XOXO_14
14.
美しい人が白無垢を着ると、目が痛いほどにその美貌がまぶしくなる。跡部さんたちの結婚式は和婚だった。もちろん、新郎の紋付袴もとてもよくお似合いで、美男美女で派手な印象の強いカップルだが、この落ち着いた雰囲気で上質な結婚式の時間には、参加者全員がため息を漏らしながらうっとりしていた。
その式の後半、まだまだうっとりに浸っていたかったわたしにも周助さんにも、時間が迫ってきていた。そっと席を立って退出する。退出した瞬間に、周助さんは「ふうっ」と力強い息を吐いた。
「さあ、行こうか伊織さん」
「うん。あー、ドキドキする!」
「ふふ。僕もちょっと、緊張してる」
「え、周助さんが?」
「うん? 僕だって緊張くらいはするんだよ?」
手をつなぎながら、足早に披露宴会場のある別館へと向かった。ヒールだから少し歩きにくいけど、周助さんが支えてくれているというだけで、安心するわたしがいる。
「全部、今日で終わりだね、伊織さん」
「本当。すっごく疲れたよね!」
「お互い、今日こそぐっすり眠れるかな?」
「ふふ。うん。周助さん、あまり眠れてないもんね?」
「気になっちゃってね。いいものにしたかったから。でも今日は、よりよい安眠のために、いいこともしようね?」
「もうー、人様の結婚式で……」
相変わらずのバカップルっぷりにお互いが笑ってしまう。そのあいだに、厨房に到着してしまった。わたしの目的地はさらに奥にあるのだけど、とおり抜けできそうなので、図々しくも一緒に入っていく。
扉をあけると、数えるのも億劫になるほどの料理人たちが全員、動き回っていた。熱風と美味しい香りが全身を駆けぬけ、幸せな気分になる一方で、こんなにたくさんのコックコートを見るのははじめてだ、と、目が回りそうになってしまう。
「厳さん、大至急オードブルチェックお願いできますか?」
「ウィ、シェフ」
「ソムリエはもうワインを準備して。もうすぐお客さまが来られるよ」
「ウィ、シェフ」
「ん、このソースじゃダメだな。甘さが足りない。ブランデーの分量が弱いな、つくりなおして」
「すみませんシェフ!」
「いいんだよ。大丈夫。まだメインまで時間はあるから、慌てずゆっくりね。君、見てあげてくれる?」
「ウィ、シェフ」
周助さんはジャケットを脱ぎながら、ロッカールームまでの直線距離をまっすぐに闊歩しつつ、目につく場所すべてに声をかけていった。
なんて、カッコいいんだろう……。こんなに大きな厨房で、これだけの調理スタッフを仕切っている彼をはじめて見たせいで、心臓がバクバクしてくる。慌ただしく働いているスタッフさんにとっては不謹慎だろうけど……すっごく素敵!
ロッカールームに入ってすぐに、周助さんはコックコートをバサッと男前に羽織った。
「さあ、ここからが本番だね」
「周助さん……」
「うん?」
「す、すっごくカッコいい……!」
ボタンを閉めている周助さんにそう言うと、彼は困ったようにくすくすと笑った。
わたしのこと、アホまるだしだと思っているに違いない。だけどだって、カッコいいんだから仕方ないじゃない!
「気の抜けること言わないで? 伊織さん」
「ごめんなさい。だって」
「ふふ。うん、でも嬉しい」
チュッ、と唇に軽いキスが落とされる。はわあ、と思わず声が出ていきそうだった。
「じゃあ僕は、いってくるね。原作者スピーチの前には戻れると思うから、またあとで。伊織さんも頑張って」
「うん! いってらっしゃい!」
また厨房に戻っていく周助さんを見ながら、今度こそ、はわあ、と声が本当に漏れていく。あの人がわたしの彼氏だなんて……信じられない。しびれるほどカッコいい……なんて、腑抜けている場合ではなかった。
腕時計を見てはっとする。そろそろ時間だと思い、わたしは大きなロッカールームの裏口を開けた。ここは、式場の裏口にもつながるスタッフ専用の駐車場だ。
ぽつん、と立っている警備員さんがわたしを見つけて怪訝な顔をしたが、会釈をひとつしたことで、ぷい、と顔を背けた。会釈を返してくれてもいいじゃないか……と少しむっつりしながら待つこと3分、大きなトラックが駐車場に入ってきた。見慣れた顔の運転手に心が踊りだす。そう、今日はわたしにとっても本番だから。
「伊織! 時間は間に合ってるか!?」
うしろからついてきたファミリーカーの窓から、師匠がわたしに向かって叫んできた。こちらの運転手は香椎くんだ。
「間に合ってます! でも急ぎましょう!」
「わかった!」
大きなトラックとファミリーカーには、『ガラス工房りんご』の文字がプリントされている。今日は師匠の奥さんも一緒だ。
開口一番、奥さんはわたしに駆け寄ってきた。
「まああああ、伊織、アンタ、見違えるわ!」
「本当ですか奥さん! ありがとうございます!」
「おいお前、余計なこと言ってねえで早くしろ! 忙しいんだ! バカ伊織も、乗ってんじゃねえよ!」
「ああうるさい男だね本当に! いいじゃないよ、ねえ? こんな伊織、滅多に見れないんだから」
「ははっ。うん、本当に綺麗だな、佐久間!」
「あははっ。ありがとう、香椎くん」
香椎くんも加勢したことで、師匠がむっつりと黙ってしまう。師匠は、いまだに、なぜか香椎くんには弱い。
「ホント、このオヤジ、金に踊らされてんのよ。台風前と大量発注になるとやけに張り切るんだから」たしかに、台風前になると、ジイさんという生き物は張り切る。なぜなのか。
「誰が金に踊らされてんだよっ! 誰がっ」
「アンタじゃないのよ!」
「ちょっと師匠も奥さんも、声落としてくださいよ、恥ずかしいな……」
披露宴会場につながる裏口を開けると、さっそくスタッフの方が待っていてくださった。何百個もの荷物を台車に乗せてゆっくりと、だけど足早に移動しながら、いつもの痴話喧嘩がはじまる。
古参の職人が呆れて注意したものの、そんなことで黙る夫婦じゃないのは、ここにいる誰もが知っていた。
「よっしゃ、じゃあ並べるか! お前らいいか、絶対に割るなよ!?」
誰がどう見ても張り切っている師匠が、会場に入った瞬間、マイクを持って職人たちに声をあげる。
マイクを持つ必要はまったくないというのに、こういうときにすぐにマイクを持ちたがるのもジイさんらしい。
「あの、佐久間さま、本当にお手伝いはしなくてもよろしいのですか?」
「かまいません。わたしたち、これがはじめてじゃないですから!」とはいえ、物量は大石さんのときの5倍以上なのだけど。
「しかし……」
「大丈夫です、会場を汚すこともしません。信じてください」
「は、はあ」
「わたしたち『ガラス工房りんご』は、これがモットーなんです!」
しっかりと目を見てそう訴えると、困惑したスタッフさんは、口をつぐんだ。
全員でゲスト席に梱包されたグラスを置いていく。うっかり割ってしまわないように。お客様の手に触れる直前まで責任をもってお届けする。それが、『ガラス工房りんご』のポリシーであり、モットーだった。
これに関しては、師匠の絶対であるからして、工房に務める職人全員の頭に叩き込まれている、ちょっとした洗脳でもある。だからうちは、なにがなんでも通販をやっていない。つまりわたしはこの工房にいる以上、世界のリーデルを超えることは無理なのだけど、それは売上、という面で無理なだけで、技術としてはいつか超えてやるのだ。ふんっ。
しかし、である。今回の大量発注は、工房史上初の大量っぷりだった。その発注に驚きを隠せなかった師匠は混乱してしまったのか、制作中に「通販やるかな……」と口走ったくらいである。しかしその場にいる職人全員に「はあ!?」と言われたことで、師匠も慌てて撤回した。おそらく、これを機にうちのワイングラスが飛ぶように売れる未来を想像したんだろう。
無理もない、と思う。あの跡部さんが直々に工房に来て「10月25日までに1000脚、ペアで用意してくれ」と言われたときには、全員が椅子から転げ落ちるかと思うほど引いた。それってつまり2000脚だ。うちは、大工場ではない。町工場なんですよ!? お前は野瀬島か! と言いたくなった(余談だが、野瀬島のあの発注は冷やかしだったので、結局発注には至っていない。あの犯罪者め……)。
「香椎くんっ、もっとスピードアップして! それじゃ間に合わない!」
「そんな、佐久間みたいにできねえって!」
「それでもやらなきゃ! 1ヶ月しかないんだよっ」
「もう1ヶ月もねえだろっ!」
「だから早く! あ、これダメ! やりなおし!」
「く……ああ、わかったよ!」
「おい伊織! こっちに来い! なんだこの出来は! 傷がついてるぞ!」
「ええっ……!? ああ……そんなっ」
「お前あれほど仕上げは気をつけろって言ってるだろ! ダメだこんなもん!」
この1ヶ月、本当に、職人全員が怒って怒られてをくり返しながら、寝ずに頑張ったようなものだ。そもそも無理がある発注だというのに、なぜ引き受けてしまったのか。それはもちろん、不二さんの友人である跡部さんからのお願い、ということもあったのだけど……。
――請求だが、無理させるぶんの手間賃として、請求金額の3倍、払わせていただく。
師匠が、この言葉に完落ちした。
ただでさえ、あまり儲かっているような工房ではないというのに、この発注さえ完了できれば全員ウハウハだと判断した結果だろう。
しかし、うちの工房はワイングラスだけつくりつづけたとしても1ヶ月200脚が限界だ。そこで師匠は、つてのあるほかの工房にまで声をかけ1チーム5名を3チームつくろうと提案した。それぞれ、リーダーは師匠、わたし、師匠のつてのベテラン職人だが、それで休まずにやればいけると豪語した。しかし、それでもかなり無理をしたのだ。検品や梱包も、師匠を含めた職人全員で一緒になってやって、なんとか間に合ったくらいなのだから。本当に、全身がバカになるほど働いた。
一方で、周助さんも大変な毎日を送っていた。招待客はおよそ800名と推定されている結婚式での料理提供を、前回のような二次会ではなく、披露宴で総料理長を任されたからだ。それでも急遽、増えたり減ったりする可能性もある(だからワイングラスは多く見積もって1000ペアというわけだ。バッファの見積もり方も規模が違う……)。
周助さんはフードトラック営業を週2にし、あとはずっと披露宴の料理を考案、素材確保にワイン選び、調理スタッフ選定と式場との打ち合わせなど、海外にまで行き来して、毎日ヘトヘトになっていた。
し、か、も……! それだけじゃない、周助さんとわたしには映画制作のフードスタイリングという仕事もあった。ガラス食器に若干の在庫があったからよかったようなものの、息切れをしなかった日などない。
「跡部さん、わたしたちを殺す気なのかな……」
「ん……本人はそんなつもりはないと思うけど、さすがに頭が痛いよね、お互い」だけど跡部には、本当によくしてもらったからね、と、周助さんは微笑んだ。
「そうだね。わたしも感謝してる。師匠、目の色変えちゃって」
「ふふ。稼ぎどきだもんね」笑っていたけど、周助さんの表情からは、疲労があきらかに見てとれた。
「周助さん、大丈夫?」
「うん、僕は大丈夫……こうして伊織さんと一緒に寝れるだけで、すごく癒やされるよ」
「うん……わたしも。周助さんがいてくれてよかった」
たまに会っては、ほとんど眠るだけの数時間を過ごして、ふたりとも名残惜しい思いを胸に朝から泣く泣く仕事に戻る。そんな毎日も、跡部さんたちの恋人関係が新たなスタートを迎えるように、わたしも周助さんも、今日でフィナーレを迎えるのだ。
全員分の引き出物をゲスト席に置き終わったのは、開場開始の5分前だった。披露宴会場から出て、全員がホッとひと息つき、お互いをねぎらい合う。あとは大石さんの結婚式のように、こっそり引き出物を開けちゃう人たちの表情をわたしが見て、みんなに報告するだけだ。
「お疲れさまです、みなさん」
「不二さん!」
背後から声がかかった。香椎くんの元気な声に振り返ると、周助さんがこちらに向かってきていた。厨房は間もなく開場する披露宴前に大混乱だろうと思うのに、どうしたんだろう。
「周助さん、どうしたの?」
「うん、みなさんにお礼を言いたくてね」言いながら、コック帽を取った。「みなさん、今日は僕の友人のために、ありがとうございました」丁寧にお辞儀をした。
「いやあ、そんな不二さん、いいのにっ」
いつもケーキをごちそうになっている師匠が恐縮している。師匠は香椎くんにも弱いけど、周助さんにも弱い。美男子には強くでれない、なにかがあるのだろうか。
「周助さん、忙しいんじゃない? 大丈夫?」
「うん、大丈夫。それにね、これは僕の大事な仕事でもあるんだ」
「へ?」
「あの、みなさんこちらに来ていただけますか?」
伊織さんも一緒においで? と付け加えながら、周助さんがすたすたと歩き出した。
みな一様に戸惑いつつ、ついていく。むさ苦しい職人たちが15人、わらわらと集まって歩く姿は、この場所にはふさわしくない。でもそれがまた、ちょっとだけ、面白かった。
到着したのは、披露宴会場から少し離れた場所にある小さな宴会場だった。周助さんが静かに扉をひらいて、みなを招き入れる。
わたしは最後に入ったので、入った瞬間のみなの歓声を聞いて何事かと思ったが、目にした瞬間、同じように歓声をあげてしまった。
「跡部と僕から、みなさんへの感謝の気持ちです。ぜひ、受け取ってください」
「うわ、うわあ、すごい、え、すごい!」
「伊織さんのは、ないからね?」
「わ、わかってるよ!」
そこにあるテーブルには、グラスとカトラリーたちが並び、映画で提供された料理がたくさん並んでいた。とっても豪華な、フレンチフルコースだ。
「不二さん、こりゃ、一体……」
「すげえ! すっげえ! こんな料理を見るのはじめてかもしれない!」
「う、うまそう! これ全部、食っていいんですか!?」
戸惑う師匠をよそに、他所から来た職人たちのほうが騒いでしまっている。これから披露宴だというのに、わたしもごくんと喉を鳴らしてしまいそうなほどの美味満載な光景に、これまでの疲れが吹き飛んでいきそうだった。
「みなさんお疲れだと思うので、ゆっくりここで打ち上げされてください。あ、予定がある方にはお持ち帰りも用意できるので、スタッフさんにお伝えください」
「誰もこんなの見て帰んないですよ、不二さん!」香椎くんの目の色が変わっていた。たしか終わったらなにかあると言っていた気がするのだけど、現金なものだ。
「悪いねえ、不二さん」
「いえいえ。跡部の計らいですから」
そうは言いつつ、こんな提案だ。きっと周助さんから言いだしたに違いない。だって、みんなの大好きなケーキが、映画には登場していないのに、たくさん置かれてあったから。
「出入り自由になります。あと、このモニターから結婚式の様子も見れるそうですが、みなさんには特別に、今日初披露の映画をここで観れるようになっているそうです。料理のシーンを観ながら、堪能してください」
「シェフ、ありがとう。いい仕事を回してもらったうえに、ここまでされちゃたまんないよ」
はじめて周助さんの発注を持っていったときは、あんなに怒っていたくせに。師匠はちゃっかり、周助さんに握手を求めた。
周助さんが微笑みながらそれに応えている。胸が少しだけうずいて、くすぐったい。
「あとこのおっちょこちょいも、今後ともよろしくお願いしますね!」
「もう、師匠! 余計なこと言わなくていいですから! あと、ここも禁煙ですからね!」
「わかってんだよ! てめえは本当に、どっちが余計なんだ!」
「いつも師匠のマナーが悪いから言ってるんです」
「お前ボーナス無しだな!」
「パワハラですよそういうの!」
師匠とわたしのやりとりに全員が笑い声を立てるなか、周助さんとわたしはそっとその場を離れた。離れた直後に、盛大な「かんぱーい!」の声が聞こえる。
思わず周助さんと顔を見合わせて、ここでも、笑いあった。
「周助さん、本当にありがとう。跡部さんに頼んでくれたの?」
「僕が、ちょっとでいいから料理で労ってあげたいって言ったら、跡部が提案してくれたんだよ。本当は披露宴に呼ぼうと思ったらしいけど、それだと逆に気を遣わせるからって」
なるほど。跡部さんもうちの職人たちのことをよくわかってくれている、ということだ。たしかに、こんな披露宴に呼ばれて、着る服なんか持ってない職人もいるだろうし、お祝いを包んだりしなくてはならなくなることで、足が遠のく職人もいるだろう。職人の世界は、一人前になるまで、そこそこ厳しいから。
「僕もみなさんには感謝してたから、喜ぶ顔が見れて、嬉しいよ」
「うん。本当にみんな頑張ったんだ。でも疲れも吹っ飛んだと思うよ」
「ふふ。それに、師匠にお願いされちゃったね?」
「え?」
「伊織さんのこと、僕がしっかり守ってあげないと、ね?」
頬に静かなキスをして、周助さんは厨房に戻っていった。さっき感じた胸のうずきが、またよみがえってくる。なんだか結婚の模擬体験をした気になって、頭のなかがすっかり浮かれてしまった。
原作者スピーチがはじまる前に、予告どおり、周助さんは忍足さんと並んで席に戻ってきた。戻ってきたというか、はじめて席についたのだけど。
「おお不二、間に合ったんじゃの」
「ふふ、おまたせ」
「ちぃーす不二先輩。やっと会えた」
カリスマ美容師の仁王さんに、世界2位のテニスプレーヤーである越前リョーマ選手。周助さんのお友だちはなんだかすごい人ばかりで、おまけに彼らの彼女さんたちもみんな揃ってすごい人たちだからこそ、わたしは紹介されるたびに恐縮してしまう。
わたしなど、ただの、ガラス職人だから……唯一、普通そうな職業の仁王さんの彼女とは仲間意識満載でお話するものの、彼女は頭の回転が早いのか、ときどきとても早口にあれこれ言うものだから、やっぱりタダモノではないな、とこちらも気後れしてしまう。
「おまたせ伊織さん。寂しかった?」
「あ、うん……ちょっとだけ」
物欲しそうな顔でもしていたのだろうか。周助さんがテーブルの下でそっと手を握ってきた。会場ではお笑い芸人さんたちが軽快な漫才を披露しているし、目の前ではこれからスピーチ予定の絵本作家さんと忍足さんがイチャイチャしているので、誰もこちらに目を向けていないからだろう。
「料理、どう?」
「うん、すごく美味しい! さすがだよ周助さん。どれも最高だよ!」
「よかった。伊織さんにそう言われると、自信がつくよ」
わたしがそんなこと言わなくなって、周助さんはいつも自信満々なはずなのだけど。でもこれだけの料理を何百人分もつくるというのは、周助さんとはいえ、緊張があったのかもしれない。「跡部の結婚式だからね」と何度も言っていたから……プレッシャーもあっただろうと思う。
「そろそろ、はじまるんだね」
「うん。映画、周助さんもまだ観てない?」
「完成直後のお披露目に誘われたんだけどね。ここで観れるってわかってたから」
そうだよね。それじゃなくても、いまこの瞬間まで、周助さんは働かなくちゃならなかったんだ。そんな時間、取れないというほうが正しいだろう。
それでも、「忙しいから」と言わない周助さんの優しさが、わたしは好きだ。
「それにね」
「うん?」
「伊織さんと一緒に観たかったから」
つながれていた手に、ぎゅっと力が込められた。赤くなってしまいそうな頬をごまかすようにワインを口にする。周助さんはそれもお見通しなのか、いつもの余裕のニコニコで首をかしげていた。
映画は、とても感動的なものだった。あの絵本がこうなるか、というほど脚色されていたけど、そのお話の筋も素晴らしい。なにより、憑き物が取れたような主演女優の圧巻の演技が舌を巻くほどに素晴らしかった。記者会見のときも舌を巻いたけれど、映画はその比じゃない。現場にお邪魔したときは演出家のゲイみたいな人に引くほど怒鳴られながら指導されていた彼女だが、野瀬島と九十九の逮捕でかなりスッキリしたのか、すべての要求に輝きをもって応えていた。さすが、女優だ。
一方で、周助さんの料理や、自分がセッティングしたガラス食器が登場するたびに、わたしは目を潤ませていた。映画の筋とは関係ないところで鼻をすするわたしに、同席している全員がくすくす笑っていたけど、だって本当に、大変だったんですよ……。感無量とは、こういうことを言うのである。
二次会は、十分にお祭り騒ぎだった披露宴をも凌駕するほどのお祭り騒ぎだった。会場に入った瞬間にいろんなコスチュームを身にまとったパファーマーたちに話しかけられて困惑してしまう反面、劇団四季のライオンキングのなかに入ってきたような非日常感でテンションがあがっていく。
さすがミュージカル女優の結婚式だと感心しつつ、はぐれると完全に迷子になりそうだったので、わたしは周助さんとずっと手をつないで移動していた。
「伊織さん、大丈夫? もう足がふらついてるけど、だいぶ飲んじゃった?」
「そ、それもあるけど、こんな空間に来ることがないし、ヒールも履き慣れないから」
「ふふ。そうだよね。僕も伊織さんも、騒がしいの苦手だから、びっくりしちゃうね」
とは言いつつ、周助さんは全然びっくりしてなさそうなんだけど。さっきからずっと落ち着いていて、大人だなあと思う。わたしなんて、声をかけられるたびに「ぎゃあ」とか「ひゃあ」とか言って、うるさいのに。
わたしも周助さんの彼女らしく、落ち着いた振る舞いをせねば、と思っているときだった。
うしろから「おーい!」と声をかけられかなり強く肩を叩かれたことで、わたしはまた跳ねあがってしまった。
「ぎゃあ!」決意したそばから、ダメ女だ。
「おおっと! ごめんっ、驚かせちゃったか!」
「英二!」
「不二ー! やっと会えたねん!」
振り返ると、菊丸英二さまのご登場だった。彼は、誰より先に周助さんから紹介されたお友だちだ。はじめて会ったときに「菊丸英二さまだよん!」と挨拶をされたので、彼に会うといつも、菊丸英二さまだ……と、思ってしまう。
周助さんに軽いハグをして、菊丸さんはにこやかにわたしに視線を合わせてきた。
「伊織ちゃん! すっごく似合ってるね! かわいいじゃーん」
「ふふ。でしょう?」あっさり頷く周助さんに、恥ずかしくなってしまう。
「おー、不二先輩に英二先輩っ! ここに居たんスかあ!」
なにも返事ができずにいると、そこに、ぞろぞろとスーツ姿の男性陣たちが集まってきた。
みんな背が高くて、圧倒されてしまうなか、唯一わかったのはさっきまで同席していた越前選手と、このあいだの結婚式でお会いした大石さんだけだ。
あとは声をはりあげたロン毛でチャラそうな人に、四角い眼鏡のツンツン頭の人、眉毛が太くて、見るからに優しそうな人のとなりには、正反対になんだか怖そうな雰囲気の人が立っていて、そして……見るからに学校の先生っぽい……あれ? この人……。
「やあ、手塚。久々だね。帰国したの?」
「ああ、まあな」
「て、手塚選手ですか!?」
「ん……ああ、そうだが?」
わたしが声をあげたことで、全員の目がわたしに向けられた。ぎょっとする。この集団はなんなのだろうかと思うほどに、周助さんを含めた全員の視線は、やけに熱かった。
「さっすが手塚部長は、知られてますねえ」
ロン毛さんの言うとおりである。手塚選手は、世界で活躍しているテニスプレーヤーだ。日本人の多くの人が知っている。越前選手よりも早く、ベスト4とかにあがった人だった気がする。ってことは、この方々は周助さんの学生時代の、テニス部メンバーということだ!
おお、わたし、察しがいい!
「手塚は有名人だからな。最近は奥さんと痴話喧嘩が耐えないというデータが」
「乾、やめないか」
「相変わらず怖いな、乾のデータは」どこからそんな……と、優しそうな眉毛の人がつぶやいた。
「みんな紹介するね。僕の彼女の伊織さん。伊織さん、彼らは」
「テニス部の方々でしょ?」周助さんに答えると、彼は微笑みながら頷いた。「はじめまして。佐久間伊織といいます」
菊丸さんに、何度も話を聞かされた青春学園のテニス部レギュラー陣に違いない。データ魔の乾さんの話だって、記憶に新しい。このメンバーで全国優勝したと聞いたときは、「さすが周助さん!」と声を張りあげてしまったくらいだ。「不二だけじゃにゃいけど……」と菊丸さんは言っていたけど、周助さんは当時「天才」と呼ばれていたと聞いてしまったせいで、高揚した。いまだって天才だし! 周助さんはいつだって天才だと思うと、わたしの彼氏ってなんて素敵なんだろう! 底抜けにカッコいい!
「ま、オレはもう知ってるけど」なぜか、越前選手がしれっと言った。
「なんだよおチビ! オレだって知ってンだからな!」なんの張り合いなのだ、これは。「オレはちゃんと不二に紹介されたんだぞ! それより前に、オレは恋愛相談だってされてたんだからな!」
「へえ。頼りなさそ」越前選手は口を尖らせている。
「えっ、そうなの周助さんっ」周助さんが、菊丸さんに相談? わたしのことを? わあ……どうしよう、なんだか嬉しい。
「英二……」周助さんの静かな声と暗黙の視線が菊丸さんに降り注いだ。
「う、そんな顔するなよ不二ぃ……」って、なりますよねえ。わたしもときどきされるから、わかる。
「それより越前、お前も結婚するってのは本当か」ずっと無口だった怖い人がしゃべりはじめた。
「え、ああ、まあ」越前選手は、彼女さんの話になると、すぐに顔が変わる。申し訳ないけど、かわいい。
「ふんっ、そうかよ」
「マムシぃ、妬くなよ、お前にもいい人が見つかるって!」
「てめえに言われたかねえよ! 誰も妬いてねえだろ!」
「お前たち、静かにしないか。跡部の結婚式だと言うのに」
「手塚。ここはにぎやかだから、いいんじゃないか?」大石さんも、やっとしゃべった。
「む、そうか……」
「というか越前。結婚の話、僕より先に忍足が知ってたんだけど」
ニコニコと黙って様子を見ていた周助さんが、ここにきて突然、スッと目を開けた。不思議だった。このにぎやかかつ、和やかなメンバーのなかでも、いちばん爽やかで落ち着いた雰囲気の周助さんが静かに目と口を開いただけで、この場にいる全員が、一歩、引いたからだ。ちなみに、わたしも一歩、引いた。
「え……」話しかけられた越前選手が、青くなっている。
「ふふ。うん、ほら、僕たちよく会ってたじゃない? 越前が帰国してから。越前の彼女の職場の目の前でお店、毎日のようにオープンしてたわけだし。いつもランチを食べに来てくれてたよね?」
「そ、そっスね……」
「越前! なんかよくわかんねーけど、さっさと謝れ!」
2回目になるが、ロン毛さんの言うとおりである。これはなんだか怖い前兆だ。あまりわたしも見たことのない周助さんだ。でも周助さんって、こういうところがある。
「だけどね、なのにね、越前の結婚の話、僕、映画の打ち合わせに来た忍足から聞いたんだよ? どうしてだろうね?」話す機会はいくらでもあったように思うんだけど。と、つづけている。怖すぎる。
「いや……あの、ちょっと理由が……」
「へえ、僕より先に、忍足に話す理由があったの? どんな?」
「え、その」
「おチビ、早く謝れって!」
「すみませんその、まだ、決まったわけじゃないッスから……あ、決まったら不二先輩にはいちばんに!」
「決まったわけじゃないのに先輩である僕を差しおいて、忍足には相談してたの? ふふ、どうして?」
「ちょ、先輩たちっ」
「あとは頑張れ、越前。不二に対抗するデータはない」
周助さんの全身から薄暗いオーラが流れはじめたことで、全員が越前選手を取り残すようにすすす……とその場から距離を取った。もちろんわたしもみなさんとセットになって離れた、その直後だった。
「あっ! 見つけちゃったわー、いい男の集団っ。見てよ侑ちゃん」
「おお、青学が勢揃いやないか」
その声に振り返ると、鬼のように怖かったあのゲイみたいな演出家さんと、忍足さんが向かってきていた。全員が一斉に慌てだす。
「だああああ、忍足さんっ、いまはダメですっ!」
「え、ななななん、なんや桃城っ」ロン毛の人は桃城、というらしい。
「とにかくいまはダメなんだよ! シッシッ」菊丸さんが手を払う。
「なんや、失礼なやっちゃな……っておいシゲルさん、なにしてんねん」
「忍足、この人をどうにかしてくれないか」
シゲルさん、と呼ばれたゲイみたいな演出家さんが、完全に手塚選手の首に巻きついていた。でも、これで確定した。ゲイなんだ、絶対。いや、もう結婚式でのパフォーマンスで、わかってはいたけど。すごかったなあ、アレ。
「イイ男ねえ……うっとりしちゃうわ」シゲルさんの手はくねくねと手塚選手の体をさまよっているが、手塚選手はビクともしない。それもすごい。
「言っておくが、俺は既婚者だ」
「あら既婚者じゃなかったらいいの?」そういうつれない態度も好みだわ、とシゲルさんはつづけている。
「そういうわけではない。男の趣味はない」
「あら、アタシこう見えても女なのよ」
「嘘をつけ」
「失礼ね。体と心が正反対ってパターンは昔からあるのよう?」
「俺は体と心が同じパターンなんだ、離せ」
「離さないわよオ」
「おいお前達、どこへ行く」青学メンバーはとっくに離れていた。
「あとは頑張れ、手塚。その彼女に対抗するデータはない」
あら彼女ですって、紳士ね! と乾さんに声をかけて、シゲルさんはまたしつこくも手塚さんを見つめた。相変わらず、手塚さんはビクともしない。やっぱりなんだか、すごい。
「なんちゅうか、妙な感じやな。右には不二と越前がなんかやり合っとるし、左じゃ手塚とシゲルさん……」忍足さんが小声で状況把握しつつ、わたしに向き直った。「それで、職人さんはここで不二を待ちぼうけしとるんか?」
「はあ、まあ……」わたしもよくわかってないんです、と答えてみる。
「おい忍足、なんとかしないか」逃げもしないのに、手塚選手はまだ言っている。
「俺その人の保護者ちゃうから、なんともできへんわ」話しかけるな、とぼそっと付け加えた。「それよりな、これあげようと思ってさ。探しとったんや、自分のこと」
「え、わたしですか?」
「ん。今回もワイングラス、最高やったわ。せやから特別サービスな。2つあげる」
忍足さんが、紙袋のなかからなにかを2つ取りだした。手渡された瞬間、シゲルさんがパッと手塚選手から手を離して向かってきた。
「ああんもうっ、侑ちゃんずるいわっ! それをわたすのはアタシの役目なのにっ」
「ええやないですかそんなん、誰があげても」
「ん、もうっ! アタシが花嫁から頼まれてる仕事なのようっ」
「それは……なんだ? 俺にはないのか忍足」
その声に反応してなのか、越前選手を詰め終わったからなのか、周助さんもふらふらっと戻ってくる。が、越前選手はわたしたちを見て、また真っ青な顔をしてほかの青学メンバーのところに逃げるように去っていった。はて?
「ふふ、坊やはまだまだね」シゲルさんが越前選手を見て、なぜか嬉しそうだ。
「やあ忍足。越前が世話になったみたいだね」
「ん? なんの話やろ?」
「おい忍足、それは俺にはないのか」
しつこくも手塚選手が紙袋を覗きこんで、手をかけた。手塚選手って……ものすごく真面目な顔をしているわりに、意外とがめつい。笑いだしてしまいそうだ。
「僕にもないのかな?」周助さんも同様に紙袋を覗きこんで、手をかける。
「ダメよ! アンタたち!」
しかしそのふたつの手を、パシパシッとシゲルさんが叩いた。
「シゲルさん……ようこの二人にそんなことするわ」忍足さんが若干、顎を引いた。
「ふふ。ひどいな」
「痛いのだが?」
「あのねえ、これは、殿方にはないの! お嬢さんたちだけへのプレゼントよ! だからダメ!」
「なんだと? それは不平等ではないだろうか」手塚選手が食い下がっている。本気でがめつい……。
「アンタがもらっても使い道がないわよ!」
「えー、なんだろう」つい、声がでた。女性にだけというのが嬉しい。コスメだろうか。
「俺も今夜にでも、なにがなんでも彼女にと思ってんねん。サプライズしたいから、うちの彼女には内緒にしとってな?」
「は、はあ……」
そう言ってきた忍足さんは、実にニヤニヤとしていた。
どうしてだろう。サプライズプレゼントなんて素敵なことなのに、なんだかちょっと引きそうになるのは。忍足さん、いつもクールでスマートなのだけど、いまは笑顔が妙に怖いからだろうか。
「ふうん? じゃあ僕は、伊織さんにあとで見せてもらおうかな」
「おう、不二、それがええわあ。名案やで」
「ウフフ。あなたのつくった素敵なワイングラスと、シェフのおつまみで乾杯しながら、ふたりでうっとり開けるといいわ」
「納得いかないな……なぜ俺にはないんだ」
どこまでも納得のいっていない手塚選手がなんだか可哀想になってきたので、わたしは忍足さんとシゲルさんが場所を離れたあと、こっそり、手塚さんにひとつ手渡しておいた。
「はあ、飲みすぎちゃったかな」
「ふふ。伊織さんはお酒が本当に好きだよね」
二次会が終わるころには、すっかり酔っていた。周助さんに寄りかかりながら歩く夜道は少しだけ涼しくて、贅沢な気分にもなれる。
「それにしても、本当にお疲れさま、周助さん」
「うん? 伊織さんもとってもお疲れさまだったでしょう?」
「そうだけど、周助さんほどじゃないと思う」
「じゃあ帰ったら、お互いを労う三次会をしようか。ね?」
「いいね!」
腰を抱かれながら歩いていると、結婚式の帰りだからなのか、それともすべての仕事を終えたあとだからなのか、本当に幸せな気分になってくる。
跡部さんも、女優である新婦の彼女も、とっても美しかったし、幸せそうだった。ああいう未来が、いつかわたしにも来るんだろうか……。そのときとなりにいるのが、周助さんだったらいいな……なんて、口にできないことを考えてはニヤけてしまう。
「どうしたの伊織さん? ご機嫌だね?」
「えっ」
「顔、すっごく嬉しそうだから。幸せな気分?」
「うん、ふふ。周助さんは、なんでもお見通しだあ」
ふたりで笑いながら、荷物を持ちなおしたときだった。ぽろ、と引き出物の紙袋から、忍足さんから二次会で受け取ったプチギフトが落ちかけて、慌てて周助さんがキャッチする。「はい、気をつけてね」と言いながらわたしに手渡そうとした周助さんだったのだけど、「はーい」と受け取ろうとすると、周助さんがぐっと手に力を入れたせいだろう、離れなかった。
「え」
「なんだろう、この感触」
「ん?」
「そういえば、手塚がほしがってたから、あげてたよね、伊織さん」
「うん。手塚選手、全然、納得いってないんだもん、笑っちゃった」
見た目に反してがめつい手塚選手を思いだしてケラケラ笑っていると、周助さんは立ち止まって、丁寧に包装されているプチギフトを開けはじめた。
「えー、ここで開けちゃうの?」
「うん、なんだか気になるんだよね。面白いものが出てきそうで」言いながら、紐を解く。「なんだろう……?」
「なになに?」
スポッと音がしたと思ったら、周助さんの手のひらに鮮やかなエメラルドブルーの布切れが登場した。ひと目ではなんだかわからない。
ふたりで顔を見合わせて、周助さんがそっと布切れを開いた刹那、わたしは、完全に固まった。
「……ぷっ、ははっ」
「ちょっと、これ……」
「なるほど、これは手塚も喜んでるかもね」
「ええっ!?」
ものすごいスケスケレースの、真ん中あたりがぱっくりと割れている(というか、2センチ程度の布しかないのに、ご丁寧に割れている!)、セクシーランジェリーだった。
「な、なにこれ!」
「だから忍足、あんなに嬉しそうだったんだ」
あの絵本の先生も大変だね、と笑っているけど、笑いごとじゃない! しかも手塚さんも喜ぶのこれ!? あんな、堅物そうなのに!? しかもこれが花嫁からのプチギフトって、どういう……え、それって、跡部さんと女優さんはいつもこういう……うわあ、美男美女だから絵にはなるだろうけど! ひいいいハレンチ! 想像しちゃうじゃん!
「しゅ、周助さんしまって!」
「うん、マンションに帰ってからじっくり見せてもらおうかな」
「ちょ、は、履かないよっ!?」
周助さんの顔が、忍足さんのそれに見えてきた。まったく男という生き物はどいつもこいつも! あまりのハレンチな下着っぷりに、酔っ払ってただでさえ赤い顔が、もっと赤くなりそうで、「反対!」と声をあげて、歩きだそうとしたときだった。
「ああ、たしかに今日じゃなくてもいいかなあ。結婚初夜につけてもらったほうが興奮しちゃいそう」
さらっと言われた言葉に、ふたつの意味で固まってしまった。
ひとつはもちろん、当然、着用させる気満々の変態っぷりを発揮した周助さんに。だけど、重要なのはそこじゃない。
もうひとつ……いま、なんかすごいことを、風がとおり過ぎていくような自然さで言われた気がするのだけど……。
「なんて?」
「伊織さんも、そう思わない?」
なにごともなかったように、また、腰を抱いて歩きだしていく。いやいや待って、流さないよわたし!? いくら酔ってても、ちゃんと耳に入ってくる言葉はわかってるんだから!
「周助さんいま、け、け、結婚って言ったよね?」
「ううん。結婚初夜って言ったんだよ?」
「え、いやだから、そこには結婚が必要で……」
くすくすと、いつもどおりに笑いながら、また周助さんが立ち止まる。うーんと首をあげて月を見るようにして、指先で自分の顎をなでていた。
「周助さん?」
「伊織さん、僕がお酒、強いと思ってるでしょう?」
「え……う、うん」そうだけど、その急な質問は、なんなんだろう。「だって周助さん、強い、よね?」
「弱いほうじゃないんだけど、僕だって酔ったりしちゃうんだよね。今日みたいにやりきった日は、お酒がよく回ってるんだ」
ふっと微笑むと、月を見ていた目をゆっくりと落としてきて、わたしをじっと見つめはじめた。二次会で越前選手を詰めていた怖い周助さんとは違う、穏やかな目がぱちっと開いていて、いつのまにか、頬がなでられる。
ドクドクと、わたしの心臓が高鳴りはじめた。
「うっかり、声に出ちゃったね」
「周助さん……」
「ここ1ヶ月、本当に忙しくて、あまり会えなかったでしょう? 伊織さんと付き合いはじめてからすぐに考えてはいたんだけど、まだそんなに時間が経ってないから、少し遠慮してたんだ」
一歩、周助さんが前に出てきた。わたしの体が揺れる。彼らしい優しい香りに包まれたときには、わたしはもう、涙を落としていた。
「それ……って」
「伊織さん、朝はお寝坊さんだから、毎朝、僕がキスで起こしてあげたい」
「ほ、ホントに……?」
「伊織さん、食いしん坊だから、毎食、僕の愛情たっぷりのごはんを食べさせてあげたい」
「周助さ……」
「伊織さん、がんばり屋さんだから、僕がいつも、癒やしてあげたい」
普通、それは男性が女性にお願いすることなのに。でもそれが、周助さんらしくて。
「ずっと、傍にいたいんだ。もう、伊織さんに会えない時間を過ごすのは、つらくなっちゃったから」
「わ、わたし……」
「ごめんね? 今日言おうって思ってなかったから、なにも用意してないや」僕も迂闊だなあ、とつぶやきながら、頬にかわいいキスが落ちてくる。「ねえ、伊織さん……」
「う、うう、周助さん」鼻先が、触れ合うほどに近づいて。
「僕と、結婚してください」
返事をする前に、わかりきってると言わんばかりの甘いキスでなにもかも奪われる。流れる涙を受け止めるように、周助さんの両手がわたしの頬をつつんで、その拍子に、荷物が音を立てて落ちていった。
「タルティーヌできてる?」
「ウィ、シェフ」
「OK、じゃあもう出していいよ。次はロティールの準備をしてね」
「ウィ、シェフ」
「シェフ、この味みてください」
「ん……あ、いい感じ! バッチリだよ!」
「ありがとうございます!」
「それでいこう、よくできてるよ」
「ウィ、シェフ!」
裏口からそっと入ると、今日も厨房は戦場だった。1年前にオープンした新『アン・ファミーユ』は、以前、越前選手の奥さまが購入していたテナントを借り、大改造して変貌を遂げたフレンチレストランだ。
「伊織、おつかれさま。間に合ったね」
「うん、今日は香椎くんにぜーんぶ押しつけて帰ってきた」
「ふふ。香椎さん、愚痴ってなかった?」
「全然。今日は奥さんの愚痴ばっかりだった。ほとんどノロケだけどね」
香椎さんらしいな、と言いながら、周助はさっとコックコートを脱いだ。いつもは脇役に徹する周助だけど、今日は夫婦揃って参列してほしいと、新郎たっての希望もある。シェフもしながらでなかなか忙しいのだけど、それでも彼の頼みなら断れるはずもない。
「シェフ、ありがとうございます、私が手伝うことはないですか?」
「厳さん、なに言ってるんですか。新郎がこんなとこに来ちゃダメですよ、今日は厨房に入るのは禁止だって言ったでしょう?」
「しかし、どうもこう、ホールから厨房を見るのは慣れなくて……あ、お前それ、火加減が強すぎるぞ!」
「わあっ、すみません厳さん!」
タキシード姿でも、厳さんは周助より何倍も恐れられている。「ほら、もういいですから」と周助が背中を押したことで、彼はようやくホールに戻った。
今日は、厳さんの結婚式だ。数ヶ月前、同窓会で再会した初恋の人を射止めたと聞いて、驚いていたのもつかの間、あれよあれよと、本日、ゴールインまで果たすことになった。
わたしも周助と一緒になって厳さんの背中を押すと、わっとホールから歓声がわきおこった。わたしも思わず声をあげてしまう。レストランのテラス席に、ウェディングドレスを着た新婦が見えたからだ。
「厳さんっ、ほら早くエスコートしないとですよ!」
「い、いや伊織さんそんな、私、どうしたらいいか……」
「なに言ってるんですかっ、早く早くっ」
最後に強く背中を押すと、厳さんはすでに目を潤ませながら新婦のところへ走った。周助と顔を見合わせて笑ってしまう。あんなにかわいい厳さんを見ることになるとは、思ってもみなかった。
「いい式になるね、きっと」
「うん、すごくね」
あれから2年が経っていた。お互い、毎日あくせく働きながらも、変わらない毎日を過ごしている。変わったことは、一度やってしまった大ゲンカをきっかけに、ふたりして呼び捨てるようになったことくらいだろうか。
「ねえ周助、厳さん、泣くかなあ?」
「泣いちゃうかもね。すでに泣きそうだったじゃない」
「うん、そうなんだよね。でも見せたくないだろうなあ、スタッフさんたちに」
「ふふ。だけどそういう厳さんだから、名前のとおり、厳しくても愛されてるんだよ」
「たしかに……周助は?」ナメられてる、と本人がぼやいていたことを、いじわるに突いてみる。
「こら……僕は、高みの見物なの」
周助と過ごしてきた2年で、わたしも多少のいじわるを習得していた。最近になって気づいたことだけど、彼はいじめられるのも嫌いじゃないみたいで、いつだって嬉しそうな顔をするから、なんだか悔しいのだけど。
それでもまだまだ新婚気分のわたしたちだから、お互いがいじわるをし合っては笑っている。このあいだ我が家に遊びに来た跡部さんにも、呆れられるほどだ。
「今日はみなさん、私たちの結婚式に集まっていただいて、いや、式というか、お披露目のようなものですが、こんな年増のふたりに、ありがとうございます」
オープニングの挨拶がはじまって、歓声と拍手があがる。厳さんの声は、すでに涙に濡れていた。
「このレストランは、不二シェフが、やっとの思いでつかんだ夢のような場所です。こんな縁起のいい場所でみなさんにご報告できることが、私は、とても嬉しく……」
「厳さん、頑張って!」
「ははあ、ああ、千夏ちゃん、ありがとう」
相変わらずの千夏さんの掛け声に、厳さんが苦笑しながら応える。彼女は、あの頃からなにも変わらないハツラツさで、わたしと周助にウインクしてきた。「うまくやるでしょ?」ということなのだろう。ふたりで、うんうんと頷き返した。
「不二シェフの、ご提案でした。式はせずに、結婚だけ、という報告した私に、この店でぜひ、結婚パーティーを開いてほしいと。ああ、もう本当に、私はずっとお世話になっているのに、優しい言葉を……か、かけて、くださって……。げ、厳さんは、僕の……僕の相棒だからと……もう、もったいないお言葉を、かか、かけて、くださって……」
厳さんの号泣っぷりに、来場者全員が微笑ましい笑い声をもらしている。それでも厳さんの思いは、わたしの胸には熱く、強く響いていった。
「ふ、不二シェフは、本当にお優しい方なんです。うだつのあがらない、わた、私なんかを、ずっとかまってくださった。私の料理人としての腕は、不二シェフが、き、鍛えあげてくださったものです。シェフがいなければ、いまの私は、ありえません。結婚なんて、夢のまた、夢でした」
二人の過去には、男と男の熱い友情があったんだということを、この瞬間、はじめて知った。どんな思いで、この挨拶を聞いているんだろうと顔を横に向けると、周助は、じんわりと涙を浮かべていた。
ああ、とため息がもれそうになる。こんな周助を見るのだって、はじめてだったから。
「不二シェフ、あなたは、私の恩人です……ありがとうございます」
厳さんが、周助に向かって頭をさげる。涙と笑いに包まれた拍手のなか、注目された周助は、照れくさそうにお辞儀をした。深々と頭をさげた周助がなかなか顔をあげなかったのは、込みあげてくる思いを、我慢していたからだろう。
「ねえ、伊織」
「うん?」
乾杯の合図が終わると、レストランは一気に賑やかなパーティーへと様変わりした。カウンターの内側の隅っこで、自作のグラスにワインを注いでいると、周助がとなりに寄り添ってくる。
「感動しちゃった、僕。さっきの厳さんの挨拶」
「わ、周助、今日は素直だね?」
「あ、失礼だな。僕はいつも素直だけど?」
お客さんたちが次々にワインを持って席に戻っていく様子を見ながら、周助は優しく微笑んでいた。
「またレストランが開けるなんてね。厳さんだって、僕の恩人だよ」
「そうだね。周助はみんなに愛されてるから」
「うん、だけどね……」
周助の手から注がれるワインが、ちょうどなくなった。コトン、と静かにボトルを置くと、彼はわたしの顔を覗き込むようにして、いつもの笑顔で告げてきた。
「伊織も、僕の恩人だよ?」
「え?」
そっと、耳もとでささやかれる。前には大勢のお客さんがいて、うしろにあるキッチンからはまる見えだというのに。
滅多に酔わない周助だけど……今日は感動の熱におかされて、あの日のように酔ってしまったんだろうか。
「伊織に出会ってからだよ? 僕の人生が好転したのは」
「そんな……たまたまだよ」
「ううん。君は僕の救世主で、世界一の奥さんだよ」
周助が、いつかのように手を握ってきた。独身時代に戻ったように、胸の高揚が止まらなくなる。わたしも手を握り返すと、周助のさらさらの髪の毛が頬に触れていく。
コツン、と横から頭を重ねられて、思わず顔がニヤけてしまう。
「もう、周助……」
「愛してるよ、伊織」
「ふふ、うん……わたしも愛してる」
握りあった手は、みんなから見えないのをいいことに、そこからしばらく、離れなかった。
fin.
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『出版業界の危機と社会構造』小田 光雄(著)論創社
『鍼灸真髄』代田 文誌(著)医道の日本社
『良心をもたない人たち』マーサ・スタウト(著)草思社
『モラル・ハラスメントの心理構造』加藤諦三(著)大和書房
『なぜ、あの人は自分のことしか考えられないのか―――「ナルシスト」という病』加藤諦三(著)三笠書房
『離婚後300日問題 無戸籍児を救え!』毎日新聞社会部(著)明石書店
『死体は語る』上野 正彦(著)文春文庫
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