TOUCH_12


12.


同じ日本なのかと思うほど、東京は晴れていた。台風19号はまだこの地にやってきてないらしい。暗澹とした空を見、数時間後には快晴の空を目にして、めまいを起こしそうだった。
羽田空港から自宅マンションに戻って、すぐに着替えをはじめた。山口の雨でびしょ濡れになっていた服が完全に乾ききっていなかったせいだ。着替えながら、わたしは自室の引き出しにそっとしまっていた婚約指輪をバッグのなかにしまい込んだ。

――信じてるから、大丈夫。

不安げに瞳を揺らしながら言っていたリョーマの顔がよみがえる。強気な彼を、あんなに不安にさせている自分に憤りを感じていた。わたしがこれまで会った男性のなかで、誰よりも無邪気でポジティブなリョーマ。そんな彼の素敵な一部を、わたしが壊してしまった気がする。すぐにでも、秋人と別れるべきだと思っていた。
灼熱のなか、急いで治療院に向かった。汗だくになって到着したのは16時30分頃だった。ちょうど帰るところだった患者さんを、秋人と遅番のスタッフが見送っていた。すれ違いざまの患者さんに「お大事になさってください」と声かけながら、わたしはそそくさと治療院に入った。

「あ、伊織先生!」と、遅番のスタッフが声をあげた。
「すみません、急にお休みしたみたいになってしまって」

まるで海外の映画に出てくる日本人同士のように、わたしたちは頭をさげあった。
治療院内でスタッフ同士が、なかなか滑稽な状況である。額を押さえるハンドタオルに染み込む汗には、焦りからくるものも混ざっている気がした。

「いえ、僕のシフトは問題なかったので、大丈夫ですよ。秋人先生はちょっと大変だったかもしれないですけど」

スタッフはいたずらに微笑んだ。わたしたちの関係性を知っているからだろう。少しからかっているつもりだ、たぶん。
後日、スタッフたちに説明しなくちゃならないことも出てくるな、と、気が重くなる。とはいえ、細かいことを言う必要はないのだけど……きっとスタッフたちにとっては突然のことが起きて、わたしの知らないところであれこれ言われるんだろう。別にいい、どんな噂をされても……リョーマを不安から解放するためなら、かまわない。

「そうですよね。秋人先生も、すみませんでした」
「いや、問題ないですよ」

秋人はいつもと変わらない様子で、わずかに笑みを見せながらそう言った。1ミリも翳りある表情を見せないところが、彼らしい大人の部分だ。
……そういう秋人が、好きだった。尊敬もしていた。そんな彼だからこそ、3年間、わたしはなにも気づかないままで付き合ってこれたのかもしれない。だけどもう、そんな情をいつまでも引きずっていられない。そんなこと、秋人だって望んでいないだろう。

「次の予約は?」と、遅番のスタッフに尋ねた。
「1時間後ですね。今日、あとは伊織先生のご指名の方が2名だけです」
「そうですか。じゃあもう、今日はあがってください。お給料には影響させませんので」

わたしがそう告げると、スタッフは目をまるくした。遅番の勤務は20時までだからだ。残り3時間30分を給料つきであがれるなんて、裏があるに違いない……と、思っているだろうか。だとしたら、大正解なのだけど。

「え、でも事務作業とか残ってますから、やりますよ?」一応、一度は抵抗しておくべきだと思ったのか、日本人特有の真面目さだ。
「いえいえ、わたしが急遽こんな時間まで出れなかったので、お詫びです。ほかの仕事もわたしがやっておきます。明日はお休みですし、遠慮なくアフターファイブを楽しんでください」今日だからこそ、それは不要だと思いながら、食い下がってみる。
「わ……本当ですか! ありがとうございます! それではお言葉に甘えて! はは、妻が喜ぶな」

新婚だからか、彼はあっさりと引き下がり、笑顔で帰っていった。ホッとする。件の提案は、もちろん秋人とふたりになるためだった。リョーマにあんな顔をさせてまで、だらだらするつもりはなかった。次の患者さんが来るまでに、秋人には話しておきたい。
スタッフを見送ってから院内を振り返ると、彼は施術台のセッティングをしていた。スタッフとのやりとりになんの口も挟まなかった彼の背中に、緊張が走っていく。それでも意を決して声をかけようとした、直前だった。
秋人は突然わたしに振り返り、言った。

「別れよう」

とても、さっぱりとした物言いだった。街で偶然に出会って、「奇遇ですね」と言われているくらい、軽い声で。吹っ切れたように、無理して見せてくれている。それがわかって、胸の奥が、じくじくとした痛みに変わっていった。
ああ、と思う……わたしが切りだすべきことを、秋人に言わせてしまったせいだ。

「秋人……」
「突然で申し訳ないけど、今日付で。これ、受け取ってくれ」

そっと、封筒を差し出してきた。わかりきっていたけれど、そこには「退職届」と書かれていた。わたしが強引に部屋を出た瞬間から、秋人には痛感するものがあったんだろう……あれが、別れの合図だと。わたしの心が、もう秋人にはないということも。残酷なことをしたと、いまさら思った。

「……ごめんなさい」だから卑怯にも、それしか言葉が出てこない。
「なんで伊織が謝るんだ? ずいぶん勝手で急なことを言いだしてるのは、俺のほうだろ?」

それが秋人の、わたしへの最後の優しさなんだとわかる。彼と別れることが、嫌なわけじゃない。未練が、あるわけでもない。それでも、涙があふれでた。
思えば5年間、どれだけ揉めごとを起こしても、最後は秋人がいつだって自分から折れて、わたしを甘やかしてくれていた。
今日の甘やかしは、本当に、最後の最後になる。胸の苦しさは、そんな思い出への切なさだろう。

「疲れたんだよ、もう。いい女と付き合うのは、疲れるもんでね」

笑いながら、自嘲めいた言葉を、弱々しい声で吐いていく。秋人の精一杯の強がり。
……なにも言えなかった。なにか言うべきじゃないとも、思っていた。
ごめんなさい。わたしの心変わりを責めもせずに微笑む秋人に、何度も心のなかで謝った。ごめんなさい。

「いいよな? 俺も、あがらせてもらっても」
「うん……」
「アフターファイブを、俺も楽しむよ」
「うん……」
「伊織のマンションにあった荷物は、昨日のうちに片付けておいたから。ま、ちょっとしたものしかなかったし、楽だったよ」

言いながら、秋人は部屋の鍵をそっと返してきた。倣うように、わたしもバッグから指輪のケースを取りだした。交換するように差し出すと、彼は静かに、それを受け取った。
秋人から指輪をもらって返すなんて、数ヶ月前までは思ってもみなかった……そんなことを感じたって、懺悔にもならないけれど。

「今日までありがとうな、伊織。それと……いろいろ、ごめんな」

ほんの少し、体が揺れる。秋人が、別れのハグをしてきていた。素直に、背中に手を回した。言うつもりなんてないけど、このハグは、リョーマもきっと許してくれる。この胸のなかで泣くのも、これで最後だ。いろんな思い出が頭のなかで駆けめぐった。
出会ったころ、告白、はじめてのデート、大喧嘩だって……全部、懐かしい。全部、大切な思い出だ。

「わたしこそ、ありがとう……それと、ごめん」
「謝るなって。無理ないよ。俺は最低だった」

黙って首を振って、軽いハグをしたまま、わたしは泣いた。別れの言葉をつらつらと語らないのも、彼らしい一面だと思う。
あったかいよ、秋人……本当に大好きだった、あなたのこと。

「もう泣くなよ……決心が揺らぐだろ?」
「ごめん……」
「ほら、謝るなって。全部、俺が悪い」

優しい秋人。でもその優しさが、わたしたちの溝を深めた。3年前に打ち明けてくれていたら、違う未来が待っていたのかもしれない。それは、誰にもわからない。そして過去には、どうやっても戻れないから。

「だから伊織、幸せになってくれ」
「秋人も……」
「ん……」

5年間、わたしはたしかに、あなたと生きたよね……。その5年間が、たったこの数分で、終わっていく。
秋人、本当にありがとう。あなたに会えて、よかったって思う。これからはお互い、新しい人生を生きよう。だからあなたもどうか、幸せになって。心から、そう願うよ。

「よし、じゃあ帰る! なにか残してる荷物が治療院にあったら、適当に着払いで送ってくれ」
「うん、わかった」

秋人の背中を見送るために、治療院の外に出た。そのころにはもう、秋人は微笑みを取り戻していた。
別れはいつだって、悲しくて、寂しくて、儚い。
だけどきっとこれは、お互いのためを思う、優しい別れだ。そう思えたことで、わたしも、最後には笑えた。

「お世話になりました」
「こちらこそ。お疲れさまでした」
「ん……また、どこかでな」
「うん、気をつけて」

そう言って背中を向けたはずの秋人は、歩きだしてすぐに、足を止めた。ゆっくりと苦笑しながら、こちらに振り返る。なにか忘れ物かと思っていると、彼は少し気まずそうに、頭をかきながら言った。

「悪い……そういえば、まだ言ってなかった最低事項があった」
「へ……?」





結局あの日は、秋人が退職したぶんのスケジュール調整やら、早めに帰してしまった遅番スタッフの残りの仕事を巻き取っていたせいもあり、遅くなったのだ。
リョーマが待ちきれずに治療院まで来るとは、思っていなかった。また自分に憤りを感じそうになったけれど、秋人と別れたせいなのか、以前よりは気持ちがとても軽かった。
ホテルについてからリョーマにぶつけられた嫉妬にも、同じくらいぶつかって彼を抱きしめることができた。
そんな時間を過ごしたからなのか。あれからリョーマは、自分を取り戻したように落ち着いていった。いつもの生意気で、強気で、かわいいリョーマに戻っていった。最後のは言ったら拗ねるから、わたしのなかでは完全にNGワードと化しちゃったけど。
早いもので、あの日から、2週間が過ぎていた。

「家具、これで全部だよね。伊織さん、これはどうすンの?」
「んー? あ、それはその端っこがいいな。置いといて。あとでわたしが片付けちゃうから」
「わかった。じゃオレ、本でも並べとく」

2週間のあいだに、治療院には優秀なスタッフが入ってきてくれた。おかげで今日は土曜日だけど、わたしは休暇をもらっていた。
というのも、リョーマがすこぶる嫌がるので、新たなマンションに移り住むことになったからだ。今日はその引っ越しの日で、たったいま、最後の宅配が終わったところだった。
ちなみにわたしはマンション購入派だ。今回もそうしようとしたのだけど、「オレと結婚すんだから一時的デショ。買う必要ない」と断固反対されたので、仕方なくの賃貸マンションである。

「ありがとうリョーマ」
「当然デショ。オレ、いつか伊織さんの旦那になるんだから」
「ふふ。だね」

いずれリョーマと結婚して、ほとんど海外で過ごすにしたって、「日本に帰ってきたとき、ふたりで過ごせるマンションがあるほうがよくない?」とか「わたしの住まいなんですけど……」とかいう抵抗は、やめておいた。
結婚の約束をしてからというもの、亭主関白とまではいかないけれど、リョーマはすっかり旦那気分だ。わたしは密かに、それが嬉しい、という理由もある。そして、海外生活をしつつ日本に帰ってくるときには、リョーマはおそらく別の新居を用意するつもりな気が、しなくもない。

「でも量が多いから、途中で投げだしちゃっていいからね」
「投げだしたりしないけどさ……ホント、多すぎ。売ればいいのに」
「なあー? なに言ってるの。本はいざってときに必要になるんだから!」
「医学本はわかるけど、この小説とかビジネス本とか、全然いらないよね?」
「いるの! それもいざってときがあるの!」
「そのいざって1年に何回くんの? いざとなったときに買えばよくない? ていうかそれなら、いまこそ英語の教材でも買うべきなんじゃない?」
「ぐ……」

しかしリョーマはあいかわらず、生意気だ……! あれからもずーっと英語にたいしての嫌味を言ってくる。「今日からオレと英語だけで会話する?」と言われたときは、どうしようかと思った。わたしは本当に、英語が苦手なのに! よくウィンブルドンについていったなと自分でも思うけど、あれはリョーマの故障が心配だったから為し得たことだったんだ。それに、現地ではみんな通訳してくれたし……。
治療目的ナシで海外生活なんて、気が重すぎる……そりゃ、リョーマと一緒に暮らすためなら、頑張るけども……。
まあでも、これからリョーマには手術もリハビリもあるんだし、当分先のことなんだもんね。と、まるで夏休みの宿題状態でわたしは英語を避けているところだった。

「ねえそういえばさ、昨日、跡部さん来たんでしょ?」
「うん、いらっしゃったよ」

リョーマが本を棚に入れながら、なにげなく聞いてきた。話題が変わったことに意気揚々としながら、近くの作業机の整理整頓をしながら答える。
跡部さんは、わたしたちが山口から帰ったころから世間を賑わせていた。そのニュースが出たてのころ、心配したリョーマは跡部さんに電話をかけたらしい。そして、うっかり九十九さんの件を話した、と打ち明けてきた。
これを聞いたときは、目が点になった。たいした個人情報じゃないとはいえ、話すかね、普通? と青筋を立てそうになったのだけど、よくよく聞いていると、リョーマから九十九さんの件を無理くり聞き出そうとしたのは、跡部さんのほうだったという。跡部さんの財閥関連ニュースと九十九さんの件がどう関係あるのか、いまのところは全然わからないけど……。

――この状況を、変えれるかもしれねえんだよ。

とにかく、跡部さんは焦っていたそうだ。要するに、相手が渦中の跡部さんで、彼を助けれるかもしれないと思って、リョーマも仕方なくしゃべったのだろう。
だからわたしも、軽く叱った程度に留め、あまり強くは言わないでおいた。お説教したところで、どうせ「元はと言えば伊織さんが口を滑らせたのが悪いよね?」と、これまた生意気に言い返されるのも、目に見えてたし。想像しただけでイラッとするじゃないか。

「結局、どういう話だったわけ?」
「んー、九十九さん……ていうか、野瀬島さんのことは、よくわからないよ。リョーマが話したことがすべてだし、わたしからそれ以上、話すことはなかったしね。でもいちばん伝えたかったことは、ちゃんと伝えれた」
「ああ……跡部さんの、婚約者のこと?」
「うん」

それは、跡部さんのニュースが流れはじめた1週間後のことだった。
跡部さんから3億円も無理やりつかまされた被害者として報道されていた女性が、記者会見を開いたのだ。
そして彼女は言った。『あの3億円の慰謝料は、わたしが跡部景吾さんを脅して巻き上げたお金です』と。完全に衝撃発言であるのと同時に、完全にトチ狂った女の装いで記者会見を終わらせていた。そのせいで現在、ワイドショーはさらに盛り上がってしまっている。
跡部さんに寄せられていた世間の厳しい声は、一気に遺族女性への批判に変わっていった。その一連の流れを見ていたわたしは、跡部さんと記者会見の女性に、ただならぬ空気を感じていた。リョーマに相談すると、彼も同意見だった。きっとふたりは、想い合い、かばいあっている。なんてドラマチックなんだろうと、跡部さんには悪いけど、個人的にはワクワクしたくらいだ。それでも一緒になれないしがらみがあるとしたら、ひとつしかない。跡部さんの婚約者の存在だ。彼女は、妊娠している……ということに、「なっている」。

――それ、跡部さんに言ってあげたほうがいいよ。

そして、リョーマに背中を押された。だからわたしは、守秘義務であることは十分に自覚しつつ、「あくまで見解をお伝えするだけ」と言い聞かせ、昨日、跡部さんを治療院に呼び出したのだ。

「跡部さん、なんだって?」
「うん、『ありがとう、感謝する』って」
「ふうん。それだけ?」
「うん。行かなきゃいけないところがあるから、これで失礼するって、出てっちゃった」
「そっか……跡部さん、あの人とうまくいくといいけど」
「うん、そうだね」

しがらみが取り除けた跡部さんは、昨日、あれからどうしたのだろう。と、ぼんやり考えた。
跡部さんと仕事をした期間はそこまで長くなかったけれど、彼ならきっと乗り越えられる。やけにそんな確信があるのは、あの跡部さんだからこそ、なんだろう。なんというか彼は、お金を持ってるからとか気品があるからとか、そういうレベルの話じゃなく、かなり頼れる親分的なオーラを身にまとっている。ピンチをチャンスに変えるようなヒーロー的要素が、彼には備わっている気がするのだ。たとえるなら、『24』のジャック・バウアーだろうか。いや『プリズン・ブレイク』のマイケル・スコフィールドかもしれない。どっちだっていいんだけど。

「大丈夫でしょ、跡部さんなら」
「だね、オレもそう思う」
「うん。リョーマも跡部さんとは仲よしだもんね」だからリョーマにも、わかるものがあるんだろう。
「別に……たいして仲よくないけど」またまた、強がっちゃって。「でもあの人、昔から世話焼きなんだよね。オレ、中学の全国大会決勝戦で超ピンチだったことあって。そのときも、助けてもらってさ」

なにを思いだしたのか、リョーマは少しだけ笑いながら言った。

「そうなんだ? なにがあったの?」
「いや、たぶん信じてもらえない」くすくすと、まだ笑っている。
「ええ? そんなびっくりな出来事?」

余計に気になるじゃないの、とつぶやくと、まあ、それはまた今度、と言いながら、ひととおり笑って満足したのか、リョーマはつづけた。

「ま、だから跡部さんがホッとできる人がいるの、ちょっとよかったなって思うんだよね。たぶん本命は、あの記者会見の女の人だろうし。婚約者の嘘がわかったら、絶対に突っ走るよ、跡部さんなら。だから、なんていうかさ……」

少し考えこむようにしながら、「幸せになってくれたら、いいなって」と、つぶやいた。
照れくさかったのか、コホン、と咳払いをしている。いいライバル関係なんだなと思うと、とても微笑ましい。
自惚れかもしれないけど、最近のリョーマはわたしにだけじゃなく、みんなに優しくなってきている気がする。テニスのことしか興味ないって感じだったのに、人の恋愛のことまで考えるとは。大人になっているのだな、少年! とか言ったら、英語攻めで罵られてしまいそうだ。想像しただけで、頭が痛くなる。

「そうだね。きっと跡部さん、幸せになれるよ!」元気よく、わたしも応えた。
「ん……けど、問題山積みって感じだよね、婚約者の嘘に、野瀬島とかいう人も、なんかあるんだろうし」
「そうだねえ。でも別人だっていうのは、驚いたなあ」

――野瀬島克也と九十九淳一は、別人なんだよ。

治療院に来て、野瀬島さんの話を聞きたがった跡部さんは、そう言っていた。

「全然、芸名じゃなかったってことデショ? なんか気持ち悪い話だね」
「うん。ただ別人だってわかった以上は、もう、うちでも治療できないなあ」跡部さんがいい加減なことを言ってるわけ、ないしね。
「いいの? お得意さんじゃなかったわけ?」
「いいのいいの。ちょっと面倒な患者さんだったし」これに関しては、本音だ。毎回、偉そうな自慢話の演説がうるさかった。
「へえ。そういうことは、言っていいんだ?」それを聞いて、リョーマが弱みを握ったような顔をする。「SNSで暴露したら炎上しそうだね」
「まったく……リョーマも人のこと言えないんだからね?」
「え? なにそれ」
「最初は面倒な患者さんだなって思ったってことー」
「は?」

さっきの仕返しとばかりにいじわるを言うと、ほどなくして、彼は背中から抱きついてきた。
もう……ホントにこういうとこ、かわいい。嫌なんだ、面倒だって思われてたの。ぷぷ。

「オレが面倒だったって、どういう意味で言ってンの? 嫌いだったってこと?」

案の定の言葉に、吹き出しそうになる。リョーマだってわたしのこと面倒だって思ってたくせに、そういう自分のことは棚にあげて、最初からわたしがリョーマにお熱だったということにしておかないと、どうやら気に入らないらしい。

「嫌いじゃないよ。でもぶつくさ言って、すぐに施術台に寝てくれなかったじゃない?」
「いまはすんなり、寝てるデショ」ちゅ、ちゅっと鎖骨にキスが落ちてくる。スキンシップが、くすぐったい。「施術台だけじゃなくて、いまのオレ、伊織さんのいいなりジャン」
「よく言うよ……ベッドも新しいの買っておいて」

強引さにいいなりになっているのはわたしのほうだと本人は気づいてないらしいから、それも笑えた。
引っ越しが決まった瞬間、リョーマは勝手にキングサイズのベッドを注文していたのだ。
引っ越し祝いだから、と言われて驚いたのは、ついこのあいだの話。まあ、あれだけ嫌がってたもんね……無理ないとは思うけども。

「はあ? 前のベッドがそんなによかったわけ? まさか思い出に浸ってるわけじゃないよね?」

キッとした目に、笑ってしまいそうになる。ちょっとした挑発に、すぐのるんだから。
こうしてリョーマをいじめるのは、少しだけ楽しい。ベッドを新調したって言っただけなのに、なんでも過去と結びつけちゃうリョーマは、実に嫉妬深い。そういうところがかわいいって思われてるのに、これまた本人は無自覚らしい。それもまた、笑える。

「ふふっ。冗談冗談。じゃすときでぃんぐ。嬉しかったよ?」
「下手くそ……」
「いじわる言わないでよう」
「いじわる言ってんの、伊織さんデショ」

右肩にあるリョーマの頭をなでると、自然と唇が触れあった。
わたしの肩を、頬をなでながら、リョーマの甘いキスタイムがはじまってしまった。まずいなあ……幸せだけど、全然、引っ越し作業が進まなくなってしまう。

「……嫉妬させないでよ」ぶすっとして、超真顔だ。かわいすぎる。
「リョーマ、反応しすぎだよ。嫉妬深いんだから」
「ふうん。じゃ、伊織さんは平気ってこと? オレと千夏のこととか気にならないの?」
「だって、過去は過去だもん。それにいまは、わたしのことだけ愛してくれてるでしょ?」
「……伊織さんは?」
「あ、ずるい。聞いたのわたしなのに」
「答えてよ」

まったく、ガキんちょめ。

「愛してるよリョーマ。世界でいちばん、愛してる」
「ホント……?」
「ホント。嘘なわけないでしょ」
「ん……オレも、愛してる。伊織さん……」

ちゅるっと、舌が入ってくる。やんわりと胸が揉まれはじめた。
2週間も経つというのに……そのあいだ休むことなくわたしを抱いてるというのに、この人は本当に、精力がバカになっているみたいだ。

「ちょっと、ダーメ」
「いいジャン……今日休みだから時間あるデショ。新調したベッド、ためそうよ」
「ダメだってばあ……引っ越しのためのお休みなんだから。夜まで我慢して」
「どうしても?」
「どうしても」
「ちぇ……ケチ」

まったく、油断も隙もないんだから。すぐにセックスしたがるのは、若いからなのか、リョーマだからなのか。普通にキスして終われないんだろうかと思うけども、とはいえ、そういうのも全部ひっくるめて、結局はかわいくて愛しくてたまらないから、わたしも重症だなと思う。
一方で、なんだかんだと、リョーマは微笑みながら本棚整理を再開してくれた。

「おあずけぶん、今日は最低2回だね」
「なにそのカウント。ドスケベ」
「へえ? そんなこと言って、いつも受け入れるくせに。ドスケベなのは伊織さんのほうでしょ」
「……黙りなさい」

今日は嫉妬させられても、セックスを拒否されてもご機嫌らしい。跡部さんのことで胸をなでおろしたのもあるだろうし、やっとわたしが引っ越ししたこともあるだろう。これで毎日うちに通えると、昨日から張り切っていた。
ふと、2週間前に秋人に言われた最低事項のことを思いだした。わざわざ言う必要もないかなとは思っていたけれど、せっかく彼が最後に反省して謝罪してきた件だ。それに、聞いたときはわたしも嬉しかったし……その気持ちは、伝えておきたい気もする。
今日はご機嫌だから、きちんと受け止めてくれそうだ。

「ねえ、リョーマ」
「うん?」
「ずいぶん前、治療院の電話に、留守電いれてくれてたんだってね?」
「え」

作業に戻ったリョーマが本を手にしたまま、ポカン、と口を開けて固まった。
10秒ほどそのままだったのだけど、わたしがくすくす笑って首をかしげると、リョーマの眉間にシワが寄った。

「それ、いつ、誰から聞いたわけ?」おやおや、また嫉妬している。
「2週間くらい前に、留守電を消した張本人が最後に言い残していったんだよ? だから怒らないであげて?」
「怒るに決まってんジャン。にゃろう、やっぱり消してた。最低でしょ。オレなら絶対そんなことしない」

判断ミスだったかな。せっかくのご機嫌がまたぶすっとしはじめている。「かわいい」もNGなら、わかってはいたけど、どんな話でも秋人が絡んでくる話題はNGみたいだ……「まだまだだね」と、頭の片隅でリョーマの声がする。わたしも、もう少し学ぶべきことがあるらしい。だけど、留守電が聞けなかったわたしとしては、おねだりをしてみたかったという欲求もあったのだ。だから、いつかは話すつもりだった。

「リョーマ、機嫌なおして?」
「……なにしてんの、急に」

越前リョーマという男がそれほどわたしを愛してくれている。実感するたびに、胸がいっぱいになっていく。
今度はわたしがリョーマの背中から抱きつくと、リョーマはつっけんどんな口調とは裏腹に、お腹のところで絡まっているわたしの手をぎゅっと握りしめてきた。

「聞きたいなあ。留守電、わたし聞けなかったから」
「は……?」
「なんか、嬉しいこと言ってくれたみたいだし?」
「……別に、こないだ言ったことと変わんないけど」
「それでも、聞きたいなあ」

体を揺らしながらおねだりをつづけていると、ふうっとため息をついたリョーマが、わたしに向き直った。
ぎゅっと抱きしめられる。たくましい、リョーマの体。優しい香り。

「……伊織さんしつこそうだし、仕方ないから、言ってあげるよ」まったく、減らず口なんだから。もう機嫌なおったくせに。
「ふふっ。うん、聞かせて?」

胸から顔を離して見あげると、そっと、頬が包まれた。ツンケンしていた顔から、急に柔らかくなった表情がわたしの胸をときめかせる。

「オレ、伊織さんのことが好き」
「……うん」
「伊織さんとなら、結婚したい。いますぐでも、全然いい」
「……うん」
「だから……もう一度、オレのとこに戻ってきて」
「リョーマ……」

秋人は最後に、治療院の留守電にプロポーズが録音されてた、とわたしに打ち明けてきた。そして、そのときは咄嗟に消してしまった、と、謝ってきたのだ。
それにしても、なんで治療院の留守電にいれちゃったかな。でも、留守電でも聞きたかったなと、少しだけ思った。

「それと、伊織さんが、どういうつもりで帰ったのかわかんないけど……これ聞いたら、連絡ちょうだいって……」
「……ん」
「けど……折り返しがなかったらそういうことだって理解するからって、入れたんだよ……だから消されてたとか、超ムカつく」

言いながら、リョーマが抱きしめる手に、力を込めてきた。
それで、連絡がなかったというのに、あきらめずに治療院へやってきてくれたというわけだ。愛しくて、泣きそうになった。

「ありがとう、リョーマ。あきらめずに来てくれて」
「そんな簡単に、あきらめつくわけないじゃん」こんな、好きなのに……と、つぶやいている。
「わたしのために、優しいね、リョーマ……」
「なに言ってンの。別に伊織さんのためじゃないって、言ったっしょ。オレが伊織さんと結婚したいんだってば」
「うん……嬉しい」

背伸びをして、リョーマの首に手を巻きつけてキスを送ると、離れてもすぐ、リョーマは何度も、わたしの唇をねだった。
ああ……なんだかんだ、今夜もめちゃくちゃにされたくなってくる。リョーマのこと言えないくらい、わたしもバカになってると思い知らされた。ドスケベ、たしかにお互いさまか……。

「ごめんね、聞いてあげれなくて」
「もういいよ。直接言えたから……ちゃんと、伝わったでしょ?」
「うん、大好きだよ、リョーマ」
「オレも好き、伊織さん……」

甘い甘い口づけは、長くつづいた。全然はかどらない引っ越し作業は、こんなことを何度もくり返して、結局は、夜中までかかった。





千夏さんおすすめのイタリアンレストランは、テラス席がとっても優雅な、気持ちのいいお店だった。

「ほらね、伊織さんやっぱり嘘ついてた」
「いや千夏さん、嘘っていうか……それはあなたもでしょうに!」

久々の再会で、お互いの開口一番はそれだった。引っ越しの翌日のことだ。
いつのまにやら、千夏さんには彼氏ができていた。その彼氏に会ってほしいというので、わたしとリョーマと、4人でランチすることになっていたのだ。

「伊織さんが意地はってリョーマを遠ざけるから、あたしはひと肌、脱いだだけです。効果あったでしょ?」
「ま、まあ……」

全然なかった、とは、いまさら言えない。千夏さんなりの配慮だったことはわかるし、その気持ちは、いまとなってはありがたいものでもある。
さて、千夏さんの彼氏は非常に落ち着いた年下の男性だった。千夏さんとは10歳差。わたしたちの倍の年の差だ。これにはわたしもリョーマも、目をまるくした。だってまだ、ハタチになったばかりだというのだ。
しかも、だ。相手はプロボクサーだった。どうやら……千夏さんはとことん、スポーツ選手が好きらしい。とか言ったら、怒られるだろうか。ご飯をつくって体調管理をしてあげたい、ということなのかもしれない。わたしにとった嘘八百の言動をとってみても、彼女もなかなかの世話焼きのように思う。

「まさか越前選手が来るとは思ってなかったんで、ちょっと、緊張してて、うまくしゃべれません、すみません」

あげく彼氏さんは、ボクシングをしているとは思えないほど、おっとりと無口な人だった。
勝手なイメージだが、ボクサーは茶髪でオラオラとした雰囲気の人が多いように思うけれど、彼は黒髪で好青年風だ。筋肉質で逆三角形の綺麗な体型に、ピタピタのTシャツがよく似合っている。

「別に……緊張するような相手じゃないよ。普通にしててよ」
「はい……」
「そうだよ。リョーマなんかただの生意気なガキんちょだよ」
「は? って、伊織さんなに笑ってんの」
「え? 笑ってる? 笑ってないない」

千夏さんからはあらかじめ、「リョーマが元カレだってことは、秘密にしてるので」と言われていた。当然そうだろうとは思っていたけど、彼からすればいきなり世界2位のテニスプレーヤーが来るわ、全員10歳近く年上だわ(わたしはひと回り以上違うし)で、まだ成人したての彼には居心地が悪いだろう。それでも千夏さんに従って、黙ってついてきたのだ。そういうところも、おっとりしているなと思う。こういう人だからこそ、活発な千夏さんにはピッタリなのかもしれない。
それにしても10歳も下の子を射止めるとは、お人形のような顔をした千夏さんだから一定は納得しつつも、さすがだ。さすがとしか、言いようがない。

「でも、よかったですね、伊織さん。あたしたちウィンブルドンのときはそこまで仲よくなかったけど、いいお友だちになれそうだと思いません?」
「あはは。そうだね。わたしも、千夏さんが幸せそうで嬉しいよ。よかったね」
「はい! 今度、女だけでランチしましょ。あたしつくるんで!」
「あ、じゃあうちに来て! 新しいマンションのキッチン、すっごく素敵なの。使いやすいんだ」
「えー、行きます行きます! いろんなキッチン参考にしたいと思ってたんですよ。あたしたちも今度、引っ越そうと思ってるから」
「え、そうなの?」
「はい! 結婚するんです、あたしたち」

流れるような会話に、「え」とリョーマとふたりで固まってしまった。今日のランチの目的が、やっとはっきりしたような気がした。つまり、結婚報告だったというわけだ。
千夏さんと彼が付き合いはじめたのがいつかは知らないけど、どう見繕ってもスピード婚だろう。それはおそらく、我々も人のことを言えない空気感なのでよいのだけど、まだハタチになったばかりの男性と、三十路の千夏さんが、結婚とは……!

「それは……おめでとう!」
「ありがとうございます!」
「っす……」彼のほうは、首をこくっと前に出して照れている。
「おめでと」ごく冷静に、リョーマは言いながら、「なんか、結婚ラッシュすぎない?」と、わたしにつぶやく。
「ホント、ね」苦笑である。
「え、ほかに誰か結婚するんですか?」
「ああ、うん、共通の知り合いがね」

跡部さんの名前は、さすがにここでは出せない。というか、跡部さんは婚約破棄になる可能性、大だろうけど……。
それにしても、千夏さんも彼も、なかなか思いきりがすごい。まあ、千夏さんバリバリ稼いでいるだろうから、生活の心配はないだろうけど。

「彼の親があんまり乗り気じゃないんですけどね。あたしが年上すぎるから」
「千夏さん、ごめんね……」と、無口な彼がボソボソと謝った。
「あ、ごめん、嫌味じゃないんだよ。でもあたしが支えたいって、ちゃんと伝わればいいなあって」

彼はわたしからしたら、もう子どもにしか見えないけど、かわいらしく千夏さんを気遣っているところに愛情を感じる。
なんとも、微笑ましいカップルじゃないですか。

「千夏なら大丈夫でしょ。とにかく料理つくりまくって、彼の親に突撃しまくれば?」
「あたしリョーマじゃないから、そこまで図々しくなれないの」
「あっそ。図々しさなら天下一品だと思ってたけど」
「ちょっと失礼ねえ!」

まあ、たしかにウィンブルドンまで押しかけてきたときは、わたしも似たような感想を持っていたけれど。いま思えば、あれは千夏さんらしい、当たって砕けろ精神だったんだろう。
それをわかっていて、チクチク言うリョーマと千夏さんの掛け合いに、少しだけ嫉妬した。別れてたって仲よさそうなんだから、二人とも。ふーんだ。

「でもたしかに、千夏さんのいいところ、きっと彼のご両親もいつかわかってくれるよ」
「そうですかね。伊織さんはしばらく、あたしが苦手だったみたいだけど」
「いや……そ、それはほら、いろんな事情があったから」誰だって、あんな監視するような目でいられたら、苦手にもなるよ……。
「リョーマのこと好きじゃない振りして、嘘ばっかりつくし。大人ってやだー」
「だからあ……千夏さんに言われなくないからね? すごい演技だったよ?」

東京に帰ってきてから千夏さんが治療院まで押しかけてきたのは、わたしの恋心を煽るためだったとリョーマから聞いて呆れたのは、ついこのあいだのことだ。でも、彼女の人のよさが伝わるエピソードで、胸があたたかくなったのも事実である。

「へへ。ですよね」
「褒めてません」

そんな事情を知らない彼が、気まずそうに目をそらした。なんとなく当時の状況を察しているんじゃないだろうか。リョーマと千夏さんはすっかりいい友だちなのだけど、愛する人の元想い人がここにいるのは、若いからこそ、あまりいい気分じゃないかもしれない。
わたしは彼に視線を向けた。

「あの、あなたは千夏さんのどんなところが好きになったんですか?」
「え、僕すか……」あなたしかいないでしょう、とは言わない。まだ若いんだ、仕方ない。
「やだ、伊織さんなにその質問っ!」
「だって、この時代にハタチで結婚を決めるって、すごいなあって。よほど惚れ込んじゃったんだろうなってね」

わたしがそう言うと、千夏さんは途端に失速して顔を赤らめた。まあ、かわいい。と、おばちゃんのように思ってしまう。いや、年齢的には十分におばちゃんか……とくに、この彼からすれば。

「いいですって、そういうの!」
「えー、いいじゃない、ノロけを聞かせてよ」
「女の人って二人揃うとマジでうるさいよね」生意気リョーマが口をはさんできた。
「な、ムカつくリョーマ! ガキのくせに! 留守電男!」
「誰がガキだよ。ていうかその悪口マジでムカつくんだけど」

ナイスネーミングにわたしが苦笑していると、まったく空気になじめないような顔をして、千夏さんの彼氏がすうっと息を吸い込む。
なにか言いだす、と思ったときだった。彼の表情が、変わった。
あ、と思う。リョーマが大人の男の目をする瞬間に、それはとてもよく似ていたからだ。

「千夏さんは、僕と違って、とても元気で、あかるい人なんで……僕にとっては、高嶺の花みたいな人で」
「……ちょっと、真面目に話さないでよ、恥ずかしい」
「いいじゃない千夏さん」邪魔しないで、と言いながら、わたしは彼を促した。「それで、好きになったんですか?」
「その……ずっと千夏さんのこと好きだったんで、僕……学生のころから」
「え?」
「あ……彼とはちょっと古い付き合いなんです。栄養士って、結構いろんな働き方があるんですよ」

聞けば、彼が高校生のときから、千夏さんは彼の通うボクシングジムで栄養士の知識をいかした食事メニューの考案やセミナーめいたことをやっていたらしい。
だけど、学生の彼にはうまく実行できなかったそうだ。そりゃそうだよねえ、食べ盛りの時期だもん。と、同情してしまう。

「でも千夏さん、当時からすごく、優しくて。僕が体重管理うまくできないとき、つきっきりで食事のアドバイスしてくれました。試合があるたびに、そうしてくれました。それで僕、減量に成功して、プロテストも受かって。試合に負けたときは、前日の食事メニューがよくなかったのかもって、そんなわけないのに、悔しがって、一緒に泣いてくれて。テニスも大変だと思うんですけど、ボクシングは試合時間が短いぶん、そこにかける準備までがキツいスポーツです。とくに、減量は正直、ものすごくキツいです。でも千夏さんのこと思ったら、どんなにつらくても頑張れました。だから告白してOKもらえたら、すぐにでも結婚したいって、ずっと思ってました」
「もう、恥ずかしいってばあ……」

リョーマと顔を見合わせてしまった。わたしなんて、うっかり泣きそうだ。ふたりは、とてもお似合いじゃないか。寡黙そうな彼と、世話焼きで、ムードメーカーの千夏さん。きっと千夏さんは、彼をうまく支えていくだろう。千夏さんのことも、彼ならきっと、守ってくれる。

「だから僕、絶対に世界一になって、千夏さんを幸せにしたいって思ってます」

彼のその真摯な言葉は、その場にいる全員の胸に、熱く響きわたった。
若い人が発するピュアな愛というのは、とても美しい。本当に幸せになってほしいと、心から応援できる。

「アンタなら、できるよ」
「え……」

リョーマがわずかに微笑みながら、そう告げた。いっちょ前に、人生の先輩らしく、大人の顔をしている。こういうときのリョーマが、わたしはすごく好きだ。どれだけかわいい素顔を見せられたって、リョーマの強い男らしさは、本当に頼れるし、カッコいいと思う。

「すごい、いい目してるから。世界一のスポーツ選手は、みんな、そういう目をしてる。それだけはオレ、知ってるから」
「越前選手……」

きっと、リョーマも感動したんだ。だからこれは、彼なりのエール。

「オレもなるよ、いつか。世界一。だからアンタも、頑張って」
「はい! 頑張ります!」

男同士のやりとりに、わたしと千夏さんは微笑みながら顔を見合わせた。
千夏さんの目は、すっかり潤んでいた。





今日は、わたしのほうがご機嫌だ。千夏さんと彼の素敵な話をたっぷり聞いて、とっても幸せな気持ちになっている。
さらに、不思議な気分だった。だってほんの数ヶ月前までは、周りの結婚ニュースを聞くたびに卑屈になっては、結婚できるものならすぐにでもしたい! と思っていた自分の心が、変化を遂げていたからだ。テレビで流れる芸能人の結婚ニュースに「ふんっ」と思っていたわたしはどこへいったのだろう。人の幸せをおすそわけしてもらって心から幸せな気持ちになれるなんて、すごくいい人間になった気分。
佐久間伊織、もうすぐ33歳。いま、まったく結婚に焦りがない。リョーマが将来を誓ってくれたからだろうか。現金な女だなと思う。

「ご機嫌だね、伊織さん」
「うん! だって超お似合いだったよねえ、あのふたり。彼の目もまっすぐだったし」
「ちゃっかり、治療院にも誘ってたしね」
「うん、試合前に来てくれたら、万全の体制で見送れる!」

そのとおり、わたしはちゃっかり、彼に治療院の名刺をわたしていた。「絶対に行きます!」と言ってくれたので、きっと来てくれるだろう。有言実行タイプなのは、今日の話で証明済みだ。

「ところで、さ」
「うん?」

少し飲みたりなかったので、わたしはグラスにワインを注いでソファに座っていた。日曜の夕方から飲むお酒は最高に美味しい。
そんなわたしのとなりに座ってきて、リョーマは鋭い視線でこちらを見ていた。ドキッとする。なんだか、怒られそうな予感がしたからだ。まったく、心当たりがないから余計に怖い。

「伊織さん、オレと結婚する気、ホントにあんの?」
「えっ」
「大石先輩の結婚式のときは、他人の結婚って現実が目の前にあるだけで、あんなにギャーギャー言ってたくせに。やけに冷静じゃん。なんで、オレには迫ってこないわけ?」

妙な拗ね方をされてしまっている。リョーマのなかでの比較対象は秋人でしかないんだろう。

「い、いやだって……リョーマ、結婚してくれるって、言ってくれたし」
「言ったけど、伊織さん細かいことなにも言ってこないジャン」

秋人とはあんなに結婚したがってたのに、リョーマにはあっさりなのが、気に入らないのかな……まったく、かわいい子なんだから。

「それはほら……だってリョーマ、これから手術にリハビリだよ?」
「それって、なんか関係あンの?」
「あるでしょ、いまバタバタできないよ」
「理由、ホントにそれだけ?」
「もう、なに怒ってんのリョーマ」
「別に怒ってないけど。なんかはぐらかされてる気がしてるだけ」

ついこないだ、伊織さんのタイミングでいいって言ったくせに……。
どんどん独占欲が強くなってきちゃってるんだな、と思う。くうう、リョーマには悪いけど、ニヤけちゃうよ。愛される喜びって、こういうことなのかしら。

「なに笑ってンの? またムカつくこと考えてないよね?」
「んー? リョーマが好きだなあって」

バレてる……と思いながら、コトン、とワインをテーブルの上に置く。かわいいかわいいリョーマの首に手を巻きつきながら、額を合わせた。
ニコニコしながら愛をささやけば、リョーマは一瞬で機嫌をなおしてくれるから。
少しだけ切ない目になって、リョーマはキスをしてきた。たぶん、なんだかよくわかんない感情に、リョーマ自身が戸惑っているんだろうな、と思う。
リョーマをはじめてそんな気持ちにさせているのがわたしになってる事実が、信じられない。だからこそ、愛しい。いままでの誰よりも愛されているし、わたしも同じだけ、愛したいと思ってしまう。

「オレも……伊織さんが好きだよ。大好き」
「うん、嬉しい……」

リョーマがきつく抱きしめながら、わたしの首筋に頭を埋めた。

「だから、早くオレのものになってよ」
「もうリョーマのものじゃない。手術だって大変だし、リハビリだって本当に大変なんだよ? リョーマがまた復帰するまでのあいだに、ゆっくり決めていこうよ。ね?」
「あと1年もあるジャン……オレのリハビリなんて、待つ必要ないよ」
「でもリョーマとわたしのことなんだから、そんなに焦らないでいこ? だって、リョーマとわたし、離れるはずないんだから。でしょ? 違う?」
「違わないけど……さ」
「もっと恋人気分も味わおうよ。まだ付き合って2週間なんだから」
「……早すぎってこと?」
「違うよ。たくさんラブラブしたいってこと。リョーマ、愛してる」
「……わかったよ」

チュ、とキスして言い聞かせると、しぶしぶ、という言葉がぴったりな顔をして、リョーマはずるずると体勢をさげ、膝に頭を乗せながら、テレビをつけた。
わたしの左手を握りしめながら、何度も手にキスをしてくる。甘えんぼさんすぎて、かわいいんですけど……。こんなのでよく、「かわいいとか言わせない」とか言うよ、とツッコミを入れたくなってしまう。ここが韓国なら、国民の年下彼氏と呼ばれていそうだ。まったく、愛しいったらありゃしない。

「伊織さん……」
「うん?」

今度はテレビのほうに向けていた体をひねって、わたしのお腹に顔を埋めてきた。ぎゅっと腰を抱きしめて、くぐもった声で名前を呼ばれる。猫なのか、君は。

「したい……」
「ちょ……まだ、あかるいよ」
「時間ってなんか関係ある?」
「いや……そ……恥ずかしいし」
「あかるいとこで何度もしてるじゃん」

ついには膝から起き上がって、唇を寄せてきた。なまめかしい手が、あらゆる性感帯を刺激しようと、体中をさまよっていく。千夏さんと彼の熱に侵されちゃったのかな、これは……。

「ちょっと、リョーマ……」
「再来週から下手したら1ヶ月も入院なんだよ? オレ」
「ン、……そうだね」さりげなく舌を絡めてきた。
「伊織さん、寂しくないの?」
「それはもちろん、寂しいよ……」
「そのあいだ、浮気したら許さないからね」
「もー、するわけないじゃん」
「オレ、1ヶ月も伊織さんとできないとか、耐えらンない」
「ふふ……だからいまのうちってこと?」
「わかってんジャン」

フッと微笑みながら、リョーマが首筋に、胸にと、顔を埋めてくる。かわいい黒髪をなでてキスを送ると、するするとシャツがめくられた。熱い吐息が素肌に触れ、優しく先端を吸い上げられて、わたしも降参しかけたときだった。

「あ、ン……あ……え!」
「え?」

うっすらと目を開けながら、すっかり愛撫に溺れた自分の嬌声が、テレビ画面を見た瞬間にムードをぶち壊すぎょっとした声に変わる。リョーマも驚いて、なまめかしい手の動きをピタリと止め、テレビに振り返った。刹那、わたしたちの時間が止まる。

「ねえ、これ……どういうことだろ?」

リョーマに聞いてもわかるはずないのに、聞いてしまう。
聞かれたリョーマも、ぽつりと言った。

「跡部さんの件って、こういうことだったのかな……」

テレビの画面いっぱいに、九十九淳一……もとい、野瀬島克也が、映し出されていた。
本日二度目の超びっくりで、わたしたちはまた、顔を見合わせていた。
テレビリポーターの声が、しっかりと耳に届いてくる。

『野瀬島克也容疑者を乗せた車が、いま、自宅マンションから出てきました』

わたしが10年も施術しつづけていた野瀬島克也が、逮捕されていた。





to be continued...

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