XOXO_10
10.
わたしは、食べることが大好きだ。ワイングラス職人になろうと思ったきっかけも、一緒にいただく料理がワインによって、より美味しくなると知ったからだし、アンジェラさんの結婚式の二次会で不二さんの料理に気づくことができたのも、食いしん坊のおかげだと思っている。
だから……こんなに味がしない食事は、はじめてに近かった。
「うま。これ食ってみ佐久間。めっちゃうまいから」
「わ、でも辛そうだね。四川だもんね?」
「だからいんじゃん、ほら、取ってやるから。皿、貸して」
味の濃い中華だというのに、だ。
この店が悪いわけじゃない。目の前にいる香椎くんと二人きりのデート、というだけで緊張もすれば、このあと、わたしは不二さんに宣言したとおり、告白すると決めていた。
このところ、香椎くんへの想いがよくわからなくなっていて、自分にずっと困惑していたけれど、告白すると決めたら決めたで、緊張で頭がおかしくなりそうだった。
だって、29年生きてきて、告白なんてものをするのは、生まれてはじめてだったから。そんな大胆なことをやろうと思ったのは、最近、不二さんと一緒にいる時間が圧倒的に増えたせいだった。
1週間前に調理補助は辞退したというものの、その前だって、昨日だって、不二さんと一緒に行動していて、なんだかわたしの心は、変な感じになっている。ドキマギしてしまうことが、多いのだ。あれは、よくない。
だからわたしは……香椎くんが好きなんだって、自分のためにもはっきりさせたかった。そのための、告白だった。
「ん、辛いね。すごく。でも美味しいっ」
「だろ? ここ、俺のお気に入りなんだよ。なんかごめんな? いきなりデートで中華ってのも、ムードないよな?」
「あははっ。全然そんなの、気にならないよ」
「佐久間ならそう言ってくれると思ってさ。仕事終わりだし、がっつりいきたいじゃん?」
「うん、だよね!」
四川麻婆豆腐は、美味しかった。美味しいことは、わかるんだ。だけど、味がしない。矛盾しているけど、本当にそうした不思議な感覚だった。
香椎くんは、いつもと変わらない様子でずっと爽やかに笑っている。本当に、大丈夫だろうか、という不安が突然に襲ってきた。デートに誘ってくれている時点で、脈アリなことくらい、わたしにだってわかる。でも、なんというか……本当にそれだけ、というか。これまで、少しドキッとすることを言われたりもしたけど、なぜだか、確信となるものはひとつも無いような気がしている。
わたしの気持ちの問題のせいかな……香椎くんのことがずっと好きだったのに、前のような盛り上がりが自分のなかにない。もしかして、「手に入った瞬間に冷めちゃう」とか、カッコいい女の人がいう、ああいう状態なんだろうか。だとしたら、まだ手に入ってもないのに、なんて図々しいんだろう。
「なあ佐久間、ちょっと、聞いてもいい?」
「うん? なに?」
「お前ってさ、どんな男が好きなの?」
「は……えっ?」
ごちゃごちゃ考えていたら、香椎くんにそんなことを聞かれてしまって、口に入っていた麻婆豆腐を落としそうになった。その質問は、いったい、どういう意図があって聞いているんだろう……と、焦ったのだ。
「え、えっと……や、優しい人、かなあ」
「ははっ。なんだよ、その普通の答え」
「ああ、えっと、そうだよね。うーん、そうだなあ。なんかこう、一生懸命な人、かな。あと……なんだか放っておけない感じの人? とか、弱いかも」
「ま、放っておけないタイプだもんな佐久間は……なんか、よく考えたら男みたいだよな」
「え」
「守ってあげたい、的なやつだろ?」ユーミンだな、と笑っている。
「あはは。うん、そうそう、そんな感じ」
結構、素直に答えてみた。昔からテレビドラマとか見ていると、主役よりも2番手くらいの脇役が好きだ。いつもヒロインに振られてしまうような、どこか悲しい、でも芯は強い雰囲気の男の人に惹かれてしまう。
ふと、思う。そういえば香椎くんって、かなり主役っぽいイメージだ。爽やかだし、中学のときはサッカーやっててスポーツマンだったし、いま職人で、なかなか男っぽい。明るくて社交性も高いし、まるで太陽。……まあでも、初恋ってそういうものかもしれない。タイプなんて所詮、あてにならないもんね。
「まあでも、よくわかった。うん」
「え、わかった?」
「ん。ここの中華はやっぱうまい!」
「あははっ。うん、美味しいね」
話があっちこっちな香椎くんに笑っているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。本当にいつもと変わらない時間になってしまう、と焦る心を察してほしくても、時間が巻き戻ってくれるはずもない。
だから、「もういましかない!」と心を決めたのは、自宅マンション付近にある公園にさしかかったときだった。
家まで送ってくれるという香椎くんを、公園に誘った。
「夜の公園って、なんか怖いよな」
「うん、少しね。でもおばけが出た話は聞いたことないから、大丈夫だと思う」
「出た話があっても、俺、たぶん見えない。佐久間は見えるの?」
「見えないよっ。見えたらこんなにのん気に生きてられないよ」
「ははっ。それは言えてるわ」
「あ、ひどいっ。否定してくれてもいいのにっ!」
ケタケタ笑いつつも、内心は緊張で心臓が口から飛び出そうだった。香椎くんがブランコに腰をおろしたので、わたしもとなりのブランコに腰をおろした。ムードは……なんか夜のブランコって反抗期の子の家出みたいな感じもするけど、大人の男女なんだから、悪くないはずだ。
ごくんと唾を飲み込んだ。「あのね、香椎くん、わたしとお付き合いしてください」うん、それでいい。心のなかで何度もシュミレートした言葉を、ついに口に出すんだ。よし……言うぞ。
沈黙が、すでに10秒は過ぎていた。ここだ、と思って、口を開いた。
「あのね、香椎くん、わたしと」
「やめとく」
「えっ……!」
まだ全然、最後まで言えてない、というのに……光の早さなのか、というくらいの瞬速で、香椎くんはそう言った。
唖然として、口が開いたままになってしまう。脈アリ……のはず、だったのに……。
「え、え?」困惑が、そのまま声になった。
「付き合ってほしいって、言おうとしてただろ? いま」
「……あ、いや、その」そのとおり、なんですけど。
「そういうのわかるんだよ、俺。昔から」ちょっと嫌な男だって、自分でも思う。と、つづけた。「でも俺、ほかの男が好きな女と付き合うのは、やめとく」
「え……」
香椎くんが、顔をこちらに向けて、つん、としていた。
「ほかの男が好きな女」とは、わたしのことを言っているんだろう、たぶん……いや、告白しようとしてたのに、どうしてわたしが、「ほかの男が好きな女」になっちゃうの……?
「お前のそういうとこ、ホントよくないよ、佐久間」厳しい目だった。
「え……か、香椎くん、なんか怒ってる?」
「怒ってるっていうか、呆れてる。もっと自分の気持ちに、自分のことなんだから、気づけよって思う」
いつもより、ほんの少しだけ強い口調で、香椎くんはそう言った。
「佐久間のいいとこは、とにかくお人好しなとこ。さっきも言ってたけど、放っておけない人を見ると、本当に放っておけなくて、あれこれ助けたりする。でも佐久間のお人好しなとこってさ、短所でもあるよな」
「短所……」お人好しというのは、昔から言われつづけていて、よくわかっていた。
「だってお前、お人好しだから俺のこと、無理に好きになろうとしてんじゃん、いま」
その目は、とても真剣だった。衝撃を与えられたみたいに、体が憂患した。
ずっと、香椎くんが好きだったはずだ。無理に、こんなに何年も好きでいれるわけない。でもその一方で、泣いてしまいそうな自分がいる。このところ、香椎くんにたいする気持ちが曖昧だったのって、そういうこと、だった……?
「わたし香椎くんのこと……初恋で……」
「そっか……ん。なんかわかってきた」と、香椎くんは少し微笑んで、つづけた。「初恋だから、余計にそう思いたかったんだよ。お前ってさ、自分の気持ちに超鈍感なとこある。けど、よく考えてみ? いまは違うだろ? 俺がお前に好意もってるって知って、お前、俺のこと好きじゃなくちゃいけないのにって、変な正義感、働かせてんだよ」
「……正義感」
「持ち前のな。しかも、そのことに自分で気づいてない。はっきり言って、俺からしたらタチ悪い」
ガーン。
思いっきり否定されてしまって、「ガーン」と口にしてしまいそうだった。
タチが悪いとは、結構な言われ方じゃないだろうか……爽やかな香椎くんに、いつも優しい彼にそんなことを言われてしまって、素直に落ち込んだ。
「佐久間さ……初恋だからって、ずっと好きだったからって、俺に応えようとしなくていいんだよ。まっすぐに、好きな男のとこに向かっていけよ」
「……」目が、潤んできてしまう。浮かんでしまったからだ、その人の顔が。
「お前が本当に好きなのは、不二さんだろ?」
「……」そんなはず、ないって、思ってたのに。
「俺にうしろめたさなんか、感じる必要ないじゃん。俺ら、付き合ってるわけじゃないんだからさ」どこまでお人好しなんだよ、と、苦笑した。
香椎くんに言われて、はじめて気づく。わたしは香椎くんに、うしろめたさを感じていたんだろうか。わたしが好きじゃなくちゃいけないのは香椎くんなのに、と、思っていたんだろうか。だからあんなに、よくわからない気分になっていた? はずかしい……こんな歳になって、本当に、おこがましいにも程がある。
「付き合ってるフリしてるうちに、好きんなっちゃったんだろ?」
「えっ!?」
自分の浅はかさに泣きそうになっていたら、ぎょっとするようなことを言われて、垂れていた頭をすばやく起こした。
付き合ってるフリ、と言った。たしかにフリだったし、別れてるフリまでしていて、というかそれは、香椎くんのために行っていたことであって、香椎くんだって、ずっとそんな感じで話してきていたはずだったのに……なんで、なんでフリって知ってるの!?
「うわあ、すげえ顔してる」
「だ、だって……」
「だよなー。俺も半分信じて半分疑ってたみたいな感じだった。だから気づいてないと思ってたんだろ、どうせ。まあ不二さんだけなら、俺も騙されてたかもしれないけどさあ。佐久間が下手くそだからさあ……最初から、なんか変だと思ってたよ、俺」
「え……ええっ!?」最初から!?
「覚えてない? 不二さんがうちの工房にはじめて来た日。不二さん来る前に、佐久間、言ったんだよ」
――あれ……打ち合わせの予定、してたんじゃないの?
――してないよ、だって……名刺交換しただけで、あのあと、連絡も取ってないのに。
「なんで連絡も取ってない人が、いきなり彼氏になってんの。おかしいじゃん」
「だ、あれは、だって勝手に不二さんが言いだして、わたし、全然そんなことも知らされてなかったんだよ!」だからわたしが下手くそなんじゃなくて、不二さんが下手くそなんだ! という意味不明な言い訳をしたかった。
「別に、そのときだけじゃないけどな、お前が下手くそだったのは」
「え」
その心のなかの言い訳を、あっけなく否定されてしまう。
「結婚式の二次会で会ったって言っててさ、したら、付き合ったのって、出会って3日くらいの計算になる。どう考えても、お前そんな衝動的なタイプじゃないだろ。一目惚れするタイプでもないしさ」
「……そ、だね」
自分のバカさ加減にあきれてしまいそうだった。要するに、余計なことを言いまくっていたんだ、わたしは。情けなくて、目を覆った。
「まあでも、だんだんお前が不二さんのことで頭がいっぱいになってくの、俺、見ててわかったからさ」
「え……」
「そうだろ? ワイングラス、無償であんなつくって。不二さんの店がピンチだって知って、放っておけなくなった。看病やら、なんだかんだしてるうちに、お前との話題は不二さんばっかりんなってさ。そんでモヤモヤしはじめたんだよ、俺。すぐにわかった……不二さんに嫉妬してんだなって。佐久間を、取られたって」
信じられない思いだった。『となりの芝生は青い』理論が、まさかの成功を遂げていたなんて。
だというのに、いまは胸が躍らない。自分の本当に気持ちに、気づいてしまったから……。
「極めつけはアレだよ、ヤクザ来店な……」
香椎くんが、奥歯を噛みしめるようにつぶやいた。不二さんのお店が閉店に追い込まれた、あの事件だ。
「あのとき不二さん、お前のこと守ってくれたじゃん。ドンッと佐久間の前に立ちはだかってさ。お前のことだけじゃない。お前がつくったワイングラスも守ってたじゃん。それって、お前の作品に込められた思いを守ってくれたってことだろ? カッコよかったよ、正直」
言われて、胸が痛くなる。あのときは不二さんが傷つくのが嫌で、そこまで頭が回らなかったけど……でも不二さん、たしかに言ってた……。
――どんな愛が、このグラスに込められているか、お客様のような方々には、おわかりにならないでしょうね
「いつも誰かを守ってばかりのお前を守ってくれたのって、不二さんだけなんじゃないの?」
「……うん」
「お、やっと素直になったか」
そこまで言われて「違う」と自分の気持ちを偽るほど、わたしは能天気じゃなかった。
香椎くんの言葉が、沁みわたっていく。
これまでも、何人かと恋をしたことはある。でもいつもわたしが世話を焼くばかりで、わたしがつらかったときに助けてくれるような人は、ひとりもいなかった。
はっきり言って、都合のいい女だったんだと思う。だからずっと、香椎くんという存在は、恋心を拭いきれない人だった。それは初恋への、羨望だ。あの人ならきっと、と、いつも思っていたから。
「ぶっちゃけさ、お前に、元カノと別れたっていうの遅すぎたなって思ったよ」
「え……」そんなことを、思っていたなんて。
「したら、今度は別れたって言いだすし、この人たち、なにやってんだろって。俺、ずっと呆れてたけど……それでももし、佐久間がまだ俺のこと考えてくれてんなら、可能性に賭けてみようかって思ったんだ」だから、デートに誘った。と、つぶやいた。
「香椎くん……」
「うまくいかないよな。俺が佐久間のこと考えはじめたころに、お前は不二さんのことばっかりで。だんだん、俺への視線が、同情に変わっていってた」
笑うよ。なのにお前は、気づいてないから。余計に笑う。
そう言いつつも、香椎くんは笑ってない。真顔で、わたしに訴えかけてきている。
「ごめ……」
「あー? ふざけんなっての。俺の女でもないくせに、なに謝ってんだよ。言ってんだろ? お前、そういうとこ、マジでよくない。直せよな、すぐにでも。直し方、わかるだろ?」
香椎くんは、ブランコから降りて、わたしの前に仁王立ちした。腰に手をあてて、片方の眉をつりあげて、じっと見つめてくる。
「ちゃんと気持ち、不二さんに伝えろよ。それと、ちゃんと自分の気持ち、大切にしろ」
「香椎くん……」
「てか、さっきのタイプなんか、まんまじゃん。完敗だなって思ったよ、バーカ」
そう言ってわたしの頭を軽く小突くと、手を振って去っていった。
ぼうっとしたまま、夜になっていた。
仕事は着々とこなしつつも、反省に反省を重ねた1日半だ。完全に、寝不足だった。
ワイドショーでは昨日の帰宅後からずっと、跡部財閥のニュースをやっていた。跡部財閥の御曹司で元テニスプレイヤーの跡部景吾が、財閥グループ会社で過労死した被害者遺族のひとりに、3億円もの慰謝料を個人的に払っていた、というものだ。しかもその被害者遺族の女性は、テレビではモザイクがかかっているが、「野瀬島」という名前を出した、あの女性だった。
住んでいる世界が違いすぎる話だとは思いつつも、跡部さんという人は、不二さんのお友だちだ。あげく、このあいだ話した女性がマスコミに追いかけ回されている。たった一度会っただけとはいえ、とても憂鬱な気持ちになった。
大丈夫なのだろうか……不二さんのお友だちも、あの彼女も。
この時点で、不二さんに電話しようかとも考えた。だけどわたしがなんて声をかけても、それが跡部さんに届くわけもないし、お友だちのことで心を痛めているだろう不二さんの慰めになるはずもない。わたしは跡部さんのこともあの女性のことも、なにも知らないからだ。
今回の件もそうだけど、自分がなかなか面倒くさい女だったんだと思うと、とんでもなく嫌な気分になる。香椎くんにいろんなことを言われてから、不二さんのことばかり考える自分も、なんだか嫌だった。らしくない、とも思う。無邪気に香椎くんに恋をしていたときのようなわたしは、いったいどこにいってしまったのか。
思いかげないメッセージがはいってきたのは、そんなことばかり考えていた日の、夜のことだった。
『いま、なにしてるの?』
フェイスブックからだった。趣味がサーフィンの、黒光りした野瀬島の同級生だ。
野瀬島の母校を聞いてからというもの、用無しだったので、すっかり放置していた。この唐突さもさることながら、馴れ馴れしい雰囲気のメッセージにも、鳥肌が立ちそうになる。
無視しようかと5分くらい考えてみたけれど、まだ使えるかもしれない。野瀬島のことは十分に知れたけれども、だからこそ、まだ野瀬島のことは調べなくちゃいけない。
頭が、一気に切り替わった。
『そろそろあなたに連絡しようと思っていたところだったんです。でもしつこい女って嫌われるでしょう? わざと時間をあけちゃった。そういう計算高い女、嫌いですか?』
普段は絶対に思いつかないような言葉がポンポンと思いつく自分に、妙な才能を感じていた。とりあえずこの男をつけあがらせておきつつ、野瀬島のことを調べるのに、次に重要なキーとなるのは、野瀬島の母校である工藤教頭が言っていた『野瀬島みずえ』という彼の母親のことだと考えた。
『嫌いじゃない。大好き。君のエッチな写真、見たいなあ』気持ちの悪い男だ。
『野瀬島さんのこと、もう少し教えてくれたらいいですよ!』
『また野瀬島? なにが知りたいの? ねえ、先に写真、送ってくれない?』
プロフィールをつくるために使用したアジア系サイトの女性の動画を探して、セクシーなものを選出する。それをスクショし、さらに丁寧に編集してから送りつけた。
『どんなお家柄だったのかなーって。野瀬島さんってなんだか、すごいご家庭で育ってそうだから。お金持ちだったのかな?』
野瀬島という人物を知るのに、母親の痕跡をたどるのは有効な気がしている。彼がレスリング部の海外遠征をあきらめたことが、どうにも腑に落ちなかった。あの目立ちたがり屋の野瀬島があっさり引き下がるとは思えない。母親が言っていた「お金」はもちろん、重要なことだろう。でもそんなことで、青春の栄光ともいえる機会をあきらめさせることができるだろうか。それには工藤教頭も首をひねっていたくらいだから、なにか秘密があるのではないか。
そこからまた1時間ほどメッセージのやりとりをして、かなり有力な情報を手に入れていた。こうなっては、もうぐだぐだと考えている場合ではなかった。
メッセージのやりとりを終えてすぐ、不二さんに電話をかけた。
「もしもし? 伊織さん? どうしたの?」
「不二さん……」ほんの数日ぶりだというのに、香椎くんに言われたせいだろう、胸が、あきらかに躍動している。「あの、少しお話が……お時間、大丈夫ですか?」
「うん、いいよ。……あ、ひょっとして、告白、うまくいったのかな?」
「えっ」
は、と気づく。そういえば、不二さんに「香椎くんに告白しようと思います」と宣言したままだった。
ああもう、なにをしているんだろう。わざわざあんなこと言ったのって、自分の気持ちを不二さんから遠ざけるため? 香椎くんに言われて、だんだんと自分のとった行動に説明がついていく。しっかりしてよわたし! もう、バカな女になりさがりたくない! 香椎くんにだって、あんなに呆れられたのに!
だけど、だけどいまはそのタイミングじゃない。臆病になっているわけじゃない。いやそれも少しあるけど(だって不二さん、なに考えているかわらかないし)。
でもとにかくいまは、それとは別のことを伝えなきゃ。
「あの、その話は、また今度でもいいでしょうか!」
「え……ああ、そう。うん、わかった。じゃあ、野瀬島のことかな?」
「あ、はい、そうなんです!」
さくっと切り替えてくれた不二さんに感謝しつつ、わたしは野瀬島みずえについて話した。
「やっぱり母親である野瀬島みずえのことが気になるので、彼女の痕跡をたどってみたいんです」
「……そうくる気はしていたけど、でも、どうやって?」
「水商売だって、おっしゃってたじゃないですか、工藤教頭」
「言ってたね」
「だからあの、また、フェイスブックの男に、探りを入れてみたんです」
黒光り男とのやりとりを、こと細かく不二さんに説明していく。
「また……大胆なことするんだから。ねえ伊織さん、そういうの危険だよって、僕、言わなかった?」……言ってたっけ?
「すみません、でも重要なことがわかりました。野瀬島みずえは、都留にある『スナックよりみち』というところで働いていたそうなんです!」
大発見! と言わんばかりに告げると、不二さんは沈黙した。こんな手柄をあげているというのに、どうして黙り込んでしまうのだろう。「すごいね、伊織さんは!」と、驚いてくれてもいいようなものなのに。
だけど不二さんは、小さなため息をついたあと、ゆっくりした口調で、穏やかに言った。
「……もしかして、行きたいの?」行きたいに決まってるじゃないですかっ。
「まだあるそうなんです、都留に。ママは当時から変わっていないそうです。それなら、野瀬島みずえのことを、覚えているかもしれませんっ」
また、ため息が聞こえる。うう、どうしてこの興奮を理解してもらえないのか、理解できない。
「……どうして伊織さんは、そんなに張り切っちゃうんだろうね」
「だ、だって、不二さんのお店をめちゃくちゃにした野瀬島ですよ!? 許せるはず、ないじゃないですか!」逆になぜ不二さんは、冷静でいれるんだろう。野瀬島の正体をつかめるかもしれないのに。
「ふふ。伊織さんって、本当に、人がいいよね」だけど、罪な人だよね、と、付け加えた。
つまり、お人好しとまた言われてしまったことに、少しだけ気分が落ちていく。それはわたしの短所だということに、気づいたからだ。
「すみません……」思わず、謝った。
「あはは……でもうん、わかったよ。じゃあ日曜、行ってみる?」
ぱっと視界が明るくなった。やっぱり、不二さんは優しい。ひとりでも全然、行くつもりだったけど、不二さんがいてくれると、かなり心強いのはたしかだ。思えばこうして、不二さんはいつもわたしを守ってくれていた、ということかもしれない。香椎くんが言ったとおりだと思った。
もちろん、せっかくの休日にお手を煩わせて申し訳ないとは思っている……でも野瀬島の相談は、不二さんにしかできない……。ああでも、やっぱり申し訳ないかな……2週連続、いや、行くとなったら3週連続だ。急に強気に出れなくなっている自分が、少しだけ情けなかった。
わたしすっかり、不二さんに嫌われたくないって、思ってるじゃん……。
「あ、でも……アレですよね、休日ですし、わたしひとりでも!」なので、言ってみたのだけど。
「なに言ってるの。そんなところに伊織さんをひとりで行かせるわけないでしょう? なにかあったら困るよ」不二さんは、いつもの心配性を発揮した。
「でも、子どもじゃないですから……行って帰るくらいは、わたしにだってできますよ」
「ダメだよ。今回は夜のお店でしょう? お客さんの相手を今日だけでもしてくれたら教えてあげる、とか、言われたらどうするの?」言われかねないよ、伊織さん、すぐ引き受けちゃいそうだし。と、余計なことを付け加えた。
その言い方が、ムッとしているように聞こえて……そんな心配までしてくれてるのかと思うと、おかしな期待に、鼓動が早くなってくる。
不二さん、わたしがそういうことするの、嫌なのかな……ああ、どうしよう。思い切って、聞いてみる?
「あの、不二さん……」
「なあに? ただでさえ無防備なんだから伊織さんは。危険だよ? わかってるでしょう?」なんだか、説教くさくなってきたぞ。
「その……わたしがそういう仕事、ちょっとでもしたら、嫌、ですか?」
聞いておきながら、聞くんじゃなかったと思う自分が混在して、手が震えそうになってしまった。
でもその直後、手が震えるどころか、全身が熱くなって、スマホを床に落としてしまった。不二さんの言葉が、耳に届いた瞬間に……。
「そんなの、嫌に決まってるでしょう?」
また数日が過ぎ、土曜日のことだった。まともに夏休みをとっていなかったわたしは、明日から5日間のお休みに突入する。毎年のことなのだけど、とくに予定はない。あるとすれば、明日、野瀬島のことを調べに行くだけだ。
もしなにか重要な情報がつかめれば、また調べるために5日は野瀬島の件に費やしてもいいと思っていた。不二さんはきっとお仕事だから、これに関しては内緒にしておこうと思っている。
「で、言った?」
「へ?」
『スナックよりみち』に行ったらなにを聞こう、と考えていたところで、一緒に作業をしていた香椎くんが声をかけてきた。
あれからというのも、香椎くんはいつもと変わらない様子でわたしに接してくれている。わたしが振られたのだけど、わたしが振った感じもしているという、いい大人がなにをしているんだ、という感じの告白だったので、翌日に顔を合わせても、不思議なことに、そんなに違和感はなかった。
が、この言葉には、少しだけ顎を引いた。
「あー、まだ言ってないな。だと思ったよ。明日からお前、休みだろ? だから忠告しておこうと思ってさ」
「それって……あの件だよね?」
「ほかにないだろー?」
忠告、という言葉に、顔を背けたくなった。というか、背けた。
「おい、逃げんなよ佐久間」香椎くんはあの日からちょっぴり、乱暴だ。優しさが、ほんの少しだけ、飛んでいる。
「いや……そ、タイミングを見てるんだよ!」
「はー? なにモタモタしてんだよ。ワイングラスつくるくらいのスピード感でいけよっ」
「いや……でもさ、香椎くん。わたし、こないだのだって、人生初で」
「は? あんなもんは告白のひとつにも入らないっつうの。調子にのんな」
「う……」
調子にのっていたつもりはなかったのだけど、ピシャリと言い放たれてしまった。
まあたしかに、付き合っての「つ」の字だって言わせてもらってない。なんなら、名前を呼んだだけだ。
「俺との約束、忘れたわけじゃないよな?」
「約束……」した、と言えるのかな、あれで。
「今日にでも行けよ?」
香椎くんがまた、厳しい目でそう言った。わたしの恋愛アドバイザーが、不二さんからすっかり香椎くんになっている。けど不二さんと違って、香椎くんは単純明快だ。
善は急げ、好きなら告白。終了! ってなもんである。
「……だ、だってさあ」
「なんだよ、ウジウジすんなよっ」
「だって、ふ、振られちゃうかもしれないしっ」
不二さん、思わせぶりだけど……本気かどうかの区別、つかないんだもん。こないだだって、怖がらせるためなのか、キスするフリしてきたし……。よく考えたらわたし、あのときだって、すごく心臓バクバクいってた……。
「大丈夫だって。振られる練習ならこないだ俺がしてやったじゃん」
それはどういう意味の「大丈夫」なんだろうか。振られることないから「大丈夫」じゃなくて、振られても「大丈夫」という意味にしか取れない。
くうう、完全に遊ばれている。
「振られると思ってるじゃん……」
「はははっ。ま、不二さんモテそうだもんな」
「……モテます、実際」千夏さんの存在を、忘れたわけじゃない。
「いやでも、俺の言った『大丈夫』って、どっちの意味もあるから。それに早くくっついてくんないと、俺の立場ないんだけど?」わかるだろ? と、首をかしげた。
「え……」
「じゃなきゃ俺がお前を振った意味ないの! だから、俺のためにも、今日にでも行け。そしたら俺だって、すっきりすんだからさ!」
「香椎くん……」
どうせ明日会うのに、今日行くというのもどうかなと思ったのだけど……。約束した覚えのない香椎くんとの約束を、もうこれ以上は、破れない気がした。
仕事終わり、身なりを整えてから、不二さんのお店に向かった。
香椎くん曰く、こないだのあれが告白のうちのひとつに入らないというのなら、不二さんにする告白が、生まれてはじめての告白ということになる。
お店で不二さんの料理を味わって、閉店後に少し時間をもらってから、近くの公園で告白しようと決心した。
っていうか、同じ週に2回も、しかも違う男性に告白するとか、あげくどっちも公園とか……自分のボキャブラリーの無さと情緒不安定さが心配になってくる。
それでもこれが正直な気持ちなんだと、香椎くんが教えてくれた。それが魔法のようにすんなりと自分に入ってきて、不二さんとの電話でだって、胸の高鳴りを抑えられない自分がいた。
いつのまに、こんなに存在が大きくなっていたんだろう。本当についこのあいだまで、香椎くんとうまくいきたいって、思っていたはずなのに。これが乙女心とかいうものなの? ずいぶん身勝手じゃないですか。
「本気で言ってます? シェフ」
「本気だよ。僕、こういうときに冗談は言わないよ?」
あれこれ考えているうちに、フードトラックのうしろ側に到着していた。トラックのなかから、わずかに不二さんと千夏さんの声が聞こえてくる。トクトクと、すでに胸が脈打ちはじめていた。さっきも頭を過ぎったけど、わたしが不二さんを好きってことは、千夏さんとはライバルになってしまう。ああ……それもちょっと、億劫な気がする。
けど、そんなことを言ってる場合じゃなかった。
「じゃあ、キスがいいです。ダメですか?」
正面に回り込もうとした足が、ピタ、と止まる。
なんの話かな? と思いつつも、正面にさえ回れば、どちらかがわたしに気づいて、挨拶してくるだろうと思っていたのに、この耳がしっかりと千夏さんの声をとらえたせいで、動けなくなってしまった。
キス……がいいです? その前は、なんて言ってたっけ? 本気で言ってるのか、とか、本気だよ、とかなんとか、そんなことを言っていなかった?
そ、どういう意味? 本気で、キスしてあげるってこと?
「ううん。僕もキスがいいって思ってた」
「シェフ……」
思わず、そっとキッチンのなかを覗き込む。不二さんの背中が見えて、奥には、千夏さんの足がチラッと見える。
時間が遅いせいか、周りに人はいない。トラックのなかのぼんやりとした照明が、ただ二人のムードを盛り上げていた。
ちょっと待って、い、いまからキスするってこと? 不二さん、千夏さんに興味ないって感じだったのに、キスしちゃうの? あ、わたしにもしたし、そういうのお手のもの? だからって、そんな、千夏さんは不二さんのこと好きなのに、そんなの、そんなのダメ……!
「じゃあ千夏ちゃん、ほら、緊張しないで」
「はい……少し、ドキドキします」
「うん、大丈夫。肩の力、抜いてね?」
不二さんが、千夏さんに一歩、近寄った。もう、見ていられなかった。急激な嫉妬の波が全身に流れてきて、足が、勝手に動いていた。
「嫌です!」
「えっ!」わたしの大声に、千夏さんは悲鳴をあげた。
「伊織さん? ……ああ、びっくりした」
ドドドッと、足場のような3階段をのぼって、トラックのなかに入っていた。
不二さんも千夏さんも驚愕の顔でこっちを見ている。こんな、トラックのなかで、仕事中に……いいや、そんなことじゃない! とにかく、嫌だ! ダメだ!
「な、なんでそんな、そんなことするんですか? 不二さん」
「え? そんなことって……」
「伊織さん? ちょ、どうしたんですか? なんで泣いて」
千夏さんのかわいい目が、まんまるになって、わたしを見ている。そこまで言われて、はじめて泣いていることに気づいた。全身が、熱い。だって絶対に、絶対に嫌なんだもん!
「不二さんがキスしたの、わたしじゃないですかっ」
「……え」
不二さんの顔が、少しだけ赤くなった。バレたくなかったですか? でも千夏さんのなかでは付き合ってたことになってたし、そんなのいまさら……ああもう、そんなこと、どうでもいい! 不二さんが変な嘘ついたせいで、話がややこしくなっちゃってる!
「どうして千夏さんにも、同じことしようとしてるんですかっ。不二さん、そんなにキスしたいの? それならわたしがいますっ! わたしに言ってください! わたし、不二さんとなら、キスしますっ。っていうか、不二さんとならキス、したいですし! でもだから、だから、千夏さんとは、しないでください! 嫌なんです!」
もう、玉砕だ、こんなの……わかってるのに、涙の訴えが止まらない。よく謝罪会見で泣きながら喚いている人の情緒は、きっとこんな感じなんだろう。
滑稽だってわかってても、言わずにはいられないんだ。伝えなくていいことまで、いちいち言葉にしてしまう。
「……」不二さんの口が、少しだけ開いたまま、止まっている。
「……あの、伊織さん」そこに千夏さんがなにか言おうとしたけど、負けるわけにはいかない。わたしはその声をさえぎった。
「不二さんひどいですっ、どうしてそうやって、思わせぶりなことばっかりするんですか? わたしにだけじゃなかったんですね? 千夏さんにもそうやって! わたしは、不二さんが好きなのに! やっぱり不二さんにとって、わたしは都合のいい女なんですね! もう、もうそんな不二さんなんか、嫌いです!」
そこまで言って、顔を覆って泣いてしまった。でも、そこからわずか、5秒後くらいだった。
不二さんと千夏さんの「くっくっく」という笑い声が、トラックのなかで響きはじめた。
今度は、こっちが驚愕する番だった。わたしは顔を覆ったまま、目を見開いた。
人が一世一代の告白をしたというのに、鬼なのか、この人たちは……。
「……な、なんで笑っ」
「ふふっ……伊織さん、思い切って、顔をあげてみない?」
「え……」
「シェフ、あたし外の看板さげてきますねー」
「うん、ありがとう千夏ちゃん。これはあとでやろう」
「いいですよー、ごゆっくりー」
千夏さんが横を通り過ぎていくのが、気配でわかる。狭くはなくても、そこまで広くないトラックのなかなので、若干、お互いの服が擦れる音までした。
この空気感に、さっきまで熱かったわたしの熱が、急激に冷めていった。なんなら、冷や汗のようなものをかきはじめた。とんでもなく、ゾッとする。
「伊織さん? 顔、あげてみない?」
不二さんが、わたしの両手に触れて、顔から離すように下におろした。
とてもゆっくりとした動作のなか、おそるおそる、顔をあげてみる。不二さんが、にっこりと笑っていた。直後、シンクに手を突っ込んだかと思ったら、なにかを持ち上げた。
「旬なんだ。鱚」
頭のなかが、一瞬で「キス」から「鱚」へと変換されていった。
「千夏ちゃん、調理補助もやるでしょう? でも魚をさばけないっていうから。教えてあげようって思ってたんだよ。もう閉店近くって、お客さんもいないしね。ちょうど、材料が余ったから」
「……不二さん、わたし」
とんでもなくはずかしい勘違いを、していたということですか?
「ふふっ。あ、ごめん、思いだしたら、笑っちゃう」
「そ……」
「ご飯、食べに来てくれたんだよね? ごちそうするから、テーブルに座って待ってて。それで、そのあとは時間ある?」
「あ、あります、けど……」
「ん。じゃあ、家まで送るから、クローズまで待っててね? いいでしょう? 僕のこと、好きなんだよね? あれ? 嫌いだ、とも言ってたっけ?」
だーっと真っ赤になっていく顔を自覚しながら、逃げるようにトラックから出た。
外にいる千夏さんがニヤニヤとこっちを見ている。おかしい、千夏さん、こないだまで不二さんのこと好きだって、わたしのことライバル視してたのに、なんで!?
疑問が頭をもたげつつも、はずかしさで死んでしまいたくなりながら、不二さんの料理をいただくことになった。こんな思いをして、ごちそうにまでなるとか……もう、穴があったら入りたい!
不二さんの料理は、相変わらず美味しかった……美味しいのはわかるのに、味がしなかった。
あれから1時間ほどで、お店は閉店を迎えた。
わたしはほとんどしゃべらず、トラック前のテーブルでおひとり様の時間を過ごした。千夏さんが「ウケますね。できることなら動画に撮って生中継したいくらいでした」と、渾身の嫌味を言ってきたのだけど、「千夏さん、不二さんのこと好きじゃなかったの?」とも聞けないくらい、顔をふせることしかできなかった。
酔ってしまいたかったので、お店のクローズぎりぎりまでワインを飲んだものの、酔えなかった……。でも時間が経ったおかげか、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
やがてトラックの片づけを終えた不二さんが、近くでぽつんと座っていたわたしに声をかける。
「乗って。駐車場まで一緒に行こう」
「あ、はい」
なるほど、と思う。フードトラックで自宅まで送ってくれるのかと思いきや、そうではなかった。駐車場には山梨に行ったときと同じ車が停まっており、不二さんはその横にフードトラックを停めた。いまさらながら、そりゃそうかと納得してしまう自分がいる。
この大きなトラックを、不二さんのマンションに置ける気がしない。
「さて、じゃあ出発しようか」
「すみません、いつも……お願いします」
「ふふ。気にしないで。でも、その前に……」
「え? ひゃ!」
エンジンをかけて、出発する直前だった。不二さんが突然、わたしの手を強く引いた。
瞬間、唇がしっかりと触れてきて、大げさなほどに肩が揺れた。
ぎゅうっと、強く体を抱きしめられる。まったく離れる気配のない唇の感触に、体の力が、ゆるゆると抜けていった。
「ふ、不二さ……」
「ン……ふふ。僕とキス、したかったんだよね?」
「そ……あれは、その……」直視が困難になるほど、顔が近い。あたりまえだ、キスしたんだから。
「あれ? 違った? 僕がキスしたいって言ったら、伊織さん、してくれるんでしょう?」
いじわるな不二さんの質問と、その微笑みに、何度でもはずかしくなってしまう。胸に顔を埋めるように頷くと、「ふふ」と優しい声がして、髪をそっとなでられた。
「ねえ、伊織さん」
「なん、ですか……」
「さっきの、もう一度、言って?」
「えっ!」
「僕が好きだって、言って?」
ちゅ、ちゅ、とこめかみに、耳に、頬に、キスが何度も落ちてくる。耐えられそうにない。だいたい、不二さんの気持ちだってよくわからないままなのに。いや、これは、それなりに好きでいてくれてるってことはわかるけど……でも、ちゃんと、聞きたいのにっ。
「不二さんのことが……」
「あ、ダメだよ。下の名前で呼んでくれなきゃ」
「は、え!?」
「僕、不二周助って言うんだ」知ってますよ、そんなこと! 「だから、周助って言って」
「そ……不二さんっ」
「あれ? 言ってくれないの? 伊織さんの気持ちってその程度? あ、ひょっとして、香椎さんに振られたから、僕のとこに来たのかな? 都合のいい女は嫌だって言いながら、僕こそ都合のいい男なのかな……」
「ち、違います! 好きですちゃんと!」
「ふふ。うん。誰が? ちゃんと言ってくれなきゃ、家まで送ってあげないよ?」不二さん、は禁止ね? と首をかしげている。
わたしのタイプは、主役よりも2番手くらいの脇役で、いつもヒロインに振られてしまうような、どこか悲しい、でも芯は強い雰囲気の男の人だったはずだ。香椎くんに言われて、たしかに不二さんじゃんって思ったのに、いま、なんか全然、違う!
芯が強い! そこだけしか合ってない! 超ドSなのもしかして!?
「し……周助、さん……が、好きです」
「ふふ。うん……僕も好き」
耳もとで、優しい声で、キスしながら。
「僕も、伊織さん、大好きだよ……すごく嬉しい。てっきり、片想いだと思ってたから」思わせぶりだったのは、本当に、想っててくれていたんだ。
「しゅ……周助さん、も、そろそろ……」だからって、身が、持たなくなってしまう。抱きしめられる力が、熱くって。
「ためらいがちなのが、かわいいね」
くすくすと微笑んで、最後にチュッとキスをして。
体は離してくれたけど、車が発進してからも、ずっと手を握りしめたままだった。
「明日も、会えるね」
「はい、そうですね!」
「おやすみ伊織さん。大好きだよ」
「不二さん」呼びをすっかり禁止されてしまったので、思いきって「わたしも周助さんが好きです」と言おうとしたのに、電話は切れていた。シーン、とした心境になりつつも、ほどなくして、やっぱり顔がニヤけてきてしまうのを止められない。
ものすごくはずかしい思いをしてしまったけれど、とはいえ、周助さんと千夏さんにしか見られていない姿だから、もう忘れることにしようと、強く心に誓う。
あのあと車のなかで、周助さんは香椎くんとのことを聞いて、とても嬉しそうにしていた。
「やっぱり彼、とても素敵な人だね」
「そう、ですね」本当に、香椎くんは素敵な人だ。
「……ちょっと、もったいなかったとか、思ってる?」
「え、いや、思ってないですよ!?」
なら、いいんだけど。と言いながら、少し怖かった。なんだろう、あの独特なオーラ。
周助さん、ヤクザと対峙したときもなんだか怖かったけど、ああいう一面もあるんだなと思ってしまう。
一方で、不可解だった千夏さんの件を聞いてみると、千夏さんは、ほかに好きな人ができたという、「でしょうね」と言いたくなる答えが返ってきた。
本当についこのあいだまで、「シェフー!」と言いながら目をハートにしていたというのに、なにがあったんだろうと思ってしまう……けども、わたしがそれを言える立場ではないので、もちろん黙っていた。
そして、翌日の夕方、わたしと周助さんは、また都留市に訪れていた。
「この時間帯の富士もいいね」
「ホント……なんだか幻想的ですね」
『スナックよりみち』までの道も富士がくっきりと見える道路を通ることができたのだけど、その美しすぎる景色に、うっとりとしてしまう。
こんなにいい街に住んで、心が荒れることなんかあるのだろうかと思ってしまうけど、あたりまえの景色になると、そういう問題ではないのかもしれない。
ピラミッドの前に住んでる人にだって、悩みはあるはずだ。
「デートの中身は探偵だけど、ロマンチックだね」
「あはは……ですね」
「伊織さん、して?」
「え……」
見ると、赤信号だった。さっきから赤信号になるたびに、周助さんがキスをおねだりしてくる。
綺麗なお顔が目を閉じて、じっとわたしからのキスを待っているのを見るだけで、鼻血が出てしまいそうになるというのに……ていうか周助さんってこんなにカッコよかったっけ。いやいや、カッコよかったけど、なんか昨日から、急激にもっとカッコよく見えてる、わたし。
ちゅ、と唇に触れると、周助さんは優しく微笑んだ。
「ん、ありがとう」
「も、何回するんですか……」嬉しいけど、はずかしい。
「もちろん、これから何回もするよ?」
「いつも、わたしからばっかり……」これが、とにかくはずかしい。
「ふふ。じゃあ帰りの赤信号は、僕からしてあげる」
キスを送ると、周助さんは決まって頭をなでてきた。これから野瀬島のことを調べに行くというのに、甘すぎて調子が狂いまくる。
頭を切り替えてキリッとしたいのに、周助さんの誘惑が、全然それを許してくれなかった。
「あ、あのお店みたいだね。スナックよりみち」ほら、と周助さんが指をさした先に、いかにもの看板が点灯していた。
「あ、本当ですね!」
お店の看板のおかげで、頭が少しだけキリッとなる。オープンは6時30分。時計をみると6時33分だった。さすが、周助さんだ。
近くの駐車場に車を停めて、さっそく、なかへと足を踏み入れた。
地下階段をおりたところに、お店はあった。扉をひらくと、すぐにカウンターがあり、奥にテーブルソファ席が5つある。カラオケ用の液晶テレビが正面にかけられいて、暖色系の照明が田舎らしい柔らかさを出していた。これぞ、絵に描いたような想像どおりのスナックだ。
「いらっしゃいませ。あら、めずらしい。カップル?」
「あ、はい。いいですか?」
「もちろん、大歓迎よ」
おそらく、ママだった。そしてラッキーなことに、お客さんがいない。わたしがためらいがちに聞いたせいか、ママはにっこりと微笑んだ。パーマが強くかかったセミロングで、少しだけふくよかなママは、見たところ50歳、くらいだろうか。もう少し若いかもしれないけれど……。
「お飲み物、なんにします?」
「すみません、僕は車なので、ウーロン茶で。伊織さんは飲んで?」
「えっ、いやわたしもっ」
「ダメだよ。こういうところに来たら、飲むのがマナーだから」
さっきまでとっても甘やかしてデレデレさせてくれていた周助さんにきっぱりとそう言われて、ピン、と背筋が伸びる。
周助さんの、仕事モードの雰囲気を感じたからだ。目が、カチッとしていた。
「あら、いんですよ? お気遣いなく。でも飲まないなら、こんなとこに来た意味ないわよねえ?」
ギクリとする。そうだ、飲まないのにこんなとこに来るなんて、じゃあ歌うのかって、歌わないし。ママに怪しまれないために、とっとと飲むべきだった。いや、そもそもここはスナックなんだから、どう考えても、飲むべきだったんだ。ああ、もうバカだなわたしは!
「えっとじゃあ……ウイスキーですよね、やっぱり?」スナックといえばウイスキーという、短絡的な思考になった。
「伊織さん、ウイスキーも飲めるの?」周助さんが、少し驚いた顔でわたしを見る。
「はい、あの、結構、好きなほうです」お酒はなんでも美味しい。
「そうなんだね。じゃあ、ウイスキーがいいんですけど、どんなのがありますか?」
「そりゃ、アタシのおすすめは、山崎12年か、マッカラン12年ですねえ」
高いお酒なんだろう。ママはいたずらに笑った。
「じゃあ山崎、ボトルでお願いします」
「あらまあー、お若いのに気前がいいこと!」
あっさりと注文してしまった周助さんにぎょっとしたけれど、周助さんは素知らぬ顔で店内を見渡している。
山崎12年って、すごく、高くなかった……? しかもこういうお店で出てくるのなんて、定価の2倍とか3倍とかしなかった!? ていうか、ボトルで!?
「え、周助さ……」
「あ、ごめん。勝手に決めちゃったけど、よかった?」
「それは全然いいんですけど、た、た、高いですよっ」
隅っこで山崎12年のボトルを探しているママに聞こえないように小声とそう言うと、周助さんはふっと笑って、そっと耳もとでささやいてきた。
「たくさん飲んで、酔いつぶれちゃってもいいよ?」
「は……?」
「ふふ。僕の前では、いくらでも無防備になってね?」
ぶわっと、また体が熱くなっていく。言われたこともことだし、テーブルの下で周助さんの手がわたしの手を握りしめてきたからだ。
いまから調査をしなきゃと思っているのに、いちいち巻き戻さないでほしい! ああでも、幸せだし、もう、頭がおかしくなりそう! 切り替えなきゃ、切り替えなきゃ。
と、思っていると、周助さんがポン、とわたしの膝を打った。
「安心して。もちろんそれだけじゃないから」
「え」
「はーい、おまたせしました。これ、つきだしね」
それだけじゃない、に思考をめぐらせているうちに、ママがウイスキーとつきだしを出してくれた。
美味しそうなきんぴらだ。お腹が鳴りそうになる。だけどこのママも、まさか三ツ星シェフに出しているとは思いもよらないだろうなと考えると、少し気の毒になってきた。
「ありがとうございます。ママも、飲んでくださいね」
「あらあ、いただきますー」
「ところで、僕たちは聞きたいことがあってきました」
「へえ? なにかしら」
きんぴらを口に入れたところで周助さんがそう言い出して、またまた、ぎょっとした。いきなり本題に入ったからだ。
「それだけじゃない」というのは、もしかして、山崎12年をボトルで入れたことで、ママに口を割らせようとしている、ということだったのかもしれない。
いろいろと策を考えていたなら、教えていてほしかった……前のときはきっちり話し合って学校に行ったのに、今日は……ホントにキスばっかりしてたから……。
ああ、もう、舞い上がっちゃった自分もはずかしい!
「以前、ここに野瀬島みずえさんという方が働いていたと思うのですが」
「ああ……ええ、まあねえ。ずいぶん前の話ですねえ、それは」
周助さんは話をつづけていた。そしてママの顔が、野瀬島みずえの名前を出した瞬間、面倒そうにわたしたちを見た。答えることが面倒なのか、それとも、野瀬島みずえに関わることが面倒なのか。
わたしたちとママのあいだには、この瞬間、たしかに緊張が走った。
「彼女の息子さんのこと、ご存知ですか?」
核心をつくように、周助さんは言った。
ママが、少しだけ沈黙して、窺うように見てくる。ここからどう聞き出すつもなんだろうと思っても、打ち合わせをなにもしていないので、わかりようがない。
「……最近、ちょこちょこ出てますねえ、テレビとかに。お客さんで話していく人も多いですよ。ほら、もう40とかでしょう? あの世代」
どうやら野瀬島克也のことも、ママは知っているようだ。
「ママには迷惑はかけませんから、なんでもいいので、知っていることがあれば教えてもらいたいんです」と、周助さんは切り出して、淡々とつづけた。「僕は、野瀬島の被害者です。そしていま僕の友人も、彼に痛めつけられているかもしれないんです。だから僕は、彼のことが知りたい」
えっ、という声を、漏らしそうになってしまった。周助さんが、自分のことを被害者だと言うとも思っていなければ、友人も痛めつけられている、という言葉に、驚いた。
きっとそれは……跡部さんの件だ……。あの3億円の慰謝料スキャンダルにも、野瀬島が関わっているということ?
そんなこと、ここに来るまでにひとことも言っていなかったから……息が詰まりそうだった。
「僕の話、少し聞いていただいても、いいですか?」
「……スナックってのは、そういう場所ですよ」
息が詰まりそうだったのは、わたしだけじゃなかったらしい。
粋な返答をしたママは、そこからする周助さんのレストランの話に、ぐっと眉間にシワを寄せて、静かに聞いていた。
周助さんの話は、もちろんすべて知っていることだけど……その被害を周助さんが話しているというだけで、また、胸が痛くなった。いまは落ち着いている周助さんだけど、本当にあのときは、見ていられなかったから……。
ママも聞きながら、気の毒だと思ったのか。被害の話を聞き終わったころには、ウイスキーを飲み干した。
「アタシの話も、ちょっと聞いてもらおうかしら」
「ええ、ぜひ、お願いします」
超大人の会話のやりとりに、ついていこうと必死になる。
「うちで出してるつきだしはね、ずっとアタシがつくってたんですよ」
「……美味しいですよ、このきんぴら。辛さも、ちょうどいいです」
「あら、まあ。フレンチシェフに言われると、嬉しいもんですねえ。あと、いい男に弱いのよ、アタシ」
急に話が変わったように思えたのだけど、周助さんは微笑んで、ママを見ていた。この二人だけのあいだに、なにかテレパシーのようなものが存在している気がする。
というか周助さんって、もしや熟女キラーなんじゃないだろうか。ものすごくそんな気がしてきた。
「でも、昔はよくみずえにも任せてました。アタシが東京やら、沖縄やら、とにかく旅行に行ったときは、ほとんどアレがチーママだったから。しょっちゅう、任せていたんですよ」
――みずえ、つきだしメニュー、もう自由におやりよ。
――いいのママ? レシピも自分のでいいの?
――いいわよ、アンタももう長いんだから、好きにしてよ。
「アタシはあの子、信じてたのよねえ。若いころからずっと一緒だったしね」
それは、信じていたアタシがバカだった、と言わんばかりの口調だった。
みずえは18歳のころからずっと水商売を渡り歩き、20歳のときにこの店に来たそうだ。ママはそのころ、25歳でこの店をオープンしたばかりだったという。
ママがつきだしをみずえに頼みはじめたのはそこから5年後、さらにみずえはそこから15年近く、この店で働いていたという。
「23年前ね、みずえのつくったつきだしで、大変なことが起きたんです」
「23年前」「大変なこと」という前置きに、わたしは目を見開いた。23年前は、野瀬島がレスリングの遠征をあきらめたころだ。
「……食中毒でも、でましたか?」すかさず、周助さんが言った。
「えっ」
わたしはついに、声をあげてしまった。一気に、背筋が凍りそうになった。
「勘がいいのね、フレンチシェフは」
「ふふ。ただの勘ですよ」
食中毒……周助さんが言っているそれは、トリカブトのことだろう。
まさか野瀬島みずえまでもが、トリカブトを使っていたのか。いや、までも、というより……野瀬島みずえこそが、偶発的にせよ意図的にせよ、トリカブトを使っていたとしたら?
「トリカブトです」と、ママが言った。やっぱりか、と思う。「山菜と間違えたと言ってましたけどねえ。お客さんはなんとか一命をとりとめたんですけど、それでも厳しかった。悪い噂っていうのは、なかなか消えません。いい噂はすぐに消えちゃうのにねえ」
「ええ、僕もそう思います」
「だからね、うち、実は1回、お店をたたんでるんです」
「……そうですか」
飲食店同士の切実な悩みを周助さんが先に話したせいか、ママは少し、嬉しそうだった。
だからこそ、饒舌になってくれたのかもしれない。
ママもこのお店の経営者だ。若くしてお店をオープンし、不可抗力でたたむハメになってしまったという経緯は、周助さんのそれと、よく似ていた。
「アタシはね、あの日からずっと、みずえを疑ってます」
「つまり……その、みずえさんのつきだしは、意図的だったということですか?」わたしは思いきって、聞いてみた。
「ええ、そう……みずえはうちで、リハーサルをやったんだと思いますよ」
「リハーサル?」
「息子と結託してたんじゃないかって、アタシは思ってるんですよ。証拠なんてないからね、こんなこと、言っても誰も信じないでしょうけど」
「どういう、ことでしょうか……?」
まったく話がわからなくなってきて、困惑した。
息子というのは、もちろん野瀬島克也のことだ。息子と結託してリハーサルというのは、まさか、殺人のリハーサルということだろうか。いったい誰を、殺そうとしたというのだろう。
「ああ、そうね。お嬢さんにもわかるように、順を追って話しましょうか」
「すみません、そうしていただけると、助かります」
周助さんが丁寧に頭をさげ、わたしも一緒になって下げたとき、ママがタバコに火をつけた。
「あれほどバカな女はいませんよ。みずえの息子の克也はね、無戸籍児だったんですよ」
その衝撃に、両手を力いっぱい握りしめていた。
手のなかのウイスキーグラスが、カラン、と音を立てて、氷を溶かしていった。
to be continued...
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