初恋_08


8.


遅れて授業に出て、いつかみたいに先生に怒られた。それでも授業はまったく耳には入らんかった。当然や。伊織の泣き顔を見たあとに、勉強なんかできるわけがない。
その日、授業は5限目までやった。ホームルームを終えて、俺はすぐに席を立ってA組に向かった。なんとしても、伊織と話したい。

――ごめん……なんか、わたしばっかり好きみたい。

どういう意味? そんなわけないやん。伊織よりずっとずっと、俺のほうが伊織のこと、好きやって自信あるのに。

――ごめん、今日は、ひとりで帰る。

ひとりで帰らすわけになんか、いかん。誤解を解きたい。俺が100パーセント悪いのもわかっとる。せやけど、伊織のこと好きやってことだけは、嘘やないから。
けど、いつもの場所に伊織の姿はなかった。まっさらの机だけが俺を見あげて、「ここの主はいませんよ」と伝えてくる。

「なあ、伊織は?」
「ああ、佐久間さんなら、ホームルーム終わって、急いで帰ったよ?」

こうして俺が迎えに来ること、見越してなんやろう。そらそうや。ランチだけやない、帰りだって、必ず俺が迎えに来とったから。せやけど今日こそ、待っとってほしかった。そんなん、俺が悪いし、勝手な言いぶんやって、わかっとるけど……。

「え、忍足くん、すっぽかされたの?」

伊織の前に座っとる女子が、ニヤニヤ見てくる。俺と伊織が付き合っとるなんて、もうみんなに知られとる。ケンカしたなんてバレたら伊織にも迷惑がかかるで、俺はさっと、とりつくろった。

「あ……そういや、なんか用事あるって言うてたわ、忘れとった」
「あはは。そうなんだ。なーんだ、ケンカでもしちゃったのかって思った」
「なんだって、なんやねん」

苦笑した振りしながら、A組を出ていった。すぐに靴箱で履き替えて、伊織の家までの道を走る。ひょっとしたらまだ間に合うかもしれへんと思ったからやったけど、10分後には伊織の家の前に到着した。伊織も、走って帰ったってことやろか。帰り道にはおらんかったし……。
来週から期末考査や。伊織が忙しいのはわかっとる。それでも前にケンカしたときみたいに、このまま試験の終わりを待つことなんて、俺にはできんかった。
呼吸を整えて、佐久間家のチャイムを押した。伊織しかおらんかったら、出てこん可能性もある。けどたしか……伊織の家のおばちゃんって……。

「はーい、あらっ……ねえ、忍足くんだよね!」
「あ……はい。ご無沙汰してます」

案の定、扉が開いた先で、綺麗な顔した伊織のお母さんが出迎えてくれた。おばちゃんは個人でウェブデザインとかやってはる人で、俺が遊びに行ったときも絶対に家におって、いつも美味しいおやつを出してくれとった。よう覚えてる。あのころ俺、めっちゃお世話んなったし。将来、伊織はこのおばちゃんくらい、いやそれ以上に綺麗になるんやろなって思ったら、それだけでワクワクしたんや。いまもおばちゃんは、めっちゃ若くて、綺麗やった。

「わあー、面影を残してるから見てすぐにわかったけど、忍足くん、すっかり大きくなっちゃって!」おまけに一段とイケメンになっちゃってー! と、嬉しいことを言うてくれた。
「いやいや、そんな……あの、覚えとってくれはったんですね」
「そりゃあ覚えてるよ、なんてたって娘の……あっ! あ、えーと、娘と、仲よくしてくれてた、し?」

はっとして、ごまかすみたいにおばちゃんはそう言った。それだけで、ああ、俺ってホンマに伊織の初恋やったんやって実感して、また後悔が襲ってくる。この様子やと、付き合っとることは言うてなさそうやけど……いま、言うたほうがええかな。まずは周りから固めるために、挨拶、ちゃんとしといたほうがええやろか……いや、勝手なことしてまた伊織に嫌われたら、本末転倒や。やめとこ。

「あの、伊織、います?」
「ああ、そうだよねえ! 氷帝に入ってから、忍足くんに再会したって聞いてたの。だから連れておいでって行ってたのにさあ、全然、連れてこないんだもん。嬉しいなあ、こうして会えるなんて。ちょっと待っててね」
「ありがとうございます」

昔からようしゃべる人やったけど、今日もペチャクチャ言いながら、おばちゃんは2階にあがっていった。階下からデカい声を出して呼んだりせえへんところが、うちのオカンとは違う。うちは中学んころ、「侑ちゃん! 跡部くん来てんで! ぼさっとしてへんではよ降りてこんかいっ」とかやったもんな。跡部が品の無さにびっくりしとったわ。あと「侑ちゃん」呼びがバレてホンマに殺したろかと思った。それにひきかえ……伊織もそうやけど、おばちゃんも上品な人や。
1分もせんうちに、おばちゃんは眉を八の字にしながら降りてきた。こっちに向かいながら、「ごめん、忍足くん」と両手を合わせとる。
そうやないかと思ったけど……あかんか。

「なんか伊織、具合が悪いんだって」
「そう、ですか」……仮病やってわかってても、責めることなんかできん。「ほな、電話でもしてみます」
「うん、なんか大事な用だった? おばちゃん伝えておいてあげようか?」
「いや、あー……試験の、相談やったんで」
「来週から期末だもんね! うちの子もあんな調子で大丈夫なのかな。忍足くんも頑張ってね!」
「はい、ありがとうございます。ほな、失礼します」

印象よく、礼儀正しく頭をさげてから、俺は伊織の家をあとにした。
出た直後、伊織に電話をしてみたものの出てはもらえんかった。家に帰ってからメッセージも送ってみたけど、それは何時間経とうと、既読にもならんかった。
その日の夜……俺は何度もメッセージを確認しては、胸がしめつけられた。





クッションを抱いてソファに寝転がったまま、涙がぽた、と流れる。また泣いてもうたと思って手で拭っても、また流れる。「侑ちゃん男の子やろ。そんな泣いたあかん」って、昔は姉ちゃんにめっちゃ言われとったけど……男の子もつらいときは泣くもんやと、こんな歳になってから再確認することになるとは、思ってなかった。

「伊織……もうあかんの?」

つぶやくたびに、胸が沁みるように痛い。伊織の名前を口にするたびに、じわじわ目の前が歪んでいく。
あの日から、6日が過ぎとった。試験期間やったから土日は遠慮したけど、月曜から今日まで4日連続、靴箱で待ち伏せしようと思っても、伊織は先に帰っとる。月曜から今日まで4日連続で家にも行ったけど、おばちゃんに「なんかねえ、具合が悪いってずっと言ってるの」と、断られつづけた。「あんた、いい加減にしなさいよ」って声がちょっと聞こえてきた日もある。そうやっておばちゃんに言われても、伊織は頑なに姿を見せんかった。おばちゃんもさすがに、ケンカしとるって気づいとるやろう。せやけど、そんなんかまってられへんかった。
……あれから、電話も出てもらえへん。メッセージも、ずっと、なにを送っても未読のまま。
10番以内に入らなあかんから、いまは俺とのいざこざやっとる場合ちゃうからか? そうやって、かろうじてポジティブに考えようと思っても、無理や。こんなん俺……完全に振られとるよな?

「伊織……好きやのに……会いたい」

カッコつけたりせんで、最初から言うたらよかったんや。俺は童貞やから女の子どう扱ってええかもわからん、って。伊織とキスやらセックスやらして、誰かと比べられるん怖い、って。
こんな、振られるくらいやったら……せやけど伊織の前ではカッコええ俺でおりたかった。
ああもう、勉強なんか全然できへん。このまま試験が終わって部活がはじまっても、テニスもろくにできる気がせえへん。もうボロボロや。ほんでまた実家から電話かかってきて、オカンにヤイヤイ言われるんや。
もう、伊織……助けてや。俺、伊織がおらんかったら、生ける屍や。
考えて、またぼろぼろっと涙が落ちたときやった。家のチャイムが鳴って、はっとする。
もしかして伊織が来てくれたんかと思って、急いでインターホンの画面を見る。俺は唖然とした。現実とは思えん姿がふたつ、映っとったからや。

「お前ら……なにしてんねん」
「いまそこで会ったの。たまたま。あたしは忍足に用があって来たんだけど」
「俺も忍足に用があって来たに決まってるだろうが」

跡部と吉井が、並んどった。





玄関を開けた瞬間、吉井が俺の顔を見て、「ちょっと、なにその目」としらけた視線を送ってくる。跡部はそれに応えるように「いつものことだな」と言いながら、靴を脱いであがりこんだ。
並んでしゃべりはじめると余計やけど、こいつらホンマに、そっくりや。こんな涙目の俺に、慰めの言葉もないんか? なあ?

「吉井……伊織からなんか、相談でもあった?」
「は? ないわよ」

だいたい吉井がうちを知っとることが怖いんやけど……権力者のもとで育ってきた連中になにを言うても無駄な気がして、俺は黙った。
ちゅうか、伊織は吉井に相談もしてへんのか。え、それやのに、吉井の用って、なんや。

「跡部は……なんで?」
「おおかた、この女と同じ動機だと思うがな。A組にいると佐久間の様子があきらかにおかしい。どうせ貴様がろくでもない失敗をしたとしか、考えられねえからな」相変わらず、跡部は世話焼きやった。
「へえー……。跡部って、友だち思いなんだね?」そうとも言うな。ええヤツやねん。
「お前に冷やかされたくはねえがな」
「あたしは当然、友だち思いなんで。伊織からめっきり忍足の話を聞かなくなったから、おかしいと思ったのよ」

跡部は呆れた顔を俺に向けとるけど、吉井はめっちゃ攻撃的な視線を送ってきとった。
それで、ふたりしてタイミングよくうちに来たっちゅうわけか。考えることもまったく一緒なんやな。お前ら付き合えやもう。ええやろ、将来のことはそんとき考えれば。

「まず、なにがあったか聞かせてくれる?」
「いや……なんで俺が吉井にそんなこと話さなあかんの」

とりあえず、似た者同士をソファに座らせて、俺はお茶を出した。人の家やっちゅうのにふたりしてどっかり座って足組んで……。これやから金持ちは。

「言ったよね、あたし。伊織を泣かせたらタダじゃおかないって」
「な……泣かせ」
「てないとか言うつもり? 本当でしょうね? 嘘だったら張り倒すわよ!」
「ぐ……」

張り倒してくるんが、伊織の可能性もある。俺は口をつぐんだ。

「おい吉井。そういうのはプライバシーの侵害っつうんだよ。お前は佐久間に頼まれてもねえのにここに来たんだろうが。俺は忍足に頼まれてここに来ている。てめえのはただのおせっかいってやつだ。帰ったほうがいいんじゃねえのか?」

今日は俺も頼んでへんけど……跡部はたぶん、フォローのつもりでそう言うた。跡部って、やっぱり結構、優しいとこある。
俺の童貞をバレんようにしてくれとるんや。けど、跡部……お前はホンマは、吉井と一緒におりたいんやろ? めっちゃ強がっとるけど、そんな切なそうな目え見たら……俺、ちょっといまやからこそ、仲間意識が高なるわ。

「いや、ええんや跡部。吉井にも聞いてもらいたなった」

俺もたまには、跡部の役に立たな……いま、それどころちゃうけど。それに、吉井からのアドバイスは効くかもしれん。伊織と吉井がお互いを下の名前で呼ぶくらい仲よしなんやし。

「アーン? 本当にいいのか忍足。なにがあったか知らねえが、この女、言いふらす可能性だって皆無じゃねえぞ」
「ちょっと跡部! 人聞き悪いこと言わないでよ!」
「本当のことだろうが。それじゃなくても、あらゆる男の前で股を開く女のことなど信用できるか」
「は……はあ!? あんた、いまなんて言った!? 訴えるわよ!」
「は、好きにしろ。真実を語ったまでだ」

俺は童貞こじらせとるけど、跡部は初恋をこじらせとる。いや、たぶん吉井もや。こいつらのこじらせ加減を見とると、俺と伊織ってええほうやよな、と思う。

「なんなの!? やけに突っかかってくるけど、あんただって人のこと……!」
「ああ? 俺はお前とは違って、いつも女とは真面目に付き合ってる」
「あたしが真面目じゃないって、なんであんたに言えんのよ!」

好きって、いまは言ってもらえんくても……ついこないだまで、たしかめあっとったから。
そうや……俺は伊織が好きや。せやからどうなっても、伊織と別れたくなんかない。

「童貞なんや俺」
「忍足は黙っ……! え……は?」

跡部と吉井の諍いがこれ以上ヒートアップしたら、またこいつらの恋の成就が遠のく。
俺はすかさず、その会話に割りこんだ。
吉井が目をひんむいて俺を見とる。そうやんな、そうなるよな。俺って不思議と、済ませとるように見えるらしい。とくに、女子には。

「おい忍足、マジか……そこから話すのかよ」よう見たら、跡部も目をひんむいとった。
「跡部、俺な、伊織に振られるくらいやったら、もうなんでもええねん」
「う、嘘でしょ……嘘って言いなさいよ!」なんか知らんけど、吉井は動揺しとった。
「嘘ちゃうし……みんな最初は童貞や」

そうや。童貞は、恥ずかしいことやない。……たぶん。





「え……伊織から、目を閉じたのに?」
「胸に、頭を押しつけただと……?」
「それって……」
「忍足お前……」
「キスしなかった!?」「キスできなかった!?」

お前らは『君の名は。』か……とツッコみたくなるほどに息ピッタリで、跡部と吉井は声をあげた。「わたしたち……入れ替わってるー!?」やないっちゅうねん。もう付き合えや。お似合いや。腹立つわ……。

「なんなのその失態は! いくら童貞でも許せない! 伊織がどれだけ傷ついたか!」
「まあ……忍足ならありうることだな」
「ありえないでしょうよ!」
「落ち着け吉井。童貞をこじらせてるヤツってのはそういうもんなんだよ」
「どういうものよ!」
「こいつはとくに、潔癖なとこがあんだよ。潔癖っつうか、とにかく独占欲が強い」

好き勝手に言うてくれるやんけ……。そら俺かて、自分でもアホやと思っとる。けど、怖かったんや。もちろん跡部の言うように、俺だけの伊織やって、思っとったとこもある。

「めっちゃ傷つけたのはわかっとったから、それで、翌日……」
「さっきの話に戻るってわけか」

そう。まずは伊織が俺を避けだすようになった話を、先にしといた。

――お情けのキスやなんて、惨めやん。

伊織の涙声が、ずっと頭に残っとる。
そんなつもり、ちゃうかったのに……。でも伊織からしたら、そうなるんかもしれん。

「俺、お情けのつもりとかやなくて」
「あのねえ! あんたはそうかもしれないけど、女子からしたらあんたの行動、むちゃくちゃムカつくからね!」吉井は憤慨しとった。
「……お情けに、思うからか?」
「そうよ! しかもその見た目で、色ボケみたいな顔しといて、童貞とかバカげてる!」
「そんなん言われても……キス、せんかったから、傷つけたと思って」バカ、はちょっとひどない? あと、色ボケもなにげにひどないか?
「あんたがしたことは、その傷口に塩を塗り込む行為なの! 惨めになるに決まってんでしょ!」
「ま、いまの忍足にその女心は難しいだろうな」

跡部はさらっと前髪をかきあげなら言った。お前やったら、もっとうまくできたっちゅうこと? いや、跡部ならキスの合図に、すぐに応えとるよな。
でも俺には、できへんかったんや。ほな、翌日どうしたらよかったん……もう、わからへん。

「ねえ……マジで女と付き合ったことないの?」吉井はまだ、疑っとった。
「ない」きっぱり答える。
「触れたことは?」
「ない」ピシャリと答える。「伊織以外、触れたいと思わんかった。俺、手つないだのも、伊織しかおらんし……」

はあ……と、吉井が頭を抱えだした。跡部は目を伏せるようにして、黙ってその様子を聞きながら足を組み替え、コーヒーを飲みだした。ってお前、いつのまに人ん家のコーヒー飲んでんねん。それ俺のお気に入りのマグカップやねんけど。ええけどさ別に……。

「……全校生徒に聞かせてやりたいわ」
「いじめダメ絶対……」と、一応、釘を刺す。
「あのさ忍足。あたしもそうだし、全校生徒もそうだけど、あんたは知らないところで女とめちゃくちゃ好き勝手にやってるって思われてるよ?」
「……そうなん、かな。まあ、そうなんやろな」

やから、俺には昔からようわからん噂が出回っとる。年上の女とばっかり付き合っとるとか、逆ナンされまくってすでに100人と寝とるとか……意味がわからん。100人と寝とったら200個のおっぱい見てるやん、すごないそれ? 俺なんかオカンと姉ちゃんのおっぱいしか見たことない。オカンはいまだに風呂あがりに全裸で歩くで、こっちが「ゲエ吐く!」言うて逃げるけど、姉ちゃんのは幼少期の話やし……。

「てことは、わかる?」
「え、なにが?」
「はあ……バカなの?」
「佐久間もそう思ってるってことだ」吉井がため息をつくのと同時に、跡部が代弁した。「つまり、お前はすでに何人もの女と付き合ったうえで、自分をいま恋人にしてくれたんだと思っている。だろ? 吉井」
「そうだよ。なんなら、そうに決まってるって言ったのは、あたしだし」
「は……はあ!? おま、なんでそんな、でまかせ言うんやっ!」
「だって童貞なんて知らないし! 誰もそんなこと思ってない! いまも信じられない!」
「ひど……ひどいやんっ! 俺、誤解されとるやんっ。やって、伊織のことずっと好きやったって言ったのに!」伊織も、なんでそんなこと思うんっ。
「ずっと好きと、経験ないは別でしょ! まさかずっと好きだったからって、あんたみたいな顔した男が、女と付き合ったことないなんて思ってるわけない!」
「え……」

跡部とまったく同じこと言いよった……。跡部に視線を送ると、「な?」と言わんばかりに跡部は眉を上にあげて、両手をふわっと広げた。映画でよう観る外人のポーズや。腹立つ! なにカッコつけてんねん!

「だから伊織は、忍足が経験豊富なはずなのに、キスもしてこないから不安が普通の恋愛よりも50倍くらいふくれあがってたの! あげく、勇気を振り絞ってキスをねだったのに、顔を胸に押しつけただ!?」

一方で、めっちゃ気になることがある。俺のことを当然、ほかの女と付き合ったことがあると思っとる伊織……自分も同じやからとか、そういうこと?

「吉井、それって……さあ」
「なによ?」
「伊織も、そうなんやろか。俺と再会する前に、ほかの」
「あたりまえでしょ! じゃないと気持ち悪い!」
「ええええええっ、ひ、ひど……!」あかん、胸が痛い。なんか刺さっとる絶対!
「吉井、少しはオブラートに包んでやれ。言い換えてピュアってことにしといてやれよ」

跡部は、前に自分かて「気持ち悪い」って言うたくせに、フォロー(?)に入った。それでも吉井はソファから立ちあがり、両手を腰につけて俺を見おろしてきた。説教ババアやこいつ……! 姉ちゃん思いだす!

「伊織だってあんな美人で性格もよくて、これまで死ぬほど言い寄られてきてるに決まってる! ずっと会ってもなかったのに、7年も忍足だけ想いつづけて純潔を守ってきたって? んなわけないでしょ! このご時世に!」
「ええええええええっ、そそそそんなん、嫌や……っ」
「嫌って言ったってあんたは伊織が好きなんでしょ!?」あきらめなさいよ! と、叫んではる。風当たりが強い。あかん、俺また泣きそう……。
「そ、それホンマ吉井? 伊織がそうやって言うとったん?」
「言ってないけど、そんなわけないでしょっつってんの! 跡部だってそう思ってるよ。でしょ!?」
「……まあ、それを俺が言いだしたせいでこうなっちまってるからな」
「ほら見なさいよっ。それが普通なのっ!」

頭ではもう十分、理解しとる。けど感情が追いつけへん。伊織の過去を責めるつもりなんかないけど、過去に誰かと触れ合ったんやと思うだけで、死ぬほど胸が痛い。
でも伊織に振られたくはないから、そんなんも全部、乗り越えなあかんのよな、わかっとる。わかっとる、けど。

「跡部……」
「アーン? なんだ?」
「俺、どうしたらええんやろ? 伊織、会ってくれんねん……」
「あたりまえじゃん! 怒って当然だよ!」
「メッセージも未読のままやし……俺、もうあかんのかな」
「ヘタレ! 童貞メガネ!」
「いじめダメ絶対……」吉井、ひどすぎるわ。せやけど怒る気力もない。
「はあ……案の定、振られてんじゃねえか」
「えっ……」

言うたな? それ言うたな!? ああああああああ俺、振られとるんかやっぱり!?
せっかく、せっかく誰よりも大好きな伊織が、俺の彼女になったのに……俺……!

「おい、泣くな」
「な、泣いてへんっ」言いながら、鼻をすすった。
「ぼろぼろ落ちてんじゃねえか、気づいてねえのかよ」

もう、なんなのこのキャラ違い……言いながら、吉井は近くにあったティッシュを俺によこしてきた。おおきに……姉ちゃんよりは、優しい。

「はあ……でも忍足、まだ決まったわけじゃない」あきらめるのは早い、と、吉井は眉間にシワを寄せたまま、俺に迫ってきた。
「ほん、ホンマ……?」顔をあげた。やっと希望ある言葉が、吉井から聞けたからや。
「こんなあんた見せられたいまとなっては、マジでどうしてかあたしには全然わかんないけど、伊織は、かなりあんたに惚れ込んでる」
「え……」

なんか余計なこといろいろ言われた気いするけど、流して、ええよな……?
吉井は、ふうっと息を吐いた。興奮して暑くなったんか、額を手でなめるように触って、彼女はもう一度、俺を睨んだ。

「だから、誤解を解くしかないじゃない」
「それって……」と、思わず声にでる。
「つまり……」と、跡部が加勢する。
「もしかして……やけど」
「それしかないでしょ」

吉井が頷いて、全員が視線を交わしあった。

「童貞って、告白する!」

3人で『君の名は。』状態になった俺らは、めちゃくちゃ息ピッタリやった。





――とにかく、女の経験がないから怖かったって、あたしたちに説明したことそのまま言うしかないでしょ。

というのが、吉井の提案や。俺の予想どおり、カッコつけがあかんかったらしい。

――女はね、好きな男ならカッコ悪くたっていいの。むしろカッコ悪くたって、真正面から向き合って、正直に愛されてたい。それだけなんだから。

男をとっかえひっかえしとるくせに、吉井の言葉には説得力があった。ちゅうか、跡部はそれを聞いて、どんな気持ちやったんやろか。しれっとしながら目を伏せとったけど、実はあいつも、胸が痛かったんやないやろか。
……とか、多少は心配になるものの、いまの俺に、そんな余裕はない。今日も伊織の自宅に押しかけて、いま、おばちゃんが伊織の部屋でご機嫌を伺ってくれとるところやった。
期末考査も今日で終わったし、伊織も勉強のストレスからは解放されとるはず。今日こそは、会ってくれるかもしれへん。

「忍足くん、おまたせ……」
「すんません、毎日」
「いいのいいの、気にしないで」

さあ、あがって。部屋で待ってるから。という言葉を期待した俺やったけど、おばちゃんの表情が笑顔から苦笑に変わって、俺の胸がまた、キリキリ痛みだす。

「伊織、今日も具合が悪いって……」
「……そう、ですか」
「ごめんね忍足くん……」

好きな男なら、カッコ悪くても、真正面から向き合って、正直に愛されてたい……か。
吉井の言葉を反復して、俺はすっと息を吸いこんだ。
もうええ……どうせ、振られたも同然なら。それでも伊織が、俺のことまだ、少しは想ってくれとるなら。俺は、望みを捨てたない。
俺は伊織がずっとずっと好きやった。それがどんだけカッコ悪くても、どんだけ気持ち悪くても、それでもええ。俺は、伊織やなきゃ無理なんや。もう、ヤケクソや!

「伊織ー!」
「えっ」

俺は2階に向かって大声をあげた。側で見とるおばちゃんがビクッとしとる。そらそうや。毎日、ひとり娘に会いに家に押しかけてきて、娘は会うの嫌がっとる。おばちゃんは昔のよしみと思ってくれとるけど、なんならストーカーやと思われとってもしょうがない。
その男が急に、玄関で大声だしはじめたら、そら驚くやろ。でももう、なんて思われてもええ。ヤケクソやから。

「俺、お前が会ってくれるまで、毎日、来るから!」

反応はない。

「どんだけ伊織が俺に会うの嫌やって言うても、来る!」

反応は、ない。

「やっと再会できたのに、俺、こんなん嫌やねん!」

反応は……ないか。ああもう、言うてまえ!

「おし、忍足く……」
「おばちゃん、すんません……」引いとるおばちゃんに謝ってから、俺はもう一度、息を吸いこんだ。「俺、伊織が好きや!」

ガタ、とわずかに、音が聞こえた気がした。おばちゃんが目を見開いて両手で口を覆っとる。もう、ここまできたらなんの恥ずかしさもなくなってくる。
それにこれが、俺のいちばん伝えたかったことやから。

「伊織のこと、めっちゃ好きや! ずっと好きやったんやもん、あきらめられへん! せやから……!」

そこまで言いかけたとき、バタン! と扉が閉じられる大きな音がする。
一瞬やった。バタバタと、伊織があっという間に、呆気ないほど簡単に、俺の目の前に姿を現した。

「ちょっと侑士! なんっ」
「伊織……あ、やっと、会えた……」

うっかり、笑みがもれた。
1週間ぶりに目にした伊織は、やっぱりめっちゃかわいかった。それだけで、泣きそうんなるくらい嬉しい。ホンマに、俺、伊織が好きすぎて、どうにかなりそうや。
顔が見れただけで、こんなに胸をときめかせてくれるん……伊織しかおらへん。

「も、なに言って……!」
「元気、そうやん……」
「そんなの、仮病に決まってるじゃん! も、お母さんいるのに……っ」

はっとしたように、おばちゃんは「ば、晩ごはんの準備しなきゃ」と、キッチンに消えていった。めちゃくちゃ気を遣わせたと思うし、目の前の伊織は、ぐしゃぐしゃに困った顔で「もうー! 信じられないっ」と頭を抱えとった。
そんなん……伊織が出てきてくれんからやん。許してよ……。

「……伊織、時間ある?」
「なにっ……」真っ赤になって、ぷりぷりしとる。けど、それでもええ。会ってくれた。
「ふたりきりで、話したいんやけど」
「……も、じゃあ、外で。ここではもう……っ」
「嫌や」
「えっ? な……」
「外も、誰か来るやん。ふたりきりがええ」なんせ、いろいろ俺は、打ちあけなあかん。恥は捨てたけど、誰かに聞かれたくはない。おばちゃんは特別や。「せやから……伊織の部屋が無理なら、俺の家、来てくれへんかな?」
「……も、わかったよ」

伊織は納得いってないような顔をしたまま、それでもなんとか、頷いてくれた。





伊織の家と俺の家はそう遠くない。歩いて10分くらいで到着したけど、その10分、俺も伊織も無言やったせいで、めちゃめちゃ長い時間に思えた。
外で切り出して、下手したら逃げられるかもしれへんし。結局、微妙な空気感のまま、伊織は俺の部屋に来た。昨日、吉井と跡部が座っとったソファの上に案内して、お茶をだす。

「ありがと……」補導された不良少女のように、ふてくされたまま首をちょこっと下げた。
「……伊織、俺、傷つけたよな。ごめん」

となりに腰を降ろして、俺はさっそく本題に入った。
お茶をひとくち飲んで、ぷっと小さく頬をふくらましたまま、伊織が目をそらす。こんなときやのに、怒っとる顔もかわいい。でもそんなこと言うたら、また怒らせる気がしたで、心のなかに留めとくことにした。

「大丈夫、もう、わかってるから」
「え? わかってるって……」まさか吉井……俺が言う前にチクったんちゃうやろな?
「侑士の考えてること、わかってる。そうやないかなって思っとったし」

んん……? あかん、これ俺が告白する前に童貞ってバレとるパターンやないんか。うわ、跡部の言うとおりやったか!? あんな女を信用した俺がアホやったんか!?
俺が言うんと、吉井が「あいつ童貞らしいぜダッセ」とか言うんとは、ちょっと違うやろから、せめて言うなら俺が言いたかったのに!

「イメージと違うって……ことなんでしょ」
「……いや」

やっぱりバレとる、と思った矢先のことやった。
伊織がつづけた言葉に、俺の思考は、止まりそうになった。

「付き合って1ヶ月が経って、なんか幻滅してるんでしょ、侑士」
「は?」

目が、点になる。なにを言いだしとるんかわからんうえに、「幻滅」という言葉に、頭のなかが混乱をきたす。俺はもののけ姫のこだまのように、首をカタカタと傾げた。
だ、誰が誰に、幻滅するんや……?

「あんな拒否の仕方するんやったら、はっきり、言うてくれてよかったのに……」
「え、あの、伊織……?」

俺のさっきの言葉、聞いとった? 俺、お前が好きなんやで?
けど、うまく声がでていかん。なにも言えずにただ伊織を見つめても、伊織は俺のほうを向こうともせんし。
シン、と静まった部屋のなかで、伊織はテーブルの上のお茶に向かって、思いを吐きだすように、急に声をあげた。

「わたしと1ヶ月付き合って、イメージと違ったんでしょ!?」

え……!? ちょ、ちょお待って! な、なにそれ!?

「そんなっ」ひとことも言うてないやんっ!
「それやけど7年も好きとか言われたし、初恋やとか言われたし、自分も好きって言った手前、あれ? この女、想像しとったんと違うやんけ、とか思っても、侑士は、優しいからっ」
「ちょ、まっ」しゃべらせろ。
「かわいそうとか思って、お情けで付き合ってくれとったんでしょ!?」
「いや、ちょ」しゃべらせてくれ。
「けどやっぱ重たいよね? そんな女に手え出して、キスしたんやから責任取れとか言われたらたまらんもんねっ。せやから拒否ったんでしょ! 侑士は百戦錬磨で、女の面倒なの飽き飽きしとるんでしょ! 心配せんでもわたし、そんな迷惑かけるつもりないからっ。復讐とかも考えてないからっ。侑士のことは好きやけど、遠くから見てるだけでもわたし」
「伊織!」

大きな声で名前を呼んだら、伊織の勢いが止まった。犬が叱られたみたいにパフッと口を閉じて、お茶に向けとった顔を、ようやくこっちに向けてくれた。
ホンマ、どういうつもりや……なんでそんな決めつけから入ってんねん。ああ、こんだけ俺のこと決めつけとるんやったら、吉井の言うとおり、伊織はめっちゃ俺のこと勘違いしとる気がする。さっき、百戦錬磨とかさらっと言うたもんな!

「ちゃう、ちゃうよ伊織……! お前が俺のこと、どう見てんのか、知らんけどさ!」
「だって侑士!」
「聞いてや! 俺、伊織のこと好きやって言うたやん! さっきやって!」
「そんなん……!」

食い気味で入ってくる伊織の顔が、だんだんと歪んでいった。お、俺がこんなに伊織のこと好きやのに、伊織はそんな俺の気持ち、疑っとったってこと……? そんなん、そんなわけないやん!

「それだって、わたしのこと傷つけたと思ったからでしょ!? 侑士は優しいから!」ほぼほぼ嫌味で言うとるやろ、それ!
「俺は好きやない女に好きって言うほど優しないねん! 俺がホンマに好きなん、伊織だけや!」
「嘘ばっかり!」
「嘘ちゃうって! なんで嘘になるん!?」
「だって千夏のこともずっと気にしてたやん! わたしと帰ってるときもずっと千夏の話してさっ!」
「そ、せやからあれは……!」ああ、跡部のボケ……! いや俺がアホなんかっ。「いろいろ理由があんねん! でも俺は伊織のことしか!」
「それやったらなんでよ! 膝枕も嫌がって!」
「い、嫌がってなんかない!」動揺したんや! 童貞やから!
「千夏のキスシーン見たときやってごまかしてっ!」
「そ、せやから……!」それも動揺したんや! 童貞やから! 何回も言わすな!
「1ヶ月記念日だって忘れとった!」
「忘れてへんっ! 覚えとる、大事な日や!」
「それやったらなんでそんな大事な日に、わたしのこと拒否……!」
「拒否したんちゃう! 童貞なんや俺は!」

ついに、俺は口にだしとった。
ピタ、と……伊織の動きが、今度こそ止まる。はあ、言うてもうた……せやけど、一度は吉井に言うとったせいか、そこまで声は震えてへんかった。
伊織から目は、そらしとるけど……でも、これは嘘やない。こんな嘘ついたって、なんの得もない。伊織、わかるやろ……?
また、シンと部屋が静まり返る。重苦しい沈黙が、1分くらいはつづいた。

「え……?」

そこからの伊織の第一声は、それだけやった。一方、沈黙のおかげで、俺は落ち着きを取り戻しとった。
いまなら言える。ホンマのこと言うんや。カッコ悪くても、ええんやから。

「俺……ホンマに伊織にしか、触れたことない……せやから、怖かったんや。キスなんかしたことないで、緊張もするし……」
「侑士……」
「わかっとる。気持ち悪いんやろ。せやけどほかの男と比べられたくもなかったんや。伊織はモテるやろから、いっぱい知っとるやろ? でも俺は、はじめてや。伊織の前では、ずっとカッコいい忍足侑士でおりたかった。なんか間違って下手やとか、前の人んがよかったとか思われたら、死にたなる。どないしたらうまくできるやろって、伊織にカッコいいって思われたいって考えれば考えるほど、体が固まって動けへんかったんよ……ホンマ、情けないけど」

堪忍……、と謝ると、伊織の手が伸びてきた。冷たくなっとった俺の腕に触れた伊織の手のひらは、あったかい。不安をもったまま勇気をだして目を向けると、伊織がじっと、俺を見つめてきた。

「わたしが、いっぱい、知っとる……?」
「え、うん……」
「侑士……わたし侑士のこと、ずっと好きやったんよ?」
「それは、うん……嬉しかった、けど」……けど、怖かった。
「キス、したかった。でも侑士、してくれへんかったよね?」
「せやから、それはっ」
「そんで翌日、お情けみたいに」
「やからっ……それは、めっちゃ反省して」
「わたしがほかの人と、比べると思っとった? ほかの人って、誰よ?」
「それは……わからんけど。伊織のほうが大人なんやろなって思うと、臆病に……」

ふっと、伊織が息を吐く。微笑んどった。呆れたやろか? カッコ悪い? でも俺、伊織が好きや。伊織やないと、俺……。

「……なんでそれ、最初から言うてくれんかったん?」
「やってそんなん、カッコ悪いやん……」

伊織にはずっと、カッコつけときたかった。男なんてみんなそうやろ。好きな子の前では、カッコつけたい。
とか、センチメンタルな気分を感じとった矢先のことやった。どういうわけか、一瞬、辺りが暗くなる。不思議に思ってぐるりと見渡すと、目の前の伊織が、うつむいとった。

「そうやない」
「え?」
「侑士そうやってずっと、思ってたんやね?」
「え……」

覗きこんだら、伊織は相変わらず綺麗でかわいい顔しとる。けど、その目がスーッと、静けさを持ったまま色を失くしとった。心なしか、耳に届く伊織の声も、いつもより低い。
あれ? と思う。想像してたのと違う展開に、俺はゾッとした。
これ……ひょっとして……忘れようと思った、あの瞬間……ちゃうよね?

「わたしのこと、そういう女やって……思ってたんや」
「え……ちょ、待って……伊織?」
「ようわかった。勝手に、決めつけとったんやね」

お、おいおい待て待て! お前も俺のこと、「幻滅したんでしょ」とか「百戦錬磨」って、決めつけとったやないか! とは、声が出ていかん。
めっちゃくそ怖い……あの大学生たちは、このオーラを間近で受け止めたんやろか。いや、あいつらにそんな時間はなかった。気がついたら空を見あげとったやろう。どっちかっちゅうとそっちのほうが楽な気いする。こんだけ殺気を放たれたら、覚悟せなあかんやんっ。ああああかん、余計に怖いやないか!

「え、伊織、さん……?」

思わずさん付けするほど、伊織は音を立てずにソファから離れとった。怒りを抑え込もうとしとるんか、俺に背中を向けて、フーッと静かな呼吸をしとる。待て待て、ホンマに待ってくれ。なにに怒ってんのかも、ようわからんっちゅうねん!

「わたし、帰る」
「え……ちょ、待ってや伊織! まだ話っ」
「もういい。ようわかったから。侑士がわたしのことどう思ってたんか」
「ま、待って、ちょ」
「それ以上、近づかんといて。わたし、侑士になにするかわからへんから」

口調は、穏やかや。声も、いつもよりは低くても、ちゃんと女の子の声。あの日ほど凶暴やない。
それでも、俺の足はビクッと止まった。あかん……ホンマに投げられてしまうかもしれんと思ったら、本能で体が動かんようになる。お前は幸村か。ちょっと細かいとこは違うけどもっ。

「伊織、怒ってんの……?」怒っとるやんな、どう見ても。
「だって侑士、わたしのこと信じてなかったってことでしょう?」ふふ、と笑っとる。それがまた、怖い。
「そ……」

伊織もやん? とは、やっぱり声が出ていかん。まあ、そう思わせたん俺やし……俺が悪いってことにしとかんと、あかんパターンや。問い詰めた瞬間に消されるかもしれへん。

「ズベ公やと思っとったんやん、わたしのこと」
「ず、ず、ズベ公……?」なんやそれ。なんかヤバそうな方言やな。どこの言葉やっ。急に方言ネイティブ発揮すんのやめてくれ!
「要するに、わたしのことアバズレやって思っとったんでしょう! わたしだってなにもかも、侑士がはじめてやのに!」

穏やかやった伊織の声が、弾けるように響いた。涙声で、バッグを持ちあげる。そのときようやく、体が動きだした。
え、いま、わたしも侑士がはじめてって、言うたよな? 言うた、絶対、言うた! あれ、ほな、ほな跡部と吉井が言うてることは全部……!

「伊織!」
「自分のこと棚にあげて、なんなんっ! ひどいっ」

あかん、あかんあかんあかん! このまま帰したら、もうホンマにあかんようになる!
ちゅうか、棚にあげてへんっ。なんか使い方、間違ってるで! ああでも、それだけ怒らせたんや! けど伊織やって俺のこと信じてなかったやんかっ!

「違う、俺、アバズレとか思ってたわけちゃうくて!」その前にお前も俺のことヤリチンやって思ってたんちゃうんかっ。
「わたしが侑士以外の人とどうにかなっとるって、思ってたんでしょう!?」
「そ、それは、伊織がかわいいからっ!」
「そんなん言うてもごまかされへんからっ! せやけど、もしそうやったら、なんなん!? 侑士は処女信者なん!?」
「ち、いや、せやから、比べられたら!」処女信者とはちょっとちゃうねん! あれは俺の……希望やっただけで!
「わたしは侑士がこれまで誰かと付き合ってたとしても、そんなんいいっ。だっていまはわたしを見てくれてるって思ってたからっ。そりゃ、ちょっと、ちょっと悔しいけどっ」

もういい! とつづけながら、伊織は背中を向けて玄関に進みだした。

「ま、待って伊織!」嫌や、行かんとってくれ!
「もういい、侑士なんかっ。わたしはずっと侑士が好きやったって言うたのにっ。わたしのことズベ公やって思って、信じてなかったんやっ。そんな女とは無理って思ったんやっ。心外や!」
「待ってって!」

何度も言うけど、伊織こそ信じてくれてなかったやんけっ! 棚あげお前やろ! 
そんなん言う暇もなく、バタバタと音を立てながら、伊織がリビングから出ていく。

「帰るっ。もういいっ!」
「待ってよ伊織っ!」
「もういいって!」
「俺がようないねん!」
「近づいたら投げるからっ!」
「ああ……もう、それなら好きにせえよ!」

伊織が玄関のドアに手をかけた。その手首を、俺は思いきりつかんだ。
伊織の髪がふわっと宙に浮いていく。小さな体を、無理やり自分に振り向かせた。

「なにすっ」
「もう投げ飛ばされてもええ!」

背中を片手で受け止めて、そのまま肩を強く抱いて、俺は伊織の唇に、自分の唇を押し当てた。

「ゆっ……ンッ」

伊織の声が、キスの音に埋もれていく。死んだって、伊織を手放したくない。
その気持ちだけを、俺は、ただただキスにぶつけた。触れる唇に、伊織の涙が落ちてくる。俺はそれを拭うように、何度も伊織にキスをした。

「ちょ、ゆう……」

ふっと、伊織のこわばった体の力がゆるくなった瞬間に、俺は伊織をきつく抱きしめた。好きなんや、伊織……お願い、俺から離れんで……。ホンマに好きなんや。めっちゃ怖いけど、それ以上に、伊織が好きやねん俺は!

「ン、ゆ……」
「ずっと、伊織にキスしたかった」
「侑士……ちょっ、待っ」
「伊織も、俺としたかったんやろっ?」
「ン……侑士っ」
「それやったら、できんかったぶんだけ、しようや」

フランス映画で観た、俳優みたいなキスをした。貪るように、夢中で伊織の唇を何度も求める。つづけるうちに、伊織の体から、力がどんどん抜けていった。
嘘みたいや……キス、したことないから知らんかったけど……唇、めっちゃ……やわらかい。信じられへんくらい、気持ちええ。
こんなん……止まらへん。もうずっとこれ、しときたいんやけど、俺……。

「ン、侑士、ねえっ」
「伊織、好き……」
「は、あ……待っ」
「めっちゃ好きや、伊織」

ガタ、と音がする。壁に追いこまれとった伊織が、膝から崩れ落ちとった。瞬間、唇が一気に離れて、俺は伊織の真っ赤になっとる顔に、そのときようやく気づいた。

「侑士、ちょ、ちょっと、落ち着かせて」
「……伊織」なにこれ……めっちゃかわいい。目、すんごいとろけてるやん。声も、さっきと全然ちゃう……。
「お、お願い……ちょっと、苦しい」

さっきまでの伊織、どこいったんやろ……。ものすっごい女の子の顔してる。いや、もともと女の子やけど……なんちゅうか、めっちゃ、エッチな顔。俺の男の部分が、めちゃくちゃ刺激されていくやん、こんなん……ずるい。
せやけど伊織……俺、もう引く気ない。帰らせん。帰らせた、ないねん。

「ほな……帰らんって約束してくれる?」伊織を胸に抱きながら、鼻先を当てた。息を切らしとる伊織が、小刻みに頷いた。
「か、か……帰らないから。ソファ……戻るから、お願い、ちょっと、待って……」

口もとに手を当てて、涙目になっとった。どういう涙なんか、俺にはわからへん。でも、どう見ても、嫌がっとる感じやない。もう俺も、理性はとっくに失くしとる。
伊織……好きや。キス、したい……。
想いが堪えきれんようになって、俺は伊織の膝下に腕を突っ込んだ。ひゃっ、という伊織の小さな悲鳴があがるのと同時に、俺は勢いよく立ちあがった。

「侑士っ、ちょ、おもっ……!」
「全然、重たない」

ホンマ、軽い。ようこんな体で、俺くらいの男3人も投げ飛ばすわ……。ああ、でもそれはええ。いまこそホンマにマジでどうでもええ。
伊織を抱えて再度ソファに座らせる。少し落ち着きを取り戻したんやろう潤んだ瞳が、俺を切なく見あげた。
うわあ、ああ、なにその顔……あかん、こんなん無理や。

「侑士……」挑発しとるようにしか、見えへん。
「愛しとる、伊織」

一度してしまえば、そこから先はなんの躊躇いもなかった。伊織もはじめてって知ったから? 正直、それもあるかもしれん。けどなによりも、伊織に伝えたい思いでいっぱいやった。
俺がどんだけ伊織を好きか。どんだけ伊織とキスしたかったか。唇が触れ合うたびに、頭がふわふわする。どの角度からしても、むっちゃ気持ちいい。
こんなにうっとりすること、この世にある……? めっちゃ胸がキュンキュンする。尋常やないほど体が熱い。重ねると弾けだす音が、チュッとする。ああ、やからキスって、チュウっていうんや。

「侑士、ン……」
「好き、伊織……好き、めっちゃ好き」
「は、ン」

伊織のめっちゃ色っぽい声……体がゾクゾクしてきた。はじめてのキス……こんなに何度もすることになると思ってなかった。せやけど全然、止まらへん。
めっちゃ、燃える。めっちゃ、気持ちいい。

「侑士、待って、ちょっと、お願い」
「嫌……?」
「そうじゃなくて……だ、だって……」

息も絶え絶えにかわいい声で言うもんやから、俺はそっと唇を離した。ああ、離した瞬間に触れたなる。けど、伊織の弱々しい指先がお互いの唇のあいだに入っとったから、俺はなんとか我慢した。
かわいい、めっちゃかわいい。なんでそんな顔するん。ずるい、好き、めっちゃ好き。

「し、心臓がうるさすぎて、死んじゃいそう……」
「……そんなん、俺もやで?」
「う、嘘っ……すごい、余裕やん、侑士……」
「ホンマや。余裕なんかないよ。聞いてみる?」

キスができんと思ったら、今度は強く抱きしめたくなる。伊織の後頭部を支えとった左手で、そのまま胸に押しつけるように寄せると、いつものハグの形になった。
ああ、こないして伊織を抱きしめるのも、1週間ぶりや……。

「あ……」
「……どない?」
「ホントや……侑士、すごい、ドキドキしてる」
「ん……そうやろ?」自分でもわかっとる。これ以上に早くなったら、心筋梗塞おこすわ。「やって俺、伊織にずっとキスしたかったんやもん」
「……侑士」
「伊織もドキドキしてくれとるんやったら、俺……めっちゃ嬉しいで?」

頬を包んで顔をあげると、伊織が静かに目を閉じた。夢中になってまた激しくしたら、伊織に止められてしまいそうやから……今度こそ、俺は自分を落ち着かせながら、優しく唇に触れた。あったかい。そんでやっぱり、やわらかい。そんでこんなに優しくしとるのに、それでも触れるたびに、チュッと音がする。
順番が逆になってしもた気がするけど、こういうキスも、めっちゃええやん……。

「う、あ……」
「伊織? どないした?」めっちゃ、エッチな声……。
「すごく、ゆっくりなのに、それでも、ドキドキしちゃう」
「……ホンマ?」はああああ、かわいいっ!
「ホント……ねえ、侑士……」
「うん?」
「……わたしのも、たしかめてみる?」
「え……」

伊織の顎に添えとった俺の手を、すべすべの手がきゅっと握ってきた。たしかめるって、まさか……と思っとるうちに、俺の手は誘導されとった。谷間の、真んなかよりちょっと右側。そら、ダイレクトに触れてはないけど……しっかりふくらんどるし、やわらかい。さっきの唇やなんて、比やないくらい。

「ちょっ、伊織……」
「わたしも、すごい、ドキドキしてるやろ?」
「あ、ああ、あかんよっ、こんなんっ!」

顔の熱が一気にあがった。同時に俺の俺も一気に膨張したのがわかる。手が震えはじめて、ピクリとも動かしてへんのに、胸の動悸が尋常やない。あかん、これはホンマに心筋梗塞おこす。
今度は、こっちが息も絶え絶えになっとった。

「なんで……?」
「なんでって、お、俺が悪い男やったら……!」

それやなくても、動かしてしまいそうや。もっと右の、下の……おっぱいわしづかみで!
ああ、したい! めっちゃ揉みたいっ! でもあかん、そんなんしたらあかんっ!
ほとんどパニックになりながら、俺は口走った。

「こんまま、お、襲ってんで!?」
「……いいよ」
「は、えっ!?」
「侑士だから、だもん……」
「え……」
「侑士なら、わたし、いい……」
「伊織……」

嘘やろ……さ、さっきはじめてのチュウしたばっかやのに、も、もうそういうこと、しよってこと? 伊織、ちょ……だ、大胆すぎへんか。
でもそんな伊織……最高すぎる! うわあ、え、ゴム、ゴムあったっけ!? ある、あるわ! いつかきっと使うことんなるからとか偉そうなこと言うた岳人から、1個もらったやつがある!

「は、はしたないかな? また、幻滅する?」
「そ、そんなことないっ」せやから幻滅なんかしたことないって! またってなんや!
「だって、わたしたち、ずっと一緒やろ……?」
「あたりまえや。一緒や。一緒……絶対、ずっと、一緒」
「……うん。それやったらもう、わたし早く、侑士のものに、なりたい……」

この世には、きっと神様がおる。10歳から恋心を大事に育ててきて、寄り道もせんとしっかり童貞を守ってきた、誠実な俺へのご褒美かもしれへん。
「ロマンスの神様、この人でしょうか」って、聞くまでもない。伊織しかおらんねん、俺の人生には。この人しか、必要ないんやから。

「伊織……」
「侑士……」

口を開けながら、俺は伊織の唇に吸いついた。何度も映像で見てきたから、これくらいのことはわかる。舌先をだすと、伊織の唇を割って歯列に当たった。そこから伊織も舌をだしてきたことで、俺らの熱が絡まった。
すっかり膨張しきっとったはずの俺の俺が、もっと膨張した。どんだけ好みのAV観たって、こんなに興奮したことない。
胸に置かれたままの俺の手は、自然と動きだしとった。ちょっと勇気が必要やったけど、そのまま、右の、下に。少しだけ力を入れて持ちあげるように弧を描くと、伊織の体がピクッと動いた。

「あっ……」

チャイムが鳴ったのは、その声だけでイキそうになった瞬間やった。
ガクガクッとお互いがソファに倒れこんだ……驚きで。唇が離れて、条件反射的に、胸からも手を離した。
あのなあ……こういうのお決まりのパターンやってわかっとる。せやけど、ホンマにいまだけは邪魔すんなや!

「侑士……誰か来てる」
「そうみたいやな……はあ……誰やホンマに!」

インターホンを睨みつけたまんまやったせいで、何度もチャイムが鳴る。もうほぼ、わかった。鳴らし方がわがままや。性格まるだし。こんな強引なヤツひとりしかおらん。
俺は目を棒にしながらソファから起きあがった。そのままインターホンの通話ボタンを押すと、画面には案の定のボンボンが映っとる。

「なんやねんっ」
「は、いるじゃねえか」
「なにしに来たんやっ。帰ってくれ、俺いま、忙し」
「アーン? 貴様、自分が用があるときはズケズケ来ておいて、俺の用があるときは」

ピ、と俺はあきらめて解錠ボタンを押した。長なる。
すぐに帰ってくれるかもしれんし、わからんけど……ああ、せっかく、伊織と……。
インターホンカメラの前ですっかりうなだれとると、俺の背中に、ふんわりと優しいぬくもりが落ちてきた。背中、さすさすしてくれとる。ああ、思いだす。骨にヒビが入っとったころ……。

「堪忍な、伊織……跡部が来るわ」
「ん、大丈夫やよ、侑士」

伊織が、俺の背中から抱きついてきた。ゆっくり向き直りながら引き寄せて抱きしめると、顔を赤くしながら、「跡部くん、来ちゃうよ?」と嬉しそうに、俺の背中に手を回した。
そんなん言うて……伊織から抱きついてきたくせに。もう、かわいいっ! 跡部ホンマ殺す!

「仲直りしようや。ごめんな。ホンマに、堪忍」
「もう仲直り、したよ。わたしも、ごめん」
「俺のこと、許してくれるん?」
「……あんなキスされたら、許すしかないやん」

きゅっと背伸びをしながら、首に巻きつくようにして伊織は俺の鎖骨にキスをした。あかん、もう絶対に我慢できん。

「跡部が来るまで……な?」

一生来るなと思いながら、もう一度キスをした。慣れてきたんか、伊織は俺の頬を包んだ。夢みたいや……こないだまで、ハグしかできんかったのに、俺ら。いや、俺が?

「伊織……」
「うん?」

チャイムが鳴った。一旦無視する。

「侑士、来たよ?」
「めっちゃ好き」

チャイムが鳴る。とにかく無視する。

「侑士……」
「俺ホンマに、一生、伊織しか愛せんから……」

チャイムが鳴る。耳もとにキスするように、口づけながら、俺は言った。

「せやから、今度は……ちゃんとつづき、しよ?」
「……ん」

こく、と小さく頷いた伊織から、かわいいキスが送られた。





to be continued...

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