アルカディア_01





わたしと忍足侑士のはじまりは何かが間違っていた。

今頃気付いても、もう遅い―――。














アルカディア








1.






三ヶ月前だった。

梅雨の間、珍しく晴れた空に誘われたわたし。

いけないこと程やりたくなるものはない。

屋上にあがるとその風が気持ちよくて、サボるのって本当に快感だ。

自分にも、教師にも、いつも適当な理由をつけて授業を抜ける。

このひとときの為に生きているのかってほどの快楽、空の下の昼寝。


ゆっくりと扉をあけるとそこは、写真を撮りたいくらいの入道雲。


「わーすごいなコレ…」


その入道雲に圧倒されて、携帯を取り出そうとした時。

わたしの目に、ひとりの男が飛び込んできた。


「…え…忍足…?」

「…………」


それは学園のアイドル忍足侑士だった。

忍足侑士は、こっちに全然気付かないほど呆然と、頭が真っ白になってるんじゃないかってくらいに呆然と。

壁にもたれて伸ばしているその長い足先を、ただ見つめていた。


「……忍足?」

「…………」


寝てるわけじゃない。

ここからでも、その目が開いているのは明らかだった。

でもその目元には、いつもの眼鏡が無かった。

驚く程の美少年だってことに、今更ながら気付かされる。


「ねぇ、忍足…?」


そっと近付いてみた。

あまりに、様子が変だったから。

そしたらやっと、忍足侑士はこっちを向いた。

ゆっくり、やっと気付きました、みたいな顔して。

でも驚いたのは、そんなことじゃなくて。


「……佐久間…」

「…どしたの…」


その綺麗な顔は、濡れていた。

潤んだ瞳から、ぽろぽろぽろぽろ、溢れ出てくる涙。



あまりにも、美しい。



思わず、頬に触れた。

今思えば、涙を拭うフリをして、わたしはただ、それに触れたかっただけだろう。


「……なんでお前…こんなとこおるん…」


忍足侑士は、わたしが触れたことに何の反応も見せなかった。

ひたすら涙を流しながら、ぽつぽつとそう呟く。


「サボったの。忍足もでしょ?…ねぇ、どした?」


聞くと、合ってなかった目の焦点をやっとこちらに向けて、それをまた地面に戻して、虚ろな目の色に変えてから、忍足侑士は口を開いた。


「……………めっちゃ、愛し合っててん…」

「……ん…」


忍足侑士が、同じ学年の吉井千夏と付き合っているのは周知の事実だ。

…でもこの様子…『付き合っていた』という形に変わってしまったんだろうか。


「めっちゃ好きやったのに…あいつ、他の男と寝とった…」


それは案の定。


「うっ…わぁ…そ、そっか…」


だってそれ以外に何が言える?


「俺が、部活で忙しぃて、会えへんからやって…振られた…そっちの男の方が、好きになったんやって…俺……俺……」

「忍足…」

「…っ…めっちゃ愛しとったのに…!」


愛してた、と言った勢いでなのか、忍足侑士はわたしの右肩に顔を埋めた。

少しだけ、揺れたわたしの体。


「……うん…うん…そうだよね…悲しいね…」


彼とは二年の時に同じクラスで、ひとことふたこと話しただけという仲なのに。

わたしは、彼と吉井千夏の恋愛をずっと傍で見守ってきた女友達のように悲しくなって。


わたしは、忍足侑士をぎこちなく抱きしめた。

そして、真っ黒なその髪を撫でた。

忍足侑士は、わたしにされるがままで、声を殺して、しばらくそのまま泣いていた―――。


「忍足…?」

「……」


そのまま、かなりの時間が過ぎたような気がする。

少なくとも、二十分は過ぎた。

一時間授業の二十分はかなり貴重な時間だ。

でも忍足侑士は返事をしない。

バカでかい子供を持った気分になってきて、わたしがぽんぽんと背中を叩くと、奴は漸く、いろいろ詰まってて重たそうな頭を上げた。


「堪忍…」

「ううん。いいよ。落ち着いた?」


「……佐久間は……」

「無視かよ……」


なるべく優しく声をかけようとしてそう言ったわたしの言葉も、

忍足侑士は軽く流した。

すかさず、小声で突っ込むも…


「彼氏、おらへんの?」

「……や、いるけど」


容易く流された。

おまけに聞いてきた質問が―彼氏いないの?―

お前はセクハラ上司か。


「そうなんや…うまくいっとるん?」

「いってるような、いってないような」


曖昧な返事をしてしまったけど、本当にそんな状況だ。

なんとなく好きな相手と半年も付き合うと、結局そういう関係になる。

でもそんなことを聞いて、どうしたいんだろう?

そう疑問に思った瞬間だった。

さっきの忍足侑士のように、今度はわたしの頭が真っ白になってしまった。


「キスしてもええ?」

「……………………は…?」


「落ち込んどるんよ俺…」

「や、それはよく、わかります…けど…」


「今、お前とめっちゃキスしたいねん」

「い…いやいやいやいやちょっと待って!さっきまでめっちゃ愛してたって泣いてた―――…っ!」


言ってる傍から、塞がれた唇。

男の心理状態って全くわからない。

振られたその日に、あれだけ泣いてたその後に、傍にいるってだけでその女に、落ち込んでるからって寂しいからって、…キスしてしまうものなのか!?


「…ンンっ…ちょ…おしたっ…っ!」

「堪忍、お前が優しするから、俺…」


それも触れるだけのキスなら、まだ良かった。

だけど忍足侑士は、わたしに舌まで絡めてきやがったのだ。


「んっ―――ンッ…はぁっ…ちょっ…人のせいにしないでよっ…ちょっと!」

「…頼むから、溺れさせてや…今だけでええから…」


そう言って、今度はわたしの首筋にキス。

そしていつのまにか、大きな手の中に包まれてしまっていた胸。


「やめてよ忍足!こんなのひどっ―――!」

「やめへん。抱きたい女に、俺は手加減なんかせん」


「そっ…待って…お願い…っ…ぁっ…!」

「…そんなん言いながら、濡れとるやん、自分…俺のキス、そない良かった?」


耳元で囁かれた、溜息が出るほど甘い声。

そしていつのまにか、…滑り込んでいた指。


「…やっ…ぁっ…忍足…ンッ…やめっ…」

「侑士って呼んで…今だけ忘れさせて…頼むわ…伊織…っ」


そのままわたしは。

力まかせに押し倒されて、コンクリートの上で、入道雲の覆う空の真下で、昼寝どころか…キスで終わるどころか…

忍足侑士と、関係を持ってしまったのだ―――。














「最低だ…」


何度思い出しても、最低な忍足侑士とのあの日、あの時間。

まともに話したこともなかった男と、いきなり寝てしまったわたし。

忍足侑士にとっては、最高に都合の良かった女。

だからあの男は聞いてきた。

彼氏がいるのか、うまくいっているのか。

彼氏が居て、尚且つうまくいっていないのなら、こんなに都合の良いことはない。

こっちも後ろめたい思いをするわけだから、後で抱いたのどうだのと騒がれて面倒になることもなし、彼氏に言うわけないから、それも、面倒になることもなし…。

あの天才には頭が下がる。




堪忍…せやけど伊織、めっちゃ良かった…

はぁっ…はぁっ…んっ…!侑士…




涙目のわたしに、最後に熱っぽいキスをしてそう言った忍足侑士。




俺、先行くわ…

はぁっ…はぁっ…




制服が乱れきって、忍足侑士にしがみ付いてだっこちゃん状態だったわたしを、奴はゆっくりと自分から下ろして、屋上から去っていった。

一枚の薄い膜にも隔たれることなく接触した体。

火照ったコンクリートの上に出された奴の白濁液は、あの後すぐに降った気まぐれな夕立に流されたことだろう。

…なんて、なんちゅう下品な。


その一ヵ月後には、わたしは結局、付き合っていた彼氏と別れた。

理由は簡単だ。いや簡単じゃないけど。むしろとんでもないけど。


つまりあの後、彼氏にいくら抱かれても、忍足侑士との情事が忘れられなかった。

刺激だったのかもしれない。

あんな青空の下でするなんてまるでアダルトビデオだし。

いや、だからと言って別にアダルト的な要素に惹かれたわけじゃなくて。

そんなんに惹かれたならきっと将来AV女優になるだろう。

でもそうじゃない。そうじゃなくて。

要するに、溺れたのは忍足侑士のほうじゃなく、わたしのほうだったってことで…。


「岳人〜〜ちょお打ち合い付き合うて〜」

「あー?なんだよ侑士。最近俺ばっかイジメてねぇ?」


そんなことを考えていた放課後、同じクラスの向日岳人を忍足侑士が呼びに来た。

突然、あの声が聴こえてきて、心筋梗塞が起こりそうなくらいびくついたわたし。

あれから一ヶ月後に彼氏と別れ、その後一ヶ月は忍足侑士を見つめ続け、その後一ヶ月は夏休みでお預けをくらい、そして三ヶ月経った今、また忍足侑士を見続けているわたし。

それでも、忍足侑士とわたしの関係は、何も変わらない。

いやどちらかというと悪化。

…挨拶さえもしなくなってしまっていた。


「そないなけったいなこと言わんと、ええやん、付き合うてーやー」

「あー、まーしゃーねーか」


ちら、と試しに後ろを振り返って、忍足侑士を見てみた。

一瞬、目が合う。

だけどすぐに、逸らされてしまう。

これがいつものパターンだ。

忍足侑士とどこかで会う度にわたしは見る、奴は逸らす。

もう忘れたい過去なんだろう。

わたしには、忘れられない過去になってしまったというのに。


そんな違和感のある空気に気付いたのか気付いてないのか、どういうわけか向日が、わたしに話しかけてきた。


「あ、なぁ佐久間!」

「えっ!?わたし!?」


「なんだよ、んな驚くことねぇだろ?お前ってそういやさ、麻雀出来るとか、前言ってなかった?」

「…?はぁ…」


向日に話しかけられるのは別に珍しいことじゃないけど、いきなり声を掛けてきてなんの話かと思えば、麻雀ときた。

確かに、わたしはこの年齢にしてしかも女であるというのに父の影響のせいか、麻雀が恐ろしいくらいに好きである。

尊敬する人物は桜井章一…ってそんなことは別にいいか。


「えっ…ちょ、がっくん…」

「なんだよ侑士?なんかマズイことでもあんの?」

「や…そういう…訳やないけど…女の子どうやろか?夜もほれ、遅―――」


忍足侑士がどういうわけか、わたしと向日のその会話にそわそわとし出した。

なんだろう、なんとなく先が読めるこの展開は…まさかわたし、最低なはじまりをした忍足侑士と、今日麻雀することになったり…


「いいじゃねーかよ面子足りないんだしさー。佐久間、今夜暇?跡部ん家で俺ら今日麻雀するんだよ。俺があんまわかんねーからさー、まぁ教えてもらいながらなんだけどよ。麻雀出来る奴ってあんまいねーから、面子揃わなくってさ〜」

「はぁ…」

「明日学校ねーからまぁ間違いなく徹マンだけどな」


ああ、やっぱり。











「佐久間、無理やったら遠慮せんと断ってもええねんで?」


それが決め手だった。

そのやんわりとわたしを否定した忍足侑士の言葉が癪だったわたしは、ただいま、跡部ッキンガム宮殿にいる。

初めて来たけどほんと、気絶しそうになるくらいでかい家だ。


「もらったぜ佐久間、ロン」

「!…ぐっ…くっそ跡部…」

「あーん?なんだ佐久間、なんか文句でもあんのか?」

「跡部、役は何よ!?」

「リーチ、一発、大三元、ドラドラ 」

「大三元!?役満じゃん!ぐああああっ!」

「さすがやな跡部…大橋巨泉みたいやん…」

「もっ…全然勝てねーじゃんか!お前ら強すぎ!大三元て何だよ!」


そのだだっ広い一室に、なんと全自動の麻雀卓があるから驚きだ(しかも8台)。

向かいには跡部、右に向日、左に忍足侑士…左ばかり意識してしまう自分が虚しい。

おかげで跡部に負けっぱなしだ…。


「少し休憩するか。今何時だ…?」

「午前…回ったとこやな。せやな、ちょお休憩」

「跡部!その間に俺にちょっと教えろよ!点棒無くなりそーじゃんかよ!」

「貴様は弱すぎだ。よくそれで俺様と戦う気になったな?」

「くそくそくそくそ!!いいからこっちで教えろよ!!」

「ったくうるせー野郎だ…いいか?貴様はまず相手の手を詠むことから……」


休憩、と言われて運ばれてきた眠気覚ましの紅茶を、ストレートで頂いた。

確かに、跡部が思った以上に強くて腹が立つ。

わたしの名誉にかけてもここは勝ちたい。

そう思いながら、休憩なのをいいことにわたしはベランダに出た。

二階にあるこの部屋から見下ろす宮殿の庭は、驚く程に美しい。

真ん中にある噴水には、穏やかな灯が揺れている。


「すごい…記念に…携帯…あれ…携帯…」


普通じゃない、人間の住む家の庭とは思えないその光景を写真に取ろうと携帯を探すも、わたしのジーンズに入れてあったはずの携帯が無くなっている。

そういえば雀卓の上に置いてきたんだっけか?

そう思って部屋に戻ろうとした時、大きな影がわたしの目の前を暗くした。


「探しもんは、これか?」

「!…あ、うん…ありがと…」


忍足侑士、その人。

どうしてよりによってこの男は、今日も眼鏡をしていないのだろう。

あなたとわたしの思い出に、あなたは眼鏡をしていなかったというのに。


眼鏡をしている忍足侑士も美しいが、眼鏡をしていない忍足侑士は異常な程に美しい。

女にしても確実に負けてしまうだろう美貌の中に、男らしさのあるキリっとした瞳。

その、低い声。高校に入ってまた一段と伸びた背丈。

なにもかもが、わたしを惹き付けている。あの日から。


「………なんやあの久々やな」

「…夏休みの間は、見ることなかったしね」


「………………怒っとるん…やろ?」

「………」


怒ってるよ。今更なに?

わたしをこんなにして、あの日からいきなり避けるなんて酷い、あんたみたいな男。


「怒ってないよ、なんで?」


うそぶいた自分が健気で泣きそうになる。

自分に酔ってる場合じゃないのに、忍足侑士のせいなんだ、きっと。

あの日からわたしを捕らえて離さない、あなたのせいだ、なにもかも。


「なんでって…そら…………無理に…やで…」

「…サイテーよね」

「……堪…忍…」


そんな哀しそうな顔して謝られたって、もう遅い。

寂しい夜はあの日を思い出して自分を慰めてしまうほど、わたしはあなたに堕ちてる。

謝るくらいなら、あなたを知ってしまったこの体をどうにかして。


「…彼氏と、うまくいっとる?」

「はー?」


「そ、堪忍!俺には関係ないよな、そんなん…」

「……」


言った後、 んんん… と唸る忍足侑士が愛しくて憎たらしい。

俺には関係ないって、若干傷ついてしまうその言葉に歯を食いしばった。

知らないんだ、わたしと彼が別れたこと。



……………それってまだまだ、わたしは彼にとって都合の良い女に、なれるんじゃないのか。



そこまで考え出したら、もう最後。

間違ったはじまりから、間違った解釈。

きっと、わたしと忍足侑士の関係は間違ったまま流れて、終わりもきっと間違ってしまう。

それでも…例え、今日が終わりの間違いだとしても…。


「堪忍、佐久間…そんな、黙らんとって…え…おい、佐久間?どこ行く…」

「…お手洗い行くの。付き合ってもらえない?」

「………………ちょお待ち…それどういう――――」


我慢ならない。

あの日、あんな強引にわたしを抱いておいて、その弱気な声が。

その行き場を無くした怒りが、わたしにパッションという名の魔法をかける。

目を見開いた忍足侑士の胸倉を、わたしは思い切り掴んで引っ張った。


「つべこべ言わずに、わたしを抱いて」


この腕の中で乱れたい。

この男との楽園に魅了されたわたしに、もう後戻りは出来ない。

忍足侑士は、弱みある故に断れないと踏んだのか、怒りと哀しみを混ぜたような顔をして、わたしの腕を掴んだ―――。





to be continued...

next>>02



[book top]
[levelac]




×