ざわざわきらきら_13


13.


目覚ましが鳴った。今日だけはかけとっても意味がないのに、平日は毎朝かかるようにしとったから仕方がない。スマホを手にとってアラームを消す。画面に表示されとる通知に、伊織さんからのメッセージは無かった。
わかっとったけど。やって俺、昨日から一睡もしてへん。軽くシャワーだけ浴びて、ソファの上で本を読みながらずっと起きとった。本の内容は頭に入ってこんかったけど。

――しんどくなったら、何時でもええから、電話してな? もちろん、無理せんで寝てもええよ?
――はい……ありがとう、侑士さん。

あんなつらそうな顔して……。
仁王の元不倫相手と、伊織さんの元同僚は同一人物やった。彼女がとんでもない人間やと知った伊織さんは、深いショックを受けとった。なんも言ってなかったけど、おそらく本人に連絡したはずや。
俺は編集者って仕事を長いことしとるせいか、読書はめっちゃする。せやからいろんな知識がわりとあるほうなんやけど……仁王の話を聞いて、伊織さんの友だちの「吉井」とかいう女は、たぶん「精神病質者」。いわゆる、サイコパスっちゅうやつやろうと判断した。
そうなると、相手が誰であろうと話をまともに聞けるような人間やない。あいつらは絶対に自分の非は認めへん。なにかあっても人のせいか運が悪かったと思うだけ。ゆえに、諭そうとするような人間を見下してバカにする。良心がかけらもないから、人の愛が理解できない。面倒になったらあっさり捨てる。酷いときは犯罪まで平気でする。けど、生きていく術として、人に好かれる方法は心得とる。IQが高くて、外面がええから魅力的な連中が多い。せやから友だちもぎょうさん、どっちかっちゅうと人気者。病的な嘘つきで異常者。
あの仁王が騙されとったっちゅう事実に俺は妙なものを感じとったけど、相手がサイコパスなら納得や。
昨日の夜、伊織さんはひょっとしたら説得にかかったかもしれんけど、きっと本性見せられて、友だちっちゅう関係も崩れたやろう。そうなることがなんとなし予想できたから、俺は寝んように待っとった。伊織さんから、いつ電話がくるかもわからんかったから。彼女がつらいときは、俺が傍で支えたい……。
でも、伊織さんから電話がかかってくることはなかった。よう考えたら、そういうタイプよなあ、伊織さんって。やっぱり彼女は年上のお姉さんやなあ、と思う。
負けず嫌いで天の邪鬼ですぐに拗ねたりして、ちょっと子どもっぽい面もあるけど……ホンマにシリアスな状況のときは、俺を心配させんようにする気遣いをいつもしてくれる。俺が頼りないってことでもないんやろう。普段、物理的なことはめっちゃ頼ってくれるし。せやけど精神面は、自立しまくっとる。自分でなんとかしようとする、カッコええ人や。そういうところが、また惚れ直してしまう。
久々の徹夜やっちゅうのに、頭を無理に回転させたせいでぼうっとしてきた。ソファから立ちあがってコーヒーをつくっとると、スマホが鳴った。着信音ですぐにわかる。伊織さんや!

「もしもし?」
「あ、侑士さん、おはよう」
「おはよう、伊織さん」

声が元気そうで、安心する。一方で、「昨日、どうやった?」と聞きたいのをぐっと堪えた。伊織さんの精神面の自立を、俺はめっちゃ尊敬しとる。俺も伊織さんに見合う男にならんとあかんからな。

「もうすぐ準備が終わるので、迎えに来てもらってもいいですか?」
「もちろんや。ほなすぐ行くから、待っとって」
「はい、待ってます!」

ここから伊織さんのアパートまでは30分くらいはかかる。つくりかけのコーヒーを放って、俺はすぐに着替えた。
精神面、めっちゃ自立させたいけど……伊織さんにいますぐ会いたい気持ちは、どうやっても抑えることができへんかった。





アパート前に到着すると、伊織さんは道路のところで待ってくれとった。このクソ暑いなか……なんちゅうかわいいことしてくれるんや。俺にはよ会いたかったんか? 俺もやで、伊織さん。半月は毎日一緒に寝とったもん。せやから昨日の夜は、侑くん寂しかったで……?

「侑士さん、おはよう!」

めっちゃ笑顔で車に乗り込んでくる。ハンドタオルで汗を拭きながら、それでも伊織さんは爽やか全開やった。俺が「明日はまた元気な笑顔みせてほしい」って言うたもんやから、そうしてくれとるんやろな。はあ、みずみずしい人やなあ。汗かいとっても綺麗。いやむしろ、それがええ。

「おはよう伊織さん。暑かったやろ? なかで待っとったらよかったのに」
「うん、でも、早く会いたかったから」

きゅん、とする。俺らふたりともええ歳やのに、付き合ってそろそろ1ヶ月やっちゅうのに、学生みたいに舞いあがっとる。こんなに夢中で誰かを好きになるとか、もう絶対ないと思っとった。

「俺も早う会いたかったで。伊織さん……よう寝れた?」
「はい、ぐっすり寝ましたよ! 侑士さんは?」
「ああ、よかった。俺もめっちゃぐっすり寝たわ」嘘も方便、言うてな。困らせたくはない。「さ、ほんなら、おはようのチュウせえへん?」
「ふふ、待ってました!」

その返事に笑いながら、伊織さんに唇を寄せた。触れるだけのキスを、音を立てながら何度もする。まだ朝の9時半。通勤途中の人やら、散歩中のじいさんばあさんがじろじろと車の外から俺らを見ていく。ほっといて。俺らいま10時間半ぶりの、久々かつ感動の再会やねん。

「ふふっ。ン、侑士さん、もう出発しなきゃ駐禁とられちゃうよ、ン」
「ん、ん、んーっ、そやな。ほないこか」

微笑み合って、俺らは前を向いた。さっと目をそらしていくご近所さんたちの顔に、逆にこっちが笑いそうになる。

「手、つないどこうな?」

体は離したものの、俺は伊織さんの手に手を重ねて、力を入れんように握った。骨折しとるし、運転中やからいつもはこんなことせんけど、今日はしときたかった。伊織さん、朝からめっちゃ爽やかでイチャイチャしてくれたけど、それも俺のためやってわかるから。
伊織さんが精神的に自立しとるのはわかっとる。やからこそ、俺はこの人を癒やしたい。

「うん……ありがとう侑士さん」
「俺がしたいだけやから」

伊織さんも、俺の気持ちをわかってくれとるんやな、と思った。多くを言葉で伝え合わんでも通じとる。それがどんなに心地ええか。親指だけぎゅっと力を込めてくる伊織さんの手から、愛が伝わってくる。伊織さんにも、俺の愛が伝わっとるはずや。

「なにも聞かないんだね、侑士さん」

信号待ちで、ぽつりと。顔を向けると、伊織さんは優しい表情で俺を見つめてきとった。昨日の夜、なにがあったか俺は知らん。けど、伊織さんはひと皮むけたように思う。新しくなにかを得て、またひとつ大人になったような、そんな表情やった。

「伊織さんは、話したかったら自分から話してくれるやろ?」そら、俺かて気になるけど。そんな好奇心だけで聞くのは、伊織さんに失礼や。
「ん……」

じわじわと、伊織さんの目尻に涙がたまっていく。

「大丈夫か?」
「ふふ。うん。侑士さんが優しすぎて、感動しちゃった」

微笑みながら、目尻をぬぐった。やっぱり、つらかったんやろうなと察した。話したらぶり返すもんな。無理はせんでええよ。

「俺、もともと優しいほうちゃうけどな。でも、伊織さんには、めっちゃ優しくしたいって思うねん」

信号待ちをええことに、また、キスをする。静かに受け入れてくれる伊織さんの左手が、俺の頬を包んだ。

「嬉しい……でも侑士さんは、もともと優しいよ?」
「そんなことないで? 伊織さん、よう知っとるやろ?」
「あははっ。ううん。もともと優しい」
「ホンマ? たぶん、伊織さんやからや」

何度もしつこくキスを堪能しとると、うしろの車からクラクションを鳴らされた。
おっと、と思わず声をあげて、急いで車を発進させる。すんませんね、朝の忙しい時間帯に。なんせ10時間半ぶりの、久々かつ感動の再会なもんでね。

「あかんあかん、つづきは事務所でやな」
「ふふ、だね」

伊織さんはくすくす笑いながら、まだ、涙をぬぐっとった。





事務所があるビルのエレベーター前で、配達員の格好をした兄ちゃんが荷台にダンボールを何個も置いて待っとった。9人は乗れるこのエレベーターも、荷台が一緒に入ると、あとは人間3人でなかなかの詰め込み具合になる。
俺は自然と伊織さんを引き寄せながら、兄ちゃんが入りやすいようにエレベーターの開ボタンを押したままにして、「どうぞどうぞ」「どうもどうも」のやり合いをしながら乗り込んだ。

「暑いのに、大変ですねえ」
「え、ああ、ええ。本当に、暑いですよねえ」

汗だくの兄ちゃんがはっとして俺を見た。東京で生活するようになって18年になるけど……都会の人って、急に話しかけるとめっちゃびっくりしはるよなあ。大阪とかスーパーのなかでめっちゃおばちゃんとか話しかけてくるんやけど、ああいうことも東京では滅多にない。あったとしても、やっぱりそれは関西出身のおばちゃんやったりする。

「あれ、侑士さん、これうち宛ですよ?」
「え?」

荷台のいちばん上にあるダンボールを見て、伊織さんがそう言うた。見ると、たしかにうちの事務所の部屋番号で、「忍足侑士様」宛になっとる。送り主は「翠松書房」やった。

「あっ!」
「えっ」

なにが入っとるかピンとくる。配達の兄ちゃんがぎょっとして声をあげるのと同時に、伊織さんもびっくりして顎を引いとった。

「ちょ、これうちの荷物です、もらってええですか!?」
「え、あ、でも……あ、そういうのはちょっとあの、か、か、確認が」
「確認? ああ、そうか、本人確認か」
「侑士さん、もう着くんだし、事務所まで運んでもらえばいいと思うんだけど」
「いやいや、これほかの荷物もあるからうちへの訪問がいつになるかわからへん。俺、待ってられへん」
「え……いや、ちょっと侑士さん」

子どもじゃないんだから、と伊織さんは呆れた。送り主を見てもわからんのか? ああ、もう、じれったいなあ。中身説明しとるあいだに階についてしま……ついてしもた!

「お兄さん、これ、俺の免許証! ほら、忍足侑士、書いとるでしょ?」
「は、あ、はあ。あ、じゃああの、一応、サインしてもえます?」
「はいはい、サインね」

兄ちゃんの手からボールペンをぶんどって、俺は「忍足」と乱暴にサインしてからダンボールを受けとった。兄ちゃんも手間がはぶけたせいやろう、ニコニコして最上階までのぼっていく。たかだか8階くらいしかないビルやけど、待ってられへんわ。
困惑しとる伊織さんに鍵を開けてもらって、入った瞬間に俺はガムテームを剥ぎ取った。なかから出てきたのは、案の定、完成された『ざわざわきらきら』の製本やった。

「あー!」伊織さんが発狂した。
「気づくん遅いわ」
「侑士さん! だからせっかちに!」
「そうやで? 見てみ、めっちゃええ感じや。発売、来週からやで。もう、届くんも遅いわ」
「すごい、すごい、すごい! わたしの本!」

伊織さんが左手だけで器用に本を近くの棚に置いて、1枚1枚めくっていく。彼女の目が、さっきよりもどんどん潤んでいった。その様子に、胸がじんわりとあたたかくなっていく。もっと伊織さんが愛しくなる。玄関で突っ立ったまま、お互い、たっぷり時間をかけて『ざわざわきらきら』を読みふけった。ストーリーも、絵も、何度も飽きるほど見返した絵本やけど、できあがった製本をはじめて手にしたときは、いつもめっちゃ新鮮な気持ちになるから、面白い。

「文章、やっぱりよくなってる」
「ん、せやな」
「……これ、いい絵本ですよね、侑士さん」読み終わった伊織さんが、潤んだ目のまま俺を見あげた。
「ああ、めっちゃええ絵本や」

自然と抱き合って、ふたりで感動をわかちあった。デビューが決まったときもこうして感動しあったけど、あのときとはまた違う、静かな感動やった。
来週からこれが書店に並ぶ。いろんな書店をめぐって、目立たせてもらうように挨拶まわりせんといかんな。伊織さんの手が治ったら、サイン会とかしてもええかも。どこかに掛け合ってみよ。
いろんなPRの妄想をしながら、俺は伊織さんの頬に唇を寄せた。

「嬉しいよう、侑士さん」きゅっと、俺の背中のシャツが握られた。
「ん、生きとったらええことあるな?」
「うん、ホントに……いろんなことがあるけど、人生でいちばん嬉しいかも」
「ええ? 俺と気持ちが通じ合ったときとどっちが嬉しい?」
「もうー、そっちは人生でいちばんの幸せなのっ」
「ふんふん。伊織さん、かわすのうまくなったな?」
「ふふ。侑士さんのおかげです」
「そら、どういたしまして」

やっとふたりきりになれたことで、今度こそ甘い、長いキスをした。はあ……あかん、ここんとこ毎日しとったのに昨日してないもんやから、朝からキスの連続で、もう勃ちそうや。伊織さん的にいろいろあったからちょっと離れたし、俺らの空気感もレベルアップしたで、そういう部分もあるやろう。

「さっそく、いろんなとこに売りつけなあかんな」やで、落ち着けるために仕事モードに頭を切り替えた。
「え、あげるんじゃなくて?」
「あげてどうすんねん、これは商売なんやで?」

ただでさえこれが最初の利益になるんや、いや、ほかにもいろんなことして利益は得とるけどもやな。それでも、これが本来の俺の仕事やし。なんせ独立後、初の作家デビュー作や。

「さすが関西人……」
「なんか言うた?」
「いえ……」

コホン、と咳払いしつつ、伊織さんは俺に抱きしめられながら、もぞもぞと体を動かした。
さっきまで手元にあった本が、また、めくられていく。俺は本を出したことないけど、自分の本って絶対に嬉しいよな。それをピュアにくり返す伊織さんが、めっちゃかわいい。

「ねえねえ、侑士さん」
「ん?」
「ここ、ひょっとして社名?」

絵本の奥付を指さしながら、無垢な顔で俺を見あげた。
そこには『編集協力 忍足侑士/シュガーラッシュ』と書かれてある。

「そう。まだちゃんと登記簿できてへんけど、入れてもろた。その手続きも来週で終わるわ」
「へえー! なんか、いい名前!」
「ホンマ? 正式名称は『株式会社シュガーラッシュ』な。伊織さん、意味わかる?」

伊織さんの影響、めっちゃ出てんねんで、この社名。顔がニヤけそうになるのを我慢できへんかったから、ごまかしついでにこめかみに何度もキスをする。
慣れたもんで、彼女は俺のキスを自然と受け入れながら、「うーん」と考えはじめた。

「えっとー……砂糖が突進」
「は?」
「な……なんてな!」
「……英語苦手なん?」

こないだのクリームチーズ塩こんぶのときも思ったけど、このお姉さん、ちょっと抜けとるところがある。まあそこがかわいいっちゃ、かわいいけど。

「大得意では……ないけど」ぽりぽりと頬をかいた。「これ映画のタイトルにもありましたね?」
「そうそう、ディズニーのな。あれは邦題やけどね」
「そうなんだ……それで、どんな由来なんですか?」
「ん。シュガーラッシュって糖分の過剰摂取でハイになるっちゅう意味」
「うんうん。それを、プラスの意味で?」
「もちろんや。甘くて元気になるってこと。そう思わん? 伊織さん」

もう一度、甘いキスを唇に送ると、今度は伊織さんも積極的に首に手を回してきた。
ああ、うっとりしてまう。伊織さんとのキスは、俺の栄養剤や。まさにこれが、社名を『シュガーラッシュ』にした所以。
今後ここで巣立っていくやろう作家も、どんな方法でもええから、メンタルはしっかり栄養補給して、元気に作品を仕上げてほしい。そういう心のこもった作品は、読む人のことをきっと元気にする。どんな感動でもええ。誰かの心の栄養剤になるような作品を届けたい。とまあ、いろんな思いが込められた社名や。

「伊織さんのおかげで、甘さって元気いっぱいになるんやなって知ったから、この名前にしたんよ」頬を包みながら、キスの合間に言うてみる。
「も、それこっちのセリフ。ホントに、元気になるね」
「ん……けど俺、伊織さんやないとこんな甘くなられへん。せやから、俺から離れんといてな?」
「侑士さん……」
「伊織さんを想いながらこの社名つけたようなもんやから。伊織さんが離れたら、仕事するたびに俺、泣いてしまうかもしれへん」
「……離れないよ、絶対」
「ん、約束やで?」
「うん、約束」

懲りもせずにふたりで学生みたいなこと言い合って、強く抱き合った。
キスもだんだんと激しさを増していく。ちろっと舌を出したら、あっという間に絡め合う形になった。
腰を強く抱くと、我慢できんようになった俺の欲望が、思いっきり伊織さんに当たってしまう。

「あ、も、侑士さん……」
「はあ……好き、伊織さん」

うっかり、胸に手をあてた。半日ぶりの伊織さんのおっぱい、めっちゃ柔らかい……。
あかん、なにしてんやろ俺……とは思っても、寝てないこともあるんか、逆にハイになっとる。

「ン、ちょっとお、ダメだよ」
「やって昨日ひとりやったし……」どさくさに紛れて、服の上から先端を揺らす。「伊織さんの甘さ、摂取できてへんねんもん。侑くん寂しい」
「あっ……も、予防接種みたいに言ってる場合じゃないってばあ、ここ、オフィス……あんっ」
「よう言うわ。ここで俺のこと襲ってきたくせに」もう1回どさくさに紛れて、服のなかに手をつっこむ。はあ……素肌、気持ちえ。「あのキス、またして?」
「あっ、ン……あれは、ちょっといじわるしたかっただけだから……はあ」
「ん、せやからお返し。俺もいじわる。ほら、もうコリコリ……」
「は、あっ……ダメだってば、侑くん……っ」
「ベッド行こ……?」
「だ、ダメ……!」
「こんなことできんのもいまのうちやで? スタッフ雇いはじめたらできへんし」それはそれで興奮しそうやけど……。事務所に徹夜用のベッド、用意しといて正解や。
「そ、そういう問題? あ、だ、ダメダメっ」
「なあ伊織……俺のこと好きなら、お願い」伊織さんが今日スカートなのも正解。
「も……侑士っ!」
「とろっとろ……伊織もすっかりその気やん」
「はあ……し、仕事はどうす……ああっ」
「今日は昼からでええわ……ん、伊織、めっちゃかわいい」

なんやかんや言いながらも、伊織さんって本気で抵抗はせんから、それもまた、めっちゃそそる。
結局、俺たちはそのままベッドになだれ込んだ。





絵本の発売から4日が過ぎた。この日、俺は朝から若干、しょんぼりしとった。なんでかって、伊織さんと付き合ってからはじめての禁欲生活がスタートしたからや。

「え、生理?」
「はい、今朝から」

事務所でテキパキ作業準備をしながら、伊織さんは言った。

「さよか。体調悪い? 大丈夫か?」
「わたし、生理痛は全然ないので大丈夫です。でも、言っておかないと」

え……と思う。体調悪くないのに、なんで言うん?

「……そういうこと、普通は言わんのんちゃう?」

思考がそのまま口から出た。俺、姉ちゃんおるからよう知っとるけど、女の人って普通、生理を隠そうとするよな? せやのに朝からわざわざ宣言してきた伊織さんに顎を引いとると、その目がキッとなって俺を睨みつけてきた。
めっちゃ怖っ! なん、なんで睨まれてんの俺!? 生理やから? 体調は悪くないけど機嫌は悪いから気をつけろや! とかそういう感じ? それともあんまり絵本が売れてないから、やつあたりか?

「侑士さんには即言っておかないと、どこでもかしこでも触ってこようとするからですっ」
「ああ……さよか。そうやな」なるほど、お気遣いいただいたっちゅうわけや。「せやけど伊織さんやって、嫌がらんしさあ」
「侑士さんが『俺のこと好きなら』とか言うからっ。ずるいよ、ああいうの。どうせ抵抗したら思いっきり拗ねるくせに」まあ、当たっとる。俺のことようわかってんなあ、伊織さんは。
「まだ怒っとるん? 1週間前のこと」

そら、事務所でしたけどさ。ちゃんとベッドの上やったし、優しくしたつもりやったんやけど……あの日、終わったあとで伊織さんは、「こんなとこで、もうー!」と、少々おかんむりやった。めっちゃ気持ちようなっとったくせに……。着衣のまんま、いうのも気にいらんかったんかもしれへんけど。
せやけど急に来客あったら困るやん? そんなら最初からあんなとこですなよって話なんやろうけど、それとこれとは別やん?

「もう怒ってないけど。とにかく、我慢していただきますから」
「ん……なあ、何日で終」
「何日で終わっても今日から10日は我慢してもらいます!」

めっちゃ食い気味で、ぎゃあぎゃあ吠えられる。やっぱり生理やから機嫌が悪いんやろか。

「ええ、そんなに!?」けど、そこには気づかん振りしてダダをこねてみた。
「普通でしょう!? 侑士さん、性欲強すぎだよ。そんなに我慢できないの? いままでどうしてたのっ」
「俺、別に性欲強いわけや……」強い、かもしれんけどさ。性欲とはちょっと違うねんて。「伊織さんやからやもん。毎日すんのも伊織さんだけやで?」
「また、すぐにそういうことを……!」これだから天然は! と、ぷりぷりしとる。俺、天然か? はじめて言われたわ。
「やってホンマのことやし。せやから、いままでは3日に1回、抜」
「言わなくていいから」
「聞いてきたんそっちやん……はあ、10日。長ない?」

人によるやろうけど、だいたい1週間でほぼ終わるはずやのになあ。と、心のなかでぼやいてみる。10日も伊織さん抱けんとか……仕方ないけど、なんとかならんやろか。

「長くありません」
「……俺は生理中でも全然」
「侑士さん!?」
「む……やっぱり嫌か?」
「嫌に決まってるでしょ! 変態! いままでもそういうことお願いしてきたわけ!?」

あかん、なんか変な方向で怒られとる。

「そんなこと、お願いしてきとるわけないやん。せやけど伊織さんやからやってばあ。1週間で終わるやろ? ホンマはもっと短いんちゃう? 終わりかけやったら」
「侑士さん!」
「む……」
「女の子はいろいろあるんです。とにかく、10日はダメ!」
「侑くん、寂しいよ伊織さん……」

態度が冷たい伊織さんの背中から腕をまわして、ぎゅっと抱きしめた。伊織さんとひとつになってからは毎日抱いとったのに……空けたの1日くらいやのに。なんで伊織さんは平気なん? あれ、俺がおかしいんか?

「もう、どうしてものときは、してあげるから……」
「それ、口でって意味で言うとる?」
「それ以外ないでしょ?」
「わかってない……」
「へ?」
「ちゃうねん。ちゃうんや。ちゃうよ伊織さんっ」
「え、な、なにっ」

この人、完全に誤解しとる。俺は別に自分の性欲をどうにかしてほしいわけとちゃう。伊織さんと愛し合いたいだけなんや。せやから俺が気持ちよくなりたいんやない。いや、なりたいけど。そうやなくて、俺が伊織さんを愛したいだけやのに。

「伊織さんと一緒やないと意味ないねん。伊織さんと一緒に気持ちようなりたいだけやから。俺だけようなるやなんて、嫌や」
「う……」と、伊織さんは、なぜか怯んだ。「じゃ、じゃあ10日、我慢するしかないでしょ?」
「ん……わかっとる」
「もう、しゅんとしないで? シュガーラッシュの忍足侑士なのに、シュガークラッシュの忍足侑士だね」
「うまいこと言うな」

ぼそっとツッコむと、伊織さんは俺に向き直って、ふふっと笑いながら、チュッとかわいいキスをくれた。
あ、機嫌なおったやろか。かわい……こっちも自然と笑顔になる。これだけでめっちゃご機嫌や、俺。10日は寂しいけど。一緒に寝てくれるやんな?

「変なことせんから、これまでどおり俺の家、泊まりに来てくれる?」
「うん、いいよ。でもお風呂はナシですからね?」
「ん、わかっとる。ありがとう。伊織さん抱きしめて寝れるだけで、十分や」
「わたしも侑士さんと一緒に寝れるの、嬉しいよ?」

いつものようにバードキスして、俺らはくすくす笑いあった。
はあ、めっちゃ幸せ。伊織さんを10日も抱けんのはつらいけど。それくらい我慢せなな、俺もええ大人やし。ホンマもんの性欲は、たぶん3日せんかったら頭おかしなってくるから、それは自分でなんとかしよ……。
それでも、いつものように伊織さんとはキスばっかりしとるから、夜に抱けんと思うだけで、悶々とはする。

「よっしゃ、ほなランチでも行こか」
「ランチ?」
「ん。ええ店があんねん。伊織さんもお馴染みの場所でな」
「わたしもお馴染みの場所……どこだろ」

俺は(自分の)気分転換のために、伊織さんを引っ張って不二の店に行くことにした。





『レストランは閉店しました。フードトラックをはじめたので、よかったら来てみてね』というメッセージが入ってきたのは、1ヶ月前のことやった。
不二とは、前に「本を出したい」と相談されてからめっきり連絡を取ってなかったんやけど、どこかで挨拶に行かなと思っとった。絵本の売れ行きもいまいちやし、書店めぐりも終わったし、このタイミングで知り合いに売りつけに行ったろ。偶然やけど、めっちゃええタイミングや。

「やあ、忍足。久しぶり」
「久しぶりやなあ不二。元気しとった?」
「うん、いろいろあったけどね。すっかり元気だよ」
「ええ顔してるわあ。あいつ、捕まったしな」
「ふふ。うん。あまり大きな声では言えないけど……正直、すごくいい気味だよ」

同感やった。
この1週間で、世のなかはいろんな動きを見せとった。毎日どこかでなにかが起きるからあたりまえのことやけど、越前のウィンブルドンニュースが終わったかと思ったら、先月末からは跡部周辺のニュースが世間をにぎわせた。この数ヶ月、身近な人間が次々とニュースになった。苦い気持ちでワイドショーのチェックをかかさんようになった俺にとって、最大のビッグニュースが流れてきたのは先週のことやった。不二をグルメブログで酷評しとった野瀬島克也とかいう胡散臭い料理批評家が逮捕されたんや。しかも一緒になって逮捕されたのが、跡部の勤める『アスピア商事』のCEO、九十九静雄。どういう流れかまだきっちりと判明はしてないものの、九十九と野瀬島は、跡部の3億事件で記者会見に出てきた遺族女性の父親の死の真相にも関連しとるっちゅうことで、事実は小説よりも奇なり状態。世間は大騒ぎ中やったりする。

「忍足は? なんだか綺麗な人を連れてるね」

不二の正直な気持ちに俺が大きく頷くと、不二はにこっとしながら伊織さんを見た。見て、すぐに彼女ってわかったんやろう。しっかりと伊織さんを褒めるあたり、さすが不二や。心得とる。お前は昔から、俺より一枚上手よなあ?

「えっ……あ、いえ。あの、えっと」
「俺の彼女やで。今日はランチしにも来たけど、彼女を紹介しよ思って。新人の絵本作家なんや。はい、これデビュー作な」
「ゆ、侑士さんそんないきなりっ」
「ふうん? これは買えってことかな? 忍足」
「当然や。1430円です。まいど」
「侑士さんっ」
「はいはい、あとで払うね」

呆れたように、不二はふんわり微笑んだ。ペラ、とページをめくりながら、「すごく綺麗な絵本だね」と、これまた褒める。さすが不二や。心得えとる。

「あ、ありがとうございます、すみません、押し売りみたいになっちゃって……もう、侑士さん、強引だよ」
「ふふ。大丈夫ですよ。忍足の押し売りには慣れてるから、僕」
「な? こう言うてはるし、遠慮することないわ」いちばん高いランチしに来たんやから、不二もそのへんはわかっとるやろ。
「すみません、本当に」
「いえいえ。でもそう、彼女さん、絵本作家なんだ。ん? それって前に……」

頭をさげる伊織さんをよそに、不二は絵本を読みながら記憶をめぐらせるように頭をかたむけた。
そういや、前に不二に会ったとき、伊織さんのこと話しとったっけ? えーと、あのとき、俺なんて言うたかな?

「そっか。忍足、いろいろ言っていたわりには、すっかり骨抜きにされちゃったんだね?」
「え?」
「え?」

俺と同時に、伊織さんも声をあげる。ええ? 俺、仁王には伊織さんのこと話したけど、不二とはもうしばらく会ってへんはずやのに。いろいろって、なに言うたっけ? あかん、全然、覚えてへん。

「覚えてない? 初対面で告白されたって言ってたよ?」
「えっ……も、侑士さん、そんなこと話したの!?」
「うわ……言うたっけ? いや、たぶん話の流れでな?」
「そう。話の流れでね。こんなことも言ってたな……」

シュッと、不二の細い目が開眼しはじめる。なんとなし、直感的にまずい、と思った瞬間やった。こういうときの不二を、俺はよう知っとる。とにかく、いじわるなんや。

「たしか、『アホか。そんな気さらさらない』って」
「は」伊織さんの眉根が、ピク、と動いた。
「不二……お前」
「さあ、僕はランチつくるね。おふたりとも、ごゆっくり」





ぷっと頬をふくらませたまま、伊織さんが静かに魚を口に放り込んだ。「おいしっ……!」と感動しとるけど、俺が「そやろ?」と視線を送ると、ツンと口を尖らせた。ああ、美味しくてもご機嫌ナナメや。

「もう……伊織さん、許してや」
「別に怒ってません。わかってたことだし」

不二のヤツ……俺が強引に本を買わせたから、ちょっとしたいたずら心やったんやろうけど。
伊織さんはいま生理中やから機嫌がすぐに悪なるっちゅうねんっ! はあ、なんであんなこと言うたんやろ、過去の俺。こんなに好きな人やのにっ。

「お互いさまやんかあ? な?」
「わたしは初対面で侑士さんに告白した身なので、お互いさまじゃないです。最初から侑士さんのこと好きだったもん」
「そ……わかっとるよ? せやけど俺も結構前から伊織さんのこと好」
「最初に怒られたから、侑士さんに幻滅されたのもわかってたけど、それをお友だちに、わざわざ、あんな言い方して報告しなくたって!」
「せ、せやから、話の流れやったんやってば……」
「どうせ、『アホな女がおってん、初対面で告白してきよったわ、お前なんかに興味あるかっちゅうねん』とか言ってたんだ」
「ゆ、言うてへん!」
「それでお友だちと一緒になって、わたしのことバカにしてたんだっ」
「してへんってば! 伊織さん、機嫌なおして? 俺、こんなに伊織さんのこと好きやんか」
「いいもん。どうせバカなアラサーです、わたしは」

もう、めっちゃぷりぷりしとる。これから数日はこのぷりぷりがつづくんやろか。なんで生理になると機嫌が悪くなるんやろなあ、女の人って。大変やな。いやそっちも大変やけど、こっちも大変やねんで? せやけどまともに相手しとったら仲が悪くなるだけやし、優しくしたらんとな……。

「そんなん思ってへんから、な?」
「うっそ、これもすごく美味しい、なにこのスープ」
「聞いとる? 俺の話」

スン、と伊織さんが俺に顔を向けた瞬間やった。伊織さんの顔が、スン、から徐々に驚きの表情に変わっていく。その視線は、いつも伊織さんが通っとる治療院の方向に向けられとった。
そう、不二の店は偶然にも俺が跡部に教えてもらった治療院の近くでオープンしとった。初日に伊織さんを送ったときは、反対側に車を停めたせいで見えてなかったんやけど。
気になって俺が振り返ると、そこに越前がおった。しかも、なんや女の人と手をつないどる。

「越前!」
「えっ、やっぱりあれ越前選手!?」
「忍足さん……」
「えっ!? ちょ、侑士さん、あ、跡部さんだけじゃなくて、越前選手とも知り合いっ!?」
「え、ああうん、そやねん」

また慌てだした伊織さんに生返事をして、俺は越前に向かっていった。いうても距離は2メートルくらいやったから待っとったら来たんやろうけど。越前に会うのも久々やった。大石の結婚式以来や。

「そ、そっか……て、テニスだっ」伊織さんはまだ、慌てながらぶつぶつ言うとる。
「どうしたんスか。不二先輩のランチ食べに来たんスか?」
「せやねん。うわあ、なんや越前、元気そうやん。膝どうなん?」
「ああ、来週から手術なんスよ。全然、平気」

負けず嫌いが相変わらずで、安心する。そのあいだも、越前はとなりの女の人の手をしっかりと握ったままやった。おうおう、お前、見かけによらずベタベタでお熱いやんけ。めっちゃ綺麗な人……誰やこの人、越前の彼女?

「えっ!? 先生!」
「あらっ……あなたはっ」

と、思っとったら、越前の彼女やろう人に、伊織さんが大きな声をあげた。先生……ちゅうことは、治療院の先生か? 先生も伊織さん知っとるみたいやし、これが噂のゴッドハンドの院長先生か。
女の人っちゅうのはこういうとき、完全に男を無視して盛りあがる。伊織さんとその先生は、きゃいきゃい言いながらお互いが駆け寄って話しはじめた。
パッと瞬時に離された手のせいか、越前が名残惜しそうに先生を見る。ぷ。かわいっ。どう見てもお前、年下の男の子やもんな?

「……患者さん、だったんだ。あの人、忍足さんの彼女ッスか」
「そう……ちゅうかお前、治療院の院長先生と付き合ってんの?」
「まあ……俺の、専属トレーナーやってくれてたんスよ。前の試合で」

まあ……とかカッコつけとるけど、先生を見る越前の目が優しい。ちょ、見せつけてくれるなあお前。その視線だけでめっちゃノロけてんの、気づいてないやろ?

「へえ。ああ、そうなんや。しかし、えらい盛りあがっとるな」
「ッスね……」

女性陣から、「あの人が噂の彼氏? イケメンじゃないー」「先生こそ、すごい年下ボーイと付き合ってるじゃないですか!」と、ガールズトークの延長線が聞こえてくる。
なんやかんや言うて、自分かてベラベラ俺のことしゃべっとるやないかっ。ま、ええけど……イケメンと言われて、悪い気はせえへんし。

「なあ、越前」
「はい?」
「これ、買って。お前の財力やったら100冊くらい送りつけたいところやけど、1冊で我慢したるから」
「はあ?」

俺はバッグの中から絵本を出して、越前の胸に押し付けた。念のために5冊ほど持ってきといてよかったわ。跡部は忙しそうやし、今度、仁王のとこに持っていくとして、ほとぼりが冷めたら跡部に売りつけて、俺の事務所に来たぶんはそれではけるな。追加注文したろかな。

「なにこれ、絵本? 忍足さんが編集したんスか?」
「そ。お前も大変やったやろうけど、俺も会社辞めて独立してバタバタしとったんや。これ、俺の独立後の初仕事。あそこでお前の彼女と盛りあがっとるのが、作者な」
「へえ。忍足さんって、仕事に恋愛とか持ち込むんだ」
「越前なあ……お前に言われたないで」

ボケたつもりなんか天然なんか知らんけど、一応、関西人としてツッコんどいた。越前は無反応に黙り込む。愛想なしなのも相変わらず、か。

「ま、いっすよ。いくらッスか」
「1430円。143000円、振り込みでもええで? そしたら100冊」
「はい、2000円。おつりはいいッス」

越前が即座に財布から金を出してきた。
冗談も通じやん……それも相変わらず、か。俺、これでもお前の試合は全部チェックして応援しとったんやで? ファンにあんまりな態度ちゃう?

「まいど……越前さあ、しばらくテニスからは離れるんやろ?」
「まあ、そッスね。でもちょうどいいかなって」
「ちょうどええ?」
「ん……まあ、忍足さんにはまた連絡することになると思うんで、そンときにでも話しますけど」

言いながら、越前がまた、ふんわりと先生のほうを見た。表情が、めっちゃ柔らかくなる。嘘みたいやった……そんな越前の顔、はじめて見たからや。
これは……よっぽど好きなんやな、院長先生のこと。なあ不二……こいつこそ、骨抜きにされとるんちゃうか? お前いま調理中やから、一切、見てないやろけど。

「なあ越前、ちょっとお願いがあるんやけど」
「……なんスか」
「なんや、その間は」
「なんか、ろくでもなさそうだなと思って」
「んん、あのな。100冊は勘弁したるから、この絵本、SNSで」
「嫌ッス」

……幸せモード全開にしとったから、ひょっとしたらやってくれるんちゃうかって思った俺やったけど、さすがに甘かったやろか。
即答されて撃沈した俺は、無言で不二のランチに戻った。





絵本が発売されてからそろそろ2週間が経つ。まあ、本っちゅうのはいつなんどき売れはじめるかわからんから悲観はしてへんけど、あんまり好調やない。
好調やないと重版もされんから、それは困る。このまま伊織さんの絵本は翠松書房で売っていきたいし、山田編集長に恩も返したい。そろそろ本格的なPRを考えなあかんところや。

「侑士さん、電話きてます」
「ん? 誰?」
「わ! 越前選手ですよ!」
「越前か、なんやろ。スピーカーにして取ってくれる?」

越前から電話がかかってきたのは、そんなことをぼんやり考えながら、伊織さんのシャンプーをしとるときやった。
禁欲生活中は伊織さんとのお風呂もNGやから、シャンプー台の日々に逆戻り中や。俺の手が離せんときは、あのころのルールのまま、電話が鳴ると伊織さんが知らせてくれる手筈になっとった。

「もしもし?」
「おう、越前、どないした?」

そういや越前、「忍足さんにはまた連絡することになると思うんで」とか言うとったな。あれたぶん、結婚報告やろ。大石の結婚式のときは結婚になんの興味も無さそうやったのに。仁王もそうやけど、男って本気で好きな女ができると変わるよなあ。折れてた翼が修復されて、羽ばたいていくみたいに……俺も、伊織さんに会って変わった気がするし。

「ちょっと、急なお願いで悪いんスけど」
「お願い?」

越前が俺に……? そんなんはじめてのことやったから、俺は妙に身構えた。『ざわざわきらきら』の重版の件で頭がパンパンのいまの俺に、厄介事やったら困る……と、思ったのはつかの間のことやった。

「絵本、読んだんスけど」
「おお、ホンマ? おおきに」

わあ、と伊織さんが感嘆の声をもらした。すごい、すごい、と涙目になっとる。感動しいやなあ。あの日の帰りも、「越前選手ともお友だちなんて、侑士さんすごすぎます!」とテンション爆あがりしとったもんなあ。
まあ、俺にとっちゃ昔から生意気な他校の後輩ってだけやけど、相手は世界の越前リョーマや。伊織さんからしたら、信じられへんような展開やろう。

「SNSがどうとか、言ってたよね」
「え? ああ、うん。お前がちょっと投稿してくれたら、そらすごい影響やからな」

ちゅうか、それはお前のお願いやなくて、俺のお願いなんやけど。なんか話がこんがらがってへん?

「まあでも、ちょっとした冗談やから、流してくれてええで」そんなんするタイプやないのも、わかっとるでな。俺も、図々しいなと思ったし。
「いいッスよ」
「えっ」
「えっ」

俺だけやない。伊織さんも思わず、声をもらしとった。
い、いま、SNSにあげるの、OKしてくれたん? 嘘やろ? なんで? 越前、あんな感じで絵本好きやったとか、そういうオチ?

「いい絵本、だったし……彼女の助言もあったんで」
「え、あ……マジで? 院長先生も推してくれたん?」
「まあ、そうッス」

ふあああ、とシャンプー台に寝転がっとる伊織さんが目をまんまるにして気を失いかけとる。気持ちはわかる。俺はシャワーで手についた泡を流してから、伊織さんの左手をそっと握った。伊織さんも、強く握り返してくる。

「マジで? ホンマにええの越前?」
「はい……けど、交換条件があるんだよね」
「じょ、条件?」

どんな条件でものみたいとこや。越前が宣伝したら、重版、あっという間に決まるかもしれへん!
越前と絵本なんて、誰が見ても奇妙な組み合わせやけど、それがまたええやん! ネットで絶対に騒がれるに決まっとる!

「なに? なんでも、できる限りのことはするわ」
「じゃあ……遠慮なくお願いしたいんで、病院に来てもらえます?」
「は?」
「オレ、今日から1ヶ月、入院なんで。忍足さんに、ちょっとおつかい頼みたいんスよ」

伊織さんと顔を見合わせてから、俺はとりあえずシャンプーを終えたあと、ひとりで越前が入院する病院に向かった。
まさかのお願いに俺はしばらく唖然としとったんやけど……ホンマにシュガーラッシュの忍足侑士なんやなと、実感することにもなった。妙なおつかいに、やけに張り切る俺がおる。そんな自分に笑いそうになる一方で、幸せな気分に浸りながら、俺は病院をあとにした。






「ただいま」
「あ、侑士さんおかえりなさい。越前選手、なんだったんですか?」

事務所に戻ると、伊織さんがすぐに振り返って笑顔を見せてきた。シャンプーも終えたし、生理もとっくに終わったやろうから、伊織さんはご機嫌そうやった。

「ん、まあいろいろとな」
「いろいろ……ですか?」

越前のお願いはちょっとしたプライバシーやから、俺の心のなかに留めとくことにしようと思う。伊織さんに話してもよかったんやけど、ひょんなことから伝わったら計画が台無しんなるで、秘密をつくるのは気後れしつつも越前を優先させようと思いながら、俺はしれっと話をそらした。

「ん、伊織さんは? 構想、順調か?」
「あ、はい。少しだけ……読んでもらえますか?」
「もちろん。見せて?」

ざっくり書かれた絵コンテと字コンテを見ながら、さて今日はどんなふうにフィードバックしようかなと考える。
あんまり言うと伊織さん拗ねるし、この加減が最近は難しい。かわいいかわいい伊織さんやから、ホンマはめっちゃ優しくしたいとこやけど、伊織さんとは男と女の関係やからこそ、厳しくせなあかんと俺は心に決めとった。甘やかしたら絶対に質が落ちる。せっかくの伊織さんの才能を、俺の煩悩で潰すわけにはいかへんからな。

「全然、あかん。なんやこれ」
「ええー……またあ? もう、侑士さん厳しいよう!」

この瞬間、別人みたいに厳しくなる俺を、伊織さんがめっちゃ悲しい目で見つめてくるのに、俺は弱い。それでも心を鬼にしながら、俺はつづけた。

「ダメやってこんなしょうもない展開。俺が言うたこと無視してるやん。なおせ言うたとこなおってないの、なんでやねん」
「ひどい! しょうもなくないです! それに納得いくような展開にならないんですもんっ。侑士さんの注文、難しすぎるし!」

目の前におるのは豚や、牛や、ガチョウや、と思いながら、俺は何度も赤ペンでバツをつける。前まで野菜やと思い込もうとしたけど、それやと人間味なさすぎるで、最近は動物にしとる。犬やら猫にしたらちょっと「かわいい」とか思ってしまうから、なるべくかわいいとは思えんようなもので変換しまくった。

「その難しいのに応えてこそプロや。やりなおし」
「もうなおせない!」
「なおせる! 俺がなおせ言うたとこも全部きちっとなおせっ」

ぶっすーとふくれあがった頬を見んようにして、俺はぷいっと顔をそむけた。俺かてつらいねんで!? それをぶつくさぶつくさ、いっつも文句ばっかり言いやがって。いや文句を言うてんのは俺やけど。
仕事は仕事! けじめつけな! 仕事中に愛に溺れたらふたりで地獄行きや。制作中は、いくらシュガーラッシュでも甘えは絶対に許されへんねんっ。せやから甘えは制作してないときに補給するんやっ。

「もういい。侑士さんなんか嫌い」
「ああ、さいですか」嫌いって言いよったな……ホンマ、しばきまわしたろかっ。
「彼氏なのにっ」
「それ言うのやめろって言うとるやろ。何回も言わせるな」
「二重人格!」
「おお、二重人格で結構や」

俺、どんなに厳しゅうしても「嫌い」やなんて言うたことないのに……。伊織さんはすぐ、「嫌い」とか言いよる。そのたびに結構、傷ついてんのに、そんな俺の気持ちも知らんと……ホンマ、作家って、ホンマ……なんでこんなわがまま人間が多いんやろな!

「だいたい侑士さんなんて、作家でもないんだから、なにも生み出したことないくせにっ」
「それでも良し悪しはわかる、何年この仕事してきとると思ってんねん」
「生み出すのがどれだけ苦しいかも知らないでっ」
「そんなに苦しいのに、その程度のものしか描けへんのも苦しいやろなあ?」
「あああああああ! もう最低! 侑士のバカ!」
「はいはい、バカでええです。センスのない話よりよっぽどええわ」
「エロ編集者! ヘタレ! セクハラ野郎!」

せやからいつまでセクハラのこと言うねん! ああ、こっちが生理で機嫌悪くなりそうやわ! 禁欲生活、男にとっては生理みたいなもんやろっ。
と、イライラが爆発しそうなのをぐっと堪えて、伊織さんのうなり声を背中が聞いとるときやった。今度は、事務所の電話が鳴った。なんやなんや、今日は忙しいやんけ。

「はい、シュガーラッシュです」
「お忙しいところすみません、株式会社ピエロの入本と申します」
「ピエロ……?」

さっきまでの憤慨が、一瞬で消える。株式会社ピエロは、エンタメ業界最大手の会社で、俺も前の職場ではめちゃめちゃお世話になった会社や。
けど……入本さん? 聞いたことないな。しかもこのできたての事務所に電話かけてくるやなんや、どういうことや?

「はい。ピエロの入本と申します。忍足さんは」
「ああ、僕が忍足です」
「あ、忍足さんですか? 代表の。サイトを見て、お電話させていただきました」
「はあ……あの、どういったご用件でしょうか」

この数日で、シュガーラッシュの登記も終わっとるし、会社のホームページはずいぶん前からできあがっとったで、そんなに不思議やないけど。
まだ会社の作品としては、『ざわざわきらきら』しか出版に至ってない。え……ちゅうことは?

「いきなりのお電話ですみません、現在発売中の『ざわざわきらきら』ですが」
「え、はい」やっぱり、絵本の件!?
「実写映画化をしたいと思っています。ご挨拶も兼ねて、軽く打ち合わせをさせていただきたいのですが、まずは作家の先生に聞いていただけないかと思いまして」
「……ほ、ホンマですか!?」

俺が大声をあげたことで、すっかり背中を向けて激おこ状態やった伊織さんが、ぐるんっとこっちに振り返った。あかん……急展開すぎて、頭が回らんようになってくる。

「はい、ぜひとも……お話し、いただけますか? えーと、佐久間先生に」
「願ってもない話です。ちょっと、作者に確認して、すぐに折り返します!」

さくさくと電話を切って、俺はそのまま、伊織さんに声を張りあげた。

「伊織さん、実写映画化やって!」
「え!?」
「伊織さんの『ざわざわきらきら』を、あのピエロが実写映画化したいって!」
「えええええええ!?」

さっきまでの言い争いが嘘みたいに、俺らは歓喜で舞いあがった。デビューが決まったときも抱き合ったけど、こんな冗談みたいな展開に、抱き合わずにおれるわけがない。

「嘘、嘘、嘘! ホントですか!?」
「ホンマや! な、なんでやろ!? わからんけどっ!」
「ひゃあああああああ、侑士さん!」

前は伊織さんが突進してきたけど、今日は俺が突進して、伊織さんを抱きあげた。伊織さんが俺の腰に脚を回して、めっちゃカニバサミ状態で抱きついた。
はあ……これはあかん。そういやもう10日目ちゃうか? ああ、今日は燃えるな! こんな嬉しいニュースあったんや、絶対にOKやろ!

「伊織さん、やったな? な、そろそろ10日目やんな? 今夜はお祝い」
「侑士さん!」
「え?」

んーっと唇を寄せようとしたっちゅうのに、伊織さんが俺の顔をバシ、と正面から平手で止めてきよった。おい待て。めっちゃええムードやったやろいま! しかも痛い!

「あの人しかいません!」
「は、はあ?」
「実写でしょ? ヒロインですよ!」
「え、あの人? ひ、ヒロイン……?」
「おろして」
「え」
「早くっ」
「あ、はい」

トン、と伊織さんをおろすと、伊織さんはノートパソコンに片手でなにかを打ち込みはじめた。
俺は最高の知らせで最高の夜を過ごすことに大興奮しとったのに、伊織さんは違う意味で大興奮しとる。
パチパチと打ち込み終わったんか、彼女はノートパソコンをぐるっと俺に向けて、その液晶画面を堂々と見せてきた。

「ざわざわきらきらのヒロインをやらせるなら、この人しかいません!」

その液晶画面には、跡部の3億事件で記者会見した、あの女性が映っとった。





to be continued...

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