ざわざわきらきら_09


9.


伊織さんが怪我をした翌日の夜、俺は閉店後を狙って、仁王の美容院に押しかけた。

「あれ、忍足さん。昨日の今日ですね」俺の姿をいち早く発見した仁王の片腕みたいな女の子が、受付のカウンターから出て目を丸くさせた。
「ん、お店もう終わってますよね? 仁王は?」
「いま呼んできますね!」

おっしゃるとおり昨日の今日で、当然、髪を切りにきたわけじゃないのは、その子もわかっとるみたいやった。バックヤードに声をかけて、数秒せずに仁王が出てきた。

「忍足、昨日、大丈夫じゃったんか?」
「ん。まあ、命には関わってない。堪忍な、心配かけて」

昨晩、伊織さんの怪我の報告を受けて混乱する俺に、仁王は「早う行ってやりんさい」と背中を押してくれた。店の支払いもこいつに任せたまんまやったし、俺はそのことも含めて、仁王に用事があった。
俺は、軽く事情を説明した。開放骨折、というと、仁王は顔をしかめた。

「それ、骨が飛び出しちょる、アレか?」
「ん……」骨が飛び出しとるところは見てないけど、そういうことになる。
「そうか……気の毒じゃの、それは」

男っちゅう生き物はホンマに情けないくらい、血に弱い。俺も仁王もその状態を想像するだけで、お互い気絶しそうな顔で黙り込んだ。
それでも、黙り込んどる場合ちゃうかった。俺には、時間がない。

「それでな仁王、ホンマに堪忍なんやけど、ちょお、お願いがあんねん」
「なんじゃ?」
「シャンプーの仕方、教えてくれへん?」
「は?」

仁王はきょとんとした。きょとん顔の仁王なんか滅多に見られへん。側におったスタッフたちは、めずらしい物を見たような顔で、片づけをしながらも同じくきょとんとしとった。

「それは……普通に両手で洗えばええんじゃけど」
「いやいや、わざとやろお前」誰がそんなこと聞いとんねん。
「忍足、まさかじゃと思うけど、美容師の技術の話しとる?」
「あたりまえやろ、ここまで来てんのに」

なんで俺がいまさらお前に普通のシャンプー習いに来るねん。幼稚園児ちゃうぞ。俺かて頭くらい、普通に洗えるわ。

「絵本作家が、手が使えんからか?」
「ん……しんどいやろ、風呂んとき。あと3日で退院なんや。それまでに」
と、つづけようとする俺を、仁王は遮った。「忍足」
「なんや」
「それはなんちゅうか……いきなりヤラしすぎんか? 嫌われんかの、さすがに」

変な想像をしたんやろう仁王に、なんでやか俺が顔を赤くするハメになった。
俺かていくらなんでも、そこまで強引とちゃうっちゅうねん!

「ち、アホか。そういうんちゃうくて! ああ、せやから、ああいうの使いたいねん、シャンプー台の中古業者も教えてくれへんか」

俺は、目の先にあったシャンプー台を指さした。
仁王が今度は、ぎょっとして俺を見る。仁王のぎょっとする顔なんて、滅多に見られへん。またしても側におったスタッフたちが、同じようにぎょっとした。

「……それじゃったら、ここに3日か4日に1回、連れてきんしゃい。絵本作家」
「え?」
「毎日洗わんでもええようなやり方もあるき。俺がシャンプーしちゃるよ」

金はええから。と、仁王は気前のええことを言うた。
せやけど、そういうことちゃうねん……と、俺は悶々とした。言いたくないけど、言わなあかんか。ああ、でも言いたくない。

「ちゃうんや仁王、わかるやろ? 俺がその」
「なんじゃ? わからんから聞いちょる。シャンプー台、中古じゃからっていくらすると思っちょる。数ヶ月すれば治る怪我のためにそこまで金かけて」
「俺が、したりたいの!」

ホンマにわかってなさそうな顔やったで、俺は思わず声を張ってしもうた。直後、ハッとした。またぎょっとした顔でスタッフが俺を見る。
が、今度こそ仁王は、ニヤニヤと俺を見た。

はあ、なるほど。と、仁王はさらにニヤけた。「かわいいヤツじゃのう、お前」そういうことか、と顎を撫でとる。
「やめろ仁王、それ以上は言わんとってくれ」
「俺がその絵本作家に、触れてほしくないか?」
「そ……そういうんちゃうけどっ」
「やっと気持ちに気づいたんか? ほれ、言うてみんしゃい」

ニヤニヤ顔が板についとった。こいつ……合コン行かへんぞ! と脅したくなる。せやけどそんなこと言うたら、今度は「シャンプー教えちゃらん」とか言いそうやし、ああ、もう!
おいスタッフども、なにをお前らまでニヤニヤしてんねん! さっきから仁王の顔とまったく同じ顔ばっかりしやがって、ええ教育ができとるなあ!

「お前、気づいてないかもしれへんけどな、お前のシャンプー、ごっつ気持ちええねんで」
「知っちょるよそんなこと。俺はシャンプーでもピカイチじゃ」自慢げに言いよった。謙遜せんのが、仁王らしい。
「そ、お前みたいな色気丸出しの男にそんなシャンプーされてみい、女なんかすぐコロッといってまうわ」とくに伊織さんみたいなイケメンには目がないみたいな発情女に、仁王は危険や。「やで、……惚れられても、困るしやな」
「ほれみんさい、そういうことじゃろ」

言い返す言葉もないうちに、仁王がぐるっとスタッフを見渡した。「忍足、絵本作家の髪の毛は硬いか?」と聞いてきた。

「そんなんわからへんよ、触れたことないし」ときどき触れたけど。なんなら昨日も触れた……ふんわり、柔らかいんちゃうかな。うーん、素人じゃわからへん。
「長さは?」
「肩より下……あ、あの子くらいの感じに似とるかな」と、俺はさっきの受付の女の子を指さした。
「ろっ子、ご指名じゃ。お前、片づけはええから練習台になってくれ」
「えっ、あたしっ……あ、はいっ!」

ろっ子、ちゅうんか。
俺はろっ子ちゃんの顔をまじまじと見た。全然、伊織さんとは違う。せやけど髪の毛は似とる感じがした。
ろっ子ちゃんは、黙ってシャンプー台に座った。

「ええか忍足。操作は一度で覚えんしゃい。ここを踏む。そしたらこう動く。その前にうなじから髪を持って支える」
「おおー。そういうからくりやったんか」
「そんな大げさなものじゃないじゃろ」

仁王は笑いながらも、テキパキとシャンプー台の操作方法を教えてくれた。「お前は中古業者に連絡。これと同じ型の、安いやつ」とほかのスタッフに声をかける。スイッチが入ると、仁王はホンマに手際がよかった。

「ちゅうても、俺は厳しいぞ」腕まくりしながら、仁王はシャワーの栓をひねった。ろっ子ちゃんが、「ふぁあ、ラッキー……」と仁王に髪を撫でられて、すでにうっとりしとる。
「ええよ、厳しゅうして。3日しかないし」
「そんじゃ、明日も明後日も来い。そんな1日でできるほど甘くないんよ、たかがシャンプーでも」
「え、ええの?」意外やった。仁王かて、めっちゃ忙しいやろに。
「お前も俺に協力してくれるじゃろ? そのお返しじゃ。授業料もいらん。ろっ子、悪いが火曜と水曜、この時間からつきあってくれるか? 給料は出すから」
「はい! もちろんです。忍足さん、頑張ってください!」ろっ子ちゃんは、なぜかめちゃめちゃ張り切っとた。
「……ありがとう」

めっちゃ感謝しながら、厳しい仁王先生のレッスンを3日限定で受けることになった。
火曜は店休日で、水曜は仁王は休みのはずやのに、わざわざ店で教えてくれた。
なんだかんだ言うて、仁王の指導は厳しくも愛あるものやった。
初日と2日目はろっ子ちゃんの背中にまでお湯を垂らして、耳のなかに泡まで入れて、仁王にめっちゃ叱られたけど、最終日になって、いちばん大事なコツは、技術やないと教えてくれた。

「いちばん大事なのは『気持ち』じゃ。本当に気持ちよくなってもらおうと思えば、この10分、吹き出るほどの汗をかく。そういう健気な思いはちゃんとお客さんに伝わるんよ。その10分で寝かせることができれば、一人前と言っていい」

たしかに……仁王のシャンプーはいつも寝かける。せやけどそれなら、自信があった。
仁王みたく、何人ものお客さんを相手にするわけやない。俺の相手は伊織さんひとりや。俺は、あの人のためなら、なんだってやる……当然、気持ちようなってほしい。そういう思いを込めて、俺はろっ子ちゃんを伊織さんやと思って、一生懸命にシャンプーした。

「忍足さん、とても上手です。すごいですね」と、最後のシャンプーを終えたとき、ろっ子ちゃんが褒めてくれた。
「え、ホンマ?」
「ん、俺から見ても、上手にできちょるよ忍足。さすがじゃのお前。技の習得も心のコントロールも、テニスをやりよったときから変わらんのう」

胸がほんわかする。プロの美容師たちに褒められたのも嬉しかったけど、これで伊織さんのシャンプーも無事にできると思ったら、俺はめっちゃ安心した。
背中を押してもらいながら店をでたとき、シャンプーされまくりで髪がサラッサラなろっ子ちゃんが、俺に向かって言うてきた。

「こんな贅沢な愛を受けて、好きにならないわけないですよ、忍足さん」だから、ファイトです! とガッツポーズを掲げた。

となりで頷く仁王の目も、応援の色を見せていた。
俺はすっかりご機嫌になって、親切な美容師たちに頭をさげた。

「ホンマにありがとうございました」

その3日間は、新事務所の準備でも忙しかった。午前から夜まで伊織さんのお世話しつつ、夕食を終えたころに病院を出る。事務所への荷物の受け取りはすべて最終便を設定して、荷物を受け取ってから仁王の美容院に行き、指導を受けた。戻ってきて事務所の掃除やら整理やら、はっきり言ってクタクタやったけど、それでも伊織さんのためやと思ったら、苦にはならんかった。
退院後に事務所を見せたときも、シャンプーのことを打ち明けたときも、伊織さんは驚きのほうが強くてためらいがちやったけど、それでも数日後には、すっかり喜んでくれとった。

「すごく、気持ちいいです、忍足さん」
「さよか。それならよかった」

しっかりと触れるようになってからわかる。
伊織さんの髪は柔らかい。ふわふわで細くて、ずっと触っときたくなる。俺が触れると少しだけ微笑むその表情も、見とって飽きんかった。
いつのまにこんなに好きになっとんたんやろうか。その日も伊織さんの髪に触れながら、ドライヤーをかけおわる寸前まで、伊織さんが気づかんように、俺は伊織さんを見つめつづけた。

「ん、これで終わりやな」
「ああー、気持ちよかった! 今日も最高に至福でした!」ホンマに嬉しそうな顔して笑う。どないしよ……めっちゃかわいい。「でも忍足さんの手は、大丈夫なんですか?」
「ん? なんで?」言われとることがわからへんで、じっと自分の手を眺めた。あんまり、変わった感じもせえへんけど……。
「ハンドクリームとかつけてます?」

その日は、伊織さんとちょっと言い争いになった合コンの日やった。全然、俺の話を信じようともしやん伊織さんに、仁王に電話して説明してもらおうかと思ったけど、結局そこまでには至らんかった。仁王も忙しいやろうに、そこまでさせるんは気がひけたんや。

「前よりちょっとカサカサしてる気がします。そんな手で合コンに行ったら、モテないですよ」ちゃっかり、嫌味を付け加えてきよった。
「せやから……別にモテへんでもええっちゅうねん」なんやずっと誤解されとる気がする。俺は伊織さんにモテたらそれでええの! と言えたら、どんなに楽か。
「仕方ないので、これ、あげます」

と、伊織さんはバッグのなかからチューブを取り出した。
受け取ったそれは、おしゃんな店で売っとるようなハンドクリームやった。

「いまのわたしじゃつけれないし、持ってても意味ないんで」今日、ギプスは外れたみたいやけど、それでもうまく動かせんのんやろう。
「……ええの?」
「はい、いつもシャンプーしてもらってるお礼です。あ、別に新しく買ったとかじゃなくて、家にあるの持ってきただけなんで、遠慮しないでください!」

慌てた様子でペットボトルに口をつけとったけど、どっからどう見ても、それは新品やった。使ってないやつを持ってきたんかもしれんけど……なんや入っとる袋も、買いたて、な感じ。
もしかして伊織さん……なんやかんや言うて新しく買ったんちゃうかと思うと、俺の胸がトクトクと音を立てはじめた。
ああ……合コン、行きたない。せやけど仁王には世話んなったしな。しゃあない。けど行きたくなくなる。どうせ女と飲むなら、伊織さんと一晩中、語り明かしたかった。

「左手だけでも、つけれるやん」
「え?」
「いや、持ってても意味ないって言うてたけど、左手は意味あるやろ」

伊織さんの左手をそっと手にとった。ピク、と伊織さんの腕が揺れる。かわいい手にキスしたくなるのを我慢して、ハンドクリームを伊織さんの手の甲にちょこんと塗った。

「あっ……いや、だから、これは両方の手でやんないと、塗れな」
「ん、せやったらこうしたらええやん」

と、俺は自分の両手にもハンドクリームを出した。そのまま伊織さんの左手を包み込む。今度こそ、伊織さんの肩がビクッと揺れた。

「……忍足さっ」
「これやったら俺の手も伊織さんの手も潤うで。一石二鳥」
「そ、そうですけどっ」

伊織さんの顔が、あきらかに赤面しとる。滑りがよくなった手で、俺は彼女の指1本1本まで、丁寧に塗り込んだ。
わかっとる……めっちゃヤラしい。もちろん狙っとったけど、めっちゃヤラしい。また勃起してまいそう。

「も、忍足さん、も、もう、大丈夫です……」真っ赤になってうつむいとる。たまらん。
「あかん、もうちょっと」

伊織さんの手をもてあそびながら、いつ言おう、と考える。たぶん……伊織さんも俺のこと、想ってくれとるんやないかって思う。思うけども、ついこないだまで元カレとデートしとったで、それが引っかかってないわけでもない。もう会わんようにしたって言うとったから邪魔者は消えたものの、「そんなつもりないです!」とか言われたら立場ない。
仕事でつきあっとる関係やと、そうなったときがおそろしい。絶対に間違いないって確信もないだけに、俺はここんとこずっと伊織さんへの告白のタイミングを考えとった。

「忍足さ……長く、ないですかね? もう十分、塗り込まれたと」
「ん、そやな。そろそろええかな」

ああ、完全に勃つな、と思って、俺は手を離した。危ないとこやった。もう少しつづけとったら服の上からわかるほどになるとこやったで。さすがにそれは引かれるやろう。
告白する前に振られるとか、ありえへん。

「よっしゃ。ほな家まで送るわ」
「は、はい……」

まだ赤い顔をして、伊織さんは俺と目を合わせようとせんかった。
乾かしたばかりの髪に触れて、ポンと弾くと、ますますうつむく伊織さんが愛しい。
俺はすっかり、伊織さんを抱いた気分になっとった。





そんで、こんな気分で合コン? 無理や無理。なんの興味もわかへん。
せやけどラッキーなことに、メンツは切原と玉川やった。この二人には絶対、彼女がおると思うんやけど、まあ仁王から頼まれたら断れんかったんやろうと思う。そして、仁王は遅刻しとった。
俺は適当に盛り下がらんようにしつつ、この際やと思って、仁王が惚れとる人を観察した。地味な人やと思っとったんやけど、めっちゃ綺麗になってはる。せやけどつまらんそうな顔して、彼女は真面目にせかせかと食器を片づけとった。
そらそうやんなあ……バチッと1本にそのへんの黒ゴムで結んどる髪型からして、あきらかに、彼女はこの合コンに乗り気やなさそうやった。
やっぱりこういうタイプちゃうやろ、この人。でもこういう地味な感じでも綺麗やと思うって、かなりの上玉なんちゃうかと思う。仁王のヤツ……さすがやな。

「絵本、褒めてくれはったんやってね?」
「え……」

思い切って声をかけてみた。見るからに話しかけるなオーラがすごかったんやけど、ほかの女には興味ない。唯一、仁王が熱をあげとる人やからこそ、ちょっと話してみたくなった。
彼女はぎょっとした顔をしながら俺を見た。真正面から見ると、目がでかい。地味なようで、顔は派手や。

「ああ、いきなり話しかけて堪忍な。あー、仁王の美容室で会ったん、覚えてない?」
「覚えています。営業で来られてましたね」事務的に返事をされる。こんな感じで男に興味あるんやろか、と不安になる。仁王はごっつい手強い女を相手にしとるんちゃうか。
「ん。仁王から聞いたんや。あの日、あんたが買うように促してくれたって」
「はい、大変、素敵な絵本でした。心が安らぐというか。イラストもかわいくて」

と、彼女の表情が少しだけ柔らかくなった。仁王のことを言うたからかもしれんけど、なんにせよ伊織さんにとっては褒め言葉やった。
自分のことのように嬉しくなる。俺は自然と、ポケットのなかのスマホを手にしとった。

「それ、本人が聞いたら喜ぶわあ。伝えといたろ」言いながら、メッセージアプリを起動した。
「忍足さんは、今日、仁王さんが絵本を購入したから来られたのですか?」
「んん。まあ、それもあるけど。それだけちゃうけど。まあどっちも使命みたいなもん?」

適当に答えつつ、俺は伊織さんにメッセージを打ち込んだ。伊織さん、なにしてるんやろ。

『同席しとる人が伊織さんの絵本、めっちゃ褒めてはるで。心が安らぐし、イラストがかわいいって。よかったな』

それはすぐに既読んなった。読んでくれてるんやと思うと、思わず笑みがこぼれた。

「使命……強請られたんですか? 仁王さんに」
「ええっ? ははっ、仁王ってどんなふうに思われてんねん」

あいつ、うまくいくんか、こんなふうに思われとって。
一抹の不安が押し寄せつつ、せやけど伊織さんからすぐに戻ってきた返信に、俺はまた頬がゆるんだ。

『嬉しいですけど、いいんですか合コン中にこんな連絡して。忍足さん、どうせモテモテなんでしょ。女性が逃げていきますよ!』

ツンツンして、めっちゃかわええ。ひょっとしてヤキモチやろうかと思ったら、すぐにでも伊織さんに会いたなった。
とか思っとったら、急に。ホンマに、急に。
目の前の彼女がワインをがぶがぶ飲んで、めっちゃベラベラと仁王のことを話しはじめた。まくしたてるように、仁王のことなら洪水かっちゅうくらい出てくる語りがすごい。俺はポカンとしつつ、一応、それを聞いた。わかりやすすぎて笑いそうんなる。
ああ、この人、完全に仁王のこと好きやんと思うと、それだけでも今日は来てよかったなと思った。仁王の恋を、全力で応援することができる。自分が恋しとるせいやろか。恋する女の人はめっちゃ綺麗や。
ほどなくして仁王が登場したときも、その人の表情は一瞬にして変わった。俺から見たら、仁王の優しい顔も、あきらかにいつもとは違う。仁王は自分のこと見とるこの人の顔しか知らんから気づけんのやろか? 人のこと「かわいいヤツ」とか言うて、お前も十分、「かわいいヤツ」やんけ。

「どこ行くんじゃ?」
「トイレ」

仁王が来たで、ちょうどええと思って席を立った。仁王の耳元でそっとエールを送って、個室の扉を閉める。長い廊下をわたって外に出てから、伊織さんに電話をかけた。
酒を飲んだせいか、こんな制御もきかんこうなってる。想いあっとる男と女を見せつけられて、伊織さんの声が、聴きたなってしょうがなかった。

「忍足さん!? なんで電話してきちゃってるんですか!? 合コン中でしょ!?」
「しつこいなあ、もうそんなん、ええやん」
「いや……わたしは別にいいですけど。忍足さんの株がさがるだけですよ?」
「別に下がったってかまへんっちゅうねん。そういう合コンやないって、何度も言うたやんか」
「またそんな……いつまで硬派を気取ってるつもりですか」

気取っとるつもりなんかない。せやけど俺は、見た目に反して硬派なとこあんねん。そら、遊んだ時期やってあるけど。いまは……いまは伊織さんのことしか、頭にない。
5年前の彼女のことが吹っ飛ぶくらい、伊織さんに夢中なんやで。気づけへんか?

「……なに、してたん?」どうでもええことをこうして聞くんも、好きな証拠やん。
「え……いや普通に、テレビとか、見てました」
「構想、考えって言うたやないか」そんなことにも気づけへんとか、腹立たしい女や、ホンマに。
「それは、考えるのにも、情報はある程度、必要ですから! 忍足さんこそ、いい女でもいてデレデレになってたりして」
「ああ、それは作家たまごの特有な言い訳と話のすり替えやな。逃げとるわ、創作から」好きや。好きやって、言いたい。酒が入ったせいやろか。もう、会いたくてしょうがない。
「失礼な! ちゃんと考えてます!」
「それやったら、ええわ。まあこんなん、伊織さんがサボってないかの、業務連絡みたいなもんやから」俺かてめっちゃ子どもなことを自覚しながら、そう言うた。
「必要ないです。それじゃ、たーっぷり合コン楽しんでくださいね!」
「せやから……! あっ」

もう、電話は切れとった。はあ、切ない。ようこんな気分にさせてくれるなあ……こないだまで全然、意識してなかったぶん、ホンマに腹立たしい。
トボトボと個室に戻ると、なんや知らんけど空気がえらいことになっとった。しかも仁王はそのあと急に個室を出て、また数分したら戻ってきて、堂々と恋愛宣言したあと、二度と戻ってくることはなかった。





仁王、うまくいったんやろな。と思う。
うらやましい。そらあんだけわかりやすい子を目の前にして、俺のアドバイスやってあったで、仁王がそれで止まるわけないのもわかっとる。せやけど手え早すぎへんか? ええけど、別に。
翌日からは、伊織さんのリハビリがはじまった。切原の悪ノリのせいで、朝までつきあわされた俺は、体がめっちゃ重たい状態で、伊織さんを指定の病院まで送った。けどだるいのは、その状況を見るまでやった。
リハビリ中の伊織さんは、めっちゃつらそうで……見てられへんかった。

「ぐ……痛い」
「無理なくね。ゆっくりでいいですから」
「こ、こんなに指を折り曲げて、また折れたりしませんか?」
「指を折り曲げただけで骨折することがありますか? ありえません」

作業療法士はユーモアを加えつつも、伊織さんにとっては厳しい課題を投げとった。
中指を上にあげて、下にさげて。そんな動きをくり返すだけで、目にいっぱい涙をためて、それでも「やります!」と作業療法士に向けて気合いを入れて、伊織さんは、決してくじけんかった。
見とるこっちが泣きそうやった。それでも毎日、奥歯をガチガチ言わせながら、伊織さんはリハビリをつづけた。
合コンの翌日には、翠松書房の山田編集長に連絡をした。伊織さんに起こった事故のことを話すと、編集長は「うわあ」と感情を隠すことなく、声を漏らした。

「それは……残念ですね」
「はい。本人の意思ではないです。けど、拒みきれんかったのも、素人の甘さっちゃ甘さなんですけどね」
「いやいや、忍足さん。いまそんな厳しいご時世じゃないですよ。しかし、出版業界は厳しいです。当然、ご存知だとは思いますがね」

俺をフォローしつつも、山田編集長の口ぶりは、長年この業界で戦ってきとるその人、そのものやった。出版業界は、ホンマに厳しい。電子書籍の影響もあるけど、とにかく活字離れが進んどる世のなかや。

「事情が事情ですから仕方ありません。しかし、我々としてはこのタイミングだから、ということもありました。次のチャンスは数年先になるかもしれませんよ」
「はい……承知してます」

電話を切って、思いきり落胆したのは10日前のことや。せやけど伊織さんに、その話はせんかった。ただでさえ落胆しとるはずやのに、俺の前で元気にふるまおうとする伊織さんに、毒を送るような真似はしたなかった。
そんなん本人がいちばんわかっとるはずや。暗黙の了解で、俺もずっと「安静に」と言うてきとる。それだけで、伝わっとるはずやった。
時計を見ると、午後1時になるところやった。コンペが行われるはずだった8月11日の今日。あと2時間で、おそらくデビューが決まる絵本作家がおる。
それが伊織さんやないってだけで、俺の体は疲弊していった。
……あの、事故さえなければ。
いまごろ5回目のフィードバックをして、ギリギリまでええものに仕上げて持っていく予定やった原稿が、この手元にあったはずや。
そんなありえたかもしれへん未来を考えるだけで、胸が苦しくなった。

「伊織さん、なにしとるんかな」

ひとりごちて、窓から見える表参道を見おろした。なんも悩んでないような顔した若者が、街中を闊歩していく。俺にやってできることやのに、それがやけに、うらやましかった。
なんでやろう……習慣化したこともないタバコを、吸いたくなった。学生のときに一度だけ口をつけたことがあるタバコは、脳をクラクラとさせた。日中から酒を飲む気になれへんで、それでもやさぐれたくて、こんなことを考えるんかもしれん。
ぶんぶんと、頭を振った。「次や、次!」と心のなかで自分に叱咤する。どれだけ後悔したところで、過去には戻られへん。
見た目は賑やかやけど、一人しかおらん寂しい事務所のなかで自分を奮い立たせとるところで、スマホが鳴った。見ると、それは伊織さんからやった。

「どないした?」
「あ、忍足さん。いまって、お時間ありますか?」

平日の13時。伊織さんは仕事もままならんから、休暇をもらっとる。シャンプータイムはいつも夕方。それは俺を気遣ってってこともあるやろう。
この時間、彼女はたいてい構想を練っとるか、家のなかで絵本を読みあさっとるか、俺に隠れて酒を飲んどるか……要するに、あまり伊織さんから電話がかかってくるようなことはなかった。
やからこそ、なにかあったんかと思って、心配になった。

「大丈夫やで。今日は営業もないし、作家さんのところに行く予定もない。なんかあった?」
「あ……あのそれなら、うちに来てくれませんか?」
「へ?」

あれ以来、家に送ったりはするけど、伊織さんの部屋に踏み入ったことは一度もなかった。
急に、「来い」と言いだす伊織さんに、妙な違和感を覚える。

「なんかあったん? 手、どないかした?」
「いえ、そういうことではないんです。超健康ですよ。でも、できれば来てほしくて」

伊織さんは、元気な声を出してそう言った。
伊織さんの手はまだちゃんと動かへん。なにか用事があっても、電車を乗り継ぐのは不便や。俺は理由も聞かずに、車のキーを取って駆けだした。

自宅で出迎えてくれた伊織さんは、どこかすっきりしたような顔で、俺がいつも使っていたスリッパを出してきた。「どうしたんや?」という俺の言葉にも耳を貸さず、スリッパに足をとおしたところで、突然、俺の手を引いた。握られた手首が、めっちゃ熱い。

「え、なに」
「見せたいものがあるんです」
「え?」
「これ……忍足さん。ギリギリですけど、これを読んでくれませんか?」

久々に入った伊織さんの部屋。俺は作業机の前まで引っ張られとった。
伊織さんが、何枚もの用紙を掲げる。それは、ダミーでもない、立派な原稿やった。

「え?」と、もう一度、困惑の声が漏れでる。「前に、描いとったやつ?」

伊織さんの手は、リハビリであんなに苦しんどる姿からして、絵を描けるはずもなければ、文字も書ける状態やない。それやのに、その原稿は、真新しい白さで俺の目の前にある。
ゾクッと、身震いしそうになった。
伊織さんの右手にある白い布が、ところどころ汚れてる。黒、赤、緑、青、黄……。

「……いいので、読んでみてください」

そう言った伊織さんの目は、闘志に満ちていた。懐かしい、ここしばらくは見ることのなかった、あの目や。
いや……あのころよりも、ずっとギラついとる。
俺は、深呼吸をして原稿を受け取った。目を落とすと、表紙には『ざわざわきらきら』と書かれていた。背中を向けた女性の横に、少し大きめの、でも子どもみたいな愛くるしさのただよう犬の背中が、描かれとる。

「これ……」
「とにかく、まずはなにも聞かずに読んでほしいんです。お願い、忍足さん」

こんな表紙、伊織さんの部屋で、これまで見たこともない。
そのどれもがいびつな線で、せやけどそのいびつさが、なんともいえない美しさを出しとった。犬の耳が太い。女性の足が右だけ太い。ときどき、その線が歪んどる。
俺は生唾を飲み込んで、そのまま、ページをめくった。心臓が、読む前から高揚しとった。
1ページ目をめくると、表紙の女性がカラフルなエサのようなものを、子犬に差しだしとるシーンやった。





おいしい?
だまって食べさせて

ちょっと つめたいなあ


きょうは、おいしい?
まあまあかなあ

やっぱり つめたいなあ


あなたの よろこぶ顔がみたくて
がんばっているけど
なかなか 笑ってくれないね


でもね


わたしは 知ってる
プンとしてる顔も ほんとうはすごくやわらかい


だきあうと あなたのふわふわの毛が
わたしをすっぽりとつつんで 教えてくれる
「だいじょうぶだよ おいしいよ」
すなおじゃない あなたを知ってる


あなたの優しさを 知らない人がたくさんいる
わるく言う人も いるのかも


でも わたしは すき
あなたの手が わたしの髪をすくって
いろんな未来をみせてくれる


ほそながいゆびさきで まほうがかけられる
手品みたいに
くうん と鳴く その声も
折れまがった 大きなせなかも


わたしを信じて まっている
ブンブンとふられる尻尾も
どさくさにまぎれた キスだって


ぜんぶ わたしのちからになる


ねえ これはおいしい?
うまくなってきたなあ

あっ こころを ひらいてくれた!


そばにいてほしくなったのは
なんでだろう
あなたを想うと 胸がくるしいのは
なんでだろう


ざわざわきらきら
いろんな料理をだすと
あなたは笑った


ざわざわできらきらな
おもいがけない 料理でも
あなたは笑った


わたしの 弱いところ
ぜんぶ うけとめてくれた
おおきなからだで ふるえながら
くうんと鳴きながら だきしめてくれた


あなたが
あんなに悲しいかおをするなんて
知らなかった 


いろんなかおが あるんだね
どんなかおも だいすき
どんなあなたも わたしのなかで 生きてる


バラバラなパズルのかけらじゃない
どれも ぜんぶ あなただから!

怒っていても
泣いていても
笑っていても

すべてが 完成したパズルのように
すてきな あなたになる


あなたという名の とてもすてきで
この世にたったひとりの あなたになる


あいしてる

教えてくれたのは あなた
だから わたしは羽ばたける

さいごに フルコースをごちそうしたい


ざわざわきらきら
この料理はどう?

あなたが教えてくれた わたしのお手製
いつもざわざわして いつもきらきらして
あなたがいてくれたから できたよ
尻尾をふりながら おいしいって聞けたなら


「悪くないよ」
いじわるだね でも それもあなた


ざわざわきらきら
これからも ずっと
ざわざわで きらきらするね


わたしたちなら きっと


すき だいすき





最後のページでは、女性が大きな子犬に抱きしめられて、微笑んでいた。
読み終えて、俺は自分が泣いとることに気づいた。
大人の絵本には、こうした恋愛物があることやって知っとる。
せやけどこれは……いままで読んだどの絵本よりも、俺の心には訴えかけてくるものがあった。

「忍足さ……」
「伊織さん、これは、卑怯やろ」

いびつな線でかかれたこの子犬は、俺や。いびつな線で描かれた女性は、伊織さん?
いきなり、なにしてくれとるんやろう、この人は。

「だって忍足さん、きっと怒るでしょ。だったら、事後報告のほうがよかったから」
「あたりまえやろっ。手、めっちゃしんどいのに、なにしてんねんっ!」

伊織さんも、泣いとった。俺につられたんかもしれん。その右手が、震えていていた。
どうやって描いたんやろうと思う。あれだけつらそうなリハビリをくり返しながら、中指を動かすだけで泣いとったのに。
せやけどイラストも文章も、いびつをうまく活かした、綺麗な絵本に仕上がっとる。

「なんでこんな、無茶するんやっ」
「だって……締め切り伸ばしたら許さないって言ったの、忍足さんでしょ」

泣きながら苦笑する伊織さんに、俺の涙がまたこみあげた。
それこそこんな顔、見せるやなんて、恥ずかしいにもほどがある。せやけど、俺の理性はぶっ飛んだ。
こんなに努力された、こんなに愛情のこもったラブレター、受け取ったことなんてない。
俺は、伊織さんを抱き寄せた。抱きしめて、はじめてわかる。右手だけやなくて、全身が震えとったことに。

「アホやろっ……お前」
「……ひどいなあ。フィードバック、してくれないんですか?」

お互いが泣き声で、そのぬくもりを確かめた。
ぎゅっと、伊織さんの左手が、あの日ように、強く握られる。
俺はなるべく右手をつぶさんように、その体を抱きしめた。もう、愛しくて、しょうがない。

「そんなんっ……時間ないやないか、これ持っていくだけや」翠松書房には連絡しとったけど、ひょっとしたら取り合ってくれるかもしれへん。
「あ、そうか……」伊織さんは、少しだけ体を離して、言った。「ていうか、フィードバックは反映できないかも」

伊織さんの右手が、ずっと震えとる。無理ない。こんな無茶して。あんだけ安静にって言うとったのに。どんだけの痛みをこらえて、どんだけのつらさを乗り越えて、これを描きあげたんやろうと思ったら、もう、たまらんかった。

「なんで……こんなことすんのっ」
「ふふ……ごめんなさい。でも、あきらめたくなかった。忍足さんがくれた、チャンスだったから」
「これからもチャンスあるって、言うたやろっ?」
「うん、だけど……もう、しばらく描けそうにありません」

伊織さんが、力なく笑った。堪えきれんかった。
その唇に、キスをした。ん、と漏れる吐息と一緒に、伊織さんの涙がまた頬を伝う。
離したくなくて……俺は何度も、伊織さんを求めた。

「忍足さ……」
「治る、絶対」

額を重ねた。涙が、止まらへん。

「めっちゃええリハビリの先生、俺が探すから。待っとって」
「ごめんなさい……また、迷惑かけちゃう」
「ええんや。伊織さん、頑張ったんやから」

伊織さんの血の滲む努力を、無駄にしてたまるか。
離れたくはなかったけど、余韻にひたっとる場合でもなかった。俺は自分をなんとか奮い立たせて、背筋を伸ばした。
堪忍、伊織さん……ホンマはもっと、ずっと抱きしめときたいけど。ずっと、キスしたいけど。

「時間、ないから行くわ」
「忍足さん……」
「絶対、これなら大丈夫や」

伊織さんから手を離して、俺は原稿をバッグに押し込めた。
この原稿なら、いけるかもしれん……その思いだけが、俺を翠松書房まで突き動かした。





to be continued...

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