初恋_05


5.


――侑士、なんか変わったよ。

「人が変わる」というのは、別人のようになる、性格や人格が変わる、っちゅう意味があるらしい。
伊織にとって俺は、そんなに「変わった」んやろうか。ベッドの上でただ天井を眺めて考えても、まったくわからん。目がうるうるしてきそうで、泣いてたまるかと思って鼻をすすった。

――さよか。もうええから、あいつと帰ったらええやん。
――侑士……っ。

世界一、大切な人やのに。その手を雑に振り払って、俺は背中を向けた。タクミのことはめっちゃうっとりした顔で見つめとったのに、俺には険しい顔を向ける伊織に、耐えられへんかった。
なんでタクミをかばうん……俺やのうて、タクミのがつきあい長いから? お世話んなっとるから? それともやっぱり、……好き、やから?
目を拭うと、地味に背中が痛みだす。その反動なんか、胸も痛くてしゃあない。晩めし、なんも食べてへん。なんもやる気が起きんくて、さっきから水ばっかり飲んどった。それくらい、俺は絶望しとった。
伊織は、とっくの昔から俺の伊織やなかった。5年も会ってへんかったんや。あんなかわいい伊織やで、そんなん当然やけど。俺と再会して、ちょっとは俺にもチャンスあるんやないかって思てしもうたもんやから……ホンマに、しんどい。
それでも、跡部になに言われるかわかったもんやなかったから、ひとりで病院には行った。どうやら、ヒビはホンマに入っとったらしい。せやからバンドで固定中。先生は3週間もすれば治るって言うてはったけど……心の傷も、それくらいで治らんやろか。

『忍足、検査結果を教えろ』

ちょうどそのとき、跡部からメッセージが入った。返信の前に、ぼんやりと伊織とのやりとりを見てしまう。試合がはじまる前まで、めっちゃ仲よしでやりとりしとったのに。あれ以降、伊織からは連絡もない。俺からやって、することもできひん。
俺は、文字を打ち込むのが面倒になって、跡部に電話をかけた。

「もしもし、跡部?」
「お前……なにを泣いている。痛むのか?」
「え」嘘やん、なんでわかんねん。「な、泣いてへんけどな……」ごまかしてみた。
「泣いてるだろうが。それで俺にわからないとでも思ってんのか」声、震えとったやろか。めっちゃ毅然としたつもりやったのに。「びーびー鼻をすすりやがって」
「あ……」そっちでバレたんや。ああ、なんやもう恥ずかしい。「ほっといて」
「とくにかまうつもりもないが、検査結果は伝えろ」

冷たい。もう少し、気にかけてくれてもええんちゃうやろか。
俺ら、親友やんなあ? 跡部。

「ん……ヒビ入ってたらしいわ。3週間くらい固定しとったら治るって」
「はあ……言わんこっちゃねえな。まあ来週から中間考査期間だ。ちょうど終わるまで3週間、部活も休みだから、ゆっくり治せ」

じゃあな、と電話を切ろうとした跡部に、「あっ」と、思わず声をあげた。
なんやかんや、俺の話を聞いてくれる男はこいつしかおらんでな。
だって俺ら、親友やんなあ? 跡部!

「……なんだよ」けど、跡部はごっつい面倒くさそうな声を出した。嫌な予感でもしたんやろか。
「跡部……俺、変わった?」
「はあ?」
「俺……変わったかなって」

伊織に言われたことを、跡部に復唱してみる。やって、中1のころから変わってへんつもりやし。俺は結局、それが引っかかっとる。なんであんな言われ方、せなあかんねんって。
しばらく沈黙したあと、跡部は、ふうっと長いため息を吐いて、言うた。

「別人だ」
「ええ!?」
「うるせえ! なんだ!?」
「ど、どこがどう……っ」
「変わってないと言われたかったのか? 貴様は新学期を迎えてからというもの、別人だろうが。冷静なてめえはどこにいった? 女には微塵も興味ねえ顔でクールと呼ばれていた忍足はどこだ? 毎日毎日、佐久間のことで一喜一憂し、調子がいいかと思えば逮捕寸前の顔をしやがって」
「そ……ひどいやんっ、跡部!」

俺がめっちゃ落ち込んでんのに、こいつ、傷口に塩を塗るようなことばっかり言いよる!

「俺が冷静とかクールとかやなんて、勝手にお前らが決めつけただけやろ!」
「決めつけていたわけじゃねえ。貴様はたしかに冷静でありクールな男だった」そら、傍に伊織がおらんかったし!
「そ……そんで、女には微塵も興味ないやって!? 俺はずっと伊織に興味津々じゃ! 興味しか無いわ! もう伊織のこと考えただけで胸が張り裂けそうやっちゅうのに! あと逮捕ってなに!?」
「ああ、気持ちが悪りい! 口を開けば、伊織、伊織と……」
「せやのにっ」跡部の言いぶんを無視して、俺はつづけた。「伊織、俺のこと否定したことなんか、いままで一度もなかったのに……俺のこと、冷たいって。俺のこと、変わったって……言うねんかあ!」

思いだしただけでつらくなる。俺はまた、鼻をすすってしもうた。

「はあ……どうせそんなことだろうと思ったが……まだ付き合ってもない女の言葉に傷ついて、泣いてやがったのか」
「せ……せやから、泣いてへんっ! けど、けど……もう伊織に嫌われたんかも俺……跡部え!」
「ああ、面倒くせえな! なにがあった!?」

結局、この日も跡部に泣きついて、俺はことの顛末を話した。帰る前に、わざわざタクミがついてきたこと。伊織が、めっちゃうっとりタクミを見とったこと。そんでむちゃくしゃしたで、もうひとりで病院に行くって言うて、それやのに、伊織はタクミをかばって……と、一部始終を話し終えたとき、間髪いれずに、跡部は言うた。

「それは、てめえが悪いだろうが」
「ええっ!?」

嘘やん!

「えーじゃねえ。人の厚意を不躾な態度で断った、お前が悪い。しかも相手は佐久間が世話になってる家庭教師だろうが」
「せ、せやけど……っ」
「いいか、貴様は佐久間の男でもなんでもねえんだぞ? 嫉妬するのは勝手だが、佐久間の立場を考えろ。そのタクミとかいう野郎に、あとで謝ったのは佐久間だぞ? しかも、お前の態度をな!」
「え……」
「まるでガキの責任をとる親じゃねえか。貴様は惚れてる女に、そういう惨めな思いをさせてんだよ」

言われてみれば、そのとおりやった。
あのあと、伊織とタクミがどうしたかなんて、俺にはわからん。けど、伊織やったら……俺のことで、タクミに頭をさげたやろうなと思う。その想像は、悔しさと嫉妬でぐちゃぐちゃになっとった俺の心に情けなさを追加して、またじわじわと、目が潤んでいくのがわかった。






「これで全科目終了です。みなさんお疲れさまでした。気をつけて帰るように」
「はーい」

5月最後の金曜日、やっと中間考査が終わって、帰り支度をはじめたときやった。
あれから、ホンマになんもないまま、3週間が過ぎていった。
情けない……謝らなあかんと思うのに、自分から伊織に連絡するやなんてこと、できへんかった。
伊織もあんな言い方せんでいいやんとか、結局は俺、そればっかり、どっかで思っとって。

「変わったっていうなら伊織も変わったで? 俺以外の男とそんなつるんだりせんかったやんっ! 俺だけの伊織やと思っとったのに!」

とか、言うてしまいそうで……告白しとる上に、その中身が醜いで、自分でもげんなりする。
ちゅうても、跡部には俺が悪いって言われたし、俺が悪いんやろう、たぶん……。
せやけど中間考査期間に入ったら、週2のカテキョが週3になるとかいうとったで、この3週間、俺には連絡もせんで、顔も見せんのに、タクミとは週3も伊織の部屋で、あんな、あんな顔してんのかと思うともう、考えただけで全身が震えそうになった。
とはいえ、中間考査が終わったのはひとつの区切りや。今日、伊織に謝らんと、俺、ずっと謝れん気がする。
なんせ伊織にとっては10番以内を目指しとる大事な試験やったから、邪魔したくなかったのもある。
俺はバッグのなかに参考書を詰め込んで、気合いを入れるようにして立ち上がった。よし、A組に行こう。
と、振り返った瞬間やった。

「うわあ! え、伊織!」
「あ……ご、ごめん、びっくりさせてっ」

伊織がじっと俺を見ながら、立っとった。いつからそこにおったんやろうと思う。
俺の席のうしろで、俺がこうして決心つけるまでの仕草を見られとったんかと思うと、死にたなった。
窓の外を見たり、ため息ついたり、天井見上げたり、机に突っ伏したり……いろいろしたで。なんならちょっと涙ぐんで、鼻もすすった気いする。

「侑士……なんか、泣いてたん?」あかん! バレる! この質問、こないだから何度もされるやん俺!
「え、はっ!?」
「なんか、目、赤いから……」めっちゃカッコ悪い!
「な、泣いてへんよっ!」ほんでこの否定も何度もやんっ。「これはさっき、あくび、したんやっ」
「そうなん? ん……それやったら、よかった」

そう言ったきり、伊織は黙って、目を伏せるようにうつむいて、手をもじもじさせた。かわいい……どないしたんやろ、と思う。B組に来るやなんて、はじめてのことや。俺に用、やんな?

「伊織……なんか、用あった?」
「あ……う、うん」

あかん……あの日のこと思いだしてまう。そのせいで、伊織の顔がまともに見れへん。なんか用あった? とか、しらじらしすぎるか? こんなん、伊織やってあの日の話をしに来たに決まってんのに。
俺から言わなあかん、俺から……!

「あんね、侑士」
「堪忍!」
「えっ……」

やっぱり、目を見ることはできへんかった。それでも頭をさげて、誠心誠意、謝ったつもりや。

「こないだ……もうだいぶ前やけど、堪忍や……伊織」
「侑士……」
「中間考査に入ったから、迷惑やろと思て、声、かけへんかった」半分、嘘やけど。ホンマは俺のしょうもないプライドが、邪魔しただけ。「けど、ずっと気まずいままんなっとって……それも嫌やで、いまからA組、行こかなって思っとった」

伊織は、黙ったままやった。どんな顔してやんろと思ったら怖くて、俺は顔をあげんまま、つづけた。

「あの日、俺、ちょお、むしゃくしゃしとっ」
「ごめんね!」
「え」

言い訳めいたことを口にしようとしたとき、伊織が、俺の言葉をさえぎって謝ってきた。
思わず、バッと顔をあげたら、伊織、すっごい困った顔しとって。
うわあ、そんな顔もめっちゃかわいいとか、ホンマずるすぎる……なんやもう、どうでもようなってくるやん。
伊織なあ、喧嘩、負けたことないやろ? そんな顔を見せられたら、誰が相手やろうと謝ってまうで。ずるい、かわいい、キスしたい。

「侑士、背中打って痛くって、気分が落ちてたんだよね。それだって、わたしのことかばってくれたからなのに……」
「あ、いや」気分が落ちとったのは、背中のせいとちゃうけど。「いや、でも俺も、たしかに失礼やったと思うし」ホンマはどうでもええけどな! あんな男!
「それでも、ちょっと、言いすぎたって思ってた。わたしこそ、本当に、ごめんなさい」
「伊織……」

ペコッと頭をさげた伊織が、めっちゃ愛しくて。できることなら、そのまま抱きしめたかった。……もちろん、我慢したで。

「いや、ええんや。俺のほうこそ、なんやムキんなって」
「ううん、わたしもちょっと、ムキんなって、ごめん」
「いやけど、俺が先にしかけたし」
「ううん、だからって、もっと気遣うべきだったなって」

なんか言うたら、いやいや、こっちも……言うて。
しばらくそれがつづいたせいで、俺らはそのまま、顔を見合わせて笑った。ああ、仲直りできたって思ったら、もう俺、めっちゃ嬉しゅうて。

「ははっ……ああ、それやったら、お互いさまってことに、しよか」
「うん……ふふ。うん、そうしよ!」

そのまま確認を取り合うこともなく、俺らは、自然と一緒に帰ることになった。
伊織との下校も、めっちゃ久々で……もう舞い上がった気持ちを抑えるのに、ひと苦労する。
そういやこの3週間は部活なかったんやし、あんなことさえなければ、伊織とまるまる3週間は下校できたかもしれへんのに。あのタクミ野郎ホンマ……腹立つわあ。

「侑士、背中、大丈夫なん?」
「ん? ああ、こんなん、全然、平気やで」

他愛もない話の途中、伊織はずっとどこかで聞こうと思っとったんやろう、不安そうに俺を見あげて聞いてきた。
バンドはまだしとったし、地味に痛いときもあるんやけど、俺はしれっとそう言うた。今日あたり、バンド外そうって思っとったしな。もう治ったようなもんや。

「ホンマに?」

伊織が、そっと背中に触れてくる。
久々の伊織の手の感触。優しいて、ちょっと小こくって、ためらいがちで。
はああ……もう、あったかい。それだけで治るわ! ヒビ入ってたん、すぐにくっつきそう!

「ホンマ。大丈夫や」
「けど侑士、なんか巻いてない?」段差が気になったんか、不安そうに、さすさすしてくれとる。もう、永久にさすさすしとってほしい。
「ん、ちょっとな。大丈夫や」
「病院、一緒に行けなくて……ごめんね?」
「ええねん。あ、ちゅうか、伊織もあのあと、俺のことでタクミさんに謝ったんちゃう? それ、俺ちょっと気になっとって……堪忍な?」

跡部に言われたことも、それはそれで引っかかっとった。
俺が伊織に、惨めな思いをさせたんかと思うと、それはやっぱり、ちょっと苦しい。悪いんは、タクミやけど。

「あ、うんでも、すみませんってわたしが言おうとしたらね、タクミさん、言わせてくれへんかったんよ」
「へ?」

――タクミさん、すみ
――忍足くんはスポーツマンだから。あれが正解だね!
――え……?
――試合後、選手はピリピリしてるものだよ。きっと彼は志が高い。あれほどの試合をして勝ったとしても、まだ反省点があるんだね。ああ、僕も、彼を見習わんといけんね!

「って、言うてはって、さ。それで、わたしも謝りそびれたんよ」
「へえ……」

あいつ……スーパーポジティブなんやろか。それともただのアホか?
俺がめっちゃ気分悪くこの3週間を過ごしたっちゅうのに、タクミはあの直後からなんも気にしてなかったんかと思うと、それはそれで、めっちゃ腹立つ。

「素敵な人よね。嫌な顔、ひとつせんと。タクミさんって、昔からそうやった」
「え」
「前向きなんよ。いつもニコニコしとって。優しい人やねん」
「そう……やな」

素敵な人……優しい人……昔からそうやった。
この3つのパワーワードに、俺の背中が、いや胸も、またじくじく痛みだす。
俺、伊織にそんなん、言われたことあったっけ……あったような気もするけど、俺、めっちゃ後向きやし、いつもニコニコもしてへん。こないだも、全然、優しなかった……くそ……めっちゃ嫉妬してまう。
あかん、あかん、跡部に言われたやん、伊織の彼氏でもないのにって。わかっとる、わかっとるわそんなん。せやけど嫉妬してまうのはしゃあない。表に出さんかったらええだけや。
もう、伊織の周りの男への嫉妬にも慣れてきた。いや慣れへんけど、大出くんのことやってあるし、タクミは超危険やし、氷帝の男どもやって、伊織を狙っとるヤツが何人おるかわからへん。A組の男子なんか開口一番に彼氏の有無を聞いとったでな。ライバルは多いんや。こんなん、動揺しとる場合ちゃう。せっかく仲直りしたんやから。

「侑士、今日はありがとう」

はっとする。そんなん考えとるうちに、いつのまにか、伊織の自宅前に着いとった。
伊織が足を止めて、俺を見あげる。その顔、めっちゃ好き。いつも確かめるように、じっくり俺を見つめてくれる、伊織のかわいい瞳。はあ……もうその瞳に、俺しか映したくない。

「ん……あ、タクミさんには、今後、機会があったら謝っとくな?」
「あ、うん。気にしてないと思うけど、うん。侑士がそうしたいなら」

したないわ。せやけど、伊織の前ではカッコええ俺でおりたいから、言うだけ言うてみる。

「ん……あ、あとさあ、伊織」
「うん?」
「月曜、ランチ、せえへん?」

誘ってみる。クラスが違う俺と伊織が一緒におれる時間なんて、ランチくらいしかない。
ホンマは毎日やって一緒に下校したいけど、部活あるで、待ってもらうわけにもいかんし。
やで、俺にとっては、ランチの時間はものごっつい大事な約束やった。ほとんど、デートに誘っとる気分や。

「うん! もちろんええよ! あ、カフェテリア行かへん? わたし、あれきり行ってないから。来週月曜、またビュッフェの日やし」

きらきらきらきらっと、俺の目の前の視界が輝きだした。
もちろんって、言うた。しかもカフェテリアやって。ああ、ホンマもんのデートみたいやんっ。

「おう、さよか。そやね。ほなそうしよ」
「うん!」

伊織とは、すっかりもとに戻った。それにめっちゃ安心して、俺はこの夜、3週間ぶりに、ぐっすりと寝れた。





週末を終えて、お楽しみの月曜日。
3限目が終わって移動教室のために廊下にでると、そこにちょうど移動教室から戻ってきた跡部がおった。

「跡部ー!」
「……アーン?」

最近は俺が話しかけただけで面倒くさそうにしよる。決まって、俺が伊織の話をしようとしたときは、とくにや。なんでやろ? そういや、伊織のことじゃない用件のときは、「どうした?」って普通に答えてくれとるよな。俺の顔を見たら、伊織の話やってわかるんやろか。
俺、そんなわかりやすいやろか? めちゃポーカーフェイスしとるつもりやのに。

「あんな、今日な、伊織とランチデートやねん」話しながら、俺は人気のない場所に跡部を引っ張った。
「ただランチを一緒にするだけだろ、誇張表現をするな」うっとうしい、と、ぼやいとる。
「なっ……ええやろ別にそんくらいっ」
「ふん……ま、じゃあ丸く収まったってわけだな。きちんと謝罪はしたのか?」
「ん、ちゃんとしたで。お前に言われてさ、俺も悪かったなって思たでな」
「俺もっつうか、一方的にてめえが悪いんだけどな」

最後のひとことは聞かんかったことにして、俺は跡部に歩み寄った。どういうわけか、跡部も同じように歩み寄ってきた。ちょっと、びっくりする。俺には話があったけど、跡部にもあるんやろか? と思っとったら、胸ぐらつかみだすような剣幕で、跡部は言うた。

「いいか? 忠告しておく。カフェテリアでこのあいだのような醜態をさらしてみろ。タダじゃおかねえぞ」
「は? なんのことやねん」
「手を握ったり弁当を口に持っていったりという、貴様のあの奇行だ!」

思いだしただけでおぞましい、と、跡部は言った。
ああ、なんやそんなことか、と思う。別にええやろ、あれくらい。伊織やって、嫌がってへんかったし。

「絶対にやめろ、いいな」
「ふうん……まあ、わかったわ」チャンスがあったらしよって思とるけど、とりあえずこう言うとかな収まらん気がして、頷いた。「それよりなあ跡部。俺、そろそろ告白せなあかんって思ってんねん」
「知らねえよ、勝手にしろよ」
「ちょ、いきなり冷たいやんっ」

教室に帰ろうとする跡部のシャツを引っ張って、その足を止める。
らしくもなく、跡部は「なっ!」と、慌てた。俺のこと変わったって言うたけど、最近、跡部もなんか変わったで? なんやろ、保育園の先生みたいに見える。俺だけやろか。

「なんだ!」
「ちょお相談のってえや、俺が告白しようって思とんのにっ」
「そんなことを俺に相談しなきゃできねえのか!? 中学生かてめえは!」シャツから手を離せ! シワになる! と叫んではる。
「高校生やけど、経験ないねんもん。でもなんちゅうかほら、確証ほしいっちゅうか」仕方ないで、ぱ、と離した。
「あ? なんの確証だ」
「せやからその……負けるってわかっとる勝負に、わざわざ出たないやん?」
「俺は勝負に負けることがないから、わかんねえな」
「うそつけ丸坊主」
「アアーン!?」

3年前の越前との試合は、いまだに跡部のなかで遺恨を残しとる。よっぽど悔しかったんやろう。あと、ズルムケんされたんが、よっぽど恥ずかしかったんやろう。と、俺は踏んどる。
って、そんなんどうでもええねん。

「なあ教えてえや。跡部かて、好きな子に告白するときは、探りくらい入れるやろ?」
「入れねえよ、面倒くせえ。それに、そういうのは話してりゃわかるだろ、自然と」はっ……モテる男は言うことがちゃうなあ?
「そんなん……どうやったらわかるんや」教えてくれ。
「貴様は自分が佐久間に触れることばかりに気を取られてやがるから、会話を逃してんだ」普通に会話をしろ、普通に。と、付け加えてから、つづけた。「で? 貴様が佐久間に聞きたいことはなんだ?」
「そら、男の影がないか……タクミ以外のな」
「じゃあ、俺が教えておいてやる。てめえがモタモタしてるあいだに、佐久間は俺が知っているだけでも、校外の男も含め、5人に告白されてるぞ」
「ええっ!?」

バチコン! という衝撃が頭にきた。跡部に殴られたわけやない。せやけど、それはあまりに衝撃的すぎた。

「な、なんでお前、そんなこと……ししし、知ってんねん」
「呼び出されてんのを見ていたからだ。告白以外にねえだろ。大学部の人間もいた」

まだ転校してきて2ヶ月しか経ってへんっちゅうのに、5人も!? しかも校外もおるって!? 大学部!? あかんあかんあかん、競争率めっちゃ高い。そら伊織は幼・中・高・大を含めた氷帝一の美人やから、それも頷ける。せやけど告白されたら、そいつのこと意識しはじめとるかもしれんやんっ。っちゅうか、もう付き合ったりしとるかもしれんやんっ。

「まあ……佐久間が正直にそのあたりのことをお前に話せば、脈アリだと思っていいんじゃねえのか?」
「え……」と、俺は目を見開いた。「なんで?」
「やましいことはねえから話すんだろ、そういうのは。ついでに付き合っているかどうかもわかる……が、もし高等部で付き合っている男がいるとすれば、お前とランチなんかしねえと思うけどな」
「そ、それは言えとる……」え、待って。「校内やなかったとしたら!?」
「ま、そういうパターンもある。校内での男友達とのランチくらいは、するだろうな。もし俺が佐久間の男だったらいい気分はしねえが、知りようがない」

跡部が伊織の彼氏やなんて想像しただけでも気分が悪い。俺が彼氏やったとしても、ほかの男と二人きりでランチやなんて、めっちゃ嫌。せやけど校内のことに口は出さんやろうし、たぶん、伊織やってわざわざ言わんやろう。十分、可能性はある。
自分でも引くくらい、不安が襲ってきた……あかん、ランチで聞き出さな。

「まあ、せいぜい頑張れ。授業がはじまるからもう行くぞ」

告白はするにしたって、もしも気になっとる男がおるんやったら、一旦告白中止して、それを見守る優しい男になって、俺に気を持たせるようにするっちゅうこともできるし、もしも付き合っとる男がおるんやったら、一旦告白中止して、恋愛相談を受けつつ見守る優しい男になって、別れるように促しながら、俺に気を持たせるようにするっちゅうこともできるし……。
いや待って……そんなん、俺、耐えれる? 相手は伊織やで……? 俺の天使。俺の女神。俺の人生のなかで、たったひとりの想い人やのに……。

「あれ……跡部?」

いつのまにか、跡部が目の前からおらんようになっとった。
ああ、どないしよう……まだ聞きたいことあったのに。せやけど、この不安を取り除かんことには、俺、告白やなんて、できへんっ。





跡部やって、もうちょっと相談にのってくれたってええのに。
移動教室、遅れてもうて先生に怒られてしもた。せやけど、授業内容は頭のなかに一切入ってこんで、めっちゃ悶々とした4時限目を過ごした。

「あ、侑士! こっち」
「伊織……堪忍、待った?」
「ううん。あ、侑士のも、盛っておいたよ。こんなんでよかった?」

授業中、先生に当てられても質問を聞いてなかったせいで、授業後にチクチクと1分くらい嫌味を言われた。あげく移動教室やったから、そこから一旦は教室に戻ってカフェテリアまで移動したで、俺はここでも、出だしが遅れとった。
せやけど……伊織、文句も言わんと席を取ってくれとって。しかも俺のぶんまで盛りつけてくれとった。それがまた綺麗な盛りつけで……さらに、俺の好きなもんばっかり。
はああああもう、こんなかわいい伊織、絶対にほかの男になんてわたしてたまるかっちゅうねん!

「全部、俺の好み……伊織、ようわかったな?」
「ふふ。侑士の好み、変わってないんやね。よかった。なんか内容がおじいちゃんみたいやなあって、いっつも思ってたんよ」
「え」

白米、豚汁、冷奴、サバの味噌焼き、からあげ、キャベツのサラダ、漬物……た、たしかに、おじいちゃんみたいや。わんぱくなの、からあげだけや。加えて納豆がここにないことも、ポイントが高い。その代わりが豆腐になっとる。さすが伊織やで。
せやけど俺、小学校んときからこんなん食べとったっけ。まあ古きよき日本食は、いつやって美味しいし、胃に優しいでな。

「……けど伊織も、こんなんでよかったん?」目の前の伊織のプレートも、俺とまったく一緒やった。
「うん、わたしもこういうん好きやから。このカフェテリア、洋食が多いやん? でもビュッフェになると、和食たくさん出てくるから、逆にこっちのがええんよ」
「さよか。ん、そんならよかった」伊織、俺の好みに無理に合わせてくれたんちゃうかって思たで、それやったら悪いもんな。
「それに、ね」
「ん?」
「……せっかく一緒にこういうとこでお昼を食べるんやったら、同じもん食べたいやん。小学校んときは給食で、いつも同じもん食べてたから、ね?」

キュ、と首をかしげて、伊織が俺を見る。鼻血がふきでるかと思った。
同じもん……食べたいやって! めっちゃ、めっちゃ、めっちゃかわいいっ!
あかん絶対こんなん、顔デレデレんなる。
俺はスイッチを入れた。お得意のポーカーフェイスや。ほんの少し微笑むだけにとどめて、俺は、伊織をじっと見た。

「せやな……俺も伊織と、同じもん食べれるん、嬉しいで?」
「ふふ。じゃあ食べよう? いただきます」
「いただきます」

ええやん、やっぱり俺、ええ感じちゃう? ちょっと険悪なときもあったけど、基本、伊織と俺は仲よしやし、ランチもこうして何回もしとる。喧嘩したら仲直りせなってお互いが思っとるし、こないだは下校したし、なんせ遠足のおやつも一緒に買いに行った仲やで。
せやからもう、あとは少しの勇気があればいける。勢いや……勢いで、聞いてまえっ。

「なあ、伊織」
「うん?」
「ちょっと、小耳にはさんだんやけど、さあ」
「うん? なになに?」

おぼこい顔して、伊織が俺に視線を向けた。ああもう、抱きしめたいっ。
いやそれは、確証を得て、告白して、そんで付き合うことになってからやないと、さすがにあかんよな。
そうや、あのタクミはそれくらいあかんことをしたんや! ああっ、思いだして機嫌悪うなっとる場合ちゃう。あいつはいつか殴るとして、いまは目の前の伊織に集中せな。

「なんやもう告白とか、されとるんやって?」
「えっ……」

だーっと、伊織の顔が赤くなった。不自然に、口もとに拳を当てて息をのむように呼吸をしとる。図星やったんや……跡部の予想は大当たりやったっちゅうことや。
やって伊織、いまの仕草やってめっちゃかわいいもん。そんなん、好きって言いたなるわ。あわよくば付き合えたらって思うわ、男なら、誰でも思う。

「そ、なんで、そん……」
「せやから、小耳に」
「小耳……。あの、ひょっとして、跡部くん?」
「え、いや……あー」

そんなん、どうでもええやん、と言いたいとこやった。なんや、跡部に悪い気もするし。
けど、まあ自分が噂んなっとるって思ったら、気になるか。
濁そうとは思ったけど、俺は結局、ひとつだけ頷いた。伊織が、「う、やっぱり」と困った顔する。……も、狙ってんちゃうんその顔? 眉を八の字にして赤うなってからホンマ……もう、悪い子やあ。

「跡部くんって、すごい観察眼だよね。いつも何気なく、聞いてくるんだもん」
「え、なにを?」
「いまのは呼び出しか? とか。誰にも気づかれてないと思ってたら、跡部くんだけ、気づいてる」
「へえ……そうなんや?」

跡部……なんだかんだ言うて、めっちゃ伊織のこと見張ってくれとるやん。もうー、跡部え! 素直やないなあ! お前はホンマ、めっちゃ友だち思いよな! そういう跡部、俺、好きやで。あとでメッセージ送っといたろ。

「そんで? 告白、されたん?」跡部のことは、一旦、横に置いた。
「それは……いいやん、そんなの。侑士、プライバシーの侵害やよ?」

いたずらっこみたいな顔して、伊織はごまかした。
まあ、そうなんよ……とか答えてくるかと思っとったのに、意表をつかれた。
ちょお、待って。なんで、それをごまかすん。なんで教えてくれへんの? ええやろ、告白されたかされてないんかくらい、なんでそんな、もったいぶるんや。
せやけど、ここで否定せんちゅうのは、肯定やんな?

「……ふうん、されたんや。どんな男やったん? あ、何人もおるんやっけ」ちょっと嫌味っぽい言い方になってまう。
「もう、侑士、ええって」伊織が、照れくさそうに笑う。「ご飯、冷めんうちにはよ食べよ?」

その返答に、また、悶々とした。待って、なあ、それを俺に話したくない理由ってなに?
まさか、まさかやけど……もう誰かと付き合うことになったから? 付き合うことになったから!? ああ、動揺して心のなかやのに2回も言うてもうた!
伊織、お願いや……もうあんまり焦らさんといて。嫌な妄想ばっか膨らんでまうんやから、違うなら違うって言うて! なんで俺には話してくれへんの?

「……伊織、いっつもそうやな」
「え?」
「こないだの遠足のときやって、付き合ったことあるんかとか、ちっとも教えてくれへんかった」

――なーいしょ。侑士が教えてくれたら、教えてあげんこともないけどー。

はっとした。そうや、俺が教えへんから、教えてくれへんのか?
それやったら、俺がいままで何人に告白されたかとか、それを出したら教えてくれるっちゅうこと? 
せやけど付き合ったことないってバレたら、童貞ってバレる。あかん、それはめっちゃカッコ悪いし、跡部も言うとったけど、気持ち悪い。
けど伊織以外の女に触れたことがあるって思われるんも、なんか嫌やしっ。

「侑士だって、教えてくれんやろー?」

ああ、ほら! やっぱりそうや! 自分だけ手のうちさらすんが嫌なんや、伊織は。でもそれやったら、伊織に合わせた答えを出したほうが、絶対に俺も気持ち悪がられんよな。
く……やとしたら、伊織のが先に知りたいけど、前の感じからして、伊織から言うてくれる気はせん。
もし伊織が誰かと付き合ったことあるとしたら、俺もそういう感じやないと、気持ち悪がられる。せやけど俺から好きんなった女は伊織しかおらんって、アピールもしときたい。
告白された人数くらいやったら、別にええか? もし付き合ったことあるって話に転じても、俺からちゃうねん、告白されたからしゃあなしなって、言えるっちゃ言える。
あ、待って? 伊織がもし、誰とも付き合ってきたことなかったら? その時点で、アウトや。なんのアウトかわからんけど、フェアやない感じって、女の子、嫌いそうやし。
しかもホンマは全員、振ってきとるのに、しょうもない嘘でアウトは嫌や。……いやでも、童貞ってバレたない。それはそれで、気持ち悪い……ああ、どうしたらええんやっ。
でも、この調子やったらとにかく俺から言わんと言うてくれへんし、正直に言うたほうがええか。告白された人数くらいは、ええよな別に!

「告白ならまあ……中学んときからやったら、120回前後はされたんちゃうかな。伊織は?」

ん、スムーズに聞けた。たいした話ちゃうしなって感じで、おかず見ながら言うたし、ええ感じやろ。必死感もない。
全然、数えてもへんし、興味ないから覚えてないのも多いけど。1ヶ月に2回くらいのペースやったで。他校もあったし、何回もしてくるのもおった……たぶん、そんなもん。
ちゅうことで、俺は答えたで! 伊織は? と思ったものの、しばらく、なんも返事が戻ってこんかった。不思議に思っておかずからそっと目をあげると、伊織の目が、なんか知らんけど、しらっとしとった。

「え、なに……?」
「別に、なんでもない……。わたしは今日まで、200回くらいかなっ」
「ええっ! に、200回っ!?」跡部かお前はっ! すっご、うわあ、めっちゃモテるやん……転校しまくっとるくせに。逆に転校しまくっとるから? 「そ、すごいな、伊織……」
「いいえっ! それほどでもっ!」

これまた、なんや知らんけど、ツンとしとる。なんでや。
でも、そんなに告白されとるんやったら、絶対、ええ男おったやろし……やっぱり彼氏がおったこと、あるんちゃうやろか。
聞いてみる? 聞いてみよ。流れとしてはおかしない。覚悟はええな。ああ、遠足のデジャヴや、これ。

「それやったら、彼氏もおったやろね、いままで」

やって、200回も告白されて、誰とも付き合ったことないとかないやろ。
ああ……伊織は、俺以外の男と、キスとかしたことあるんやろか。あるわな、中学からやったら、絶対それくらいのこと、しとるよな……あああああああもう、最悪やっ!
想像してまうっ。伊織の、ぷるんぷるんの唇が、どこの馬の骨かもわからん男に奪われとったらって思ったら……もう!

「だから……それは内緒だってば」

この期に及んで、伊織はまた、内緒とか言うた。なんやもう、どうせおったくせに!

「……あのさ、なんで内緒なん? 別にええやん。俺ら、幼なじみやろ?」どさくさに紛れて、幼なじみの確認をとってみる。
「やって、侑士、教えてくれんやんっ」流すんかいっ。ちゅうか、なにさっきからムキんってんの? あれ? 俺がムキんなっとるから?
「俺いま、先に言うたやん。次は伊織の番やろ?」
「そ……女子にそういうの、プライバシーの侵害だよ」
「なんやそれ、なんかずるいやんっ。男かてプライバシーの侵害やろ? あ、ほな好きな人は?」
「……そ、それも、プライバシーの侵害やんっ」

え、なにその顔。めっちゃおります、みたいな顔すんのやめてや。
ままままま待って、顔、なんか赤なってきてんで伊織。ええ加減、この争いも不毛やし、ああ、もう言うたろか。「俺、好きな子おるよ。いま、目の前に」って……おお、まあまあカッコええんちゃうか?
豚汁すすりながら言うことちゃう気もするけど。せやけど、中間考査が終わったら告白しようっちゅうのは、前々から思っとったし……。
伊織がすでにどこの馬の骨かもわからんやつに身を委ねたことがあるんやったら、俺がすぐにでも消毒せなっ!

「……それも、俺が先に言わな、教えてくれへん?」
「え……」
「それやったら、言おか?」

どないしたんや俺も……なんやもう待ってられへんようになってる。伊織が200回もこれまで告白されたって聞いて、めっちゃ焦りがでてきとる。
2ヶ月前は彼氏なんかおらんって言うとったし、モタモタしとったらほかの男に取られるかもしれへんしっ。
言うぞ。もう我慢ならんっ。俺のことも、しっかり男として意識してもらわんと!

「俺、好きな子おるよ。い」
「忍足くんっ」

ぎょっとした。
いま、目の前に……って、言おうと思ったのに……。なんの遠慮もないタイミングと声で、その女は、俺のうしろ側から割り込んできた。
伊織がその声に気づいて、俺のうしろ側を見あげて頷くように会釈をする。聞いてません、ちゅう顔で、そっと俺から離れるように席を少しだけずらした。
どんなタイミングで邪魔してくれとんねん……と思ったら、めっちゃイライラしてきて、俺はじっとりと、その女に振り返った。

「忍足くん、あの……」
「なに?」

よう見たら、A組の女子やった。あー、なんか前に同じクラスんなって、学習グループの班になったことがある気がする。そうか、伊織、クラスメイトやから会釈したんやな。律儀でええこやなあ、伊織は。
で、お前はいったい、俺になんの用や? 俺は伊織と話してたんや。空気よめやっ!

「放課後、いいかな?」
「は? なにが?」つい、口調が強なった。
「あ、ごめんっ。あの、放課後、ちょっとでいいから、時間ちょうだい! 屋上で待ってる!」
「え、お、ちょお……なんや」

A組の女子は、そう言い残して走り去っていった。今日から部活再開やっちゅうのに、いきなり遅刻とかしたないねんけど俺……しかも、俺が伊織に思いきって告白しようとしたのに割り込んできやがって。どんな神経してんねんっ。

「はあ……面倒くさ……」

ちゅうか、タイムリーすぎるやろ。このパターン、また告白やんけ、面倒くさい。ええけど別に。それよりも、伊織との話、つづけたい。

「堪忍な伊織、話の途中……え?」

軽く謝りながら伊織に向き直った。向き直ったはええけど、俺はその瞬間、固まった。
伊織の顔が、なぜかさっきよりも、しらっとしとったからや。
え、なに……? 待って……なんで? なんかあったか?

「ちょ、なにその顔」
「侑士さあ……」
「え、なに?」

伊織の眉間に、シワが寄っとった。一気にフラッシュバックする。この顔は、あの練習試合のあと、俺を責めたときの、あの顔やった。

――侑士、なんか変わったよ。

あかんあかん、思いださせんでくれっ。もうちょっとトラウマやねんっ!

「女子には、優しくしなきゃダメだよ。うちのクラスメイトが言うてたの、ホンマなんやね?」
「え……」
「ほら、始業式んとき。言うてたやん、忍足くん、冷たいって」

――だっていつもぶすっとしてるから。
――こいつ、すっげー女に冷たいの。
――忍足くん話しかけるなオーラすごいよ?

「あれは……」やって、俺、伊織以外の女になんか、興味ないし……。
「さっきの人、侑士のこと、たぶん好きやん? 傷ついちゃうよ、ああいう態度、とられたら」

呆れたように、伊織はそう言った。
ちょっと、待って……。それ、どういう意味?

「せやけど」
「面倒くさって言ったやろ、いま。本人に聞こえてたら、泣いちゃうよ?」

待って、待ってくれ。
ほな俺が、好意よせとるってわかっとる女に、思わせぶりな態度とれっちゅうこと? 好きでもないのに? 優しくして、なんの意味があんねん。

「誤解させたら、余計に傷つけるやん」
「そうやけど……勇気だして言おうとしてくれるんやから。好きって言われて、侑士は迷惑なん? 嬉しいやろ?」

迷惑や。嬉しくなんかない。逆に伊織は、告白されたら、嬉しいってこと?

「……悪い気はそら、せえへんけど」
「そうやろ? いい人かもしれんのに、侑士がそんな感じやったら、せっかくのその人のええとこも見逃してしまうよ?」

なにそれ……? なんでそんなこと言うん?

「……どういうこと? ええとこ見たら、その子のこと、好きんなるかもってこと?」
「そ……それは、そういう可能性だって、あるかも、しれんから。わたし、自分がもし、あの立場になったらって思ったら……侑士のそういう態度、ちょっと、つらいなって思う」

……伊織は、俺が告白されるってわかっても、平気なんや? 俺が誰に告白されて、誰と付き合おうが、好きにせえってことか……?
俺はこんなに、伊織のことで頭がいっぱいやのに。伊織が目の前で誰かに呼び出されたらと思うだけで、たまらん気持ちになる。めっちゃ不安になる。でも、伊織は平気なんや……。
それがわかって、ものすごい卑屈な気分になってきた。ちょっと期待してしまったせいやとは思う。せやけどそんな、全然いいですよ、みたいな言い方されたら……ショックや。

「なんも、気にならんのやな……伊織は」また、口調が強くなった。あかんって。もう、跡部に言われたのに。
「え? 逆だよ、気になるよ。女子は傷つきやすいんだよ? 好きな人に冷たくされたら、悲しいよ」

そっちの気になるちゃうし!

「そんなん……男やって一緒やで?」伊織……俺、傷ついてる。なんか冷たいやん。ちょっとくらい、気にしてくれたってええやん。
「一緒やって言うけど……侑士、本当に好きな人に冷たくされたことある? モテモテやったから、そういうの、鈍感になってない?」

たしなめるような伊織の言葉に、俺はまためっちゃ傷ついた。

「あるわ!」
「えっ……ど、どしたん侑士、大きな声……」

ああ、やってもうたと思ったときにはもう遅い。
俺がさっきの女に冷たかったやなんてわかっとる。やって、俺は意図的にそうしたんやっ。
ほかの女にどう思われようが関係ない、思わせぶりなこともしたない、俺は伊織が好きやから、伊織以外の女に興味ないってわかってほしかったし、伊織の目の前で、伊織以外の女に気を持たせるようなこと、したなかっただけやのに!

「伊織は、誰にでも優しいもんな」
「侑士……」
「タクミさんにも優しいし、告白してきた男にも優しくしてきたんやろっ、どうせ」
「ちょ、侑士、なんで怒って……!」
「もう、なんもないっ。俺のことなんかほっといてええよ。俺が誰に告白されようが、伊織には関係ないやろっ」
「あっ、侑士!」

席を立った。まだ半分以上残っとったランチを返却口に戻して、俺はその場から、逃げるように立ち去った。
もう、嫌や……大好きやのに。俺はめっちゃ伊織のこと好きやのに……全然、素直になれへん。





もう、完全に嫌われてしもうた気がする。
伊織の言いぶんが、わからへんわけやない……けど、伊織は俺が誰とどうなろうが関係ないんやって思ったら、つらくてしゃあなかった。
ようこんなブレブレな気持ちで、一旦告白中止して、それを見守る優しい男に……とか考えたな俺も……全然、できる気しやん。みんないままで、失恋ってどうしとったん?
こんなん乗り越えるとか、悟りの境地やろ。すごすぎるわ。

「あ、忍足くん……ごめんね、呼び出して」
「いや……ええよ」

それでも、伊織に言われたことは胸に残っとった。好きな人に冷たくされたら傷つく……それはそうや。俺かてこんなに傷ついとる。目の前の女子も同じ人間なんやから、傷つけたよな、さっき……。そう思ったら、俺は伊織に言われたとおり、なるべく、優しく努めなあかんと思った。
いままでは「俺、そんな気ないわ。ほなね」とすぐに済ませて帰っとったこの告白タイムも、もう少し、やりようがあるかもしれへん。とはいえ、思わせぶりなこともしたないけど……。

「あたしね、あの、同じクラスになったことあるの、覚えてる?」
「……ん。覚えとる」
「そ、そのころから、ずっと、忍足くんのこと、好きで……だからあの、付き合ってください!」

好きになられるようなこと、した覚えがない。なにがきっかけで俺のこと好きになったんか、全然わからへんけど……好きって気持ちは、理由なんかないもんな。
俺かて、伊織がめっちゃ俺に優しくしてくれて好きんなったけど……あれが伊織やなくても好きんなっとったかって言われたら、それは違うと思う。
これまで俺に優しくしてくれた女はめっちゃおった。でもどれも、伊織への恋心みたいに、ドキドキはせんかった。

「嬉しいんやけどさ、堪忍」

そう言うと、A組の女子は、えへら、と笑った。振られたのに笑ってられんのも、すごいなと思ってしまう。

「……だ、だよね」

わかりきっとった答えやったんやろうか。それやのに言うてきたことも、ちょっと、尊敬する。

「俺、ほかに好きな子おって」
「そ、そっか」
「ん」

変な沈黙がつづいた。俺から去っていくんは、なんや卑怯な気もして、しばらく待ってみる。立ち去る気、ないんやろか。
A組の女子は、ハンカチを取りだして、すんすんと泣きはじめた。
ああ……これやから嫌なんや。泣かんでくれ、頼むから……罪悪感はないけど、引くねん。

「あ……でも」
「え?」
「忍足くん……その理由、はじめてだよね?」

急になにを言いだしたんかと思って聞き返したら、彼女は目を潤ませながら、俺に顔をあげた。

「え、なんで……」なんでそんなこと、知ってんの?
「うん……忍足くんが女の子を振るときは、いつも、そんな気ないって言われるって……噂、だったから」
「ああ……そうなんや」噂ってすごいな。どうやったらそんな噂、流れるんやろ。
「うん。だから……好きな子がいるって振られるの、あたしが、はじめてなんじゃないかなって」

また、えへらっと、彼女は笑った。
正直、それは当たっとる……。いままでもずっと好きやったけど、伊織は目の前にはおらへんかったから。
けどいまは、会おうと思えばすぐに会える。すぐそこに、伊織がおる。断る理由なんか、いまの俺にはひとつしかない。伊織が好きやから。ほかの子なんか、目に入らん。

「もしかして、なんだけど……」
「なに?」
「本当は、ずっとその子のこと、好きだったりした?」

確信を得たんか、その目は強かった。A組におるんやったら、俺が伊織と昔は同じ学校やったこと、知っとるやろう。
今日もランチのときにわざわざ言いに来たのは、俺と伊織がどんな雰囲気なんか、探るためやったんかもしれん。せやからなんとなく、気づいてたんかな、この子。

「……ん。俺、昔からその子のことしか、頭にない」
「そっか……そうなんだね。あははっ。うらやましい」目尻に浮かんだ涙を、笑いながらぬぐった。
「その……ごめんな?」
「ううん、ちゃんと言ってくれて、ありがとう。もちろん、口外したり、しないから! またね!」

ぼたぼたっと涙を落として、A組の女子は去っていった。
結果的にはもちろん、振ったことで傷つけたけど……いつもより数倍、優しくできたと思う。
伊織、これでよかった……? 俺、伊織に嫌われたない。
言葉にすると、もっと沁みわたってくる。俺、昔から伊織のことしか、ホンマに頭にない。
ずっとずっと、伊織は、俺のなかで、好きで、好きで、大好きでたまらん、たったひとりの女や。
考えとったら、また後悔が襲ってきた。
昼……めっちゃやらかしてしもうた。もうあそこまで言うたんや、告白しよう。伊織やって、薄々気づいたやろ。
おもむろに、ポケットのなかからスマホを取りだした。こんなこと何回くり返すねん俺……もうこれきりにせんと。謝らな。

『伊織、昼のこと、ちょっと話したい。どこにおる?』
『テニスコートにおるよ』





ジャージに着替えてテニスコートに向かうと、ギャラリーが集ういつもの位置に、伊織がおった。
何人もおるのに、やっぱり伊織だけが輝いて見える。俺はまた、一目散に伊織に駆け寄った。

「伊織っ」
「あ、侑士。え、練習あるんやろ?」

なんでこっちに来てんねん、と言いたいんやろう。せやけど部活より先に、俺は伊織に言いたいことがあんねん。

「ん。けど、ちょっとな」
「そうなん? あ、告白……されたから?」
「え?」
「……ひょっとして、付き合うんことん、なった……?」

上目遣いで、そう聞いてきた。その顔がめちゃめちゃかわいくて、なんのスイッチも入れてなかった俺は、ぽーっと自分の熱があがっていくのがわかった。
付き合うことになってるわけないやろ……俺は、伊織のことが、好きなんやで? 伊織……なんでそんな不安そうな顔、しとるん?

「侑士……なんでそんな顔してんの?」
「え? え、どんな顔?」
「すごく……嬉しそうな、顔……」

やって、嬉しいやろ。なんやかんや言うて、伊織、気になってるやん、俺が告白されて、なんて答えたか。あれ? それ脈アリ? それとも友だちとして聞いてんの?
ああもうそんなん、どっちでもええ。気にしてくれとる、それだけで、ちょっとは脈あるやろっ。それで俺のこと、意識するようになってくれたら、もう、いまんとこはそれだけでもええ。
待って、待って、ちゃんと言うから。ああでも、ここで言うのはちょっとちゃうか。このまま絶対、告白することんなるし、場所を変えたほうが……。

「伊織、あのな」
「おやー? 忍足くん、またサボってるのかい?」
「えっ」

また、やった。
いつも伊織と俺が話しとるタイミングで、このおっさんはやってくる。
ちゅうか、今日はなんでどいつもこいつも、伊織と俺の時間を絶妙に邪魔しようとするんや!
おい月間プロテニス! 社員の教育どうなっとんねん! 苦情の電話、三日三晩かけつづけたろか!

「井上さん、すんません、ちょっとあとでも……」
「あれ? 君は……あっ、ちょっとねえ君!」
「え、え?」

井上さんは、俺の背後から来とった。やで、俺はぐるっと井上さんに振り返っとった。そんで伊織に向き直ったときやった。
伊織の姿が、こつ然と消えとった。

「伊織?」

そういや……前も、こんな感じで、伊織が急におらんこうなった気がする。せやけど今日は、はっきりと幻やないとわかった。伊織の走り去っていく姿が、あの日よりもギャラリーが少ないおかげで見えとったし、井上さんも、今回ばっかりは伊織に気づいとったからや。

「なんで……伊織」
「僕に、会いたくなかったのかな」
「は……? いや、ちゅうか、井上さん、さっきなんて言いました?」
「会いたくなかった」
「その前」
「ねえ君!」
「もっと前」
「忍足くん、またサボって」
「ああ! 肝心なとこ飛ばさんといてや! 『あれ? 君は』って言うたでしょ?」
「ああ、うん、言ったね」
「なんで? 伊織のこと、知ってるんですか?」

ん? と、井上さんはきょとんとした顔で俺を見つめる。いやいや、おっさんにそんな顔されても、かわいいとか思わへんで、こっちは。

「知ってるよ。整った顔立ちだもんね、彼女。綺麗な子だなあって。よく覚えてるよ、すっかり大人っぽくなった」
「はい……?」

途中までは、よかった。整った顔やし、美人や。
せやけど、「よく覚えてるよ」って、なに? 伊織がここに転校してから、井上さんの訪問は今日で2回目や。しかも前のときは、伊織の姿を見てないよな?

「あの、覚えてるとか、大人っぽいとか、なんですの?」
「え? ああ、忍足くんは試合してるから気づいてなかったのかな? 彼女、ずっと氷帝学園の試合を観にきてるよ」
「へ?」
「キャップを深めにかぶってね。それでもあの美貌だから、ちょこちょこ噂になってたんだ。きっと相当な氷帝学園テニス部のファンなんだろうってね。でも跡部くんのファンクラブの子たちとも距離を置いているし、学園の生徒でもない。それでも氷帝学園の公式試合になると必ず見かけるから、ちょっとからかう気持ちで、誰か目当てがいるの? って、聞いたことがあるんだよ」

ベラベラしゃべる井上さんの言葉に、頭のなかから一瞬、脳みそが抜け落ちた気がした。
ずっと、公式試合で見かけとったやと? それやったら、転校前に、伊織は俺の試合を見とったってこと? なんで、なんで声をかけてくれへんかったん?
え、待って? せやけどなんで、試合をずっと……え、待って? ずっと……?
ぼんやりとした思考が、だんだんクリアになっていく。
俺、なんかすごい重大なこと、聞いとるよな、これ……。

「井上さんっ!」
「えっ、なんだいっ!」

頭のなかにピカーンと光った考えが止まらんくなって、俺は井上さんの肩を両手でぐっとつかんだ。
めっちゃ重要参考人な気がするで、このおっさん!

「ちょ、忍足くん痛いっ」我慢せえ!
「それいつから!? あの子、いつから試合を観に来とったんですか!」
「え、ええっと……僕が認識しているのは、たしか5年前の都大会からかな。忍足くん、痛い」我慢せえって! 
「5年前……って、俺が中1んとき!?」
「そう、そうだね……忍足くん……痛い」やかましい! そんな肝心なこと、いまさら言いやがって!
「誰が目当てやったんです!? 聞いたんでしょ!?」
「いや、それが……聞けなかったよ、いつもそそくさと帰っていっちゃうんだ」
「こ……もう、ええわ!」

役立たずが! って、言うてしまう手前で、俺はなんとか理性を取り戻した。
めっちゃ心臓が音を立てる。いやもう、全身が音を立てまくっとった。
俺はコートを飛び出して、伊織が駆けった方向に走った。
伊織……どこにおるん?
俺の予想が正しかったから、俺らずっと、同じ気持ちやったんちゃうの?
それやのに俺は……しょうもないことばっかり気にして……もう、アホか!

「おい忍足! どこに行く!」
「跡部堪忍! もうお前にキレられんの、これで最後になるかもしれへんチャンスなんや!」
「な……そんなことありえるわけねえだろ!」

せやけどお前の心配ごと、ひとつは消せるかもしれんやん!
俺は全速力で走って、走って、走って。
やっと伊織を見つけたとき、俺は「伊織!」って叫ぼうかと思ったんやけど……。
伊織はなぜか、3人の大学生に、囲まれとった。





to be continued...

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