初恋_04


4.


ぜひとも、みなさんにお聞きしたい。
家庭教師って必要やろか?
いやいやもちろん、マンツーマンがええっちゅう理由はわかる。俺かてそんなことはわかってますがな。
せやけど、このご時世やし。男子学生には男の先生で、女子学生には女の先生がええんとちゃうやろか。なにが悲しゅうてわざわざ、年頃の女子学生と、バリバリ女のことしか考えてないような20代前半の男を、その女子学生の部屋に招いて、勉強する必要があります?
そんなん逆に勉強にならへんのんちゃうの? 俺が女子学生のオトンやったら絶対に嫌やけどな! しかもうちなんか付属校、大学にはほぼ確定で行けるんやし、そんなに勉強したけりゃ、塾でええやろ、塾で!
と、そこまで話したとき、バシン! と、頭をはたかれた。

「……さっきからてめえは、うちの使用人たちになにを演説してやがんだ?」

慣れてきたもんで、痛いと思うこともなくなってきた。そのうちお笑い芸人みたいに微動だにせずにしゃべりつづけられるんちゃうやろか。

「ああああああ、忍足さま、大丈夫でございますかっ」
「すんません、心配してもろて。大丈夫です……」跡部ぼっちゃんを咎めることはできんのやろう。難しい立場におる使用人は、とりあえず、俺の心配をしてくれはった。
「景吾さま、申し訳ございません! 忍足さまをお部屋までご案内しようとしたのですがっ……!」
「いい、お前らが悪いわけじゃねえのはわかる。忍足、なんの用だ」

跡部に用があったから来たものの、跡部の家に入ってすぐに、ぎょうさん使用人の人たちがおったで、つい、話してもうた。
それくらい、俺の頭は沸騰しとった。
昨日のタクミとかいうヤツの出現から、俺はずっとそのことで頭を痛めとる。あまりにも頭痛がしてきよったで、もう、跡部に泣きつくしかなくなった。
俺、どんだけ友だちおらんねん……せやけど、俺と伊織のことにいちばん協力してくれてんの、跡部やし。
こいつは俺の気持ち、知っとるし……。謙也も知っとるけど、あいつはまったくアテにならんでな。

「跡部、聞いてくれる……?」
「まったく聞く気にはならねえな」
「そんなん言わんとってや。俺にはお前しか味方がおらんねん」
「……てめえが逮捕でもされると俺が迷惑だ、聞いてやる」

俺を部屋にとおしてから、跡部はぼそっとそう言うた。
逮捕……って、なんのことやろか。とりあえず、ええか。
跡部がふかふかのソファに座る。俺も、そのとなりにお行儀ようして座った。

「昨日の遠足さあ……最悪やってん」
「はあ? お前な、俺の計らいを台無しにしやがったのか?」
「ちゃうよ、俺かてそれは、それなりに頑張ったんや。せやけど、思わぬヤツが出てきよってん」
「アーン? ……なにがあった?」

俺は跡部に、伊織の家庭教師である、タクミとかいう男のことを打ちあけた。





「か、家庭教師?」
「うん。タクミさんは氷帝学園のOBなんよ。せやからね、転入試験のときもお世話んなったんよ」
「へえ、そうなんや……」

俺はタクミっちゅう男に差しだされた手を、ゆったりと握った。「よろしく」と男らしく声をかけてニッコリ笑ってきよる。
男のくせに、しかもサイクリングでここまで来たとか言うてたくせに、手がさらさらしとった。ほんでええ匂いがしてきた。しかも声が甘い。なんや顔も甘い。甘いっちゅうか、男の色気が爆発しとる。なんなんやこいつは。

「伊織ちゃん賢いけん、僕が教えることなんて、ほとんどなかったけどね」
「また、タクミさん! なんですぐそんなん、嘘ばっか言うん?」
「嘘じゃないっちゃ」

すでにここで、ツッコミどころは満載やった。
まず、その仲よさそうな会話、なに? 家庭教師と生徒って、もうちょっと距離感あってもええんちゃうの。俺が伊織のオトンやったらこんなヤツ即刻クビにしたるわ! 馴れ馴れしくしやがって!
あとなんやその、違和感あるしゃべり方。関西弁ともちゃう、伊織の発音。それに加えて、タクミいうヤツも、伊織と同じしゃべり方をしとる。
俺がその、二人だけの世界みたいなのに結構な衝撃を受けとると、タクミいうヤツが、俺の動揺に気づいたみたいな顔して、「あ」と声をあげた。

「ほら伊織ちゃん、あんたが広島弁でしゃべるから、僕も広島弁に戻ってしまうがね!」
「え、先に戻ったん、タクミさんじゃけ!」

仁王なんかお前ら……いや、仁王ともちょっとちゃう感じ。広島弁やと……? 伊織も俺と一緒で、引っ越しが多い人生や。あのあと、広島に住んだりしたんやろか。

「ほらまた! いけんいけん、彼、ぶちびっくりしちょってじゃろ?」
「あははっ。ホントじゃあ。侑士、ぶちびっくりしちょる」

二人して、ケラケラ言いながら俺を見た。
ちゅうか待て、おい、タクミ。そんな見た目でその方言、ずるすぎるやろ! ギャップ狙いか!? しかも伊織もなんやねん! 俺としゃべるときだけ関西弁になるんかと思っとったのに、こいつとは広島弁でしゃべるんか? それが初日に担任に言うてた「方言ネイティブ」っちゅうこと!? そんで? なんやひょっとして、広島弁はこいつだけのモンとか!?

「ごめんね、君。えーっと……」
「忍足、いいます」

内心の苛立ちを気づかれんようにして、俺はタクミ野郎の目を見た。見れば見るほど、めっちゃ、笑いそうんなるほどイケメンなんやけど……なんなんこいつ、ホンマに。跡部レベルの男前やん。

「忍足くん。ごめん、僕、出身が広島でさ」そうなんやろな、どう考えても。言われんでもわかるで。
「侑士は関西やから、広島弁ある程度わかるやんね?」

伊織が無邪気に首をかしげてきた。かわいい……。せやけど、全然ほっとできんかった。
目の前にタクミがおるばっかりに、伊織のかわいさに昇天もできへん。この色のバケモンみたいな男は、危険すぎる!

「ああ、そうなんだ。関西かあ」
「いや、住んどったのは、そんな長くないんですけど……まあでも、西同士っちゅう感じ、ですよね。言葉のニュアンス、似とるし」

伊織の前や、俺がいきなりタクミに敵意むき出しやったら伊織に嫌われる。なんとか、なんとか普通に、ええこしてタクミとはしゃべらなあかん。
俺は、必死やった。

「そうだね! あ、僕と伊織ちゃんはね、幼なじみなんだよ」

ちゅうのに、必死のなかでさらっと出てきた言葉に、俺の頭に、ゴン、と打たれたような衝撃が走った。
幼なじみやと……? 幼なじみは俺じゃ! と叫び倒しそうになる。あげく、息を整えるその前に、俺はさらに深い衝撃を受けた。

「そう、わたしが小1のころ、タクミさん、となりに住んではったんよ」
「え……」

小1……つまりそれは、7歳や。俺と伊織が会ったのは、10歳のころ。3年も違う。
3年も……俺はこのタクミに、先を越されとるっちゅうことか?

「そのとき、僕が小6で。忍足くん知ってるかな? 都会だとあまりなさそうなんだけど、田舎だと近所で班をつくって学校に行くんだよ。僕がそこの班長でね。1年、一緒に登校して」
「懐かしいー。侑士、知っとる? 班長さんは黄色い旗を持つんよー。あれなんて言うんけ。集団登校?」
「そうそう、集団登校じゃね」

めちゃくちゃ、どうでもええ。あと俺も引っ越し先で経験したことある。ちなみに俺はいつだって副班長やった。でもそんなん、ホンマにどうでもええ。
そんなことよりも、俺よりタクミいうヤツんが、伊織とのつきあいが長いのが気になってしゃあなかった。

「二人は、そのころからのつきあいなん……?」と、俺はボソボソと聞いた。自分でも声がはっきり聞こえへんくらい、小声になっとる。
「うん。わたしね、小2で引っ越したんやけど、タクミさんが文通しよって言うてくれはってね。そのころからずっと連絡、取り合っとるんよ」

また、ゴツン、と、跡部にはたかれたわけでもないのに、脳が揺れたような気がした。
待て待て待て、ずっと、連絡を取り合っとるやと……?
動揺した俺に気づくこともなく、二人はこれまでの流れみたいなもんを、俺の前で意気揚々と話した。
どうやらタクミは高1になる年、広島から上ってきて、わざわざ氷帝学園高等部に入学したらしい。大学を去年卒業……ちゅうことは、俺が中1からずっと伊織のこと探し回っとったのに、こいつはそのころ氷帝の高等部におって、バリバリ伊織と連絡とりよったっちゅうことや。

「伊織ちゃんひとりっこで、僕によく懐いてくれたから。かわいくてね」
「またタクミさん、嘘ばっか言う!」
「嘘じゃないっちゃー」

その、イチャイチャとしたやりとりに……俺は、ホンマに……これまでの比やないくらいに、絶望の淵に落とされた。





「ほう。つまり、佐久間は氷帝学園に転入するために、そのタクミとかいうヤツに家庭教師を頼んだってことか?」
「ん……」
「それが、どうかしたのか?」
「え、はあ!? 跡部お前、俺の話、聞いとったんか!?」

なんでこんな衝撃的な話を聞いて、跡部が呆れた顔して俺を見てんのか、全然、理解ができへん。
やって、俺だけが、伊織の幼なじみやと思っとったのに!
伊織の周りにおる家族以外の男は、俺がいちばん古いつきあいで、俺しか知らん伊織がいっぱいおって、それだけが俺の自慢やし、優越やったのに……!

「つまりお前はエセ幼なじみで、そのタクミとかいうのが本物の幼なじみというわけだな?」
「な……誰がエセじゃ! 俺かて幼なじみやっちゅうねん!」
「ほう? だがそいつは佐久間とずっと連絡を取り合っていた。お前とは5年も疎遠だったんだろうが。そういう関係で、幼なじみと言えんのか?」
「……そ、そんなん、気持ちの問題やって、口にされんでもわかるしっ」

そういや、伊織から「幼なじみやもんね」とか、言われたことない気がする……。そんで跡部が言うたことは、めっちゃ俺の心の傷を抉った。
そうなんや……あのタクミとかいうのはロリコンなんか知らんけども(どうせロリコンや、そうに決まっとる!)、伊織と、11年も前から連絡を取り合っとる……!
……伊織、俺とは連絡先も交換せえへんかったのに。そら言いださんかった俺にも責任はあるで? せやけど……。
なんで? タクミがおったから? タクミだけでよかったとかそういうアレか!?

「まあ忍足、人間は幼なじみとしか恋に落ちねえわけじゃねえよ」そんなにどうでもいい話だとは思わなかったな……と、跡部は付け加えた。「つうか逆に、幼なじみと恋愛してるヤツなんて、そうそういねえだろうが」
「せやけど、少女漫画とか、女子が好きな恋愛系はそんなんばっかや!」
はあ、と、跡部がさらに深いため息をつく。「リアルにはねえからファンタジーで成立すんだろ」バカかよ、と、また付け加えた。なあ、さっきから、付け加えられとる言葉がグサグサくんねんけど。
「せやけど家庭教師とか……」

なんや、響きがめっちゃヤラしいやん。伊織の部屋で、広島弁を交えながら、二人であのイチャイチャくり広げながら勉強しとるんかと思うと、もう、俺は気が狂いそうやった。

「それもAVの見すぎだ、てめえは」

ごく冷静に、跡部は言うた。
跡部でもそんなこと言うんや、と思う。ちゅうかこいつ、そういうAV見たことあるっちゅうことやな、この発言。跡部ファンクラブに教えといたろか。ものすごい騒ぎになりそうや。ああいや、いまはそんなことどうでもええ。

「けど、あいつは伊織の部屋に入って勉強教えてんねんで!? いまも!」

あげくAVどおりやってみい、「いま、うちに誰もいないの」とか言うて、「そうなんだ、じゃあ、声出しても平気だね」とか言うて、そんで「あ、タクミさんダメ」とか、ああああああああああ! あかん、考えられへん! そんなん絶対あかん!

「あたりまえだろ。家庭教師というのはそういうものだ。もうすぐ中間考査もはじまるしな」

俺が、こんなに頭がおかしくなりそうやっちゅうのに、跡部はどこまでも冷静やった。
ホンマに、めっちゃどうでもよさそうに、いかにも、はよ帰ってほしそうな顔で俺を見とる。
あかん……こいつ、俺の味方やと思っとったのに、頼りにならへんやないか。

「つうかな、忍足よ」
「なんや……」

俺がこんな、どん底に落ちとるのに。こいつには俺の気持ちなんか、ちっとも理解できへんのや。自分はイケメンでモテるからって、余裕ぶっこいとる。あのタクミみたいに。

「そんなに佐久間が好きなら、とっとと告白すりゃいいだろうが」
「え」

跡部のその提案に、俺はカピン、と固まった。

「いや、告白て……。再会してから1ヶ月も経ってへんのに」急すぎ、ちゃうかな……。
「アーン? それが関係あんのか? てめえは5年もストーキングしてたんだろ?」
「してへん!」いやしとったようなモンやけどっ。「せやけど7年も前から好きとか、気持ち悪いやろ? ずっと、会ってもおらんかったのに」
「ああ、気持ち悪りいな」さらりと言いよった。やっぱり気持ち悪いんや……と、密かに落ち込んでまう。「だが、それが事実だろうが?」
「せやけど……」
「らしくねえな忍足。振られるのが怖いのか?」
「……別に、怖ない」こ、怖いわけないやろ。俺は男やぞ。
「うそつけよ、ビビりやがって」はん、と鼻で笑いよった。
「び、ビビってへんっちゅうねん!」

使用人が用意してくれた目の前に置かれたままのコーヒーを、俺は口につけた。若干、手がぷるぷるする。伊織に告白するって想像するだけで、どんな未来が待っとるかわからんくて、困惑してまう。
そら、いつかはしようって、思っとったけど……さ。

「あのなあ、忍足。いつから好きだとか、そんなことを言う必要はない。好きだと言えば終わる」さっさと終わらせろよ、俺が迷惑だ、と、跡部はまた、深いため息をついた。お前、どんだけCO2排出するんや。「それで佐久間がお前となら付き合ってもいいということになれば、お前の不安は、多少は解消されるだろうが」

俺かて、跡部の言うとることがわからんわけやない。
そら、そうなれるもんやったらそうしたい。けど……。

「せやけど、『侑士ごめん、わたしそういう目で侑士のこと見たこと無いねん』って言われたら俺、たぶん泣いてまうし……」
「やっぱりビビってやがんのか」
「そうやないけど! でも好きでもない男にいきなり泣かれたら引くよな? 俺も何度か告白されたことあるけど、いきなり目の前で泣かれたときは、めっちゃ引いたんや」

伊織が全然、俺にその気がなかったら……考えただけで、俺は落ち込んだ。

「お前は……佐久間のこととなると、まったく機能しねえな」うんざりする、と言わんばかりや。
「やって、もう好きすぎてどうしたらええか、わからんねんもん」

めずらしく弱音を吐いた。テニスのことですら、跡部にこんな弱音を吐いたことなんかない。

「ふん……もっと自信を持て、忍足。お前は、この俺が認めた男だぞ」
「え……?」
「テニスだけじゃねえよ。お前は人間としても、レベルの高い男だ。お前にそれだけ想われて嫌な気がする女なんて、そうはいねえよ。それに佐久間は、5年ぶりに会ったお前に昔と変わらず接してるじゃねえか。それは佐久間が、お前を認めてるってことだろうが」

なんで俺が、ここまで言わなきゃならねんだよ、と、跡部は悪態をつきながら、そっぽを向いた。
俺は少なからず、跡部のその言葉に、救われたんや……。





週末を終えて、月曜日のことやった。
ようやく忙しい日々も落ち着いてきて、俺は伊織をランチに誘った。また断られたらどないしようかと思ったけど、前日に連絡したとき、伊織は「いいよ!」と返信をくれた。
その軽快さだけで、かなり落ちとった俺の気分は、少しだけあがった。

『侑士、ちょっとはよ切り上げるんでもいい? 次の授業が体育なんよ』

休憩前に入ったメッセージには、そう書かれとった。着替える時間がいるから、ちゅうことやろう。

『あ、それやったら俺、A組に行くわ。どっか席、空いとるやろし』

伊織とちょっとでも長く一緒におりたい。
ちゅうことで、俺は昼休憩に行ったこともないA組に堂々と弁当を持って入っていった。
めずらしいものを見るような目のA組の連中とちらちら目があったものの、俺がツンとしとったら、その視線も弁当を口に入れるころには無くなった。

「遠足、楽しかったね。侑士、体調どんな? 週末で持ち直した?」

席について弁当を広げてすぐ、伊織はそう聞いてきた。
あのあとの俺もずっと真っ青やったで、伊織はそれを気にしてくれとったみたいやった。
あの日の帰りも、背中トントンしてくれて……それはめっちゃ役得やったんやけど、俺はそれでも絶望の淵から這い上がることができへんで、結局、翌日に跡部の家に行ったっちゅうわけで……。

「ん。大丈夫や」って、言うしかない。
「あのあと、タクミさんも心配してはったんよ。『忍足くん、具合悪そうやったね』って、言うてた」

またタクミの話か、とうんざりする。
もう、伊織の口からあいつの名前が出てくるだけで吐きそうやった。

「全然、大丈夫やで。もう俺、めっちゃ元気やろ?」
「顔色は、悪くなさそうやけど……熱もない?」

その言葉に、俺はドキン、とした。
あの日、伊織が俺の額に手え当てて、熱をやんわり測ってくれたのを思いだしたからや。あ、あかん、思いだしただけで、それこそ熱あがりそう。
また……触れてくれへんやろか。伊織の、あったかい手で。薄々、気づいとったけど……俺、伊織に会ってから、どんどん欲張りんなってきとる。

「……伊織」
「ん?」
「俺……熱、あるかも」
「え、ホンマ? あれ、ホンマやなんか、顔、赤くなってる」
「あの、さ……」
「大丈夫なん侑士? 心配やわ」
「こないだみたいに、測って……くれへん?」

弁当そっちのけで、「ん」と、めっちゃ勇気をだして、俺は顔を前に差し出した。
けど……伊織の顔を見ることはできへんかったから、静かに目を閉じる。
そのとき、ひゅっと息をのむような伊織の吐息が聞こえた気がした。

「そ……あ、えっと……わ、わかった」

あの日はめっちゃさらっと触れてきてくれたのに、なんでやか、今日の伊織の声は動揺しとる。せやけど、それでも伊織は優しゅうて……やがてゆっくりと、伊織の手のひらが俺の額に落ちてきた。
伊織の感触が、俺の額によみがえる。ああ……もうずっとこうしとってほしい!

「どない……かな?」
「遠足のときより熱い気がする……侑士、ホンマに大丈夫?」

伊織の手が額に……ちゅうか、俺の皮膚に直接的に当たってんのがもう、たまらん。
そっと目を開けると、伊織はめちゃめちゃ心配そうな顔でこっちを見とった。
ああ、触れたい……そうや、跡部やって告白せえ言うてたし、俺、もう少し勇気ださなあかんよな。

「大丈夫、や……」

自分の額にある伊織の手に、俺はそっと手を重ねた。ほんの少しだけ握ると、伊織の目が見開いた。
これは、下心とはちゃう。スキンシップや。幼なじみの。

「ゆ、侑士……?」

外してええよ、のつもりでそのまま額から離したけど、全然、俺の手が離れたがらんかった。どないしよう、なにしてん俺……そうは思いつつも、俺はゆっくり、伊織の指の下に自分の指を滑り込ませた。まるで、手の甲にキスする直前みたいにして、そのまま握りしめた。
ああ、めっちゃキスしたい、この指に。……なんなら、舐めたい。いやいや、あかん、そんなことしたあかんぞ忍足侑士、落ち着け。

「ゆ、侑士……どうしたん? なんか、手も、熱いね?」

ただならぬ雰囲気を感じとったんか、伊織はめっちゃ困惑しとった。
せやけど、拒否せずにおってくれる。されるがままの伊織の小指だけが、俺がたしかめるように握り直したことでポロ、と外れた。けど、その小指がまた、俺の人差し指と中指のあいだに挟まるように収まって……うわあ、もう、なんかヤラしい!

「そう……やろか?」
「手、あの……侑士」
「堪忍……ちょっと、安心するから、このままでもええ? ちょっとだけやから……具合悪いの、ようなりそう」
「え、やっぱり悪いん?」
「ん。けどな、昔から手え握ってもらうと安心すんねん、俺」嘘やけど。いや、いまはホンマ。安心っちゅうか、爆発しそうやけど。
「に……握ってるん、侑士のほうな気が、するけど……」そこはさっと流しとってくれ、伊織。「でもちょっと、恥ずかしい……よ」

伊織が、顔を赤くしてうつむいた。同時に、伊織の手にもきゅっと力が入って、俺の心臓がまた、ドクン、と跳ねた。
ここ、どこやったっけ……もう伊織しか見えへん。この指に、キスしたい。けど……したらまず間違いなく引かれるから、俺は仕方なく、自分の親指に唇を当てた。分厚い肉を隔てとるけど、伊織の指先にキスしとるつもりや。
もう、いまやったらなんでも聞ける気がする。ほんで、なに聞いても平気な気がする。

「なあ、伊織?」
「う、うん?」伊織は自由になっとる左手で、パタパタと顔を仰いだ。
「タクミさん? やったっけ? あの人、どんくらいのペースで教えに来はるん?」
「え……?」なにその質問、っちゅう顔をしとる。せやけど違うタイミングで聞いたら、本気で具合悪なりそうやから。「えっと……週2、かなあ。あ、中間考査期間に入ったら、週3になる。タクミさん、昔から優しいんよ」それが、どうかしたん? と、つづけた。
「……ふーん」

なーにが、昔から優しいや。ただのロリコンやで絶対。伊織は気づいてへんのやろけど。
せやけど伊織が小1のころに小6ってことは、5つ違いか? ほな今年23歳? 大学卒業して、ホンマなら新卒やろ。仕事に邁進しろや。女子高生相手にエロい顔しやがって。
よしよし、俺、頭も回ってきとる。伊織の手が口もとにある状況にも、少しずつ慣れてきた。ああ、それにしてもええ匂い。なんで指先からこんなええ匂いするん……。

「侑士あの、そろそろ、手……」ご飯、食べれない……と、また目を伏せた。めっちゃ、かわいい。全然、離す気にならへん。
「弁当なら、俺が食べさせたるよ」
「え、え……!?」

俺は左手で伊織の手を握りしめとったから、右手は自由やった。
動揺したんか、ちょちょっと伊織の親指が動いて、俺の頬になでるように触れた。も、めっちゃ興奮する。もっとなでて。
俺は問答無用で、伊織の弁当箱にある小さなフォークを手に取った。

「はい。口、開けてええよ」あーんして、伊織。
「侑士、あの、ちょ……」
「小学校んとき普通にしてたやん、いまさら恥ずかしがらんでもええよ」嘘やけど。そんなん、したことない。
「え、し、してたっけ……?」

あっけなく騙されたんか、伊織はおずおずと口を開けた。いつもと変わらんぷるぷるした唇がそっと開いて、ミートボールにぱくついた。はああ……もう、絶景すぎる。

「なあ、タクミさんって、仕事、なにしてはるん?」そんな内情を知られんように、俺は話をつづけた。
「えっと……」もぐもぐ。こくん、と飲み込んでから、伊織は言うた。「東大の院生」

はあ? 東大院生やと? もう、目の前の伊織に興奮するけど、話の内容にイライラして、ものすごい混乱する。
ふんっ……なるほどな。社会人やないけど将来有望、ものごっつい頭がええっちゅうことか……あんな顔して、ガリ勉か。いかにもクラブで女を口説きまくってそうな見た目なくせに。それもギャップか? ああ、めっちゃイライラする。めっちゃ興奮もするけど。

「ふーん。せやけど、家庭教師って必要やろか。伊織、もう転入したんやし、ええんちゃう?」
「や、けど……試験もあるやん。転入できても、まだレベルがわかんないし。わたしね、ここに転入するとき、親と約束したんよ」

伊織も慣れてきたんか、「や、やっぱり自分で食べれる」と、左手を動かしだした。
俺はその言葉を軽く無視して、違うおかずをフォークに刺して、伊織の口もとに持っていく。
あかん。こんなチャンス、伊織にだってやるわけにはいかん。

「約束? どんな?」話を弁当に集中させんようにしたる。
自分で食べれるのに……とつぶやきながら、真面目な伊織は答えた。「うちの親、最初は反対やったんよ、氷帝」
「ああ……まあ、金、かかるでな。はい、もう1個、ミートボール」
「あ、ありがと……」ぱくん。ああ、かわいい! 「それでね、入って、成績が10番以内でずっと頑張れるんやったら許すって」
「うわ……そら結構、大変な約束してもうたんやな、伊織」

跳ね上がりそうな体をなんとか抑えて、俺は考えた。
学年トップは、当然、跡部なんやけど……。10番以内はかなりの成績や。俺かて中学んときから、最高でも16番。3年生はだいたい500人強。そら、相当な努力が必要になる。
せやけど伊織、なんでそこまでして氷帝に入りたかったんやろ……ひょっとして、タクミがおった高校やから……とか、ちゃうやろな!?

「そうなんよ。もう転入したからいいとは思うんやけどね……でも、約束は約束やん? だから、タクミさんがおってくれると、めっちゃ助かるんよ、わたし」

グサ、と勢いよく卵焼きにフォークを突き刺してもうた。ちょっと伊織がぎょっとしとる。ああ、あかんかった。感情がフォークに……。
ようやく、この手を握り合っとるポージングに、なんの違和感も無くなってきたっちゅうのに。

「あの侑士、そろそろ、手……」
「伊織さあ、塾とかでもえんちゃう?」気づかんでええって。
「え、あ、塾?」
「ん……家庭教師より安く済むんやないかと思う」ホンマとこは知らんけど。
「けど、塾はマンツーマンじゃないもん……」それな。言うと思ったわ。
「せやけど、タクミさんの家庭教師はお願いしたからやってくれてんやろ? プロとちゃうやん」
「まあ……そう。けど、めっちゃわかりやすいんよ?」ふん、どうせたいしたことないわ。
「塾の講師はプロやで? もっとわかりやすいかもやで? あ、ちなみになんの教科が苦手なん?」
「んー、やっぱりわたしは、理数かなあ」侑士、そろそろ……と、手をもぞもぞさせてきた。でも口がもぐもぐしとる。……かわいい、死ねる。
「そうなん? せやったら俺、理数系が得意やから、なんなら俺が教えたろか? タダでええで」
「えっ……」

と、そこでついに、うしろから頭をはたかれた。いつか来るやろと思っとったけど、もうホンマに慣れっこで、俺はそのまま話をつづけた。

「忍足っ!」
「俺、化学も得意やし、あ、ドイツ語もいけるで。そうそう、昔ほら、ヴァイオリンもやっとったから音楽も」
「侑士、あのっ」伊織の左手が、完全に俺の後ろ側を指さしとった。
「貴様、来いっ!」
「ちょ、痛いっ! なんやねんお前! 人が弁当を食うてんのに!」俺の味方ちゃうんか!
「いいから来い!」

結局、伊織から無理やり引き剥がされた俺は跡部に引きずられて、廊下に出された。
出されて、開口一番、跡部は青筋を立てながら言うた。

「てめえはマジで通報されてえのか……!」
「なんやねんっ、俺なりに頑張っとるのにっ! ええとこ邪魔せんでやっ」
「正気か!? 違うだろうな! ああ、見てればわかる!」跡部にしてはめずらしく、ノリツッコミをしとる。なんのこっちゃ。
「お前が告白しろ言うたんやないかっ」
「てめえのは告白じゃなくてセクハラだろうがっ!」

なんや知らんけど、めっちゃキレてはる。
俺がせっかく伊織に触れることができたっちゅうのに、なんの文句があんねんっ!

「セクハラちゃう。伊織は嫌がってへんかったもん」
「怖くて嫌がれねえだろ、そんな変態丸出しの顔しやがって!」
「だ、誰が変態っ」

ああだこうだ、跡部との押し問答は長い時間つづいた。
しかも途中で、チャイムが鳴った。愕然とする。
跡部のせいで、せっかくの伊織とのランチタイムが、終わってもうたからや。

「おま、チャイム鳴ってもうたやんけ!」
「うるせえ! てめえがとんでもねえ真似してるからだろうが!」
「ちゅうかなんや、昼休み早ない!?」
「早いわけねえだろっ。とっとと教室に帰れ!」

跡部はそう言って、またぷりぷりと怒ってどっか行った。そういやA組は次の授業が体育やって言うてたな。更衣室に行くんやろう。
見ると、伊織も弁当をさっさと片づけて、体操服を入れとるんやろう可愛らしいデザインのバッグを肩にひっかけとった。
俺の視線に気づいたんか、机に放置しとったまんまの俺の弁当を手に、駆け寄ってきた。

「侑士、お弁当、全然食べてへんままやったよ?」
「ん? ああ、ええねん。あとで食べるわ」

伊織の手から、俺は弁当をそっと受け取った。ああ、優しい、かわいい。まだ、顔がちょっと赤いままや。
ひょっとして、伊織もドキドキしてくれとるんやないかって思ったら、めちゃめちゃテンションがあがった。

「それならいいけど……ねえ、具合、ようなった?」
「ん。伊織のおかげや」
「ん……よかった。ちょっと、恥ずかしかったけど……」
「堪忍な。伊織の手、魔法やねん。俺のこと助けてくれた手やから、甘えてまう」

ほとんど告白のつもりでそう言うと、伊織は一瞬きょとんとしたあと、ふんわりと微笑んだ。

「……ふふ、そっか。あのときも、手、つないだね、そういえば」

そのとき、伊織が。
伊織から、俺の手に、両手で挟むみたいにして、触れてきた。
さっきは自分から迫った感じやったから、それでもめっちゃドキドキしたけど、伊織から触れられるんは、もう倒れそうになるくらい、ドキドキする。
あれ……これって、これってひょっとして……。

「侑士の手、相変わらず大きいね」
「さ、さよか……?」

あかん、まともに目が見れへん。

「あのころと一緒で、あったかいし」

めっちゃ、嬉しいこと言うてくる。待って、待って。これって……。

「……ね、熱あったからかもな」
「あはは。そやね! ……ねえ、侑士」
「ん、うん?」

あかん、俺、絶対に顔が真っ赤んなってる。やって、目の前の伊織も、なんや、さっきより赤ない? うわあ、め、めっちゃええ感じちゃうこれ!?

「……あんなんで魔法になるんやったら、いつでも言うて。侑士のためならわたし、いつでも手、貸すから」

すっと伊織の手が離れていくのと同時に、ほな、遅れるから行くね! と、伊織は去っていった。俺はそのまま、弁当を落としそうになった。
俺の胸のなかに、これまでにないほどの期待がふくれあがっていく。
侑士の「ためなら」って言うた、伊織が。
ごくん、と、生唾を飲み込んだ。さっきまで触れられとった手が、ジンジンしてくる。
休憩が終わって、次の授業の準備にさわがしい生徒たちの声は、俺にはまったく届かへんかった。それくらい、俺は久々に昇天しとった。

……ぜひとも、みなさんにお聞きしたい。俺、脈アリちゃう?





「そうやねん、よう考えたら東大院生がなんぼのもんやっちゅうねん」
「侑士、そろそろ」
「ちょっと大人で? ちょっと頭がようてカッコええからって? あんなエロい顔したロリコン男に俺が負けるわけないやん、そうや。いくら思い出があるからって」
「侑士って……」
「俺との思い出のほうが絶対に絆、強いしな!」
「侑士ってばよ!」

はっと気がつくと、となりに岳人がおった。おお、お前、なんや久々やな。今日までどこでどうしとったん? そのおかっぱ、相変わらず似合うてるで。

「お前さっきからひとりでなにぶつぶつ言ってんだよ、オレの話、聞けよ」
「え、なに?」ちゅうか俺、声に出しとったん? ははっ、かなわんな。そんなわけないやろ。
「次、オレとお前の試合! ウォーミングアップすんぞ!」
「ああ、そうなんや。あれ、俺とがっくんでやんの? なんや張り合いないわー」
「どういう意味だよそれ!」
「やって、俺が勝つもん」
「てめえ侑士! 調子に乗ってんじゃねえよ! くそっくそっくそっ!」

あれから3日後。くそくそ岳人がめっちゃ吠えとる。今日は中間考査に入る前の、校内練習試合の日やった。
こないだの弁当のときから、伊織とはなんやめっちゃ距離が縮まって……メッセージアプリのやりとりも、一日に1回はするようになった俺ら。
再会から1ヶ月で、着実に俺と伊織は進展を迎えとった。やで、俺めっちゃご機嫌。
タクミのことは相変わらず気になるけど、伊織の口からタクミの名前もあんまり聞かんようなったし、なんせ毎日やりとりしとるから、ランチ一緒にできへんでも、精神は結構安定しとる。
そんな俺が、今日の試合で岳人に負ける気なんかせえへん。
やって、やって今日は、伊織が試合を見に来てくれるんや!

『侑士、明日は試合なんやってね?』
『おお、そやねん。情報早いな伊織。跡部?』
『跡部くんも言うてたけど、クラスの女の子たちがすごい楽しみにしてたんよ』
『そうなん? A組も跡部ファンクラブ、あるもんなあ』
『うん。それでね、わたしカテキョの日やったけど、中止にしてもらった。見に行くね!』
『え……ホンマ? 伊織が見に来てくれるんやったら、俺めっちゃ頑張るわ』
『あはは。でも、わたしが見てなくても、侑士は勝つでしょ?』
『ん……せやけど、もっと頑張れるから。見とって。絶対勝つわ』
『うん! 楽しみにしてるね!』

ってー!
ってー!
はああああ、もう、試合どころか、あのタクミに完全に勝ったやんこんなの! 家庭教師の予定を中止にして、なんせ俺を選んだんやから!
もう跡部みたいに「勝つのは……俺や!」言うて、昨日部屋でひとりで勝利宣言したったわ。しかも丁寧にあの高笑いまで再現したったわ。ハーハッハッハッハッハッ!
……やってわかったけど、あれだけで結構、体力使う。ようあんなこと毎回試合でやるわ、あいつ。尊敬する。まあそれは、どうでもええ。
跡部と試合やったらどないしようって、ちょっとハラハラしとったけど、日吉が跡部との試合をほかに譲るわけもない。たぶんそれはないやろうと踏んどった俺の計算は当たった。
岳人が相手て、いままでこいつと試合して負けたことあらへんし。ちょっと新鮮味ないけど、まあええわ。

「次! 忍足、向日、コートに入れ!」
「うし! 今日こそ勝つからな!」
「ま、せいぜい頑張りや」

ふん、とお互いで睨み合うように笑い合って、コートに入った。そのとき、反対側のコートに伊織がおるのが見えた。伊織は中央のいちばん前の席におった。そんなええ席まで取って俺を応援しに来てくれたんやって思ったら、めっちゃ嬉しくて。目を合わせてにっこり笑たら、伊織も笑顔で小さく手を振ってきた。はあ、もうめっちゃかわいい。それだけで勝てる、と思っとったのも、つかの間のことやった。
伊織のうしろに、めちゃ背の高い男がおることに、俺はそのとき、ようやく気がついた。
しかも俺に手を振って、低いトーンの大声をあげてきよった。

「忍足くん! 頑張って!」

それは、タクミやった。





「ゲーム忍足、3−0、チェンジコート!」

はよ終わらせなあかん、なんであいつ来てんねん、なんであいつが来てんねん、なんで……。
点をとるたびに伊織見て張り切ろうと思っとったのに、伊織より先にタクミに目がいってまう。俺が決めるたびに伊織になんやかんや話しかけやがってあいつ、ホンマに、どういうつもりや! おい跡部、関係者以外立ち入り禁止にせんかいっ!

「ちょっと、今日の忍足先輩ヤバくね?」
「いつも心閉ざしてるのに……殺気が」
「しかも、こんな一方的な試合になるとか……向日先輩、大丈夫かよ」
「必殺技、いつも言うのに言わねえし。すげえのに、なんて技かわかんねえよ」
「千の技、使ってないんじゃね……? ただ殺しにかかってるようにしか見えねえよ」

後輩どものガヤがうるさい。俺が岳人をズタボロにしたって、そんなんいつものことやろ。せやけどええ勘しとるやないか……。技? 技とかなんも考えてへんわ! ちょうど視界にタクミが入ってくるで、思いっきり打ち返したら決まってまうんじゃ!

「侑士……お前、マジで今日は手加減ねえんだな、くそっ……」
「堪忍なあ岳人、しんどいんやったら、もうやめてもええで」
「誰がやめるかよ!」
「スタミナ切れてるやん自分」
「まだ切れてねえ!」

ベンチで寝とるジローの横にあるタオルを乱暴に取って歩き出した岳人の背中は、すでに限界を迎えとった。ずっとダブルス組んできとる。そのくらいわかる。
そんなことよりも、や……俺はいまから伊織とタクミが待っとるコートに入らなあかんのか。あの二人が並んどる姿をめっちゃ近くで見ろいうんか。
くそくそ言いたいんはこっちじゃ!

「忍足よ……試合に集中しろ」

俺にタオルをわたして、跡部が的確なことを言いよった。こいつ、ホンマにめざとい。
そう思うなら関係者以外立ち入り禁止にしろっちゅうねん!

「勝ってんのに、なんでそんな文句言われなあかんねん」
「お前は、冷静さが売りの選手だろうが」
「たまに熱くなるのが俺のプレースタイルや」前もそうやったやろ。
「その理由がテニスじゃねえだろうがっ!」

うっさいボケ、お前が関係者以外立ち入り禁止にせんからやっ! と言いたいのを抑えて、俺は鼻から大きな息を吐いてコートに入った。
伊織が小さな拍手をするように、こっちを見てなんか言うとる。ガヤがうるそうてまったく聞こえへんし、そのたびに伊織の口もとに耳を近づけるタクミが、とにかく気になってしゃあない。
その後も、俺は早う終わらせたい一心で試合をした。せやけど岳人のヤツ、どこで隠れて練習しとったんか、なかなか終わらせてくれへん。

「おおー! 向日先輩のムーンサルト!」
「甘いわ岳人! あともうそれ見飽きとる!」

それでもタクミが背中越しんなったで、俺はさっきよりも殺気が静まっとった。殺気だけに。あかんあかん、しょうもないこと言うとる場合ちゃうねん!

「くそっ、侑士! お前なんなんだよさっきから! 見たことねえ技つかうなよ!」
「技なんかつこうてへんわ! はよ負けろボケ!」

チャンジコートから10分後。あと1点で終わるちゅうときやった。岳人が根性見せて取りに行ったボールが俺の打ったスマッシュの速度そのままで、こっちのコートに戻ってきた。

「おお! 向日先輩が返した!」
「アホ、アウトや!」

大ぶりした岳人のカウンターは、完全にラインから外れとった。けど……アウトやと思ったのは、一瞬やった。
そのボールは、伊織がおるとこにめがけて飛んでいっとった。

「あかんっ!」

岳人のボケ! どんだけ飛ばしてんねん!

「きゃあっ!」
「あぶないっ!」

俺の声と同時に、観客の声が大きくなる。俺はこの試合でいちばんくらいに走って、ラケットを自分の前に掲げて背中から思いきり客席の壁にぶつかった。

「うわっ……忍足先輩!?」
「……間に合った、か?」

ものすごいデカい衝撃音と共に、悲鳴のようなものがあがった。ボールはてんてんと、俺の前方に転がっていっとる。
よかった……伊織に、当たってまうかと思った……。

「伊織、無事か……!?」

と、振り返ったそのときやった。
俺の時間と思考が、完全に止まった。
そこに、伊織は見えへんかった。俺の目に映ってんのは、タクミの、図体のデカい背中だけ。
俺は、目の前のその信じられへん光景に、呆然と立ち尽くした。
シン、となったテニスコート。俺の背中が、ピキッ、と音を立てた。

「……もういい、試合終了だ。おい審判、ぼさっとしてんじゃねえっ!」
「えっ、あ、げ、ゲームウォンバイ! 忍足6−0!」
「あー!? 跡部! いま侑士とったじゃんかよ! アウトボールになってねえだろ!」
「あれは観客を助けただけだ。とっくにてめえの負けだろうが」
「なんだよくそっくそっ! そんなのアリかよ!」

跡部と岳人のやりとりは、俺の遠くで行われとる。そんな感覚やった。
もう、試合なんかどうでもええ。
なんや、これ……俺がいま見てんのって、現実なんか?

「伊織ちゃん、大丈夫だった!?」

タクミが、伊織をめっちゃ抱きしめとった。
しかも、ちょっと離したと思ったら、今度は左手を伊織の頬に当てて、右手で伊織の手を、ぎゅっと握っとった。

「だ、大丈夫です……っ、タクミさんも、大丈夫?」

伊織の手……俺の、伊織の手……。俺だけが、握ってええはずの、伊織の手やのに……。
離れろ……おいタクミ。お前、このままラケットで俺に殴り殺されたいんか。
こんなん、大出くんとの柔道練習の比やない……なにを、なにをどさくさに紛れて、俺の伊織を抱きしめてくれとんねん、お前!

「うん、ボール……あっ、忍足くんっ」
「侑士……あ、もしかして、かばってくれたん?」

その体勢のまま、伊織がひょこっとタクミの肩から顔を出した。
俺にそんなん見られたことも、なんでもないような顔して。

「ああ、そっか! すごいな、やっぱり忍足くんは!」

その瞬間、俺は手にしとったラケットを、地面に叩きつけた。
直後、俺の首根っこが、うしろから強い勢いで引っ張られた……。





コートに立ち尽くしとった俺がいつまで経っても動かんからと、俺の首根っこをつかんでベンチに座らせたのは、案の定、跡部やった。

「殺す、絶対に殺す、あいつ殺す、ホンマに殺す……」
「落ち着け、忍足。試合を見ろ」
「俺めっちゃ落ち着いてるしだいたい跡部が悪いんやでなんで関係者以外立ち入り禁止にせんかったんやあんなロリコンガリ勉エロ野郎が校内に入ってきてえらいことやないか警察呼んでくれ俺が通報したってもええんやあんな気安く女に触れる男なんか絶対に犯罪者やもう伊織に近寄らんでほしいホンマいますぐあっち行ってぶちのめしたいのになんで俺ここにおらなあかんねんなあ跡部教えてや!」
「このあいだも言ったが……お前のほうがよっぽど警察を呼ばれるぞ。それと、息継ぎをしろ」

周りのレギュラーメンバーは俺らから距離をとって、まだあと1試合だけ残っとる鳳と樺地の2年生対決を見とる……ようで、ときどき真っ青な顔して俺を見る。なんやねん、なんでこっち向くねんお前ら。俺がさっき派手に打ってもうた背中の心配でもしとるんか?

「部活が終わったら余計なことをせずに、病院に行け」余計なことをせずに、が、めっちゃ強調されとる。
「はあ?」
「心療内科、と言ってやりたいとこだが、背中、かなり痛めただろうが」
「こんなんたいしたこ……いったあ! な、なにすんねん!」

たいしたいことない、と言おうとしたら、跡部が俺の背中をピンポイントで強く押してきた。
めっちゃ痛い……そらへんな打ち方したと思ったけど、病院行くほどやない! 俺は終わったらすぐに伊織とタクミのとこに行かなあかんねんっ!
ああ、またなんか、仲よさげに話しとる。もうすっかり体は離れとるけど……ああもう、なに話してんねん!

「ヒビでも入ってやがったらどうする。これは部長命令だ」
「なんでそんなことまでお前に命令されな……いったあ! や、やめや!」
「貴様はそれでも医者の息子か? いいか? 不本意だが、佐久間に恩を売っておいてやった」
「え?」
「じゃねえと行かねえだろ。お前に付きそうと返事がきたぞ。それでも行かねえのか?」

シャキっと、俺の背筋が伸びた。あかん、伸ばしても痛い……。

「……はよそう言えや」なんか腹立つで、ムッとしたまま答える。
「ったく……これじゃテニスどころじゃねえだろ。なんで俺がここまで頭を抱えなきゃなんねえんだっ」
「やって跡部! 見とったやろ!?」
「うるせえな! あのタクミとかいうヤツも佐久間をかばっただけだろうが」
「かばうだけであんな抱きしめる必要ある!? ない、絶対ない。あいつ犯罪者や絶対そうや」
「お前にだけは言われたくねえだろうな……いいから、試合を見ろ」

そう言われても、俺は試合終了まで、ずっとタクミを睨みつけとった。タクミはこっちに気づきもしやん。伊織はときどき、俺に視線を送ってきよるのがなんとなし、わかる。せやから、伊織が悪いんとちゃう。伊織はずっと俺の心配してくれとる。そういう子やもん。
せやけど試合終了の審判の声がするまで、タクミは伊織にずっとなんか話しながら、試合を見とった。あのタクミ野郎ホンマに……!

「これで、すべての試合を終了します! みなさんお疲れさまでした! 見学のみなさんも、お疲れさまでした!」

そうして、俺の悶々とした時間が過ぎていった。
やがてパラパラと、ギャラリーが散らばっていく。俺はベンチからすぐに立ち上がって、こっちに向かってくる伊織とタクミに足を進めた。
落ち着け忍足侑士……いまこそ心を閉ざすんや。タクミを殺すのはあとでもええ。伊織の前やで、普通にせなあかん。さっきラケット叩きつけてもうたし……あんときの伊織の顔、めっちゃ驚いとった。

「侑士っ! 背中、大丈夫?」
「ん……大丈夫や」

伊織は俺に気づくと、駆け寄ってきた。
心配してくれとったん? 嬉しい。困ったようなその顔も、めっちゃかわいい。でも俺、平気や。カッコ悪いとこなんか、伊織に見せられへん。

「なあ、試合、どやった?」
「へ……あ、それはもちろん」
「すごくカッコよかったよ忍足くん!」

お前に聞いてへん! 伊織がなんか言おうとしたのにかぶせてくんなや!

「病院、行くんやろ? わたし、付いてくから」
「え、忍足くん、そんなに痛めたの?」
「ああ、大丈夫です。せやけど念のためで」なんで俺がお前に説明せなあかんねん。はよ帰れや。「伊織、ホンマについてきてくれるん? ええん?」
「あたりまえやん。どこ? このへん?」

トン、と静かに伊織の手が俺の背中に置かれる。
あったかい……跡部とまったく違う優しいぬくもりが、俺の体に沁みていった。
は、と気づく。俺、シャワーも浴びてへんし、タクミのせいでずっと体が緊張したままやったで、汗だくやった。

「あ、堪忍! 汗めっちゃかいてんのにっ」
「全然ええよそんなん、なんかごめん、わたしのこと、かばってくれたんやんね?」

伊織が泣きそうな顔して、俺を見た。ああ、ええんや伊織。
俺、お前になんもなかって、めっちゃほっとした……。せやから、そんな顔せんで?
気色悪かったんやろ、ロリコンに体触られて。ええよ、俺があとでぶちのめしたるから。

「なんだか、悪いな……。忍足くん、僕も付いていくよ」

ぶちのめす計画をこっそり立てようとしたとき、タクミが思いもよらんことを言いだして、俺は「は?」とうっかり言うてしまいそうになった。
なんでお前が悪いとか思うねん。お前は伊織にも俺にも悪いけど、俺の背中のことなんかほっとけ! お前に心配される筋合いないわ!

「え、なんでですか?」極力、感情を抑えて聞き返す。
「いやだって、僕がもっと早く反応して、伊織ちゃんを守っていれば、忍足くんが背中を痛めることもなかったよね」でも忍足くん、さすがだよ。本当に早かった、と付け加えた。
「いや……」

褒められとるようで、いちいち頭にくることを言う。
伊織ちゃんを守ったやと? お前が守らんでも俺が守るっちゅうねん! と、俺が憤慨を心のなかで爆発させる寸前のことやった。
伊織が、ふふ、と笑った。

「侑士は昔から、めっちゃスポーツマンやから……でも、タクミさんも、ありがとうございました」

ふんわりと、照れくさそうに、それでも優しい笑みを、伊織がタクミに向けた。
ガッツン、と、遠足のときよりも、激しい衝撃が、俺の頭に襲いかかる。
ちょお待って、待ってよ伊織……なに? その顔。
なんでそんな、うっとりして、タクミを見てんの。まさか、まさかやけど……タクミに抱きしめられて、嬉しかったとか、ちゃうよな……?

「あれ……侑士?」
「忍足くん? どうかした?」

あまりのショックに、俺は口が開けんかった。
俺、3日前から伊織とめっちゃ距離縮まって、すっかりその気になっとって……中間考査終わったら、告白しよって思っとったのに……。
なんでそんな顔するん……伊織、俺のこと、脈アリなんやって、俺……自惚れやったってこと?
あれは仕方なく抱きしめられてもうた、事故やから……俺、これでもめっちゃ嫉妬を抑えようとしとるのに。
あかん、こんなん、限界や……。

「侑……」
「……ええわ」

気づいたら、俺はそう、口走っとった。

「え?」
「せやから……俺、病院ひとりで行くから、もうええ」

やっと出た声で、俺はくるっと背中を向けた。
自分でも、どんな顔しとるかわからへん。とにかくもう、伊織とタクミが一緒におるとこを見るのなんか、無理やった。少なくとも、いまの俺に、耐えれそうにない。
なんや、あの顔……めっちゃ女の、恍惚とした顔しとった。なにあれ……いっつもあんな顔して、勉強教えてもらってんの……?

「あ……でも忍足くん、僕、車もあるから送って」
「ええって言うてんのに、しつこい」

タクミの言葉をさえぎって、俺は歩きだした。
心臓が、めっちゃ痛い。背中やのうて、胸が、苦しすぎる。違う病気になったんかと思うほどや。
タッタッタッ、という駆け足が後ろから聞こえてきた。「侑士?」と伊織の声が背中にかかる。
やめて、伊織……俺、いま、無理や。こんな暑いのに、唇、震えそうんなっとるし。

「ね、ねえ侑士、待って? どうしたん?」

俺の腕に触れる、伊織の手。伊織がめっちゃ不安そうな顔して俺を横から見あげとった。
せやけど、俺の足は止まらんかった。伊織はそれでも、必死についてきた。
伊織が、悪いんとちゃう。そんなん俺もわかっとるけど、このままやったら、泣きそうや。
そんな顔、伊織に見られたない。

「堪忍……ちょお、ひとりになりたいんや」
「そ……そうなん? けど、いまのちょっと、ないよ、侑士」
「え?」

俺の足が、止まった。
ゆっくり、伊織に顔を向けた。伊織の眉間に、わずかにシワが寄っとって、俺はまた、胸がかきむしられた。
いつも、俺には優しい伊織。俺のこと否定したことなんか、一度もない伊織のその言葉に、俺は息が止まりそうになった。
伊織のさっきまでの不安そうな顔は、俺が態度を急変したからやないんやって、気づいたから。

「タクミさん、親切で言うてくれたのに」

タクミが、伊織をかばったように。
伊織がいま、不安を抱いとるのは、タクミの気持ちってこと……?

「侑士、ちょっと、冷たいよ……?」

冷たいの……そっちやん。

「……侑士、なんか変わったよ」

伊織は俺の背中がどうこうよりも、あいつを……タクミを、かばっとった。






to be continued...

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