XOXO_12


12.


耳もとで、周助さんの声がしていた。

「伊織、また気持ちよくなってるの?」
「ふふ。かわいいね。ずっとこのなかにいたいよ」
「あとでもう1回、しよう?」

ダメです周助さん、もうわたし、頭がおかしくなりそうです。さっき起きたばっかりじゃないですか。
そう訴えているつもりなのに、自分の声すら自分の耳に届いてこない。それほどぐったりしちゃったのか、それとも体がヘトヘトで声がうまくでないのか。
ん、なんだかコーヒーのいい香りがしてきたぞ。いまどういう状況なんだっけ、よくわからない……と思っていたら、またしても周助さんの声がした。

「伊織さん、起きて。そろそろ準備しよう?」

さっきとはかなり違う距離から、そして違う世界の向こう側から聞こえているようなその声に、わたしは揺さぶられていた。ゆらゆら、ゆらゆら……そこで、自分の両目が開いた。開いたときに、寝ていたんだと気づいた。
見ると、周助さんがベッド脇に座り、にっこりと微笑みながらわたしの頭をなでている。

「あ、起きた? おはよう」
「おはようございます……あれ?」
「うん?」

ということは、さっき周助さんが言ってたことは夢だった? いや、待って……そんなはずないよね。だって絶対に朝、求められた記憶がある。それで、それで周助さんと、朝から、あんな、あかるいのに、あんな、激しい……ダメだ、思いだしただけで体が熱くなってきちゃう。

「あれ、ひょっとして朝のこと、覚えてない?」
「へっ?」
「伊織さん、僕がおねだりした瞬間に、パタッと寝ちゃったんだよ?」傷つくなあ、とぼやいた。
「え……」ということは、やっぱりあれは夢じゃなかったってことだ!
「伊織さん、何度もよくなって満たされて、また眠たくなっちゃったんだね」

朝からエッチして二度寝なんて贅沢だね、と、くすくす笑いながら付け加えて、周助さんはわたしのタオルケットをそっと剥ぎとった。
わたしは素っ裸だというのに、自分はしっかり服を着ている。この時点で辱めなのに、さらに上に乗ってきて、甘ったるいキスを落としてきた。なんでタオルケット剥ぎとる必要が……? もう、すごく恥ずかしい!

「ン……やだ、周助さん、いじわる」
「うん? 僕はもう1回、したかったんだけどな。伊織さんが寝ちゃったから、あきらめたんだよ?」

周助さんのささやく声は、いつだって反則だ。絶対に狙ってやっているに決まってるのだけど、まんまと狂わされてしまうし、すごくドキドキしてキュンキュンするから、やめてほしくない、という素直な気持ちが勝って、なにも言えない。

「周助さん……昨日も、いっぱい……したのに」
「うん……でも今日も、いっぱいしよう? せっかくのお休みだから」

うっとりするようなキスと一緒に注がれていく言葉が、とにかくエッチで……周助さんとの週末が毎度こんなことになるのかと思ったら、顔がニヤけてしょうがなかった。





山梨に行ってから、1週間が経っている。お互い日曜日が休みということで、わたしは昨日、いわゆる、お泊りというやつに来た。
翌日、東京に戻ってからの周助さんは、わかっていたけど忙しかった。夜遅く、朝が早い。わたしは夏休み中だったけれど、仕事で疲れている彼の邪魔にはなりたくなかった。だから毎日の電話やメッセージはしつつも、会うのは遠慮していたのだ。
だけど昨日は周助さんが、「明日はお互い休みだし、泊まりにおいでよ」と誘ってきてくれて……思いだすだけで、懲りずにニヤけそうになる。
もちろんわたしだってそうしたいと思っていたから、ウキウキで周助さんの家にお邪魔したのが、昨夜の22時ごろ。
1週間ぶりに会ったわたしたちは……それはもう、燃えあがってしまった。燃えあがりまくったというのに、周助さんてば、今日だって起き抜けに求めてきて……。
ひゃあああ……恥ずかしいっ。もう、周助さん本当に、見かけによらず、すごいから……ひゃあああ。

「どうしたの? 伊織さん」
「へ? なにがですか?」

オシャレな街並みを手をつなぎながら歩いていると、周助さんに突然そう聞かれて戸惑った。
周助さんとの昨夜を思いだしていたなんて、恥ずかしすぎるので、バレたくない。

「なんだかすごく、ニヤニヤしてるから」してたんだ、と反省する。
「う……そ、久々のラ・シックなので、楽しみなんです!」なんとか、ごまかした。
「ふふ。そうだよね。誘ってよかった」

周助さんが、握っていた手にきゅっと力を入れた。
今日はふたりで、周助さんの元職場であり、厳さんがいま勤めている『ラ・シック』でランチデートをすることになっていた。周助さんは当時、『ラ・シック』から厳さんを引き抜いたにも関わらず、超円満退社で辞めているらしい。だから今回の件があったときも、厳さんをもう一度働かせてほしい、と周助さんが頼んだことで、厳さんの生活が脅かされることはなかったのだ。周助さんはこの件について、「ラ・シックには感謝してる。それだけは本当に安心したんだ」と言っていた。
そのお礼と、厳さんへのいろんな報告も兼ねて、早いうちに行きたいねと話していたデートが、今日になったというわけである。

「そういえば、伊織さんが前にここに来たのは、香椎さんとだったんだっけ?」
「えっ」

『ラ・シック』はオシャレ極まりない代官山の中心部にある大きなフレンチレストランだ。周助さんは、ここで働いていたときにミシュランの三ツ星を獲得した。そしてその名は、一気に全国区になった。
緑に囲まれた大きなオブジェのような看板のうしろ側に、すぐに階段がある。その階段を降りながら、周助さんは言った。

「たしかそうだよね? 5年前に、彼を思いきってデートに誘ったんだよね?」

楽しかった? と、わざとらしい顔をしながら、周助さんが、またしてもいじわるをしはじめた。絶対、本当は、そんなに嫉妬してないくせに。

「またー、周助さんいじわるする……」

言わなくなったかな? と思ったころに、香椎くんの名前を出してくるものだから、そういうところもいじわるだなあ、と思う。わたしの困った顔が見たいのか、それとも、いつものやつをねだってくる前触れかなと予感して、胸がときめく自分がいる。周助さんがドSなら、わたしは絶対、ドMだ。

「ふふ。じゃあ、キスして?」

ほらやっぱり、と思う。
いつもこうだから、香椎くんの名前を出すときはキスのおねだり合図なのかもしれない。そのせいか、わたしもあまり強く言えない状態がつづいている。
それは階段をおりる途中のことだった。上にも、下の出入り口付近にも、ちょうど誰もいない。もちろんそれも計算ずくなんだろうなと思うと、敵わないなあ、と思ってしまう。

「誰か来たらどうするんですか……」
「誰か来ても、僕はかまわないよ?」

優しく体を引き寄せるように、腰を抱いてきた。一応、何度もキョロキョロしながら、わたしは周助さんに背伸びをした。
静かに唇を寄せると、今度は周助さんから唇を押しつけてくる。抱きしめる力も強くなって、外だというのに、頭がぼうっとしてきてしまった。
ちゅ、ちゅ、と控えめにくり返される音が、耳に刺激的すぎて、また体が熱くなる。

「ン、周助さん、も、ここまで……」
「ふふ。うん、そうだね。そうしないと、僕もまずいな」
「えっ……」
「僕の彼女がかわいいから、すぐに男になっちゃうよ」

こんな、爽やかで綺麗な顔立ちの人が、こんなにエッチで大胆なんて思ってもみなかった。おかげで、こっちもすぐに女になってしまうのだけど……。
そのとき、ちょうど階段下の出入り口付近の扉が開かれて、賑やかなご婦人4人組が出てきた。ギャルソンも一緒だ。
周助さんとわたしは咄嗟に体を離した。そのお互いの慌てっぷりに笑いつつも、ご婦人たちとなにくわぬ顔ですれ違いながら、階段をおりていく。

「お、不二! 待ってたよ!」
「久しぶりだね、元気してた?」

ギャルソンの男性がすぐに周助さんに気づいて笑顔を向けた。同い年くらいなのだろうか。お互いの口調から、仲のよさが一瞬でわかる。
男性はわたしに視線を移し、今度はきちっと背筋を伸ばしたあと、丁寧に頭をさげた。

「いらっしゃいませ。不二の彼女、なんですよね?」
「はい……あ、はじめまして!」わたしも頭をさげた。
「本日はご予約ありがとうございます。いやあ、不二が彼女を連れてくるなんてね! はじめてだよな?」
「うん……なんだか、ちょっと照れくさいな」

はじめて、なんだ……。それだけで、テンションが跳ねあがった自分がいた。

「いいねえ、ラブラブで! それじゃ、ご案内します、どうぞ!」

気持ちのいい笑顔で、男性はわたしたちを案内してくれた。周助さんと微笑みあいながら、履きなれないヒールをカツカツと鳴らしながら入っていく。
内装は、5年前に香椎くんと一緒に来たときと変わらず、ほとんどそのままだった。高級感あふれる空間に輝く、美しいワイングラスとカトラリーたち。それらがテーブルに置かれている様子も、変わらず一緒だ。

「わあ、綺麗」
「へえ、ずいぶんと凝ってるな……」

着席から間もなくして、目を奪われるようなお料理が出てきた。周助さんの時代とはまた違う世界観でつくりだされたものばかりだったけれど、大きなお皿に演出された素材たちは、やっぱり芸術だ。
周助さんも興味津々に、じっと料理の説明を聞きながら頷いている。

「伊織さん、写真、撮るでしょう?」
「はい、撮っていいんですよね?」と、さきほどの男性に顔を向ける。
「もちろん、かまいませんよ」男性はにっこりと、頷いてくれた。
「それ、あとで僕にも見せてね?」
「はい!」

写真を何枚も撮りながら、何度も感動してしまう。わたしにもこんな素晴らしいガラスがつくれたらと、渇望の思いが湧いてきた。
いよいよそれらを口にしたときも、思わず目を閉じてため息がもれでていった。フレンチって、やっぱり素晴らしいのだ。
もしガラス職人という仕事に出会えてなかったら、わたしは料理の道を志していたかもしれない。あれだけ料理ができないわたしが、こんな思考回路になるほどに魅了されてしまうのだから。

「ううう、すっごく美味しい……!」
「うん、腕をあげてるね。厳さんが戻ってきてるから、余計かもしれないな」
「もちろん周助さんのもすごく美味しいですけど……ここまでくると、もう順位なんてつけれないですね」
「いいこというね、伊織さん。僕も、そう思うんだ。僕はね、すごく負けず嫌いだけど……料理に勝敗なんてないよ。美味しいってだけで、どんな料理も満点だから」

それでも、三ツ星は躍起になっちゃったけどね、と、周助さんは笑った。暗黙に野瀬島から受けた批評のことを言っているのだとわかって、わたしも笑みで返した。
出会ったばかりのころは、プライドのせいか心のうちをあまり語らなかった周助さんが、いまは、様々なことを正直に語ってくれる。いろいろ吹っ切れているのだな、とそのたびに感じて、わたしは嬉しかった。状況が落ち着いている周助さんと過ごせることは、いまのわたしにとっては、なによりも充実している時間となっているからだ。

「周助さん、このお店、長かったんですか?」
「うん、長く働いたよ。だから知り尽くしているつもり」

そこからわたしたちの他愛もない会話は、長くつづいた。周助さんがこのお店で働いていたときのことや、フランス修行中に困ったこと、フランスから戻って来たときに、このお店のオーナーさんが声をかけてくれてきたこと。わたしの知らなかった、たくさんの周助さんの過去を聞きながら、美味しいランチに舌鼓を打った。
やがてメインディッシュも終わり、周助さんが追加で頼んだフロマージュがワゴンに乗ってやってきたときだった。配膳するギャルソンが別の人に変わっていることに気づいて、わたしはその人に目を向けた。穏やかな表情でやってきた男性が、わたしに軽く会釈をしてきたからだ。こちらも軽く会釈を返すと、周助さんがそれに気づいて、振り返った。

「オーナー!」
「いらっしゃいませ、不二シェフ」
「お久しぶりです」

ぎょっとする。声にはださないようにしたけれど、「えっ」と言ってしまいそうだった。まさかオーナーが挨拶に来るとは思っていなかったのもあるけれど、オーナーと呼ばれた男性が、あまりに若かったせいで。
わたしや周助さんよりは年上かもしれないけど……あまり変わらない年齢のようにも見える。
この若さでオーナーとは……よほどデキる人に違いない。

「元気にしてらっしゃいましたか?」と、周助さんがにこやかに会話をはじめた。
「もちろん。不二シェフは? すみませんね、まだ新しいお店に行けてなくて」
「いえ。またお時間があるとき、ゆっくりいらしてください」
「ぜひ伺わせていただきます。ボクも彼女を連れていこうかな」
「ふふ。いいですけど、お店でケンカ、しないでくださいね?」

思いだし笑いをするように周助さんがそう言って、オーナーがバツの悪そうな、だけど苦笑しながら、グラスに赤ワインを注いでいく。「まだ覚えてるの?」と周助さんにツッコんでいるところからして、なにやら面白そうな思い出があるのだなと推測した。
あとで周助さんにこっそり聞こうかな、と、よこしまな気分になりながら、二人の会話には口を挟まないように、わたしがそっと赤ワインに口をつけたときだった。

「しかし……いろいろと、大変でしたね、シェフ」

少し間を置いたオーナーが、フロマージュを取り分けながら、なにげなくつぶやいた。その声に、周助さんが気づいたように視線をあげて、静かに頷く。

「はい……もうすっかり噂になっていると思いますが、大変でした」

周助さんの穏やかな顔は、そのままだったけれど……オーナーのほうは、眉間にシワを寄せて、つらそうな顔をしていた。

「うちにも一度ね、偵察に来たことがありますよ、あの男」
「え? 野瀬島克也ですか?」
「ええ。不二シェフを雇っていたとき、いくらだったんだと不躾なことを聞いてきました」
「ああ、なるほど……」

野瀬島はそんなことまでしていたのかと、わたしのなかに憤りが湧いてきた。
はじめてわたしが会ったときの野瀬島の様子が鮮明によみがえってきて、わたしもつい、眉間にシワを寄せてしまう。

「不二シェフ、声がかかったでしょう? 卑怯な男です」そうなんですよ。と、部外者のわたしが言ってしまいそうになる。本当に卑怯で、卑劣な男だ。
「そうですね……でももう、済んだことですから」

そんなわたしの感情とは真逆なのか、周助さんは微笑んでいた。キッチンカーをやりはじめてからの周助さんは、笑顔もさることながら、とても柔らかくて、雰囲気があたたかい。
もともと柔らかい印象の人だけれど、野瀬島とやりあっていたころは、糸がはち切れそうだったから。あのころの周助さんが同じことを言われたら……こんなに素直な返事はしなかったはずだ。

「不二シェフ……いまさらだと、思うかもしれないけれど」
「え?」
「一時的だとしても、戻ってきてもらって、うちはかまわないですからね?」

だから、だろう。この誘いは、いまの周助さんにしか言えないことなのだ。
オーナーは、それがわかっている。渦中で声をかけなかったのは、オーナーなりに周助さんのプライドを守ったんだと、わたしにはすぐにわかった。
それだけで、胸が熱くなっていく。ここは周助さんにとって、本当にいい職場だったんだ。

「ふふ……相変わらず、僕に甘いですね、オーナーは」
「あなたほどの腕を持ったシェフは、なかなかいないですから。惚れ込んでるんです」

それでは、ごゆっくり。と、オーナーはもう一度わたしに頭をさげてから、去っていった。とてもあたたかい人だな、と思う。周助さんから話を聞いていた限りだけど、それは辞めていった『アン・ファミーユ』の人たちのことを考えると、余計に胸にくるものがあった。
周助さんが、静かにワインを口にする。なにかを考え込むような仕草だ。わたしは声をかけないように、目の前の食事を堪能することにした。
話したいときは、きっと周助さんから話してくれる。いまは、感慨深いものを味わっているんだよね……だから邪魔は、したくない。

「伊織さん」
「はい?」
「ちょっと、スタッフのみんなに会ってきていいかな?」
「あ、はい! もちろん! ゆっくり話してきてください」
「ありがとう。なるべく早く戻ってくるからね」

言いながら席を立って、周助さんは厨房へ向かっていった。オーナーから投げかけられた言葉に、周助さんも胸が熱くなったんだろうな、と思う。
かつての仲間たちと、どんな話をするのか……少し気になったけど、そこはわたしが立ち入ってはいけない領域のような気がした。過去、一緒に働いた仲間にしかない絆があるはずだ。つらかった時期、周助さんはきっとそんな人たちからの心配を、自分から遠ざけていたように思う。だからこそ、いましか語り合えないなにかがあるだろうと感じた。
勝手に想像して、じんわりと感動しながらフロマージュを口にしていると、視線の先に人影が見えた。ふと、顔をあげると、そこには厳さんが立っていた。

「あ、厳さんっ!」
「お久しぶりだね、伊織さん」
「お久しぶりです! あの、周助さんいま、厨房に」行かれましたよ、と言おうとしたら、厳さんが片手でわたしを制した。
「ああ、いいんだ。シェフが戻ってくるまでに、伊織さんと話したかったんだ」
「へ……わ、わたしとですか?」

静かに頷いた厳さんが、グラスにワインを注いでくれた。
厳さんの大きな、優しそうな分厚い手には、いくつもの傷がある。料理のときにつくってしまった火傷や切り傷の痕だろう。料理人として長年過ごしてきた厳さんの貫禄のようなものが、その痕からも伺えた。
そんな厳さんが、わたしのような小娘と話したいことって、なんだろう……と、いささか緊張してしまう。

「私が言うのも、差し出がましいことなんだが」
「はい、なんですか?」

見あげると、厳さんはもう一歩、わたしに近づいてきた。
その胸板が、大きく動いている。ひょっとして、あの厳さんが、わたしになにか言うのに深呼吸をしているんだろうか。
そうじゃなかったとしてもやっぱり緊張してしまって、わたしが少し背筋を伸ばした、直後のことだった。厳さんは突然、頭をさげてきたのだ。

「シェフを、よろしくお願いします」
「え……っ」

まるで、周助さんのお父さんのような雰囲気を持った優しい眼差しだった。
そんなことを言われると思ってなくて、持ち上げたワイングラスをテーブルに戻してしまう。開いた口が塞がらなくなってしまって、わたしはすぐに、言葉が出てこなかった。

「伊織さんは、もうわかっているだろうな……シェフはいつも、気を張っておられる方でね。なるべく周りに迷惑をかけないようにって、なんでもひとりで抱え込んでしまう」
「は、はい……」
「知ってのとおり、長いあいだ、つらい時期を送ってこられてる。お店をたたんだことも、周囲には見せないけど、身を引き裂かれるほどつらかったはずだ」

ごわごわとした髪の毛をなでながら、厳さんはそこで一旦、言葉を区切った。ん、と堪えるように喉を鳴らす。貫禄ある、強そうな厳さんの目が潤んでいるとわかって、当時の悲しみが、わたしの胸にも一気に押し寄せてきた。
周助さんだけじゃない。厳さんだって、相当につらかったはずだ。いつだって厳さんは、周助さんの傍にいたシェフだと、わたしは日頃から聞いている。

「そんなときに、伊織さんがいてくれてよかった……シェフにとってもそうだが、私にとっても、伊織さんは救いだったよ」
「そんな……わたし、なにも」
「そんなことはない。伊織さんがいたからこそ、シェフはなんとか戦えた。ああいう形になってしまったけど、いまのご決断をされて穏やかに過ごせておられるのも、伊織さんのおかげだと私は思ってる。伊織さんがいなかったらと思うとね……もう、想像もしたくないよ」
「厳さん……」
「シェフは『アン・ファミーユ』をオープンする前から、三ツ星を獲る前から、本当に苦労されてきたんだ。このお店の人たちは……いまとなっては、いい人ばかりが揃うようになったがね……オーナーが変わる前や、フランスでの修行中も、シェフは人の攻撃にばかり遭ってきた。あのとおり、腕もいいうえに、人を惹きつける魅力たっぷりだろう? そのぶん、人から妬まれてきた。それでも、シェフは強かった。本当はそんなに強い人じゃないと、私は思うんだけどね……」

この業界はとくに嫉妬深い男が多い、と、厳さんはつづけた。
そんな話を、わたしは周助さんから聞いたことがない。たぶん、このさき聞くこともないだろうなと思う。周助さんは、わざわざそんなことを、自ら話す人じゃない。
だけど、ずっと傍で見てきた厳さんが、わたしに話すくらいだ。想像じゃ追いつかないような酷い目に遭ってきたことがあると理解するのは、容易かった。周助さんはそんな苦労を超えて、ようやくできた『アン・ファミーユ』を、また、人の悪意で壊されたということだ。

「やっとシェフが安らげる場所を見つけたってときにあんなことになって……それでもくじけず、いまも必死で頑張ってらっしゃる。私はそんなシェフを心から尊敬しているし、なによりシェフを支えてくれた伊織さんに、感謝してもしきれない。伊織さんがいたからこそ、シェフはいまも立ちあがって、笑顔でいれる。それは、私だからわかることなんだ。だからこれからもシェフを、どうか……よろしくお願いします」

厳さんが、わたしなんかに深々と頭をさげてきた。周助さんは、たくさんの人に愛されている。それはわかりきっていたことだけど、ずっと周助さんを傍で見てきた厳さんに言われると、ずしん、とくるものがあった。うっかり涙が出そうになって、わたしも立ちあがって頭をさげかえす。
起き上がったときは、お互いが照れあって、一緒に笑ってしまった。
とても恐縮してしまう思いだけど、わたしにとっては、厳さんみたいな人が周助さんの傍にいることが、すごく嬉しい。その気持ちを、厳さんにも伝えたいと思った。
そのときだった。
周助さんが厨房から戻ってこようとしているのが奥のほうから見えて、はっとした。わざわざ周助さんがいないときを狙って話しに来てくれた厳さんの意図が、わたしにだって、わからないわけじゃない。早く厳さんにこの胸のうちを伝えなくてはと、わたしは小声で言った。

「厳さん、わたしは、厳さんの存在も、周助さんの力になっていると思います!」
「え?」
「周助さん、いつか厳さんを必ずまた引き戻すんだって、いまそれで、頑張っています。厳さんは自分にとって、かけがえのない仕事のパートナーだって。厳さん以外に、考えられないって。周助さんのパワーの源には、厳さんもいます。だからわたしも、厳さんの存在はとてもありがたいって、おこがましいですが、思っています。こちらこそ、よろしくお願いします!」

と、わたしはもう一度、小さく頭をさげた。
厳さんは早口なわたしに、一瞬、目をまるくした。やがてそこから、うつむいたかと思ったら、今度は勢いよく天井を見あげて、ふうっと長い息を吐いた。

「そんな……ああ、まいった、これは、いかんな」

目から落ちそうになっている思いを堪えているのだと、わたしにはわかる。
もらい泣きしそうになりながら、わたしも必死にそれを堪えるように、厳さんの真似をして長い息を吐いた。周助さんが戻ってくる前に、わたしと厳さんは、なんとかごまかしを図った。それがお互いにわかって、二人して笑った。
ちょうどそのタイミングで、周助さんがにこにこしながらわたしたちのところへ戻ってきたのだ。

「なんだか、楽しそうだね?」
「周助さん、おかえりなさい」
「ただいま。厳さん、ここにいたんですね。どうかしたんですか?」まだ上を見ている厳さんに、首をひねった。
「ああ、いや最近、どうも肩やら腰やら、痛くてですね」
「大丈夫ですか? 僕の店が暇だったから、こっちに戻ってきて大変でしょう?」

ぷっと思わず吹き出してしまった。周助さんが、きょとんとしてこちらを見る。

「え? 伊織さん、どうしていま笑ったの?」
「あ、いや、厳さん、さっきからずっと上を見てて、よほど首が痛いんだなあって」
「もう、失礼だよ、笑っちゃ。悪い子だね」怒られてしまった……まあ、こういう勘違いなら、いいや。
「ああ、いやいや、伊織さんとの談笑の名残りもありますよ、シェフ」ようやくまともな体勢に戻りながらわたしをフォローしつつ、厳さんはつづけた。「しかし、よかったですね、シェフ。お付き合いが現実になって」
「え」
「え」

厳さんがなにげなく言った言葉に、さっきまでの感動が、さーっと水に流れたように消えていく。
付き合っていると嘘をついていたことがここでもバレていたとわかって、わたしは周助さんと顔を見合わせた。
香椎くんには、わたしが下手くそすぎたからバレていたと思っていたけど……厳さんにまで……と、青くなる。これも、ひょっとしてわたしのせいだろうか。だとしたら、自分のバカさ加減にゾッとしそうだ。
周助さんが、コホン、と咳払いをしながら厳さんに問いかける。

「……厳さん、気づいてたんですか?」
「まあ、シェフが伊織さんを好きなのは、最初から気づいてましたけども」
「え……」

その返答に、周助さんの目がもう一段階、見開かれた。意外と目が大きい人だなと、最近になって気づいたことを再確認する。本当に驚いているときは、彼のお目々はとても大きく開かれるのだ。プラス、いまはちょっと、恥ずかしそうな顔もしていた。
でもわたしにとって厳さんのその発言は、ちょっと……いやすごく、嬉しいような、照れくさいような……。

「最初に伊織さんを紹介くださったときね、そりゃもうシェフが、デレデレでしたからね」
「そんな、厳さん……」まいったな、と、周助さんは口もとに手を当てた。デレデレ、なんて……こっちまで赤くなりそうだ。
「でも、伊織さんは違ったのでね」
「う……」

ピシャリと余計なことを言った厳さんのひとことに、思わず唸り声をあげてしまった。周助さんの顔を見るのが怖くて、うつむいてしまう。またあとでいじめられたら、どうしてくれよう……。
が、そんなことを気にする様子もなく、厳さんは意気揚々とつづけた。

「そしたらすぐ、別れたと言いだされたものですから、変だなと」
「それは……うん、そうですよね、変ですよね」

言い訳の言葉も見つからないまま、さらに困った顔をする周助さんが少し気の毒になってくる。
でもどうやら、これだと厳さんにバレたのはわたしのせいじゃないのでは……?
これならいっそのこと、香椎くんにも、「全部、周助さんが下手だったんだよ!」と言ってしまいたくなった。

「これはなんだか、おかしなことになっているなあと……その程度の推測でしたけども、おふたりとも、そこから、非常に想い合っておられてね……見ているこちらとしては、なんというか……ははは」

滑稽だった、と言いたいのだろう。
恥ずかしさでいっぱいになりつつ、わたしたちふたりは、頭を抱えて苦笑した。





厳さんと話したこともそうだし、フロマージュがどれも美味しくて、またまたわたしはお酒をたくさん飲んでしまった。ほろ酔いになりながら、周助さんと手をつないでいるというのに、ベッタリくっついてしまう。

「伊織さん、大丈夫? ちょっと飲みすぎちゃったね?」
「周助さんは、お酒に強いですよねー」
「うーん、どうだろうな。でも僕もいまは、酔ってるよ?」
「本当ですかー? 全然、そんなふうに見えない」
「そう? じゃあこうしたら、見えるかな」

ショッピング街を歩いているというのに、周助さんが腰を抱いて頬にキスをしてきた。ひゃっ! と声をあげる間もなく、さっと歩きだす。
酔いが一気に醒めそうだ。
周助さんが人前でイチャイチャしようとするのは……酔ってるっていうか、いつものような……でも、言わずにおこう。なにか言うといじわる100倍になって戻ってきそうな気がするし。

「も、びっくりする……」
「ごめんね? 伊織とはどこにいても、キスしたくなっちゃうんだ、僕」

伊織、と呼ばれてドキッとした。はじめてひとつになったあの夜からというもの、惑わそうとするとき、周助さんはわたしを呼び捨てる。それがまた、わたしもまんまと惑わされるものだから、どうしようもない。

「じゃ、じゃあ……」
「うん?」
「か、帰ったら、いっぱいしましょ?」

酔いも手伝って、真っ赤になりながらも、わたしはそう言った。周助さんの目が一瞬はまるくなって、すぐにきゅっと細くなって、耳もとに唇を近づけてきた……というのに。
お互い酔ってるから? とおり過ぎていく人がチラチラ見てるのに、なんにも気にならないわたしたちってどうかしてる……だけど、この顔を近づけられると、弱いんだよなあ、わたしも。

「じゃあ早く帰らなきゃ、だね? エッチもいっぱいしよって、約束だもんね?」

エッチをいっぱいしたらキスは自動的にいっぱいすることになるんじゃないかな、と思いつつも、幸せなので周助さんの手をぎゅうっと握りしめることでしか、返事はできなかった。
ああ、ずっと訪れたことのない恋愛の幸せがここにきて一気に訪れて、思考回路が絶対、普通じゃなくなってるよね、わたし。

「真っ赤になって、かわいいね、伊織」
「周助さんがセクシーなこと言うからだもん……」
「ふふ。伊織がセクシーだからだよ? もっと見たいな」
「もう……」

酔っていてもわかってる。もう、とか言いつつ、メロメロな自分に。
あんな感動ランチのあとに、しかも昼間っから、なんてハレンチな会話をしているのか。でも1週間ぶりに会ったので、許してください……と、なんとなく謝っておきたくなった。誰にかは、わからないけど……。

「じゃあ、少しお散歩しながら、タクシー見つけたら乗ろうか」
「はい、そうですね!」

さっと気を取りなおしたように、周助さんが歩きだした。
寄り添って歩いているだけで、このいかにもデートという雰囲気だけで、ウキウキした気分になる。代官山はわたしのような職人にはまったく縁のない場所なので、目に新しいということもあるけれど、とにかくオシャレなお店がたくさんあるせいかもしれない。

「わあ、すごいデザイン」
「うん? あ、本当だね」

そのとき、個性的なデザインの洋服が目に飛び込んできた。ショーウィンドウからこちらを見ているマネキンが、とても綺麗なワンピースを着ていたのだ。
黒地のロングフレアに、白、赤、黄、青、緑の小さな粒が、まるでぶどうのようなひとつの房になってところどころに散らばっている。大人っぽくて、ラグジュアリーだ。
思わず足を止めて見あげてしまう。普段、着ていくところはなさそうだけど、今日みたいにフレンチレストランに行くときや、ちょっとしたお呼ばれには最適、という気もする。
こういうのを一着持っているだけでも、華やかな気分になれそうだなあ……と、純粋に思ったときだった。

「伊織さん、買ってあげようか?」
「へ!? いやいや、いいですよ!」とんでもない! と付け加えながら首を振った。
「じゃあ、試着するだけなら、どう?」にこにこと、周助さんが手を引っ張る。
「いや、でも、試着しちゃったら……」絶対に欲しくなる。こんな高そうなもの、ダメだ!
「僕が見たいって言ってもダメ? いいでしょう?」

問答無用と言わんばかりに、周助さんがわたしの手を引いたまま、お店に入っていく。わたしの制止もまったく無視して、周助さんは店員さんに話しかけた。
そしてわたしはあっという間に試着室に押し込まれてしまった。その間、なんと1分ほどだ。

「お客様、いかがですかー?」
「あ、ちょっと待ってください」

周助さんの強引さにおずおずと服を着ていると、その肌触りに圧倒された。ひょっとしてシルクなのでは……と、考えただけで頭が痛い。

「伊織さん、どう?」
「う……はい」

店員さんも周助さんも何度も呼びかけるので、背中のファスナーがうまく留めれないままそっと外に顔を出すと、すかさず気づいた店員さんがファスナーをしめてくれた。
「わあ、とてもよくお似合いです! 彼氏さんにも見てもらいましょう!」とはしゃいでいる。
いけない、いけない、本気にするな。こういうところでは、店員さんは誰にでも「似合っている」と言うのだ。だから自惚れてはいけない、と、何度も心のなかで唱えながら、そっと試着室から出て、わたしは一応、鏡の前に立った。

「すごくかわいいよ、伊織さん」
「そ、そうかな……」
「うん、すごく似合ってる」
「本当に、彼女さんよくお似合いです!」

店員さんが周助さんに相槌を打つ。
たしかに、ワンピースはとっても美しくて、圧倒されてしまう。というか、文句なしにすごく素敵だ。わたしに似合ってるとかってよりも、とにかくかわいくて、ほしくなる。これはいけない。まずいやつだ。超、ほしい!

「本当に、素敵なワンピースですね」念のため、値札をチェックしよう。
「はい、サンローランですからね。着心地も抜群ですよね」
「え?」
「え?」

今日はこんなシーンばかりに、遭遇している気がした。わたしが聞き返したことで、店員さんも首をかしげていらっしゃる。
待ってくださいね……いま、『サンローラン』と聞こえたんですけど。サンローランって、あの『イブ・サンローラン』のことじゃないですよね、はは、まさか……。

「サンロー……?」
「はい、こちらサンローランのロングフレアドレスです。裏地はシルクなので、肌にも優しいですよ!」
「うん、素敵なはずだね」と、周助さんが、のん気に言い放っている。
当然、わたしは慌てた。「き、着替えます! すみませんっ」
「えっ、お客様……」
「え、伊織さん、もう着替えちゃうの? かわいいのに」

超ハイブランドの名前におののいたわたしは、周助さんの言いぶんを無視して、すぐに試着室で着替えはじめた。
なんてことだろう……イブ・サンローランのロングフレアドレス!? ワンピースとも言わないよそれ! うわあ、綺麗に決まってる、かわいいに決まってる! なんてものを試着してしまったんだわたしは!
汚さないようにそっと脱ぎながら、こっそり値札を見ると、「396,000」と書かれていた。失神しかけつつ、丁寧に丁寧にロングフレアドレスとやらをハンガーにかけた。
周助さん、わかってるのかな……。絶対わかってなかったよね……じゃないと試着なんてさせないよね。こんな高い服、着たこともないよ、体が震えるよ……。

「お疲れさまでしたー!」
「あ、すみません、ありがとうございました……」

さんざん、試着室でジタバタと、申し訳なさでいっぱいになりながら、目の前の扉を開けた。が、そこに周助さんはいなかった。見ると、お店の外で、こちらに背中を向けて待っていた。その姿にホッとする。きっと周助さんも『サンローラン』と聞いて、冷静を装いつつも、内心は焦ったに違いない。いくらほろ酔いだからって、わたしたちも浮かれすぎた。もっと確認すべきでした……と、いろんな反省を織り交ぜながら、待ちかまえていた店員さんに、静かにロングフレアドレスをお返しした。

「本当に、とてもよくお似合いでしたよ!」
「いえあの、すみません、高価なものだとは知らず」

どうされますか? と聞かれるのが怖くて、先制のためにそう言おうとしたところで、店員さんから大きな袋を差しだされた。え? と、また固まってしまう。なんですかその、真っ黒な袋。

「え?」
「お買い上げ、ありがとうございました」

その袋の中心には、『SAINT LAURENT』というロゴが入っていた。





「どう? あ、またファスナー留まらないの?」
「すみません、こういうの滅多に着ないから……慣れてなくて」
「ふふ。じゃあ僕が、しめてあげる」

周助さんのマンションに移動して、寝室の大きな鏡の前で、わたしは買ってもらったばかりのロングフレアドレスに着替えていた。
周助さんが「もう1回、見せて?」とせがんできたからだ。
あのあと、「周助さん! こんなのもらえません!」と、大反発したのだけど……。

――僕に返品してこいって言うの? ひどいなあ。
――だだ、だって、周助さんこれ、金額ちゃんと確認したんですよね!?
――だって伊織さん、もうすぐ誕生日でしょう?
――あと1ヶ月以上もありますし、誕生日だったとしても、こんなっ……!
――ひどい。傷つくなあ。僕の気持ち、受け取ってもらないの? 彼氏なのに……。
――う……。

周助さん曰く、わたしがボランティアでつくったワイングラス代にも及ばない、とのことである。さらに返品となれば、「僕が恥をかいちゃうなあ」と、のらりくらりと言われてしまい、結局わたしは、急なプレゼントを受け入れることになった。
たしかに、あのときつくった50脚のワイングラスは、合計40万くらいにはなるのだけど……でもそれは工房へのお金であって、わたしに返されても……! ああもう、なんて人だ。今日のランチ代だって周助さんに払わせてしまっているのに……。とは思っても、ロングフレアドレスを着ると、うっとりしてしまう自分がいるものだから、どうしようもない。

「ほら、ぴったりだね。伊織、すごくかわいいよ」

周助さんはファスナーをしめてすぐ、腰に巻き付くようにうしろから抱きしめてきた。首筋に、チュッとキスが落とされたかと思うと、そのまま、耳にもキスをされた。
また、惑わされている……自覚しています、メロメロです。

「ン、周助さん……」
「本当にかわいい……もったいないけど、こんなにかわいい姿を見せつけられると、もう我慢できないな、僕……したくなっちゃう」
「周助さん……」
「伊織は嫌?」
「そんな、嫌なわけないです、けど」
「ん……来週からは伊織も仕事がはじまるから、また1週間も会えなくなっちゃうでしょう?」
「はい……そうですね」
「寂しいじゃない? だからいっぱい、伊織がほしい」

さわさわと、腰のラインをなでてくる。さっきファスナーをしめてくれたばかりだというのに、ツー……と、ファスナーがさげられていった。

「着せたくせに、もう脱がすなんて……」思わず笑ってしまった。
「うん? 伊織は着たまましてほしいの? いいよ?」
「もうー、そういうこと言ってるわけじゃ」
「それも、僕としては興奮するし」
「変態……」
「ふふ。悪いお口だね」

顔を真横に向けられて、熱っぽいキスが注がれていく。自然と舌がからまって、体がうずいてきてしまった。
周助さんのこと言えないくらい、わたしもすぐに乗ってしまう……変態、かもしれない。周助さんに抱かれると、とっても愛されてる気がするし、幸せすぎちゃうから。もちろん、気持ちいいというのもあるんだけど……ああ、やっぱり変態かな。

「周助さん、好き……ン」
「僕も大好き……。ねえ、周助って言ってみて?」

パラ、と高級ドレスが床に落ちた。調子にのったわたしも周助さんの鎖骨からシャツのなかに手を差しこんでいく。
周助さんの上半身が、あらわになった。そのまま胸もとにキスしながら、わたしは小声で言った。

「周助……好き」
「嬉しい……伊織、愛してるよ」

ああ、今日はいっぱいしようって約束していたからわかってはいたけど、昼間から情事にふけっちゃうなんて……と、恥ずかしくも昂ぶっていると、ムードを狂わせる着信音が、ベッドのサイドテーブルの上にある周助さんのスマホから聞こえてきた。

「あ……とらなきゃ、周助さん」
「いいよ、とらなくて」

周助さんがそのままわたしをベッドに押し倒した。すでにブラジャーからわたしの乳房がはみだしていて、そこにも唇が落ちてきた。思わず、声がもれでていく。
まずい……気持ちよくって、もう溺れちゃいそう……。電話、鳴ってるのに。

「あっ……で、でも、大事な用かも……」
「どんな用だって、伊織さんの誘惑に勝てるはずないでしょう?」

周助さんの唇がわたしの唇に触れたまま、もう一度、舌が静かに割って入ってくる。長い指先が太ももをさまよったあと、下着に手をかけた。はあ、と吐息を漏らしながら、脱がされることを予感したわたしが膝を折り曲げて、そのまま半分ほど下にずらされたときだった。
今度こそ、完全にムードをぶち壊すチャイムが、部屋のなかに鳴り響いたのだ。

「あ……」
「ん……」

お互い、動きが止まって沈黙する。ぷっと同時に吹き出すと、もう一度、チャイムとともに、周助さんのスマホが鳴りはじめた。

「あははっ。周助さん、大忙しだ」
「もう、せっかくの時間なのに……」

笑いながら、周助さんが仕方なくスマホを手にする。
その瞬間のことだった。周助さんの顔が固まって、思わず、見ているこっちが目をまるくした。わたしの誘惑に勝てるはずない、と言っていたのはなんだったのかとツッコみたくなるほどに、周助さんが慌てて電話に出たからだ。

「跡部?」

わたしの胸がドクン、と波打った。跡部って……あの、跡部さん?

「どうしたの? え? うん、いま? あ、じゃあチャイムは跡部なんだね?」

周助さんのお友だちで、例のニュースで追いかけ回されている跡部財閥の御曹司だと、すぐにわかった。
「チャイムは跡部」という言葉に反応して、わたしはロングフレアドレスを身に着けた。
周助さんが言ったことからして、いま、このマンションの下に、あの跡部さんが来ているということだ。
さすがにきちんとお出迎えすべきだろう。

「ちょっと待っててね。いま開けるから」

ピ、と電話を切って、周助さんがシャツを着はじめるのと同時に、わたしに振り返った。

「伊織さん、跡部があの彼女と来てるみたいなんだ。大事な話があるって」
「あの彼女って、え、あの……記者会見の人ですか?」
「うん。あ、ファスナー、大丈夫? しめてあげようか?」
「あ、すみません、お願いします」
「ふふ。僕がいないと、着れないね、この服」
「うう……体をもう少し、柔らかくする努力をします」
「ん……というか、ごめんね。つづきは、またあとにしよう?」

チュッと頬にキスをして微笑むと、周助さんはすぐにマンションのロックを解除した。
跡部財閥の御曹司に会うんだとしたら、わたしはこの服で正解だったような気もする、と余計なことを考えてしまう。
まもなくして、跡部さんと彼女さんがマンション前に到着したのか、すぐにもう一度、チャイムが鳴った。
そこから周助さんについていくように玄関前まで行って扉をあけた、わずか数秒のことだった。
扉を開けた瞬間、記者会見の女性がわたしを見て、まっすぐに指をさしてきたのだ。

「あー!」
「え、なんですかっ! お久しぶりです!」わたしは咄嗟に頭をさげながら挨拶した。
「お久しぶりです! ごめんなさい大声あげて! ていうか素敵なドレス!」あの美しい女性が、支離滅裂に玄関に入り込んでくる。
「え、あっ、ありがとうございますっ」
「おい、彼女なのか!?」
「そう、そうなの景吾、そう、この女性!」
「あ、跡部さんはじめまして!」

ニュースで見まくった、間違いなく跡部景吾さんだった。
周助さんもイケメンだけど、この人はまた違うタイプのイケメンだ。というかなんか、オーラがすごい。
そしてこの跡部さんと、記者会見の女性と、わたしの慌てようは、なんなのだ!

「あの、わたし、周助さんの」
「なんだよ、ビンゴじゃねえかっ!」しかし挨拶をしようとしたのに、御曹司は全然、わたしの話を聞いてくれていない。
「ん……えっと、どういうこと?」周助さんだけが冷静に、この状況に首をかしげていた。
「いやちょっと、わからな……」

とにかく焦っている跡部さんと記者会見の女性は、困惑するわたしたちに向かって、つづけた。

「ガラス職人!」
「えっ」

跡部さんが、わたしに向かって声を張り上げた。なんでわたしの職業を知っているの!? と思いつつも、なんだか言えない迫力があって、わたしは目を見開いたまま顎をひいた。
展開が急すぎて、なにもついていけない……! なんでこの人たちは、こんなに慌てふためいてるのか。

「お前の兄貴に会わせてくれ!」
「あ、兄貴!? いや……兄はいませんが……」
「えっ!? だって、お兄さんって言ってたでしょ!? ごめんなさい、わたし名刺とか失くしちゃってて、お名前もわからないからっ」記者会見の女性が、なぜか謝る。
「は……?」

いやいや、お兄さんもいないのに、なにを謝られているのかもわからない。とにかく、何度もくり返すようだけど、話の展開が早すぎて、わたしは混乱していた。
えっと、この女性に会ったのは一度で、お兄さんって……え?

「ねえ、ひょっとして……香椎さんの」

が、傍で聞いている周助さんだけが、やはり冷静に、あいだに入ってきた。
そういえば、彼女にあったときにわたしの傍にいたのは……そこまで思いだして、鈍感なわたしも、ようやくはっとしたときだった。

「マル暴だ! こいつが会った、マル暴に会わせろ! 野瀬島の逮捕に動いてもらう!」

跡部さんの最後のひとことで、全員がしっかりと顔を見合わせる。
わたしはすぐにスマホを手にして、香椎くんに電話をした。





to be continued...

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