ダイヤモンド・エモーション_11


11.


連絡があったのは、メッセージを送ってから15分後のことだった。
えらい帰ってこん、とは思っていた。スーパーまでそう距離もないのに、強くなってきた雨も心配なら、俺を看病したときのように山ほど荷物があるんじゃないかとも考えて、やっぱり行くか、と着替えをはじめていた矢先だった。
スマホの液晶に伊織さんからの電話表示が出て、俺はわずかに微笑みながらそれを受けた。

「伊織さん? 大丈夫か?」
「すみません、私は杉並消防署の者です」
「は?」
「仁王雅治さんでお間違いないですか?」

笑みが一瞬で消え、ゾッとした。火事のとき、伊織さんの電話口からわずかに聞こえてきたそれと、ほとんど同じような口調だったからだ。緊張が体をかけめぐって、俺はつかんでいた服をそのまま床に落としていた。

「彼女になにかあったんですか!?」
「佐久間伊織さんを救急車で搬送中です。病院に来てもらわないといけないので、早く準備をしてください」

救急車で搬送、という言葉に、全身の毛が逆だっていくのがわかった。

「ちょ、待ち、どういう状態なん」
「車との接触事故ですが、処置中ですのでわかりません。病院名を言い」
「彼女は無事なんですか!?」
「命に別状はありません。ですが、詳細は処置中ですのでわかりません。いいですか? 病院名を言います」

事故に遭ったと頭が理解するまでに、若干の時間を要した。命に別状がないと聞いて最悪の事態は免れていることはわかっても、全身から血の気が引いていく。
救急隊員は淡々と病院名を告げた。その冷静さに苛立ちを覚えながら、俺はすぐに電話を切って病院に向かった。おそらくあれ以上なにを聞いても、全部「処置中ですのでわかりません」と返されるだけだ。
病院の受付で状況を説明すると、一般外科の待合所に座らされた。手の震えが止まらんまま伊織さんを待っていたのは、30分程度だった。俺はそのあいだ、本当に生きた心地がしなかった。
だがその絶望にも似た胸の動悸は、伊織さんの顔を見た瞬間に、一気に安堵へと変化した。

「伊織さんっ!」
「あ、雅治さん……」

よたよた、としながら、伊織さんは処置室から出てきた。すぐに駆けよって、そっと腕をなでた。本当なら抱きしめたかったが、どういう症状かわからんままに力を加えるのは怖い。
それでも、伊織さんが無事だった安心感が押し寄せて、目頭が熱くなった。
綺麗な顔はそのままだ。手も、足もついている。なにより、立って、歩けている。

「すみません、たいしたことではないのに、こんな……大げさなことになってしまいました」救急隊員の方に、電話を変わってほしいと言ったのに……と、しゅんと頭をさげた。
「なに言うちょる。怪我しとるじゃろっ」

伊織さんの頬と首に、わずかなかすり傷が見える。腕には大きな湿布が貼られ、髪の毛と服が雨水で汚れていた。

「こんなのは、軽傷ですっ。救急車なんて大げさすぎます。しかし運転手の方が、レントゲンを撮るまでわからないし、なにか目に見えない症状があったらいけないからと、わたしが起き上がれないあいだに119を……」すみません、ご心配かけて……と、俺よりも伊織さんのほうが泣き顔だった。
「わかった、状況はあとで聞く。体は? 大丈夫なんか?」
「はい、あの、ただの打撲です。腕と、脚と。あとはちょっと、擦りむいたくらいで……」

元気です、このとおりです。と、伊織さんが俺を見あげた。
痛みをやせ我慢している様子はなさそうだとわかって、俺は深いため息をつきながら、ゆっくりと目を閉じた。

「はあ……ああ、安心した」

体の隅々に、血液が流れていくのを感じた。それくらい、全身が冷えていた。あまりの安堵に、膝から崩れ落ちそうだ。

「伊織さんを、失うかと思った」
「雅治さん……」

自分でも、声が震えているのがわかる。俺はそれを堪えるように、目元を手で覆っていた。

「伊織さん……たしかめさせて」

ようやく、俺は伊織さんを、ゆっくりと抱きしめた。
背中に回ってきた手のぬくもりに、やっと心が、落ち着きはじめていた。





ウィークリーマンションに戻ってから、伊織さんが風呂に入っているあいだに、俺は簡単な夕食をつくった。外は暑いが、心は冷え切っているはずだ。たぶん、食欲もあまりないだろう。さっぱりとしたスープに、バゲットを切るだけにとどめた。
だが食事中、伊織さんは気丈に振るまっていた。

「牛もも肉が安かったので、せっかくですからローストビーフをつくろうと思っていたのに、この有様です。笑ってしまいますよね。ちょうど横断歩道のところだったので、左折する車に当たってしまったんです。ですから車のスピードが遅かったのがラッキーでした! コテン、バタン、という感じで、わたしとしては上からタライが落ちてきたくらいの衝撃だったんですけれども、あ、とはいえドリフを見たことがあるだけなので、タライが落ちてきた経験はないのですが、ともかく思ったほどの衝撃ではなかったんです。なのに運転手の方が、それはもう大慌てで。加害者側はああいうときは、真っ青になってしまうのでしょうね。理解はできるのですが、わたしが上半身を起こしてしゃべっているのに、救急車を呼ばれたんです。大げさだと思いませんか? だってわたし、こんなにピンピンしているんですよ? 人はパニックになると最悪の事態ばかり考えるものなのでしょうか。そういうエビデンスがどこかにあるかもしれません。あ、最悪の事態だからパニックになるのでしょうか。卵が先か、鶏が先か問題ですね、これは」

見ているだけではち切れそうな様子に、1ヶ月前の火事を、また思いだした。本当にただの事故なら、ここまであかるく振るまうこともないはずだ。
人のことをパニックと言いながら、伊織さんはパニックになると早口でまくしたてる。なにかあったことは、この「いかにも伊織さん」を演出しているということだけで、よくわかった。

「伊織さん」
「はい? このスープ美味しいですね。やっぱり雅治さんはお料理が上手です」
「そうか。ならよかった」
「ローストビーフはまたの機会にします、少し悔しいですが、わたしも雅治さんに負けていられま」
「伊織さんって」

話をそらそうとしちょるのも、見え見えだ。下手くそな芝居が、かわいそうになってくる。

「な……なんでしょうか」緊張しきった顔、してから。
「あとでビールでも飲みながら、ゆっくり話さんか。俺が聞かんといけんことが、本当は、ほかにあるんじゃないかの?」
「……事故のことでしたら、もう」その間が、おかしいじゃろ。
「俺を、あなどらんでくれるか」
「え……」

少し厳しい目を向けると、伊織さんは途端に失速した。怒っているわけじゃないが、もっと、俺を頼ってほしい。そんな思いが、口調を強くさせた。
いかん、と思う。今日、傷ついているのは伊織さんのほうだ。

「短い期間かもしれんが、俺は伊織さんを誰よりも見ちょる。わかるんよ、伊織さんが堪えとるものがあることくらい。俺が言う『愛しとる』のなかには、そういう意味もあるって、わかってくれんのか?」
「雅治さん……」
「じゃから、俺も一緒に受け止めさせてくれんか? 体の傷だけじゃのうて、心の傷も」

スプーンを持ったまま沈黙した伊織さんの目から、ぽろ、と涙が落ちた。
最初から素直に泣けばええのに……そうは言うても、俺を心配させたことが伊織さんのなかにも重くのしかかっていたんだろう。このうえ嫌な話を聞かせたくないと思ったんだろう伊織さんの優しさに、俺はまた惚れなおした。やっぱり俺にはもったいないほど、尊い人だ。

「じゃ、じゃあ……雅治さんが、お風呂から、あがったら……」食器、洗っておきますね。と、涙をぬぐいながら、懸命に微笑んだ。
「ん……ソファで、ゆっくりの?」

こくん、と頷いて、伊織さんが俺を見つめる。
本当ならこのまま泣き崩れたいのかもしれないと思ったが、俺は黙って見つめ返した。
苦しそうだ。その苦しみを、俺が解き放ってやりたい。

「雅治さん」
「ん?」
「……好きです」

不意打ちにそう言われて、素直にかわいい、と思う。伊織さんは泣いちょるっちゅうのに、俺は顔がニヤけそうになった。こういうところが本当に天然で、いじらしい女だ。

「……知っちょるよ。それだけは忘れん」
「はい……」
「伊織さんも、忘れんで。俺が伊織さんのこと、好きじゃってこと」

お返しにそう言うと、伊織さんは大きく頷きながら、「はい」と涙を拭った。

風呂からあがると、いつものように伊織さんはソファに座ってビールを飲んでいた。たしかに毎日じゃないが、なんだかんだと理由をつけては、しょっちゅう酒を口にしている。
一緒に生活してから知った、伊織さんの意外な一面だった。堅物なのは基本装備なんだろうが、そうしていつも張っている糸をとぎらせる必要が、彼女にはあるんかもしれん。
俺もビールを口にしながらとなりに座ると、黙って缶をぶつけてきた。にこ、と微笑む姿に、少し落ち着いたんだなと、ほっとした。

「話せそうか?」
「はい……」
「ん。なにがあった?」

深呼吸をするように、大きく胸を動かしてから、伊織さんは、静かに言った。

「姉が、いたんです。スーパーの帰りに」
「……そうか」

そうじゃないかと、どこかで思っていた。事故はいつも突然に起こるもんだし、不注意な車の運転も実際にはある世のなかだ……ゆえに絶対的なものじゃないが、伊織さんほど慎重な人に起こった今回の事故は、なんとなく釈然としないものがあった。

「雅治に会わせてって、言われました。もちろん、お断りしました」
「そうだったか……」

あの人のことを忘れていたわけじゃなかったが、いかんせん、あっけらかんとした印象が強い女だったせいで、伊織さんに危険が及ぶほどの執念深い女だとは、結びついていなかった。
部屋の鍵を変えただけじゃ、拒絶は伝わらんかったか。俺も詰めが甘かったというわけだ。
伊織さんと恋人になれたことで、浮かれすぎていた自分を反省する。

「でもすぐに引き下がるような姉じゃないですから……これまでやってきたこと全部、謝るから、雅治を返してって、言われました」
「これまで、やってきたこと?」
「はい……雅治さんにこのことを話すのは、告げ口みたいで、嫌だったので……黙っていました」
「あの人との、不仲の原因か?」

黙って頷いて、ビールをあおった。
その言いぶんが、すでに優しさを感じる一方で、切なさも伝わってきた。

「少し、長くなります。いいですか?」
「ん。聞かせてくれ。ゆっくりでええから」

事故前にあの人になにを言われたのか話しながら、伊織さんは、自分がどんな幼少期を送ってきたか、俺に訥々と語っていった。

「姉は幼いころ、少し体が弱かったんです。両親も、姉の心配ばかりしていました。ですがそれも、小学校にあがるころにはすっかり元気になっていたのですが、そうした家庭の感情の行所というのでしょうか……そういったものは、変わらないままだったんです。姉は健康を手に入れてから、だんだんとわたしに冷たくなりました。ランドセルとか、お誕生日にわたしがいただいたものとか、お小遣いをためて買ったものとか、そういうものを奪われるのは日常茶飯事で……。わたしも姉に近づくのが怖くなって、姉を避けて過ごすようになりました。そうすると姉は、『あたしを無視すんな』と言って、わたしへのいじわるが、エスカレートしていきました。たとえば、親の大事なものを壊したり、親戚の集まりなどでも、なにか悪事がバレると、泣きわめいてですね……」

――伊織がやったの! あたしは止めようとした!

「最初はもちろん、わたしも違うと言い張っていたのですが……最初から親は、わたしの言うことなど、信じてはくれませんでした。もともと、『お姉ちゃんを慕いなさい』『お姉ちゃんのしたいことは、させてあげなさい』と言ってきた親でしたから、そのときも『お姉ちゃんのほうが正しいに決まっている』と、そんな感じだったわけです。それは、親戚も同じです。姉はあかるくて、社交性が高いです。あのとおり昔から美少女でしたから、大人からすればわたしのような地味で暗い子どもよりも、圧倒的に姉のほうが、かわいかったと思います。ですから身内のなかで起きた親が叱りそうなことは、すべてわたしがやったことになっていきました」

思春期を迎えると、その傾向はさらにエスカレートしました、と、伊織さんはつづけた。
伊織さんがバイトをして買った靴や服は、当然のように奪われていく日々だったらしい。

「姉は、頭もよかったです。美人で、勉強だけじゃなく、スポーツもできました。本当になにもかも持っている姉でした。友だちも多くて、男性にもモテていました。ですから、なぜわたしから物を奪っていくのか、いまもよく、わからないままです。とにかくわたしは、自分とは対照的な姉が、とても怖かったんです。だからでしょうか……中学を卒業するころには、あまり感情が動かなくなっていたんです。物を取られても、『ああ、またか』と思うだけで、子どものころは本当に悔しかったのに、なにを取られたのか覚えていないものもあります。そのせいか、しばらく『つらい』と思うことはなかったのですが、高校1年生のときに、とても悔しいことが起こりました」
「……また、なにか取られたんか?」
「いえ……」

きゅっと、伊織さんが一度、唇を閉じて、眉間にシワを寄せた。
思いだすのも嫌なのか、また、大きく胸を動かしている。

「当時、好きな人がいました。中学からの同級生で、となりのクラスの人でした。2年間くらい想いつづけて、わたし、ラブレターを書いたんです。そのラブレターを姉に見られてしまったので、やぶって捨てようとしたら、姉が、協力すると言いだしました」

――伊織、それじゃ男は振り向かない。一緒に考えてあげるよ。アンタの初恋でしょ? もっと気持ちを込めて書いて。あとであたしが、添削してあげるから。大丈夫、うまくいくって。

「非常に驚いたのですが、そのときの姉は本当に優しくて。ああ、ようやくお互い成長して、姉とも仲よくできるようになったのかな? と思ったんです。嬉しかった……ですからわたし、姉に、はじめてお願いしました」

――お姉ちゃん、これでどうかな? 読んで、変なところあったら、教えて?
――いいよ伊織! うまくいったらお祝いしよう!

「何度も書き直して、姉の言うとおり、気持ちを込めました。姉も、すごくいいと褒めてくれました。ですが翌日……そのラブレターが、ネットに公開されていたんです」
「は?」
「ははっ……ひどいですよね。投稿では『うちの妹の文才すごい』と褒めてはいたのですが、名前もなにもそのままで。そのことをわたしは、学校で知りました。よりによって、好きな人が知らせてきたんです」

――なんだよこれ。お前、気持ち悪いよ。こんなのネットに出してどういうつもりだよ。

「もちろん、振られました」

途中から、伊織さんは静かに涙を落としていた。
聞いていて胸クソが悪くなる展開に、俺はうんざりした。伊織さんとあの人の仲が悪いことは最初から知っていたが……その原因のどれもこれもが、俺には考えも及ばんようなことだったからだ。

「……あの人は、なんでそんなことをした?」正気の沙汰とは思えん。
「はい……わたしも聞きました。それが本当に、バカバカしくてですね」

――注目されたかったんだもん。いいじゃん。すっごい数の「いいね」ついたんだよ?

「それでわたし、姉を罵倒しました。姉はその直後、急に家を出ていきました。家を出ても、高校には行っていました。ですがまったく帰ってこない姉を両親はとても心配しまして。わたしとの大喧嘩のせいだと、長いあいだ、ひどく責められました……もう、まいっちゃいました、本当に。それで、突然帰ってきたと思ったら、海外の大学に行くと言いだして。帰ってきたのは、費用を出せという用事だったんです。本当に、むちゃくちゃな人です。でも両親は、姉が大好きでしたから……帰ってきてくれただけでいい、いくらでも出すと、姉を海外の大学に行かせました。ですがわたしは、大学には行くなと言われました。『お姉ちゃんでお金を使っちゃったから』と。ですから大学は、奨学金など使って、なんとか自分の力だけで行ったんです」

なぜそんなに姉は優遇され、妹は粗末に扱われてきたのか。それも、あの人が操っていたことなのか。伊織さんが幼いころから傷つけられた心は、今日まで癒えることなく29年を過ごしてきたんだろうと思うと、俺はやり場のない怒りに震えそうになった。

「どれもいま考えてみれば、たいしたことじゃないのかもしれません。取られてボロボロにされたものなんて、大人になれば簡単に自分の力で手に入るばかりものですし……」
「たいしたことだ。そんなこと、許せるはずがないじゃろ」

聞いているこっちが頭にくる。あの人が伊織さんから奪っていったものは、伊織さんが大事にしていたものだけじゃない。平穏な日常と、周りの愛情を一気にかっさらった。
俺の前では、そんな陰湿な姿を1ミリも見せんかった。人間の意地汚さは雰囲気で伝わってくるもんだが、俺はその部分でも騙されちょったっちゅうことだ。
なんであんな女と付き合ったんだ。過去の自分が嫌になる。そんな目に遭ってきて、恨んどっても無理はないのに、伊織さんは、あの人をモラハラ夫から必死に守ろうとした。そんな彼女が、あの人と姉妹だということも、信じがたい。

「はい……当時のわたしには、宝物ばかりでしたから。でもですね、雅治さん」憤る俺に、伊織さんは、なだめるように声をかけてきた。
「ん?」
「雅治さんは、わたしが姉からはじめて奪った、わたしの宝物です。昔に奪われたものとは、比べ物にならないほどの、大切な宝物です……ですから、思いきり言ってやりました。あなたはわたしに、はじめて負けたんです! って」

気持ちよかった、と笑った。

「伊織さん……」
「今回、実は少しだけ、姉に感謝しています」そう思うことが、いささか嫌な女ですけど……と、伊織さんは、はにかんでつづけた。「おかげで、吹っ切れましたので」
「吹っ切れた?」
「はい。雅治さんと、姉の過去のことです。本当はやっぱり、まだ気にしていました。ですが姉を突っぱねたことで、吹っ切れました」

俺は、黙って伊織さんを見つめた。苦しい過去を吐きだして、伊織さんは涙を流しているのに、俺に、優しく微笑んだ。
今日まで嫌というほどした後悔が、また襲ってくる。自分が汚れているような気さえする。なんで俺は、最初から伊織さんに出会えなかったのか。

「ですから姉は、とても立っていられなかったんじゃないでしょうか」
「え……?」
「つい、わたしに寄りかかったんです」
「伊織さん、じゃけど」
「そう思うことにします」

その言葉に、歯を食いしばった。持っていたビール缶を握りつぶしてしまいそうで、俺は静かにそれをテーブルに置いた。
つい、というのは便利な言葉だが、いくら衝動的だったとしても、立派な殺人未遂だ。俺はどうしても、それを許すことができん。
俺ですら許せんのに、なんで伊織さんは、許そうとする?

「雅治さん、わたし、いまの雅治さんが好きです」
「え?」
「いまの雅治さんは、過去があったからこそですよね。わたしはいまの雅治さんに愛されていることがとても嬉しいですし、そんな自分を、誇りに思っています」

言いながら、伊織さんが俺の頬に、手を当てる。

「伊織さん……」
「ですから今日は……わたしを、抱いてくれませんか?」

なでるように包んで、そっと、俺にキスをしてきた。
たまらなくなる。伊織さんはいま、俺の過去も全部ひっくるめて、愛していると訴えかけてきていた。
俺の怒りもわかっていて、それを、鎮めようとしている。
この人に……骨抜きにされそうだ。その骨も、伊織さんと付き合いはじめてからは、わずかしか残っちょらんっちゅうのに。

「……体、大丈夫なんか?」
「あ、湿布の匂いがするかもしれませんっ。雅治さんが嫌ですよねっ、すみません」
「ははっ、なに言うちょる。そんなの、気にするわけないじゃろ」
「え……い、いいのですか? おばさんぽくないでしょうか」
「逆じゃ、伊織さん……ええんか? そんなに色気だして」

これほど好きな人に「抱いて」と言われたら、もう溺れそうなんじゃけど、俺。

「す……すみません、似合わないですよね。ですが、たまにはこういう大人の女も、やってみたかったと言いますか……」

ムードを壊す唇に、俺も、そっと触れた。体を、強く抱き寄せる。
ン、とかわいい声が漏れた。

「……伊織さんがやめてって言うても、やめんよ?」

見つめてそう言うと、伊織さんの目が、一瞬で女になった。いつもこの瞬間が、たまらない。

「はい……やめないでください。雅治さんに、好きにされたいです」
「まったく……いつのまにそんなに、挑発がうまくなったんかのう?」
「それは、雅治さんが素敵だから……ですよ」要するに、今日も俺を殺す気っちゅうことか。
「……お望みどおり、めちゃくちゃに愛しちゃるよ、伊織」

俺はそのまま、伊織さんをソファに押し倒した。
もうすでに、本当にめちゃくちゃにされちょるのは、たぶん、俺のほうだ。
唇を舌で割って入って、シャツのなかに手をさしこんだ。ふくらんだ胸を包みながら、俺は唇を静かに移動させて、頬にある傷に、そっと触れた。過去の話を聞いたばかりだからか、かわいそうで、泣きそうになる。
この程度のかすり傷なら、おそらく痕は残らんだろうが……だとしても。

「ン……雅治さん」
「痛かったら言うて……」
「……慰めてくれてるんですか?」
「こんな綺麗な顔に……やっぱり俺は、許せん」

首筋にある傷にも、同じように触れていく。服を脱がせると、赤黒い痣が腕と脚にいくつか見えた。
胸が痛くなる……伊織さんがここまでされんといけん理由が、どこにあるんだ。

「あ、ごめんなさい……汚い体だと……幻滅してしまうでしょうか」
「バカ言いなさんな。するわけないじゃろ。綺麗だ、誰よりも。どんな女より、伊織さんは綺麗だ」
「そ……嬉しいですけど、でも、電気を、あの」
「このままでいい。伊織さんの綺麗な体、しっかり見せてくれ。目に焼きつけたい」
「雅治さ……あっ、ン」

愛撫をくり返しながら、俺は何度もそう伝えた。痣のひとつひとつに、キスをする。湿布の上からも、痛くないように、触れるだけのキスをくり返した。
伊織さんが与えられなかった愛を、俺こそが、与えるべきだと感じる。

「はあ、あ、雅治さん、優しい……わたし……幸せ、です」
「ん……伊織さんに愛されて、俺も、幸せだ。言うて、愛しとるって」
「愛してます、雅治さん……大好き」
「俺も愛しとるよ、伊織さん……」

愛を語りながらキスをして、伊織さんと俺は、ソファに座って向き合いながらつながった。
見あげた伊織さんは俺が突き上げるたびに揺れながら、泣いていた。

「どうした……? 泣くほど気持ちいいか?」
「ふふっ……うん……だって雅治さん、優しいからっ……」
「ん……?」
「めちゃくちゃにって、言ってたのに……いつもよりすごく、優しい……」
「ん……今日は伊織さんに、リラックスしてほしいんよ、俺……」
「好き……大好き、雅治さん……こんなの幸せすぎて、泣いちゃいますよ」

伊織さんだけは、俺が絶対に守る。
そう心に誓いながら、たっぷりと時間をかけて、俺はこの日も、伊織さんを愛した。

ベッドの上で、伊織さんが胸に抱きついてくる。ゆっくり抱くなら、何回かは許してもらえるようだ。今日の伊織さんには疲労の色もなく、機嫌もいい。
かわいくて何度も頬をなでながら、俺たちはいつものように見つめ合っては、キスをした。

「伊織さん、ちと、提案なんだが」
「はい、なんですか?」
「明日からの旅行は、中止にせんか」
「えっ?」

ショックを受けた顔を隠しきれんかったんか、瞳の奥を揺るがせている。
おうおう、かわいそうに。裏切られた気分かのう? ちと、このまま放置しちょきたくなる。今日はセックスで優しくしたぶん、いじわる欲が満たされちょらんし。

「お宿、取れなかったからですか……?」
「いや、そうじゃのうて……ちと、な」
「ちと、なんですか? どうしてですか? わたしとお出かけ、嫌になってしまったんですか? 怪我してるからですか? 大丈夫ですよ? 歩けますし」

ますます瞳が揺れてきた。そんなに楽しみにしちょったんかと思うと、気の毒になってくる。まあでも、俺も決めるとせっかちなほうじゃから。

「まったく……そんな泣きそうな顔しなさんな」ダメじゃ、もう降参。「この部屋、どうせ引っ越しせんといかんだろ?」
「それは、はい。ウィークリーマンションですから」それとなにか、関係があるんですか? と、伊織さんも負けず劣らずせっかちに聞いてきた。
「じゃから明日からの旅行はまたの機会にして、ふたりで部屋、探しに行かんか。ここから少し、離れたところで。もちろん、杉並区内でええから」

つまらない連休になりそうだと思ったのか、伊織さんは黙って俺を見つめた。
旅行によっぽど行きたかったんか、ここまで言っても伝わってないようだ。いささか、呆れる。

「聞いちょった? 伊織さん」
「部屋なら、自分で探せますよ……」ああ、やっぱり、わかっちょらんのか。
「そうじゃのうて。変なところで鈍感じゃのう。せんない気分にさせなさんな」
「はい?」せんない……と、意味がわからなかったのか、つぶやいた。
「俺らのふたりの部屋を、一緒に探さんかって言うちょるんよ」
「え……!」
「……同棲せんか、俺ら。言うたじゃろ? いっときも離れとうない」

もともと考えてはいたが、伊織さんがあんな目に遭ったことで、俺はもう我慢できなくなっていた。
今日の調子じゃ、伊織さんは被害届を出すこともせんだろう。あの人の知らんところじゃないと、俺が不安で仕方ない。いずれは伊織さんを説得して、警察には相談するつもりだ。接近禁止命令くらいなら、伊織さんも頷いてくれるかもしれん。だが今日の今日じゃ、伊織さんは頷いてくれそうもないし。
それなら一刻も早く、この住所から離れたかった。

「そ……雅治さんは、それで、いいんですか?」
「俺がそうしたいって言うちょるのに、なんの問題がある?」
「でもですね、完全にこっちにしてしまうと、雅治さんの職場から離れてしまいます。いまは連休中だし付き合いたてだからじゃないんですか? そのうち、ときどきになるのかと……」
「そんなふうに思っちょったんか? 俺はあの部屋に戻る気なかったんじゃけど?」
「え……」
「職場から離れたって、なんも気にならんって。どうせ朝は早く起きとるしの」
「雅治さん……」

揺れていた瞳が、今度は違う意味合いをもって揺れだした。
ほっとする。どうやら、喜んでくれとるみたいだ。

「俺の部屋の家具も、全部、捨ててくるから」
「え、ぜ、全部!?」
「当然じゃろ。俺と伊織さんがふたりで選んだ空間で、埋め尽くしたいからの。どうだ?」
「そ……ですが、たくさん家具、ありましたよ?」もったいないですよ? と、戸惑う表情が、どこまでも俺を魅了していく。
「俺も伊織さんと一緒で、過去は全部、吹っ切れとるから。俺の今後の人生には、伊織さんしか必要ないんよ。わかるじゃろ?」
「雅治さん……」
「どうだ? って聞いちょるのに、返事、くれんのか?」

じわじわと潤んでいく目尻に、俺はそっとキスを落とした。きゅっと目を閉じると、今度は伊織さんが、俺にキスを送ってきた。
何度だってしたい……俺らのキス、とっくに1000回は超えとるだろうな。

「嬉しいです……同棲、させてください」
「ん。好きだ、伊織さん」
「わたしも好きです……でもバチが当たりそうで怖いです……嬉しいです、また、泣きそうです」
「もう泣いちょるじゃろ……泣き虫じゃのう、伊織さんは」

かわいくて仕方ない伊織さんを、俺はもう一度、優しく抱いた。





さっそく翌日から、俺らはふたりで住める部屋を探しはじめた。
俺は伊織さんの職場の近くでいいと言ったが、「フェアじゃありません!」と、いつも調子を取り戻していた。
朝からネットを開いては押し問答がつづいている。俺らの欠点は、どっちも頑固っちゅうことだ。

「しかしですね、やはり中間を取るなら新宿だと思います」
「ダメじゃ。治安が悪すぎる。なにかあったらどうする」
「雅治さんは、心配性すぎます……大丈夫ですと言っているじゃないですか。新宿なら、お互い10分ですよ。超フェアです!」
「ダメじゃ。これだけは絶対にゆずらん。それに俺はタクシーで移動するき、電車のことは考えんでええって言うちょるじゃろう?」
「いいえ、いけません。お金は大事に使ってください。そもそも、いままではタクシー代は不要だったじゃないですか。それを、うちに来てから使うようになったんですから、フェアじゃありません」
「まったく……そんなに言うなら、車でも買うき」
「なにおっしゃってるんですか! 余計に出費です! そういうのは、もっと計画的にお願いします!」
「じゃったら、店ごと引っ越すっちゅう手もあるが?」
「ですから! 雅治さんオーナーなんでしょう? よくその金銭感覚でオーナーが務まりますね」
「これでも俺は、経営はしっかりしちょるほうなんじゃけど?」
「信じられません。雅治さんに会ったときも思いました。時間にルーズなのに、信じられないって」
「話がずれてきちょるうえに、俺の仕事にケチつけなさんな」
「それは、失礼しました。ですが新宿も、歌舞伎町周辺を外せば閑静なところもありますよ?」
「もう伊織さん、ええ加減、折れてくれんか……新宿だけはダメじゃ、絶対に許さん。素直に杉並に」
「も……じゃあ雅治さんは、どこだったら満足なんですか? 杉並はダメです。フェアじゃないですから」
「じゃから、俺は治安のええとこって言うちょるじゃろうが」
「ですから、それはどこですか? 東京なんて世界に比べたら、どこだって治安はいいですよ」
「ここは日本なんじゃき、日本の東京のなかで治安がええとこじゃないと、意味がないじゃろ」
「ですからそれはどこなんですかと、聞いています!」
「うーん……治安なら、世田谷かのう……じゃけど、伊織さんの乗り換えが面倒じゃろうし」
「は……世田谷! それ、いいじゃないですか! 治安もクリアです! 雅治さんの職場にも近いです!」
「いや……伊織さん、フェアの話はどうなったんじゃ。伊織さんが遠いじゃろう?」
「そんなことありません。ほら、このあたりなら治安もよくて30分程度で到着できる場所がありますよ。普通の通勤時間です。なんなら自転車で出勤もできます」
「自転車? ダメじゃ。あぶない」
「雅治さん……わたし小学生じゃないんですよ? 電動自転車、知ってますか? すっごいスイスイでラクラクなんですよ? というか職場でいつも乗ってます!」
「のう伊織さん、通勤時間なら、俺も杉並からそのくらいなんじゃから、もう杉並でええじゃろ?」
「ダメですってば。雅治さんは朝から晩までずっと立ちっぱなしで働くんですよ? どうせろくにランチも取ってないでしょう? わたしは座りっぱなしで休憩もしっかり1時間取ってランチも食べますし、長くても8時間です。それに、世田谷区というのは女性の住みたい街でもあるんです。憧れの場所なんです、わかりますよね?」
「女性の住みたい街? 嘘つきんさい、ファミリー向けじゃろ。代官山じゃあるまいし」
「いいえ、住みたい街No.1を何度も獲得しています! 女性票が多いです! 杉並区役所調査です!」
「なんで杉並区役所が世田谷区のこと調べるんじゃ。いいか、通勤時間が長いのはダメじゃ」
「長くないですよ30分です! 1時間かけて来る職員だっているんですよ?」
「世田谷からなら俺は長くても15分じゃ。フェアじゃないやろうが」
「ああ、もう……! 頑固ですね!」
「お前に言われとうないんじゃけど?」
「ううう……ねえ、お願い雅治さん。いいでしょう?」
「ちょ……伊織さん、ずるすぎるじゃろ、なに甘えてきちょる……離れんさいっ」
「嫌です。雅治さんと世田谷に住みたいんです。治安で移動時間を考慮するならこんなにいい街ありません。雅治さんが言いだしたんですよ?」
「じゃから……俺は杉並じゃって言うちょるじゃろ最初から……ちょ、くっつきなさんなって」
「ですからそれはフェアではありません。いいじゃないですか世田谷。素敵な彼氏と世田谷で同棲なんて、お友だちに自慢できます。どうせお金を使うならそうさせてください。わたしも貯金なら、そこそこありますから!」
「自慢する友だちなんぞ、おりもせんくせに……ちょ、伊織さんって……膝にのりなさんな、重い、離れろ」
「そんなつれなくしても離れません。ねえ雅治さん、わたしが好きなら、折れてくださいよ……通勤時も帰宅時も、人のいないところは通りませんから。約束します。新宿、折れたんですよわたし? 雅治さんも杉並、折れてくれてもいいじゃないですか……ね? お願い雅治さん」
「伊織さ……はあ……もう、わかった!」
「やった……! 優しいですね、雅治さん。ありがとうございます」
「ちょ、待ち……なんで、離れようとするんじゃ」
「え……だってさっき、重い、離れろと、おっしゃったじゃないですか」
「お前……わざとか? ……キス、させんさい」
「……ふふ。雅治さん、かわいい。大好きです。ン……」
「ん……まったく、調子のええ……」

完全に俺に気を遣っていることが見え見えだったが、あんなふうに抱きついて甘えてこられたら……結局は、俺が折れるしかなかった。それでも新宿に決まらんかっただけでも、御の字かもしれん。新宿に比べたら、世田谷は抜群に治安がいい。だが通勤30分も、俺にとっては不安の種だった。
毎日タクシー代を出すとか言うたら、また言い争いになりそうだ……。
伊織さんと付き合いはじめてからっちゅうもの、どうも、言いくるめられる。前は俺のほうが強かった気がするんだが……惚れたもん負けじゃろうか。





そこから3週間が過ぎた、火曜の夜のことだった。
俺も伊織さんもスピード感だけは抜群にある。すでに引っ越しも済ませて、部屋もそれなりに片付きはじめていた。部屋を決めるまでには、のん気な伊織さんと、心配しかない俺とでかなり揉めたが、それはそれで、楽しい時間だった。
そのぶん、伊織さんも家具は全部、俺の好きにさせてくれた。前の家具を処分したからだろうが、そういう彼女の気遣いに、ますます愛しくなる毎日だ。
だからこそ、突然やってきた災難に、俺は理性を失った。

「大丈夫かのう、跡部」
「この方、雅治さんとはどういうお知り合いなんですか?」

この1週間、ワイドショーでは跡部が追い回されていた。個人的な感情に流されて、過労死の被害者遺族である女に慰謝料として3億支払ったということだが、女は1円も使ってないらしい。だとしたら、どうでもようないか? と、俺は思っていたが、世間はそうでもないようだ。3億を使っていたとしても、どうでもいいと思うんだが……。それは俺が、跡部という男を知っているからかもしれん。あの男は、私利私欲のために動くような男じゃない。

「昔、テニスやっちょったんよ。学校は違ったんやが、こいつは強うてのう」
「元プロテニスプレーヤー、ですもんね」

そんな最中、今度は3億を受け取ったとされる女が記者会見を開いて、「あの3億円の慰謝料は、わたしが跡部景吾さんを脅して巻き上げたお金です」と、言いだした。
なんのドラマだ……と思ったのは、俺だけじゃないはずだ。動画がバズったときから、見る人間が見ればわかる。跡部とあの女は、かなり深いところで想い合っているはずだ。
さて、ここから跡部がどう出てくるか……あの男なら、絶対にこんなところでは終わらん。
跡部には悪いが、俺はそれが少し、楽しみでもあった。

「忍足とも、そういう関係なんよ。こないだの合コン連中は全部テニスだ」
「へえ、そうだったんですね。どおりで上下関係がハッキリしていると思っていました」
「合コンで、さんざん、その話題になっちょったんやが……」聞いてなかったんか、こいつ。
「そうでしたか?」
「……ま、あの日の伊織さんは、見るからにピリピリしちょったしのう?」

おおかた、話題とはまったく関係のないことばかり考えちょったんじゃろう。俺と同僚の雰囲気に嫉妬でもしちょったか。いまとなってはよくわかる事実に、笑いがこみあげてくる。

「ぴ、ピリピリなどしていません!」
「おうおう、よう言うのう? 俺が同僚さんと話しちょるだけで、口尖らせちょったくせに」
「と……尖らせてなどいません! 雅治さんの自惚れですよ!」
「ほう? ぷっくり頬ふくらませちょったけど? かわいいのう。妬いたんか?」
「ですから、尖らせてなどないですってばっ」

チャイムが鳴ったのは、そんないつもの甘ったるい会話をしているときだった。
時計を見ると20時が過ぎている。郵便にしては遅い。俺はこの時点で、すでに警戒していた。

「こんな時間に、誰ですかね?」と、伊織さんがソファから立ち上がろうとした。
「伊織さん、俺が出る。ここで待っちょって」
「あ……はい」

セキュリティの強いマンションだから、普通はエントランスのところで足止めをくらっているはずだが、なにが起こるかわかったもんじゃない。
俺は慎重にインターホンを押した。

「はい」
「伊織はいます?」

いきなりの言葉に、ますます警戒心が強くなる。女の声だった。

「……どちらさまですか」
「伊織の母です、あなた、仁王さんという方?」

インターホンから聞こえてきた声に、伊織さんが駆けつけてきた。あの人には当然、住所は教えてなかったが、伊織さんは親にはちゃんと伝えておきたい、と言っていた。
俺も一度は挨拶しておくべきだろうとは思ってはいた。じゃから反対せんかったし、連絡したときも、伊織さんは言っていた。

――伊織にもそんな人ができたんだねって、少し、喜んでいたみたいです。

それに安心しとったっちゅうのに……これは、喜んでいるような人間の声じゃない。
インターホン越しに伝わる得体の知れない気味悪さに、脈がドクドクと反応していた。こいつ本当に、伊織さんの親なのか……?

「母さん?」と、伊織さんが反応した。
「伊織、入れて。話があるの」
「……待って、彼もいるから、外で」別人なら伊織さんにはわかるはずだ。警戒していないところを見ると、どうやら本当に母親らしいが……。
「いや、いい。伊織さん。来てもらってくれ」

伊織さんがひとりでこの母親と対面するのは避けたい。あまり乗り気はせんかったが、俺はエントランス解除をして、部屋に入ってもらうことにした。
玄関を開けると、そこには伊織さんの母親だけでなく、父親もいた。見るからにエリート同士の夫婦で、俺の親くらいの年齢のはずだが、見た目も若い。
母親のほうから、むせかえるような香水の匂いがただよってきた。その匂いに平静を装って、俺が挨拶をようとしたときだった。

「はじめまして、仁王雅治と言い」
「伊織、この人と別れなさい」

彼女は、玄関の扉を閉めるなり、部屋にもあがらずに俺の言葉をさえぎった。
俺も伊織さんも、絶句した。嫌な予感が的中した、とすぐに理解する。
やはり、喜んでなどいない。少なくとも、いまは。

「なん……なんですか母さん、いきなり」
「いきなりじゃないでしょう、いきなり同棲してるのはアンタのほうでしょう」
「ちょっと、待ってください。どうしてそんな……」

伊織さんの声が、震えている。いつものテキパキとした様子が崩れて、一気に子どもに戻ったようだった。
過去に受けた屈辱をひっぱりだされたように、伊織さんは、悲痛なほどに怯えていた。

「どうしてじゃないでしょう? わかってるんでしょアンタ!」
「わかりません! このあいだ連絡したとき、喜んでくれてたじゃないですか! 父さんだって、今度、紹介しなさいって……!」
「お前はね伊織、肝心なことを私たちに秘密にしていただろう! どうしていつもそうなんだ? そんなにお姉ちゃんが嫌いなのか?」

なるほど、と合点がいく。伊織さんが同棲の連絡をしたときはまだ、この両親はなにも知らなかった。が、いよいよあの人は、親にまで泣きついたというわけだ。
昔、ずっとそうしていたように。いまになっても、伊織さんを貶める気なのか、あの女は。

「秘密にしていたわけじゃありません! 時期がきたら言おうとっ」
「黙っていたじゃない! 言わなかったでしょう? 母さんたちね、お姉ちゃんから全部、聞いたの。このあいだお姉ちゃんがうちに来て、全部、話していった! この人、お姉ちゃんの彼氏だったんでしょう!? お姉ちゃんがかわいそうじゃないっ」

目を剥いて、伊織さんを脅してる。これが、娘を見る母親の顔か? 吐き気がしそうだ。

「姉さんは、でも、独身だって嘘ついて……!」
「それはもう過去のことでしょう! お姉ちゃんは、ちゃんと離婚しようとしているの! それなのに、そのあいだにお姉ちゃんの彼氏をたぶらかすなんて、なに考えてるの!?」
「わたし、たぶらかしてなんていませんっ!」
「父さんもな、昔からお前が、お姉ちゃんのことを目の敵にしてるのはわかっているが、今回はやりすぎだぞ。お姉ちゃんモラハラされていたんだぞ? それだけでも心痛なのに、そのうえ、妹に恋人まで取られたら、お前……!」

俺はその様子を、睨みつけながら黙って見ていた。体の熱があがっていく。
どっちの娘も、同じ自分たちの血を分け与えた子どものはずなのに、なんでそんなに一方がかわいくて、一方が憎い……?

「お姉ちゃんの恋人を略奪するような真似して、恥ずかしくないのアンタ! お姉ちゃんの幸せを、どうして祝福してあげれないの!」
「そんな……母さんだって、父さんだって、そうじゃないですか!」
「なんのことよっ」
「どうして、どうしてわたしの幸せを、祝福してくれないんですか!」

伊織さんは声だけでなく、全身が震えはじめていた。
こんな人間たちでも、伊織さんの親だ……なんとか感情を抑えて理性を保とうとしてはいるが……口を挟む隙もないほど、伊織さんを責めたてている。
あの女が伊織さんに罪をなすりつけたときも、あの女が家を出ていったときも、いつも、こうだったのか。

「伊織ね、人から大事なもの奪って、それで本当に幸せになれると思っているの!?」
「お姉ちゃんに反抗して、男にまで色目を使うようになったら、終わりだぞ伊織!」
「わたし、そんなことしてません! 彼とは、姉さんのこと知る前から友人で、わたしと彼は、純粋に……!」
「とにかく許しません! 別れなさい!」
「君も、悪いが伊織とは認められない。千夏への嫌がらせなんだろう? さっさと別れてくれ。娘がかわいそうだ」

人の家に来て、さんざん勝手なことをわめいて、俺の大切な伊織さんを、どこまでも傷つけて、泣かせやがった……こいつらが、伊織さんの親だと? だからなんだ。もう、我慢できん。もう、限界だ。どうなってもいい。
伊織さんだけでなく、俺も、全身が震えはじめていた。

「さっきから黙って聞いちょけば、好き勝手なことを言うのう。俺の気持ちは無視か?」
「は?」
「雅治さ……」

伊織さんを背中に隠すようにして、一歩、前に出た。
いま全部、見せてもらったぞ。お前らはそうして、伊織さんが幼いころから、彼女を責めつづけてきたんだな。
許せんよ、絶対……こればっかりは、どう冷静になろうとしても、無理だ。

「認めてもらう必要はない。帰ってくれ」
「は……はあ? ちょっと! あたしらは伊織の親ですよ!? なんて態度なの!」

伊織さんに向けていたのと同じ目を、今度は俺に向かって投げつけてくる。
よくもそんな目を、自分の子どもに向けてきたな。それで親だと? 笑わせるな。

「伊織さんの親じゃからって、あんまり調子にのってほたえなや。俺と伊織さんはもう立派な大人だ。親の承諾なんか必要ない」
「ちょっと……君ねえ、品がないよ。だいたい姉妹に手をつけるとはなにごとだ!」
「やかましい。ほたえなやっちゅうとるのが聞こえんのか? ようこんな親に育てられて、こんなに立派な人間が仕上がったもんだな」
「なんですって? あなたいまなんて言いました!?」

雅治さん……と、伊織さんの手が俺の背中に触れた。
俺は左手を、そっと背中に伸ばした。伊織さんには振り返らないまま、その小さな手を、強く握りしめた。

「あんたらが言うとおり、お宅の長女とも縁があったせいで、伊織さんがいかに奇跡かっちゅうことがようわかる。俺はいまそれに、感心しちょるとこよ」

伊織さんも、手を握り返してくる。いま、どんな思いでいるのか、俺には見当もつかん。
だがすまん、伊織さん……俺はもう、この感情を止められそうにない。

「たしかに俺はあんたらのとこの長女と付き合っとった。だがあの人は独身だと言って俺に近づいてきた。俺は4年半も騙されとったようなもんだ。平気で人を騙して不倫するお前らの娘こそ、人として恥ずかしくないんか?」

母親が、さらに目を剥いて俺を見た。

「あ……あなたは知らないでしょうけど、あの子はね、小さい頃から体が弱くて、かわいそうな子なんですよ! それなのに、大人になってからも、モラハラに苦しんだんですよ! 騙されたのはうちの娘のほうです! あんな内弁慶のエリートに騙されて、今度は妹に手をつけるような美容師にまで振られて!」

人がよすぎるのよ、かわいそうでしょう! と、悲鳴にも似た声をあげた。
ここまで末期だと、哀れみすら感じる。なにも知らないだけじゃ済まされないバカさ加減に、思わず手が出そうなほど怒りが湧きあがってきた。

「体が弱けりゃなにしてもええんか? 伊織さんの気持ちはどうなる? お前ら親として、伊織さんになにかしてやったことがあるんか?」
「ちょっと君ね、口の利き方にっ」
「客観的な意見っちゅうのを言うちゃる。お前らが、かわいいかわいいと育ててきた長女より、よっぽど伊織さんのほうが美しくて、価値ある人だ。お前らが血眼になってかばっているあの女は、醜くて、最低の部類に入る。あの女と付き合ったのは、俺の人生の、最大の後悔で、最大の汚点だ」

握りしめている伊織さんの手が、わずかに震えだしていた。

「そういう意味じゃ、あの人とあんたたちはそっくりだ。伊織さんが幼少期、あの人にどんな目に遭わされてきたか、あんたらそれを見ながらも、伊織さんを押さえつけてきたんじゃろう。お前らがしてきたことも、いましていることも、立派な虐待だ」
「な……なにを言うの! あたしたちがこの子を育てるのにどれだけ苦労したか!」
「じゃあ聞くが、お前たちは伊織さんがどれほどつらい思いをして、どれほど頑張って生きてきたか想像がつくんか? お前たちは伊織さんの心を、家族でよってたかって、いたぶって殺していったも同然じゃろう!」

それがどれだけ伊織さんを苦しめているか、お前たちに理解できるか。

「お前らがさっきからモラハラだと言っている事実は、誰が証明したもんじゃと思っちょる? あの女の離婚は、誰のおかげでできると思っちょる?」

どれほど恨んでもおかしくないっちゅうのに、伊織さんはそれでも、あの女を救おうとした。

「それに感謝もせんと、お前らのバカ娘は、実の妹を、車道に突き飛ばして殺そうとしたんやぞ!」
「雅治さん、もうやめて!」

さんざん心を殺されてきたから、伊織さんは痛みが麻痺している。だからいまも、体まで殺されそうになっても、あの女をかばっている。

「な……なにを言ってるの!?」
「君ね……いまのは名誉毀損だよ? 訴えることもできるんだぞ!」
「雅治さん、もう、もういいです、お願い……」

伊織さんの声が、俺からゆっくりと怒りを拭い取っていく。
こんな親でも悲しませたくないのかと思うと、いますぐ抱きしめてやりたくなった。

「好きにしてくれ……だが、伊織さんは俺が守る。もう二度とここに来るな。いいか、あの女にも言うちょけ。次に伊織さんに近づいたら、すぐにでも警察に逮捕してもらう。もしそれが敵わんでも、俺があの女を殺す。あんたらのことも容赦せん。あの女ともども、地獄に落ちんさい」

俺は絶句した二人の腕をつかんで、突き飛ばすように玄関から引きずりだした。
すぐに扉を背にして、頭を抱える。抱えずに、いられなかった。肩で息をするほど、怒り狂ったのは、はじめてだ。
目の前に伊織さんがいるんだろうが、うまく顔をあげることもできん……。最愛の人の両親に……伊織さんがこれで俺を憎んでも、仕方ないことをした。だが……あれが本音だ。

「雅治さん……」

か細い声が、近づいてきた。
伊織さんは、声には出さずとも、俺を何度も止めに入っとったのに……それでも抑えることができんかった。

「すまん伊織さん……伊織さんの親じゃっちゅうのに……それでも、俺には我慢できんかった。黙っちょけんかった……」
「雅治さん……わたしのこと、見てください」

伊織さんの手が、頭を抱えていた俺の手に、静かに重なった。
ゆっくりと下におろされる。ためらいながらも顔をわずかに上げると、伊織さんは、微笑みながら胸に抱きついてきた。

「伊織さん……」
「雅治さんも、抱きしめてくれませんか? お願いします」
「……俺を、許してくれるっちゅうこと?」
「許すって……? 雅治さん、なにも悪いことしてないじゃないですか」
「じゃけど、伊織さん……」
「わたしには、もう雅治さんしかいません」
「……」
「はじめて、わたしに味方ができました。嬉しいです、すごく」

震えている体を、強く抱きしめた。背中をなでると、伊織さんも同じように、背中をなで返してくる。
俺は吸い寄せられるように、伊織さんの頬を包んで、キスをした。

「わたし、誰かに守ってもらったの、はじめてです」

彼女が、いままでどれだけの孤独を耐えてきたのか。想像するだけで、たまらない気持ちになる。

「俺はずっと、伊織さんの味方だ。約束する。これからずっと、俺が守るから」

強く抱きしめると、伊織さんは胸に顔をうずめて、何度も頷いた。

「嬉しいです……ですから、雅治さん」
「ん……?」
「……わたし、決めました。もう家族とは、縁を切ります」

そう言って、俺を見あげた。
涙を流してはいるが、そこに、揺るぎない決心を感じる。それは覚悟を決めた、伊織さんの、芯の強い目だった。
彼女に惚れた瞬間に見ていた、あの目だ。

「……いいのか?」
「はい。今回のことで、とてもよくわかりました。これまでだってわかってたのに、気づかない振りをしていただけです。わたしは、あの家族の誰からも愛されていません」
「伊織さん……」
「認めたくなかったんだと思います。ですが、どうして生まれてきたんだと言われているような気が、実は子どものころから、ずっとしていました」

小さな子どもには、親しかいない。それが世界のすべてのはじまりだ。愛されて当然のその世界のなかで、伊織さんは、与えられるはずの愛を知らないまま、生きてきた。

「でも……雅治さんは、わたしを愛してくれるでしょう?」
「……当然じゃろ。伊織さんが生まれてきたのは、俺のためだ」
「雅治さん……ありがとう」

強く、本心でそう感じる。伊織さんは、俺のために生まれてきた。俺に愛されるために、俺が伊織さんを愛するために、生まれてきたはずだ。

「本当に、嬉しいです……だからもう、家族とは縁を切ります。法的にそんな方法なさそうですが、除籍でもします。わたし、お役人ですし。担当は違いますけど。ふふっ」

泣きながら無理に笑う伊織さんが愛しくて、何度もキスをした。
伊織さんがそうと決めたなら、俺も、待つ必要はない気がしてくる。
もうすでに、ずいぶん前から、そう思っていた。俺は伊織さんを、一生守っていきたい。

「のう、伊織さん」
「はい、なんですか?」
「除籍なんて面倒なことせんと、すぐにでも離脱できる方法があるじゃろ」
「へ?」
「このマンション、新婚の住まいにせんか?」

まるで俺に叩かれたかのように、伊織さんが目を見開いて固まった。

「……新……え?」
「仁王伊織にならんかって、言うちょるんじゃけど」
「雅治さん、それは……結婚、ということですか?」

こんな状態で、する予定じゃなかったちゅうのに……本当なら、指輪を用意して、最高のデートプランを考えて……そういう予定が、全部、狂った。
俺も相当、堪え性がない。

「まだ付き合って1ヶ月くらいしか経っちょらんし、気が早いかとも思ったが……そういうエビデンス、どうでもええもんな? 俺ら」そう言って笑ったが、伊織さんは目をまるくしたままだった。
「ほん……本気で、言ってますか?」
「冗談じゃと思うか? なってくれんのか? 俺の奥さんに」
「なり……たいです……」

じわじわと顔が赤くなっていく伊織さんが、たまらなく愛しい。
その様子は、告白したあの日と、まったく一緒だった。

「家族は、俺とつくったらええじゃろ? 伊織さんは、俺との家族なら、家族全員に、あたりまえに愛されるはずだ」
「雅治さっ……う、嘘みたいです」

ずっと泣きっぱなしの伊織さんを、俺は、また泣かせた。
それでも幸せの涙は、どれだけ流れていても、綺麗だと感じる。うっかり、こっちまでもらい泣きしそうだ。

「もう少し部屋が落ち着いたら、俺の実家に行かんか。うちの家族バカばっかりじゃけど、悪いヤツらじゃないんよ。伊織さんを紹介したい。どうだ?」
「はい、はい」と、伊織さんは、何度も頷いた。「……雅治さんの家族、とても楽しそうですね」
「ん……きっと楽しい。じゃから伊織さん……これからは、ずっと笑って生きれるはずだ」

愛でるようなキスを、何度も送った。
将来を誓って、俺らはそのまましばらく、玄関で抱き合っていた。





to be continued...

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