初恋_07


7.


電話を切ったあと、必ず液晶画面を見つめてしまう。
俺の伊織。待ち受け画面の伊織が、俺のほうを見て優しく微笑んでいる。胸があたたかくなる一方で、ちょっとだけ胸が苦しくなる自分がおる。
この1ヶ月は、そんなふうに過ぎていった。

――侑士、明日なんの日か知ってる?
――え? なんやろ。
――えー、もう……寂しいなあ。わたしら、付き合って1ヶ月やよ?
――ああ! そうやんなあ。堪忍、忘れてたわけちゃうよ?
――嘘やあ。いま忘れとったでしょー。

おやすみの前に伊織が笑いながらじゃれてきて、くすぐったい気持ちになる反面、やっぱりちょっとだけ胸が苦しかった。ホンマに忘れてたわけやない。伊織と気持ちが通じ合った日は人生最大の喜びやったで、しっかり覚えとる。そこからそろそろ1ヶ月が過ぎるっちゅうのも、当然わかっとった。それやのに俺がぼうっとしとるのには、もちろん理由がある。
……あれ以来、伊織とのスキンシップになんの進展もないからや。
いやいや、待って。俺を責める前にちょっと待って、ゆっくり聞いてほしい。これにも、もちろん理由があるんです。
まず、付き合って2週間後には期末考査期間に入ったのもそのひとつ。伊織とは毎日のようにランチしとるし、家庭教師がない日は、一緒に手をつないで帰っとる。けど、成績10番以内をキープすると家族に約束しとる伊織は、試験期間に入ると忙しい(ちなみに中間考査は見事10番やったらしい。さすが伊織や)。家庭教師も週3になるし、めっちゃ集中して勉強したいのもわかっとるから、土日に「遊ぼうや」なんて、とてもやないけど言えへんかった。
ほな最初の2週間はなにしとったんやってツッコミが入りそうやけど、先に言うとくわ。1週目は合宿。2週目はめちゃくちゃ試合やった。しかも関東大会やから青学も立海もおった……ホンマに感じ悪い。ま、俺はどの試合でも勝ったけど。せやから応援に来てくれた伊織に、ええとこは見せられた。ついでに他校のレギュラー陣に「俺、彼女できてん」って聞かれてもないのに自慢しといた。手塚と乾は「用件はそれだけか」で済ませよるし、不二は「ふうん」、河村と大石は苦笑い、菊丸は「ほい?」で終わり。幸村は「そうかい」で、真田は「たわけが!」でキレはじめるし、柳もこれまた「用件はそれだけか」で(データマンってみんなああなんか?)、柳生は「ご機嫌なんですね」と言ってすぐどっか行くわ、仁王は無視、切原は「うざいッスよアンタ」言うてめっちゃ機嫌悪くなって、丸井に至ってはジャッカルがなんか言おうとしたのさえぎってまで「だからなんだよ、童貞かよ、気持ち悪りいな」って引いとったで。あいつ、口のなかに大量のキシリトール入れていつかしばきまわしたる。なんで童貞ってわかるんや。否定しといたけど……。優しかったのは桃城くらいやな。となりにおる無言の海堂と越前とは違って、「よかったッスね、忍足さん! でも今日は負けませんよー!」とか言うて。昔からええヤツや。
……まあ、それはええとして。
ちょっとだけ、ホッとしとる自分がおるのも事実やった。伊織とは毎日のように顔を合わせとるんやし、チャンスがなかったわけやない。それでも、どうしても前に進めへんかった。手をつなぐ、抱きしめる……それ以上したくなっても、できへんかった。
これにももちろん、理由がある……勘の鋭い人はもうおわかりやろう。そう、跡部や。

――俺にも幼少期からずっと好きな女がいる。だが、その女と付き合ったことはない。

もうこれが、頭から離れへん。伊織もずっと俺を好きでおったって言うてくれたけど、跡部みたいに、伊織がほかの男と付き合ってキスして抱かれてをくり返してきたんかもしれんと思うだけで……抱きしめる以上に触れるのを、俺はずっと、怖がっとる。





梅雨時期やのに、翌日の天気はめっちゃカラッとして気持ちのええ空やった。まるでお天道さまが俺と伊織の交際1ヶ月目を祝福しとるかのような快晴や。

「侑士、今日は外で食べへん?」
「ん、そやな。ええ天気やもんな」

学校がある日、ランチだけは一緒にしとる。いつもは人が少ない教室や屋上……そうそう、カフェテリアもすっかりお馴染みの場所になったけど、伊織と付き合ってからは梅雨に入ったこともあって、外でのランチは、はじめてやった。
緑の上に、貸出備品で借りてきたレジャーシートを敷いて腰をおろす。今日は気温も過ごしやすい。

「わー、気持ちいい。日向ぼっこできるね」
「ホンマあ。気持ちよすぎて、俺、食べ終わったら寝てまうかも」
「ふふ。そしたら膝、貸してあげようか?」

きゅっと笑顔をつくった伊織にドキッとする。そ、そんなん俺、伊織の膝を枕になんかしたら、逆に寝れへんしっ……とか、言えへん。カッコ悪いでな。そのせいで少しだけ顎を引いて伊織を見とったら、俺が返事をせんうちに、伊織が苦笑いでつづけた。

「あ……ははっ。ごめんごめん、冗談。ちょっと言ってみただけやから」
「ははっ……あ、せやんな。冗談やんな」冗談やったんか……と、少し寂しい気持ちになった。「伊織は、今日もお弁当なん?」
「うん。侑士は?」
「俺、コンビニの弁当。味気ないやろ?」
「あ、それやったら、わたしのおかずとなにか交換しよう? そしたらちょっと味気でるよ」
「ホンマ? 伊織は優しいな。ありがとう」

この5年のこと考えてみたら、ホンマに幸せすぎる。何度も言うけど、毎日のように伊織に会えるし、会った日はランチ一緒にするし、手も握れる。抱きしめれる。このまま付き合っとったら、そらそのうちキスどころか、そういうこともするはずや。これ以上の幸せなんかないのに、それやのに……俺は伊織の過去のことを気にして、どこかうまく楽しめてない自分に嫌気がさしとった。
ごちゃごちゃ過去のこと聞くのも、小さい男と思われたなくて、してない。伊織も聞いてこんし。もし聞いて、「付き合ったことくらいあるよ」とか言われたら、死にたくなるやろし……。

「来週からやね、期末考査」
「せやあ、またやな。こないだ中間考査が終わったばっかやと思ったのに。伊織、今回も10番以内、取れそうなん?」
「自信なんかないよー。こればっかりはやってみんとわからんから。でもタクミさんも気合い入れて教えてくれてるし、うまくいくといいなあ」
「……ん、そやな」

ほんで、いまだにタクミの名前が出てくるとピリつく自分にも嫌気がさしとる。伊織、俺とのこと、タクミに言うとるんやろか。せやけど、それも聞けへん。
前に、クラスメイトの女子たちが「男子に彼氏いるか聞かれたら、いるって言う?」「言わなーい」とか話しとるのを聞いたことがある。なんで言わへんねん! とツッコみたくなったんやけど、そいつら曰く、「モテたいし、いつその人のこと好きになるかわかんないもんね」ちゅうことらしい。せやから女友達には自慢するけど男相手には隠すとか言うてて、勝手に耳をダンボにして聞いとったその会話に、俺はめっちゃげんなりした。女っちゅうのは、恋愛に夢中になるくせに、どこか冷静で残酷や。
伊織は……そんなことないよな?
思いを馳せながら伊織のほうを見ると、その視線が俺のうしろ側を見て固まっとった。なんや? と思って振り返る。そして、俺も同時に固まった。
校舎の中庭ベンチで、俺と伊織のような男女のカップルが、めっちゃキスしとったからや。しかもどっちも知っとる顔の3年生。二人のキスが終わった瞬間に、俺はバッと体をもとに戻した。伊織もバッとそこから目を逸らすようにうつむく。その拍子に、俺と伊織はしっかりと目が合った。

「……あ、はは。なんか、ね」
「そ……せやな。だい、大胆やな? 昼間やっちゅうねん」
「って、ていうかこんな、中庭で……人目、気にならないのかな」
「あの調子やったら、ならんのやろなあ」

ま、俺もならんけど? とか、いかにも経験者っぽく見栄張って言うてしまおうかと思っとると、伊織が「でも……」とつぶやきはじめた。
その、「でも……」のつづきを待っとるうちに、伊織の顔がみるみる真っ赤になっていって、俺は妙な空気感にソワソワした。
これあれや、2時間ドラマを家族で見とったら急に入ってくるラブシーンに気まずくなる……まさに、あの空気感。どういう顔したらええんかわらかんまま、コンビニのにぎり飯のビニールをせっせと剥ぎにかかっとると、ようやく伊織が「でも……」の先をつづけた。

「なんか、み、見てるだけで、ドキドキするね」

その言葉に、ビキーン! と全身が反応する。
え……き、ちょ、き、待って伊織……。そんな顔してそんなん言われたら、こっちがドキドキするんやけど……。そ、それは、俺らもしよってこと? かか、考えすぎか? せやけど交際1ヶ月、もうそういう時期やんな。ちゅうか、なんならとっくにそんな時期、過ぎとるんかな? よう平均的なものがわからんけど。

「そ、アレやんな。家族でテレビ見とって、2時間サスペンスとかでラブシーン出てきたら気まずくなったりするやつ」さっき頭のなかで考えたことを、俺はそのまま口に出しとった。
「え……」

ポカンとする伊織の横で、ああ、なにを言うてるんやろ、とはもちろん思っとる。けどもうこのドキドキを抑えるのにどうしてええかわからんで、俺は話を逸らすようにしてそんなことを口走った。

「なんか変な空気になるよな、ああいうの。伊織どうしとった? 俺はスマホゲームに夢中になっとる振りしとったわ」
「あ……うん、そうやんね。わたしもだいたい、お風呂入ってくるとか言って、逃げちゃってたかなー」

なにこの、さぶい、意味のない会話……めっちゃどうでもええやん。自分のトークセンス疑うわ。
せやかて……動揺しとるとこなんか見せたなかったんや。やってなんか、人のキスシーン見てめっちゃ動揺しとるとか、女の子はええけど、男やと童貞みたいやん! いや童貞やけどさ! とにかくカッコ悪い!

「ああいうときのオトンとオカンって絶対に無言よな」
「ふふ。うん。親のほうが気まずいんだろうね」
「子どもがなんか言うてきても嫌やろうしな」

ケラケラと無理に笑いながら、なんてことないわ、っちゅう振りして視線をぐるぐる周りに向けたときやった。正門付近で、見覚えのある姿を見つける。長い足、ウェーブのかかった黒髪、色気がそのまま服来て歩いとるような男……それはかなり久々の、タクミの登場やった。
いやいや待て待て。お前、大学院生やろ。めっちゃ部外者なのになんでここに来てんねん。と、ツッコむ手前で、タクミは俺らを見つけて、小学1年生かっちゅうくらいまっすぐに手をあげてきた。

「やあ、伊織ちゃん、忍足くん!」
「あれ、タクミさん?」

そういやあれ以来、会ってなかったんやと気づく。伊織には、タクミに謝るって約束した手前、伊織の前で会ってもうたし、ここはあの日のことを謝っとくべきなんやろう。
俺はすっくと立ちあがった。身長だけやったらこいつに負けへん自信はある……勝ってもどうしょうもないけど。ちゅうかほぼ同じやけど。

「お久しぶりです、タクミさん」
「久しぶり忍足くん! 元気だった?」
「はい。あの、前は、すみませんでした」
「ん? なにが?」
「え」

タクミはめっちゃきょとんとしながら俺を見た。
まあ、もう2ヶ月近く前のことやから、忘れとるんかもしれんけど……。

「それにしても、今日はいい天気だね!」

俺の謝罪は呆気なく終わった。しかもタクミがなんのことか気づかんうちに……まあ、別にええんやけどさ。意を決した俺の謝罪をスルーしやがって……。前々から感じとったことやけど……お前、ポジティブとかいう前に、天然ちゃうか?

「今日はどうしたんですか、タクミさん」伊織がにっこりとタクミに問いかけた。
「ああ、うん。ちょっと待ち合わせなんだ。僕、ほかにもこの学校に生徒を持っててね」
「え、そうだったんですか!?」

へえ。そうなんや、と俺も内心思う。ちゅうかタクミ、家庭教師しすぎちゃう? 大学院生やからまだ収入がないからやろうけど、氷帝内で掛け持ちしとるとは、なかなかやな。見た目もええし、俺らの母親世代にはたしかにめちゃめちゃウケがよさそうやで、それでポンポン契約が取れるんかもしれん。どこまでも腹の立つ男やわ。

「そう。その子も3年生なんだけど。おすすめの参考書を貸すことになってたんだ」
「え……じゃあライバルになるんだ……」

伊織が若干のショックを受けとった。なんとなく、気持ちはわかる。毎回の試験で10番以内を狙っとる伊織やったら、当然や。自分より熱を入れられとっても嫌やし。家庭教師なんてマンツーマンやから、自分だけ応援してほしい気持ちもあるやろう。

「いやいや、伊織ちゃん、大丈夫だよ。伊織ちゃんとその子の成績は、全然、違うから」
「そ、そうなんですか?」伊織の表情が、ぱっとあかるくなった。かわいいなあ伊織。褒められて嬉しいんや。
「うん、その子はずっと2番だからね!」

って、おい! あげて落とすなや! いやタクミはあげたつもりないんやろけど! それやったら「大丈夫」って言葉おかしいやろ!
声も出んかったんか、伊織の空気が暗くなる。顔は笑顔のまま固まっとるけど、周りに完全にガーン線が入っとった。ちびまる子ちゃん状態や。タクミは伊織のその様子にも気づかんと、ニコニコしたまま周囲を見渡した。やっぱこいつ、天然やな。

「あ、いたいた」

タクミが俺らの後方を見て、またまっすぐに手をあげる。
伊織のライバル……にもならんくらいの成績ええヤツが来るんやと、俺らは振り返って目を向けた。
その生徒は、女子やった。しかもさっき見たばかりの。
思わず、伊織と顔を見合わせる。そういや、昔からめっちゃ成績ええもんな、あいつ……。合点がいったのは俺だけやなかった。となりにおる伊織も、「ああ」と声をもらしとった。

「タクミさん、すみません、お待たせしました」

さっきまでベンチで男子生徒とキスしとった彼女が、タクミに丁寧に頭をさげる。
3年E組の、吉井千夏やった。





キリッとした、どこか冷たい目の印象が強い。中等部のときから知っとるけど、気品があってめっちゃ金持ちで、なんとなく跡部の女版って感じの女や。たしかに、イメージ的に塾に行くっちゅう感じもない。せやけどこの金持ちが雇う教師ってことは、タクミは結構な腕前なんやな、と思った。
まあ、伊織の10番キープを可能にするくらいや、優秀なのは当然か。

「はい、これ参考書ね。僕が使っていたものだから、いろいろ書き込みがあるけどよかったの?」
「なに言ってるんですか。それがいいんですよ」
「ははっ。まあじゃあ、自由に使って。僕が使うことはもうないから、書き込みをしてもいいよ」

伊織が横目で、その様子をめっちゃ羨ましそうに見とった。伊織もほしいやろなあ、あの参考書……そう思ったら、かわいそうになってくる。
タクミ……そういう、えこひいき的なのようないと思うで、俺。天然って罪よな。

「ところで千夏ちゃん、また彼氏、変えたの?」

さくっと話題を変えるように、タクミがベンチのほうを見て言うた。キスしたところは見てないやろうけど、一緒におったところをチラ見したんやろう。
おっと、と思う。こういうのをずけずけ聞くのも天然の為せる技やろか。嫌味っぽくもなく、なんでやか爽やかな質問に聞こえるから不思議や……。

「タクミさん、そういうのセクハラです」

いくら爽やかっぽい質問でも、プイッと横を向くように吉井はツンケンした。内容が内容やっただけに無理もないし、吉井の言うことはもっともや。せやけどタクミの言ったことは、実はさっき、俺も思った。
吉井は伊織ほどやないけど、見た目がええ。まあ伊織とはタイプの違う美人や。いうなれば、宝塚やったら吉井は男役。伊織は女役。まあたぶん、中身は伊織のほうが凶暴やけど……ああいや、それはもうええか。忘れることにしたんや……。
とにかく、しこたまモテるせいやろか、こいつは中学3年あたりから男をとっかえひっかえしとる。勝手にしたらええんやけど、男の俺から見ると、ちょっと気後れするところがあるっちゅうのが、正直なところやった。

「はは。ごめんね。前に見た人と違うから、つい」
「あたしが彼氏をコロコロ変えたら、タクミさんになにか迷惑がかかるんですか?」

タクミにはなんの迷惑もかからんけど、親御さんが知ったら気が気やないやろうなと思いながら、俺は妙な気分になった。そういやこいつの親、跡部財閥のライバル会社社長やったよな。

「おっと、怒られちゃったな」タクミが俺を気まずそうに見た。いや、男やからって賛同はせえへんで。まあ、それでも愛想笑いくらいしたるわ。
「ちょっと、千夏……」
「伊織も黙ってないでなんとか言ってよ」

お? と思う。伊織が吉井を「千夏」と呼んで、吉井も伊織を呼び捨てたからや。タクミも同じ顔をして、二人を見比べた。

「千夏、言い方が強いよ。タクミさんだって悪気があるわけじゃないんだから」
「そうかもしれないけど、余計なお世話です」
「もう」

言い方が強いとか、極道の妻たち状態の伊織を見た俺としては、お前に言われたないやろ、とツッコみたいところやったけど、我慢する。忘れることにしたんや……。
聞きながら、タクミがなんにも反省してない顔をしながら言った。

「ひょっとして二人、仲いいの?」
「あ、はい……わたしが転校してきたときに、千夏にはいろいろ案内してもらって」
「あれ、それって跡部の役目ちゃうかったん?」すかさず会話に割り込むと、伊織がこくんと頷いた。
「あ、うん、そうなんだけど」
「あの男に任せてたらいつになるかわからないじゃない。バカみたいに忙しいから、跡部は」ツンツン吉井が、俺に向かって説明する。
「はあ、さよか」

ツンツンしとるけど、それって結局、跡部の力になったっちゅうことやんな? 生徒会の人間でもないのに?
あれ……? なんやろこの違和感。

「ところで忍足」
「ん? なんや」

頭をかすめた違和感に俺がひとりで首をかしげとると、吉井がじろっと俺を見てきた。
急に睨まれて縮こまりそうになる。タクミのあとは俺!? お前、あんだけ昼間から学校でキスしとったくせに、男嫌いなんちゃうやろな。

「伊織と付き合って1ヶ月らしいね、今日」
「え」
「ちょっと、千夏……!」さっきとまったく同じセリフで、伊織が吉井を慌てて見た。
「そうそう、ふたりは付き合ってるんだってねー!」

ぎょっとする。急にタクミがテンションぶちあげで割り込んできたかと思ったら、俺の肩をポンポンポンポン叩きはじめたからや。ちょ、痛い、痛いってタクミ! なんやねんお前のそのテンション!
ちゅうか、伊織、タクミにも吉井にも俺とのことお知らせしとったんや? あかん、それは嬉しい。喜びとタクミテンションの戸惑いで、情緒不安定になりそう。

「知ってはったんですか、タクミさん」
「うん、それはもう、伊織ちゃんが嬉しそうに!」ポンポンがバシバシに変わった。痛い言うてんねんっ! 力加減アホなんか!
「タクミさんもっ!」伊織がまた、顔を赤くさせはじめた。うわあ、かわい……。
「そ、そやったんですか」結局、痛いよりも喜びが勝った。「タクミさん、知ってはったんや」痛いんやけど、心なし、タクミに優しい口調になっとる自分がおる。
「そ、流れで、話したの!」もう、伊織かわいい。どんな流れやそれえ。俺と付き合えたん、嬉しかったってことやろお? かわいい、かわいいっ!
「おめでとう忍足くん。1ヶ月、いい頃だねえー!」
「そ、そうですね。タクミさん、ちょ、痛い……」
「ああ。ははっ。ごめんごめん」

ニッコニコしながら、タクミがようやく俺から手を離した。
ああ、なんや、こいつ意外とめっちゃええヤツなんちゃうか。単純すぎるか俺も? せやけど俺と伊織を応援してくれてはるやん。あれ、なんかいつもより、めっちゃイケメンに見えてきた。いつも笑ろてしまうくらいイケメンやけど、今日はもう爆笑しそうなくらいにイケメンや。タクミさん、性格もええもんなあ。そうか、やっぱり内面が外見に出るねんなあ。

「忍足。無視しないでよ」
「え、ああ堪忍」無視したつもりなかったんやけど、なんでやか、吉井がじっとりと俺を見た。
「忍足、女に慣れてないわけじゃないんでしょ?」
「はっ?」

急にそんなん言われて、目が点になる。
待て待て待て、おいおい、なにを言いだすんやこの女。見てみい、タクミさんも目をまるくしとるやないかっ!
そら、俺かてタクミさんみたいな男やったら女に慣れまくっとるやろけど、俺は童貞なんや、慣れとるわけないやろっ。変なこと言うなやっ、伊織の前で!
動揺して「はっ?」以外の言葉が出てこうへん俺に、吉井はカツカツ靴を慣らしながら近寄ってきて、ぐいっと俺のネクタイをつかんだ。
って、ええ!? ちょお待って、その急なセクシーカツアゲみたいなん、なんなんお前っ!?

「ちょ、千夏っ!?」

案の定、伊織が慌てとる。俺もポーカーフェイス発動しまくっとったけど、内心は大慌てやった。ちょ、きょ、距離近い……。

「いい?」吉井は俺のネクタイをぐいっと引っ張って、小声で言うた。「伊織はあたしの大切な友だちなの。泣かせたらタダじゃおかない」
「な、なんやねんっ。泣かせてなんかないやんけっ」なんとなし、こっちまで小声になる。
「忠告よ。しっかりしなさいよね」

それだけ言うと、ぱっと手を離して去っていった。シン、とその場が静寂に包まれる。

「忍足くん、なにか言われたの?」タクミが心配そうに俺を見た。
「ああ……いや、まあ」
「侑士……」一方で伊織は、やけに不安そうやった。
「ん、大丈夫やで?」

大丈夫やけど……なんやあれ……? な、なんなんやあの失礼な態度は……言われとることも意味がわからんし、誰かに似とる。あの強引さ、ギラつくような目、偉そうな態度、勝ち誇ったような物言い。
あれ……?

「じゃあ、今日は僕も用事は済んだから帰るよ。ふたりとも、またね」
「はい、どうも、おおきに」
「はい。タクミさん、また来週、お願いします」
「うん。試験、しっかりね!」

ようわからんまま、タクミも手を振って去っていった。
ドタバタなランチ時間になったものの、俺の頭にはさっきから何度もくり返されとる妙な違和感だけが残っていく。
タクミが去ったあとも、伊織はまだ不安な顔をして、俺を見あげとった。

「侑士、千夏になに言われたん?」
「いや……まあ、たいしたこと、ちゃうよ」なんとなく、ホンマのことは言いづらい。でもまあ、それはええ。そんなことより、や。「なあ、伊織」
「うん?」
「吉井と仲ええの?」
「あ、うん。転校当初から、千夏、よく気遣ってくれとったんよ。違うクラスやのに、親切にしてくれてね。やから、いろいろ、その……相談とかしてたんよ」
「はあ、さよか」

なるほどな。それで俺とのことも話しとったっちゅうわけや。いや、正直、そんなことはどうでもよかった。
どっちかっちゅうと、伊織が吉井の情報をどれだけ持ってんのか。俺は、そのほうが気になっとった。

「伊織……変なこと、聞くようなんやけど」
「うん?」

レジャーシートに座りながら、自分の頭のなかの考えを整理する。
3年E組吉井千夏……麻宮サキ、みたいに言うとるけど、あいつはスケバン刑事とはちゃう。まあええわそんなこと。昭和が好きやで、頭のなかでついどうでもええこと考えてまう。
父親は跡部財閥の唯一のライバルグループ会社社長。吉井はそこの長女や。つまり将来的に、吉井は婿をもらうんか自分が継ぐんかしらんけど、跡部は超競合他社の社長になる。

「吉井って中学から氷帝やんな? って、伊織、そんなこと聞いとるかわからんけど」
「ああ、うん。聞いたことあるよ。昔はイギリスにいたんだって」

おっと……? 跡部も幼少期はイギリスやった。そこで樺地に会ったのは知っとるけど、ひょっとして吉井も近くにおった可能性はある。
なんでかって、吉井の父親が経営する会社は跡部財閥の内部紛争で分裂して生まれた会社やと、うちのオトンが言うとったからや。いまでこそ、吉井の父親の会社はどえらい企業になっとるけど、当時はまだ分裂前のはず……。

「侑士、千夏のこと気になるの? さっき、なに言われたん?」
「ん……ちょっと気になってな」なにを言われたかの質問は、ちょっとかわしときたい。俺はしれっとそこをスルーして、つづけた。「吉井って、伊織から見ても男をコロコロ変えとる?」
「え、あ……ん」

伊織が言いにくそうにきょろっと目を動かした。
そら、友だちの浮つきまくった噂なんか、口にしたないよな。伊織のそういう友だち思いなとこも、俺、めっちゃ好きやで。
それはそれとして……跡部も、コロコロっちゅうほどやないけど、女は何人も変えてきとる。
俺、勘が冴えとるときがあるんよなあ。これ、当たったんちゃうか、跡部……。

「千夏、綺麗よね」
「え? ああ、まあ、美人よな」俺からしたら、伊織んが数万倍かわいいし、綺麗やけど。
「侑士と千夏って、もともと仲よしなん?」
「いやあ、仲よしってほどやないけど。跡部が近くにおるから、ちょいちょい話すことがあった程度や」
「ふうん、そなんや」

詮索はするな、って言われとったけど……ここまで気づいてもうたら、どういうわけか、おせっかいの虫がわいてきだす。
あの女やったら、めっちゃ納得感ある。いかにも跡部の好きそうな女やってこともあるけど、お互い恋人をとっかえひっかえしとるのも、結局はホンマに好きな相手に敵わんからやろ?

「さっきめっちゃ、距離、近かったね」
「ああ、びっくりしたわ。あんな恐喝あかんやろ、女やのになあ?」
「……しちゃうかと思った」
「え? なにしちゃうって?」

目の前の伊織はもちろんかわいいし、めっちゃ好きな子やし、最高に幸せな時間やったことに、変わりはない。それでも、俺は自惚れてたんかもしれん。1ヶ月、同じ状況やったから、多少の安心感もあったんかもしれん。タクミや吉井に、伊織が俺とのことを話してくれとった事実が、俺をつけあがらせるには恰好の情報やったってこともある。

「……ううん、なんでもない」

このときの俺の頭のなかは、跡部と吉井のことでいっぱいやった。





イライラまるだしの顔して跡部が俺に振り返る。さっとソッポを向いてみたものの、跡部はほとんどまぶたが閉じかかったような顔をして、俺の正面まで来て言った。

「……なんだよ」
「……なにがや」
「しらじらしい顔してんじゃねえよ」

インサイトってうしろ側にも範囲が広がったんやろか……俺が見とったのは跡部の背中やっちゅうのに。そら、俺は跡部に恋しとる女か、ってくらい見つめとったのはたしかやけど。

「言いたいことがあるならハッキリ言いやがれ」
「そ、おかしいやん。跡部が手伝ってほしいって言うから、来たのに。なんで俺が言いたいことがあるって話になんねん」
「貴様がさっきからしつけえ視線を送ってきてるからだろうが」

放課後やった。ほんの10分程度やからということで、生徒会室の本の整理を手伝っとる俺。
昼休みにピンときて、ちょうど跡部から声がかかったで、いつもやったら「伊織を10分も待たせれるわけないやろっ」と断るところなんやけど、今日はすんなり承諾した。それでも、もちろん伊織を待たせるのは心苦しい。早いとこ手伝いを終えて伊織と一緒に帰るつもりやった。ただ、俺のなかでいろんなこと予測してもうたし、幸い周りには誰もおらんし、本を運ぶ途中でどうしても跡部の背中を見つめてしまう。
なあ、跡部そうなんやろ? と聞いてしまおうかと何度も思っただけなんやけど。

「お前は自覚がねえようだから、教えておいてやる」
「え、なんの自覚?」
「そのねちねちとした視線だ。たかだか数秒でも確実に見られていると気づく。まるでGのようにな」
「じ……Gって、ゴキのこと? 失礼すぎちゃうそれ?」
「それくらい貴様の念は強いということだ」

ホンマかそれ……。お前が敏感すぎなだけちゃうか? 俺そんなにねちっこい視線なんやろか。そういや伊織のこともようじっと見てしまうけど、すぐ気づかれるなあ。「どしたん侑士?」って言われて、「あ、堪忍。俺の彼女かわいいなあって、見惚れてまうんよ」って言うたら、伊織めっちゃ赤くなるんや、もうううう、かわいいっ。あれ、俺の彼女やねんて!
はっ……ああ、あかん、いまその時間ちゃうかった。

「なにニヤニヤしてやがんだ気持ち悪りい」
「そ……堪忍」
「……で? なんの用だ?」
「いや……んん」

せっかく跡部から聞いてくれとるのは、ある意味チャンスかもしれへん。どうせ嘘ついたら「ちげえな、ごまかしてんじゃねえよ、本題はなんだ」とかすぐにツッコんできそうやし、ホンマのこと言うといたほうが得策か。それに……やっぱり気にはなるしな。

「今日な、ランチのときに、タクミさん来はって」
「アーン?」
「ほら、伊織の家庭教師の」
「ああ、笑うくらいイケメンという噂の大学院生か」
「そうそう、タクミさんな」

いやホンマにタクミさんめっちゃええ男やし、ええ人。
穏やかにうなづくと、跡部が険しい顔をして顎をひいた。

「ずいぶんと余裕ができたもんだな忍足。なんなんだてめえのその、タクミとかいうヤツへの豹変っぷりは……」
「跡部、タクミさん年長者やで。俺らの先輩。タクミとかいうヤツ、やなんて乱暴な言い方したあかん」
「こないだまで『ロリコンガリ勉エロ野郎』だの『犯罪者』だのとほざいてた口がよく言えるな」
「誤解っちゅうのはあんねん、いつの時代も」跡部は面倒くさくなったんか、ツッコミもせずに深いため息を吐いた。ええ、そんなん無視や。「そんでな、タクミさん、吉井千夏の家庭教師もしとるらしいねん」

本棚整理をしとる跡部の横顔をじっと見ながら吉井の名前を出すと、跡部の眉が一瞬、ピクリと動いた。
おお、さすが跡部。ほかの連中やったら絶対に気づかん程度の動揺しか見せんかったな。せやけど俺にはバレたで。俺、そういうの鋭いから。心を閉ざせるぶん、人の心の機微はすぐに見抜くで。

「それがどうかしたのか」
「跡部、知っとった?」
「知ってるわけねえだろ。興味ねえよ」

うわあ、わざわざ言わんでもええのに、「興味ない」とか言うて。本音とは裏腹な思いがついつい口を衝いて出てもうてるやん。

「なんかな、伊織と吉井、仲よしらしいねん」
「ますます興味がねえな」またまたあ。
「吉井って幼少期、イギリスに住んどったんやって。跡部もイギリスやったやんなあ? あ、まあ樺地もやけど。そういや吉井の父ちゃんてって、昔は跡部財閥勤務やんなあ? いまはしっかりライバル社のしゃ」
「忍足」

社長やけど……と言おうとしたところで、大きめな跡部の声に止められた。俺かて、自分でもしらじらしい話の進行やったとは思う。せやけどやんわり言うていかんと、跡部は認めへんと思った。直球で「お前がずっと好きな女って吉井千夏やろ?」って聞いたところで、絶対にかわされて終わりやし。

「詮索はするなと言ったはずだ」まあでももう、その答えが肯定や。
「……跡部、俺ら親友やん」
「気持ちの悪いことを言ってんじゃねえよ」
「せやけど跡部は平気なん? 吉井、また男」
「黙れ」

また、さえぎる。
せやけどさあ跡部……お前、ホンマはめっちゃ嫉妬しとるやろ? どっちがはじめたことか知らんけど、お互い恋人つくって別れてくり返して、校舎の中庭であんな堂々とキスして。どういう当てつけやねん。
いくら会社がライバル同士やから結ばれることが許されへん運命やからって、そんなこと数年も……俺やったら絶対に耐えられへんのやけど。

「……跡部なあ、俺、お前に協力してもらって伊織と付き合えるようになったって思っとる。せやから俺も跡部に協力」
「黙れと言っている」
「跡部、なんでそんな意地」
「それ以上は話すな」

氷の帝王らしい冷たい瞳に射抜かれて、俺はピタ、と黙った。
これ以上なにを言っても、俺と跡部がケンカするだけや。たしかに俺はおせっかいなんやろうけど……跡部がつらい恋を引きずっとんのは、友だちとしてもつらい。

「ふん……ま、お前のその気持ちだけはありがたく受け取っておいてやる」パッと俺から視線を外して、本棚整理を再開した。
「……さよか」気持ちだけ、か。
「つうか貴様は、人の心配をしている場合なのか?」
「え? なんや、どういう意味?」
「佐久間とはうまくやってんだろうな?」
「そら……めっちゃ仲よしやで? 今日も一緒に帰るし」

言いつつ、口を尖らせとる自分に自分で驚いた。
仲よしは仲よしや。会ったときは必ず触れ合っとるし、不満なんかない。けど、この口の尖らせはなんや……そこから先には進んでへんことが、気になっとるせい?

「ほう? キスくらいしたのかよ?」
「えっ!」

ぽわわ、とここ最近の俺の悩みが頭に浮かんだところで、まんまとそれを言い当てられてぎょっとする。俺の大声に、跡部も同じくらいぎょっとしとった。
ちゅうかやっぱりこいつ、インサイトがパワーアップしてへん? 頭のなかまでツルスケなんちゃうかっ。

「急にデカい声を出すなといつも……!」
「おおお、お前が急に変なこと聞くからやろ!」
「なんだその動揺は……」

跡部は妙な空気を察知したんか、しらっとした顔をして、俺に背中を向けた。
あ……こいついま、避けたな。俺に相談されると思ったんや。
ああ、そうや。やってそもそも、お前のせいみたいなところがあるしな。責任とってほしいくらいや、こっちは。

「なあ、跡部」
「とっとと終わらせて帰るぞ。佐久間が待ってんだろ」
「なあって、ちょお聞いてや」
「聞きたくねえな」
「キスって、どうやってしたらええんかな?」

背中越しやけど無理やり聞いたら、今世紀最大のようなため息が耳に届いてくる。
そうはいうても、責任とってほしい。俺が前に進めへん原因の9割がお前にあるんや。そうや、よう考えたら全部、跡部が悪いやん。

「……まったくうまくいってねえじゃねえか」
「ちょ、なんでそんな判断になんねん。キスしてないだけで、仲よしやっちゅうねんっ」
「なぜしない? そろそろ1ヶ月以上は経つだろうが」

まあ跡部からしたら異常なんやろう。こいつは告白と同時にキスするような俺様野郎やからな。俺は時間かけたほうがピュアでええと思うけど。……別に言い訳やないしっ!

「なにをモタモタしてやがる? とっとと済ませりゃいいだろうが」
「せやからどうやって」
「バカなのかてめえはっ! どうせ日がな一日AVというAVを見まくってるくせしやがって!」
「はあ!? ちょ、人聞き悪すぎるで跡部! たまには見るけど日がな一日なんてやったことない!」た、たぶん……! 1回くらいあるやろか? 暇やったんやその日は! たまたまな!
「唇めがけてすりゃいいに決まってんだろ!」
「ちょ、それができたら苦労せんねん! お前、俺のことバカにするけどな、お前のせいなんやからな!」
「アーン!? なんで貴様が臆病なのを俺のせいにされなきゃなんねえんだよっ」
「やって! 跡部と一緒で、伊織もすっかり済ましとるかもかもしれへんやんかっ」

キスどころか、最後まで……! とは、声には出さんかったけど(出したら死にたくなりそうやったから)。
跡部が目を点にして固まっとる。ああ、そうやろうな。お前みたいなヤリチンにはどうせわからんわ、俺のこの1/3どころか、倍くらいにふくれあがっとる純情な感情はっ。

「そ……忍足、だったらなんだ?」

めちゃめちゃ顔が困惑しとる。なかなか見ることのない跡部の表情やった。

「でたわ……これやから。ええか? 俺はお前も知ってのとおり、なにもかも伊織がはじめてなんやっ」
「だからなんだと聞いてんだよ」
「お前は経験豊富やからなんとも思わんやろうけどな、俺は伊織もはじめてやないと嫌やねんっ」
「はあ? じゃあ佐久間が、お前の言うとおりキスもセックスも済ませてたらどうするつもりだ?」
「せ、せ……く、口にすなや!」考えただけで頭がおかしくなりそうやっ。
「どうするつもりだと聞いている。だとしたら一生、佐久間とはキスもセックスもしねえ気か、てめえは?」
「そ……」口にすな言うとるのにっ。「そうやないけどっ」
「ないけど、なんだ?」
「……く、比べられたりしたら、嫌やし」

自分でもなに言うとるかわからんくらいの小声で、俺はそう告げた。
瞬間の跡部の顔がごっつい腹立つ。ホンマに見たことないような呆れ顔しやがって。宍戸が彼女できてめっちゃテンションアゲアゲやったときやって、そんな顔してへんかったやないか、お前。

「……バカなのか? てめえ、童貞こじらせまくってんじゃねえか」童貞って言うな。
「ああ、どうせお前みたいなヤリチンには俺の気持ちなんかわからへんやろなっ」
「どっちが人聞きが悪りいんだよ。あのなあ、佐久間がそういう発言をしたことでもあるのか? つうかこれまで男と付き合ったことがあるのか?」
「そん、そんなん聞きたくても聞けへん……」
「なぜだ? 聞きゃいいだろ」
「付き合う前に聞いたことあるけど、かわされたし……あるって言われたら俺、泣いてまう」
「ないと言われる可能性だってあるだろうが」
「せやけど跡部が言うたんやんかっ。俺のこと笑って!」
「これだから話したくなかったんだ……言っただろ、なにも考えずいまを楽しめと! つうかそんな気になるなら聞け!」
「そんな一か八かの質問なんか、怖くてできひんっ」

両手で顔を覆うようにそう言うたら、また跡部の深いため息が聞こえてくる。
なんでこのボンボンには、俺のこのガラスのハート具合がわからんのやろか。心臓に毛が生えとるとしか思えへん。
まあ、好きな女があれだけ男とっかえひっかえしとって、あの調子やったらほかの男とキスしとるとこも見たことあるやろ。それでも平気な顔して自分もほかの女とキスするような男に、俺の気持ちなんかわかってたまるかっちゅうねん。

「忍足よ……」
「なんでしょうか……」
「俺にとっては至極どうでもいいことだが、ひとつだけ忠告しておいてやる」
「なん……なんやねん、偉そうに」

跡部が偉そうなのはいつものことやけど、呆れが爆発しとるような顔を数分も見せられたら、俺もなんでやかムカムカしてきた。

「佐久間に捨てられてもいいのか?」
「はっ!? な、なんでそんな話になんねんっ」
「別れたくないなら、くだらねえことうだうだ考えてねえで、早く自分のものにするんだよ」
「そ……もう俺のもんや、伊織はっ」
「アーン? これだから童貞は……」童貞って言うな! 全国の童貞集めて殴ったろかこいつ。「いいか忍足? 男にとって、抱いてもない女は自分のものじゃねえ。想い合ってるだけでつけあがるな。ましてやキスもしてねえんじゃ、佐久間はお前の女ですらねえよ」

トン、と最後の本を棚に入れながらそう言って、跡部は生徒会室を出ていった。その背中を見送りながら、俺は呆然とそこに立ちつくした。
待って。意味が、全然、わからへん。想い合ってんやから、伊織は俺の女やろ……?





跡部、嫉妬してんちゃうの。自分が吉井とそういうことできんからって。あんな言い方して八つ当たりせんでもええのに。

「侑士、お手伝いどうだったの?」
「ん? ああ、跡部?」
「うん。久々やったでしょ、跡部くんに会ったの。わたしは毎日、顔合わせてるけど。侑士はいま、部活ないもんね?」
「まあな。せやけど気になること多すぎて、跡部と会話を楽しむどころやなかったわ」

こないして手もつないどる。伊織にこんなんできるん、俺だけやん。下校デートもしょっちゅうしとる。俺を待っとってくれるのは、伊織が俺の女やからや。

「気になること?」
「ん? うん、まあな」伊織の相談をしとったとは、さすがに言えへん。「そういや伊織、吉井とは仲よしやのに、タクミさんのことは知らんかったんやな?」

とりあえず、吉井の話題に変更した。跡部にはめちゃくちゃ睨まれとったけど、あいつかて吉井と付き合いたいに決まってんねん。
なんやかんや、跡部は冷たくても俺に世話を焼いてくれるし。知ってしもたからには、跡部と吉井をなんとかしたりたい俺の気持ちは、あれほど跡部に言われても変わってなかった。

「あ、うん。千夏はね、なんていうか……ミステリアスなんだよね」
「ああ、わかる。雰囲気そんな感じやもんなあ」
「うん、自分からあまり、自分のこと話さないところあるし。わたしはいろいろ相談したりするけど、千夏から相談されてことって、ないかも」
「そうなん?」
「うん……でも、だから千夏って、モテるのかも。謎めいた美人って感じで!」
「たしかに。謎めいとる。男が一度は惹かれるタイプの女よなあ」

跡部って完璧主義者から、余計にああいう女に弱いやろうなと思う。疑問は全部、解消せな気が済まんタイプの男やで、吉井のミステリアスでセクシーな感じ、全部、自分のものにしたいんちゃうやろか。

「……千夏のこと、やっぱり気になるんやね、侑士も」
「ん? まあなあ。ちょっとな」
「……千夏みたいな子が、タイプだったりするの?」
「え? いやタイプとかってわけやないけど……なあ、伊織は吉井に、本命がおるかどうかとか、聞いたことないん?」
「えっ」

今日の吉井とのちょっとした会話だけで、たぶん跡部が好きなんやろうなと思った俺やけど……ここがまったくの見当外れやったら、ホンマにただのおせっかいになるしな。
伊織に告白するときもそうやったけど、なんでも確証があったほうがええ。動きやすい。

「どうやろ……今度、聞いとこうか? わたし」
「ああ、ホンマ? うん。なんかスパイみたいな真似させてごめんやけど、聞いてみて?」
「うん……わかった」

心なしか、伊織の声が小さいなあって思ったときやった。
ピタ、と伊織の足がいつもより前で止まったで、気づいたら伊織の自宅近くまで到着しとった。せやけど、いつもはもう少し歩いたところで、バイバイする。
その距離に違和感を覚えとると、伊織が「ここで、いいや」と、うつむきがちに言うた。

「どないした伊織? なんか具合悪いんか?」
「え? ううん。悪くないよ? でも、ここで大丈夫」
「さよ、か?」

人通りがない、細い道やった。ホンマならもう少し進んでひとつ角を曲がるんやけど、俺はあまり深く考えずに、伊織の体に手を回した。
いつものハグ。この瞬間がたまらんくて、ぎゅっと抱きしめる。今日も伊織のええ匂いが髪の毛からただよって、やっぱりこれだけでも十分に幸せやと実感したときやった。

「侑士……」
「ん?」
「今日、1ヶ月目やね」
「ん、そやな」

伊織と付き合って、1ヶ月目の記念日や。伊織から言いだしてくれた昨日、めっちゃ嬉しかった。ニヤニヤんなる顔をおさえるようにして、少しだけ腕に力を入れる。想いが強すぎてそのままぶつけたら、伊織を壊してしまいそうやから。優しく、でも強く。
ああ……伊織、大好きや。

「……侑士」
「ん? どした?」

ところでなんか、伊織の様子、おかしない? と思った直後のことやった。
伊織がうつむいたまま、つぶやいた。その声はめっちゃ小さかったけど、俺の耳にしっかりと届いて……俺は、思考停止しそうになった。

「……わたしのこと、ホントに好き?」
「は……?」

目が見開いていく。なんで、そんなこと言うんやろ、急に。
少し体を離して伊織をじっと見つめても、いつものように俺を見あげてないから、伊織の頭頂部しか見えん。それでも答えに迷っとったら誤解させる気がして、俺は慌てた。

「そん、そんなん、好きに決まってるやん」って、いつも言うとるつもりやったのに。あれ……最近、好きって言うてなかったっけ?
「ホント……?」
「ほ、ホンマや、なんで?」

ゆっくり、その瞳が俺に向けられた。どこか切なげな顔をして、俺を見あげる伊織の感情に不安になる。
ちょお待って……なんでそんな顔すんの? 俺、人の心の機微には自信あるけど、相手が伊織やと、全然わからんようなる。

「それやったら……」
「え……?」

なにか言おうとしとるんやと思って聞き返したら、伊織はなにも言わんまま、そっと目を閉じた。
俺に、顔をあげて。
瞬間、ビリビリと、全身が硬直した。ただ俺の心臓だけが、打楽器の高速演奏みたいにうるさく音を立てていく。
これ……き、きき、き、キス、しよって……こと、やんな?
あ、え? あかん、どないしよ。体がまったく動かへん。なんで? こんな嬉しいことないやん。いけや、いけや俺。キス、伊織から求めてくれとるのに。しようや、したらええねん。跡部も言うてたやん。唇めがけてすればええねん。
せやけど伊織がこんなに積極的なんは……な、慣れとるから? ああ、あかんっ! そういうこと考えたらあかんって! き、キスくらいなんや、したらええやんけ。伊織がたとえ、済ませとったとしても、いまの伊織は俺が好きで、俺とキスしたいって思ってくれとるんやからっ……!
動かん体をなんとか動かしながら、俺はぎこちなく顔を近づけていった。鼻先が、もうすぐ当たる。ああ、俺のファーストキス……相手が伊織で嬉しい。
でも……伊織は? 伊織の、ファーストキスも……いま? それとも……。





……できへんかった。

――また、明日な。

そのまま伊織を胸に押しつけて、俺は彼女の頭を何度も何度もなでながら、長い沈黙のあとに、そう言うた。それしか、言えへんかった。
その直後、伊織はうつむいたまま、俺から体を離して、背を向けた。

――伊織……。
――また明日ね、侑士。

まともに俺の目を見んまま、伊織は駆けって、自宅に入っていった。
その場で俺は、頭を抱えてしゃがみこんだ。俺、最低や……と、心のなかで何度つぶやいても、伊織を傷つけた事実に、俺は傷ついとった。

めっちゃ勝手すぎる自分の感情に嫌悪で吐きそうになりながら、俺の翌日ははじまった。一晩中かけて考えたけど、なんでできんかったんか、自分でも全然わからへん。
昨日の今日で、こんなこと跡部の相談しても絶対に理解してもらえんやろう。俺かて理解できんのに。
テレフォン人生相談にでも電話したら、どういうことか説明してくれるんやろか。そんで俺がこの先、伊織にどういう行動を取ればええかも教えてくれるんやろか。せやけど今日も学校、来週からは期末考査。そんな時間はない。
そんなごっちゃごっちゃの俺の頭のなかをクリアにしてくれたのは、ほかでもない、伊織やった。

「侑士、ランチ行こ?」
「……伊織」
「どないしたん、そんな驚いて」

ランチは4時限目が終わってから、いつもは俺が伊織をA組に迎えに行くのがお決まりやった。せやけど昨日の夕方からお互い連絡も取ってなかったで、伊織に謝りに行かなと思っとった矢先、伊織がB組に俺を……笑顔で、迎えに来てくれた。

「いや、そ……なんちゅうか」
「行こ、今日は新館の教室って約束やったよね? はよ行かんと、誰かに取られるかも」
「そ、そやな。急ごうか」

なんにもなかったみたいに。それだけで、胸がしめつけられた。絶対に、昨日は傷ついとったはずやのに。俺を責めもせんと。
ろくに謝ることもできんまま、俺と伊織は新館に急いだ。新館にある教室は、休憩中にふたりきりになりたいカップルが行く場所や。せやからいつも、早いもん勝ち。先を越されとったらそこには立ち入らん、という氷帝暗黙のルールが存在しとる。
今日という日に、俺と伊織はそこに行こうと決めとった。

「お、空いとったな」
「やった。ラッキーだったね」

俺は一切、神様とか信じんタイプやけど……これは神からのお告げなんやないやろか。
今日は新館にある教室ひとつ、俺と伊織が貸し切れそうや。ふたりきり……キスするなら、絶好のチャンス。
いつものようにお互いが弁当を広げながら、椅子をくっつけてとなりに座る。
たぶん、カップルの数だけいろんなパターンがあるんやろけど、俺と伊織は毎回、机をカウンターみたいにして窓の外を眺めながら並んで座るスタイルやった。せやから、正面で座るより、距離も近い。

「昨日さ、伊織」
「うんー? あ、侑士、昨日ちゃんとあのドラマ見た?」
「え……ああ、いや、昨日は見逃してもうた」
「えー、すっごい面白かったんよ? そのドラマの話、今日、侑士としようって思っとったのにー」
「堪忍……録画しとるから、今日、帰ったらすぐ見るな?」
「ふふ。うん。じゃあ夜の電話はその話題やね」
「せやな」

ランチのあいだも、伊織はずっと笑顔やった。俺の話をさえぎったのは、俺に気遣わせんためなんやろうか。
どういう理由やったとしても、笑顔を見るたびに、もっと伊織が好きんなっていく。なんでこんなに好きな子に、俺は昨日、なにをためらったんやろう。情けなさすぎて手が震えそうになる。

「昨日ね、どうしてもわからん問題があったんやけど、侑士わかるかなあ?」
「ん? 数学?」

いろんな感情がごちゃまぜになりながら、食事が終わったころやった。伊織がランチ用のミニバッグから数学の教科書をだしてきて、めっちゃ困った顔して俺を上目遣いで見てきた。

「うん。見てくれる? 侑士、数学得意やろ?」
「そやね。どんな問題? 見せて?」
「うん、ちょっと待ってね」

教科書を中心に広げて、問題を見つける伊織の姿勢が前かがみになって、伊織の髪から心地よい香りがただよってきた。

「あ、これや」
「おお、これな……ちょうど、先週やったとこやわ」

ドクッと心臓が訴えかけてくる。昨日の後悔もあるからか……体が熱くなっていく。

「ホンマ? わたし、わからんのよ。今週はもうタクミさんの家庭教師ないし、翌週、1時限目から数学やから、待ったなしなんよ」

伊織が好きでたまらんのに。付き合って1ヶ月目の記念日やったのに。せやから伊織、勇気をだしてくれたんやろうに、俺……あんな傷つけ方して。

「せやんな。ちょっとシャーペン貸してくれる?」
「あ、うん」

平静を装いながらも、ひとつの教科書を一緒に見ることで触れ合った腕が、いまや、と訴えかけてきとる気がした。

――キスもしてねえんじゃ、佐久間はお前の女ですらねえよ。

伊織は俺の女で、俺は伊織の彼氏やから……。数学の問題より先に、そのことで頭がいっぱいになった。そうや、告白のときもそうやった。ちゃんとせなあかんときは、口も体も、勝手に動く。
触れ合った腕をそのまま、伊織の肩に回した。ビクッと反応した伊織が、目をまるくして俺を見る。
俺の大好きな伊織……しっかり見つめて、少し抱き寄せた。

「伊織……」
「侑士……」

頬を包んだ。目を静かに閉じながら、ゆっくりと近づいていく。鼻先が当たった。心臓が壊れそうになる。あと少し……もう、触れ合う……と、思った瞬間やった。

「せんでいい」
「え」

蚊の鳴くようなその声に、俺の動きが止まった。
パチッと目を開けて伊織を見ると、伊織は、目を伏せとった。

「伊織……?」
「いいから、そんなん」

唇を噛むようにして、伊織のまつ毛が、小刻みに震えていく。いい、と小さくつづける声が、同じように震えとった。
混乱しそうになる。昨日は求めてくれたはずやったのに、なんで今日は、あかんの……?

「……なん、なんで?」
「侑士……昨日、わたしがしてほしそうやったからでしょ」
「え……」
「違う?」
「……いや、それは」

なんて答えるのが正解なんか、まったくわからん。
そら、昨日のことがなくても今日しとったかって言われたら、嘘になる気もする。せやけど伊織とずっとキスしたかったのは、本心やし。

「そんなん、せんでいいよ」
「伊織……」
「……お情けのキスやなんて、惨めやん」

頬を包んどる俺の手に、あたたかい雫が垂れてきた。
あかん、ちゃうのに……! ちゃうのになんで、俺は、声がでえへんの? 怖い……伊織に、嫌われたんやないかって。なにを言うたらええんか、全然わからん。

「伊織、俺……」
「ごめん……なんか、わたしばっかり好きみたい」
「え?」

ぐっと、胸を押された。拒否された……俺の、体が。
……めっちゃ、好きやのに。いつも伊織のことばっかり、考えとるのに。
伊織が、俺から離れていく。視界が歪んでいった。目の前の伊織がランチ用のミニバッグを持って席を立つ。
その姿を、俺は黙って見ることしかできんままで……。

「ごめん、今日は、ひとりで帰る」
「ま……待って伊織、待っ……」

バタンと、教室の扉が閉められた。気の早い蝉の鳴き声だけが、俺の耳に残っていく。
いつのまにか、顎に、静かな涙が伝っていった。

――泣かせたらタダじゃおかない。
――佐久間に捨てられてもいいのか?
――わたしのこと、ホントに好き?

チャイムが鳴っても、俺はその場から、動くことができへんかった。





to be continued...

next>>08



[book top]
[levelac]




×