ビューティフル_09


9.


――父さん死んですぐに、父さんの同僚って人が家に来て、その話、鵜呑みにしちゃって。

伊織の言葉が、頭の奥にずっと残っている。その同僚の名前が「野瀬島」だったと、伊織は言った。不可解極まりない話だ。野瀬島克也はただの料理批評家のはずだ。不二の店を廃業に追いやった男であり、うちのCEOである九十九静雄が、なぜか協力を惜しまない男。それだけの情報だったはずが、突然、10年前の佐久間さんの死に関わってきた。
「野瀬島」という名字の人間は、当然ほかにもいるだろう。だがこんな奇妙な偶然を、見過ごせはしない。
それは、俺に野瀬島のことを打ちあけた伊織からの連絡で、確信へと変わっていった。

「伊織か? どうした?」
「跡部、ごめん。仕事中だよね?」

伊織が家に来て話をした、翌日のことだった。
オフィスで仕事をしながら、ちょうど野瀬島に会いに行こうかどうか悩んでいるところだった。

「かまわない。なにかあったのか?」
「SNS、やってる?」どこか不安そうな声に、胸騒ぎがした。
「いや、やっていない」
「あ、じゃあネット見れる環境にいるかな?」
「ああ、どこを見ればいい?」

待って、送る、と言いながら、電話からタップ音が聞こえてきた。
伊織はあの日、俺への誤解はもうないと言ってきた。俺はその言葉に、自分でもどうかしていると思うほど癒やされていくのを感じた。
少し前から変だとは思っていたが、伊織が俺に心を開きはじめたのは、俺への恨みが誤解だったと気づいたからだろう。もしかしたら、佐久間さんの奥さんがなにか言ったのかもしれない。
とはいえ実際、過労死で亡くなっているなら誤解とは言い難い。佐久間さんに無理をさせたのは、当時、責任をとる仕事もしたことのない、無知で浅はかな俺自身だ。すべての責任は、俺にあった。だからこそ伊織から「父親を殺した」と言われても仕方ないと受け入れていたが、それでも、それなりに自分の心を蝕んでいたと気づかされた。それほど、伊織の言葉は救いだった。

「送った」
「ああ、届いている。ちょっと待ってろ」

すぐにパソコンに転送して、ページを開いた。そこには、伊織と俺があの日に演奏した映像が流れていた。カメラを向けていたギャラリーは多かったが、その誰かがアップしたものだろうか。ほかにも伊織だけが歌っている映像もあったが、残念ながらいちばん閲覧されているのは、俺との演奏シーンだった。

「バズってるじゃねえか」
「それが、昨日になって急に数字が増えたの。そのきっかけが」
「……おい、これ野瀬島のアカウントか?」
「そう」

よく見ると、動画は野瀬島克也の公式アカウントで、コメント付きでシェアされていた。「美男美女。とくに美女の歌が控えめに言っても、最高」と書かれてある。
野瀬島は俺が責任者であったテニススポーツクラブの建設現場で働き、佐久間さんが亡くなってすぐに佐久間家を訪ね、俺の悪評を遺族に吹き込んでいる。当然、そのときに伊織にも会った。野瀬島は俺たちが、そこに気づいていることを知らない。
その男が、伊織と俺の関係性を知って動画を拡散しているだと? かなり「怪しい」。
しかも、いまや俺は野瀬島の会社の取引先の担当者だというのに。
この野郎……なにが目的だ? ここまでくると、もう偶然とは思えない。

「跡部……これ、昨日話した、あの野瀬島って人なんだよね?」
「ああ、おそらくな」
「わたし、なんか怖い。ねえ、この人、なんなの?」
「ただの、料理批評家だ」表向きは。
「……わたしのこととか、跡部のこと、覚えてないのかな」
「まあ、10年前だからな。メディアに出ることもあるようだから、バズっているものをさらにバズらせようとした、という目立ちたがり屋の習性かもしれない」嘘をついた。不安そうな伊織を、少しでも安心させたい。「これは俺が調べておく。だからお前はなにもするな。いいな?」
「……うん」小さな声だった。
「伊織、大丈夫か? やっぱり不安か?」
「ん、少し」
「心配するな、こういうのはラッキーぐらいに思っとけ。なにかありそうなときは、必ず俺が守る」

直後、うっかり漏れでていた言葉に、はっとして口を押さえた。伊織への気持ちに気づいてからというもの、自分でもゾッとするくらいに制御ができなくなっている。
どうしちまったんだ俺は……女に惚れたことはあっても、こんなにコントロールが効かなくなるような人間じゃないはずだろうが。
俺は、跡部景吾だぞ!

「うん、ありがとう。ごめんね、忙しいのに。こんなことで電話して」だが、この声を聴くだけで、自分らしさなど忘れていく。ああクソ、それが、らしくもねえってのに。
「アーン? 余計な心配してんじゃねえよ。不安なことがあればいつでも連絡しろ。俺はお前のプロデューサーだと言ったろ?」
「うん、そうだった」穏やかな笑みが、電話越しにも伝わってきた。会いたい、と思ってしまう。たったそれだけのことで。
「わかったなら、いまはオーディションのことだけを考えろ。あと4日だろ?」
「うん。レッスンは、今日で最後。前日は禁止されてるから」
「ああ、そうだったな。あとで会おう」

そう言って、電話を切った。思わず、胸に手を当てた。今日も伊織に会えると思うと、それだけで心が躍動していく。そんな自分に、慣れていなかった。
直後、カチャリと音が聞こえた。こんな自分を見られるわけにもいかず、咄嗟に目を向けると、千夏がオフィスに入ってきてた。

「仕事の電話?」
「……ああ」

いまや、オフィスに来る千夏の相手は、俺の日課のようになっている。少し前までは、一緒にいながらなぜ同じ気持ちになれないのか多少なりとも悩んでいたが、原因がわかってしまったいまでは、もうなんの感情も降ってこなかった。
不思議と、邪魔だとも思わない。過去に戻れない以上、結婚するしかない。それが責任を取るということだと、伊織が教えてくれた。
おかしなもんだが、伊織と心を通わせたことで、俺は強くなっている気がした。

「ねえ景吾……いつ、両親に挨拶にしてくれるの?」
「ああ、悪い。バタバタしてんだよ、最近」

千夏の様子も、少しずつ変わってきていた。結婚を決めた最初のころは完全に舞い上がっていたが、このごろの俺になにか感じ取っているのか、目が鋭くなってきている。それに合わせるように、ときおり、俺を責めるような口ぶりも増えていった。

「そうみたいだね。ねえ、まだ婚約指輪も買えてないよ?」
「ああ……そうだったな」

あの日は千夏の具合が悪くなったことで、俺らがすぐに帰宅したせいだ。かと言って、千夏を責める気にはならない。情だけの関係であろうと、体調は心配だった。

「あ、こないだ治療院に行ったよ」
「そうか、どうだった?」
「うん、すごく体調がよくなった。いいトレーナーさんだったんだろうね、彼女」

今日も、たいした用事はないらしいと察する。
いずれやってくるだろう出産に不安を抱えて、甘えてきているのかもしれない。そんな千夏に、俺しかいないことも十分にわかっている。
それでも言いようのないもどかしさが、ときおり俺のなかに襲いかかってくることがあった。そう、いまのように。

「悪い千夏。そういった話なら、仕事が終わってからでもいいか」
「え……」
「これから打ち合わせで外出する。時間が迫ってきてんだよ」
「ああ、そうなんだ。ごめん……」
「いや、悪いな。夜、食事にでも行くか?」
「ううん。今日、あたし飲み会が入っちゃってる」
「そうか。また週末も、仕事だったよな?」
「うん、なんだかあたしも忙しいんだ、最近」
「そうみてえだな。営業だから仕方ないだろうが、無理はするなよ?」

バッグを持って、俺は席を立ち上がった。一緒に出ようと千夏の腰に手を当てると、千夏は少しうつむき、か細い声で「大丈夫」とつぶやいた。

「先に出るよ。でも、景吾」
「どうした?」
「景吾は、無理するんだよね」
「……なんの話だ?」
「今日も行くんでしょ、レッスン見に」

まっすぐと、俺の目を見つめてきた。
自分では気づいていないのか。千夏はいつもこの愚痴を口にするとき、憎しみのこもった目で俺を見てくる。

「……ああ」
「どんなに忙しくても、それだけは欠かさないよね」
「千夏……」
「子どもいるの、わかってる? のんびりしてたら、生まれてきちゃうんだよ?」
「……わかってる。挨拶にも行くし、指輪も買う」
「それなら、安心した。また明日ね、景吾」

背筋を伸ばし、颯爽と千夏は去っていった。
彼女のハイヒールの音が、しばらく頭のなかで響いていた。





ごく最近に引っ越したという『株式会社トリアノン』は、渋谷の駅前にあるビルのワンフロアに位置していた。
まだ利益をさほどあげていないはずの会社が、渋谷の一等地に事務所をかまえたというわけだ。よほどブログが儲かっているのか、それとも、この不景気に銀行が金を貸しまくったのか。いや、現実的に考えて、それはありえねえよな。
設立当時の状況を調べただけでは怪しいところはなにもなかったが、資本金の調達は個人投資家からも含まれていた。ここに九十九が絡んでいる可能性は、十分にあるだろう。

「やあやあ跡部さん。どうもご足労いただいて、すみませんね」
「いえ、オープンのときはあまりお話できませんでしたから、機会を狙っていました」
「はい、提携の件ですよね?」
「ええ。どのような事業展開をお考えか、資料だけではなく、やはり野瀬島社長から詳細も伺いたかったものですから」

仕事という体で、俺は野瀬島に会った。この男は、天才的に口がうまい。資料に書いてある以上の詳細をきちんと織り交ぜながら、誰が聞いても納得のできるプランを考えてやがった。
俺が際どい質問をしても、言葉に詰まることなく説明していく。まあこれくらいのことができなければ、反社会勢力と手を組むなんてことはできないだろう。
ひととおり聞いたところで、つけいる隙がないと判断した俺は、素直に感心していた。

「そういえば野瀬島さん、こちら、シェアされてましたね」本題に入る前に、いちばん不可解だったことをスマホを見せながら聞いた。この件だけは、探っておく必要がある。
「ああ、これですね。跡部さんでしょう?」

気づいてなかった、という振りをするかと思った俺の予想は、ここで外れた。
こいつ、なかなか肝が据わってやがるな。

「おっしゃるとおりです。ということは、私とわかっていて、シェアされたんですか?」
「もちろんです」堂々と、余裕の笑みを向けてきた。
「そうですか、まさか気づかれていたとは思いませんでした。偶然かと」
「となりの方は彼女ですか? 実に美しい女性だ」

「もちろん」が気持ち悪いと伝えたつもりだが、とぼけているのか、微動だにしない。
自然と話が伊織に向かったことで、俺にはわずかに緊張が走った。

「残念ながら恋人ではありません。彼女のことは、ご存知ないですか?」
「すみません、無知なもので……有名な方なのですか?」ここでは嘘をつくか。まあ、当然だろう。
「いえ、有名ではないです。セミプロみたいなものですかね」
「そうでしたか。いやあ、素晴らしい歌声ですよね。このままトップスターになってほしいほどの逸材です」

品性のかけらもない雰囲気の男にそんなことがわかるのかと不思議に思ったが、それほど伊織の声が人を魅了することは、俺がいちばんよく知っている。
なんにせよ、この男が伊織のことを覚えていないとは考えにくい。もう少し、踏み込んだ質問をしてみるか。

「ところで、うちはどうでしょうか。提携はうまくいきそうですかね?」

だが、野瀬島は話の流れを変えてきた。
無理もないか。野瀬島としては、その打ち合わせで時間をとっている。無駄話は遠慮したい、ということだろう。
仕方なく、俺はその流れに乗ることにした。どうせあれ以上聞いたところで、はぐらかされるだけだろう。

「そうですね。非常に魅力的ですし、現実的なプランをお考えだと思います。弊社としても、前向きに検討させていただこうと思っています」
「ああ、それはよかった。アスピア商事さんと提携なんてねえ、夢みたいですよ」

実際、事業展開の話なんてのはどうでもいい。俺はタイミングを見計らっていた。
次は九十九との関係性について探る必要がある。ボロを出すとは思えないが、揺さぶりをかけることくらいはできると踏んでいた。

「では、すでにご存知かとは思いますが、こちらの資料について、私からもう少し細かいことをご説明させていただきます」
「跡部常務から伺えるとは、私も幸せ者ですねえ」

慇懃無礼なひとことをつけてくる野瀬島に多少の苛立ちを覚えながらも、俺は提携の詳細やその後の理想的な展開について説明をした。終わるころには、30分が経過していた。
そろそろいいか、と思う。野瀬島も聞きたいことは、ほぼ聞き終えただろう。俺は、自然な流れで雑談に切り替えた。

「ところで野瀬島社長は、うちの九十九とは以前からお知り合いのようですね」

九十九静雄のことは、すでに昨日のうちに調べていた。今年で65歳。定年予定だ。
妻とひとり息子がいる妻帯者。
10年前は『籠沢建設』で執行役員として働いている。籠沢建設は、跡部財閥グループがスポーツクラブ建設全般で取引先にしていた会社だった。グループ会社内や取引先との異動めいた転勤は山のようにある。籠沢建設はアスピア商事の取引先でもある大手ゼネコンだったこともあり、この経歴については、さほど気にもしていなかった。
そして10年前の俺が責任者を担ったテニススポーツクラブ案件では、九十九は、仕事ではなにも関わってきていない。そう、「仕事では」。
だが……野瀬島がそこで現場職員として働いていたとしたなら、話は変わってくる。九十九静雄と野瀬島克也の共通点が、そこにあるからだ。佐久間さんは籠沢建設の人間だったが、現場に来ていたのは数人。そこに野瀬島なんて名前はなかった。だとしたら下請け、あるいは孫請けで働いていた連中に紛れていたか……。

「九十九さんと私が、以前からの知り合い? ……あー、それは、どういった噂ですか?」噂、と言った。俺のカマかけには乗ってこない。用意周到な野郎だ。
「すみません、違いましたか? 九十九がずいぶん親しそうに野瀬島社長のことを話されるので、てっきりそうなのかと」
「ああ、いやいや。一度お話したとき、たしかに非常に気が合う方でした。まあそれで、この提携の話が出てきたんですがね。前から知り合いということは、ないですよ」

ない、と強調したことに、含みを感じた。

「そうでしたか。それは失礼いたしました。ところで九十九とはどこで会ったんですか?」
「え?」野瀬島の眉間に、シワが寄った。
「一度、話されたとおっしゃっていたので」
「ああ、会食でね。偶然です。九十九さんがいらっしゃっていて。いや、アスピア商事のCEOと聞いて驚きましてね」

偶然に会っただと? 息子ほど歳の離れた若造に、偶然に会って意気投合しただけで、大手商社のCEOがそんなに簡単に動いてたまるかよ。

「そうでしたか。九十九が動いたのも、野瀬島社長が大変、魅力的な方だったからだと思いますよ」
「またまた跡部さん、うまいですよねえ。私をおだてても、提携しかできませんよ」まったく笑う気にはなれなかったが、俺はお愛想で笑ってやった。
「いえ、事実ですよ」

九十九静雄と野瀬島克也の共通点は、もうひとつある。
九十九の息子は、九十九淳一という。23年前からひきこもりで、部屋から一歩も出ていない。それだけならめずらしい話じゃないが、淳一の年齢は、今年41歳だった。
野瀬島はメディアでは年齢非公表にしているが、今年41歳のはずだ。社内のコンプライアンスチェックで、その確認はすでに取っていた。
つまり、九十九の息子と同い年。しかも片方はひきこもり。これだけで、十分に「きな臭い」。

「九十九も、まだ若いのに、とんでもない商才を感じる、と言っていました」
「いくらなんでも、おだて過ぎですよ、めっそうもない」

まんざらでもなさそうだ。もう一度、カマをかけてみるか。
九十九の息子と野瀬島になにかつながりがあるなら、ここで反応を見せるはずだ。

「加えて、『うちの息子とは、大違いだ』とも」

俺のその勘は、当たった。あからさまに、野瀬島は一瞬、口を閉じた。

「……九十九さんも、口がうまいですなあ。さすが跡部さんの上司です」

俺のジャブは、それなりに効いたらしい。
満足したところで適当に話を切り上げて、俺は席を立った。

「それでは、そろそろ失礼いたします」
「はい、ああ、エレベーターまでお送りしましょう」

ヤツはでかい図体を動かしながら、俺の背後についてきた。それだけで、殺気のようなものを感じる。
息子の話が、そんなにこいつを動揺させたか。調べてみる必要がありそうだ。

「それでは、また伺います。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。あ、跡部さん」
「はい?」
「お知り合いの女性、せっかくの逸材ですから、大切にされてくださいね」
「え……」

エレベーターが閉まる直前、野瀬島はそう言って、歯をむき出しにして笑っていた。
あきらかな威嚇を、俺は感じていた。





あれは、俺への威嚇なのか、それとも……。伊織になにかしやがったら、タダじゃおかねえぞ、あの野郎。
どっちにしても、俺の話はいずれ九十九に流れるだろう。そうなったときにごまかす方便も、俺は用意していた。まだ九十九に挑むだけの材料はない。
結局は謎が深まっただけの野瀬島との打ち合わせを終えて、俺はシゲルのレッスンスタジオに来ていた。
昼は不安そうな声を出していた伊織だったが、稽古ではしっかりと芯のとおった声が出ている。オーディションのこともあるのか、シゲルにも気合いが入っていて、ますます演技はうまくなっていた。

「シゲル、どんな感じだ? オーディション、うまくいきそうか?」

レッスン終了後、伊織はそそくさとロッカーに消えていったが、シゲルがこっちに向かってきたのをいいことに、俺は状況を聞いた。

「プロデューサーの推しがあるならきっといけるわ、今回こそは」
「そうか。それなら安心だな」
「ま、油断はできないけどね。こないだはボロボロだったし。でもオテンバの調子はよさそうよ。こんな滅多に無いチャンスを手に入れるなんて、そういう星の下に生まれたのかしらね? だけどいつの時代も、スターってそうして誕生していくものなのよ」不公平だわ、と付け加えている。「そんなことより、景ちゃん」
「なんだ?」
「本気で、あんな女と結婚するつもり?」

突然に話題を変えたシゲルが、ずい、と顔を近づけてきた。うっすらと浮き上がっている青いヒゲ面が目に痛い。
シゲルはどういうわけか、昔から千夏が嫌いなようだった。俺の女だからだと思っていたが、こうまでしつこいと、違う理由もある気がしてくる。

「……いろいろと事情があんだよ」
「いくら妊娠させたからって、いろんな方法があるじゃないのよ」

おそらく、堕胎のことを言っている。つうか、なんで知ってんだこいつは。
伊織だな……? あの女、余計なことをベラベラと。

「そんな身勝手で無様な懇願を、俺にしろってのか」
「あらあ、愛のない結婚をするほうが、よっぽど身勝手で無様じゃない」
「貴様、なにを言ってる……?」
「わかってるくせに。ほかに惚れてる女がいるのに、惚れてもない女と結婚するほうが身勝手で無様でしょって言ってるの、アタシは」

背筋がゾッとした。シゲルの観察眼は並大抵じゃない。
演技よりもそっちのほうをブロードウェイで鍛えてきたんじゃねえかと思うくらいだ。

「シゲル、勘違いも」
「アタシが、この、アタシが!」俺の話をさえぎって、大げさに叫びながら、手のひらを胸に当てた。「気づいてないとでもお思い? 景ちゃん」
「……なんのことだ」こうなると、しらばっくれるしかない。
「わかンないってなら、ロッカールームに聞こえるように、大声で言ってあげましょうか?」あああああ、と発声練習をしはじめた。この上なく、うるせえ。
「そんなことをしてみろ。このレッスンスタジオごと潰してやる」
「まあ怖い! 景ちゃんが言うと冗談にならないのよ!」

伊織への想いに気づいてからというもの、すでに2週間は過ぎている。
週3ペースで顔を出していることからして、たしかにシゲルが気づいていても不思議はない……が、不二にはその前から、気づかれていた。もしかすると、こいつもその類いか。
クソ……穴があったら入りてえじゃねえの。
どいつもこいつも、無駄なインサイトを身に着けやがって!

「景ちゃん。アタシ、一応、あなたより年上なのよ。だから忠告してあげるわ」
「いらねえよ」
「黙って聞きなさいよこのボンボン!」

痺れを切らしたように、シゲルが悪態をついてきた。こいつには、たまにこういうところがある。

「運命には逆らえないのよ。とくに、人の気持ちはね」
「少女漫画みてえなこと言ってんじゃねえよ……」
「読んだこともないくせに、よく言うわね」
「読んだことぐらいあるっつうんだよ」忍足から中学のときに借りた、一度きりだが。実にくだらない内容だった。あれならエロ本を読んだほうがマシだ。
「じゃあわかるでしょう!? 女心は複雑なの。鬼にもなるし天使にもなる。アンタの女は鬼よ! 鬼になった女はね、その男のなかで、天使に戻ることは二度と無いのよ!」
「なにが言いてえんだよ、てめえは……」
「だから! あのオテンバなら、ずっと景ちゃんの天使でいれるかもしれないのよ。そのチャンスを、みすみす逃していいの?」

もうすでに、天使どころか、女神だ……口が裂けても言えねえが。
とはいえ、逃すもなにも……状況的に無理だろうが、どう考えても。

「心はすっかり薄情者のくせに、情だけで表面的に誠実になろうとしたって無駄よ! それは景ちゃんのエゴでしかないの! よく覚えておきなさい、坊や」

……そんなことは、わかっている。だからって、どうすりゃいいんだ。
伊織が涙を流してまで訴えてきた思いに、俺は逆らうことはできない。伊織にだけは……嫌われたくねえんだよ、俺は。
責任を果たすと、約束した。千夏にも約束したが、俺のなかで強固となっているのはそこじゃない。伊織と、約束したんだ。
俺が黙り込んだせいで、シゲルにも沈黙が訪れていた。
ちょうどそのとき、ロッカールームの扉が開く音がした。俺もシゲルも目を向けると、伊織もこちらに視線を向けてきた。

「オテンバ、あがるの?」
「はい、今日もありがとうございました。帰りますね」

その顔を見て、聞かれていなかったようだと安心する。
手には俺がロッカーに入れておいたペットボトルが握られいた。どうやら、メモは剥がされているみたいだが。まあ、当然か。

「待て、家まで送ってやる」
「え……いや、いいよ」
「送らせろ。まだ話しきれてない件もあるだろ」

伊織は片手を強く振って遠慮したが、野瀬島の件は、まだ伊織のなかで不安が残っているはずだった。せめて万全の状態で、オーディションを受けさせてやりたい。
それに……4日は会えなくなる。少しくらい、一緒にいさせろ。

「送ってもらいなさいオテンバ。いい男の厚意は、受けておいて損はないわよ」

さっきのことを、言いすぎたと思ったのか。それともただのおせっかいか。
シゲルは俺にウインクをして、ロッカールームに去っていった。





シゲルがなぜ、突然あんなことを言いだしたのか。
どう考えても、千夏と結婚することを知って、黙っていられなかったんだろうと推測する。
だとすれば、俺は自分で気づくよりも先に、シゲルや不二に気づかれていた憶測が有力になってくる。であれば、伊織にもとっくにバレてんじゃねえかと、身の置き場がない気分にさせられた。

「不安は、少しは解消したか?」
「うん、演技指導を受けてたら、忘れた」
「そうか。全力で挑めそうか? 当日」
「挑む! 挑むしかないでしょう、ここまできたら!」

すっかり本来の活気を取り戻した伊織の目を見て、俺は微笑んだ。闘志に満ちたいい目というのは、笑顔のなかにも表れる。いまの伊織はまさにそれだった。
少し前までは、俺への憎しみを糧にしているようなところがあったが、いまはもっと余裕があって、これから戦いにいくぞ、と言わんばかりのエネルギッシュな一面を持ち合わせていた。
本当に……本格的に女優になってきたと、つくづく感じる。

「それに、まあ野瀬島がシェアしてたところで、別に悪用されてるわけでもないし」
「ああ、逆に利用してやればいい」
「だよね。気味は悪いけど、たしかに跡部の言うとおり、偶然ってこともあるし」
「入本さんはなんて言ってんだ? 1日に1回は連絡を取っているんだろ?」

伊織を推すと約束してくれたピエロの入本プロデューサーは、かなり積極的に活動してくれているようだった。初動のバズりはおそらく入本さんがなにか手を使ったんだろう。そう考えれば、伊織と俺の初回の演奏が動画撮影されていることも頷ける。
ただ、野瀬島がわざわざアレをシェアした、というところには引っかかるが……。

「すごくラッキーだって。跡部と同じこと言ってて、笑ったよ。プロデューサーって同じこと思うのかなーって」
「そうか……まあ、入本さんがそう思うなら、不安になる必要もない」
「うん、だね」

実は野瀬島にも聞いてきた、ということは、伏せておいた。伊織は俺が仕事で野瀬島と絡んでいることは知らない。伊織にこれ以上、野瀬島のことを気にさせることは避けたかった。
それに、あの最後のひとことが気になる……。
野瀬島が10年前の俺たちのことを覚えているのは当然だ。伊織に俺の悪評を吹き込み、伊織はすんなりとそれを信じた。
その伊織が、いま俺と仲がいいと知ったら……あいつにとってなにか不利なことがあるのか?
それは……やはり佐久間さんの死に関連することなのか。

「ありがとう跡部。このへんで大丈夫」
「ああ、そうか」

気づけば、伊織の自宅前についていた。佐久間さんの奥さんに挨拶しておこうかと思ったが、余計なことがバレそうなので、やめておくことにした。
車を脇に寄せて停める。20分ほどの時間が名残惜しくなっている自分に、呆れそうになった。

「はっ!」

ドアノブに手をかけた伊織が、なにかに気づいて動きを止めた。車のあちこちに目を凝らして、急にルームライトを点灯させていた。
もともと挙動不審なところがある女だが、これにはさすがの俺も若干、引いた。

「おい、なんだよ」
「蚊がいるよ跡部!」
「アーン?」

なるほど、たしかに伊織の目の動きといい、必死さといい、納得できた。
俺はなぜか、あまり蚊に遭遇することがない。そのせいか、蚊を見つけた人間は、どうしてこんなにも躍起になるのか、不思議でならなかった。

「ほっとけよ」
「なに言ってんの!? 刺されるじゃん!」これからどうせ家に入るのに、刺されるとしたら俺だろうが。「ちょっと! なんかスプレーとかないの!?」
「ああ……そういやあったか?」

ダッシュボードをあけると、虫除けスプレーがあった。テニス仲間とキャンプに行ったときに、日吉が持参して忘れていったものだ。「これさえ振っておけば下剋上完了です」と、わけのわからねえことを言っていたな。要するに、死ぬ、ということだろう。
俺はその小さなアルミ缶の蓋をあけた。が、プッシュしても腑抜けた空気音しか出てきやがらなかった。

「……ふむ、日吉のヤツ、使い切ったか。ゴミを置いて帰りやがったな」
「ああ、もう肝心なときになにやってんのー!」
「仕方ねえだろ、切れてるとは知らなかったんだよ」

蚊の羽音が、耳元でしている。影を見つけて、俺はその行方を凝視した。
ほっときゃいいと思うのに、伊織が躍起になっているせいで、仕留めるまではここから動けない気分になってくる。

「いま、そっちいかなかった!?」
「ああ。ちょっと待て、おそらくもうすぐ止まる」
「え、見つけてるの?」
「ああ、見えてる」

そう告げたとき、蚊が、ピタッと伊織の耳の下、顎のラインあたりに止まった。

「……伊織、じっとしてろ」
「え、止まってる!? どこ!?」

手を硬直させて、伊織が固まっている。

「止まってる。叩くが怒るなよ」
「怒らないから早くしてっ」
「でかい声を出すな」

俺はやむを得ず、伊織の顔に体ごと近づいた。顎のラインに手を近づけていく。
そこで、俺は我に返った。
……叩けってのか? この俺に、伊織を。

「跡部?」
「待て……じっと、してろ」
「してるじゃん! さっきから!」

俺は意を決して、手を素早く伊織の顎ラインに沿って打ち付けた。
……打ち付けた、つもりだったが、肌が弾かれるような音もでなかった。
思いもよらず、ふわっと、目の前の女の頬を包んだだけになってしまった。
……なにを、やっているんだ、俺は。

「へ?」

伊織が、唖然として俺を見あげた。まずい……なぜか、体が動かない。
頬を片手で包んだような形になったまま、伊織とまともに目があった。
これまでにない至近距離のせいなのか、お互い、そのまま黙り込んでしまう。
なんだ、これは……自分の体なのかと思うくらい、脈が早くなっている。

「あ、跡部……?」

伊織の戸惑いが声になったとき、ふわっと蚊が俺の指のあいだからすり抜けていった。
同時に、あ、と情けない声が、自分の口から出ていった。

「え、逃げた!?」
「……らしいな」

ゆっくりと、その手を離した。尋常じゃねえぐらい、手が熱い。

「らしいな? らしいなじゃないよ! なにしてんの!?」
「……悪い」
「悪いじゃないよ! 叩かないと死なないし! あ! かゆい! かゆいー!」
「うるさいっ、わめくな!」

その後、数分の格闘を終えて、俺たちはようやく蚊の退治に成功していた。
結局、仕留めたのは伊織だった。伊織が広げた手のひらには、死んだ蚊と、吸ったばかりなんだろう血液が付着していた。

「見てよ、これ。跡部が失敗しかたら、わたしが刺された!」
「わざわざ見せなくてもわかってる」たのむ……もう俺を責めないでくれ。
「なんでそんな、自分は悪くないみたいな」
「蚊の1匹くらいで大げさなんだよ、てめえら一般人は! 早く帰れ!」
「でたよ、これだからボンボンは! 言われなくても帰りますー!」

バタン、と大きな音を立てて、車のドアが閉められた。俺はそのまま、頭を抱えた。
これほどの敗北感を味わったことは、なかなかない。この俺が……蚊に負けるとは。
しかも直後、伊織はメッセージを送ってきやがった。

『あーかゆい。跡部のせいだ』

クソ……お前のせいだろうが!





数日が過ぎても、たまに思い出して、自分にげんなりする。
若干のしこりを残したまま、俺はまたシゲルのレッスンスタジオへ来ていた。今日はレッスン見学ではない。伊織とシゲルと3人で、入本さんからの連絡を待っていた。

「うまくできた自信はあるのね、オテンバ?」

シゲルはずっと人差し指をカチカチと床に叩きつけている。あと1時間もやったら骨折しちまうんじゃねえかと思うくらいだ。

「あります……入本さんも褒めてくれましたし!」
「ならどうして連絡がこないの。まだなの!?」
「そろそろのはずなんですっ」

伊織のオーディションは、5時間前に終了していた。
だだっ広いスタジオの一角で、3人のいい歳をした大人たちが、ただスマホを眺めている。知らない人間が見たら同情を誘うだろうが、俺たちはいたって真面目だった。

「審査が難航してんじゃねえだろうな?」
「景ちゃん、カリカリしないでよ! こっちまでカリカリしちゃうから!」
「さっきからカリカリしてんのは、てめえだろうが」

そのときだった。ようやく伊織のスマホが鳴り響き、その液晶には、「入本プロデューサー」と出ていた。
はっと全員が息をのんで、顔を見合わせた。

「早くとってオテンバッ!」
「わかってます!」

伊織はふうーっと深呼吸をしたあと、震える手で、その受信を通話にスライドさせ、スピーカーホンにした。

「もしもし? 入本です」
「はい、伊織です」
「今日はお疲れ様でした」
「いえ。それで、あの、結果は……」

シン、と一瞬、静かになる。入本さんにそのつもりはなかったかもしれないが、その間がかなり長く感じて、俺たちの緊張感が一気にあがった。

「合格です、おめでとうございます」

その、淡々とした発表の声が、全員の耳に届く。
示し合わせたわけでもないのに、誰も声をあげることなく、ガッツポーズだけで喜びを表した。俺たち3人は、どこまでもプライドが高い。
ふっとひと息はいて、伊織は毅然とした声で言った。

「ありがとうございます。では、その後の件については、またお知らせください」
「はい! いい舞台にしましょう!」
「よろしくお願いします!」

ピ、と通話が切られる。その瞬間に、目の前の二人は立ち上がって抱きあいながら、歓喜の声を上げた。

「やったわオテンバ! アンタ! 女優の仲間入りよ!」
「シゲルさん……シゲルさああああん! やりましたあああ!」
「アタシのおかげでしかないわね!」
「そうです、シゲルさんのおかげですー!」

二人とも声量がバカみたいにデカいせいで、思わず耳をふさぐほどだった。
だが、俺も叫びたいくらい嬉しい気持ちは、一緒だ。
ついに、やりやがった。こんなに早く結果が出るとは思っていなかったが、それもこれも、シゲルの熱心な指導と、伊織の血の滲むような努力の成果だ。
いますぐシャンパンを浴びたいくらい、嬉しい。こんな喜びを感じることは、ここ最近ではなかった。

「跡部も、ありがとう」

伊織が潤んだ目で、俺に近づいてきた。
思い切り泣きゃいいだろ、と言ってやりたくなる。入本さんにとった態度といい、この女は本当にプライドが高い。
だが……俺はお前のそういうところ、嫌いじゃねえよ。いや、正直……惹かれてんだ、俺は。

「いよいよだな、伊織。よくやった」

俺は、伊織の手を引き寄せ、ハグをした。
そのまま頭を包み込んで、ポンポンとなでるように弾く。挨拶程度の、ハグのつもりだった。
てっきり、すぐに「ありがとう!」と伊織も手を回して、俺の背中も同じように弾かれると思っていたが、伊織の体は硬直し、周りの空気は静まり返っていた。
はっとるする。また俺は……気安く触れすぎたか?
慌てて体を離すと、伊織は棒のように突っ立って、固まっていた。

「あ、いや、悪い」
「いや、あの、全然……大丈夫」

そっと目を伏せた伊織が、赤面していた。なんて顔してやがんだ、この女は……。
これから女優業をやるってのに、こんなことで大丈夫なのかと心配になってくる。
この程度のこと、普通だろうが! これ以上の、俺が考えたくもないようなラブシーンだってあるかもしれねえってのに! などと言ってしまいたかったが、結局、俺はいたたまれない気持ちになって、伊織から目を逸らすことしかできなかった。
そして逸らした視線の先には、しらけたシゲルの顔があった。目を一直線にして、俺を見てやがる。なんなんだよ、てめえのその顔は!

「ねえ、景ちゃん」
「黙れ、シゲル」
「本気で結婚するの? 後悔するわよ?」
「黙れと言っている!」不二かてめえは!
「だって、もう見てらんないわよ、こっちだって!」
「も、シゲルさん、ホントに黙ってください!」

そこに、なぜか伊織まで加勢してきた。アーン? こりゃどういう状況だ?
混乱して頭がまわらねえ。俺が慌てるならまだしも、なぜ、伊織が慌てている? 

「アンタもさあ、いい歳して少女漫画のヒロインやってんじゃないわよ!」

また、少女漫画だと言いだしやがった。しかも今度は、ヒロイン、だと?
ちょっと待て、これはどういうことだ。
シゲルは、伊織にもなにか余計なことを吹き込んでやがったのか!?

「なにを言っているのか、意味がわかりません!」伊織が真っ赤になって反論している。
「そうだシゲル、てめえは余計なことを言ってねえで、この女の演技指導を続けろ!」見てるこっちが、真っ赤になりそうだった。
「はい!? つづけないわよオーディション合格したのに! もうアタシは降りるわよ! だからアンタたち、これ以上は面倒見ないんだからね! 自分たちでなんとかしなさいよ!」
「な、なんのことですか!? 意味わかんないよね跡部!?」
「ああ、さっぱり意味がわからねえな!」

ったく……我慢してきたっつーのに、シゲルの野郎。
余計なことを気づかせんじゃねえよ!
それじゃなくても俺には……問題が山積みなんだよ!





あの反応は……自惚れじゃなければ、伊織も俺を意識している、ということだろう。
そうかもしれないと思ったことは、ある。あるが、気づかないようにしていた。歯止めが効かなくなっても困るからだ。おまけに俺には婚約者がいる。
ったく、なんなんだよ、これは……ロミオとジュリエットじゃあるまいし、許されない恋をしている場合じゃねえだろ。
だが、いくらそう自分に言い聞かせても、頭のなかに伊織しか浮かんでこない。
アラサーにもなって、重症もいいとこだった。

「景吾、どうだそっちは? 最近帰ってこないから、様子もわからないじゃないか」

悶々とした気分のまま週末が終わり、俺が会社を出るころに、めずらしく父親から連絡が入った。
数ヶ月に一度、親父はこうして俺の様子を伺ってくる。
ライバル企業に勤めているわけでもないのに、息子の仕事の様子は気になるらしい。

「まあ順調だ。最近はちょっとバタバタしてんだよ。また時間をつくって戻る」

親父はいま、跡部財閥の社長を担っている。爺さんは会長だ。
プロテニス引退後、一旦は別会社に就職すると決めた俺に『アスピア商事』を進めてきたのは、この親父だった。

「株価も順調のようだからな。会長は元気か?」
「滅多に会わねえから、わかりゃしねえよ」

ははっ、それもそうか、と親父は笑った。
アスピア商事は跡部財閥とはまったく関係のない会社だが、親父はいくつかのパーティーで有名どころの企業社長や会長連中とは顔を合わせているようだった。
ふと思う……九十九のことは、知っているんだろうか。

「なあ親父。会長じゃなく、うちの社長なんだが」
「ああ、九十九さんのことか?」
「そうだ。もしかして、顔見知りか?」

俺がそう聞くと、親父は、少し唸った。

「全然、知らん。パーティーで会ったことがあるくらいかねえ。昔な、もう40年前くらいになる」
「ほう?」会ったことはあるのか。「どんな印象だった?」
「いやまあ、軽そうな男だと思ったね」
「はっ……言うじゃねえの」

俺からすれば、親父もかなり軽そうなんだが、それは言わないでおいた。
嫌がらせのようなじゃれあいが好きな親父だ、なにされるかわかったんもんじゃねえ。

「そういや、あの人がお前の上司になるんだな」ずっと金魚のフンだったのに、出世したもんだな。と、ぽつりと言った。
「金魚のフンって、なんだよ?」

含みのある言い方が、引っかかる。

「九十九さん、前は籠沢建設にいたろ? そのころは、当時の社長の金魚のフンだったんだよ。社長のためならなんでもやるって感じの。ほら、数年前に社長を退任したのがいたろ、あいつの金魚のフンだよ」
「ああ、いたな」なんて名前だったか、忘れたが。「あまり取引先を悪く言うのは、よくないんじゃねえのか? 親父」
「いやでもねえ、俺もいびられたんだよ、籠沢建設の前社長には」
「天下の跡部財閥の社長がか? 笑えねえな。なんでそんな目に遭うんだよ?」

親父は普段から飄々としているせいか、あらゆる組織にナメられているところがある。だが、それでも一度も足元を掬われたことがない。
相手がヤクザだろうとビクともしない。本気になったときはしゃべり方が一気に変わり、別人のようになる。それが、親父の強さでもあった。

「たいした話じゃないんだけどさ」と、親父はヘラヘラとしながらつづけた。「昔はさ、跡部財閥も派閥があったんだよ」
「はあ? そんな話、はじめて聞いたぜ?」
「社長がまだ曾祖父さんの時代だ。単なるくだらない兄弟喧嘩が発端だったんだけど、それが長引いてなあ。しかもちょうど、次期社長をどうするかってころだった」

寝耳に水のような歴史だった。
俺が知る爺さんと大叔父は、はっきり言って、気持ちが悪いほど仲がいい。
婆さんをほったらかして二人でよく世界を旅しながら、釣りだの登山だのカジノだのと、とにかく威勢がいい。遊びすぎてポックリ逝っちまうんじゃねえかと思うほどだ。
そんな二人が派閥争いをしていたとは考えにくかったが、40年前となると、そういうことがあっても、おかしくなない。

「ま、結果的に仲直りして、爺さんが跡部財閥を継ぐことになったってわけだな」大叔父は財閥グループ会社のトップに君臨している。丸く収まったんだろう。「で、その派閥が割れてた時期に、さっき話した籠沢建設の社長が、大叔父側の参謀でねえ」
「ほう、もとは跡部財閥勤務だったってことか。つまり、派閥の負け組にいたってことだな?」
「そんな大げさなものじゃないと思うんだけどねえ。本当にくだらない兄弟喧嘩だったらしいから。まあだから、派閥で争った社員は巻き込まれただけだな」
「負け組はどうなったんだ?」
「なにもないよ。でも唯一、大叔父側の参謀は籠沢建設に飛ばされた。爺さんも厳しいとこあるからな。まあ結構、派手な争いを下の連中はやってたんだろ」ほら、白い巨塔みたいな。と、笑いながらつづけた。「だけどそこから取引先になったんだから、ウィンウィンだと思うけどな。しかも社長に成り上がるんだから、たいしたもんだよ」
「だが、参謀からすれば迷惑な話だったということか」巻き込まれた側はたまったもんじゃねえな。
「財閥での出世を狙ってたんだろうからな。まあ、大叔父派閥にいる連中には、遺恨を残してる連中も多いってことだ。籠沢の社長がその代表。うちのお偉いさんたちが、ときどき話してる。40年前だぞ? 男の嫉妬は醜いよなあ」

お前がいちばんお偉いさんだろうが。のん気な親父の声に、笑いそうになった。

「それで、親父が籠沢建設にいびられていたという話か」
「俺、爺さんの息子だからな。おかげであの金魚のフンも嫌いだったね、俺は」

「軽そう」の次は「嫌いだ」ときた。正直な社長だ。あまり正直だと困るが。
しかし、そうなると籠沢建設の社長の金魚のフンだった九十九が、派閥争いの件を聞いている可能性は十分にある。が……それと今回の件が関係あるかは、わからない。もし聞いていたとして、部下が跡部財閥の孫だと知ったところで、九十九には直接関係のある話でもない。
まったく……点が多すぎ、乱雑に散らばっているせいで、線につなげられない。跡部財閥が絡んでくると、そんなつながりはいくらでもあるのは当然だが、これを偶然と片付けていいのか。
妙な話が多すぎる。

「それより景吾、そろそろ財閥に戻ってきたらどうだ。もう十分に勉強しただろう。こっちの経営に入るには、ちょうどいいと思うが?」

俺、早くリタイアして遊びたいんだよ。と、またのん気なことを言い出した。うちの母親は、なんでこんなチャラチャラした男がいいんだ?
親父の言うとおり、本来ならいまごろ俺が副社長になっていてもおかしくはない。だが、生ぬるいお湯に浸かって生きるのは、俺の性に合わないと思っていた。
プロテニスを引退したあとは、ほかで実績をあげてから跡部財閥に戻ろうと、最初から決めていた。が……いまはその時期じゃねえ。

「……ちょっと方を付けなきゃいけない仕事がある。それが終わったら、財閥に戻る。それまでは親父がしっかり会社を守っててくれ」
「まったく偉そうに……誰に似たんだろな、このバカ真面目息子は」
「アーン?」

そのときだった。
激しいノックがドアから聞こえ、俺の承諾を待つことなく、秘書が駆け込んできた。

「常務、大変です!」
「どうした?」

それと同じタイミングで、電話越しにも、親父の「どうした?」という声が聞こえる。
だがそれは、俺に向かって投げられている言葉じゃないように聞こえた。

「常務のことが、ニュースになっています!」
「は?」

秘書は俺に、スマホを差し出してきた。画面に羅列されている文字に、一瞬、頭が追いつかなかった。そこには、俺と伊織の写真が、なんの承諾もなく掲載されていた。

「景吾」

と、親父が電話越しに、俺の名前を呼んだ。
さっきまでの、のん気でチャラチャラした声ではなく、緊張感のある、鋭く尖った声だった。同じタイミングで、親父にも情報が入ったのか。

「過労死遺族に個人的に3億も支払ったというのは、本当か?」

3ヶ月以上前の俺と伊織の戯れが、世間に公表されていた。





to be continued...

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