ざわざわきらきら_14


14.


落ちてきたら確実に死ぬだろうな、と縁起でもないことを口走りそうになるほどのシャンデリアが、そこかしこに点在してわたしたちを見おろしてる。今年31歳になるわたしだ。これまで結婚式は何度か呼ばれてきたし、これでも昔はそこそこのキャリアウーマンだったので、金持ちどもの派手な挙式にも慣れているつもりだった。
しかし、これは、規格外だ。

「これ……いくらかかっているのでしょうか。すごいですね」
「先に言うちょくけど、俺はこれほどの式は挙げれんからの?」
「わたしはそういうつもりで言っているわけではありませんっ」
「ならええけど。うらやましそうにキョロキョロしちょるもんじゃから」
「もっ、雅治さんっ! あなたはいつもそうして、人聞きの悪いことを、こうしてたくさんの人がいるところでわざわざ……!」

このふたりの痴話喧嘩は見慣れているのだけど、いつだってノロけているようにしか見えないからやってられない。仁王さんの表情が甘すぎるからだろうか。いや、吉井の妹だって負けていないのだけど、とにかく、彼女の薬指にこれでもかと光っているあの和風の婚約指輪がそこに拍車をかけていた。
吉井の妹とはすっかり仲よくなって、よく女だけで食事に出かけることもある今日このごろ。あの指輪を見たときは仰け反ってしまいそうになるほど美しくて、正直、うらやましい以外の感情がわいてこなかったくらいだ。

「オレは仁王さんと違って余裕で挙げられるから、わがまま言ってもいいよ?」
「そんなこと言わんでも、わかっちょるき」仁王さんが苦笑する。
「リョーマ。黙りなさい」
「む……ンだよ、かわいくない」
「かわいくなくて結構です」

治療院の先生も、どうやら越前選手との結婚がなんとなく決まっているらしいと聞いたのは、ついこのあいだのことだ。ピシッと先生がたしなめると、越前選手はツンとして腕を組んだけど、どこか嬉しそうで、見ているこっちが恥ずかしくなる。5歳ほど年齢が離れていると聞いたけど、それ以上に離れているように見えるから面白い。ていうか越前選手って、こんなにかわいい感じの人だったんだ。先生の前だけかな。画面越しでしか見たことがないけれど、テニスをしてるときは黄色い声をあげたくなるほどカッコいいのに。
一方で、わたしと同様にソワソワしているとなりの女性は何度も入口付近を見ていた。現場で何度かお会いしたときは職人まるだしの雰囲気だったのに、今日はとてもおしとやかで、かわいらしい女性に見える。

「シェフ、間に合うといいですね」
「あっ……はい。たぶん、もう少しなんですけど」

声をかけると照れ笑いを浮かべて、彼女はにっこりと微笑んだ。その笑顔に、不二シェフとは超お似合いだなと思う。彼らだけじゃないけど、ここにいるカップルはみんなとてもお似合いだ。なんとなく顔が似ているからかもしれない。いまの彼女の笑顔なんか、不二シェフが微笑んだときとそっくりだ。わたしと侑士さんも、似てたりするのかな……いやあ、わたしあんなに色気のある目してないよねえ。
思いながら、わたしも自然と目を入口に向けたときだった。不二シェフの姿が見えて、彼女が花が咲いたように頬をゆるませる。どこもかしこもお熱いのね……と余裕をかましている暇など、わたしにはなかった。不二シェフの横に、侑士さんもいたからだ。

「おお不二、間に合ったんじゃの」
「ふふ、おまたせ」
「ちぃーす不二先輩。やっと会えた」
「そうだね。それにしても仁王も越前も、よく結婚式で会うよね」
「おまけに、いつもこういう席ッスね」
「まあ、今回の席は関係者が集められたっちゅうことじゃろ」

仲のよさそうな男性陣の会話が右から左へと流れるなかで、侑士さんがわたしの肩をポンポンと叩いた。はあ、カッコいい! ここにいるみんなイケメンだけど、侑士さんがいちばん素敵! ああ、そうじゃなかった。めちゃくちゃ混乱してるよわたし……いや侑士さんはそりゃ、いつもより決めまくってるし、若干のオールバックがしびれるくらいカッコいいけど。

「そろそろ出番やで、伊織さん」
「は、は、は、はい」
「おいおい、緊張しすぎや」
「だだだだだだって侑士さん、わたし、わたしスピーチなんてしたことないんだよっ」
「わかっとるって。でもこの数日、何度も練習したやろ? 大丈夫や。俺のお墨付きやから」

そっと腕をなでてくれる侑士さんが、大丈夫、と唇だけでかたどる。涙目になりながら何度もうなづいていると、「ふふ。ラブラブだね」「よそでやってくれんかのう」「見てらんないんスけど」と、男性陣たちのヤジが飛んできた。あのさあ! 全員、言われたくないですからね!?

「大先生、頑張って!」と、わたしよりも確実に大先生の院長先生が声をかけてきた。
「どんなスピーチをされるのか、非常に楽しみにしています」天然でプレッシャーをかけてくる吉井の妹。
「終わったらたくさん、お酒を用意して待っていますから!」職人さんはかわいい顔して酒好きだ。
「気合いを入れて、いってまいります!」

警察でもないのに敬礼をして、わたしはふっと息を吐きながら席を立った。





映画化が決まってからというもの、それはそれはとても忙しい毎日がつづいた。本来であれば、原作者は映画化に際してそこまで口を出すことはないはずなのだが、侑士さんの言いつけもあって、わたしは撮影現場に何度も足を運ぶことになったからだ。

「あのへんの余興が終わったら、次やからな?」
「う、うん」
「大丈夫か伊織さん? ちょっとこっちおいで。まだ時間あるし」

侑士さんがそっと腕を引いて、ひと気のないところに連れていく。
ステージ上ではテレビでよく見るお笑い芸人が漫才さながらにしゃべっていた。新郎新婦が(とくに新郎が)ビッグ過ぎるせいか、集まっている人たちの顔ぶれも尋常じゃない。わたしなんかが本当にステージに立っていいのだろうかと不安になる。侑士さんの選んでくれたドレスだし、仁王さんがヘアメイクしてくれたし、見た目は変ってことはないだろうけど……各界著名人も多いから本当に泣きそうだよ……。

「はい、俺見て」
「うん、カッコいい……」
「アホ、なに言うてんねん。嬉しいけどもやな。ほら、おいで。落ち着かせたるから」
「侑士さん……」

ぎゅっと、優しく侑士さんが抱きしめてくれた。ああ、あったかい。本当にいつもわたしの栄養剤になってくれるんだ、侑士さんは。さすがシュガーラッシュ代表だ。
ここ最近の侑士さんも、なにやら大変忙しそうにしていた。現場には送り迎えだけで、ときどきしか口を出しに来ないかわりに、「ちょっと野暮用があってな」と言ってはどこかへ行く。なんだかコソコソしているし、怪しいなあとは思っていたのだけど、話したがらないのだからしょうがない。だけど、こういう瞬間にいつもわかる。彼とは交際してまだ2ヶ月ちょっとだけど、浮気なんてする人じゃないって。最初は絶対にプレイボーイだと思ってたのに。そう思うと、笑えてきた。

「ん? なにがおかしい?」
「侑士さんが優しいから、幸せすぎて笑っちゃう」
「おかしな人やな。緊張しすぎて頭おかしくなったんちゃうか?」
「うん、そうかも。でも侑士さんのおかげで、落ち着いてきたよ、ありがとう」
「ん。大丈夫や。噛んでもええねん。伊織さんは、思いを吐きだすだけでええんやで?」
「うん、そうだよね」
「俺がしっかりサクラしたるから」
「あははっ。心強い」

そっと落ちてきた唇に、小さく背伸びをした。緊張とは違う胸のときめきが込みあげてきて、離れてしまった唇に、もう一度おねだりしたくなったときだった。

「ちょっとオ、なにしてんのよ先生っ」
「でえ!?」

誰もいないはずだったのに、振り返ると演出を担当してくれたシゲルさんがいた。この御方は『ざわざわきらきら』の主演女優である跡部さんの彼女を女優にしたというスーパーミュージカル俳優らしく、ブロードウェイの舞台にも立ったことがあるというとんでもない経歴の人だ。そして彼はまず間違いなく男のはずなのだが、心は乙女である。いつも派手だが、今日はいつも以上にとんでもなくキラキラしたドレスを身にまとって、その貫禄がすごすぎる存在感のせいか、なんなら花嫁よりも目立っていた。

「おっと、見られとった」
「やあね、こんなとこでチュウなんかして」それと、侑士さんを見る目が、そこはかとなく気になる。「それにしても侑ちゃん、キマってるわね。ここだけの話、景ちゃんよりもイイ男だわ」
「はいはい、おおきに」

侑士さんがいつもさらっと流してくれるからいいようなものの、シゲルさんの目は完全に獲物を狙っている、それだ。彼には現場で何度かお会いして、話すとめちゃくちゃ面白い人なので大好きなんだけど、いつもこの視線に遭遇すると、ちょっと待ちなさい、と言いたくなってしまうのだ。

「シゲルさんも、ステージにあがられるんですか?」いいところを邪魔しやがって、なんの用だ、という意味をこめて聞いてみた。
「いーえ。あたしはあがらないけど、先生の晴れ舞台、近くで見ようと思ったのよ。バックステージから見るの、好きなの」
「ホントに? 侑士さん探してたんじゃ……」
「あらやあねえ、人の男を獲ったりしないわよ。ま、侑ちゃんがその気ならわかんないケドお」
「も、誘惑したら許しませんよっ!?」
「伊織さん、落ち着きって。その反応が面白がられとるって、ええ加減に気づき」
「え」

呆れた顔した侑士さんとシゲルさんがわたしを見ながら、顔を合わせて笑っている。ううー、ほらそうやって、仲よさそうじゃないかあ。そりゃわたしだって、オカマにヤキモチなんか妬きたくないけどさっ。侑士さんってなんでもイケそうだからちょっと怖いんだよっ。浮気をする人じゃ、ないけど……好奇心は旺盛だから。

「跡部より俺のほうがええわけないやろ」
「そんなことないよ? 跡部さんより侑士さんのほうがずっと素敵だし」
「ンフフ。オテンバが聞いたら黙ってないわね」実に楽しそうである。
「おおきに。伊織さんだけや、そんなこと言うてくれるのは。ほら、そろそろやで」

侑士さんが背中を押すのと同時に、スタッフの人に名前を呼ばれて、わたしはすぐにステージ脇へと移動した。
シゲルさんの邪魔が入ったせいで、緊張をほぐすはずのキスが1回で終わってしまった……。少し残念に思いながら侑士さんを振り返ると、にっこりと微笑んでくれている。その侑士さんとわたしの視線のあいだに、シゲルさんがまたにょきにょきと顔を出して邪魔してきた。
も、いったいなんなのこのオカマ!

「ちょっとシゲルさん! 邪魔っ」
「まったく、あたしにそんな楯つくのはアンタと景ちゃんくらいね」
「なんなんですかもうっ。侑士さんはわたしのものですからっ」
「わかってるわよ! あたしはね、アンタに言っておきたいことがあって来たの!」
「へ?」

司会者がステージにあがっていた。お笑い芸人さんたちとかけあいをしながら、ステージ脇にいるわたしに視線をちょこちょこと送ってきている。もうすぐ出番という意味だ。
落ち着いていた胸の鼓動が、バクン! と大きく波打った。
というのに、わたしの体は動かない。シゲルさんがわたしの腕をつかんでいたからだ。

『ではいよいよ、次は原作者の方からの挨拶となります』

司会者が合図をしてくる。シゲルさんが、司会者に「伸ばして」と合図している。そんな権限があるとは思えないのだけど、シゲルさんだからなのか、司会者は適当なことを言いながら場を和ませてくれていた。

「ちょっとシゲルさん、なんですか」
「あのね」
「わたし、そろそろ行かな」

と、その手を振り払おうとした、刹那だった。

「ありがとうね、先生」

え、という声が喉の奥につっかえる。
いつもの調子で言葉を投げられると思っていた。「しっかりしなさいよ!」と言われるんだと、思いこんでいた。でも、違った。
シゲルさんは真剣な眼差しでわたしを見つめて、ほんの少しだけ微笑みながら、ささやくように言ったのだ。

「こんな素敵な映画の主演に、あの子を選んでくれて。あの子を育てたコーチとして、お礼を言います。ありがとうございました」

いつも早口で、声を高くしてしゃべるシゲルさんが、ゆっくりと、とても落ち着いた声で、深々と頭をさげてきた。すぐにすっと背筋を伸ばした彼の視線が、もうひとつあるステージの花嫁に向けられている。
主演女優のウエディングドレスは、くらくらするほどまぶしい。でもわたしがめまいを起こしそうになったのは、その輝きのせいだけじゃなかった。シゲルさんの頬に伝っている涙が物語る師弟愛に、酔ってしまいそうだったからだ。





「みなさん、はじめまして。『ざわざわきらきら』原作者の、佐久間伊織と申します。本当に無名も無名で、誰なの? と思う方も多いでしょうが、これでも絵本作家をしております。えー、今日はこんな素晴らしい式で、なんとスピーチをしなくてはいけないという大役を仰せつかりました。わたしをズブの素人からプロにしてくれ、『ざわざわきらきら』でも編集を担当してくれたシュガーラッシュの忍足侑士さんと、必死になって内容を考え、昨日まで練習をしてきたのですが……この用紙に書いてきたことを言うのは、やっぱりやめます。あ、笑ってらっしゃいますね。あ、ちょっとざわつきも聞こえるような……。いまごろ忍足さんが真っ青になっていると思いますが、笑いが起きたので許してくれるかもしれません。つかみはOKというやつでしょうか。あ、ここはシンとなってしまいましたね。お笑いは本当に難しいです。さきほどの芸人さんたちに助けてほしいくらいです。あ、ここでは笑っていただける……えー、キリがないのでこのあたりにしますね。
さて、この映画化の話は、本当に唐突に舞い降りてきました。ほんの1ヶ月前のことで、ええ、ぴったり1ヶ月前なんです、偶然ですが。ピエロの入本さんという方から連絡が入り、そこからトントン拍子で制作が進んでいきました。ただひとつ、わたしは女優さんの選出に非常に渋っておりました。素人同然のわたしがおこがましいことですが、この絵本、本当に尽力という尽力を注いだ作品なのです。わたしの右手を見ていただければわかるとおり、当時はもっとひどい有様でしたから、この絵本は、正しい慣用句ではないですが、血と汗と涙の結晶が……あ、痛いほうの涙ですけども、ふふっ。はい、込められています。ピエロさんが数々の有名女優さんをあげてくれるなか、わたしは『どうしても、あの記者会見の女性に演じていただきたい』と懇願しました。ご存知ですよね、みなさん。あの圧巻の記者会見で度肝を抜かれなかった方はいないでしょう。メディアでは一連の真実が、いまさら報道されています。ですからご結婚されたいまとなっては、彼女がどんな思いであの場に立っていたか、わからない方はいないと思います。こうした席で、あまり申し上げることではないかもしれませんが、おふたりにはいろいろと……ご苦労が、耐えなかったと思います。わたしは、いまのように詳細が明らかになる前から、跡部さんと、そして大女優となるであろう彼女のドラマティックな恋愛劇を見ているような感覚で、ニュースを追っていたのです。これには理由がありまして、最初から真実が見えていた、などという自慢ではございません。記者会見を見ていたとき、すぐ隣で、ずっと事の裏側を考察していた方がいたからなんです。
さて、オファーをしたとき、跡部さんたちは、わたしの作業場でもある忍足さんの事務所に来られました。素敵な偶然なのですが、跡部さんと忍足さんは、氷帝学園の同級生です。そうです、お察しのとおり、考察者は忍足さんでした。お二人はテニス部のチームメイトとして、18年の付き合いになるとのことで、通じ合うものがあるのだと思います。ですから手を組むと誰も太刀打ちできないほどの大暴れでして、今日という日のために、抜群のチームワークでいろいろと計画を練りはじめました。『氷帝の太陽と月』と当時は呼ばれていたそうで、まさに太陽と月のように、二人のあうんの呼吸は見ていて、非常に気持ちがよかったです。あれよあれよという間に、迷惑も考えずに周りの人たちを強引に巻き込んで……あ、大きな笑いが。ここまで盛りあがれば、嫌味を言っても忍足さんに許してもらえそうです、みなさんありがとうございます。ええ、もうそれは本当に、たくさんのスペシャリストの方々にご協力いただいて、この映画はできあがりました。今日という日に向けて、なんとか完成に持っていったのも、氷帝の太陽と月の図々しさが生みだした結果です。あ、拍手まで、ありがとうございます。
ヘアメイクは、あのカリスマイケメン美容師の仁王雅治さんが担当しています。あ、どこかから『その呼び名、やめんしゃい』と聞こえましたが、お祝いの席ですからね、無視しましょう。そして映画の肝となるテーブルシーンは、あの三ツ星シェフの不二周助さんが監修されています。ご覧になればわかりますが、本当に美しい料理と、素晴らしい食器のコーディネートなんですよ。そして、世界2位のテニスプレーヤーである越前選手は、SNSが苦手だと言っていたにも関わらず、この絵本がよほど完成度が高いからでしょう、1週間前にSNSに掲載してくださいました。いまや『ざわざわきらきら』の広報担当ですね。あ、ごめんだって顔をしてらっしゃいますが。もう少し微笑んでいただけると、非常に嬉しいです。
ともあれ、監督をはじめ、たくさんのスタッフさんと、図々しさに負けたたくさんの友人の愛に包まれて、『ざわざわきらきら』は完成しました。そしてもちろん、いちばん愛を注いでくれたのは、言うまでもありません、主演女優です。彼女は、台本をわたした翌日には、すべてセリフを覚えてきていました。細かい部分も、どうすればいいだろうと、監督にではなく、わたしに聞いてきました。ちょっと監督が置いてけぼりで恐縮だったのですが、それは彼女がこの絵本の想いを、なにより大切にしてくれていたからこそです。この感謝をどうお伝えすればいいのか、わたしは数日、悩みました。ですが用紙に書いてきたことでは伝わらないと、このステージを出る直前で思い知らされました。彼女には、ずっと傍で支えてくれていた跡部さんのほかに、この映画でも演出を担当してくださった、大師匠がいらっしゃいます。その方がおっしゃいました。『あの子を選んでくれてありがとう』と。ですが、わたしが選んだというよりも、もう運命は決まっていたように思います。今日の日のように。
最後に原作者として、お礼とお祝いを言わせてください。
この作品への出演を決めてくださって、本当にありがとうございました。あなたじゃなければ、こんなに素敵な作品にはならなかったと思います。それはこの絵本の主役が、あなたそのものだからです。
The real love is putting someone else before yourself. I wish you both happiness forever.」





わたしが依頼されたのは、映画披露前の原作者からのスピーチだった。本当にたくさんの人に助けられて、超スピード制作でできあがった『ざわざわきらきら』が、ついに流れはじめる。90分の映画なのでそこまで長くはないけれど、みな一様に、真剣な表情でステージ上のスクリーンを眺めていた。
跡部さんの結婚式で映画を初披露しようと提案したのは、もちろん侑士さんだ。結婚と同時に、跡部さんの彼女さんは、彼女から妻デビューとなり、さらに女優デビューとなる。あれだけ世間を賑わせた跡部さんと彼女が結婚するとなれば、マスコミが放っておくわけがない。しかもそこで初主演の映画初披露。大きな宣伝効果が期待されると、侑士さんは熱弁した。

――実は、越前がこの絵本をSNSで宣伝してくれることになっとるんや。まだしてないようやから、その宣伝を式の1週間前にしてもらうようにするわ。
――なるほど。越前が絵本を宣伝した直後に、実は映画化が決まっていると発表するってことだな?
――せや。しかも初披露は跡部と彼女の結婚式。お前の結婚式には、いろんな著名人が集まるやんなあ? 絶対にSNSでつぶやきよるで。当然、嫁さんが主演なんやから褒めんわけがない。日はもう決めとるんか?
――ああ、ふたりで相談した。必ず、その日じゃないとダメだ。調整は大丈夫か?
――さよか。ほな俺、それで入本さんにかけあうわ。なんとかなるやろ。いまんとこ、そんなデカい映画でもないしな。ほかの共演者もそこそこなのしかおらんし、監督もほぼ新人、こっちも口が出しやすい。
――つまり映画も女優もまとめてデカくするのは、俺らだってわけだな? やるじゃねえの、侑士。
――はい、いただきましたー。

ノリにノッていた彼らを思いだして、またワクワクしはじめる自分がいる。もう映画はすっかり撮影も終わって、いま現在、マスコミを含むたくさんの人々の前で発表されているというのに、あのときの二人、とってもカッコよかったから。

「伊織さん、おつかれ」
「侑士さんっ、うう、緊張したよー」

スクリーンを眺める人たちを確認してから、わたしは会場の外にいる侑士さんのところへ向かった。わたしたちはもう飽きるほどに観ているので、映画がはじまったら外に出ようと決めていた。
侑士さんがスピーチ前のように、腕をなでながらわたしを優しく見おろした。

「ホンマに緊張しとったんか? やりよってから」と、微笑んでいる。ああよかった。実はちょっと、本当に怒られるかもしれないと思っていた。
「本当に緊張してたよ? でも、やっちゃったね」
「ん。感動的でよかったで? 即興でようあんだけしゃべれるわ。さすが、俺の伊織さん」

耳もとでささやく侑士さんの吐息がリップ音に変わって、きゅっと身を縮めてしまう。人の結婚式だというのに、一応、会場の外だからというもの、耳にキスしてくるとは、それこそ、さすが侑士さんだ。

「けど伊織さん、最後の英語の部分、あれは考えとったん?」
「いやあ、あれも即興です。スピーチの前にシゲルさんが、本当に感動的なことをおっしゃって」

シゲルさんは、ザ・破天荒みたいな人だ。だから撮影現場でもいちばん目立っていたし、跡部さんの彼女がボロクソに言われているのを見て、とても怖い人だとも思っていた。侑士さんのフィードバックの比じゃない。演技の世界は恐ろしいなと思ったくらいである。

「伊織さん、てっきり英語が苦手なんかと思っとったのに」
「あれ、ボケたのに……」
「ボケやったん? わかりづら」
「だってわたし、これでも元、外資系の職員ですよ? ちょっとくらいできます」
「ああ、そういえばそうやったな。どおりで、発音もええはずや」

とか言いつつ、前半はとある映画の受け売りなんだけども。彼女はあの意味がわかってくれただろうか。跡部さんなら、絶対にわかってくれたはずだけど……。

「お、主役がきたで」
「え?」

一気に緊張から解き放たれたわたしが侑士さんの肩に頭を乗せて甘えていると、侑士さんは会場のほうを見て声をあげた。
はっとして振り返ると、跡部さんがこちらに向かってきている。いつものことなのだけど、跡部さんと対面するときは背筋がこれでもかというほど伸びてしまう。なんだかそういうオーラをまとっている人なのだ、彼は。

「よう、佐久間先生」
「あ、跡部さん、からかわないでくださいっ」

あの跡部さんから「先生」呼びされるとは思っておらず、緊張から解き放たれたはずがの心臓が、また緊張しはじめていく。
跡部さんはいつ見てもかなりのイケメンだけど、今日という今日は、ビシッビシに決まっていた。

「からかってねえよ。立派な先生じゃねえか。いいスピーチを、ありがとうな」
「いえあの、恐縮です。こちらこそ、わたしなんかに挨拶させてくださって、本当にありがとうございました」

頭をさげると、跡部さんはふっと微笑んだ。挙式は本当に豪華だし、ひっきりなしに衣装替えしている跡部さんと彼女さんは、ほれぼれするほど輝きを放っている。わたしには当分、縁のないことなんだろうけど……、やっぱりうらやましくなってしまうのは、女の性なのか。

「あの、彼女は……?」
「ああ、観客の顔を見たいらしい。置いてきた」
「そうですか。ふふ。仕事熱心な方ですね」
「あいつは女優業となると、目の色が変わる。まあ、そうあるべきだがな」

キスシーンで相当ごねていた跡部さんは、完成品をきちんと見てはいない。キスシーンだけどうしても見ないって、彼女さんがぼやいていたのを思いだして笑ってしまいそうになる。こんなにオラオラ系なのに、かわいいところがある。そういうところは、侑士さんに似ている気もした。

「跡部、主役なのにこんなところで油売っとってええんか?」
「この90分の主役は、あいつだけだ。俺なんてお呼びじゃねえよ」
「ははっ。まあ、そうかもなあ」
「それに……スピーチを聞いて、先生に言っておくべきことがあると思ってな」
「わたしに、ですか?」
「ああ」

跡部さんが、ただでさえ伸びている背筋をピンと伸ばした。自然と、わたしのただでさえ伸びていた背筋も伸びていく。ドキン、とした。その表情は、シゲルさんのそれとタブって見えたから。

「妻を採用してくれて、ありがとう」
「跡部さん……」やっぱり、シゲルさんと、同じことを……。
「正直、もうあいつの夢は途絶えたと思っていた。忍足と俺の関係性を知ってのことかもしれねえが、そうした計らいだとしても、心から感謝の意を述べたいと思う」
「い、いえ! 違います!」
「アーン?」
「わたしは、スピーチで言ったように、本当に彼女の演技力に圧倒されたんです。もちろんあれが演技だということは、侑士さんがいなければ気づけなかったことだけど……でもそれくらい、素晴らしかったということですから」

そうか、と跡部さんが嬉しそうに微笑んで、静かに口もとに手をあてた。喜びを噛み殺しているような表情に、侑士さんがニヤニヤしながらわたしを見てくる。
きっと侑士さんも、嬉しくてたまらないんだろう。でも、いわく「そんなの気色悪い」から、からかうようにしてごまかしてる。ホント、かわいい人たちだ。

「最後の締めも、胸が打たれた。さすが作家先生だな」
「いえ、あの、ぶっつけ本番になってしまって、すみません」
「『真実の愛とは誰かを自分自身より優先することだ』……それは先生、あんたにもふさわしい言葉だ」
「え……」
「俺が今日、先生に伝えたかったのはそういうことだ。この絵本、何度も読み返したが、あんたにはその右手で描きあげなきゃならねえ理由があったんだろ?」

すべてを見透かしているかのような跡部さんの言葉に、わたしも侑士さんも目をまるくしていた。じわじわと、鳥肌が立ちはじめている。

「じゃねえと、わざわざ涙を流してまで描く必要はない。だが、描かずにいられなかった。そんな愛の叫びが、この絵本からは聴こえてくる」

そう、わたしは侑士さんがつかんでくれたチャンスを、絶対に無にしたくなかった。完治が伸びて、もし、二度と同じように絵が描けなくなったとしても。絶対に、やり遂げると心に誓った。それは……誰よりわたしを応援してくれているのが、侑士さんだったから。

「だからこそ、言いたい。妻を担いでくれたついでにと言ってはなんだが、妻の今後は、俺が支えることになったからな……」と、侑士さんを横目で見て、つづけた。「今後は忍足のことを、よろしく頼む」
「ちょ、跡部っ……余計なこと言わんでええねんっ」
「アーン? 貴様は黙って聞いてろ」
「聞いとられるかこんなんっ」

侑士さんの顔が、わずかに赤くなっていた。

「こいつはいささか、面倒なところがあるヤツだが」
「お前に言われたくないっちゅうねんっ」
「侑士さん、黙って!」
「俺はこいつの、こんなに幸せそうな顔をはじめてみた。先生にしかできねえことだろ? あんたがいなきゃ、今日の日もなかった。いまの忍足もいない」

なん、なん、なんちゅう……と言いながら、侑士さんが両手で顔を覆っている。なににたいして恥ずかしがっているのか、なんとなくわかるわたしとしては、ニヤニヤが止まりそうにない。わたしとのことじゃない。跡部さんが侑士さんを想う気持ちに、侑士さんは赤面している。

「俺の親友に、これからも幸せを与えてやってほしい」

感無量すぎる思いに昇天しそうだった。彼がいちばんわたしに伝えたかったことは、彼女のことよりも、本当は、侑士さんのことだったんじゃないのか。そう思うと、胸がひどく熱くなっていった。

「跡部っ! もうええっちゅうねん!」誰が親友やっ! と、侑士さんがついに吠えた。
「ったく、うるせえヤツだな。門出なんだからこれくらい言わせろ」
「おおおお前が俺のことよろしく頼まんでも、俺がいつも伊織さんには頼んどるわっ」
「それじゃ心もとねえから俺から頼んでやってんだろうがっ」
「なんやねん心もとないって!」
「危なっかしいって意味だ」
「それはわかっとる!」

真面目なときは一瞬だけで、あっという間にいつもの二人に戻った彼らを見ながら、わたしは涙ぐんでいた。
あの跡部景吾に頭をさげられる日が来るなんて思ってなかった、というのもあるけれど……なにより侑士さんが、口ではいろいろ言いつつも、すごく嬉しそうだったから。





二次会も、びっくりするほど豪勢で賑やかだったけれど、なんとか無事に終わった。侑士さんはシゲルさんとペアで幹事を任されていたということもあり、本当にくたくたになっている。二人の男が取り仕切った二次会はエンタメ感満載で、まるでサーカスだった。
タクシーから降りて、アパートまでの道のりを歩きながら、わたしたちは余韻に浸っていた。

「とてもいい結婚式だったね、お疲れさま、侑士さん」
「ん、せやな。めっちゃしんどかったけど、跡部が結婚するとは思ってなかったぶん、感動もひとしおやったわ」
「侑士さん、跡部さんの挨拶で泣いてたもんね?」
「……ない、泣いてへん」
「ぷふふ。親友の結婚式だもんね?」
「もう、やめてや気色悪い……」

かわいい侑士さんがますます愛しくなる。ここ最近は周りの人たちも結婚が決まっていると知ったせいもあるけれど、今日という日だからこそ、わたしのなかにも「結婚」という二文字がぐいぐいと迫ってきていた。侑士さんと結婚……なんて、さすがに交際2ヶ月ちょいでは、夢見がちすぎるかな。でも、こんなに好きだと思える人に、もう二度と会える気がしない。

「でもみんな、幸せそうで、よかったですよね」
「せやね。跡部も越前も仁王も、全然、結婚には興味なさそうやったのに、不思議なもんやわ。不二もどうせあの調子やったらすぐやろし。あ、知っとった? 出会い、みんな大石の二次会らしいで」
「えっ、そうなの!?」
「せや。これもめっちゃ不思議よな。運命的っちゅうかなんちゅうか」

そうなんだ、と思いながらも、侑士さんは結婚に興味はないの? とは聞けなかった。興味ないわけじゃないの、知ってるし。一度は結婚を考えたんだもんね……わたしだって人のことは言えないのだけど、少しだけ、胸が痛い。

「伊織さん、今日も俺の家、来るやろ?」
「あ、うん。そのつもりだった」侑士さんは運転手さんにわたしのアパート付近を伝えたけど、荷物あるもんな? と言っていたので、それは暗黙の了解だ。
「ん。よかった」どうやらわたしの理解に満足だったらしい。「右手もあとちょっとやな。治ってもシャンプーはさせてな?」
「え、治ってもしてくれるの?」
「当然やろ。もうあれは俺の使命みたいなもんやから」

一生、シャンプーしてくれませんか? とも言えない。さすがになんだか図々しい気がする。侑士さんの自宅には、相変わらずほぼ毎日行っている。半同棲どころかほぼ同棲なんだけども、きちんと「同棲しよう」と提案されたこともなければ、周りの結婚ラッシュに「俺らも考える?」なんて雰囲気を出されたこともない。
いやいや、よく考えようか。だいたい付き合ってから1、2年くらいは様子見るよ、そうそう、それが普通。あの人たちが異常なんだ。ちょっぴり寂しくなってる場合じゃない。侑士さんは常識人なんだ。

「あ……」
「ん?」

わたしがひとり頭のなかでジタバタしていると、侑士さんがふと足を止めた。視線の先に小さな公園がある。歩き疲れて休みたくなってしまったのだろうか。

「伊織さん、公園に寄らん?」
「いいけど……どうしたの? 疲れちゃった?」うちで休んでくれてもいいのだけど。あとちょっとだよ?
「いやいや、ちゃうよ」

すっとわたしの手を取って、侑士さんが公園に引っ張っていく。端にあるジャングルジムとすべり台の対角線に、小さな2つのブランコがピクリとも揺れずに置かれている。となりには大きな時計と、さらにそのとなりにベンチがある、見慣れた公園だ。
そのどれにも近づくことなく、侑士さんは公園を見渡しながら、足を止め、わたしの正面に向き直った。

「覚えてへん?」
「え?」
「この公園、俺らのきっかけやろ?」
「あ……」

ひょっとして、と思ったときには、腰を強く抱かれていた。重なった唇から、あの日がよみがえってくる。しばらくは不本意だったけど、結果オーライとなった、はじめて侑士さんとキスした、あの日。
うっとりするようなキスだった。はじめてだってのに、ちょっと舌まで入れてきたことだって、ちゃんと覚えてる。

「侑士さん……またセクハラ?」
「ははっ。伊織さん、怒ったらすぐセクハラって言うんやもん、忘れたくても忘れられんわ」
「ふふ。忘れてほしく、ないのかも」
「ん……忘れへんよ。これも伊織さんとの、大切な思い出やもんな?」

これまでだって何度もこの公園の横をとおり過ぎているのに、今日に限って侑士さんが思い出に浸ってくれたことに、わたしはときめきを覚えていた。
侑士さんもいま、すごく幸せな気持ちなんだ、と思ったからだ。人様の結婚式に乗っかって、わたしたちもなかなかの浮かれ具合である。
落ちてくるキスと、頬を包んでくれる優しいぬくもりが、しっとりと心を溶かしていく。わたしたちに大きな進展はないけど、そんな不安は杞憂だよと、降り注がれる愛が教えてくれる。

「ふふ。侑士さん、止まらないね?」
「ん……今日、伊織さんとあんまキスしてないんやもん」チュ、と言葉を区切るたびに音がするのも、いつもどおりだ。
「どさくさに紛れてしたくせにー」
「あんなん、ちょっとやん。足りんって、わかっとるやろ?」
「わかってる……シュガーラッシュじゃないとダメだもんね?」
「せやで? こんな俺のわがまま付き合ってくれるの、伊織さんしかおらんしな」

微笑み合いながら、何度もキスをした。昼間だったら、家でやれ、と言われるだろう。
家、すぐそこだし……でも、この場所だから意味がある。侑士さんとわたしの思いは、きっと同じはずだ。

「せやからさ、伊織さん……」
「ん?」
「俺から、離れんでな……?」

少しだけ切なげな目に、あれ? と思った。このセリフを、前にも聞いたことがある気がしたからだ。
そう、あのときもシュガーラッシュの話をしていた気がする。

――伊織さんのおかげで、甘さって元気いっぱいになるんやなって知ったから、この名前にしたんよ。

ああ、そういうことだったんだ……。
思い返して、胸が、甘く痛みはじめた。あのときはまったく気づけなかったけど、いま気づいて、泣きそうになってしまう。それは今日だから、気づけたのかもしれない。

――俺、伊織さんやないとこんな甘くなられへん。せやから、俺から離れんといてな?

侑士さんは、『ざわざわきらきら』の子犬なんだ。
制作のときはわかっていたのに、想いが通じあったせいで本当に浮かれすぎていた。彼には、わたしの知らない顔がたくさんある。

――伊織さんを想いながらこの社名つけたようなもんやから。伊織さんが離れたら、仕事するたびに俺、泣いてしまうかもしれへん。

どんなに時間が経ったって、傷は消えない。
本当は、弱い。

――約束やで?

……弱くて、強いから。
わたしには見せないように、くうんと鳴きながら……侑士さんはいまも、震えているのかもしれない。

「侑士さん……」
「ん?」
「それ、もう聞かなくても、大丈夫だよ」
「え」
「離れんといてな、って。聞かなくても、大丈夫」
「そ……俺、そんな何度も聞いた?」

自覚がないほど、つらかったんだ。当時の彼を想像するだけで、涙があふれそうだった。嫉妬じゃない。彼の深い愛情を知っているからこそ、5年前にさかのぼって、彼を見つけて、抱きしめてあげたくなる。

「わたしは絶対に、あなたから離れたりしない。だから安心して」

侑士さんの瞳が大きく揺れた。彼も気づいたんだろう。うっかり口にしてしまっていたことを後悔するかのように、目が潤んでいく。
ほら、いまだって。思いだすだけで、つらいよね?

「ごめんっ、俺、そんなつもりやっ……!」
「うん、わかってる」
「ちゃうねん、比べるとか、信じてないとかやなくて……!」
「わかってる」

微笑んだ。安心してほしくて。大丈夫、大丈夫だよ、と伝えたくて、頭をそっとなでた。そのまま、その手を彼の胸に当てた。わたしの震える右手が、彼の傷を吸い取っていっているのか、じんわりと痛みはじめる。

「侑士のここには、きっと深いキズが残ってる」
「ちゃ、ちゃうよ……俺、伊織さんでとっくに癒やされとるしっ」

必死になる侑士さんが愛しくて、そのまま、胸にキスをした。ふっとおとなしくなる侑士さんが、黙ってわたしを見つめた。潤んでいた瞳から、ぽた、とひとつ涙が落ちる。大丈夫、わたしがいるよ。

「その傷を、わたしはもっともっと癒やしてあげたいって思うの。比べられたとか、信じてないなんて思ってない。それは仕方ないよ、侑士。忘れることなんてできない。無理に忘れる必要なんてない。だけどね、覚えていてほしい」
「伊織さん……」
「もし、周りのみんながあなたから離れたとしても、わたしだけは、ずっと、傍にいる。なにがあっても、あなたの味方でいる。絶対に……絶対に離れたりしないから」

侑士さんの瞳から、ぽろぽろと涙が落ちていった。くすぶっていた胸の痛みをどこにもぶつけれることがなかった彼は、どうやって今日までの時間を過ごしてきたのだろう。結婚前夜に最愛の人を失った心は、どれほどの悲鳴をあげながら、隠れて生きてきたんだろう。

「伊織さん……ごめん、好きすぎる」
「侑士さ……」

バサッと、手から荷物が落ちた。これまでにないほど強く抱きしめられた体から、彼の悲しみが伝わってくる。

「わたしこそごめんね。知ってたのに、気づいてあげれなかった」
「そんなん、そんなん伊織さん、俺自身わかってなかったんや、あたりまえやんか、ごめん、ホンマに……嫌やよな、過去のことで俺……」
「嫌じゃないよ、大丈夫。無理ないんだよ、侑士……大丈夫だから」

わたしの肩に顔を埋めながら、侑士さんは静かに泣いていた。彼の悲しみが沁みたわたしの目からも、いくつもの涙が落ちていく。

「伊織……好き、めっちゃ。愛しとる」
「うん、わたしも侑士が好き、愛してる。だから、大丈夫だよ」

過去を引きずっているわけじゃない。それでも与えられた傷は癒えない。だからこそ、人はまた誰かを愛するんだから。それは、罪深いことじゃない。

「……なあ」
「うん?」

体をゆっくりと起こしながら、侑士さんは潤んだ瞳のまま、わたしを見つめた。なにか言いたげな瞳から、また涙が落ちたと思った瞬間、それは聞こえてきた。

「……結婚、してくれへん?」
「えっ」

聞き間違えかと思うほど、唐突だった。流れていた涙がピタ、と止まっていく。
いま……プロポーズ、したよね?
ドクドクと、胸の痛みが、一瞬にして緊張に変わっていった。

「結婚……俺と、してくれへん?」
「け、え、け……」嘘でしょ? 絶対、まだ先だと思ってたのに。そりゃ、さっきちょっと寂しいとか思ったけど。
「みんな結婚していくしさ……幸せでええなって思っとった。せやけどまだ俺と伊織さん、付き合ったばっかりやし、さっき、伊織さんに言われて気づいたわ」
「え、な、なにに?」
「俺、どっかビビっとったんやと思う。信じてなかったわけやないけど……また」

また、5年前のくり返しになってしまったら、と思ったのだろうか。急ぎすぎて、わたしが離れていく可能性を考えたのか。

「伊織さん、前の男からのも、断ったって言うてたし……それがきっかけで別れたって、知っとったし、俺……」
「あ、あれはほら」
「わかっとるよ。頼りたくなかったんやろ? けど、俺、前はなんとかなったけど、伊織さんが離れるとか、ホンマに無理や。絶対に無理やから。せやから……たぶん、ビビっとった。けど、伊織さんが俺のこと、捨てるわけないやんな?」

自信があるような言い方をするわりに、その目が懇願している。愛しさが爆発してしまいそうだ。わたしだって、前の人のは断ってしまったけど、これほど愛している侑士さんからの嬉しい申し出を、断れるわけがない。それにいまは、状況も違う。

「侑士……」
「俺の奥さんになってくれる? 俺、伊織さんの旦那になりたい。ずっと傍で、俺のこと、愛してほしい」

思わず笑みがこぼれてしまった。愛してほしい、という率直な言葉が、いつも気取っている侑士さんからはかけ離れていて、それが逆に、心を揺さぶっていく。
ああ、なんて……なんてかわいい、大きな子犬なんだ、この人は。

「うん、うん。侑士……なるよ、わたし」
「伊織……」
「ずっと傍で、わたし、侑士のこと、愛しつづけるから」

やっと笑顔を見せた彼から、また、キスが落ちてくる。何度も重なるキスは、わたしたちの想いのぶんだけ、つづいていった。

「伊織、いっぱい愛してくれる?」
「もちろん、いっぱい愛します」
「ほな俺、その倍な」
「え、あ、ずるい。わたしはその倍!」
「ほな俺、その倍の倍や」
「もう、負けず嫌いっ」

キリがないまま、ふたりでケラケラと笑った。つまらなそうな顔をして深夜の公園を横切っていく人が、迷惑そうな顔でこちらを見ている。
それでもなんの遠慮もなく、わたしたちは手を絡めて、微笑みあった。それがいつもの、ふたりの大切な時間だから。そんな時間を、これからもふたりでつくっていこう。
時間が許す限りの誓いのキスは、長いあいだ、わたしたちを包んでいった。





「あかん、やりなおし」

今日も侑士さんの声がうしろから響いてきた。3万回は聞いてきたこの「やりなおし」は、何度耳にしようと慣れることがない。

「あのさあ、言われたとこ、なおしてるよね?」
「やかましい、代替案がようないって言うてんねん」

跡部さんの結婚式から、2年が過ぎている。そう、つまりあのプロポーズからも2年が過ぎている。侑士さんとの関係もあっという間に2年と半年が経つというのに、まったくもって、この調子だけは変わらない。
わたし、現在34歳。もうアラサーというのもちょっと遠慮する歳になっていた。

「伊織先生、ここ、どうします?」
「あー、そこはあとで……」

スタッフが話しかけてきた。株式会社シュガーラッシュには現在、8名のスタッフがいる。どのスタッフにも担当がいるのだけど、今回からわたしの新作には侑士さんと一緒に、別のスタッフも参加することになった。勉強のため、らしい。

「ここも絶対に、やりなおしや」
「ちょっと、口を挟んでこないでよ編集!」
「編集やから口を挟んどんねん、なにを言うとるんや」
「わたしの担当は彼でしょ!」
「そのさらに上の担当が俺や。お前な、こんなん通しとったらあかんで。この先生な、こういうズル賢いことようするねん。覚えとき」
「え、あ、はい……」
「誰がズル賢いって!?」
「賢いつけられとるだけでもええと思え」
「な……!」

わたしが爆発する前に、わあああ、とスタッフが声をあげた。わたしと侑士さんのあいだに挟まれるスタッフはいつもヒヤヒヤしていて、非常に申し訳ない気持ちになってくるが、これは毎度のことなので仕方がない。いちばん古参のスタッフはもう慣れたもので、この不毛な言い争いにもまったく興味を示さないのだけど……彼もそのうち、慣れるだろう。

「伊織先生、もうすぐはじまりますよー」
「え?」

時計を見ると、20時40分をさしていた。ほかのスタッフたちも作業机の上を片づけはじめている。女性スタッフがテレビ前にあるテーブルにグラスを並べはじめ、さっきから食事の配達のチャイムも何度も聞こえてきていた。

「あ、ホントだ」
「はい。なのであまりカリカリしないでください」古参スタッフはしれっと話をそらす作戦のようだ。新人スタッフの慌てっぷりを見ていられなかったのだろう。
「あのさ、それ上司に言ってもらえない?」
「俺はカリカリしてんとちゃうねん。めっちゃ冷静に指摘しとるだけやから。こいつはそれをようわかっとる」

ムカついたので、黙りこんだ。
『ざわざわきらきら』は、見事に大ヒットを収めていた。越前選手の宣伝効果もあって、なんと海外への配給までされたのだ。跡部さんの奥さんはいまや舞台にテレビにひっぱりだこの女優へと変貌を遂げている。今日は彼女の初主演作品が地上波初放送ということで、スタッフ全員で鑑賞会を行うことになっていた。

「ま、今日はここまでにしとこか。伊織さんも疲れたな?」
「ほとんど、侑士さんのせいだけどね」
「減らず口やなあ。さっと切り替えて準備しようや」

どっちが減らず口なんだ……! と言いたいのを我慢して、わたしもパソコンの電源を切った。ふーっとため息をつきながら肩のコリをほぐすように頭をぐるぐる回す。
プレッシャーが重くのしかかってくる。『ざわざわきらきら』を越すヒット作が、いまだ、わたしにはつくれていない。仕事が終わると相変わらず優しい侑士さんは、「慌てんでええって、そんなもんやから」と言ってくれるけど、わたしは当の本人だから、そんなふうにも思えないんだ。おまけに、なんだか最近、体調も悪いし。
気を取り直してマグカップを片づけていると、ピンポン、と玄関先からまた音がした。たまたま近くにいた侑士さんが、「俺が出るわ」と玄関を開けると、食料配達ではない運送会社の制服が見え隠れした。

「忍足伊織さん宛の荷物です」
「はいよ」

聞こえてきた配達員の声にはっとする。急いで玄関口まで走って、わたしは侑士さんと配達員のあいだに割り込んだ。

「わたしの荷物!」
「おお、なんやねん……ビビらせんなや」
「ご、ごめん、わたしの荷物だったから」

サクサクっとサインをして受け取る。ふうん? と気にしていない様子の侑士さんを見てほっとしながら、わたしはそっと事務所の奥へと進んだ。
侑士さんとわたししか、入れない寝室。ここを使うことはほとんどないけれど、今日のようなプライベートすぎる荷物の開封をするならもってこいの場所だった。
深呼吸をしながら、ビリっと封を切る。そーっと中身を出すと、案の定、それが入っていた。

「え、妊娠検査薬?」
「ええっ!?」

安心してバッグに入れる手筈だったというのに、いつのまにかうしろにいた侑士さんの声が響いて、跳ねあがるほどに体がビクッとうなった。

「えっ!? 伊織さん、えっ!? いまの、ちょ、もっかい見せて!」
「い、いや、侑士、ちょっと!」
「なんで隠すんやっ!? なあ!?」
「し、静かにしてよっ! 声落としてっ!」

ケンカしてると思われるじゃないか! いや、いつも目の前でケンカしてるからいいけど、寝室でしてたらマジで夫婦喧嘩だと思われるでしょうが!

「いいいいいいまの、妊娠検査薬やんな? な!?」
「侑士さん……」目ざとい。気のない振りして、しっかりうしろからついてきていたとは……さすが忍足侑士だ。
「男!? 女!?」
「ちが、まだ決まってないんだってば!」ていうかこの段階でそんなことわかるわけないでしょ! バカなのかっ。「これから検査!」

きっかけは、1週間前に帰国した治療院の先生とランチをしたときだ。いつも先生に会うとサービスで体を触ってくれるのだけど、そのときに「妊娠してない?」と言われたのだ。あの先生はエスパーだ。たしかに生理も遅れている。だから念のためってだけだったのに。

「俺らの赤ちゃん? なあ、なあ伊織さん、そうなん?」
「も……」

これだから、話したくなかったのだ。まだ決まってもないのに浮かれてる侑士さんを見て、またプレッシャーがかかってくる。プレッシャーは制作だけで十分なのに……プライベートまで、正直、やめてほしい。これでできてなかったら、ものすごい落胆っぷりを見せられるに決まっている。

「だから……まだ決まったわけじゃないから。ちょっと、遅れてるってだけ」
「あかん……伊織さん、俺、死にそう」
「侑士さん、落ち着いてよ……」

もう涙目になっている侑士さんに呆れながらも、笑いがこみあげてきた。まったく、この人はいつまで経っても子犬だと思うと、かわいいと思ってしまうから、わたしもなかなかの重症だ。
結婚生活も早2年……あのころと変わらないままの侑士さんが、愛しい。優しく抱きしめると、侑士さんの手が、わたしの左手の薬指をなでていった。

「はあ、長かった」
「だから決まってないってば……」

わたしの左手の薬指には、ふたつの指輪が重ねづけされたままだ。綺麗なダイヤモンドと、シンプルなシルバーリング。
あの日の翌日には、ふたりで買いに行った思い出の指輪たち。

「せやけど伊織さんいつもピッタリやん」チュ、とダイヤモンドにキスをして、つづけた。「遅れたりせえへんやんか?」

この2年で、侑士さんはわたしの生理周期にまで詳しくなり、口を出してくる始末である。まったく。

「そうだけど、この歳の女性にはありがちだから。あまり期待しないで?」
「なあ、なあ、いつ調べる? 俺も一緒に見たい」

キラキラとした目を向けてくる侑士さんの左手がわたしの頬を包んだ。薬指のひんやりとした感触に胸がうずく。彼にも、同じようにシンプルなシルバーリングがあるからだ。お互いそれを目にするたびにニヤニヤしてしまうくせが、いまだになおらない。なんだかんだ言いつつ、いまでも相当なバカップルだ。

「ん……じゃあ、今日の夜にする?」
「えー、いまからちゃうん?」
「こんなスタッフのいるなかで、無理だよ! しかも、ざわきらみんなで観なきゃでしょ!」
「せやった……」

しゅん、とした侑士さんに笑っていると、侑士さんも次第にじわじわと頬をゆるめていった。
自然と抱き合って、唇を重ね合う。わたしはまだまだ恋人気分を味わっていてもいいかなと思ったのだけど、侑士さんは早く赤ちゃんをほしがっていたから、嬉しくてたまらないんだろう。でも、決まったわけじゃないからね……?

「俺、めっちゃ幸せ、伊織さん」
「うん、わたしも幸せ」
「ええパパんなるから、頼むわ」
「もう……お願いされても、まだわかんないんだってばー」

ケタケタと笑いながらキスしていると、痺れを切らしたスタッフの声が聞こえてきた。
あいつら寝室で長いことなにやってんだと思われているに違いない。名残惜しくなりながらも、もう一度キスをして、そしらぬ顔して寝室を出た。

「忍足さん、コップ持ってください!」
「はいはい、堪忍なっ」
「あ、はじまりましたよ!」
「よっしゃ、乾杯やな!」
「地上波初放送! かんぱーい!」

たくさんの愛に包まれてできた映画を観ながら、たくさんの仲間との長い宴がはじまった。
その夜に浮きでた赤い判定結果に涙する未来は、もうそこまでやってきていた。





fin.

≠following link novel
 - Yushi Oshitari「ざわざわきらきら」
 - Ryoma Echizen「TOUCH」
 - Masaharu Nioh「ダイヤモンド・エモーション」
 - Syusuke Fuji「XOXO」
 - Keigo Atobe「ビューティフル」

recommend>>TOUCH_14


下記の書籍より多くの知識をいただきました。末尾ながらここに記して厚くお礼申し上げます。

『出版業界の危機と社会構造』小田 光雄(著)論創社
『鍼灸真髄』代田 文誌(著)医道の日本社
『良心をもたない人たち』マーサ・スタウト(著)草思社
『モラル・ハラスメントの心理構造』加藤諦三(著)大和書房
『なぜ、あの人は自分のことしか考えられないのか―――「ナルシスト」という病』加藤諦三(著)三笠書房
『離婚後300日問題 無戸籍児を救え!』毎日新聞社会部(著)明石書店
『死体は語る』上野 正彦(著)文春文庫



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