ビューティフル_13


13.


全体的に青みがかった室内だった。録音データを聞き終わったマル暴と、もうひとりの警察官がなにも言わずに席を立ち、すぐに電話をかけはじめる。

「野瀬島克也と九十九静雄の逮捕状をお願いします。そうです、九十九はアスピア商事の……ええ、はい。九十九に関してはもうひとつ重要な証拠が。ええ、それは鑑識に回しますが、まず間違いありません。跡部景吾さんからの提供です」

あの日のウイスキーグラスとその中身を持ち上げながら、もうひとりの警察官は部屋を出ていった。これから鑑識に持っていくということだ。だが俺を信頼してくれているのか、裁判が行われるまでは『容疑者』だからなのか、とりあえずは録音データの証拠だけで動きはじめてくれるらしい。

「景吾……体は、大丈夫だったの?」

その様子を黙って見ていた伊織が、小声で俺に聞いてきた。ハンカチを目尻に当てている。今回こそ俺はこらえたが、伊織にしてみれば、何度聞いても涙から切り離すことはできない内容だ。おそらく事件解決のあと、母親と聞くことにもなるだろう。
守ってやりたいと、改めて思わされる。濡れている頬を、そっと指でぬぐってやった。

「彼に話したとおりだ」と、俺は視線だけでマル暴を見た。「1時間ほど唇が痺れていたが、いまはもうなんともねえよ」
「……はあ。もう、危ない真似はしないでよ」切ない瞳に愛を感じて、俺は静かに微笑んだ。
「わかってる。あのときはまだ、確信がなかったからな」
「飲んで、ないんだよね?」
「ああ、安心していい」

電話が終わってすぐ、マル暴が俺を鋭い目で見てきた。不二たちから紹介されたときは穏やかな表情をしていたが、これから逮捕に出動するせいか、全身から尋常じゃないほどの殺気を放っていた。

「跡部さん、佐久間さん。重要なものを、ありがとうございました。お父さまのスマホはお返しできますが、数日、預からせてください。データコピーなどさせていただきます。そして、これから野瀬島逮捕に動きます。おふたりはここから寄り道せずにお帰りになり、連絡をお待ちください。いいですね?」

妙な言い回しのなかに、はっきりとした意図が読みとれる。つまり、野瀬島をどれだけ恨んでいようと、余計な真似はするな、ということだ。
俺の背景にあるものを知っているからこそだろう。俺は淡々と頷いた。

「わかりました。伊織、行くぞ」

まだ目が潤んでいる伊織を立たせて、俺も同時に席を立った。出ていく直前にマル暴に振り返ると、見逃さないと言わんばかりの眼光が、まだ俺の背中に刺さっている。おいおい、マジで誰が容疑者か、わかったもんじゃねえな。

「ひとつ、聞いてもいいですか」マル暴に問いかけると、その眼光のまま、彼は頷いた。
「なんでしょうか」
「あなたはなぜ10年前、佐久間さんの解剖を、遺族に勧めたんですか?」
「え?」
「警察のなかでもあなただけが、上司の意見を無視して動いていたと彼女から聞いた。なぜです?」
「あ、それ、わたしも気になってました」はっとしたように目を見開いて、伊織がつづけた。「要するに、不審な点があったってことですよね?」

マル暴の眼光の色が、若干、躊躇いを見せる。伊織もそれに気づいたのか、マル暴に一歩、近づいた。

「あの、わたし、もうなにを聞いても大丈夫です」

伊織の、懇願ともとれるその声に、ふっとマル暴は大きな息を吐いた。聞くまで帰りそうにないと思ったからだろう。それに、これから逮捕に動くなら、この男には時間がない。

「……新人だったからこそですが。見たことのない、現場死体だったからです」
「え?」
「……佐久間さんは、わずかに微笑んでおいででした」

その言葉に、伊織の息をのむ音が聞こえた。喉にあがってくる嗚咽を、こらえている。

「病院で、ご家族に見守られて亡くなった方のような、穏やかなお顔でした。そんな状態で死後硬直しているなんて……急死だと、思えなかったんです」

このマル暴は、かなり仕事ができる男だ。





「うちの父、最後、なに言ってたんだろう」

警視庁の廊下を歩きながら、伊織がぽつりとつぶやく。涙に濡れたまつ毛が乾きそうになったころに、また涙がよみがえってくる。そんなことをくり返しながら、伊織は無理に笑おうとしていた。

「……そうだな」

最後は笑っていたということなら、苦しみながらも、幸せな思い出を頭のなかでめぐらせていたのかもしれない。あの音声を聞けば、もっと家族に残された言葉があったことは想像に容易かった。スマホの電源さえ、切れていなければ……。
俺なんか放っておいて、先に家族宛てのメッセージを入れりゃよかったってのに……だが、佐久間さんは責任感の強い人だった。考えれば考えるほど、惜しい人を亡くした。あんな卑しいヤツらのせいで……そのことに、静かな怒りが込みあげてきた。

「ねえ、景吾」
「ん?」
「わたし……このまま待ってるなんて、もどかしい」

伊織は俺のシャツを、うしろからぎゅっとつかんできた。マル暴が懸念していたのは、こういうことだったはずだ。
これほどまでに恨んでいる男の逮捕をただ待つというのは、10年という時が流れているからこそ、伊織には耐え難い……だがそれは、俺も同じ気持ちだった。

「せめて、見てやりたい。画面越しなんかじゃなくて、目の前で」伊織の目は、真剣だった。
「……伊織、わかってんだろ? さっき」
「わかってる。だけど……っ」

言葉を詰まらせた伊織の頬に、また涙が流れていく。マル暴が言っていた意味がわからないわけじゃないだろう。彼は忠告してきた。俺なら、いま野瀬島がどこにいるか知る手筈が整いそうだと予感していたからに違いない。
つまり裏を返せば……その猶予が、俺たちには残されているということだ。

「伊織……俺は、昔から超がつく優等生だ」
「な……でしょうね! もう、いまそんなこと言わなくたって」わかってるよ、わがままだって。と、ふてくされている。かわいい顔するじゃねえの。どこまで俺を言いなりにする気だ?
「……だがときどき、ハメをはずしたくなるときもあるんだよ。こんな俺でもな」愛する女のためなら、なおさらだ。
「え……」
「逮捕を待つだけの弔い合戦なんて、つまらねえよな?」

伊織の目がまるくなるのを見届けてから、俺は財閥特別調査員に電話をかけた。

連絡が入ったのは、それから1時間後のことだった。野瀬島は都内のレストランで食事を終え、現在は帰宅中と予測されるらしい。

「野瀬島が自宅に戻ったら、また知らせてくれるか」
「承知いたしました」

どうやらまだ警察は動いてないようだ。逮捕状に時間がかかってるのか? まあ、九十九静雄までセットだと、そうなる可能性は高い。あいつはなんだかんだ、大手商社のCEOだ。もっと上の連中にあの音声を聞かせつつも、九十九本人だと確証が得られるまでは動かないだろう。
だが野瀬島の逮捕は時間の問題だ。先に警察が到着している場合もある。そして、マスコミ……あいつらはどういう連絡網があるのか知らねえが、逮捕前に現場到着していることが、ままある。ワイドショーですっかり馴染みの顔になった俺と伊織に関連する事件だと知れば、必ず群がってくるはずだ。その混沌に巻き込まれることだけは、避けたい。
車のなかで、俺たちはただ時間が過ぎるのを待った。メッセージが入ってきたのは、10分後のことだった。調査員からだ。

「伊織、出発するぞ」
「うん……」
「大丈夫か? いまなら引き返せるぞ?」

頭をなでると、伊織の大きな瞳が、俺を射抜いた。とくになにをしよう、というわけじゃないが……これから殺人犯に会いに行くことに、危険を感じないはずはない。
だが伊織の目には、躊躇いの色は見られなかった。

「景吾がいるから、大丈夫」
「……ああ、お前は、俺のうしろにいろ。それだけは約束してくれ」
「うん、わかった」

車を発進させた。目的地は当然、野瀬島克也の自宅マンションだ。





到着すると、調査員がマンション前で待っていた。持参してきたんだろう鍵でエントランスのロックを解除し、俺に部屋番号を伝えてくる。俺は黙って頷いたあと、「もう帰っていいぞ」とだけ、告げた。

「あの人……昨日の人だよね」あの、千夏さんのときの……と、エレベーターに入った途端、伊織は小声で聞いてきた。
「ああ、そうだ」
「ね……どうやって、このマンションの鍵とか、部屋とか……」引いてやがる。まあ、無理もねえか。
「さあな。詳しいことは知らねえが、俺の幼少期から、あいつは財閥にずっといる」
「え……」
「忍者みてえな男だ。細かいことは聞くなと、じいさんから言われている」
「……やっぱり財閥って、なんか怖いね?」
「アーン? うちは優良だぜ? まさか、結婚するのが嫌になったとか言いださねえよな?」
「それは、ないけど……」

けど……が気になるが、そのころにはエレベーターは目的の階に到着していた。調査員からわたされていた手袋を伊織に預けると、「え」という固まった声が聞こえてきた。
まるでこれから殺人のために動くような準備のよさに、また、引いてるってとこか。

「俺たちは勢いでここまで来た。おそらく室内に入るが、物証になるかもしれないものを汚染するわけにはいかねえからな。なにか触るときは、必ずその手袋をしろ。いいな?」
「景吾って……こういうことよくするの?」
「するわけねえだろ、バカが」

だが、帰りはどうなっているかわからない。マンション廊下の窓から見える日の光は、まだあかるかった。
目をあげて、部屋番号を仰いだ。ハンカチを挟んだ指先でチャイムを押すと、「はい?」とぶっきらぼうなあの声が、すぐに聞こえてくる。帰宅したてで、近くにいやがったか。

「どなたです?」
「野瀬島さん。跡部景吾です。開けてもらえますか」

伊織を背中に隠すのと同時に、玄関の扉が開けられた。その目の前に出てきた顔に、胸の内側を蹴りあげられたような怒りが突然に沸きおこってくる。ついさっきまで悲鳴をあげていた心臓が、「こいつだ!」と訴えかけるように激しい動悸を打ちはじめた。

「跡部さん、どうされたんです。どうやって……おや、あなたは」
「野瀬島さん、彼女に興味がおありだったでしょう。ですから、連れてきました」
「はははっ……いやあ、まいりましたね。自宅まで来られるとは。跡部さんは、面白い方だなあ」

広い玄関のおかげで、俺たちはあっさりと室内に入ることができた。カチャ、というオートロックの音がする。なるほどね。これは俺らにとっても都合がいい。

「あがりますか? 仲よくお茶って感じの雰囲気ではなさそうですがね? ご用件はなんです? 佐久間伊織さん? ああ、あなたのご活躍を、この2週間じっくり見ていましたよお? 本当にお綺麗な方ですねえ」

言いながら、野瀬島の視線が伊織を舐め回すように見ている。伊織の手が、俺の腕に触れた。その震えがわずかに伝わってくる。忌まわしい存在に触れたくないとでもいうかのように、腕にすがり直した。伊織の手をそっと握ったまま、俺はゆっくりと告げた。

「あんたはもう終わりだと、言いに来ただけだ」
「はい?」
「聞こえなかったのか? お前にもう逃げ道はない、野瀬島」

野瀬島が笑い声を立てた。実際、楽しそうだった。

「どうしたんです跡部さん。会社をクビになってヤケでも起こしているんですか?」
「てめえの面の下の顔を気にする余裕はねえよ。お前が佐久間さんを手にかけたことも、もうわかってる」
「おっと、佐久間さんとは? 彼女のお父さんのことでしょうか? そういえば記者会見でおっしゃってましたよねえ。遺族だと。で? 彼女のお父上に、私が手をかけたって、いったい、どういうことですか? 想像力が素晴らしいですね。跡部財閥の御曹司ともなると、暇を持て余しているんでしょうか。妄想が肥大で、実に滑稽だ」
「あなた来ましたよね、うちに。10年前。跡部景吾がうちの父をいたぶっていたと、わたしと母に、わざわざ言いに来たでしょう?」

たまらず飛びだしたような伊織の声は、あまりに自信に満ちていた。てっきり怯えてるのかと思ったが、どうやらさっきから伝わってくる震えは、俺と同じく、怒りのようだ。

「なんのことでしょうか。人違いでは? 10年前の記憶って曖昧でしょう? 自分の都合のいいように塗り替えられるものなんですよ? お嬢さんはまだお若いから、ご存知ないかもしれないから教えてあげましょう」

人の神経を逆なでさせることに、快感を覚えていやがる。それが深刻な劣等感からくるものだと、自分では気づいていない。
誰が、滑稽だと? このバカが……無様にもほどがあるな。

「なにごとも、証拠というのが必要なんですよ? 記憶や意見だけじゃね、捕まえることはできない。跡部さんは、それくらいご存知ですよねえ?」
「そうやって、失点を少しでもいいから取り戻そうとしてきた人生だったんだろうな、お前は」
「はい?」
「無戸籍児と知って自分を憐れんだか? その復讐でヤケを起こして腹違いの兄弟を手にかけたのは、てめえのほうだろ」
「……なにを」

怯みやがった。そうだろうな。無戸籍児だったという過去は、お前から消えやしない。だが、お前がいちばん消したい過去のはずだ。

「卑しいヤツだな、野瀬島。引き際も知らない。だがそれももう、終わりだ。お前は必ず死刑になる。九十九の息子に、バイト先のリーダー、そして佐久間さん。俺が知っているだけでも3人。だが余罪はまだまだあるだろ?」
「は……はっはっはっはっはっ。ああ、話がつうじない人ですね。あなたはもっと賢い方だと思っていたんですが……まだまだ若造なんだな」言いながら、野瀬島がリビングに進んでいく。「ああ、どうぞあがってください?」

その様子に、開き直ったとわかる。本来なら土足で踏み込みたかったところだが、俺たちも靴を脱いで入った。広いが、趣味の悪い成金主義のリビングが俺たちを出迎える。そのあいだも、伊織はずっと俺の腕に触れていた。
それでいい、伊織。俺から離れるな。なにをしてくるかわかったもんじゃねえ。こいつは、人を殺すことになにも感じない野郎だからな。

「では仮に」と、野瀬島がジャケットを脱ぎながら首を回した。「たとえば跡部さんの言うとおりだったとしましょう。裁判って時間がかかるんですよ知ってましたか? おおよそ10年? いや、事件自体が古いからなあ。3人以上も殺めていれば、20年は要するかもしれないですね。私はそのあいだ、みなさんの税金で生きつづけるわけです。そうだ、ブログが書けますね。死刑囚が本をだす世のなかです。私はもともとプロのブロガーですから、世間は注目するでしょうねえ。クレバーな殺人犯ですから。それでひと稼ぎできる。まあそんな未来は起こりようがないですが」
「はあ? あんたなに言って……!」
「あああああ、また無知なお嬢さんの登場ですか! あなたのお父さんの死因は過労による急性心不全でしょう。それをお認めになったのは、あなたたちご遺族なんじゃないんですか? 違いますか?」

野瀬島は埋もれた肉からぎょろぎょろとした目を向け、伊織を威嚇した。伊織の手が、また震えだす。

「……それは、あんたが!」
「伊織、挑発にのるな」小さく頷いて、伊織は口をつぐんだ。その唇までも、震えている。
「私がなんです? 私は10年前のことなど知らない。ですが、仮に! あなたが言ったとおり、私がなにか吹きこんだのだとしましょう。しかしですよ? 解剖もせずに、ただ一緒に働いていたという初対面の男の言うことを信じ過労だと決めつけ、こないだまで跡部さんを恨んで生きておられたのは、あなたなんでしょう? それは誰の選択です? あなたの選択だ。あなたがそう決断したからですよ! 人のせいするのは楽でしょうねえ。あなたのお父さんがどういう死に方をしたのかなんて、私にはどうだっていい。でもあなたたち遺族は、それを知る方法を、自ら手放した。あなた自身が、お父さんを葬ったも同然じゃありませんか!」
「いい加減にして!」

我慢できなかったんだろう、伊織は悲鳴に近い声をあげた。腕をあげて、額の汗を拭っている。すでに全身が震えはじめていた。呼吸をしても酸素が体に入っていかないのか、肩が大きく揺れている。俺は伊織を背中に隠すようにして、一歩、前へ出た。
この女を、俺が一生守ると決めた。彼女が傷つけられるのを黙って見過ごせはしない。そして同時に、佐久間さんの娘と、本人の死を侮辱した野瀬島に、俺も我慢の限界がきていた。

「貴様は本当に、浅はかで幼稚な人間だな? それも無戸籍だからと言い訳するつもりか?」
「……なに?」

石のような目が、こちらに投げかけられる。
過去の嫌な記憶を刺激されることには慣れちゃいねえ。当然だよな。ずっと過去をひた隠しにして生きてきたんだろう。自分自身から目を背けてきた劣等感の塊。それが、お前だ。

「てめえは不二のレストランを批評する前から、いろんなことをほざいてやがったな。偉そうに、わかったようなことをさんざん書き込んで、不二だけじゃない、ほかの店も廃業に追いやってるそうじゃねえか」
「廃業こそ、彼らの勝手な選択ですよ。私に逆恨みされたんじゃたまらない」
「お前、いまも言っていたな。世間が注目すると。クレバーな殺人犯だと。笑わせやがる。お前は自分のことがなにもわかっちゃいない。いまは戸籍を手に入れたらしいが、根性は無戸籍のままなんだな? いいか、お前のことなど、誰も興味ねえよ。死んでも気づかれない、ハエみたいなもんだ」

野瀬島が、はじめて黙りこんだ。

「こっちこそ教えてやろうか野瀬島。お前に俺が名前をつけてやるよ」
「……」石のような目に、火がともった。
「貴様はクレバーな殺人犯なんかじゃない。人間のクズだ。ケチで、浅はかで、幼稚で、卑しく、忌々しい。ただの人殺しだ」
「は、はは……浅はかで、幼稚だと?」
「違うとでも言うのか? いい歳してパパとママに認めてほしくて、ダダをこねたバカまるだしのクソガキだろ、てめえは」

野瀬島の唇がわなわなと震えだす。さっきまで怒っているようにさえ見えなかった男の顔に血がいきわたり、赤くなっていく。生前、佐久間さんもこの顔を見ていたはずだ。この男の邪魔になれば消されると、この姿を目の当たりにした瞬間に理解しただろうことが、安易に読みとれた。
それほど、野瀬島の殺気は強かった。直後、無残に口をひん曲げて、笑っているのか怒鳴っているのかわからないような声を張り上げた。

「お坊ちゃんが調子に乗りやがって!」

野瀬島の口から、つばが吹きだした。その汚らしい液体が、俺のシャツに降りかかる。

「俺がそんなくだらない理由で動いたと思うなよ! お前こそ浅はかで幼稚だろう! 金持ちだからとなんでも手に入れたような気になって、建設だの、商社だのとわかったような顔をして、結局お前はなにもできていない! お前の責任下にあった建設現場で、監督が殺されている! 今回だってどうだ!? 身近な女にまで騙されて、歴史ある財閥も失墜しかけたな! 全部お前のせいだろう! 親がいないとなにもできない、自分の力じゃなにもだ! 親の七光りでしか注目されない小僧のくせに! お坊ちゃんよ! 言い返すことができるか! できないだろ!」

俺は、お前みたいなボンクラじゃないぞ! と、野瀬島はさらに喚いた。

「俺はひとりで生きてきたんだぞ! 全部、自分で決めてやってきた! 自分の力で地位を手に入れた! あのバカ親父を操った! バカ親父に惚れたバカ女どもも操った! 全員、いまじゃ俺の言いなりだ!」

瞬間、俺の胸ぐらが強くつかまれる。
絶句していた伊織が、「景吾!」と大きな声をあげたが、俺はその勢いのまま、野瀬島を殴りつけた。そのまま馬乗りになって、今度は俺が野瀬島の胸ぐらをつかんだ。
口から血を吐きだした野瀬島の頭が、ぐらっと中途半端に宙に浮いた。

「教えてやるよ、野瀬島。人が人らしく生きるってのはな、金や名誉なんかとはなんの関係もねえんだよ。俺は、誰よりもその重さを知っているつもりだ。どれだけ恵まれていようが、どれだけ貧しかろうが、人間である以上、思いどおりにならないからと好き勝手にやっていいわけがねえだろうが。お前はこれまで、その欲求を満たすためだけに生きてきた。それがどれほど愚かなことかわかるか? お前はうまくやってきたつもりだろうが、結果的にお前に残ってるのは虚実がつくりあげた卑しさだけじゃねえか。いいか野瀬島、よく聞け。真の姿はなによりも強い。お前がどれだけ取りつくろっても、お前がどれだけ嘘で塗り固めようと、必ずお前を脅かすんだ、今日みてえにな!」

野瀬島が目を開けた瞬間に、俺はもう一度、拳を振りおろした。「景吾!」と、伊織の悲痛な声が俺を止めようとする。
悪い伊織……俺はいま、これでも十分、冷静なつもりだ。だが、止まりそうにない。

「お前はどれだけ偉そうに振る舞っても、どれだけ稼ごうが、どれだけ世間に知られようが、なにひとつ手に入れられなかった哀れな人間だ。戸籍を手にいれても、地位や名誉を手に入れても、そんなものは肩書でしかない。じゃあお前になにが残ると思う? いいか、お前はただの人殺しだ。誰からも認めてもらえない。お前が逮捕されて、死刑になって、稼ぐだと? バカ言え。てめえのような、ケチで卑劣で野蛮な犯罪者のブログなんか、誰が読むってんだ? お前のことなんか、最初から誰も気にしていない。そして一瞬で忘れられる。お前だけが、塀のなかで一生苦しみつづけんだ。自分はいったい、何者なんだってな。だが答えは出ない。お前はこの世の人間からすれば、存在しないも同然のクズだからだ!」
「く、跡部、貴様……!」

体を大きく揺らして、野瀬島が襲いかかってくる。レスリングで鍛えた腕は衰えてねえのか、体重がのしかかってきた視界の隅に、野瀬島の分厚い拳が見えた。
あれにやられたらしばらく顔が腫れる、と思った瞬間だった。
ガゴン! という音と一緒に、野瀬島がそのまま倒れ込んでくる。一瞬、なにが起こったのか理解できずに開けた視界の先には、手袋ごしにつかまれているノートパソコンが見えた。そこに、ものすごい形相で立っている、伊織がいた。

「つ……ってえ……! この女……!」
「伊織、逃げろ!」

野瀬島が憤怒で立ちあがったとき、もう一度、ガゴン! という音が聞こえた。
今度こそ、野瀬島がぶっ倒れる。
俺は唖然とした。なんの躊躇いもなく野瀬島の頭を打ちつけた伊織が、野瀬島にまたがりはじめたからだ。

「おい、伊織っ!」

だが、伊織の耳に、俺の声は届いていない。目を限界まで見開き、伊織は野瀬島に向かって、どんな演技よりも大声で叫んだ。

「景吾の言うとおりよ! 世のなかナメんじゃないわよ! 大概にしなさいよこのクズ!」若干、口調がシゲルに似てきてねえか……。「あんたのそんなくだらない野望のために! 何人の命を奪い、何人の人生を狂わせたと思ってんの! うちのお父さんを……このクズ! 人殺し! 人でなし!」

手袋をつけたまま、伊織の拳が何度も振り落とされる。こいつ、人を殴ったことがあるんだろうか。なんの躊躇いもないどころか、まるで昭和のスケバンだ。まさかここまでやるとは思ってなかったせいで、俺のなかに、理性が戻ってきていた。
もしかすると……だが、さっきから俺を制止してたというより、自分にもやらせろってことだったのか?

「おい伊織! もうやめろっ」
「えっ……!」
「それ以上はやめろ……もうとっくに気絶してる」

伊織の手をうしろからつかんで、なんとか動きを止める。野瀬島の胸は動いているが、顔からは、血が吹きだしていた。口からも、わずかに泡がこぼれおちている。
なんにせよ、俺がつけた傷じゃないのは、見てわかる。どんな怪力だ、この女……。

「あ……大丈夫そう、息してる」

息してる、じゃねえよ……とんでもねえ女に惚れちまったな、俺も。

「あのな……うしろにいるって約束じゃなかったのか」
「で、でもほら景吾、わたしちゃんと手袋も!」

そのための手袋じゃねえよ、と言いかけた、そのときだった。今度は玄関のチャイムが鳴り響く。伊織がぎょっとして、野瀬島から後ずさった。いまさらすぎる行動に呆れつつ、俺は玄関に向かった。スコープを見ると、案の定、マル暴が立っていた。
はあ……見つかっちまったか……。やべえな。

「跡部さん!? いますよね!? さっきから声、聞こえてましたよ!」
「……景吾、逃げる?」
「逃げ場なんかねえだろ……」

完全に伸びている野瀬島を横目に、俺はゆっくりと、玄関の扉を開けた。





野瀬島克也が殺人の容疑者として逮捕されたのは、9月11日の夕方のことだった。
玄関を開けた瞬間に入ってきた警察官に頬を叩かれ意識を取り戻した直後、目をくるくるとさせ、血だらけの状態で野瀬島は逮捕された。

「本当に、逮捕しますよ!」
「すみません……あの、血だらけにしたのはほとんどわたしで、景吾はえっと、2発くらいしか……」
「そういう問題だと思いますか!?」
「あ、す、すみません……」
「跡部さん! あなたがいながら! ダメだと言ったじゃないですか! あなたならきっとわかってくれると思って言ったんですよ!」
「悪かったとは……思っています」

俺の真っ赤になった拳よりも、伊織のビニール手袋が血だらけであることのほうが強烈で、どうにも素直に謝れない。
大丈夫なのか、この女……シゲルがいうオテンバどころじゃねえだろ。だが、そういう伊織にまた惚れなおしている俺自身が、大丈夫かと不安になる始末だ。

「まったく、マスコミより早いなんて、どういう情報網ですか!」
「……それには黙秘する」
「はあ……勘弁してくださいよもう! 今回は見逃します! 被害届も出ないでしょうから! 次回はないですからね! 逮捕しますからね!」
「はい、すみませんでした……」

伊織が深々と頭をさげて、マル暴たちを見送ったあと、ぷっと吹きだした。マスコミもかけつけていたようだが、野瀬島を乗せた車が発進されるのとともに、一斉にはけたようだ。
俺たちはそれを確認しながら、笑いながら自宅へと帰った。





事件から、2週間以上が過ぎている。野瀬島が逮捕され、ほどなくしてからすぐに九十九静雄とその妻も死体遺棄容疑で逮捕されたが、九十九静雄に関しては、すぐに殺人容疑へと切り替わった。
野瀬島克也は不二の調べたとおり、九十九の愛人であった母親、野瀬島みずえと九十九静雄とのあいだにできた子どもだった。野瀬島みずえは元夫からDV被害を受けていたことで300日問題に引っかかり、やむなく生まれた子どもを無戸籍で育てることになる。が、みずえはある日、九十九に克也と同い年の息子がいることを知った。九十九に愛されていると信じ込んでいたみずえは九十九に問い詰めたが、罵倒されたあげくに捨てられ、みずえは九十九に深い恨みを抱くようになったようだ。
一方で高校までなにも知らずに生きてきた克也はレスリング部に入ったことで、人生ではじめての喜びを得ている最中、海外遠征のきっかけに自身が無戸籍だということを知った。父親も母親も恨んだ九十九はそこから不登校気味となり、ついには九十九の息子である淳一に近づいた。地元に生息しているトリカブトを用いて犯行を母親に持ちかけ、母親の協力のもと、トリカブトから猛毒のみを抽出。淳一を呼び出し服用させるが、その現場を九十九夫妻に発見される。発見当時はまだ意識のあった淳一だが、はげしい痙攣をくり返している息子を憐れみ、静雄は淳一を絞殺した。

――苦しそうだった。見ていられなかった。どうせ死ぬと思った。それならすぐに逝かせてやろうと思った。だから、首を絞めた。克也には、お前が殺したことになると脅しをかけた。警察につきだすと。つきだされたくなかったら俺の言うことを聞けと。しばらくは言いなりだった。

すぐそばで見ていた九十九静雄の妻は、はなから九十九に逆らえる女ではなく、こちらも言いなりだったらしい。九十九夫妻は世間体が悪いからと、息子の死を隠蔽すると野瀬島に言ったそうだが、自分たちが捕まることを恐れただけだろう。
そこから九十九静雄は汚い仕事を野瀬島克也に課した。裏組織とのパイプ役もこのときに仕上がったものだろうと推測される。要するに九十九のいまの地位は、裏組織の動きがあってこそ手に入れたものだというわけだ。親が親なら、子も子だ。
やがてその親子契約から12年が過ぎたとき、跡部財閥管理のスポーツクラブ建設の話が持ちあがった。当時、籠沢建設の執行役員だった九十九静雄は俺に目をつけた。成人したてのボンボンが責任者を担うことを知り、跡部財閥のガードがゆるくなったいましかチャンスはないと思ったそうだ。

――跡部財閥は、敵だとずっと社長に言われていた。社長の積年の恨みを晴らす大チャンスだ。私は社長の承諾も得て動いていた。克也に現場に踏み込ませ、建築書類や契約書の改ざんをやらせて大スキャンダルを起こすつもりだった。しかしその話を、現場監督だった男に聞かれた。

おそらく、談合だかカルテルだかの証拠捏造でもするつもりだったんだろう。跡部財閥ともなれば、公的機関ではないとしても、公共の利益に反すると判断されスキャンダルにつながる。佐久間さんはそれを知り、鬼に見つかったというわけだ。
しかしこれについては、籠沢建設の前社長は「なんのことかわからない」とだけコメントしていた。どの業界もそうだが、こういうバカはすぐに尻尾を切られる。実際は指示していたかもしれないが、そんな証拠はどこにもない。

「……結局、野瀬島はなにがしたかったの?」

伊織がぼんやりとつぶやく。手のなかにあるマグカップをそっとテーブルに置いて、俺のとなりに座ってきた。

「後半は立場が逆になっていたようだな。だから野瀬島の地位だの名誉だのというくだらない欲求のために九十九は動かされていた。あの男は今年定年だった。しかもアスピア商事に俺がいた。前回はバレずに事なきを得た。だが跡部財閥への復讐は終わっていない。俺を使って野瀬島をのしあげ、最終的には息子ともども俺のことも陥れるつもりだったかもな」

九十九が俺に仕事を依頼してきたのも、野瀬島の言いなりになってヤツを大物にするためか、それとも大物にしてから、野瀬島の悪事を暴いて俺を責任問題で二度と働けなくさせるつもりだったのか。まあどちらにしても、俺を当時の印象のままちょろいと思ったからだろう。ナメられたもんだ。
そして野瀬島は、逮捕後からいまも、黙秘をつづけている。

「まあ、もういい。ほとんど推測どおりだった。不二の、だけどな」
「景吾も勘づいてた?」
「多少はな。だが不二ほど調べられてはいなかった。あいつには感謝しかねえよ」

俺はテレビを消した。いま報道は、どこをつけても野瀬島と九十九のニュースばかりだ。九十九の証言が放送されるおかげで、俺たちもまた、マスコミに追いかけ回されている。

「それよりも、だ」
「うん?」

伊織とは、穏やかな日常がつづいていた。野瀬島との格闘でつくった俺の拳の傷が収まってきたころに、ようやく目的のものを手にすることができた。今日、伊織を呼びだしたのはそのためだった。

「伊織、目を閉じろ」
「え……」
「早くしやがれ」
「あ、はい」

伊織は静かに目を閉じた。キスを予感しているのか、わずかに微笑んでいた。愛しさがふくれあがってくる。目の前の女こそが、俺の探し求めていたものだという確信が、日に日に強くなっていく。
俺は、伊織の左手をそっと持ちあげた。

「えっ」
「まだ開けんなよ?」
「景吾っ……待って待って、心臓の準備ができてないっ」
「ふっ……それを言うなら心の準備だろうが」

小さな箱が開けられる音にたえきれなかったのか、伊織が大きく目を見開いた。箱の中身を目にした瞬間、伊織の目から、ぽろっと落ちたひとしずくが、俺の手に触れた。美しい。
特注で急ぎつくらせた婚約指輪だが、これは、伊織の白い手にきっと最高の輝きを与える。

「う、うわあ……おっきい!」
「おい、そこかよ?」
「ううううう、すごい綺麗……! な、なん、なにこれ。すごい綺麗!」
「ったく、安直なセリフだな。おい、指輪ばっか見てねえで、こっち向け」

頬を包んで視線を合わせると、伊織の目からまた涙が落ちていく。喜びがあふれたその顔だけで、俺は満たされた。
すっと、息を吸い込む。やっぱりこういうのは、ちゃんとしとかねえとな。

「敬愛なる佐久間伊織さん……僕の話を聞いてもらえますか?」
「えっ! は、はいっ」

さん付けで呼ばれたことになのか。それとも、俺の口調が突然に変わったことになのか。
伊織はピン、と背筋を伸ばした。

「あなたは世界一美しく、清らかな女性だ」
「……け、景吾」
「どうか、僕の妻となり、一生を僕とともに過ごしてください」

ソファから離れ、伊織の足もとにひざまづく。震える指先をなでながらそこにキスを落として、俺は世界一の女を見あげた。

「Will you marry me?」
「景吾……ううううう、死ぬほどカッコいい!」
「ったく……」ムードのかけらもねえな。「ああ、そうかよ」
「い、いえす!」
「発音……」
「いえす、いえすいえす!」
「わかったよ、うるせえな。ほら、じっとしてろ」

薬指にダイヤモンドをとおした瞬間に、伊織がそのまま抱きついてきた。フローリングに倒れ込みそうになるのをこらえて、その体をしっかりと受け止める。
呆れて笑いそうになる。この俺が、ここまで紳士的にプロポーズをし直してやったっつうのに、お前は素のまんまかよ。だが、それも伊織らしい。そういう伊織が好きだと、何度でも痛感させられる。甘くただよう髪の香りも、震える肩も、ムードをぶち壊す鼻をすする音も、すべてが愛しい。こんな女に出逢えるとは、思ってはいかなった。

「おい、キスさせねえ気か?」肩に埋まったままの伊織を揺さぶると、また、ぐずぐずと鼻をすすった。
「いまの顔、こんなカッコいい景吾に見せれない」
「もっとひでえ顔はいくらでも見てきたぜ?」
「ひどいっ」
「アーン? どんなお前も好きだって言ってんだよ。ほら、顔あげろよ」
「うー、景吾……」

ゆっくりと体をひきはがすと、真っ赤な目で俺を見あげてきた。長いまつ毛に、揺れる瞳。ルージュもまともに塗っていないピンク色の唇が、俺を誘惑してきた。

「俺に会うってのに、ほぼすっぴんだな?」
「いつもどおりだよっ。人よりちょっと、薄めかもだけど……」
「だな? それでも、世界一綺麗だ、伊織」
「景吾……」

唇を重ねながら、俺たちは手を握りあった。絡まる指に、いつもとは違う、ひんやりとした感触が胸の奥を高揚させる。
伊織……お前を妻にする。そんな夢のような現実が、俺にどれほどの喜びを与えているか、わかってんのか?

「愛してる」
「わたしも、愛してるよ、景吾……」

溶け合っていく舌先から漏れる音に、官能が刺激されていく。やっと手に入れた伊織を、このまま一生、俺の腕のなかに包めると思うだけで……ますます愛しさが氾濫していった。

「ン、ねえ、景吾……」
「ん?」
「抱いて……ほしい」
「……お前は、欲張りな女だな?」
「ぐ……思いきったのに、そんなこと言わないでよ……」
「言われるまでもなく、そうするつもりだったぜ?」
「景吾……」

そのまま抱きかかえて、いつものベッドルームへと移動しはじめた。廊下を歩く時間をも待ちきれずやわらかい肌に愛撫を与えると、伊織の艶めかしい声が響いて、俺の欲望を肥大させていく。

「あっ、景吾……ン、ああ、気持ちい……」
「また今日も、こんな下着つけやがって……」
「それはその……ちょっとあれから、くせに……あ、ンッ……Tバックって、パンツの履き心地がいいんだよね」

男である俺にはよくわからねえが、毎日こんな下着を身につけているのかと思うと、体が熱くなっていく。エロすぎて頭がおかしくなりそうだ。
結婚して一緒に暮らすようになったら、毎日のように襲うしかなくなるじゃねえか。あっというまにガキができちまいそうだな。

「まだするつもりはねえが……いまナカに出したら、お前を孕ませる自信がある」
「え、ど、どういう宣言それっ。あっ、景吾っ、ま、あっ……そ、いきなりっ、恥ずかしいっ」

うしろからそこに顔を埋めた。
色もふざけてやがる。黒のTバックだと? 挑発しやがって……。めちゃくちゃ興奮するじゃねえの。

「こんな姿をさらしておいて、いまさらなんだ? ほら、もっと突き出せよ。キスしまくってやる」
「ン、ああっ……景吾っ……」
「この奥に、挿れてほしいんだろ? こんなグズグズにしやがって」
「はあっ……」こくこく、と、伊織の首か小刻みにうごく。「も、もうちょうだい、もう、景吾がほしいっ」

ほとんど涙声で、伊織が俺を求めてくる。まだ挿れてもねえってのに、俺の息もあがっていった。

「伊織お前……ヤラしすぎる……だろっ」ぐっと奥まで押し込むと、いつも以上に締めつけられる。まったく……この女は、どこまで魅了させる?
「ああっ……! 景吾……あ、ああ」
「く……、ああ……こんなに濡らすほど期待してたなんてな、このドスケベが」
「はあっ……ああっ、や、あ、なんか、おっき、ああっ」
「お前のせいだろうがっ……はあっ、あっ」

伊織とのセックスは、毎度のことだがエロすぎていつも理性を失う。正直、もっと愛をささやきあって紳士に努めたいが、こればかりはどうにもならねえ。これまではもっと余裕があった。女を抱くにしても、あまり声を出すような状況に接したことはない。
おかげで昇天するほど狂わされ、数回つながったあとは、話しているうちにいつも俺が先に寝ちまう。不可解でもあり、失着だった。この俺が、女より先に寝るとは……。

「はい、え? わたし?」
「……ん?」

目が覚めたのは昼過ぎだった。30分ほど眠っていたらしい。ベッドの上に座っている伊織はシーツを体に巻き、俺に背を向けて電話をしていた。
おい、俺の裸体がまるだしじゃねえか……どうなってんだこの女は。俺は跡部景吾だぞ。

「え!? そ、入本さん、その話、本当なんですか!? あ、はい。え、いまから?」

そっと背中から手を回して伊織の体を包むと、ピクッと反応した伊織が、ふっと微笑んで軽いキスを送ってきた。余裕を見せつけられてまた狂いそうになる。よく考えてみれば、この女は年上だった。セックスのたびにそれを認識させられる。
ピ、と伊織が電話を切って、俺に向き直った。

「景吾、車って出してもらうことできる?」
「ああ、もちろんかまわねえが。入本って、あの入本さんか?」
「うん。なんか、すごい話になってるんだけど……なんかね、映画の主演やらないかって」
「なに……?」

できればもう一度、今度は余裕をもって伊織を抱くつもりだったが……そんな予定変更をガタガタ言っている場合じゃないことは、すぐに理解できた。





株式会社ピエロを出たあと、俺と伊織は株式会社シュガーラッシュへ向かった。入本さんは事務所の会議室に俺らを通し、座った瞬間に挨拶もなく、こう言った。

――この絵本の映画化を進めています。キャスティングはほとんど完了しているんですが、主演だけが難航中で、実は原作者の方が、どうしても佐久間さんがいいと。
――え……。
――記者会見でのあなたの姿を見て、この人しかいないとおっしゃっていて。実は……すみません。当社としては、ほかの女優で再検討をしてもらえないかとお願いしたんですが、絶対に嫌だと。かなり、頑固でして……それなら映画化はしない、とまで言ってきたものですから。

まあ、ピエロからしたら当然だろう。いくら野瀬島の件が解明されようと、あれほどトチ狂ったぶっとび女と世間に認知されている女優の映画など、つくりたいはずがない。しかもピエロは、一度は伊織を起用しかけた会社だからこそ、とばっちりもあったはずだ。
だというのに……その原作者は、いったいどういう了見だ? そいつも頭がおかしいのか?

――わたしは、ピエロさんがかまわないなら、引き受けますけど……でも入本さんにはご迷惑をおかけしましたから、なんというか。
――いえ、僕は全然、いいんですよ。ただ上がね……でも、なんとか説得できたので、今日お越しいただいたということになります。あとは台本に問題がないかどうかだけ判断してください。

そう言ってわたされた原作本と台本を受け取って、俺は車を飛ばしている。原作本の奥付に、『編集協力 忍足侑士/シュガーラッシュ』と書かれてあったからだ。思わず笑いながら、「なるほどな……」とつぶやいた俺に、伊織も入本さんも目をまるくしていた。

「よう、跡部! 久々やなあ! 大変やったなあお前。元気しとった?」
「どうってことねえよ。しかし、ずいぶんと粋な計らいをしてくれるじゃねえか。忍足よ」

表参道のビルにかまえる『株式会社シュガーラッシュ』では、忍足と、噂の原作者が待ちかまえていた。絵本作家である彼女はどう考えても、忍足の女だ。忍足との並んでいる立ち姿を見ただけで理解できたが、なによりあの絵本が、それを証明している。

「俺っちゅうか、この先生がな」先生、と格式張ってやがるが、俺の女だといわんばかりの忍足のオーラは、なにも隠しきれてない。こっちが酔いそうなくらいだ。
「はじめまして、跡部さん。というか、おふたり揃って来てくださるなんて、感激です!」
「はじめまして。あのわたし、女優……というわけではないんですが、あの」
「なにを言ってるんですか! 女優ですよ! あなたは一流の女優です! どうぞどうぞ、小さい事務所ですけど、入ってください!」
「ん……ここ、俺の事務所なんやけど。まあええか」

伊織と原作者はさっそく綿密な打ち合わせをはじめていた。忍足も「先生」とやらを信頼しきっているのか、それを邪魔せずにコーヒーをつくりはじめている。
俺は事務所のなかをぐるぐると歩きまわりながら、キッチンに立っている忍足のとなりに落ち着いた。

「どうやらお前、よろしくやってるようだな?」からかいついでにそう言うと、忍足が口端をあげて俺を見た。
「はっ、よう言うわ、お前もやろ。女優さんの婚約指輪、まぶしすぎやで。ホンマ、なんやねんどいつもこいつも……」
「アーン? どいつもこいつもってのはどういうわけだ?」
「ええねん、気にせんといて。跡部、少しは落ち着いたん? まあ結婚しようっちゅうんやから、落ち着いとるやろけど」

結婚報告したつもりはないが、あの大きさのダイヤモンドを左手の薬指にしていれば無理もない。入本さんも、なにも聞いてはこなかったが、ニヤニヤとしていたしな。
コーヒーカップのなかにお湯を注ぎながら、忍足はトレーを用意した。わざわざコーヒーを注ぐ前にカップをあたためるという手順を踏むところが、こいつらしい。

「来月か再来月には財閥に戻る。それまではのんびりする予定だった。だからこの映画化の話は、タイミング的にもちょうどいい。撮影、すぐに入るらしいじゃねえか」俺も動きやすい。
「は?」忍足が目を棒にしている。なんだ、俺に向かってその反抗的な目は。「お前、映画に関係ないやん。部外者やろ。婚約者やからって撮影にまで口出すなや?」
「アーン? さっき台本を見てきたが、キスシーンがあるじゃねえか。どうにかならねえのか。カメラのアングルで」
「おい、言うとるそばから口を出すな……ちゅうかお前、女優と結婚するくせにそんなことガタガタ言うてて、どないすんねん」
「ふんっ……9割はあきらめてる。が、なんとかなるうちは、なんとかしてもらう」
「……10割あきらめろや。お前が女優にするために育てたんちゃうんか。矛盾がひどいわ」

コーヒーができあがった。口うるさい忍足がカップを女性たちへ配っているあいだに、俺は少し離れた場所にあるソファに腰をおろした。色彩が派手で賑やかなインテリアばかりだが、なかなか居心地のいい事務所だ。

「そういや、跡部さ」
「アーン?」
「この映画にも、なんやいろんな偶然が重なってな。不二に協力してもらうことになるかもしれんねん。あくまで予定やから、これから交渉らしいけど。なんや関係者が張り切ってはるんやわ」世間は狭いっちゅうかなんちゅうか……と、忍足は首をかしげている。
「不二が? ああ、そういや料理がふんだんに出てくる本だったな?」
「ん、そう。あと、不二の彼女……ガラス職人やろ?」
「ほう? 不二とガラス職人に会ったのか?」

不二は自らそんなことを話すようなタイプじゃないが、一緒にいるところに遭遇すれば挨拶くらいはするだろう。
不二がガラス職人とうまくいっていることも、一目瞭然だった。あの様子じゃ、フードトラックでイチャつきながら料理を提供している可能性もある。

「いや、ずいぶん前に不二に呼びだされたときにな。あー、不二、ガラス職人さんのこと好きなんやろなって思って。ほんでまあ、あいつやったら落とすやろ。あっちゅうまに。せやからいまごろ、彼女になっとるんちゃうかなって、勝手な想像や」
「なるほどな」……昔から、勘だけは鋭い男だ。
「まあそれで、いま思いついたんやけど。本題こっからな」

言いながら、忍足が背筋を伸ばした。伊織と原作者の楽しそうな声が聞こえてくる。ありゃ完璧に出演するつもりだな。ったく、あのキスシーンをどうしてやろうか。いっそのこと、この期間だけでも伊織のマネージャーになるという手もあるが……。

「ちょっと提案があって……」
「景吾!」
「ん?」

忍足が言いかけたとき、伊織が俺に向かって立ちあがった。

「わたし、この映画やりたい!」
「……ま、だろうな」予想したばかりだったが、案の定か。
「お、よかった。そらちょうどええわ」

忍足はのん気な声をあげた。当然と言えば当然だ。女優としてはもう二度と羽ばたけないと思っていたところに、主演の話。どんなに小規模な映画でも、伊織にとっては喉から手が出るほどの躍動だろう。原作者はともかく、忍足はそこも計算済みに決まってやがる。

「ちょうどいいって、なんだ忍足?」
「ん。この撮影、めっちゃスピード撮影なんや。ピエロも時間かけてられへんってとこやろ。当たるか当たらんかもわからんし。そもそも絵本が当たってへん」
「たしかに不可解だな。なぜ映画化が決定した?」
「それは俺もようわからんねん。提案した人ってのも、入本さんを通じての意見しか聞いてなくてな。業界の人でもないらしい」たしかに、妙な話だ。「まあそれはそれとして、なんやけど。跡部、俺の提案、聞いてみるか? たぶん、やるじゃねえのって、言うやろけど」

忍足が、にんまりとした顔を向けてくる。久々に、月に目を覗きこまれた気分になった。こういうときの忍足は、誰よりも頼もしい。学生時代も、陰ながらこいつに助けられていたことを思いだした。だが忍足は、助けたとも思っていない。わざわざ目立とうとしないのが、こいつの長所だ。それでこそ、忍足侑士は氷帝の月だった。

「アーン? 本当だろうな?」

懐かしさに微笑みながら忍足に問うと、忍足は女性たちにも聞こえるように、提案を語りはじめた。「え」「ええっ」という伊織と原作者の驚愕の声とは別に、体の芯から昂ぶってくる自分がいる。さすが、エンタメ業界で鍛えられた頭脳ってわけだな。
忍足の提案をすべて聞き終えたあと、俺は思わず、口走っていた。

「やるじゃねえの、侑士」
「はい、いただきましたー」

親しみを込めて名前を呼ぶと、忍足がふっと拳をかかげてきた。
お互いの拳を重ね合わせたとき、それがゴーサインだと、全員が悟った。





to be continued...

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