた様子で見ていたはずの警部が、突然に向き直ってきて、右近は動揺した。さっきはこの男も揃って、自分をうがった視線で見ていたせいだ。

「どうも。俺は仁王雅治といいます」
「ああどうも、ええ、あたしが中村右近です」

この男もまた、忍足ほどではないが、長身であった。小柄な右近にとってはどちらも見あげるほど背が高い。加えて、この男もまた、美男子で味がある。
最近の警察は、頭のよさや正義感よりも、顔で採用するようになったのだろうか。まるで局アナだ。いや、二人ともたしかに頭はよさそうだが、正義感があるようには見えない。どことなく、嫌な空気を持ち合わせている。まあそれが、警察というものか。と、右近は勝手に結論づけた。

「何度か拝見させてもらっちょるんですよ、年に数回は必ず」
「そうですか。まだお若いのに、歌舞伎がお好きですか」忍足と違って、なぜだか仁王には信ぴょう性があった。
「俺の奥さんが好きで。結婚前から、デートで歌舞伎はしょっちゅうじゃったんですよ」どこの出身者だろうか。方言が独特だが、西だということはわかる。岡山か、広島か……。
「ははあ、それは奥さん、なかなか古風な趣味をお持ちなんですねえ」
「俺が中村右近さんにお会いしたっちゅうたら、飛び跳ねて喜ぶと思います。すみません、サインとか、お願いするっちゅうのは……」仁王から色紙とペンをわたされた。
「ああ、ええ、もちろんいいですよお」

右近はいい気分だった。忍足はかなりミーハーな印象だったが、こちらは本気度が伺えたからだ。ただ一点、横にいる伊織の目が細くなっていることだけが、気になっていた。やけに、ぎこちなさとしらじらしさを合わせた微笑みだったからだ。引きつっていると言ってもいい。ただでさえ刑事をやってるってのに、その笑顔じゃモテないねえ。

「はい、これでどうぞ」右近は色紙を仁王に戻した。
「ありがとうございます、家宝にせんといけん。のう佐久間さん」
「ええ、そうですね」やはり、しらけていた。
「用が終わったら帰りや仁王」
「言われんでもそうするき」

鑑識が操作盤のチェックをしているあいだに、忍足と仁王と伊織が余計な会話をしているときだった。舞台スタッフの村岡が、右近にそっと近づいてきた。

「こいつは殺しですよ……」村岡は突然、耳もとでそう伝えてきた。
「ん?」ゾクッとする。
「ピンときました……殺しです」
「まさかあ、お前……」

それでも、右近は苦笑して見せた。同時に、そんなことより、と思う。明日の舞台前に、村岡に伝えておかなくてならないことが、右近にはあったからだ。ついでだ、いま言っておこう。

「そうそう、これなあ」
「ん、なんですか?」
「ああ、どうも調子がおかしいんだよ。あとで見といてくれや」

右近は「すっぽん」を見あげながらそう告げた。

「引っかかるんだなあ……忘れんなよ?」
「はい」

村岡が去っていく。さっそくステージ上にある「すっぽん」の様子を見にいったのだろう。もしくは、道具箱を取りに戻ったか。しかし操作盤の前にはまだ、鑑識がいた。「すっぽん」の調子の悪さの問題はあっちにあると、右近は踏んでいた。早くどいてくれないか。

「どうやろかね?」忍足が鑑識に話しかけていた。
「難しいね、こりゃ……」
「いや、お願いしますわ」

鑑識は首をかしげている。いったい、なにをお願いしたいのか。指紋は絶対にでてこないはずだ。無駄だと、右近は心のなかで訴えかけた。

「ああ、どうも」右近の視線に気づいて、忍足が近づいてくる。「これはずいぶんと、新しそうな機械ですねえ」
「うん、特注だから。これドイツ製なの」これに関しては、右近の自慢でもあった。
「はあああ」
「あたしが入れさせたんだよ」
「今回のために?」
「うん。『狐忠信』ってのは狐の化身でね……音もなくスーッとあがる感じがほしくってね。で、空気圧で動くやつを特別にね」
「空気圧ですか……」
「うん」
「さっすが、右近さんじゃのう」と、仁王が声をあげた。
「お前まだおったんか。帰れや」
「言われんでもそうするき」
「言ってもおるやないか」

お互いに軽口を叩いているが、仲のよさが伺える。とても上司と部下とは思えなかったが、最近は警察でもこういうものなのかもしれない。しかしボソボソと言いながら、忍足はなにやら考えこんでいるようだった。物思いに耽るように、ちょこまかと歩きだしている。仁王がいつまでもここにいることより、右近には、そのことのほうが気になった。

「空気圧……」忍足がまた、つぶやいた。
「なにを悩まれてるんですか?」笑いを含めた口調で、右近は問いかけた。
「どうして動いていたのか、どうも引っかかるんですわ」

しつこい男だ。右近にもまた、焦りとも苛立ちともつかない感情がわきあがってきていた。

「あの人が乗ったんでしょう?」おかげで、呆れた声がでていった。
「野崎さんですか?」
「ああ。奈落から舞台ってのはね、ぐるっと階段つかわないと行けないわけですよ、普通は。ところがこの『せり』をつかえばあっという間。いるんですよ、よく……こっそりつかってる野郎がね。役者以外は乗るなって言ってるんですけどね」
「誰でも簡単につかえるんですか?」忍足が、また大変な早口になっていた。
気にせず、右近はつづけた。「難しいもんじゃありませんよ?」
「ただねえ……だったら引っかかりますねえ」まだあるのか。
「なに、なにが?」右近は苛立ちを隠すことも忘れた。
「いや……猫をつかまえるのに、せり上がっていく人がおりますか? ひょっとすると上におるかもしれん。逃げちゃうやないですか、いきなり床から顔がでてきたら。普通やっぱり、階段つかうんちゃいます?」

これは大変な正論だった。しつこいうえに、するどい男だ。右近はとぼけて見せることしかできなかった。

「んん、じゃあ、どういうことお?」忍足も眉間にシワを寄せつつ、目を伏せた。「自然に、動いたってこと?」
「まあ、誰かが動かしたか……やな」

右近の背中に、汗が滴り落ちた。





to be continued...

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