XOXO_09


9.


男性の心には、なにか鉛のようなものが10年前から潜んでいるんじゃないか。それは大きな鉛とは違う。こうした工事現場のあちこちに転がっているような、破片にも似た小さな鉛だ。風で吹き飛ばされてころころと転がっていくようなその鉛は、それでも彼の心から吹き飛んでいくことはなかった。
だから野瀬島への気味悪さを覚えてからというもの「うまく笑えない」。なにか重要なことを知ってしまった気がする。でも誰にも話せない。話したところで、「だからなんだ」と言われてしまうような、小さな違和感。

「テニススポーツクラブ建設のとき、あなたも一緒だったということですか? そのリーダーの方が亡くなったのも、その建設時なのですか?」と、僕は念のために聞いた。同じ現場で急性心不全で亡くなった方が二人もいるとしたら、いわくつきと噂が立ちそうだ。
「いえ、野瀬島はその仕事がはじまる1ヶ月前に雇ったんです。最初の1ヶ月は違う現場で体を慣らしてから。結局、テニススポーツクラブ建設に、自分は派遣されませんでしたので」

……ということは、この男性から伊織さんが仕入れてきた情報の様子を聞くことは、難しそうだ。
となりに座る伊織さんは、しばらく沈黙したあと、意を決したように男性に身を乗りだした。

「あの、野瀬島が『この世に存在しない人間だ』と言ったとき、あなたはどんな反応をしましたか? なにか、聞いたり……」
「存在してるじゃないか、なにを言ってるんだって、言った気がします。人から生まれて、人として生きてるだろうって。ああ、そうだ、だから聞いたんですよ、出身地とか、趣味はなんだ、とか。人間が生きてれば普通に答えれることを、聞きました」

出身地、という言葉に僕も伊織さんも引っかかった。

「野瀬島の出身地、どこなんですか?」
「山梨だって言ってました。でもそれしか、わからないんです」
「十分です。とても助かりました」

新たな情報を手に入れて、僕たちは喫茶店をあとにした。





帰りの車のなか、伊織さんはしきりとスマホでなにかを調べていた。
僕は僕で、跡部にどこまで話すべきか考えあぐねていた。野瀬島克也という男が跡部グループのテニススポーツクラブ建設に関わっていた。それだけでも十分にうす気味が悪い。その跡部グループの御曹司である跡部が、いま野瀬島のバックアップを頼まれている。『アスピア商事』という大手商社のCEO直々に、と跡部は言っていた。とすれば、そのCEOと野瀬島の関係がなにかキーになる。あの治療院の領収書だって……。

「不二さん」

長いあいだ沈黙を貫いていた伊織さんに急に声をかけられて、僕ははっとした。
となりに伊織さんを乗せているし、車を運転しているというのに。考えごとはあとにしたほうがよさそうだ。

「うん?」
「わたし来週、山梨に行ってみようと思います」
「え……」

伊織さんの行動力に、いまさら驚いたりはしない。しないけど、彼女はいつも無計画すぎる。そういう人を目の前にすると、僕はいつもヒヤヒヤするのだけど、伊織さんは僕の大切な人だから、余計にヒヤヒヤした。

「あのね伊織さん、山梨って広いよ?」
「わかっていますよ! 闇雲に行こうとは思っていません!」
十分、闇雲に思えるのだけど……。「行ってどうするの? どこに住んでいたかもわからないのに」
「不二さん、ここまで調べてあきらめるんですか?」
「というか、これ以上、調べようがないと思わない?」

跡部に話せば、あとは彼がなんとかするような気もしていた。そもそも関わるなと言われていたのに関わったことだって、僕としてはとてもうしろめたい。
それもこれも、僕の好きな伊織さんのせいなのだから、余計にたちが悪い。

「そんなことありません。ネットを駆使すれば、野瀬島がどこに住んでいたかくらいはわかる気がします」
「でも野瀬島、いろんなことが非公表じゃなかった? 年齢も、出身地だって偶然だよね?」
「はい。野瀬島は料理批評家として出てくる以前のことをすべて非公表にしています。よく考えてみればこれがもう怪しいですよね。『存在しない人間』という言い方と、なにか符合するものがある気がしませんか?」
「まあ、ね……」たしかに、その発言が僕もいちばん引っかかっていた。
「でも知っている人は必ずいます。存在しているんですから。じゃあなぜ非公表にするのか。知られたくない過去があるに決まっています」

テレビドラマの見すぎだよ、とは、もう言えなくなっていた。伊織さんは無計画だけど、よく頭が回るし、その推測は正論で、納得してしまう。
そして張り切った彼女は、とても輝いていて、また僕を夢中にさせるから……。





結局、僕は伊織さんを送ることなく、自宅マンションに戻った。僕の部屋でふたりで調べ物をすることにしたからだ。
僕の家にはデスクトップパソコンとノートパソコンが1台ずつあるから、両方を使って野瀬島の過去を引っ張り出そうということになった。スマホでちめちめと調べるよりは、絶対に効率がいい。
日本という小さな国でも、その情報量は膨大にある。インターネットの世界には制限がないから、『野瀬島克也』というワードだけで、とても調べ尽くせないほどの情報が飛び込んできた。『野瀬島 山梨』でも同じだ。野瀬島に関する記事と山梨県に関する別の記事が同じサイト内にあるだけでヒットするので、それはとても厄介だった。

「伊織さん、明日も仕事でしょう?」
「え、はい。そうです」

夕方前には帰ってきたというのに、調べ物をしているだけで夜の9時になっていた。
簡単なパスタをつくってふたりで食べた。何時間も野瀬島の情報を見て具合が悪くなった僕たちは、せめてこの時間だけは違う話をしようと決めた。

「食べたら、家まで送るね」

僕がそう言うと、伊織さんの「美味しいー!」とほころばせていた顔が、一瞬で悲しい表情になった。

「すみません、こんな時間まで。そうですよね、図々しかったです」……ご迷惑、ですよね。とつづけた。
「迷惑とかじゃなくて……伊織さん、ひょっとしてまだまだ調べるつもりだった? 行くのは来週だし、時間はあるよ」
「ですがわたしも不二さんも、仕事の日は動きにくいです。今日、やれるだけやっておきたいと思っちゃって」

すみません、家にパソコンがないので、つい長居を……とうなだれている。
ずるい……なんだか「いいよ」と言ってしまいそうな自分が腑に落ちなくて、僕はこの際だから、気になることを聞いておこうと思った。

「そういえば伊織さん、香椎さんとは、どうなの?」
「え……ど、どうとは?」あきらかな動揺が見てとれる。なにか僕に言いたくないことでもあるのかな。このあいだから、香椎さんの話をするときの伊織さんの様子は、妙だった。
「最近、僕になにも相談しなくなったなあって」香椎さんがどんな動きをしているのか、気になることもあるのだけど。「昨日も、うちにデートに来たじゃない。うまくいった?」
「あれは……デートというか、ダブルデートです」
「デートでしょう? それも立派な」すっかりいい感じなんじゃない。なのに浮かない顔されると、こっちも遠慮したくなくなるんだけど、わかってないのかな。
「香椎くんのことは、もういいです」
「え? どういうこと?」
「ですから、不二さんにご心配いただかなくても……もう、いいというか」

急に突き放された気分になって、僕は密かに傷ついた。アドバイザーだったはずなのに、伊織さんが僕に香椎さんの話をしたがらないことには、どんな理由があるんだろう。ちょっと前まで、満面の笑みで質問してきていたわりには、ちょっぴり勝手だなと思ってしまう。

「……気に、なるんですか、不二さん」
「え?」
「わたしと香椎くんのこと」
「そりゃあ……応援していたから、ね」嘘までついて。その途中で伊織さんに恋しちゃったから、もう応援はしてないけど。だから僕の質問は、卑怯な探りだ。
「なんか、よくわかんないんです。でもうまく言えないので、もう大丈夫です!」

なぜだか拗ねたようにそう言って、伊織さんはうつむいた。まったく要領を得ないので、僕もそれきり、黙っていた。
結局、食事を終えたあとも伊織さんは「ちょっとだけ」とデスクトップパソコンに向かっていた。僕はそのあいだに、明日のぶんの簡単な仕込みをした。「終わったら声をかけてね」と言ったのだけど、10分経っても伊織さんは熱中していた。
ソファに座って僕もネットを検索する。野瀬島の情報はどれも適当なものが多くて、目がしぱしぱとした。あと5分したら、伊織さんを家に送ろう……そう思っているあいだに、僕はいつのまにか、眠りに落ちていた。





トン、と肩を叩かれたような気がして、僕はうっすらと目を開けた。叩かれたと思った右肩を見ると、そこに伊織さんの頭があった。ぎょっとして部屋の時計を見ると、深夜3時になっていた。
やってしまったな、と思う。僕の体には夏用のタオルケットがかけられていた。僕の寝室にあったものだ。伊織さんはスマホを手にしたまま、僕のとなりで眠りこけていた。
起こすのもかわいそうな気がして、僕はそっと体をよじった。伊織さんの頭をゆっくり移動させようと髪に触れてみたけど、「ん」と言って僕の肩に、さらに頭をこするようにして、うずめてきた。心臓が飛び出そうになる。
この無防備さに、少しだけ腹も立ってきた。あれほど、男の家に簡単にあがっちゃダメだって言ってきたのに、彼女はこの有様だ。僕だってよくないけど、完全に男として見られていない気もしてきて、情けない。だけどその寝顔からは、目が離せなかった。

「伊織さん?」

反応はなかった。髪に触れた手を、そのまま下にスライドさせて、頬に触れた。すべすべとした柔らかい肌が、また僕の心臓を強く打ち付けていく。
キスしてしまおうか。何度もそう自分に問いかけた。でもここでキスしたら、僕はきっと止まらなくなる。ふーっと何度も深呼吸をして、理性を保とうと必死になった。
だけどやっぱり、伊織さんにはいろんな意味で腹が立っていたんだと思う。僕は自分にかけられているタオルケットの半分を、伊織さんにかけた。
タオルケット1枚に、僕と伊織さんの体が包まれている。そのまま少し体をひねって、伊織さんの頭を胸のなかに抱きかかえた。ゆっくり、彼女が起きないように、ソファに倒れ込む。伊織さんは上手に倒れて、僕の胸のなかに収まった。全然、起きない。
重みで沈んだ狭いソファで、僕は伊織さんが寝ているのをいいことに、添い寝するように抱きしめた。柔らかい体が、遠慮なく僕に吸い付いてくる。髪の毛からする優しい香りと、静かな寝息に、僕の呼吸が荒くなっていく。伊織さんの寝顔が、目の前にある。これ以上はもう無理だと自覚して、僕はそっと体を起こした。
中途半端に投げられていた細い両足を、ソファに乗せてあげた。タオルケットをかけなおして、頭の下にクッションを入れる。伊織さんは夢でも見ていたのか、わずかに微笑んだ。
ドクンと、体の中心が熱をもったのがわかった。密着していた体は離したのに、僕はいったい、なにを考えているんだろう。
目の前にいる伊織さんが、すごくかわいい。したい、すごく。もっと触れたい、どうしようもなく。
熱くなってしまった体の中心に、手を当てた。自分の手なのに、体がビクッと反応する。そこで、やっと罪悪感と嫌悪感が押し寄せてきた。その言葉どおり、頭を抱えた。

「もう、最悪だよ……」

言い聞かせるようにつぶやいて、僕はおとなしく、寝室に退散した。





男なんだから、当然の欲求だってことはわかってる。それでも本物の寝姿を目の前にそんな行為にいたることは、やっぱりできなかった。
もし途中で伊織さんが起きでもしたら、僕は本格的に嫌われたあげく、変態のレッテルを貼られるに決まっている。
男っていうのは本当にバカな生き物で、悶々とした気分でそんなことばかり考えていたせいか、気づくと空が明るくなっていた。まだ起きるには早かったけれど、どうせ眠れそうにもない。ゆっくり、重たい体を起こした。
リビングに行くと、伊織さんはまだ眠っていた。よく考えたら、彼女が僕の家に泊まるのは二度目だ。いい気なもんだよ、と文句を言いたくなる。
僕はお風呂の準備をして、いつも伊織さんが手伝ってくれる仕込みをすべて終わらせたあと、お弁当と朝食をつくった。先にお風呂に入ってから、汗を流す。このころにはすっかり頭も切り替わって、僕はお風呂あがりにミルで挽いたコーヒーを淹れた。

「ん、……えっ!」

ガバッと音が聞こえる。朝6時。コーヒーの香りをただよわせれば起きると思っていた僕の計算は当たった。
伊織さんがソファから上半身を起こして、ぐるんっと、すごい勢いで僕のいるキッチンへ振り返った。

「おはよう」
「不二さ……お、おはようございます、え、わたし、あっ、す、すみません!」バタバタと音を立てながらタオルケットを畳んで、伊織さんは僕にかけよってきた。
「大丈夫だよ。もう仕込みも終わったし、お弁当もつくっておいたから。朝ごはんもできてるけど……」僕も、伊織さんに近づく。今日だってすごくかわいい。昨日、変なことをしなくてよかったと心から思った。「先にお風呂、入る? 疲れ、とれてないでしょう? 使い捨ての歯ブラシも置いておいたから」
「え」顔が、ゆっくりと赤らんでいく。「そんな、わ、悪いです」
「でもこの真夏にお風呂に入らないのは、つらくない?」
「……たし、たしかに。そう、ですけど」

昨日は体力だけじゃなく、精神力も使ったから、いろんな汗をいっぱいかいているし、癒やしだって必要だ。

「あの、じゃあ、いただいていいですか……すみません、なにからなにまで」
「ううん。いいんだよ」
「では、あのお風呂、あ、そうだ! お風呂からあがったら、不二さんにお話があります」
「うん? うん、わかった。それは朝食のときにでも話そう。いっておいで?」
「すみません、お借りしますっ!」

伊織さんは足早にお風呂場に消えていった。
僕の家のお風呂に伊織さんが入ると想像するだけで、僕はまた、呼吸を整えることになった。





「それで、話って?」
「あ、それなんですけど、不二さん!」

髪が半乾きのまま、伊織さんはお風呂からでてきた。ドライヤーの音が聞こえた段階でコーヒーを淹れはじめたのだけど、早くてびっくりした。いつもこうなのかな、と思う。そういうところも、伊織さんらしくてかわいい。
伊織さんはスクランブルエッグをトーストに乗せながら、器用にスマホをいじりはじめた。

「昨日、お知らせしようとしたら不二さんが寝てらしたので……あの、これ見てください!」

なるほど、それでスマホを握りしめて寝ていたんだな、と思った。それで君は、無防備にも僕に寄りかかってきたわけだけど。と、言いそうになるのを抑えて、伊織さんが出してきたスマホに目をやると、そこにはフェイスブックでのメッセージのやりとりがされていた。

「これ、誰?」
「野瀬島の同級生らしいんです。フェイスブックで検索をかけまくっていたら、『偉くなったなーこいつ』という、この人の投稿が見つかりました。これです」

年齢は41歳。茶髪のガッチリした体型の男性がアイコンに表示されていた。趣味はサーフィンで、どうやら独身らしい。なんとなくしらけた気分になりながら、伊織さんがスライドさせていく投稿を見ていると、彼女の言うとおり、『偉くなったなーこいつ』と書かれた文言の下に、野瀬島が出演していたテレビ番組を切り取った、動画のリンクが貼り付けてあった。

「野瀬島のことだろうと思って、野瀬島のファンのふりをして話しかけてみたんです」
「……伊織さん、危険だよ」
「大丈夫です、見てください」

と、伊織さんは自分のプロフィール写真を見せてきた。まったく別人の、お色気たっぷりな女性の顔写真のアイコンが貼り付けてある。年齢は25歳、食べ歩き大好き、野瀬島克也のファン、野瀬島さんのことを知っている人とたくさんお話ししたい、と紹介文に書かれていて、僕は感心した。

「こういうこと、いつもしてるの?」感心したけど、呆れたのもある。
「してるわけないじゃないですか!」
「でも、すごく上手だよ。男が好きそうな女の人だし、歳もごまかしちゃって」
そう言うと、伊織さんがツン、と顎を上にあげた。「へえ、不二さんもこういう、若くてエッチそうな人が好きなんだ」ふうん、と女の敵、みたいな目をしている。
「ちょっと、誰もそんなこと言ってないでしょう?」

伊織さんのほうがよっぽどエッチだよ、と、昨日の寝顔を思いだして心のなかだけでつぶやいた。いや、エッチだったのは僕か……どっちでもいいけど、とても心外だった。

「まあいいです、それは」よくないというか、僕はまだ、釈然としないけど……。「それで、この人、まんまとひっかかりました!」
「そうなんだろうね」

野瀬島の映像をわざわざひっぱりだして『偉くなったなーこいつ』とアピールしている同級生だという男性は、どう考えても野瀬島にマウントを取りつつ、「知り合いなの? すごい!」を期待して、そこで優越を満たそうとしている。
僕はSNSのこういう承認欲求大会が苦手だ。あんな希薄な場所で知らない人たちに「いいね!」をもらってなにが嬉しいのかわからない。毎日よっぽど希薄な関係を生きているという事実を世間に公表しているようなものだ。普通に使うぶんには便利かもしれなくても、そういう寂しい人たちの気休めを、僕は恥ずかしくて見ていられない。だから、SNSは一切やっていなかった。
でも、ときにはこうして役立つこともある。それがいいのか悪いのかはよくわからないけど、こうした欲求が強い人ほど、伊織さんが作成したような「いかにも」のプロフィールに、まんまと乗っかることも頷けた。やっぱり普段から希薄な関係しか維持できないんじゃないかな。余計なお世話だろうけど。

「で、このメッセージです。どこの高校だったか、1時間もメッセージのやりとりをして、やっと教えてもらいました。都留市にある明倫高校というところでした。来週、ここに行きましょう、不二さん。野瀬島のことを覚えている人がいるかもしれません」

伊織さんは相変わらず興奮気味だった。
たしかに、プロフィール非公表の野瀬島の出身高校がわかっただけでもすごい。

「だけど、日曜日だよ? 学校はお休みだよね?」
「それについては策を考えます。日曜でも部活とかやっているところ多いですよね? この学校も、部活動がなかなか盛んなんです。とにかく、それはわたしが日曜までになんとかします」
「危険な真似はナシだよ……?」
「わかりました、それは約束します」

伊織さんは頭が回るから、本当になんとかしちゃいそうだ。それなら、と思う。
跡部に連絡しようと思っていたけど、この高校でなにか得られるものがあれば、そのときでもいいかもしれないと素直に思った。

「それなら、いいよ。せっかく伊織さんがつかんだ情報だから、行ってみよう」

どうして僕がここまでしているのか自分でもよくわからないけど、どうせ僕が行かないと言ったところで、伊織さんはひとりでも行くに決まっている。
それなら僕が付きあうしかない。伊織さんになにかあったら嫌だから……それは、昨日も思ったことだった。

「それと、もうひとつお話があるんです」

僕のOKが出て満足したのか、伊織さんはトーストを口に運びつつ、神妙な面持ちで言った。
どうしたんだろうと思う。伊織さんが、どこか緊張している気がした。

「その……調理補助は、もう、辞退しようかと」
「え……」
「すみません! 自分からやると言っておいて、まだ2週間しか経ってないのに。ですが、どうしても、不二さんの足手まといになっている気しかしていないんです。こうして、お弁当も……すごく嬉しいんですけど、大事なことは全部、不二さんがやられてますし……だから……わたしなんて、必要ないんじゃないかと」

僕が今日やった仕込みを見て、伊織さんなりになにか感じたのかもしれなかった。彼女を寝かせてあげたくて、お風呂に入ってゆっくり朝食をとってほしくてした僕の気遣いが、逆に彼女を不安にさせてしまったと気づいても、いまさら遅かった。
もともと、伊織さんからやると言いだしたことなのはたしかだ。だけど幸せすぎる2週間が、こんなに突然打ち切られることになるなんて思っていなくて、僕は言葉に詰まってしまった。
最初は伊織さんの負担になりたくない気持ちが強かったのに、一緒にいることが幸せで、料理を教えることも幸せで、お弁当を美味しいと言ってくれることも幸せで、いってきますと言った彼女を見送れることすら、幸せだったのに……。

「ん……そうだね。くり返すようだけど、ほとんど治ってるんだ、もう。食事中だから傷は見せないけど、仕込みだってなんの支障もなかったよ。だから、伊織さんは気にせず、いつもの生活に戻って大丈夫だよ」

僕は潔く、そう言った。仕事前に毎日この部屋に来るのは、きっと彼女も大変なはずだった。

「そう……そうですよね」

名残惜しそうな伊織さんの目が揺れて、こっちの心が揺れそうになる。
そんな目で、僕を見ないで。自分の言ったことを取り消して、無理やりにでも閉じ込めたくなっちゃうよ。
伊織さんから辞退って言いだしたくせに、そんな顔するなんて、ひどいよ。

「伊織さん」
「え、はい」

僕はまっすぐ彼女の目をみた。
なにか悟ったのか、伊織さんは返事をして、すぐに口をつぐんだ。
僕も、ちょうどいいと思ってた……そういうことにしないと、伊織さんの気が、済まないんじゃないかって。

「伊織さん、昨日、この家に泊まったよね」
「あ……すみません、ご迷惑を!」
「ううん、そうじゃなくて。僕、ずっと言ってるでしょう? 簡単に男の家にあがっちゃダメだって」

伊織さんがはっとする。まさかそんなところをつかれるとは、思っていなかったのかもしれない。

「そうですけど、昨日は不可抗力というか……」
「その不可抗力も、いつ起こるかわからない。正直に言うと、昨日の伊織さんは無防備すぎだったから」
「え……」
「僕の目が覚めたとき、伊織さん、僕の肩に寄りかかって寝てた。そのとき僕、なにしようとしたと思う?」

伊織さんの目が、困惑をたどって伏せられた。
この2週間だって、ほとんど限界だった。昨日は限界がリミットを超えた。本当に、自分がなにをするかわからない。それくらい、伊織さんは僕を惑わしている。
だからこそ、これでいいんだと、自分に言い聞かせた。

「……不二さんは、そんなことしません」

か細い声が、部屋のなかにぽつりと落とされた。
その健気さに、僕は思わず吹き出していた。だって急に伊織さんが、僕を援護しはじめている事実が、なんだか嬉しくて。

「伊織さん、僕が強引にキスしたの忘れたの?」
「わ、忘れてないですけど!」なに笑ってるんですかっ、と赤くなって反論してきた。
「じゃあ、そんなことする人でしょう? 僕は」
「しません。不二さんは。いまの不二さんは、あのときと違うって、わたし、思います」
「そっか。これだから伊織さんって、無防備なんだよね」
「え?」

そっと席を立って、伊織さんの席に近づいた。
なにも警戒してない頬を片手で包んで、持ち上げる。目の前まで顔を近づけたら、伊織さんの顔がさらに真っ赤に、目はまんまるになった。

「不二さっ……!」

伊織さんが、僕のキスから逃げるように俯いた。

「ほら、またキスされそう」

本気でキスするつもりはなかったけど、効き目は十分にあったらしい。
パッと手を離して、僕は自分の食べ終わった食器を持って流し台に向かった。そうしないと、僕の赤くなった顔も、伊織さんにバレちゃう気がしたから。背中を向けていれば、少し落ち着けそう。

「もう、不二さん……からかうのやめてくださいよ!」
「からかってるつもりは、なかったんだけどな」
「だって、怖がらせたじゃないですか、いまっ!」
「怖いんだよ、男ってみんな。それに、調理補助なんて最初から必要なかったよ」
「え……」

水の音が流れるなかで、伊織さんの顔さえ見なければ、なんでも言えそうだった。
そういうことにしよう。伊織さんが、自分のことを責めないように。僕が一定、悪者になる必要がある。
僕だって十分楽しんでいた。だから、もうこれ以上、お人好しなままでいないでほしい。

「本当はわかってたでしょう? 伊織さん、補助ができるほど腕がいいわけでもないんだから」

ちょっぴり傷つけてみる。でも伊織さんのためにも、僕のためにも、こうしたほうがいいから。

「……わかってました。だから、辞退したほうがいいと思ったんです」
「うん、ふふ。あ、そのお弁当箱は、返さなくていいからね」

来週の日曜はまた会うんだろうけど、野瀬島のことを調べるだけだ。部屋には入れない。
こうすることで僕は、伊織さんを守っているつもりだった。





1週間後、伊織さんはなにごともなかったかのように僕の部屋のチャイムを押した。
あれきり連絡も取っていなかったけど、前日には「10時に伺います」と連絡があった。僕は外で待っていてもらうことにした。最初からそうするつもりだった。

「今日も張り切ってるね」
「だってこの件だけは、うやむやにできないですから!」

伊織さんの様子は、補助を辞退して帰っていったときのどこか寂しげな雰囲気とはほど遠くて、とにかく元気いっぱいだった。
そういう伊織さんが、かわいい。

「そういえば不二さんにお願いがあるんです!」
「うん?」
「代金、お支払いしますから、またケーキをつくってくれませんか? 職人たちがうるさくて」
「あ、気に入ってもらえたんだね?」もちろんいいよ、と、僕は付け加えた。
「もうあれから、なんであの兄ちゃんは来ないんだって。師匠まで言いだす始末です。師匠もあれで、甘いもの好きなんですよねー」
「ふふ。実は男性のほうがスイーツ好きな人が多いって聞いたことがあるよ。女性顔負けでバイキングで食べつづける人がいるって」
「うちの職人たちを見てたらよくわかります。男の人のほうが、心身ともに疲れることが多いのかもしれないですね」

車のなかでもご機嫌で、僕は久々に彼女との普通の会話を、普通に楽しんだ。こうした時間ならいくらだって過ごせる。目の前で無防備になってさえいなければ、僕だって純粋に伊織さんに恋していられるんだ。
やがて、2時間ほどして山梨県都留市に到着した。富士山がよく見える道路をゆるやかに進んでいく。その絶景に伊織さんはずっと歓声をあげて、スマホで写真を撮っていた。僕もあとで撮ろう、と思った。学生時代からずっとつづけている趣味のカメラを、僕は車に乗せてきていた。そんなことをして、デートだと勘違いしているんだろう自分に苦笑した。
そこからほどなくしたところに、目的地である明倫高校があった。
24年前に野瀬島の担任教師をしていたという工藤さんは僕らよりも早く到着して、校舎前で待ってくれていた。いまは教頭をされているらしい。

「日曜日だというのに、押しかけてすみません」
「ああ、いえいえ、いいんですよ。野瀬島くんの取材と聞いて、驚きました。元気ですか? 彼は」

嘘が得意じゃないと思い知らされているはずの伊織さんが懸命に考えた嘘は、「自叙伝発売にあたってのライター取材」だった。嘘をついたぶん、取材費(僕らにとっては慰謝料)も用意した。
田舎の人は親切だ。すんなりと伊織さんの話を信じて待ってくれていた。

「最近は、レストラン経営で忙しくされています。なので、自叙伝と言ってもライターに任せたいとおっしゃってました」
「ああ、そうでしょうな。彼は昔から、文章はあまり得意じゃないようだった。どうぞ、お座りください。古い学校でお恥ずかしいですが」と、ペットボトルのお茶を出してくれた。
「ありがとうございます」

伊織さんが丁寧に頭をさげて、腰をおろした。表情が悲しくなっている。自分のついた嘘で、胸を痛めているんだろう。人がよさそうな工藤さんは恰幅もよく、50代らしいうっすらとした白髪頭が優しい目元をより優しく見せていた。僕も胸が痛んだ。ごめんなさい、本当に。

「それで、どんなことを聞かれたいんですか? もう20年以上前なのでね、覚えているかはわかりませんが」ははは、と豪快に笑っている。
「あ、些細なことで大丈夫です。野瀬島さんは、どんな学生でしたか?」

僕が質問しているあいだに、伊織さんはアシスタントのふりをしてノートパソコンを開いた。録音は控えたようだけど、一語一句、逃さないようにメモるつもりなんだ。

「私は彼が2年のときに担任をしていたんですけどね。頭の回転が早い生徒でした。あまり、社交的ではなかったように思いますね。私もあのとき新人で、ほかのやんちゃな生徒に振り回されていたっていうのもあるんですけどね。野瀬島くんは、そんなに印象深い子ではなかったんです」いまの野瀬島とはイメージが違う。が、工藤さんは目をパチパチとさせてつづけた。「ただその印象がね、ガラッと変わった時期がありました」
「印象が変わった?」
「レスリング部に所属していたんですよ彼。それで、海外遠征の話が出たんです」

野瀬島がレスリングをやっていたのは、初耳だった。
写真がありますよ、と言って、卒業アルバムを出してくれた。工藤さんが指した先には、たしかに面影が残る野瀬島がそこに写っている。レスリングのユニフォームから出ている体は、とてもたくましかった。いまの野瀬島のふくよかな体型からは、ちょっと想像がつかない。

「彼、結構いいセンスをしていると顧問が言っていました。もちろん遠征は彼だけでなく、ほかの部員たちも行く予定だったんですが、野瀬島くんは部のなかでもかなり期待されていた。海外遠征がうまくいけば、プロになれるかもしれないってね。そんな話だったんで、学校としても盛り上がったんですよ。それがね……」と、突然、工藤さんの言葉が詰まった。
「なにか、あったんですか?」
「いや……これは、もし書くとしても、野瀬島くんの許可を取ってくださいね。自叙伝だから、そういうことも書くだろうなと思って、まあ、私にとってもいちばん印象深い出来事だったものですから」

話の方向性がぐるっと遠回りする。なにか言いにくい事情があるのだと察した。

「行けないって言いだしたんですよ。それも、遠征2週間前くらいになってね。野瀬島くんが行かないで誰が行くんだって、私も説得したんですが、当時の学年主任が、『無理強いをするもんじゃない』と、なぜか私が叱られましてね」

――野瀬島にだっていろいろ事情があるかもしれないだろう。担任の君が、それを理解できないでどうする。

釈然としない説教だと思う。おそらく、工藤さんも当時、同じ気持ちだったんだろう。思いだして、首をひねっていた。

「理由は、なんだったんですか?」
「それがはっきりしたことを言わなかったんですよねえ、本人も。その矢先に私も先輩教師から叱られたもんだから、ずっと不可解でね。一度、家庭訪問に行ったんです。そこに彼は同席しなかったんですけど、母親が出てきてね。彼の家は、シングルマザーだったんです」

これも、新しい情報だった。僕はすかさず、話の腰を折るのを覚悟して聞いた。

「母親の名前は覚えていますか?」
「野瀬島みずえさんですよ。ひらがなでみずえ。おや、それもご存知ない?」パチパチっと、伊織さんのパソコンの音が力強く弾かれた。
「ああ、いや……野瀬島さん、秘密主義なところがって、教えてくださらなかったんですよ」適当な言い訳が自分で聞いていても苦しい。でも、これは賭けだった。
「はあ、そうですか。まあ、そうかもしれないなあ。取材、行ってほしくなかったのかもしれないですね。あまり仲のいい親子という印象じゃなかった」

ビンゴだ。
スポーツをやっていて、いい成績だったなら海外遠征には行きたいはずだ。それを行けないと言いだすからには、なにか家庭の事情があると思った。だとしたら、その時期から親に反発していてもおかしくない。17歳なら、反抗期中の人も多い。

「それで、お母様はなんと?」折った話の腰を、伊織さんが正位置に戻してくれた。
「校長先生にはお話してます、って言うんですよ。なんのことかと思いましてね。私がポカンとしていたら、とにかくそんなお金もありませんとか、あんな部活はやめさせようと思っていたとか、話があっちこっちで」

――パスポート取るのだって、大変じゃないですか。そこに何万もかけて、海外遠征中の旅費だって、結局はいくらかはこちらの負担になるじゃないですか。見たらおわかりでしょうけど、うちは裕福じゃないんです!

「プロになれるかもしれないって話に、お金がそんなに気になるもんかなあと。パスポートだって2万くらいでしょう? いい話だったから、部活は募金だってしてたんですよ。だからそこまで負担になるような額じゃない。なんか体のいい言い訳に感じてしまってね。だから、本当にそれが理由なのか、正直わかりませんでした。校長に聞いても、さあなんだろうね? ってなもんでね」ただね、と、工藤さんの目が、突然に影を落とした。「それから野瀬島くん、誰とも話さなくなりました。一時期は不登校にもなったりして、そりゃもともと社交的なタイプじゃなかったですけどね。もっとこう、ふさぎ込んでいるような生徒になってね。まもなくして、レスリングも退部したんです。夢をあきらめたようなもんでしょう? それが彼を深く傷つけたんだなあって思いました。かわいそうでしたね」

僕も海外遠征なら何度か行ったことがある。野瀬島がレスリングに情熱を注いでいたのだとしたら、工藤さんの言うとおり、遠征に行けなかったことは、彼を深く傷つけただろう。

「不登校のときも、何度かお邪魔したんですがね。野瀬島くんどころか、母親もほとんどいなくってね。まあ彼女、水商売でしたから。私どもの訪問時間だとどうしても、邪魔くさかったんでしょう」準備とかね、いろいろあるじゃないですか。と、白髪頭をなでている。
「野瀬島さんも、そのころいなかったというのは、外で遊んでいたということなんでしょうか?」
「ああ、電車に乗るところを見たという生徒が何人かいました。東京に行っていたようです」
「東京に?」
「ええ、そのころから、東京への憧れが強かったんですかね? あっちに友だちをつくってるとか、自慢げに言われたと、生徒たちが言っていました」

山梨から東京までは、この都留市からなら2時間もしないうちに到着する。高校時代から、野瀬島は東京に友だちをつくり、東京で遊んでいたのか。社交的ではない野瀬島だったのに……? 変な違和感だけが、僕のなかに残っていった。
それ以上は、とくにめぼしい話は聞けなかった。





僕と伊織さんは、工藤さんから聞いたレスリング部員たちが伝統的に走っているという山に来ていた。日曜日は毎週そうして、トレイルランをして体を鍛えているようだ。当時の顧問はすでに引退して、現在は若い教師が担当しているらしい。
「会えるかもしれませんし、山梨は上に行くと、本当に景色がいいですから」とおすすめされた。予定もないし、もしレスリング部に会えたならなにか情報がもらえるかもしれない。とにかくせっかく来たのだからと、僕たちは山に登ることにした。

「ふ、不二さん……ちょっと、待ってください」
「あ、ごめん。早かった? 伊織さん大丈夫?」
「すみません……体力仕事なので全然、余裕だと思っていたんですが、やっぱり使う場所が違うんでしょうね。足が、棒になりそうです」

このままあと1時間も登れば山頂に届きそうで、そこからはきっと富士山が綺麗に見えると思ってカメラまで持って来たのだけど、雲行きも怪しくなっていた。
そういえば、3日前から九州にゆっくりとした台風が来ていたはずだ。こっち方面は明日か明後日くらいに上陸すると天気予報では言っていたはずだけど、自然の力はいつなにを起こすかわからない。

「おんぶ、してあげようか?」
「えっ!? いやいや、結構です! 小学生じゃあるまいし」
「そう? 足が棒になっても困るかなと思って」
「ま、まだ棒になってませんから! 大丈夫です。でも、ちょっとだけ休憩させてください」
「うん。じゃ、そこに座ろうか。ちょうど岩があるし」

持ってきていたペットボトルを飲みながら、伊織さんはこくりと頷いた。
せっかく触れるチャンスだと思っていたのに、全力で断られてしまって、恥ずかしい気持ちになる。下心がまる見えだったかな、と、少し反省した。

「でも、ここからでも十分綺麗ですね、景色」
「うん、そうだね。休憩終わったら、降りようか。さっきより少し、曇ってきているし」
「え、でもいいんですか? 不二さん、富士山を撮りたいんじゃ……不二さんだから」言いながら気づいたのか、伊織さんは途中ですでに笑っていた。
「ふふ、くだらないなあ。それよく言われたよ、学生のとき」
「あははっ。ごめんなさい、くだらないこと、すぐ言っちゃうんです、わたし」

山に登っているというのに、地上にいるときよりも暑い。山を登っていたのだから当然だけど、僕も伊織さんも汗をだらだら流しながら笑いあった。
ふと、伊織さんがその笑顔を崩さないまま、僕の後方に目を向けた。ひょっとしてレスリング部でも見つけたかなと思って振り返ると、そこには真紫の花がたくさん咲いていた。

「ねえ不二さん、あれ、すごく綺麗ですね」
「本当だね。なんて花だろう……どこかで見たなあ」
「わたしははじめて見ました。うわあ、綺麗」

伊織さんが岩から立ち上がって、花に近づいていく。僕はその紫の花をみながら、記憶をめぐらせていた。
頭をさげて人を歓迎しているような見た目は、どこか胡蝶蘭に似ている。でも、どう見ても胡蝶蘭じゃない。こんなふうに帽子をかぶった頭をさげた様子に似ていて、それが名前の由来になった花がある気がした。
頭、かぶりもの、帽子、フード、兜……兜? 鳥……トリカブト? トリカブトって……。

「不二さん、このお花」
「伊織さん、触らないで!」
「えっ!」

伊織さんがトリカブトの花を触ろうとした瞬間、僕は叫んだ。花を触っただけでどうにかなったりはしないと思うけど、トリカブトは猛毒だったと思いだしたとき、叫ばずにいられなかった。

「び、びっくりした……どうしたんですか不二さん?」
「ごめん、ちょっと待って。お願い、それには触らないで。危険かもしれないから」

僕は急いでスマホを立ち上げた。トリカブトの画像を検索する。目の前にある紫の花と見比べても、同じに見える。トリカブトは秋の花だとされているけど、開花時期は8月から9月がピークらしい。いまは8月下旬。猛毒。やっぱり間違いなさそうだ。

「ああ、やっぱりだ。トリカブトだよ、それ」
「トリカブト、というんですか、これ……?」
「知らない? 猛毒なんだ。僕ね、フランス修行のころに、よくシェフたちに聞かされてたんだ。トリカブトって昔から間違えて食べる人が多くて、何人も死亡者を出している。フランスではトリカブトの毒をワインに入れて飲ませたりするような殺人事件も多発していたんだよ。日本でも、誤飲による死亡事故が起きてるしね」
「ええ!? そ、それは、ふぐみたいなものですか!?」慌てているのか、おかしなことを言う。
「うーん、ふぐとはちょっと違う。あれはちゃんと調理する人がいるでしょう? でもトリカブトはどんなに調理しても、毒は除けないから」毒だけ抽出することはできるけどね、と、僕は付け加えた。
「そ、そんなに強い毒なんですか!? なんで、なんでこんなとこにのん気に生えているんですか!」おっしゃるとおりだ。
「ここはあまり人が立ち寄らないのかもしれないけど……でも、世界各地に、こういった山のなかでは普通にある植物だよ。ああ、危なかった」

ふう、とふたりでため息をついて、トリカブトからそっと離れた。ふわっと生ぬるい風が通り過ぎていく。花粉に触れるのさえ怖かったから、僕たちは大げさに持ってきていたタオルで周りの空気を散らかすように仰いだ。

「はははー。兄ちゃんたち、トリカブトにビビったけ?」
「えっ」

うしろから声がかかって、僕と伊織さんが振り返ると、元気そうなおじいさんがにこにこと話しかけてきていた。登山をしているように見える。背筋がピンと伸びていて、とてもしっかりしている雰囲気が見てとれた。

「あ、はい、すみません、びっくりしちゃって」
「大きな声やったねえ兄ちゃん。大丈夫、口に入れんかったらな。えっらい昔になー、明倫のバカが葉っぱ口に入れたことがあってさー、バカじゃんねー?」
「え、だ、大丈夫だったんですかその人?」伊織さんが反射的に質問した。
「すぐ痺れたって、舌が。中毒んなって、救急搬送されてよー。あったりまえじゃんねー?」

おそろしいことをする学生がいるんだな、とゾッとした。ということは、明倫高校ではこの手の注意はされているはずだ。

「すみません、変なことを聞くようなんですが、それって、いつごろかわかりますか?」
「なー、もう20年くらい前じゃねえか? 学校で大騒ぎんなって。本当にバカじゃんねー? あんたらも気をつけるんよー?」

はい、と僕らが言う前に、おじいさんは手をひらひらとさせて去っていった。
顔を見合わせて伊織さんと笑いあう。田舎は、こうして気軽に話してくれる人がいるところが、とても癒やされる場所でもある。

「あ、雨……」
「え……」

おじいさんの背中を見ながらぼんやりとしていたら、伊織さんが小さな声でつぶやいた。
その合図に手のひらを空にむけると、ぽつ、ぽつ、と雨が落ちてきた。

「まずいね、急ごう」山の雨はすぐに強くなる。
「は、はい……おじいさん大丈夫ですかね?」
「あの人はきっと慣れっこだよ。伊織さん、足は大丈夫?」
「あ……ちょっと、ガクガクしてます」

長い時間をかけて登ったから、運動不足だとしたら無理もないかもしれない。
僕は今度こそ、下心はなく、彼女に背を向けてしゃがんだ。

「えっ!? いや、不二さん、いいです! 歩けます!」
「歩いてたらびしょ濡れだよ。いいから、おぶらせて? 変なとこ触ったりしないから」
「そ……でも」
「伊織さん、僕はそんなことしないんじゃなかったっけ?」
「そうですけど……あれ、でも結局、そんなことする人だって言ったくせにっ」もう、こんなときに負けず嫌いなんだから。
「わかったよ、僕たちふたりとも矛盾してるけど、いいから行こう?」

雨が強くなってきていた。伊織さんも事態をようやく把握したのか、あきらめたように僕の背中に覆いかぶさってきた。
ああ、情けない。こんなときだってのに、柔らかい体にドキドキしちゃう。やっぱり下心あるじゃない。本当に男って、情けない。

「不二さん……はやっ」
「テニス、やってたって言ったでしょう? はあ、あと少し」
「でも、ずいぶん前なんですよね?」すみません、重くないですか? と聞いてきた。
「いまもときどき、テニスやるからね。重さなら平気だよ。伊織さんすごく軽くて、びっくりした」
「嘘ですよ、そんなの……ごめんなさい、迷惑ばっかり」
「かわいいから、全部、許してあげる」
「……な、なに言ってるんですか!」

思わず本音がでた僕に、伊織さんの拳がぎゅっと握られた。それがかわいいって言ってるんだけど、どうやら自分では気づかないらしい。

「あの、不二さん」
「うん? はあ、はあ……もうすぐだよ、ごめんね、いっぱい濡れちゃった」

車が見えたところで、伊織さんをゆっくりとおろした。
僕の背中から地上に足をつけて、伊織さんは言った。

「ワインに入れた毒の殺人の死因は、急性心不全だったりしたんでしょうか」

ピタ、と止まった僕の足が、妙な緊張感に包まれていた。





車に乗り込んで、僕らはトリカブトについて調べた。フランスだけではなく、日本でもトリカブトをつかった殺人事件が何件かあった。どれも警察によって「偶然に」事件解明されたものであり、事件解明されることがなければ、「急性心不全」扱いとされていたであろうことがわかった。

「20年ほど前の大騒ぎで野瀬島がトリカブトの毒について知った、というのだけは絶対だと思うんです」言えている。もしかしたら中毒で搬送された学生は、レスリング部だったかもしれない。あの場所を、伝統的に走っているならなおさらだ。それでも……。
「だったとして、憶測でしかないよね、僕たちの」
「はい……わかっています。母親のところにいけば、なにか違うことがわかりそうですけど」
「うーん。でも担任の先生をも邪険にするような人でしょう? 僕らの取材というでまかせも、あの人だから通じたような気がする。さすがに母親にはバレちゃいそうだよね。それに、名前だけじゃどこにいるかもわからないし」

ものすごい豪雨になってきて、僕たちはとりあえず東京に帰ろうと、車を走らせた。
野瀬島についての推測を話しているだけで、伊織さんの家まで送るのはあっという間だった。
もうすっかり服も乾きはじめて、雨も小ぶりになったころ、あと10分ほどで伊織さんの家に到着するというときに、彼女のスマホが鳴った。

「あ、すみません」
「いいよ、でて」

伊織さんは液晶を見て、なぜか固まった。ちょうど信号待ちだったので少し覗くと、香椎さんから電話が入っているようだった。
ぎゅっと、胸がしめつけられる。デートした気分になってすっかり勘違いしていたけど、伊織さんは香椎さんに恋しているんだった……やっぱり、片想いは楽じゃない。

「もしもし?」

いま、大丈夫? 明日、ちょっと時間もらえる? という、仕事のことなのかプライベートのことなのかわからない内容に、嫉妬した。
香椎さんは、男の僕から見ても、とても理想的な雰囲気の人だ。爽やかで、まっすぐで。伊織さんが彼にずっと恋をしているということには、納得感があった。だからそんな彼に、こんなふうに言われたら断れないだろうなということも、よくわかる。

「うん、いいけど……どうかした?」

仕事帰り、デートしよ。と聞こえてきた。はっきりと。電話越しに聞こえる彼の声は誠実で、「強引にキスするような、卑怯な真似はしないです」と言われている気分になる。
僕は自分でも気づかないうちに、車の速度をあげていた。聞いていられなかったのかもしれない。
最初に「デートに誘ってみれば?」と僕が言ったときは、香椎さんが伊織さんのことを好きだとは思っていなかった。彼はいつのまに、伊織さんのことを想うようになったんだろう。
僕より先なのか、それとも……そんなことで争ったって、僕が勝てるはずもないのに。
考えているうちに、伊織さんの自宅マンション前に到着していた。伊織さんも、香椎さんとの通話を終えていた。
不二さん、今日はありがとうござました、という声が聞こえて、ようやくそのことに気がついた。

「明日、デート?」
「え」
「ごめん、聞こえちゃった」
「あ……はい、誘われました」
「よかったじゃない。ずっと好きだった人だもんね」

わざわざ自分を傷つける必要はないのに、いつもこうして自分を傷つけてしまう。
けれど、伊織さんから「はい!」という元気な返事は出てこなかった。

「……不二さん」
「うん?」不安げな顔をして、僕を見ている。僕はすかさず、つづけた。「あ、アドバイスなら、もうないよ。いまのままの伊織さんで、十分に」
「わたし明日、香椎くんに告白しようと思います」
「え……」
「それじゃ、今日はありがとうございました! また連絡しますね!」

バタン、と車のドアを閉めて、伊織さんは帰っていった。
判決を言い渡されたように、僕はそのまま固まっていた。
そのまま、しばらく車を動かすことすら、できなかった。





to be continued...

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