ビューティフル_10


10.


跡部と体を密着させることになるとは思っていなくて、はずかしいほどに硬直してしまった。
オーディションが受かった直後だったから、わたしとシゲルさんは完全に舞い上がっていた。でも、ひょっとして、跡部も舞い上がっていたのかもしれない。

「いよいよだな、伊織。よくやった」

優しい声だった。そして、優しいハグだった。「サンキュ!」と軽く言って済ませればよかったのに、その体からただよってきた跡部の香りに、思考停止になってしまったのだ。
しかも、しかも、である。

――もうアタシは降りるわよ! だからアンタたち、これ以上は面倒見ないんだからね! 自分たちでなんとかしなさいよ!

シゲルさんのそのひと声で、わたしも、跡部もきっと、お互いの気持ちに気づいてしまった。あの、跡部の慌てようったら、なくって……。
シゲルさんは跡部にも、わたしにしたような話をしていたに違いない。だからあの発言につながっている。てことは、跡部も認めたってことだ。そんな簡単なこと、跡部にだってわからないはずがない。ああ、全部シゲルさんの言うとおりだったんだ、と思うと、嬉しい反面、ものすごく胸が苦しくなった。
だって跡部は、わたしだけの跡部になりようがないから……。とてつもなく、切ない。

「送るから、車に乗れ」
「……そ、でも」
「乗れと言っている」
「は……はい」

結局、あの日も跡部に送ってもらった。これ以上、好きになりたくないから勘弁してほしいのに、跡部は送るといってきかなかった。なのに一切、わたしの目も見ないで。それが逆に、胸の高揚を上昇させていることにも気づいてないんだ、あの人。
沈黙も気まずいし、目を見るのだって気まずい。だからわたしは、ここぞとばかりに聞きたいことを聞くことにした。

「ねえ、跡部さ」
「……なんだ?」その間、やめてほしい。
「野瀬島って人、なんなの? 父のことと、なにか関係あるの?」

ふうっと、彼はため息をついた。

「その名前を口にするなと言ったはずだろうが」
「ほかではって、言ったじゃん……」跡部には、いいじゃん。
「わかったことがあれば、お前に話すとも言ったはずだ」
「じゃあ、なにも知らないの? なのにわたしに、危険な目に遭うからどうとか、なんか、変じゃない?」
「焦んな。まだ話せる段階じゃねえんだよ」

野瀬島の件を振ったのは、少なからず正解だった。気まずさをどうにかしたかっただけだが、跡部もわたしも、調子を取り戻したからだ。

「ふうん。そう」でも、はぐらかされていい気分ではなかった。
「お前は余計なこと考えてねえで、舞台のことだけ考えてろ」

余計なこと考えるな、も、跡部の優しさなんだとわかる。
だけど、どれだけ好きでも、これ以上はダメなことだって、わかってる。

「……わかったよ。でもこれで、跡部も肩の荷が降りたね」
「アーン? 本番はこれからだろ」
「わたしはね。跡部はもう、シゲルさんのところに通わなくてよくなったじゃん。忙しいのに、大変だったでしょ?」

個人的には、跡部と頻繁に会えなくなるのは、正直、寂しかった。それでも頻繁に会わなくなれば……そして時間が経てば、跡部のことを忘れられるかもしれないと、おかしな期待もあった。
わたしのその問いかけに、跡部はなぜか沈黙した。そのままなにもしゃべらなくなったので、後半は黙ったまま、わたしは窓の外を見るしかなかった。
やがて、そこから10分しないうちに、わたしの自宅前についた。跡部が車を停める。前はこの車のなかで蚊と奮闘したんだっけ。
思いだし笑いしそうになりながら、ドアノブに手をかける。この車に乗ることも滅多になくなるかもしれないと思うと、名残惜しい気もした。

「ありがと! それじゃ、帰るね」
「なあ、伊織」
「ん?」

ドアが半分開けられた状態で、跡部がわたしを呼び止める。体を半分外に向けて、半分は跡部に向き直ると、彼はまっすぐ前を見たまま、言った。

「お前の必死な姿を見るのは、俺の癒やしだったぜ?」
「え……」
「つまり、気にするなってことだ」

ぽん、と頭に手を置かれた。最後に一瞬だけ、跡部は、わたしを見つめた。
その手はすぐに離されたけど、お互いがすれすれのところで想いを確認してるみたいで……。
泣きそうになりながら、わたしは自宅に帰った。





オーディション合格の電話を受けてから2日後の、月曜日のことだった。
シゲルさんのレッスンもないので、この週末は久々に土日連続でだらだらと過ごした。母に「いい加減にしなさい」と怒られて、それでもだらだらとして、ついに今日も夜になっている。

「もう、いつまでだらだらしてるつもりなの、伊織……」
「うーん、動きたい、とは思ってるんだけどねえ」
「そうは見えません。まあ、浮かれちゃうのもわかるけどね。本当によかったね」
「ふふ、うん!」

なんだかんだと、今回のことには、母もとっても喜んでくれていた。
あの日は家に帰ってから、母がたくさんごちそうをつくって、女二人でたくさんお酒を飲んだ。
父さんの仏壇にも、お酒を供えた。母と並んで手を合わせて、「やったよ父さん」とだけ、声をかけた、心あたたまる夜だった。

「だからって、そんなにだらけてたら立派な女優になれないよ! 部屋の掃除くらいしたら?」

その提案に、ぐるっと自分の部屋を見渡してみる。
たしかに、ちょっと乱雑になってきているかな。部屋は精神状態が表れると聞くけど、そのとおりかもしれない。このところのわたしのメンタルはあがったりさがったりと大忙しだ。跡部のことであがって、跡部のことでさがって、オーディションのことであがって、また跡部のことでさがって……いつまでこんなことをくり返すんだろうか。

「だね……やるかー!」
「あら、いい返事。しっかりね」

メンタルが安定していないと、いくら部屋の片づけをしてもすぐに部屋は乱雑になるらしいのだけど、部屋の片づけをすることで、少しはメンタルが安定するという逆説を信じてみたくなった。
とりあえず、そのへんに放置されているDVDから片付けよう、と重たい腰をあげる。
そういえば、跡部の部屋は綺麗だったな……。彼はメンタルが安定している、ということなんだろうか。
わたしがもし跡部と暮らしたら、毎日「片づけろ」と、まるで子どもに言うように怒られるかもしれない、なんて考えてから、また落ち込んだ。そんな日は、一生、来ないからだ。
気を取り直して襖をあけた。ごちゃごちゃとした小物を入れるためのカゴの横に、DVDを並べていく。並べ終わってから、そっと小物入れのカゴの上にかけてある布をめくると、部屋よりもひどいことになっていた。綿棒に葛根湯、宿泊用の基礎化粧品類に折りたたみ傘など。まったく統一性もない上に、さまざまな小物がゴミ箱よろしく押し込められている。なぜ最初は綺麗に並べていたはずなのにこんなことになるのか、これが精神状態の表れということなのか。妙に納得してしまう自分がおかしかった。
次はここだな、と思い小物入れにある小物をすべて出していると、途中でわたしの手が、ピタリと止まった。父の形見が出てきたからだ。

「母さ―ん!」
「はーい? なにー?」

わたしが受け取った父の形見は、父が亡くなる直前まで使用していたスマホだ。10年前のものなので、型は古い。

「ねえ、このタイプの充電器って、まだある?」
「あら……それ、父さんの?」
「うん。なんか、探してるけど充電器が見つからない」
「挿すところが、いまのとちょっと違うもんねえ」

そうなのだ。10年のあいだに、スマホは急速に進化した。そのたびについていけなくなる多くの消費者を置いてけぼりにして、価格もどんどんと高騰していったような気もする。

「まあー、分厚い。いまと違って画面にボタンもたくさんあるね」
「ね。んー、なんかこの端子どっかにあった気がするんだよなあ」
「母さん取ってると思う。ちょっと待ってて、探してくるから」

まもなくして、母は10年前の充電器を持ってきた。部屋が綺麗な人は、どこになにを置いているかもすぐにわかる。素晴らしい。

「つくかなあ」
「急に見たくなったの?」

充電器を挿し込んでしばらくすると、充電マークが液晶に表示された。これは期待できる。

「うん……もう時間も経ったし、いろんな誤解も解消したからさ」
「誤解?」

そういえば、いまだに母とは跡部の話をしていない。どうして母はなにも言わないんだろうと思っていたから、こちらから聞けばよかったのだけど、このところ、跡部のことを口に出すのも苦しくなっている自分がいる。
跡部……いま、なにしてるんだろう。なんて、まるでティーンエイジャーだ。

「うんまあ、それはいいや」
「なに、ヘンな子ね」

ぶんぶんと頭を振った。充電が一定たまるのを待ちつつ、部屋の片づけを再開した。
部屋に誰かを呼んでもはずかしくない程度に片づけが完了するころには、父のスマホの充電も、3割くらいは終わっていた。
ピ、と電源をつける。母が教えてくれた父のパスワードは、わたしの誕生日4桁だった。当時はそれを聞いただけで涙があふれでて、画面をまともに見ることができなかったんだ。
少しだけ父が撮りためていた写真を見たけれど、嗚咽がひどくなる一方で、結局あれから、一度も開いていない。
いまなら少し涙ぐむ程度でなんとかなるだろうと、そっと、写真のフォルダを開いた。よく見ると、父は建設現場の写真をよく撮っていた。現場監督だったから、当然かもしれない。そこから50枚くらいスワイプしたときだった。わたしは、はっとして手を止めた。

「……跡部」
「どう? なにかいい写真あった?」
「え、いや、別に!」

ちょこちょこ様子を見にくる母に声をかけられて、あわてて写真を閉じてしまう。母がまたリビングに戻っていくのを見計らってから、わたしはもう一度、その写真を探した。
それは間違いなく、10年前の跡部だった。
父と並んで、お互いが笑顔で写っている。ああ、と、自分の愚かさに呆れそうになった。当時もこの写真を見たのだろうか。それとも、この人が跡部景吾だと気づかなかったからなのか。
最初からこの写真を見ていれば、わたしが長いあいだ跡部を恨むことなんてなかったのに。
そう思うほど、父と跡部は、お互いを信頼しあっているような、素敵な笑顔だった。
というか……10年前も、跡部ってものすごくカッコいい。いまは黒髪だけど、このころは明るめの茶髪だ。うわあ、そういうのも似合うんだ! と思うと、写真だというのに胸がトクトクと音を立てはじめる。
だって、やんちゃなのもカッコいいとか、ずるい。いまの、キリッとした黒髪の大人感もすごくいいけど……。やってくれないかな、また、この色。いや、一流企業の役員がそれは無理か。
そういえば、いつだったかテレビでチラッと見たときはシルバーだった気がする。「跡部景吾」と字幕が出てわかった瞬間にチャンネルを変えたから、顔も把握しないままだった。ああ、ちゃんと見ておけばよかった……当時、「ハゲろ!」ってテレビに向かって叫んだ自分が情けない。
その画面を5分くらい見つづけて、十分にうっとりとしながら、わたしはまたスワイプをくり返して写真を見つづけた。父が撮影している現場写真は、驚くほどに多かった。そのなかからもう1枚くらい跡部が出てきてくれたら、データを取りだして自分のスマホに転送してしまおうかなと、よこしまな気持ちがわきあがる。というか、さっきのアレは、もう絶対になんとかして転送してやろうと心に誓った。跡部を忘れたいといいながら、矛盾していた。

「伊織、なにニヤニヤしてんの?」
「ひゃあ! も、母さんいきなり声かけないでよ!」
「なにそんなびっくりして……まったく、ヘンな子」

跡部を探すのに没頭していたせいで、さっきよりも数倍びっくりしてしまった。そのせいで、変なボタンを押してしまったのだろう。スマホから、ジー……という音が聞こえだす。
ヤバい、壊したかなと思ったときだった。ごく小さな音量で、なにかが聞こえてきた。
これは……いわゆるボイスメモとかいうものだろうかと判断する。まったく聞こえなかったので、音量をあげたとき、わたしはその会話の内容に、得体の知れない恐怖感を覚えた。
ゾッとして、液晶画面に表示されている録音を見て停止を押す。そのタイトルは『録音4』だった。念のため、一覧のなかにある『録音1』を再生すると、それには母の声が入っていた。

「なにをしゃべったらいいの」
「なんでもいいよ。これで録れるのか知りたいだけだから」
「じゃあもういいでしょ。なんだかはずかしいじゃない」
「はいはい」

録音時間はわずか12秒。父と母の会話。たぶん、テスト的なものだったんだろう。ほほえましい気持ちになりつつ、つづけて『録音2』を再生した。すると今度は、会議の打ち合わせのような会話が入っていた。

「ここに設置する予定のシャワールームの大きさを、変えようと思っています」
「ちょっと佐久間さん、正気ですか? いまそんな段階じゃないでしょう!」
「いえ、しかしこれは必要なことです」
「また跡部ぼっちゃんですか!」
「跡部さんの意見だけではありません。私としても、ここはゆずれないんです、お願いします!」
「アンタは、あの坊やの奴隷かなにかか! 金でも受け取ったか!?」
「跡部さんを侮辱しないでいただきたい!」

そのあたりまで聞いて、停止ボタンを押した。序盤で切ったが、録音自体は50分にもわたるものだった。
ぎゅっと、胸が痛くなる。父は会議で、毎日こんなふうに言い争いをしていたのだろうか。跡部の要求をいやいやのみつつ、各方面に頭をさげていたと、野瀬島という人物は言っていた。
でも実際は、跡部と一緒になっていいものをつくりあげようとしていたのかもしれないと思うと、父の無念も、跡部の気持ちも一緒になって、わたしの心に翳りを落としていく。
そんなことをいまさら思う自分には、うんざりした。
気を取り直して、『録音3』を再生した。そこには、わたしの歌声が入っていた。表示をよく見ると、10年前の大学の学園祭の日だった。つまり、父が亡くなる前日だ。
まだ未熟な自分の歌声を聴いても仕方がないので、わたしはすぐに停止ボタンを押しながら一覧に戻り、『録音4』の日時を見た。父の命日だ。父はこの日の朝に遺体で見つかった。時刻は24時47分になっている。
ここに、なにが残っているというのだろう。録音時間は1時間2分だった。震える手で、わたしは再生ボタンを押した。
ジー……と、また、あの音がする。ガサゴソと、服にこすれるような雑音も入っていた。

「こんなところに顔を出していいのかよ」
「お前が呼んだんだろう」

ガタ、ガタ、と、椅子の引かれるような音がした。声が遠く、聞き取りにくい。音量を最大にしても小さかった。

「呼んであっさり来るとは思ってなかったよ、親父」
「何度も言わせるな……お前を息子だと認めたことはない」

誰と誰の声なのかも、まったくわからない。

「だったねえ。だから俺はいまでもこのとおり、この世に存在しない人間だよ」

さっき聞いたのは、このあたりだった。「この世に存在しない人間だよ」という言葉に気味悪さを覚えたのだ。話している雰囲気からして、演技じゃないのもあきらかだった。これは実際に誰かと誰かがしゃべっているリアルな会話だ。

「……お前、誰のおかげで生きていれると思ってる」
「その恩なら返してやってるだろ。裏社会で俺がどんな目に遭ってるか、わかんないだろうけどなあ、アンタには。あげく、こんなゴミ溜めみたいなところで働かせやがって」

とても険悪な雰囲気だ。しかも、ただごとじゃない内容なのは聞いていてわかる。
そして、ここに父は出てくる気配がない。この言い分を、父がここにいて、黙って聞いているはずもなかった。
父が命を注いだ場所をゴミ溜めとは、言ってくれるじゃないか。
ということは、だ。……盗聴、だったのだろうか。父がそんな法外なことをするというのは、驚きだった。でも、余程の事情があったとしたら……?

「うまくやってるんだろうな。進捗を聞かせろ」
「どこにあるかわかんねえんだよ、だからアンタに来てもらった」
「なんだと?」
「現場監督の佐久間が邪魔だ。書類のある棚に鍵が」

そこまで聞いたときだった。

「伊織!」

母が、リビングから悲鳴のような声で、わたしを呼んだ。驚きのあまり、すぐに停止ボタンを押す。振り返るのと同時に、母はもう一度、わたしの名前を叫んだ。

「伊織!」
「な、なにっ!? どうしたの!?」

父のスマホをさっと小物入れに戻して、わたしは慌てて母のいるリビングに駆け寄った。
母が驚愕の顔でテレビを見つめている。視線を送ると、そこには信じられない光景が映っていた。

「これ……これ、伊織でしょう!?」

跡部と一緒に連弾した、SNSで少しだけバズッている、あの動画だった。
ナレーションの声が、『この女性に、3億もの現金を支払ったという』と流れている。
3億もの現金……? もちろん、覚えていた。でもあのことが、どうして世間に流れているのだ。

「ちょっと……なにこれ」あまりのことに、頭の理解と状況が追いつかない。
「どういうこと、ねえ、伊織!」
「待って母さん、ちょっと待って!」

テレビのリモコンを取って、音量をあげた。めまいがするような不穏な放送に、全身の血の気が引いていくのがわかる。
映像はそこで終わり、番組はスタジオに切り替えられていた。おなじみの司会者と、おなじみの文化人が並んで立ち、会話をはじめた。

『はい、ということで、跡部財閥の御曹司である元テニスプレイヤーの跡部景吾氏が、過労死で亡くなった被害者遺族への慰謝料として、先程の映像の女性に、個人的に3億円も支払っていた、ということなんですが……どうでしょうかね、このニュース』
『まあ……これはダメだよねえ。このお姉ちゃんは、跡部景吾って人の彼女? なの?』
『映像を見る限り親しそうには見えますが、明日発売の週刊誌の記事では、恋人ではない、とされているようですが』
『じゃあ愛人かな? この人、独身?』
『跡部景吾氏は、独身のようです。女性のほうも、独身、ということですね』
『ふうん……まあ恋人でも、過労死の遺族に慰謝料を3億もあげちゃあね。ほかの過労死遺族が黙ってないよね。跡部財閥なんて裁判しまくってるでしょ』
『そうですね……えー、これまでいくつか、跡部財閥のグループ会社では過労死による裁判があったようですが、すべて原告側が敗訴している、ということで……。彼女の場合は父親が10年前に過労死で亡くなっていると。現在は母親と二人暮らしだそうです。裁判もしていない状況ですね。まあ、恋人でもポン、と3億出すということはないとは思いますが』
『ないよね。でもオレたちの想像をはるかに超えた金持ちだから、ありえないことじゃないかもしれないけどね』
『いやあ、しかし3億は……まるで宝くじですよ』
『もらっちゃったらさあ、慰謝料じゃなくても、このお姉ちゃん、贈与税も払わなくちゃなんないよ。大変だよ。でも、お母さんはウハウハだろうな。オイラにもくれねえかな』
『どうでしょうかね……えーさらに記事には、通帳のコピーまで掲載されていると。メッセージつきで、そこには「慰謝料として」とカナで書かれてあるそうです』
『バカだねえー、この跡部景吾って人も。ご丁寧だね!』
『はい、世間でもかなり騒がれています。街の声、聞いてきました』

愕然とした。たしかに、わたしは跡部に3億を振り込まれたことがある。でもそれはすぐに……1週間後とはいえ、返金したものだし、あのときの通帳にそんなメッセージは記載されていなかった。
というか……メッセージが記載されているのなら、その通帳はわたしの通帳じゃないか。なんでそのコピーが、週刊誌に記載されるんだ。

『まあ正直、うらやましいですけど。あはははははっ』
『お金持ちっていいわねって気がしますけど、ほかの過労死遺族の方、気の毒ですよね』

街の声に耳を傾けつつ、わたしは自分の部屋のバッグをまさぐった。通帳を開く。3億円の入金はたしかにあった。でも、やっぱりそんなメッセージは、どこにもない。

「伊織! ねえ、本当なの!?」
「違うの母さん。あれは、ちょっと事情があって……でも見て! そんなメッセージ、どこにもないし、1円も使わずに返金してるでしょ!?」
「なんで、どんな事情があったっていうの?」
「それは……わたしが跡部を恨んでたから、跡部が……」ああ、もういい、そんな話っ。「ごめん、今度詳しく話すから。でもなんで? 跡部とわたししか知らないはずなのに……」

そこまで考えて、はっとする。跡部と3億のやりとりをしたとき、あの部屋には、千夏さんがいたのを思いだしたからだ。

「……まさか」そんなこと、するだろうか。
「伊織?」
「ごめん、跡部に電話しなきゃ」

だが、つながらなかった。跡部はもう、このことを知っているはずだ。わたしに電話をかけてきそうなもんだけど、それはしなかったということは、跡部なりの配慮があるんだろうか。
そのとき、わたしの手のなかのスマホが震えだした。見ると、シゲルさんからの連絡だった。

「もしもし」
「オテンバ! 大丈夫なの!?」
「シゲルさん……」

それだけで、泣きそうになってしまう。

「お母さんを安全なところに移動させて、いますぐこっち来なさい! すぐにマスコミに追い回されるわっ!」
「え……」
「早くしなさいっ! タクシーに乗ったら、いくつかタクシーを乗り継いでアンタはこのスタジオまで来るの! お金はアタシが払ってあげるから! わかった!?」
「わ、わかりました!」

シゲルさんの剣幕にすぐに電話を切って、母に事情を説明して泊まりの支度をさせた。動揺している母が、それでもなんとか落ち着こうとテキパキと動きはじめる。

「お母さん、おじいちゃんの家で大丈夫だよね? なにかあったら逃げて」
「たぶん、大丈夫……伊織、アンタどうするの?」
「レッスンスタジオの先生が、しばらくかくまってくれると思う。マスコミはわたしのところにしか来ないと思うけど……とにかく、落ち着いたら連絡して」
「わかった……」

外に出ると、すでに近くでマスコミが待機していた。
一斉にカメラを向けてわたしに向かってくる。なんなんだ、こいつらは。まるでゾンビ映画じゃないか!

「佐久間伊織さんですよね!?」
「やめてください、とおしてください」
「あなたお母様ですか!? 3億、使っちゃいました!?」
「母に話しかけないで! 母さん、こっち!」
「佐久間さん! 3億、使ったんですか!? ほかの被害者遺族の方になにか言うことは!?」
「使っているわけないでしょう!」
「では、その3億はいまどこにあるんです!? 入金は事実なんですよね!?」

答えるべきじゃなかったと、すぐに反省する。話せば会話がつづいていってしまうのだ。そんなことにも頭が回らないくらい、わたしも動揺していた。
大通りに出て、タクシーを停める。幸いなことに、すぐに1台停まってくれた。

「佐久間さん、跡部景吾さんとはどんなご関係ですか!?」
「行こう、母さんっ」
「うん」

マスコミの質問はすべて無視して、わたしと母は、タクシーに乗り込んだ。





「どうなってんのよ!」
「どうなってんでしょうか……」

あのあと、母を東京駅まで送り、わたしは違うタクシーに乗り込んだ。まだ尾けられているかもしれないと思うと怖くて、シゲルさんのレッスンスタジオに到着するまで、2台のタクシーを乗り換えた。22時を過ぎていたので、料金も割増だ。シゲルさんには、言われるまで黙っておこう。そこまでお世話になるのも気が引ける。
ようやくレッスンスタジオに着いたころには、23時を回っていた。シゲルさんが、今日も怒っている。いや、今日こそか。

「それで、3億は1円も使ってないし1週間後には返してるってのに、なんでそれがこんな大騒ぎになるわけ!」
「……バレたからです」
「バレたからって1円も使ってないんでしょうよっ!」
「使ってないですよ……だけど支払った事実があれば十分なんじゃないですか? マスコミ的には」
「あげく通帳が捏造されてると思うですって? アンタ、心当たりないの!?」
「ん……」

千夏さんの顔が、また浮かぶ。しかし彼女に通帳を捏造することなどできるだろうか。できたところで、……ちょっと違和感は残る。
でもまあ、シゲルさんには話しておくか、と思った。あの場には跡部とわたしと千夏さんしかいなかった。十分、それだけで千夏さんは怪しまれる対象ではある。

「交渉の場に、千夏さ……」
「ほら見なさい! 絶対にあの女よ! 言ったでしょ相当なタマだって! アンタは出し抜かれてんのよずっと!」

まだ最後まで言っていないのに、シゲルさんは予想していたのか、即座にキレだした。
だけど銀行の通帳なんて個人情報とはいえ、銀行員なんか見放題だろう。おそらく禁止されているし守秘義務もあるだろうけど、そこに跡部財閥の被害者遺族がいたらわからない。この世のなかは、もはや、なにをするかわからない人だらけだからだ。
跡部財閥だって、銀行もやっているし……わたしの通帳は違うところのだけど、跡部財閥の銀行から、わたしがいま契約してる銀行に転職した人とか……。

「ちょっとオテンバ」
「え、はい」
「アンタ、この後に及んであの鬼みたいな女をかばってるわけじゃないでしょうね?」

わたしの思考を読んだのか、というほど、シゲルさんの目は鋭かった。

「い、いや……あの場にいたというだけで、なんの証拠もないですし、ですね」
「ああもう、アンタってホントに! ホントに、アンタって!」前にもあった気がするが、今回も2回、言っている。
「いや、シゲルさん、だってそんな、わかりやすいことしますか? 跡部にだって、お前か? って詰められるに決まってます。跡部に嫌われるようなこと、するかなあ」
「なんにもわかってないわね! アンタ、夢をつぶされかけてんのよ!?」
「もちろん、わたしをつぶしたいというのならわかります。でもこのリークは、跡部への被害のほうが大きいですよ」跡部財閥全体の信用に関わることだからだ。
「そうまでして手に入れたいのよ! 景ちゃんの気持ちなんか知ったこっちゃないの、あの女は! だから鬼なんでしょ! 景ちゃんとアンタを引き裂いて、景ちゃんを絶望させて、弱らせて、そこにつけこむ気なのよ!」
「そ……でも、なんか弱いです!」

千夏さんの狙いがわたしだとしたら、どうもしっくりこないのだ。それに、千夏さんが弱った跡部に興味があるとも思えない。

「この件が事実無根だとわかれば、わたしは舞台には出れるかもしれないけれど、それよりも跡部との遺恨のほうが」残る。いくら結婚しても、こんなことがバレたら離婚だと言われかねない。
「あのねえ、世間はアンタが思ってるほど甘くない! その証拠に、捏造までされてるじゃない! この世はね、いくらでもマスコミが情報操作できるのよ!? あの女なんか、いくらでもシラを切るわよ! なんならアンタよりも女優よ!」

結局、つっぱねられてしまった。
演技でもそうだったけど、シゲルさんには、プライベートまで怒鳴られてばかりだ。こんなにひどい目にあっているというのに、まったく慰めてもくれないとは。
でも、かくまってくれているシゲルさんの優しさには、心から感謝していた。

「そう、ですよね……」だから、素直に賛同した。
「そうよ! アンタみたいな世間知らずなんか、赤子の手をひねるようなもんよ! あの女にとっては!」

実際に、情報操作されている実感もある。通帳は、完全に捏造だ。それをまんまと記者が信じたのか、それとも捏造だとわかっていて掲載したのか。
しかし、この情報を流して得するのは誰なんだろう? 千夏さんはともかく、どうも跡部への恨みのような気がするけど……と、ぼんやり考えはじめたときだった。

「シゲルさんの言うとおりだ!」
「え」
「え」

背後から、まるで大根役者の棒読みのような声がして振り返ると、そこに、響也がいた。
響也の演技を下手だと思ったことは一度もなかったというのに、ものすごく下手だと思った。わたしも偉くなったものである。まあ、これは演技ではなく、リアルみたいだけど。

「……なに坊や、どうしたのよ。急すぎじゃない? いつでも来ていいとは言ったけどサ」言ったのか。まあ、言ってそうだ。
「伊織さん、家に行ってもいなかったし、電話もつながらなかったから」

そういえば、家を飛び出てから、スマホはバッグのなかで放置していた。響也も心配してくれたのかと思うと、ありがたい反面、複雑な気持ちになる。

「ここじゃないかと思って来てみたんです。はあ、無事でよかった」急いで来たのだろう。疲れたのか、響也は少し離れた場所に腰をおろして、背もたれに体を預けた。
「演技は下手でも勘はいいみたいね」シゲルさんが、となりでぼそっと言う。やっぱり、日常会話でも演技の良し悪しはわかるものだろうか。あるいは、あのいい回し? 立ち振る舞い?
「ねえ伊織さん、オレの家に来て。しばらく泊まってってよ」
「……は」
「あら、まあ。なるほど、それで来たわけね」

すっかり忘れていて申し訳なかったが、わたしと響也は、そういう関係だった。でも付き合ってはいないはずだ。いわゆる大人の関係……つまり、なにかあったときに助け合うようなそんな関係だとは、思っていなかった。
そのせいで、わたしはつい、ぼけっとしてしまった。

「オレ、本当に心配で心配で……オレと伊織さんの関係なら、マスコミも知らないでしょ?」
「響也……」もしかして、この子はわたしをそんな存在だと、思っていたのか。
「なんか、世間では跡部さんの女みたいな勘違いされてるから、ちょうどいいかもって」
「……オテンバ、はっきり言わないとダメよ」

シゲルさんが、また、ぼそっとつぶやく。
おっしゃるとおりだ。もうこんなに跡部を好きになってしまったいま、行けば必ず体を求めてくるだろう響也の家になんて、行けるはずもない。
しかもこの子……わたしのこと、恋人だと思ってた? 嘘みたいだ。だって体がほしいときにしか、連絡してこないじゃん。

「あの……ごめん響也」
「え?」
「わたし、響也の家には行けないし、もう、男女としては会えない」

シゲルさんの言いつけを守って、はっきりと言った。はっきりと言わないと、きっと響也にはわからない。わたしにとって曖昧だと確信していた関係が、響也にとってはきちんとした関係だったからだ。これが、ジェネレーションギャップというやつなんだろうか。

「え……な、なんで? 別れたいってこと?」
「……というか、ね」やっぱり、と思ってしまう。「わたし、付き合ってるつもりなかったん、だけど」
「え?」

響也の目が、じわっと開かれていく。彼のなかでは、あの程度の逢瀬で付き合っていることだったのかと思う。連絡だって頻繁じゃなかったし、わたしが実家住まいということもあるだろうけど、デートはいつも響也の家だった。外でのデートは、このあいだのダブルデートがはじめてだったくらいだ。あの日だって本当は、彼としてはおそらく、家に呼ぼうと思ってたはずだ。わたしは行くつもり、なかったけど。

「そんなの、おかしいよ。だってオレたち」
「響也、ごめん」もう、2ヶ月は寝ていない関係だ。
「待ってよ伊織さん、納得いかな」
「つべこべ言ってんじゃないわよ、坊や」

響也が食い下がろうとしたけど、それを制したのは、シゲルさんだった。

「オテンバはね、とっくにほかの男の女なのよ。あきらめなさい」
「シゲルさん、ちょっとそれは誇張が……」
「あらどこが誇張なの。関係持ってなくたって、アンタの心はとっくに景ちゃんのものだし、景ちゃんの心だってアンタのものじゃない」

う、と言葉に詰まってしまう。シゲルさんに断定されると、また実感がわいてきた。やっぱり跡部とわたしは、想いあってるらしい……残酷だけど。

「だから、とっとと帰んなさい。坊やの部屋には泊まれないの。女のアタシの家に泊まってるほうが、オテンバも安心して寝れるってもんよ」シゲルさんは果たして女なのか、とは、言えない。
「ふ……ふざけないでくださいよ。シゲルさんだって男じゃないですか!」と思っていたら、響也が言った。
「はあ!? ふざけてないわよクソガキ! いまなんつった!?」
「シゲルさんっ、抑えてください! 彼、まだ子どもなんですっ」

そうだ。無邪気な子どもだからこそ、彼はわたしと、付き合っていると思っていたんだ。
そのときだった。シゲルさんのスマホが鳴って、シゲルさんはそのまま電話にでた。
響也はそんなことを気にもせずに、わたしをじっと見つめていた。わたしも、響也に向き直った。

「ひどいよ、伊織さん……」
「ごめん……響也。わたしが悪いよね、ごめん」

曖昧なまま関係をつづけた、わたしが悪い。響也が確認を取ってこなかったから、最初のほうで、もうわたしは決めてかかっていた。
そのほうが、響也にとっても、いいんだろうって……。

「オテンバ」
「へ?」

響也に頭をさげていると、シゲルさんがスマホをわたしてきた。
あ、と思う。この電話の先に、誰がいるのかが予測できたからだ。わたしは即座に、シゲルさんの手からスマホをぶんどった。

「跡部!?」
「伊織か……はあ、無事だったか? 悪いな、連絡できなくて」
「いいの。跡部は? 跡部は大丈夫?」
「ああ、俺のことは心配いらない。シゲルのところにいるんだな?」
「うん……シゲルさんが、かくまってくれてる」
「そうか。奥さんは大丈夫か?」
「あ、母さん? それなら、大丈夫。祖父の家に、向かわせた。田舎だし、たぶん、大丈夫だと思う」
「そうか…‥」

わたしに電話をかけるのは、控えたほうが得策だと思ったと、跡部は語った。やっぱりそうかと思う。どこからなにが漏れているのかがわからないし、いまやメッセージアプリも流出するご時世だ。

「伊織……本当に、すまない」
「え」
「お前の夢が……叶うかもしれねえってときに……俺は」
「跡部……」
「悪い、やることがある。お前の声が聴けて安心した。またなにかあるときはシゲルに連絡する。頼むから、そこでじっとしていてくれ」
「うん……ねえ、跡部」
「ん?」
「……ありがとう。わたしも跡部の声が聴けて、よかった」

ふっと、少しだけ跡部の微笑んだような吐息が耳の奥に届いていく。
もう我慢できないほどに会いたくなって、涙があふれそうだ。

「あまり考え込まず、しっかり睡眠を取れ。いいな?」
「うん……」
「じゃあな。おやすみ」

ぎゅっと、胸がしめつけられた。跡部の声をずっと聴いていたくても、それができない。
シゲルさんと響也に背中を向けて話していたわたしは、手のひらで涙を拭いて、二人に向き直った。

「……坊や、わかったでしょ?」スマホを返したのと同時に、シゲルさんは響也に言った。
「跡部さんってこと? 伊織さんの好きな人」
「響也……」
「めちゃくちゃムカつくよ……伊織さん、あの人、オレになんて言ったか知ってる?」
「え……?」
「ここで会ったとき、あの人、言ってたよ」

――佐久間伊織の夢の妨げになるようなら、俺が容赦しねえぞ。
――妨げって……なんで、オレが、ですか?
――とにかく、邪魔になったら切らせる。

そんな話をしていたことなど、もちろん、知らない。わたしは響也がなにを言いたいのかわかった気がして、耳を塞ぎたくなった。
でもそれは、きっと塞いだところで、響也の怒りとともに全身に打ち付けられただろう。

「あの人こそ、伊織さんから離れるべきだろ!」

その声は、舞台でも一度も聞いたことがないほど大きかった。響也は内側から湧き出たマグマのような怒りを、その名のとおり、響かせていた。





そこからさらに5日が過ぎ、土曜日を迎えていた。
連日、跡部はマスコミに追い回されていた。ワイドショーは飽きもせず、このニュースを必ずどこかでやっている。跡部財閥の御曹司で元テニスプレーヤーの跡部景吾は、妬み嫉みをふんだんにかかえた人たちの、恰好の餌食ということなのかもしれない。
跡部は押しかけるマスコミに「事実無根だ」と言ったきり、「跡部財閥にはもう戻れないとか!」「現在お勤めのアスピア商事もお辞めになりますよね!?」という挑発的な彼らの質問にも、無視を決め込んでいた。
その態度がまた世間からの反感を買い、ついには被害者遺族までもがモザイク付きでインタビューを受けはじめ、跡部、そして財閥へのバッシングは強くなる一方だった。
あげくなぜか、わたしにたいする世間の声は、この5日で同情的なものへと変化していた。
昼のワイドショーをつけても、なにも知らない人たちが、好き勝手なことを言っている。

『跡部氏が、この女性に好意を寄せていたから支払われたという見解がちらほら聞こえますよね』
『あのー、連弾されている動画がありますよねえ。あの様子から見ても、それはあきらかというか。この女性、美人なんですよ。それで、金で買おうとしたんじゃないかという、ちょっと下品ですけど、そういう意見も多いです』
『それは、誰が言っているんですか?』
『跡部景吾さんの関係者ですね。まあ本当にお金持ちなので、昔からお金でなんでも解決する、みたいなところがあったらしいですから』
『それと、彼女のほうは1円もお金を使わずに返金した、という話もありますよね』
『使ってしまうのは怖かったでしょうし、いい迷惑だったんじゃないですか? ほとんど押しつけでしょう? 彼女はなんていうか、こんな騒ぎになっちゃって、気の毒ですよね。被害者遺族というだけでも被害者なのに、さらにまた被害者になってしまったようなものです』
『でも動画を見る限り、彼女も楽しんでるって声もありますよ。モザイクあるので、よくわからないですけど、なんか僕の周りに、こうなる前から動画を見た人がいるらしくって』
『一定、言いなりになっておかないと、やっぱり怖かったんじゃないですか? またさらに3億も送金されたら困るでしょうし』
『はははっ。たしかに困っちゃいますよねえ』

なにが、困っちゃいますよねえ、だ。跡部の関係者とはいったい誰なのか。週刊誌の記事にあった通帳コピーには返金された記録までは写っていなかったというのに、そんなことまでかぎつけているのは、いったいどういうことなのか。
えへらえへらと、こいつらいったい、なにが楽しいのだろうか。本当に下世話で、嫌になる。
それでも跡部が好き放題に言われているのは、我慢ならないうえに、胸がはりさけそうだった。

「また見てんの、オテンバ。消しなさい」
「あっ」

ピ、とシゲルさんがテレビを消した。スタジオの2階にあるシゲルさんの部屋は、とても広いが簡素なところだった。もっとメルヘンにしているかと思いきや、ホテルのようにシンプルで、とても居心地がいい。

「入本さんから連絡は?」コーヒーを片手に、シゲルさんは正面に座った。
「初日にあったきりです」
「ってことは、まだ協議中ってことね……」

入本プロデューサーからは、あのドタバタとした翌日には、連絡があった。
開口一番に謝ったが、入本さんはその謝罪を受け取らなかった。

――入本さん、すみません、お騒がせしてしまって……。
――まだ、あきらめてません、僕は。
――え?
――佐久間さん、これで主役降板だと思っているんでしょう? まだあきらめちゃいけませんよ。幸い、世間は佐久間さんに同情している。希望はまだあります。
――ですが……入本さん、あの同情を誘うような報道は、事実ではありません! 彼は、お金で女を買うような人じゃないんです!
――それは、わかっています。ですが僕の立場としては、あなたに同情が集まっているほうが、上を説得しやすいというのが、本音です。

だからじっくり、社内で協議の時間を設ける手筈になっています、と、入本さんは力強く言っていた。そこからはなにも、連絡がない。

「シゲルさん……」
「なによ。アンタ、日が経つごとに顔が最悪になってる。舞台には出れるかもしれないんだから、シャンとしなさい!」
「だって、跡部があんなに言われてるの、わたし、もう……」
「バカね。あれが景ちゃんからの計らいだって、アンタわかんないの?」
「へ……?」

ポカン、としてしまう。
なにが跡部の計らいだというのだろうか。あのバッシングで、跡部はつらいはずだ。会社も退職に追い込まれるという話もあるし、跡部財閥を継げなくなるという話も出てきているし、彼の人生が台無しになろうとしているのに、「計らい」って、どういうこと?

「ねえオテンバ……重要なことを教えてあげましょうか」
「な、なんですか」
「ただし、景ちゃんには、聞いたって言うんじゃないわよ?」
「シゲルさん……?」

なにか決めたように、シゲルさんがコーヒーを飲み込む。そのマグカップを両手で包みながら、わたしをじっと見つめた。

「あの、なにか知ってるんですか?」
「いいえ。なにも知らない。でも景ちゃん、前にアタシに言ったのよ」

思い返すように視線を上に向けて、また、わたしを見た。

「アタシにレッスンを頼みにきたときにね。『俺があの女を一流のミュージカル俳優にすると決めたんだ』って。なんでそんなに躍起になってんだかって思ったけど、アンタのお父さんとの、夢の共有だったんだってよ?」

その事実に、胸が震えた。なぜ跡部がわたしにこだわっているのか、たしかに、ずっとわからなかった。声に惚れたとか、そんなことを言っていたような気がする。思えばわたしが跡部を憎んでいるときから、彼はわたしをターゲットにしていた。

――お前を一流のミュージカル俳優にしてやる。俺の最大限のコネを使ってだ。

そして、シゲルさんに会わせてもらったのだ。
でもその言葉の本意が……父さんとの、夢の共有……? どういうこと? 父は亡くなる前日に、ようやくわたしを認めてくれたはずだ。それまでは、俳優なんて大反対だった。だから、跡部に話していたとも、思えないのに。

「そんな……はず」
「アタシも詳しいことはわかンないわよ。でも景ちゃんが、アンタに会って、アンタのお父さんのことを思いだして、世話を焼きはじめたのはたしかよ。ま、そのころからアンタに惚れてたのかもしれないけど。でもだから、わかるでしょ」
「え……」なんの話を、していたんだっけ。
「はあ……バカ! いまこの状況は、景ちゃんの情報操作よ! アンタに無理やり3億押しつけて金で女を買おうとしたとか、アンタは返金してきたのにしつこくしてるとか、景ちゃんへの悪い噂は、すべて景ちゃん自身が流してるに決まってるじゃない!」

跡部が、自分に不利な情報を、わざと流している、ということ……?

「な、なんでそんな……!」
「バカ! アンタを守るためでしょ! じゃないと、翌日からあんなふうに景ちゃんにばかり非難が集まるような情報がわんさか出てくるの、おかしいじゃないのよ!」

そんなことをしてしまったら、跡部の人生は、台無しになるかもしれないのに……。でもシゲルさんの説には、説得力がある。わたしが返金したことをマスコミが知っているのも、跡部が流していたからだ。

「シゲルさん、どうしよう……」
「泣いてる場合じゃないわよオテンバ。もう、アンタがどうしたいかでしか、ないでしょ」
「わたしの通帳を、マスコミに見せます! そしたらアレが捏造だってわかる!」
「バカ! 捏造だってわかったところで、3億が振り込まれてる事実を認めるだけよ! そんなこといまさらしたって、意味ないじゃない!」

それでも、なにか方法があるはずだ。わたしがカメラの前に出て、本物の通帳を見せることで、あの記事そのものの信ぴょう性を落とすことだってできる。

「だけどシゲルさん……! このままじゃ、跡部が……!」
「それが景ちゃんの精一杯なのよ。アンタへの気持ちよ! わかるでしょ!」

だとしても、耐えられない……。
わたしのせいで、跡部の輝いていたはずの未来が、終わっていく。そんなの絶対に、耐えられない……!
自分のなかにある想いを全部シゲルさんにぶちまけて、わたしは泣いた。跡部を愛してる、跡部を救いたい、なにか方法があるはずだ、と、訴えつづけた。
シゲルさんはわたしの想いを聞きながら、それに相槌を打ってくれた。わたしが、話しやすいように。そうしているうちに、頭のなかに、あるアイデアが浮かびはじめた。

「シゲルさん……ひとつだけ、方法がある気がします」
「…‥どういうこと?」
「嘘の下手な人は、すべてを嘘で塗り固めようとする。だけど嘘のうまい人は肝心なところだけ嘘をついて、あとはできるだけ本当のことを話そうとする。正直者ほど、嘘が、うまい……聞いたことありますよね? 古畑任三郎のセリフです」

うわごとのように、わたしはあの日の一部始終を思いだそうとした。ぽつぽつと語りはじめると、シゲルさんは黙ったまま、それを書きとめはじめた。あの日、なにが起きたか。跡部の会社に行ったときに、跡部と、どんなことを話したか。

「……わたし、決めました」
「オテンバ……アンタ、これをやる気なの?」
「シゲルさんだって、跡部を救いたいでしょう?」
「でもこれをしたら、アンタは終わりよ」
「終わってもいい。跡部のためなら」
「……本気?」シゲルさんが、じっとわたしを見つめる。
「ごめんなさい、シゲルさん。本当にごめんなさい。でもシゲルさんが育ててくれたわたしだからこそ、できることなんだと思います」
「……そうね」

頭をさげたわたしを、シゲルさんは、優しく抱きしめてくれた。
背中をなでながら、ずっと、慰めてくれた。





翌日。わたしは都内にあるホテルのイベントホールに向かっていた。
昨日、何度もシゲルさんとリハーサルをした。久々のレッスンに、わたしもシゲルさんにも、若干の笑顔が戻った。でもそれは、とても切ない笑顔だったけれど。
入本さんには、昨日のうちに電話をしておいた。

――入本さん……すみません。あなたの厚意を、裏切ってしまいます。
――え……? ちょっと佐久間さん、それは、どういうことですか?
――よく、考えました。舞台女優のわたしの代わりは、いくらでもいるはずです。
――ちょ……しかし、佐久間さん!
――でも跡部景吾の代わりは、この世にはいないんです。
――え?
――入本さん、本当にすみません。最後のお願いがあります。

最後の最後まで迷惑をかけっぱなしのわたしに、入本さんは、ここまでしてくれたのだ。完璧な舞台を、つくりあげてくれた。感謝しかない。
会場に入る前、化粧をしていることも忘れて、自分の顔をパンッと両手で打った。やりきってみせる。
これが……人生最後の演技になるんだから。

会場に入ると、一斉にシャッターがたかれた。いまごろテレビでは、「激しい光の点滅にご注意ください」という字幕が入っているのだろうと思うと、自分がそんな立場になるとは思っていなかった、あのころが懐かしくなる。
一度、深々と頭をさげた。素人の女相手に、よくこれだけの人数が集まるものだと呆れそうになった。でもそれが、跡部景吾という人間の影響力なのかもしれない。

「佐久間伊織といいます。連日報道されている跡部景吾さんとの件についてお話があり、今日はみなさまに集まっていただきました。素人が生意気なことをして、申し訳ありません」

マイクを持ってそう言うと、また一斉にシャッターがたかれた。
シゲルさんの最後に送ってくれた言葉が、頭のなかでこだまする。

――アンタは、一流の俳優よ!

そう、一流だ。だからこそ、ここは舞台だ。わたしは、もう一度マイクを持ち上げた。

「あの3億円の慰謝料は、わたしが跡部景吾さんを脅して巻き上げたお金です」

ショータイムの、幕開けだ。





to be continued...

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