動く死体_02



2.


「コーヒーでも飲んで休憩しませんか」と忍足に誘われ、右近はそれに従った。さきほどとは別の自動販売機から買った紙コップのコーヒーを持って、忍足がこちらへ向かってくる。
右近はコーナーソファに座っていた。ここはスタッフたちの休憩所としてよく使用されている場所だった。

「お待たせしました。あ、砂糖入りでよかったです?」
「ええ、すみません」

忍足がソファに着席した。気になるので、さきほどの話をしようかと思い、コーヒーに口をつける前に話しかけようとすると、忍足がなにか言いかけた。
結果的に、お互いが笑って顔を見合わせた。

「ああ、いや、どうぞ」
「いやいや、どうぞ、どうぞ」
「いやいや、忍足さんからどうぞ」
「いやいや、俺のはたいした話やないんです」
「言ってくださいよお、もう」

親しみをこめて、右近は忍足の膝を笑いながら軽くたたいた。迂闊なことを言ってしまいたくない。なにかあるなら、忍足のほうからしゃべってもらいたかったからだ。

「いや、まあ、それやったら……んん、あのお……」
「ええ」なんだ、なにを切りだしてくる。右近の緊張が、高まった。忍足の視線が、意味深なせいだ。
「んん、徳光さん」右近は唖然とした。「どういう方なんですか?」
「……」徳光さん、だと……。
「せやから、たいした話やないと申しあげたでしょ、ふふふ」笑っている。どこまでも腹が立つ男だった。
「あたしね、そろそろ明日もあるもんだから」

それでも、右近はなんとか苦笑して席を立った。この男のミーハーには付き合っていられない。捜査を探ろうと思っていたが、どうせ証拠はないのだ、これ以上の進展は見込めないだろう。さきほどの奈落での様子から、鑑識もあきらめたと右近は踏んでいた。当然だ、指紋がでるはずがないのだ。

「そうですよねえ。すんません、お引き止めしてもうて」
「とんでもないです、お役に立てなくてねえ」心にも思ってないことが口からでてくる。ストレスだったのだ。帰れると思うと気分があがった。
「いえ、そんなことないです」
「また、なんかあったら」
「よろしくお願いします、ありがとうございました」
「じゃ」

と、言いつつ、右近は考えなおした。現状、やはりこの男のあらゆる疑いを残したまま帰るのはスッキリしない。
おそらく枕に頭をつけてから、忍足のやりとりが浮かんでは眠れなくなる。はっきりしたことを聞いておくべきではないのか。
右近は立ち去ろうとする足を止め、忍足に振り返った。

「ひとつ、正直なとこを教えてくれる?」ソファに座る忍足が、不思議そうに見あげてくる。「これってさあ……事故じゃないの?」

素人の村岡ですら、それを疑っていた。村岡のはただの勘だろうが、警察はどんなことを考えているのか。とくに、この男の考えにはするどいところがある。

「……」忍足は黙っていた。黙ったまま、右近を見あげている。
「いや、ここだけの話!」妙なことを聞いたと思われただろうか。好奇心が旺盛なだけだと伝えるために、右近はおどけてみせた。
「ええ……」忍足がゆっくりと立ちあがる。真剣な表情であった。「白状しましょか……内密でお願いしますよ?」
「うんうん、いいよ」

教えてくれるようだ。右近はソワソワとした。忍足がゆっくりと紙コップに口をつける。そして、顔を複雑にしかめていった。

「な、なにか?」
「……ココアやん」紙コップのなかを、まるで老眼のように引いて見つめはじめた。「コーヒー押したやん俺!」
「ダメなんですか?」右近はそれについては、流してしまいたかった。
「甘すぎるん、苦手なんですよ……よりによってココアて」
「よ、よかったらまだ、口つけてないから」と、右近はコーヒーを差しだしたが、忍足は、いえいえ、と静かに首を振った。「ああ、砂糖が入ってるから、ダメか」
「お気持ちだけいただいときます……ええーと……どこまで話しましたっけ?」
「まだなんにも」
「ああ、なんにも……」

右近は安心した。これでうやむやになるかとヒヤヒヤしたが、どうやら話を戻してくれるらしい。しかしどうも、忍足にはペースを乱される。目がチカチカとしてきそうだった。

「ええとですね……」言いながら、忍足がココアを口にする。やはり、顔をしかめた。「これはー……殺しです。殺人事件やと考えるとすべての辻褄が合う。それにですね、実を言いますと……ええっと……絶対に言うたらあきませんよ?」

忍足がぐいっと顔を近づけてきた。右近は思わず、のけぞりそうになった。しかし、絶対に言ってはいけない警察の考えは、せっかくなので聞いておきたい。

「うん、うん」前のめりに首を振った。
「実のところ……犯人の目星ついとるんです」
「……まっさかあ」右近は笑ってみせた。そんなはずはない。
「まさかやないんですよ、これが」
「誰?」
「そこまではちょっと……」
「教えてよお」
「これといった証拠がまだ……」
「……あたし?」

右近は、賭けにでた。さっきからずっと感じていたことではあるが、忍足は、この中村右近を疑っているかもしれない。そもそも、この男がたっぷりと話している人間は自分しかいない。ここで冗談めいて疑いを晴らそうという思いもあった。違う、と聞ければ安心できるというより、とにもかくにも、忍足の反応を見たかった。

「右近さん……?」
「……あたしなの?」
「んん……ふふふふふふ」どっちだ! なにを笑っているんだこの男は!
「なになになに、なにいー?」それでも、右近は全力でおどけた。
「まあ、それは置いといてですね」
「置いとけないよお」
「見てほしいものがあるんです……これなんですけどね」

なにも取りだしてないのに、忍足はそう言いながらココアを口にして、また顔をしかめた。

「無理して飲まなくたって」
「そうですやんね。手で持っとるとどうしても飲んでしまうんですよ。置いときましょか」

言いながら、忍足がソファに座る。右近もそれに倣った。着席した忍足が、すぐに胸ポケットをまさぐっていた。そっと、それをテーブルに置く。

「ええー……野崎さんがはめとった時計です」
「……ちょっと触っていいですか?」忍足が静かに頷いたので、右近はビニール袋に入っている腕時計を手にした。間違いなく、あのとき右近が打ちつけたものだ。
「これ、止まってるねえ」
「11時35分……」忍足がつぶやいた。いいじゃねえか。
「死亡推定時刻ってやつだ」

右近は、うっかり笑ってしまった。うまくいっている、と浮足立ったせいだった。しかし、その期待はすぐに崩れていった。

「うううううん……思うんですよねえ、右近さん。世のなかには当てにしたあかんもんが3つある」
「なんですか?」
「年寄りの自慢話と、通信販売の売り文句、そして……」忍足がそっと、時計を持ちあげる。「犯行現場の壊れた時計」
この男は、一筋縄ではいかない。「スポーツ新聞の見出しってのは?」
「あ、それ入れたら4つんなりますね?」
「くくくっ。入れといてくんないかな」右近はまだ、おどけてみせた。冷静でなくてはならない。ここで焦りを見せれば、自分が犯人だと言っているようなものだ。
「わかりました」忍足が頷きながら、つづけた。「こういうもんは、たいていフェイクなんです。ドラマやないんやから、そない都合よく時計は壊れません。俺はこれを最初に見たとき、ピンときました。誰かがなんかを隠そうとしとる。んんん……」

右近は表情を崩さないことに神経を集中させた。コーヒーの紙コップを持ちあげて、何度も両手で傾ける。コーヒーは当然、口に入っていくが、しかし味が、まったくしない。

「検視官の話やと、死亡時刻はもっとずっと前の可能性もあるそうなんです。たとえば、夜の公演がはじまる前とか。ちなみにあなた、なにをしてはりましたか?」

たたみかけるように、忍足がこちらに向き直った。さきほどもあったが、急に早口になっている。右近は胸の鼓動を感じながらも、ごく冷静に声をだした。

「公演前は、部屋で『顔』してますよ」
「メイク?」
「そういう言葉はつかわないねえ」
「おひとりで?」
「当然」言いながら、右近は覚悟を決めるしかなかった。この質問はもう、確定だ。「やっぱり疑ってるよお、俺のことお……」
「当然、犯行現場も変わってきます」忍足は、右近の言いぶんを無視して一方的に話をつづけた。「どこか別の場所で殺して、『すのこ』から落ちたように見せかけた」
「あたしじゃないよ」
「おそらく犯人は劇場関係者です」
「あたしじゃあないよ、くくくっ」

じっと忍足に見つめられて、右近は目をそらして笑った。笑うしかなかったのだ。

「忍足さーん!」

そのとき、奥のほうから声がした。さっき「すのこ」に登っていた、今泉という刑事だ。おっと、失礼します、と言いながら、忍足がゆっくりと席を立つ。右近は深呼吸したいのを抑えて、二人のやりとりに耳を澄ました。

「探しましたよ」
「あれ、ここにおるって言わへんかったっけ?」
「聞いてませんよ」
「そりゃ悪かったな」
「いま、はじまったところです」
「ああ、そう」
「上のほうから、順番に」
「はい、了解」
「見つかりますかねえ?」
「まあそりゃ、やってみる価値はあると思うでえ?」
「なにもしないよりは!」
「んん。せやから君は、しばらく立ち合っとってくれるか? 悪いけど」
「わかりました!」

なにが、はじまったのか……右近はなに食わぬ顔をしながらも、気が気ではなくなっていた。
立ち去った今泉の背中を見送った忍足が振り返る。右近はコーヒーと一緒に、生唾を飲み込んだ。

「ああ、どうもありがとうございました」
「いいですか?」
「ええ、これ以上はお引き止めしてもアレですんで。ホンマに貴重なお話をどうも……助かりました」

握手を求められ、右近は右手を差しだしつつも、嫌な予感がしていた。やはり、忍足と今泉の会話が気になる。いったい、なにをはじめたのか。
忍足も調べもののために移動すると言いだし、二人で一緒に歩きながら、右近はタイミングを見計らっていた。あの調子なら、聞けば教えてくれる可能性も高い。

「またなんかあったら、知らせてくださいな」
「はい、進展がありましたら必ずご報告に」
「それじゃ……!」
「それでは、どうも」

お互いが頭を下げた。もう、いましかない。

「あー……あのねえ、さっきの話、あれは、なに?」
「んんんんん? なんでしょうか?」
「なんか、捜しもの……とか?」

右近は思いきって口にした。忍足が曖昧な笑みを浮かべたまま、眉をさっとあげて見つめてくる。ちょっと言いたくない、というわけだ。

「誰にも言いませんから、教えてよお」右近は得意のおどけっぷりを発揮して、忍足にすりよった。
「ふふふ。懐中電灯です」
「……どういうこと?」そういえば、そんなことを言っていた。
「いや結局、見つかってないんです。遺体も持ってなかった、控え室にもなかった。となると、どこへいったんやろか……」忍足も、右近に距離を縮めてきた。「いやあのね、懐中電灯が見つかればですね、ホンマの犯行現場も……もしかすると」

忍足と視線が合う。右近は全身が一気に冷めていくのを感じていた。

「まあ、これは思いつきなんですけどね。ふふふ」忍足が、照れくさそうに笑った。右近もなんとか、一緒に笑ってみせた。
「はあ、なるほど、ありがとうね」

警備員だから、懐中電灯は常に持ち歩いている可能性が高い。ひょっとしたら、その無くなった懐中電灯が、俺の楽屋に……。





右近はかけあしで楽屋に戻った。テーブルの下、戸棚の裏、鏡台の横、花束に埋もれている可能性もある。必死に急いで探したが、見つからない。上から順に、と言っていた。警察がここにやって来るまで、あとどれだけあるだろう。なんとしても懐中電灯を見つけて持ち帰らなければならない。と、焦りが全身を支配しはじめたときだった。
トン、と扉がノックされた。心臓が同じタイミングでうなりはじめる。村岡だろうか。それとも、今泉か。

「……はい?」
「忍足です……」

なぜ、さっき自分を見送ったばかりの忍足がここを訪ねてくるのだ。俺は、帰ると言ったじゃないか。右近は動物の威嚇のごとく、顔がゆがんでいくのを自覚していた。

「ちょっと待ってくださいよお」

入口までいって扉を開けると、もちろん忍足が立っている。紫の暖簾をかきわけ、顔をのぞかせてきた。右近はその姿にすら苛立ちを覚えたが、暖簾を開くとそのとなりに伊織もいて、今度は緊張が襲ってきた。刑事がふたりでやってくるとは、いったいなんなのか。

「なにか?」
「ああ、もうお帰りになったんかと思いました」
「……忘れもの」
「ああそうですか。ちょっと大事なことを思いだしまして」

大事なこと、という言葉に、さらなる緊張が走っていく。まだなにか聞きたいことがあるということなのか。

「どうぞ」

右近はいぶかしげに思いながらも、忍足と伊織を楽屋に招くことにした。返せば逆に、不審がられるだろう。

「すんません」
「失礼します」

申し訳なさそうな声をだすわりに、忍足と伊織はずかずかと室内に入っていった。ぼうっと真んなかに突っ立って、辺りをみわたしている。まさかこの連中、俺を疑って懐中電灯を探しに来たんじゃないのか。

「かけませんか」右近は、ふたりを近くのソファに促した。
「ああ、どうも。佐久間さんからどうぞ?」
「すみません、忍足さん」
「ええんや。レディファーストやから」

一方で、ふたりのやりとりに拍子抜けしそうになっていく。忍足と伊織は、付き合っているのだろうか。ずっと思っていたが、やけにイチャついているように見える。
なんにせよ、右近には関係もなければ、興味もないことだった。

「実はですね……」と、忍足が右近に向き直った。「ええー……今度、歌舞伎のチケットを、俺と佐久間さんので、2枚、取ってもらえませんでしょうか」

ここにきて、右近は本気で拍子抜けした。大事なことというのは、それか?

「すみません、図々しいお願いで……」伊織が頭を下げてきた。
しばらく呆気に取られそうだったが、右近は思わず笑ってしまった。「いや、2枚と言わずに、何枚でも」
「よろしいんですか?」忍足の顔が、輝きを増した。どこまでミーハーなんだ。
「ええ、もう大歓迎」
「わあ、右近さん、お優しい方ですね忍足さん!」
「ホンマやあ。せやから言うたやろ? 大丈夫やって。ありがとうございます!」忍足は、テンションがあがったようだ。「ええと、ほなとりあえず2枚でええね?」
「はい、2枚で」
「さっきの上司の方とか、男性の部下の方のもどうですか?」
「いりません」「いりません」ハモっていた。
「あ、そう?」急に冷たい空気を感じて、右近はしらけそうになった。
「佐久間さんいつがええ?」
「えっと……あ、火曜日どうですか? 忍足さん非番、わたしも非番です」
「おお、ええね。ほなそうしよ。火曜の夜あたりとか、どうでしょうか右近さん」

やれやれ、やっぱり付き合っているらしい。右近はかなり、呆れた。仕事中に、歌舞伎チケットを、この中村右近に頼むとは。しかもデートだろう。職権乱用が甚だしい。
まあ、歌舞伎デートってセンスはなかなかオツだけどねえ……さっきの上司の真似っ子じゃねえか。

「火曜、今度の火曜ね? はい、いいですよ」声が強くなってしまった。引き出しのなかにあるメモ帳に書き込むために、忍足たちに背を向けながら、つづけた。「番頭に言っときましょう」
「忘れもんってなんやったんですか?」

急に話題が変わって、右近はドキリとした。しかし背中を向けたせいで、忍足がどんな表情をしているのかわからない。鏡台をのぞき見ても、ちょうど右肩しか映っていなかった。細かいことが気になるのは、この男の性分なのだろうか。心なしか、部屋の空気が一瞬で変わったような気配まで感じた。考えすぎだろうか。

「花をもらったんですよ。持って帰ろうと思ってね」
「火曜の夜は、佐久間さんと歌舞伎鑑賞……ん、カレンダー登録しといた。これで忘れへんわ」
「はい、わたしも登録しておきました!」聞いておいて、人の話を聞いてないのかこいつらは。
「ほなどうも、お邪魔しました」
「はい、どうも」
「あ、一緒に行かれます?」忍足が余計なことを聞いてきた。
「いえ、あたしはやることありますから」
「そうですか」

トントン、と扉まで向かっていく足音に、ほっとしたのもつかの間だった。「そうや!」と忍足が突然に声をあげて、右近は奥歯を噛みしめた。やっぱりこいつの本来の目的は、違うところにあると気づいたからだ。

「ついでにアレ、聞いとこうや、佐久間さん」
「ああ、そうですね!」

ずかずかと、また室内に入ってくるのが鏡台越しに見える。右近は腹が立って、メモを書く振りをしながら、背中を向けたままにした。おそらく、なにか質問をされる。そのときの表情の変化を悟られたくはない。

「これはあくまで形式的なことですから、気を悪くしないで聞いてくださいね」伊織がつづけていた。
「はい、どうぞ」面倒そうな声をだしたつもりだが、なにも響いてないだろう。
「今夜はどうして、残ってらっしゃたんですか?」
「台本、覚えてたんですよ?」
「どちらで?」と、忍足が割り込んでくる。
「ここで」メモを書く振りをつづけながら、右近は床を指さした。
「ここで、はあ、そうですか」

忍足が、ソファにまた腰をかけているのが鏡台越しにわかる。それと同時に、今度は伊織が声をあげた。

「あっ! 忍足さん、わたし今泉さんに呼ばれていたので、お先に失礼します」
「はいはい、気をつけて行っておいでな?」
「ありがとうございます、失礼します!」

ドタバタ、ガラガラと扉の音がする。また、忍足と二人きりというわけだ。この男は帰らないのか。まだ話をつづける気か。

「忍足さん、あの刑事さんと付き合ってんでしょう?」右近は、話を変えようとした。
「え? ははっ……いやあ、そんなんちゃいますよ」
「またまた……デレデレだったじゃない、火曜の夜はデートでしょお?」
「いやいやホンマに、そういうんちゃうんです。職場恋愛は勇気がいるもんで。歌舞伎も、色恋沙汰がいっぱいあるやないですか」
「まあ男と女は永遠のテーマってとこなんでしょうねえ」
「台本はいつも公演後に、ここで覚えるんですか?」 

しかし強引に、話が戻されていた。右近はうっかり、舌打ちをしそうになった。

「来月やる役が初役なもんでね。いまのうち覚えとかないとヤバいんすよ」
「おひとりで?」
右近は視線を上にして、考える振りをした。「んん……覚えるときはだいたい、ひとりだな」
「そうですか……あのー」忍足が、身を乗りだしてきているのがわかる。「歌舞伎の台本っちゅうのは、あるんですか」
「……えっ?」どういう意味だ。
「ああこれは、疑っとるわけやないんです。あくまでも俺の好奇心です」見たい、ということか。
「……ありますよ」
「ありますか。ちょっ……と、拝見できますか?」
「いいよ」

妙な間が気になったが、それで納得するならこれほど簡単なことはない。右近はメモを引き出しに戻してから、腰をあげた。楽屋には常に台本を置いている。右側の棚に向かった。何冊か抜きとって、いましがた答えた来月の台本をまさぐりながら、ふと顔をあげ、忍足に視線を合わせようとしたときだった。
忍足の座るソファの左側面の奥側に、なんと懐中電灯が逆さに立てて置かれていた。見つかりやすい場所なのに、いまのいままで気がつかなかった。右近は目を見開いた。
野崎の野郎、あんなところに……!

「来月やるのが、これだ」

右近はすぐさまソファの左側面に沿うようにして、忍足に台本を見せた。これなら、自分の足が邪魔して、忍足からは見えない。なんとしても、忍足にあの懐中電灯を見られてはならない。見られたらおしまいだ。犯行現場がここだとバレてしまう。それは右近への死刑宣告も同然だった。

「これがそうですか」
「うん」声がうわずってしまいそうになる。こういうときこそ、役者を発揮しなければ。
「へえ……これ、なんて読むんですか?」表紙には、「盟三五大切」とある。
右近は説明した。「かみかけてさんごたいせつ」
「か、歌舞伎のタイトルだけは読めへんなあ……」忍足はうなった。
「独特だからね」
「そうですねえ」忍足が台本をめくった。大丈夫だ、バレていない。
「ああ、この『源五兵衛』っての。これがあたしだ」右近は台本に集中させるため、指をさした。そうだ、いまはじっくりと台本を見ていてほしい。
「へえ。主役ですか?」
「悪いヤツでねえ」
「へえ、セリフが多いですねえ」忍足が夢中になっているのを見て、右近は腰を曲げた。いまなら懐中電灯をつかめる。が、忍足が右近に顔を向けてつづけた。「覚えんの大変でしょう、これ」
右近は咄嗟に腰をあげた。「でも南北のリズムがあるんだよね」南北、とは「盟三五大切」の作者、鶴屋南北のことである。「だからそうでもないですよ」
「はあはあ、そうですか」

右近は考えた。このまま懐中電灯を隠すのは難しい。そして、テーブルの上にある貰いものの菓子に目を止めた。あそこには小袋に入ったあられがある。
忍足が座る正面の椅子に座った。「盟三五大切」のことを話しながら、ごく自然体を装って、菓子が入っている箱に手をかけた。

「これはいい本だ」案の定、あられが入っている。「『源五兵衛』ってのはね、ひでえ野郎なんだけども、なんかすっとぼけてやがってね」
「くくくっ」
「へへへっ、ニヒルでさ」

言いながら、右近はあられの封を思いきり裂いた。想定どおり、あられが袋から飛びだし散らばっていく。忍足にも数個のあられが当たった。

「ああ、ごめんなさいよ!」
「いやいや、大丈夫です」忍足は突然のアクシデントに笑っている。
「すみません、すみません」右近はすぐに箱の蓋を手にし、床に散らばったあられを集めた。
「お手伝いしましょか」
「いやいや、結構です」

集める振りをしながら、右近はソファの左側面に体をすべり込ませた。うまくいった。これで、懐中電灯を手にできる。

「だからこの、深みがあるっていうのかな」しかし、油断は禁物だった。本の話をつづけて、忍足に台本に注目していてもらわなければならない。
「ええ」

床に這うようにしてあられを拾いながら、右近は忍足を盗み見た。忍足はまだ、台本を食い入るように見ている。いいじゃねえか、すごくいい。

「言ってみりゃ、より、人間的っていうのかね」
「ふうん……」
「まあ、難しいぶん……」ここでようやく、右近は懐中電灯を手にした。心のなかでガッツポーズをする。やった。「役者としてはやりがいがあるってもんですよ」

そのまま忍足に正面を向けるように立ち、懐中電灯を両手で後ろ手に隠した。そっと、足を後方へずらしていく。

「殺人犯なんですか、これ」
「ははっ。偶然。怖いねえ」
「刑事みたいなものは、でてこんのんですか」
「ああ、ないな、そらない。残念だね」
「そっかあ、捜査の参考にはならへんかあ」
「ならないね」

忍足は笑いながらも、台本に目を落としたままだった。滅多に見ることのできない歌舞伎の台本に夢中のようである。右近も忍足に合わせて笑った。チャンスだ、と思った。そのまま、右近はズボンのうしろ側に懐中電灯を挟もうと手を動かした。うまくハマらない。あと少し、と思ったその刹那のことだった。
ガコンッ、と足のかかとのあたりに小さななにかが落ちてきた衝撃音がする。持っている懐中電灯が軽くなる。電池だ、電池が落ちたのだ。
右近の笑っていた声が、一瞬にして消えた。しかし比例して、忍足はごく冷静に、台本をペラペラとめくりながら言った。

「なんか落ちましたね」

右近はなにも答えられなかった。全身が震えだす。いまここで忍足が立ちあがり、「なにが落ちたんです?」と右近に向かってくれば、もうおしまいである。
喉もとまで震えた声がでてきそうだったが、そのとき、突然に忍足のスマホが鳴りだした。

「あ、俺ですね。でてもよろしいですか?」
「どうぞ」喉にからみついた、掠れた声がでていく。
「はいはい、ああ、俺や」

忍足が立ちあがって、完全に背中を向けた。右近はすばやく振り返った。落ちたのは単1電池2個だった。それらを急いで懐中電灯のなかに戻し、蓋を閉める。

「ああ、そうなんや。わかった」

忍足の電話が終わってしまう前に、右近は目の前にある引き出しに懐中電灯を放りこんだ。その引き出しを、閉めた瞬間だった。忍足がこちらに振り返った。

「発見されたそうです」なにがだ……と、右近は耳を疑った。ゆっくり忍足を見ると、彼は至って冷静な表情で、つづけた。「懐中電灯」
「……どこにあったの?」もはや、右近のその声は、声になっていなかった。ほとんど息だけで、そう言っていた。
「ええ、奈落の脇の廊下に転がっとったそうです。ちょっと行ってきます」

なら、いま俺が隠したものは、なんだったんだ……。

「あれ?」

忍足が、ソファの左側面、奥側にしゃがみこんだ。右近は全身が、すでに震えだしていた。

「なに、なにっ!?」
「いや……俺の懐中電灯」なんだと……なんだと!? 「ここに置いたんです……ない。あれ?」

右近の全身の震えは、焦燥や恐怖からくるものではなかった。これは、怒りだ。右近は黙って、うしろ手で引き出しを開けた。さきほどなかに入れたばかりの懐中電灯を取りだし、忍足に向かってかかげると、忍足は、パッとこちらに顔を向けた。

「あっ、それです」なにごともなかったかのように、人差し指を向けてきた。「すんません」

右近の手から、さっと懐中電灯を取り、忍足は「じゃあ行ってきます」と言い残して、そそくさと去っていった。
右近はしばらく、懐中電灯をかかげた手のまま、固まっていた。

…… や ら れ た。

やられた、やられた、やられた……忍足がここに来た。伊織とふたりで。
歌舞伎のチケットだデートだのと男女の仲で注目を惹きつけておいて、今日のアリバイを聞いているあいだに、懐中電灯をソファの左側面の奥に置いた。置いたのはきっと、伊織だ。置いてすぐに、でていった。すべて、最初から仕組まれていた。
右近は、悔しさで全身を震わせた。

「あの野郎……!」

怒りの爆発をぶつけるように、引き出しを強くたたき閉めていた。





忍足が奈落に戻ったという情報を聞いて、伊織は急いだ。無論、作戦がうまくいったかどうか、それが気になっていたためである。
捜査のためとはいえ、忍足との疑似デート決めカップル体験は、伊織にとって非常に有意義な時間であった。そのせいか、右近のことも気になるが、忍足にも早く会いたい。

「忍足さん!」忍足は静かに、奈落にあるセットの上に座っていた。「焦ってました?」

うんうん、と忍足は静かに頷いた。うまくいったのだろう。しかし、浮かない顔をしていた。

「見たかったなあ」本音がもれでてしまう。犯人を追い詰めるときの爽快感というのは、なににも代えがたい。「九割ですね」
「九分九厘……」右近で間違いないようだ。
「礼状をとりますか」
「……決め手がないねん」

忍足の浮かない顔の原因は、そのことのようだった。たしかに、確たる証拠がない。とりあえず追い詰めて、焦らせただけだ。ほぼほぼ右近が犯人であることに違いはないが、言い逃れしようと思えばいくらでもできる状況であった。

「まだ、泳がすつもりですか?」
「んん、決め手がないうちはなあ」

仁王は嘘八百を並べて右近から指紋を採取しようとしていたが、おそらく決め手にはならないだろう。結局、操作盤に指紋は残っていなかった。しかし一方で、右近が逮捕されれば、あのサイン色紙は高く売れそうだ。忍足を信頼している仁王なら、そこまで考えたうえで、やりかねない、と、伊織は踏んでいる。
だが今夜にも捕まるかどうかは怪しい。このまま逮捕に時間がかかれば、ひょっとして火曜の夜は実際に忍足とデートできてしまうのではないか、と、またよこしまな妄想が広がっていく。

「あの、このまま放っておくと、その、か、火曜の夜は……」思い切って、口にする始末だ。
「ん? なに佐久間さん? 歌舞伎、見たいん?」
「あ、歌舞伎っていうか、お、忍足さんとその、仕事以外でお会いするのも、なんていうか、いいなあって」ひゃあ、言ってしまった! わたしってば!
「ん……そうなん? それやったら、この事件解決したら、どっか行く?」
「え、いいんですか!?」
「俺はええよ? せやけど、事件解決せえへんと、その予定も立たんなあ」
「う……」

九割九分九厘も犯人だというのに、おのれ中村右近、とっとと白状してしまいなさい! 無理くりにでもしょっぴいてやろうか! という暴言は、もちろん、心のなかだけに留めた。
「怪しい」というだけの段階で逮捕に進まないのは、忍足のポリシーである。そして伊織は、忍足のそういうところが好きである。
言い逃れが1ミリもできないような証拠をたたきつけて、犯人に抵抗をあきらめさせ、白状させ逮捕に同意させる。それが忍足の美学。だからこそ、忍足は出世に縁がないのかもしれない。
仁王の場合、徹底的に追い詰めるところは一緒だが、犯人を口説くという方法を取らない。目星をつければすぐに礼状をとり、しょっぴいてからとことん吐かせるのが彼のやり方だ。しかしそれで冤罪を生んでいないのだから仁王はすごい。だからこそ、警察内では目立っている。どういうわけか、仁王のやり方のほうが上のウケがいいのだ。
なんにせよ、忍足の力になれることが、なにかないだろうか……と、伊織が頭をひねらせはじめたときだった。舞台スタッフの村岡が、道具箱を持って奈落に入ってきた。操作盤の前でそれを下ろし、開いている。こんな時間まで、まだ残業する気だろうか。

「なに、してるんですか?」気の毒になり、伊織は思わず声をかけた。
「いや、直すようにって言われてね」
「それを?」
「ええ」

操作盤が、壊れているのだろうか。気になって近づこうとすると、伊織よりさきに、忍足が足早に操作盤の前に進んでいた。いつのまに立ちあがっていたのかと思う。

「誰に言われたんですか?」忍足が、村岡に問うた。
「いや、六代目……」
「右近さんに?」
「ええ」
「……壊れとるん?」いぶかしげな顔で、村岡を見ている。
村岡は首をかしげた。「さあ……」

村岡が、レバースイッチを上にあげた。「SAFETY」と書かれているスイッチを押した直後に「DOWN」「START」のスイッチが同時に押され、それらすべてが点灯した。すると、上がったままだった「すっぽん」が下りてきた。

「なんともなってないなあ」村岡がつぶやく。
その真横で、忍足はひとしきり眉間をなでたあと、言った。「あのー……これ、動かし方、教えてもらえません?」
「はい」と、村岡がレバースイッチを下げ、すべてのスイッチを切った。点灯が消える。「いや、簡単ですよ。上げるときは、これと、これを押すんです」

忍足が、村岡の指さしたスイッチを同時に押す。「UP」「START」が点灯した。「すっぽん」が上がっていく。なるほど、これで人が乗っていると、ステージ上に急に人が現れる仕組みになっているということだ。

「はい」と、忍足も納得している。
「で、止めるときはこれ」村岡が赤いスイッチを指定した。忍足がカチッと押しこむと、「すっぽん」が止まった。「下げるときはちょっと難しいんですが、これを上げて、安全装置を解除してから、これとこれを押す、と」

忍足がレバースイッチに手をかけ上にする。安全解除とは「SAFETY」のことのようだ。それを押して直後、「DOWN」「START」を同時に押すと、すべてのスイッチが点灯し、「すっぽん」が下がってきた。
曰く、簡単である。一発で覚えられる操作性だ。外国製だから難しいと思っていたぶん、伊織は感心した。

「ありがとう……おおきに」忍足がまた、眉間をなでていた。
「ああ、いえ」
「あの……」忍足が逡巡している。「これ、動かし方を知っとる人は?」
「いや、スタッフはみんな知ってますよ」それはそうだろう。簡単すぎるからだ。
「……六代目。もう1回、聞くけども、『壊れてるから直せ』って言うたんやよね?」
「ええ」
「それ、いつ?」
「さっき、刑事さんと来たとき」
忍足が何度か頷き、微笑んだ。「ありがとう」

おおきに、と、またつぶやきながら、忍足が真剣な表情で、じっと伊織を見てきた。不謹慎ながら、ドキン! としてしまう。

「佐久間さん」
「は、はいっ」
「六代目、連れ戻して。大至急や」
「はいっ!」

伊織はすぐさま、奈落から飛びだした。





中村右近はある決定的なミスを犯しました。彼はあたかも殺ったのは自分だと言わんばかりの証拠をここに残してました。ヒントは、この「すっぽん」の仕組みにあります。
なんだかおわかりになります? たぶん、わからんやろなあ。まあ、考えてみてください。
……忍足侑士でした。






駐車場に出る直前だった。うしろからバカでかい女の声が響いてきた。右近は驚きとともに、苛立ちを覚えた。

「右近さん!」
「なんだよっ」

あと少しでこの菊座からでれるというのに。忍足にしてやられた、この女にもしてやられた、右近は全身がビリビリと怒りで震えていた。

「誰もださないように言われてるんです、行かないでください! そこをでたら、業公務執行妨害で逮捕します!」
「どういうことだそれは!」
「逮捕しちゃいますってことです!」
「ふざけるな!」

叫んだところで、伊織は右近に追いついていた。一気に右近を追い抜かし、ドアの前に立ちふさがっている。

「すみません……忍足さんが、奈落でお待ちです」

右近は鼻息を荒くしたが、結局、奈落へと向かった。
ゆっくりと歩いていくと、そこでは「すっぽん」が下げられていた。修理が終わったのか、と思う。じっと見ていると、横から忍足の声が耳に届いた。

「何度もご足労をおかけして、申し訳ありません」
「……なにがなんでも、あたしのこと帰したくないらしいね」

右近はまだ怒っていた。挑戦的な態度で忍足に向かっていく。忍足は羽織っていたジャケットを脱ぎ、真っ青のシャツに細いサスペンダーをつけていた。どこまでも洒落ている。おまけに鮮やかなシャツが1枚になったせいで、整った顔がより際立っていた。やはり、改めて見ても腹の立つ男だ。

「すみません、これで終わりますんで」
「なんだったら一緒に住んでみてもいいですけど?」右近は余裕を取り戻そうと笑ってみせた。俺だってずっと歌舞伎の世界で生きてきてる。洒落た男なんだよ。
「ふふふ。んんん、まあ時間も遅いんで、本題から入ります」くそったれが。俺の洒落を流しやがった。
「3時……いい頃合いだ」

右近が腕時計を見て、顔を上げた瞬間のことだった。

「野崎さんを殺したのはあなたです」

それみたことか、と、右近は思った。あの懐中電灯を隠したという件だけで、忍足は右近を追い詰めようとしている。バカ言っちゃいけませんよ。なにごとも、証拠ってのが大事でしょう。
右近の余裕の根底は、それだけだった。そしてはじめて、この忍足から直截的に「お前が犯人だ」と言われたことで、逆に余裕が増してくる自分が不思議でもあった。

「この点についてなにか?」
「……あたしね、結構あんたのこと買ってたんだよお」
「んん、はい」忍足が嬉しそうに頷いている。えらい自信じゃないか。
「あれが事故でないってことは、あたしにもわかった。あんたの言うとおりだ」
「どうも……」
「だけどいまの結論はいただけない。はははっ」
「んんん、ダメですかあ」忍足が挑発的な笑みを向けてきている。
しかしその挑発に、右近は乗らなかった。「そんなひと晩であんた、なにもかも、答えだそうなんてのはね、虫がよすぎますよお」
「いやあ、せやけどねえ。どーう考えても、あなたなんですわ」

生意気な男である。慇懃無礼だと思ったのは間違いではなかった。この男はずいぶんと前から、そうした考えを持って、右近と会話していたのだ。そもそもが無礼だ。

「理由は?」
「……」問われた忍足が、顔を背けてため息をついた。見ろ、どうせ証拠になるものはない。
「当て推量はナシですよ?」
「んん……」と、忍足が突然に歩きだした。「こいつがねえ、どうやっても頭から離れなかったんです」

忍足が、「すっぽん」の前で立ち止まった。

「なんで上がっとったんか。いま下がっとるけども……村岡さんが直してましたさっき。んん、犯人はなんで、この『すっぽん』をつかったんか。俺、最初に見たときに思ったんです。リフトに似とるって。理屈としては一緒ですね?」
「うん」
「それでピンときたんです。『すっぽん』をつかったのは、死体を運ぶためやって」右近は黙ったまま、忍足を見つめた。「つまり犯人はここを通って、死体をこれに乗せて、舞台へ運んだ」

だから? だとしても、中村右近がやったということにはならない。

「ここまではどうでしょうか?」
「いいねえ」証拠はない。
「反対意見は?」
「ない」
「ない」忍足がまた、嬉しそうに笑う。「上に行ってみましょ」
右近も微笑み返したが、どうも、嫌な予感がしてきた。「いい加減にしようよ」
「ヒントは上にあるんですわ」
「……」右近はこの強引さに、また苛立ちがつのってきた。
「これ、つかっていきましょ」

と、忍足が「すっぽん」に乗りこんだ。ずいぶんと勝手な男である。どうやって上に行くか、知りもしないくせに。
楽屋に来たときもこうだった。忍足は右近からなにかを引き出そうとしている。俺をバカにしやがって。そんなに何度も引っかかってたまるか。
右近はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、「すっぽん」に乗りこんだ忍足を睨んだ。

「証拠があるんだったら、いますぐ見せてみろ」そうだ。それがない限り、お前が俺を逮捕することは不可能だ。「納得いくような証拠だったら、あたしだって男だ。潔く認めてやるよお」

忍足の表情が変わった。それは右近がはじめて見る、なんの偽りもない、忍足の本音の表情だった。さっきまで目に色がなかったというのに、そこには確かな意思を感じる。
役者であれば、「お前さん、いい顔するじゃねえか」と褒めたいくらいだった。

「……犯人、だったらだよ?」
「……」黙っているが、忍足は、わずかに微笑んでいた。
「回りくどい真似、ナシにしませんか?」右近はあえて、丁寧な口調に変えた。
「……」一方で、忍足が微笑みながら、じっと目を合わせてくる。間違いなく、いまは俺が攻めている。
「しまいにゃあたしだって、堪忍袋の緒をゆるめますよ?」
「……とりあえず、上へ」忍足が上を指さしている。
「くくっ……くくくっ、かなわねえなあ、もう」
「んふふ、ふふ」

右近は、思いがけず笑っていた。忍足も穏やかだが、声をあげて笑っている。まるで芝居の戦いをしているような時間で、右近は楽しくなっていた。
この長い歌舞伎人生のなかでも、こんな男には会ったことがない。むしろこの男に勝てれば、また人生に箔がつくとすら、思うようになっていた。

「スイッチ、入れてもらえます?」

忍足に言われ、右近は笑いながら、静かに操作盤に近づいた。「UP」「START」を同時に押すと、「すっぽん」がゆるやかに上がりだす。

「早く乗って、早く乗って!」忍足が手招きする。
「慌てなくても大丈夫ですよ」

何度これに乗ってきたと思っているんだ。しかし、右近が余裕で歩を進め「すっぽん」に乗りこもうとした、そのときだった。

「あ、あかん!」と、突然に忍足が手を叩いた。「上着を忘れてもうた!」
「ええ?」
「上着!」
「どこ?」
「あそこです!」

忍足が指をさした。見れば、黒のジャケットが操作盤より奥のほうにあるセットに引っかかっている。

「お願いします!」

やれやれ、と思いながら右近はそれを取りに小走りをした。

「はよ! 急いで!」

うるさい男である。苛立ちがつのるのを抑えながら、右近は「すっぽん」にかけよった。が、すでに右近の頭の位置まで「すっぽん」は上がっていた。

「あ、ダメやダメや! 一度、下げてください!」

忍足が操作盤を指さした。これだから回りくどいことはやめようと言ったのに。右近は急いで操作盤の前に戻った。
「DOWN」「START」のスイッチを同時に押す。これで下がるはずだった。が、「UP」の点灯が消えないまま、「DOWN」の点灯が指を離した瞬間に消えた。
直したはずじゃなかったのか……! 右近は慌てた。何度もくり返しスイッチを押すが、忍足を乗せた「すっぽん」が、そのまま舞台へ上がっていく。

「これ直ってねえじゃねえか!」

声にだしていた。それでも何度もくり返した。がむしゃらに押しながら、「SAFETY」のスイッチも押してみたが、状況は変わらない。
たまらずボックス型になっている操作盤の装置を開いてみたが、なかは配線だらけで意味がわからない。お手上げだ。
直せと、村岡に言っておいたのに……クソ……! ひとつもスイッチが効きやしない!

「村岡のバカが! なに見てやがんだ本当に!」

声を荒らげて、右近は操作盤を思いきりたたいた。その、直後だった。

「それが、わからんかったんです」

背後から声がして振り返ると、忍足が奈落の階段を、ゆっくりと下りてきていた。

「実は俺がいちばん引っかかっとったのは、こっちのほうで……」まるで教師のような顔立ちで、忍足は右近に向かってきていた。「なんで上がっとったんかやなくて、なんで下ろさんかったんか……あ、すんません」

言いながら、右近が持っているジャケットに手を伸ばしている。右近は自然とそれに従い、ジャケットを手離した。そして、右近は驚愕していた。驚愕していたせいで、一瞬も、忍足から目をそらさなかった。

「だってそうでしょ? 死体を運んで事故に見せかけようっちゅうのに、普通やったら1回は上げたものを、そのままにしとくわけがない。怪しまれるに決まってますやん。戻ってきてスイッチを入れればええんです。それやのに犯人はせんかった、なんでか?」

右近は黙った。それは……。

「やらなかったんじゃないんです。やれなかったんです」

違う。右近は忍足から、ついに目をそらした。

「村岡さんにこれ、直すように言わはったそうですね?」

一瞬だけ忍足を見るが、また、目をそらしてしまう。違う、違う。

「壊れとるって、なんでご存知やったんですか?」
「……本番中に、調子がおかし」
「おかしいなあ」食い気味だった。「スタッフの人はそんなことひと言も」
「乗ってる人間にはわかるんだよ」
「なるほど。せやったらなんで幕が下りたときすぐに、言わんかったんですか」
「……忘れたんだよ」
「気いついたんは、ホンマはもっと、あとなんやないですか?」
「違う」
「本番のずっとあととか」
「違う」
「死体を乗せて運んだときとか」
「違う!」

認めるわけにはいかなかった。冷静でいなければならないと思っていた。しかし、右近は声を抑えることができずに、叫んでいた。違う、違う、違う!

「話、さきに進めます」

怒鳴り声に黙った忍足がまた、ぐるぐると歩きだしていた。右近は胸を揺らし呼吸を整えた。証拠はない。証拠はないんだ。否定していればまだ望みはある。

「あなた、大きな思い違いしてはります」

なんのことを言われているのか、右近には一瞬わからなかった。忍足が、バサッと音をたててジャケットを着たかと思ったら、「ちょっと失礼」と言いながら、右近と操作盤の間に身を寄せてきた。右近は反射的にさっとうしろに避けた。
忍足がちょこちょこと操作盤を操作すると、「すっぽん」が動きはじめた。右近は信じがたかった。さっきまでうんともすんとも言わなかったのに……「すっぽん」が、下りてきている。

「壊れてなんかないんです」
「……」嘘だ。壊れていた。
「やりかたがあるんです。村岡さんに教えてもらいました」

右近は呆然と、「すっぽん」を眺めた。忍足が振り返って右近を見ているが、もう、なにがなんだかわからなくなっている。まばたきもできないほどに、自分が滑稽に思えてきたのだ。

「どういうことかわかります?」
「……」右近は、黙って忍足を見つめた。
「今夜この『すっぽん』に乗った人物は、上げ方は知っとっても下ろし方は知らんかったんです。だからそのままにしとったんです。いまのあなたのように」

忍足はまた、大変な早口になっていた。
しかし、上げるときは「UP」「START」だ。ならば下がるときは「DOWN」「START」だろうが……!

「舞台スタッフはみんな、上げ方も知っとれば下ろし方も知ってます」

忍足が、口調に合わせるように俊敏に手を上下に動かしていた。

「関係者スタッフ以外は上げ方も下ろし方も知らんはずです」

そして早口のまま、つづけた。

「ところが、上げ方を知っとって下ろし方を知らん人物が、ひとりだけおる!」

右近は目を見開いた。自分の舌を飲んでいるような感覚だった。息が苦しい。どうやっても、冷静に聞いていられない。

「その人物は、『すっぽん』を上げるときは操作盤を見とるからよう知っとる。せやけど、下げるときは一度も操作を見てへん。なぜならば、その場におらんからです。彼自身が『すっぽん』に乗っとるからや!」

忍足の大きな声が、奈落中に響いた。地獄のような響きだった。嫌な男だ。早口で、回りくどい、まどろっこしい。
しかし忍足の早口は、ここまでだった。

「つまり、その人物とは……『狐忠信』です」

忍足が、ゆっくりと告げる。

「この『すっぽん』は、あなたが『狐忠信』のために特別に発注したもんです。あなたのほかにつかっている役者さんはおりません」

右近は、忍足をあなどっていた。

「犯人は……『狐忠信』以外にはおらんのです」

証拠もなにも、つかんでいるわけがないと。

「……どないですやろか?」

しかしこの男を、俺は買っていた。

「……この上は是非に及ばず、か……」

いつだか舞台で言ったセリフを、右近は口にした。その言葉のとおり、落胆していた。
やむを得ないのだ。もうこれ以上、戦えるはずもない。負けた。忍足の推理は、見事だった。

「……」忍足がうつむき、両手を交差させている。
「あたしが発注したのにね……つかい方マスターしとくんだったよ……。バカだねえあたしも」情けなさでいっぱいになる。
「もし、あなたが村岡さんに修理を頼まんかったら、たぶん俺も気がつかんかったと思います」
「……嫌な予感してたんだよお」
「せやけどあなたは言わへんわけにはいかんかった。明日の公演に差し支えます」
「だって……壊れてると思ったんだもん……」

言葉にすると、ますます滑稽だ。右近はうなだれた。しかし、なぜか忍足も、同じようにうなだれていた。妙な共鳴を覚えて、右近は顔をあげた。
このさいだ、ようやく本音で、この忍足という男と話せるのだと、右近は複雑な気分になっていた。ほんの少しだけ、喜びを感じていたのだ。

「……いつから、目えつけてたの?」

忍足がパッと顔を向けてきた。わずかに微笑んで、低姿勢に近づいてくる。

「最初にばったりお会いしたときからです」
「くくくっ」最後まで本音を隠す気か。しかしそれも忍足らしい。右近は吹きだした。「それは嘘だよ」
「いや……」

が、忍足はクスリともしていなかった。首を振っていた。声のトーンも真剣だ。

「俺が野崎さんが亡くなった話をしたとき、あなたまず、こう言いました……『どっから落ちたの?』覚えてますか?」
「覚えてるよお」それがなんだってんだい。
「どっから落ちたんか……どっから落ちたんか」忍足が呪文のように唱えた。
「ああ」だからそれが、なんだっての。右近はもう苛立ちもしなかった。
「俺は、後頭部の打撲としか言わへんかった。もしかしたから、上からなにか落ちてきたんかもしれへんし、誰かに殴られたんかもしれへん。せやけどあなたは自信を持って聞いてきはった。『どっから落ちたの?』と」

右近は思わず、にんまりとしていた。さすが、俺の買った男だ。

「口が滑りましたねえ……」
「……あのとき、あんたに会ってなけりゃあ」

忍足が申し訳なさそうに頷いた。これほどまでに人を追い詰めておいて、最後はしょげるとは、なんともずるい男である。あの女刑事が惚れるはずだ、と、右近は思った。

「ひとつ、うかがってもええですか?」と、今度は忍足が問いかけてきた。
「なんですか」
「なんですぐに帰らんかったんですか。普通、人を殺したらどんな犯人やって、少しでもその場から遠くに離れたいと思うもんや」
「やっぱり不思議ですか?」

右近は、得意げな気分になった。忍足が首をかしげて「はい」と見つめてくる。本気でわからないのだ。それも当然だろう。しかしこの男でも解けない謎をつくったのだと思うと、右近はおかしな優越を感じていた。

「来月やる、『盟三五大切』って芝居ね。あたしがやる、薩摩源五兵衛……芸者を殺したあとに……茶漬け食うんですよ」

黙った忍足の目が、じわじわと見開いていった。

「どんな気持ちが味わってみたくなってね。こんなチャンスそうあることじゃないから」

右近は、だからどうしても、コンビニに行かねばならなかったのだ。これを知って、忍足はどう思うのだろうか。そんなことを優先する犯人は、やはり滑稽の極みだろうか。
しかし、右近にとっては、なによりも大事なことだったのだ。

「役者の鑑でしょお?」
「……はい」忍足は微笑みながら、何度も頷いた。「でも……犯人としては……」
「……さいってい。くく、くくっ」
「ふふふっ、ふふふ」
「ははは、ははははははっ」

右近は忍足とともに、盛大に笑った。
それが忍足と右近の、最初で最後の思い出となった。





fin.



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