初恋_09


9.


好きな子に「好き」って言われること。好きな子の傍にずっとおれること。好きな子と笑いあって話せること。好きな子に、キスできること……。
世のなかにはこんな幸せがあったんや。俺はそれをちっとも知らんまま、願望だけで生きてきた。ああ、もういま、人生で最高の幸せを手にいれとる。

「忍足よ……」
「なんやあ跡部」

期末考査が終わった翌週の月曜、朝練中。金曜の夕方から、ずっと幸せハッピーオーラが出とるのが自分でもわかる。土日は残念なことに部活やったで、伊織も家の用事があるとかで会えへんかったけど……はあ、はよ昼にならんかなあ。会いたい。早く伊織に会いたい。

「後輩どもが引いてるぞ。その顔で強烈なスマッシュを打つのはやめろ」
「え」

伊織のことしか考えてへん俺やのに、テニスとなると勝手に体が動いてまう。俺は後輩のリターン練習のためにスマッシュを打ちつづけとった。跡部に言われて、はた、と相手コートを見る。1年生が「つ、次、お願いしまーす……」と、あきらかに引きつった顔で俺を見とった。
はて、どんな顔しとったんやろか。

「はいはい、いま打ってあげるわ。ほな、まずサーブからな」

跡部の声は一旦、無視した。サーブを打って、ポーンと打ちやすい球が戻ってくる。ああ、はよ終わらんかなあ。午前中。午前が終わればランチで伊織に会えるねん。伊織、いまなにしてんやろ。会いたいなあ。チュウしたいなあ。かわいい顔しよるねんなあ。

「ひいっ!」
「え? あ……」

思いきり打ったスマッシュが、バウンドと同時に跳ねあがって、2年生の顔面に当たるところやった。せやけどさすが氷帝テニス部や。なんとかラケットで自分の顔をかばっとった。

「あー堪忍。ツイストスマッシュしてもうた」
「堪忍、じゃねえよっ。おい日吉! 忍足と交代だ!」

言いながら、跡部が俺の首根っこをつかんでコートからずるずる引っ張っていく。なんやあ、これ楽やったのに。日吉より絶対に俺んが練習になるやろお?

「跡部え、ちょお離してやあ」
「その気持ちの悪いしゃべりかたもやめろっ!」
「ええー……どこが気持ち悪いんやあ。めっちゃ普通やんかあ」
「どこがだ。その顔、そのねちねち、くねくねしたしゃべりかた。土曜から貴様は、控えめに言っても気持ち悪りい!」ただでさえねちねちしやがってるくせにっ。と、跡部は言わんでええことまで言うた。どこが控えめやねん。
「そんなん言われても……」

わかっとる。伊織のこと考えるだけで頬がゆるんでまうから。せやけど殺し屋みたいな目えしとるより、人は笑顔のほうがええやろ? ご機嫌なんやから許してほしい。

「いくらプライベートが充実してるとはいえ、けじめをつけやがれ。上級生の威厳がなくなるだろうが。土日から『忍足先輩が怖すぎる』と、テニス部下級生らのトークグループはその話題でもちきりだって言うじゃねえか」
「なんでそんなこと跡部が知ってんねん?」ちゅうか、後輩が言うことなんかほっとけや。
「樺地が危機を感じて報告してきた。あの樺地がだぞ……?」は、余計なお世話や。樺地も大概やないか。
「せやけどなんで怖いんやろ? 俺、ご機嫌やん? ニコニコしとるだけやで」
「何回も言わせるな。貴様のはご機嫌のニコニコじゃねえ、変態まるだしのニヤニヤだ」
「んなっ……なんちゅう失礼なこと言うんやっ」誰が変態じゃ! 俺はピュアなんやっ!
「あげく、いつもに増してテニスは攻撃的になってやがるじゃねえか。感情の振れ幅がおかしなことになってるだろうが。あれで後輩たちの練習になるわけねえだろ」
「そんなん……」そらちょっと、力加減がわからんようには、なっとったかもやけど……。「強くなってんならええやん?」
「強くなってんじゃねえ、貴様はコントロールができなくなってるだけだ」

バッサリ……。
ぷい、と跡部が背中を向ける。はあ……金曜からこいつ、めっちゃ機嫌悪い。俺と伊織の邪魔しよったくせに、俺が伊織の前で口走ったことが気に入らんねんな。わかるけどさ。俺もちょっと口すべらせたなと思ったけどさ……。

――なにしに来たねん跡部。
――アーン? ん? 来客か?
――これは伊織の靴やっ! 吉井なら今日はおらんで!
――跡部くん、偶然だね。ん……千夏? なんで千夏の名前? 侑士?
――あっ……あいや。
――忍足……。
――ち、ちゃうねんあのその、ちゃ、ちゃうくて……。
――お前は俺に、殺されたいのか?

という一幕があった。俺の慌てようといい、跡部の殺人鬼みたいな目といい、伊織はそれでいろいろ察したようやった。それが、跡部をめっちゃ怒らせとる。伊織にバレたら、吉井にバレるかもしれへんからや。せやけど跡部はあの性格や。「吉井には言うな」と伊織に口止めすることもできへん。口止めしたら自分の気持ち認めとることになるしな。できれば墓場まで自分の心のなかだけで留めときたい想いやったんやろう。わかるけど……そうは言うてもさあ……。





「今日は残念やったなあ」
「ふふ。でも外も気持ちいいよ。はい、侑士そっち持って」
「はいはい、持つな?」

借りてきたレジャーシートを緑の上に敷いていく。バサッと敷いたあと、伊織と目をあわせて微笑みあった。ホンマは今日、ふたりきりになれる新館に行こうと思っとったんやけど、どこも先を越されとった。結局、いつかのように外でランチをすることにしたっちゅうわけや。
ああ、キスしたい。金曜あれきりしてへん。伊織の顔も2日ぶりに見るし。かわいい。唇ぷるぷるやん。キスしたい。

「せやけど、ふたりきりになりたかったやん?」
「もう、侑士そればっかり言うんやからあ」苦笑した伊織が弁当箱を開ける。ちょこちょこしたおかずに、小さいおにぎりが3つ。かわいい。ぎゅうしてチュウしてあーんしたい。
「伊織は違うん? 俺はなりたかったで?」俺は今日もコンビニ弁当。ええねん、目の前に伊織がおるだけでごちそうやから。
「そりゃ、なりたかったけど……侑士はなんか、違うこと考えてそうー」
「ん? なに? 違うことってなに?」

べったり肩をくっつけながら伊織の顔を覗きこんだ。どさくさに紛れてキスしようかなと思ったときに、伊織がおかずを口に入れる。ああ、焦らすんやからもうー、伊織ー、いまちょうど周りに誰もおらんのにっ。いやおっても俺は全然、ええんやけど……むしろ見てくれ。俺と伊織がキスしとるとこ。全校生徒が見たらええねん。

「侑士……顔、近すぎー」嬉しそうに笑いよってからあ、かわいい。
「こないだもっと近づけたで……?」
「ほら、やっぱり、そういうこと考えてたんでしょう?」顔、赤い。はあ、かわいいっ。俺が攻めとるやんっ。
「伊織は違うん? ちゃんと言うて?」
「そ、それはあるけど……でも、そ、外なのに、ダメだよ……」
「なんで? 伊織は俺のもんやろ?」
「そ、そうだけど……侑士……」
「好きや、伊織……」

鼻先が当たった。ああ、これキスの直前や。金曜やったからわかんねん。このままちょっと押せば、もうそこには伊織のぷるぷるの唇が……!

「侑士!」
「んぐっ……」

直前で、伊織の4本の指が俺の唇をふさいで距離を広げるように押してきた。さすが元武道家や……めっちゃ、強い。手の力? 腕の力か? ようわからんけど、どうなっとんねん伊織の筋力……。

「恥ずかしいから、外はダメ!」
「ん……ぐ」
離して、の意味を込めて伊織の指をちょんちょんして合図すると、はっとした。「ああ、ごめんっ、侑士っ」
「ぷはっ」怪力や……もう絶対、ケンカせんとこ。殺されるわ。「伊織のいけず……」そんな内面は気づかれんように、むすうーっと、口を尖らせた。ええやん、ちょっとくらい。チュウ、したかっただけやのに……。
「あっ、ずるい、そういうのっ」
「なにがやあ?」
「そ、そういう顔するのが、ずるいんよっ」

もう、侑士はホンマ、オイタが過ぎるっ。と、伊織は赤い顔のまんまもぐもぐおにぎりを食べはじめた。めっちゃ焦っとる。めっちゃかわいい。オイタっていたずらのことやんなあ? んん、まあそうかもな。伊織にいたずらいっぱいしたいで、俺。好きなんやもん、しゃあないやん。

「ところでさ、侑士」
「んー?」
「あのね、えっとね、ちょっと、びっくりさせちゃうかもなんだけど……」
「ん?」

弁当をちょいちょい突つきながら、伊織がもじもじしはじめた。なんやろう、と思う。その顔が、さっきキスしようとしたときよりも赤くなっとって、なんなら耳まで真っ赤やった。嘘みたいにかわいいんやけど、なにそれ? 俺がびっくりすることってなんやろか。もう伊織のかわいさに俺、ずーっとびっくりしとるで? ここ最近。

「その……」
「伊織? どないしたん?」
「あのね、昨日ね、両親と買い物やったんよ、わたし」
「ふんふん、そんなん言うてたな? どやった? 楽しかった?」

うん、あの、うん……と、俺の目をチラチラ見て、今度は指先をソワソワと動かしはじめた。あれ? と思う。なんか緊張してるんやろか?

「その、両親の結婚記念日なんよ、今度。それで、いつもうちの両親、旅行とか行くんよ」
「へえ、そうなんや? めっちゃ仲いいやん」すごいな。うちのオトンとオカンに聞かせたりたいわ。あいつらホンマ毎回、色気もなく過ごしてそうやし。
「そう、そんで、その旅行のときに着ていく服がほしいって、お母さんが言うたから、それで、出かけたんやけど……その結婚記念日がね、今週の土曜で……」

そこまで聞いて、はっとする。俺をびっくりさせることを言うんやったよな? そんで、伊織の親は今週の土曜に結婚記念日やからと旅行に出かける。それって、ちゅうことは……。

「だから、わたし、今週の土曜……ね」
「待って!」
「えっ、なにっ」

あかん、こんなこと、女の子に言わせるとかあかん。忍足侑士、お前はここで男を見せるべきなんちゃうんか。そうや、キスだって伊織から誘わせたんや俺は。あれは完全な失態やった。もう伊織にそんな甘えとる場合ちゃうんやっ。

「ひょっとして、やけど……土曜日、ひとりで留守番することになったんか?」

思いきって、聞いてみる。伊織はうつむきがちやった顔をぱっとあげて、ぎこちなく、静かに頷いた。やっぱりや。そうやんな? それって、そういうことやんな? だってこないだ、約束したもんな?

「その、だから」
「待って伊織!」
「えっ、はいっ」

ごめんな伊織。俺がヘタレやったから、気い遣わせて……せやけど、俺これからは、もっと男らしく、伊織のことリードしたいと思ってんねん。やから、今日は俺に言わせて?

「そ……それやったら、土曜日、うちに泊まりに来うへん?」
「あ……」

かああ、と湯気がでるくらい、伊織の顔が赤面する。きゅっと、すぐそこにあった俺の制服の端っこをつかんで、また、うつむいた。か……かわいすぎや……っ、反則! もうレッドカードや! せやけど退場はせんでっ、ここにおって!

「うん……い、行きたい」

両手で顔を覆いたくなるのを、なんとか我慢した。テンションアゲアゲってこういうことを言うんやろ?
はあ、もう、我慢できへん。さっきから俺の股間も全然、我慢ができんようになってきとる。弁当で隠しとるから大丈夫やけど!

「伊織……」
「う、ん……?」恥ずかしそう……めっちゃときめくで、そんな顔されたら。
「キス、したい」
「そ……だ、ダメだって、さっき言っ……! ン……」

問答無用で、俺は伊織の肩を抱き寄せた。触れた唇が力を失くすかわりに、伊織は俺の胸のシャツを、ぎゅっとかわいくつかんどった。





あのあと、伊織には「もう、もう、外なのに!」とかって怒られたんやけど、全然、怖なかった。むーっちゃかわいかった。あんなふうに怒るんやったら、毎日怒られてもええくらいや。

「ほう? 今日はキリッとした顔しやがるじゃねーの」
「おお、せやろ? 俺な、今日はめちゃくちゃ気合い入っとんねん」

あれからの5日は長かった。そら毎日、伊織とランチしたし、帰りも3日くらいは一緒やったし、キスもいっぱいしたけどやな……今日はついに、ついに伊織が泊まりに来る土曜日や。
ははっ……はははっ。そうや、今日、俺、卒業式。男になんねん。いや漢になんねん。どっちでもええけど。ああ、伊織、はよ来んかな。今日は練習の見学に来てくれるって、言うとったはずなんやけど……。

「どんな心境の変化だ? アーン?」
「跡部、誰にも言うたあかんで? 俺とお前の秘密やで?」
「なんだよ、気持ち悪りいな……」お前、こないだからそれしか言わへんな。腹立つヤツやわ。ちょっと自分は男やからって。いや漢やからって。どっちでもええけど。
「今日な、今日……」ああ、あかん、嬉しくてニヤける。「伊織がうちに泊まりに来んねん!」
「ええっ!?」

驚きの声をあげたのは、跡部やない。近くにおった岳人やった。はっとする。秘密やって言うたの俺やのに……。

「バカでけえ声だしやがって。ここいらにまる聞こえじゃねえか」跡部は呆れたんか、目を棒にした。
「侑士! その話マジかよ!」

案の定、岳人が俺に向かってきた。周りの連中もニヤニヤこっちを見とる。ちょ、ちょお見んでやあ、恥ずかしい。そら今日、俺は男になるけどもやな。いや漢に。え? あんなかわいい彼女を抱くんかって? そうやあ! 言いふらしてもええでっ!

「そやねん岳人。あー、跡部にしか聞かせるつもりなかったんにー!」つい、声が大きくなってしもた。いや別に? 自慢したいとか? そういうんちゃうけど。
「やったな侑士っ! オレが託したゴムが、ついに役に立つときが来たってか! マジでテンションあがんじゃんそれ!」だからかー、最近、お前どうかしてたもんな! と、余計なことまで付け加えて、岳人は祝福してくれた。
「ああ、あれな……ん、おおきにな岳人」

言うて、ゴムはちゃんと最新式のやつを購入しといたけども……。古いの使って、なんかあったら、怖いしな。あとあれノーマルサイズやから、ちょっとキツそうやねん。はははっ。俺って、そんなとこばっかり大人になっとるからさあ。

「ふん、初体験くらいで浮かれた野郎どもだな」

跡部がしれっと嫌味を言う。そんな言い方せんでもええのに、ヤリチンが……とは思うけど、俺はご機嫌やからなんもムカつかんかった。けど、俺のとなりにおる岳人は、違ったみたいやった。

「うるせー跡部! お前はヤリチンすぎんだよっ」うわっ、めっちゃ直球なげるやん。岳人は昔から、跡部のモテモテ具合に嫉妬しとる。
「下品なことを言ってんじゃねえ向日。女に振られたばかりで気が立ってやがんのか?」

うわ……それも直球すぎへんか。岳人はええ男やのに、なんでやかあんまり、恋愛がうまくいかへん。それでもすでに済ましとるんやからたいしたモンやで?
せやけど……いつも元気な岳人は、最近、情緒不安定や。いやそんなん、俺に言われたないやろってツッコミはちょっと置いといてくれます?
実は岳人、跡部曰く、ついこのあいだ好きな子に振られたばっかりらしい。かわいそうに。しかも、その子、跡部のことが好きらしいでな……んん、雲行き怪しいでこれは。

「おい跡部、なんだよ、やけに突っかかってくんじゃねえかよ」
「アーン? 突っかかってきたのはてめえだろうが。モテないからと僻むな」

とはいえ、俺にとってはどうでもええ二人の言い合いを聞いとったら、遠くのほうに伊織が見えた。俺を見つけた伊織の顔がぱっとあかるくなって、手を振ってくる。ああああああっ、私服やっ。ほんで俺見て嬉しそうにしとるっ! めっちゃかわいい!

「はあ!? 悪いけどオレ、侑士よりモテってから!」

岳人、ちょっとうるさいで。お上品にしてや。一応お前、俺のダブルスパートナーなんやから。相方がそんなんやったら俺まで下品やと思われるやろ? あとな、女に振られた時点で俺のほうが上や! ボケが! 俺は振られたことないからな! あ、伊織の小走り、めっちゃきゅんきゅんする。はあ、岳人には悪いけど、俺めっちゃ幸せ。

「忍足は童貞をこじらせて断ってきただけで、お前よりモテないわけじゃねえぞ」
「くそくそつ! 核心ついてきてんじゃねえよ! だけどなー跡部、オレ、お前よりマシだから。オレは女に真面目! お前はヤリチン!」

跡部の余計すぎる言葉と岳人のようわからん挑発にそろそろツッコむか、と思ったときやった。伊織のうしろに、ぶすっとした顔でついてきとる影が見えた。前もそうやった。前もこういう感じで俺は、タクミを見つけて、「なんで来てんねん!」ってイライラしたんやけど、今日はちょっと、そういう意味とは違う、「なんで来てんねん……」のほうやった。

「はっ、くだらねえな。なにを根拠にそんなこと言いやがる」
「お前なんか女とつづかねえじゃん。どうせヤリたいだけで付き合ってっからダメになんだろ? だからお前はヤリチンだっつってんの。ちょっと顔がいいからってとっかえひっかえしやがって」岳人、八つ当たりもほどほどにしいや、言い過ぎや。ちゅうかその話題、いまあかん。
「アーン? ……下品なことを言うなと言っているのが聞こえないのか。俺は、いつも女には本気だ!」
「ちょ、跡部……お前、ちょっと声、落としたほうがええで」なにをムキになってんねんっ。
「お前さ、本気とかいうけど1ヶ月や2ヶ月で終わらせたりしといてなにが本気なわけ? オレのほうがよっぽど女に優しいだろっ」
「わかってねえな。男と女にはいろいろある。お前みてえなおままごとの付き合いじゃねえんだよこっちは」
「跡部って!」俺は焦って声をあげた。そんなん好きな子に聞かれたら、嫌やろ!?
「誰がおままごとだよ! お前にオレの恋愛のなにがわかんだよ! このヤリチン!」
「岳人もやめやっ!」
「ンだよ侑士っ!」
「止めるな忍足! いいか向日、その汚い口をいますぐ閉じろ。俺が何人の女と寝てようがお前にとやかく言われる筋合いは」
「ヤリチン!」
「貴様!」

もうすっかり近くまできて、その会話に唖然としとった伊織の横から、にょっきと手が伸びる。ガゴン! と大きな音をさせてネットフェンスを揺らしたその女の声は、しっかり俺たちの耳に届いた。

「その意見、さんせーい!」
「あれ、吉井じゃん」くるっと、岳人が跡部から離れて、吉井のところへ向かっていった。跡部の悪口を言うためなんか、意気揚々としとる。
「あたしもそう思うよー向日ー。跡部はヤリチン」
「だろ! もっと言ってやってくれ!」
「跡部はヤリチーン!」
「ちょっと千夏、やめなよっ」

待って待って伊織、ちょっと待って。なんで? なんで連れてきたん?

「……忍足、あれはどういうことだ」ほら、こうなるやんかっ!
「お、俺はなんも……知らんかった、で……」ギロッと跡部が睨んでくる。「ほん、ホンマにっ!」
「いいか……佐久間に聞いておけ。わかったな?」おそらく、吉井に想いがバレることを、こいつはめちゃめちゃ恐れとる。
「わ、わかった。ああ、せやけどなんで、連れてきたんやろ、伊織……」
「こっちが聞きてえよ……この、バカップルが!」

跡部の憤慨は、正直、見慣れとるけど……あんな動揺やら困惑やらをまぜこんだ跡部は、見たことがなかった。





どうやら、伊織が吉井を連れてきたわけやないらしいとわかったのは、その日の夕方やった。

「え、じゃあ伊織が呼んだわけやなかったんや?」
「そりゃそうやんっ……わたし、そんなおせっかいじゃないよ……」

跡部くんに変な誤解されちゃったかな……と、気にしとる。大丈夫や、その誤解なら俺が解いとくで。せやけど、それやったら引っかかるなあ?

「それにしても侑士、手際ええね?」ジュウジュウ焼かれる鮭に、伊織が目をキラキラさせた。
「おうホンマ? なんやあ、伊織。寂しいん?」
「えっ」

あれから跡部がずっとピリピリしとったで、部活は妙な空気のまま進んで、妙な空気のまま終わった。ついでに岳人が跡部にボコボコにされとったけど(もちろんテニスで)、もうあんなん自業自得や……吉井がおらんかっても一緒やったやろ。俺も、助け舟はださんかった。

「さっきから、ちょこちょこ覗いてくるでな?」
「そ、ちょっぴり……ね。侑士の近くにおりたいなって……」

部活後は伊織とふたりで買い物して、マンションに帰って、仲よくふたりでキッチンに立った。伊織は副菜担当で、ズッキーニとベーコンの炒めものにコールスローをつくってくれたんやけど、それこそめっちゃ手際がよくて、伊織の調理はすぐに終わった。
俺は主食担当で、伊織リクエストのクリームパスタをつくっとるとこなんやけど、ソファで待つように伝えたのに、さっきからずっとキッチンでちょっかいかけてくる……新婚さんみたいやん。はああああ、俺の近くにおりたいとか、もう、もう。

「かわいい、伊織、めっちゃかわいい。チュウして?」
「え、も……鮭、焦げちゃうやん」
「ん? そんな長いことしてくれるん?」
「もう、違うってば……ん!」背伸びして、唇がぶつかる。はあ、たまらん。
「くくっ。短いやーん。ケチやなあ?」
「鮭が焦げちゃうからっ」

とまあ、こうしてちょいちょいイチャイチャはさみつつ、俺は今日のことを伊織に話した。案の定、伊織もとっくに気づいとったみたいで、「やっぱり跡部くんと千夏って、想いあってるってことやんね……?」と返された。想いあっとるんやろうけど複雑な状況を俺が説明すると、「ロミオとジュリエットやんっ!」と目を輝かせて、いまに至る。女の子はこういう話、弱いんやろなあ。俺も弱いけど。

「せやけどさあ」伊織のかわいいチュウに満足しつつ、話を戻してみる。さっきからこのくり返しや。「ほななんで、吉井は来たんや?」
「ああ、うん、それだけどね」うーん、と首をかしげながら、伊織がパスタを準備しはじめた。気が利くわあ。「わたしと侑士のことが気になるから行くって、千夏から言ってきたんよ」
「え?」

――忍足と伊織がうまくいってくれないと、あたしがスッキリしないから!

どうやら、伊織は俺と仲直りしたあとに吉井にいろいろ話したらしい。すっかり元通り、ちゅうかそれ以上の関係になっとることはわかりきっとるやろうに、ちゃんと自分の目でたしかめたかったっちゅうこと? うーん、釈然とせんなあ?

「いやいや、それは言い訳やろ」
「うーん、そうなんかなあ……」
「そら、ホンマは跡部に会いたかっただけちゃう? 実際、確認のためやったとして、別に平日でええやん」わざわざ土曜の部活に来てたしかめる必要なんか、あらへんし。
「あ、でも、それは……」
「ん?」

きゅ、と伊織は口をつぐんだ。鮭をひっくり返しつつ、どうしたんやろと思って待ってみても、伊織は黙ったままやった。

「伊織?」
「あ、うん……あ、千夏にはその、いろいろ、本当にいろいろ、話しちゃってたから、かも、なあ、とか……うん」

ドキ、と胸が波打った。それって……と、俺の想像がふくらんでいく。
つまり今日のお泊まりを吉井にも話しとって、せやから吉井はわざわざ俺と伊織の様子を見に来たってこと? なんでそこまでして俺らを応援したいんか、それもようわからんけど、なによりめっちゃドキドキすんのは、伊織がそれを吉井に話しとるってことや。
それってめっちゃガールズトークやん? つまりそれって、めっちゃ楽しみにしてくれてるってことやん、ちゅうことはそれって、今後の展開、伊織も、「恥ずかしい」とか「怖い」とかよりも、「侑士とエッチしたい!」が強いってことやんな!?

「ご、ご飯はよ食べて、あっちのソファでくつろごか」
「え?」
「ほら、あー、こういう話って、なんとなくソファで食後にしっかりしたほうがええかなとか」嘘や。跡部のこととか、今日ばっかりはどうでもええけど、とにかくムードあげたいねん。
「あ、そうやんね、アイスも買ったもんね!」
「ん、アイス食べながら、ゆっくりな?」

めっちゃしたい、もう待てへん、テーブルで隠れとるからええけど……もう俺は、すでに限界やった。

夕食中は、試験の結果がどうやったとか、最近の学校生活でこんなことがあったとか、お互いがなんてことない話をしながら、1時間後には終わった。
ソファでテレビを観つつ、アイスを食べつつ、それを紅茶で流しつつ、俺はもうずっと限界がきとったから、いつのまにか、伊織の肩に手を回しとった。

「けど、ふたりには協力したいね。あのままいがみあっとっても意味ないやんね?」
「ん……せやな」

さっきからずっとベタベタしとるから慣れてきたんか、そんな俺の内面に気づくこともなく、伊織は相変わらず、跡部と吉井のことを気にかけとった。いろんな話をしたけど、結局、落ち着くところはそこやった。はあ、めっちゃ焦らしてくるやん。それも吉井からの手ほどきか? まあでも食事が終わってすぐに誘うとか、紳士やないから俺も我慢しとるけどさ。もうさっきからずっと爆発しそうや。

「侑士……なんかうわの空やね?」
「ん? そんなことないで。俺も跡部と吉井がうまくいったらええなって思っとるよ」それよりも先に、伊織とエッチしたいんやけどな……。
「そうやんね……うん、いまになってわかる。侑士がいろいろ千夏のこと聞いてきたん、それやったんやね?」

伊織がなぜか、突然テレビを消した。え、と思って顎を引くと、正面を向いてテレビを見とった伊織の体が、そのまま俺に向けられる。
真剣な面持ちで、じっと俺を見つめる伊織の瞳がビー玉みたいに綺麗で、吸いこまれそうや……。

「どないしたん、伊織」
「うん……こないだのこと、わたし、ちゃんと謝れてなかったなって……」
「え」
「いろいろ、勝手な誤解して、ごめんね侑士」

ゆるゆると、首に手が回ってきた。俺の鎖骨に、伊織の顔が埋められる。じんわりと、胸が熱くなった。そういや伊織、俺のことめっちゃ誤解しとった。それこそ跡部みたいに、ヤリチンやって思いこんでたんやっけ……。

「いや、俺が変な誤解させたよな? ええんよ伊織、俺が吉井のこと根掘り葉掘り聞いたで、不安になったんやろ?」ヤリチンやから、吉井にも興味あるんちゃうか、とか思われたんやろう、たぶん。あの女、たしかにセクシーやからな。
「ううん。侑士がわたしのこと好きやって言ってくれとるのに、それもやけど、これまでのことも、ずっと誤解して、決めつけとったくせに、わたし、おかしなこと言って、怒っちゃったし……ちょっと、無視もしすぎたし」

感動でめまいがしそうやった。あれはあの日にもう終わったことで、俺は伊織にキスできたからもう、どうでもよかったんやけど……伊織、ひょっとして吉井に話して、いろいろ反省したんやろか。それとも、自分で思い返して、ずいぶん棚上げしたと思ったんやろか。
ああ、もうなんでもええ。そもそも俺が伊織のキスを受け入れんかったのが悪かったんや。伊織を傷つけたのは俺やのに。無視しとったのも、それほどショックを与えたってことやんな? それを、こんなふうに素直に謝ってくれるとか、めっちゃかわいい。めっちゃ惚れなおす。ああもう、やっぱり伊織って最高や。
もう絶対に、あんな過ちはおかさん。伊織が誰よりも好きなんや、カッコ悪くたってええんや、そうや……それ教えてくれたんも、吉井やったな、そういえば。

「なあ、伊織……」
「うん?」

鎖骨に埋まったままの伊織が、頭を揺らすようにして、返事をする。猫さんみたい。かわいい。めっちゃニャアニャア鳴かせたなる。いまよりもっと、かわいくて、甘い声で。

「俺が悪かったんや。ごめんな? せやからさ、そろそろ、仲直り、しようや」
「え……?」なにを言うとるんやと思ったんやろう、ゆっくりと鎖骨から頭を離して、俺を見つめる。大成功や。その顔、ちゃんと見て伝えたかったから。「仲直り、したよ?」

きょとんとした顔がかわいかった。その頬を、静かに包んだ。ホンマやったら、余裕ぶっこいて微笑みたかった。けど、俺の心臓があのときみたいにバクバク音を立ててうなりはじめて、緊張で体がこわばっとる。それはそのまま、表情にも伝わった。

「侑士、どしたん?」
「そうやなくて、こないだ、つづきしよって、言うたから……」

わかるやろ? と、触れる程度にキスすると、伊織は思いだしたかのように「あっ」と声をあげた。抱きしめとるやわらかい伊織の体も、一気にこわばっていく。焦るように、伊織はうつむいた。ん、ちょっと待って? なんでうつむくん? 首、垂れさがりすぎちゃう?

「そ、そうやんね……」
「伊織……?」

俺の胸のなかやっちゅうのに……めちゃくちゃ気まずそうな、不穏な伊織の表情にゾッとする。
ひょっとして、いきなり気が変わったんちゃうやろかと不安になる。ここまできて、エッチなし、とか地獄やねんけど……ああでも、女の子って難しいんやって、前に謙也が言うてた気がする。「がっついてもあかん、がっつかんでもあかんって、どないしたらええねん!」って、ブチギレとったのを思いだした。なにしたんやあいつ……。

「いや、あの……ごめん」
「えっ」

嘘やんっ、と思わず声がもれそうやった。
ごめんって、いま、断ってきた!? そんなんないやん! あかんやんそんなん、ひどいやん! と心のなかで叫んでみるものの、せやけどこんなことで強引にがっついて、謙也みたいにブチギレたら絶対に嫌われる。もしかしたら生理とかになったんかもしれんし、女の子は難しいんや、そうや。
俺は頭をフル回転させた。

「あっ……その、やっぱりちょっと早いとか、不安になったんやったら、ええねんで?」

ええわけあるかっ。嫌や。絶対に今日エッチしたい! せやけど、嫌われたない! それやったらこういうときは、優しくこういうこと言わなあかんやろっ。
ああ、せやけど抱きたい、抱かせて。伊織とエッチしたい。俺、大好きな伊織に包まれて男になりたいねん、いや漢に。どっちでもええけどっ。

「あ、ううん。そうやない、そうやなくて……」

せやったら、なんでそんな、いまにも断ります、みたいな雰囲気だしてくるん……。ちゅうか、ごめんってなに!? やっぱり生理なん!? タイミング悪すぎるって……!
ああ神様……頼むわ、なんでもします、ええこになります。悪いことした覚えあんまりないけど、もう悪いことせんからっ!

「ごめん侑士……」
「伊織……」

嘘やろ……マジか。
目の前が真っ暗になっていく。やっぱり生理になったんやろか。ああ、俺がこんなに神様に頼んでんのに? いますぐ生理、終わらせてくれへんの? と、落胆も落胆、心が凍りついて、ボッキボキに折れそうになったときやった。

「すごい、緊張しちゃって……ごめん、うまく、できるかわかんないから、侑士、つまんないかもって……」
「……へ?」

きゅっと、俺の小指がにぎられる。真っ赤な顔して、伊織がまたうつむいた。うまく、できるか、わかんない……? いや、それは、男のセリフやろ……え、な、なにしてくれる気なんっ……。

「はじめてやし、いっぱい、勉強してきたけど……相手が侑士やって思うと、もう、さっきからわたしずっと、ドキドキが、止まらんのよ……」

テンションガタ落ちやった俺の心臓が、ギューン! と音を立てた。たぶん、俺にしか、聞こえてへん。一瞬、死ぬんちゃうかと思った。もう、こんな萌えあるかっちゅうくらい、体が震えそうになる。もちろん同時に、俺の俺もギューン! と上向きになった。バレんように、足を組んで挟んだけど。

「伊織、大丈夫や、俺もはじめてやし、な?」
「う、うん……」
「なあ……お風呂、先に入る?」

こくん、と伊織はうなずいた。はあああああ、もう、ドキドキさせんとってやあ! めっちゃかわいいっ。むしゃぶりつきたいっ。もう風呂とかええから襲いかかりたい!
ああ、あかんあかん、冷静にならな。そうや……がっついてもあかん。けど、リードもせなあかん。童貞の男はいろいろと忙しい。
前言撤回……こんなかわいい天使みたいな伊織に、やっぱりカッコ悪いところは見せられへん。とはいえ、どんな顔しとったかわからんけど……俺は伊織をゆっくり立たせて、風呂場に案内した。





to be continued...

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