初恋_03


3.


下手くそなサーブがネットを越えて向かってきた。バコン、とそのまま返すと、リターンエースで決まる。たいしたボール返してへんつもりなんやけど、身動きもとれんってどういうことや。

「次」
「はい! 忍足先輩お願いします!」

同じく、下手なサーブが向かってきて、リターンエースで決まる。今度のヤツは声がでかいから気合い十分やと思ったのに、全然あかん。こいつら中学んときもテニス部やったよな? なんか知っとる顔ちらほら見るし。いったいこの氷帝テニス部でなにを教わってきたんやお前らは。

「次」
「うぃっす忍足先輩! お願いします!」

同じく……。いつまでこんなことつづければええんやろと思いながら、今日は新入部員のサーブ練習当番は俺やから、仕方なくつづけた。すでに50人目。もうそろそろ終わるはずや。
誰ひとりラリーにならん。これじゃまったく練習相手にもならへん。ただでさえイライラしとるのに、それが余計にイライラを増幅させた。
あれから2週間……俺、いま部活中。

「おい、忍足っ! ちゃんと指導くらいしやがれ!」

背中から跡部の声がかかる。ザクザクという足音も聞こえてきた。なんでこいつらが下手なだけやのに、怒られんの俺なん。全然、納得がいかへん。2週間前から納得がいかんことばっかりで、俺の気分はめっちゃロウやった。

「そんなん、最初にしたし」振り返ると、跡部のいつもの険しい顔。最近、見飽きてる。
「したのにまともに打ててねえのは、てめえの指導不足だろうが」アーン? と付け加えた。今日のアーン? はいつものアーン? とちゃう。完全にメンチ切っとるアーン? や。
「そんなん言われたかてしゃあないやろ。打ち返したら決まってまうねん」こっちもアーン? て付け加えたろかと思ったけど、やめといた。たぶんしばかれる。
「もっとハンデをやるとか、頭にねえのか、お前には」

ハンデなんか、やる気になんかならへん。それやなくても俺はプライベートでめっちゃハンデ負ってんのに。
伊織に家に入っていったあの男の正体もわからんし、せやけど伊織はあんな嬉しそうな声だして、まんま「嬉しい」とか言うとったし、せやのに次の週から部活の準備で大忙し。休憩時間は跡部に練習メニュー強化の中身を考えさせられるわ、入部希望の連中の質問に答えなあかんわ、なんや知らんけど後輩の女子に囲まれての質問コーナーもあるわ、担任に授業の準備の手伝い任されるわ、技術教師にこれまた「忍足くんは手先が器用だから」とかおべんちゃら言うて授業の準備の手伝い任されるわ、あげく今日は1年の下手くそなサーブ練習の相手させられるわ、この2週間、俺は伊織を目に映してもない! どうなっとんねん!

「ない! そんな余裕、俺にはないねん!」いまこそ、アーン!? や!
「な……なにをいきなり叫びだしてんだてめえは! そんな余裕がないところを1年に見せるな!」
「そんなん言うなら、もう、跡部がやってえや!」
「な、ガキか! 今日はお前の当番だろうが、グラウンド走らされてえのか!」

跡部にも毎日のように説教をくらう……。やって、伊織に会ってへん。お前は伊織に毎日会えるからええよなあ! こんなことなら俺もA組になりたかった! ランチ、誘いたいのに俺が全然、暇がないせいで……あの男、誰なんって聞きたいのに。めっちゃ気になってんのに!

「おい忍足……俺、変わってやろうか?」と、跡部に睨まれながら悶々としたところに、宍戸が声をかけてきた。「なんかお前、最近ずっとピリピリしてんじゃねえかよ。1年ビビってんぞ」完全にビビった顔した新入部員たちを見て、宍戸はため息をついた。ため息つきたいんはこっちや。
「宍戸、そういう情けを」
「頼むわ宍戸、ほなよろしく」
「おい忍足、いい加減にしろよてめえ……」

跡部が宍戸を制す前に、俺はくるっと、背中を向けた。跡部の説教なんか中学んときから聞き飽きとる。まったく怖くもない。俺は跡部を無視して、レギュラーメンバーのおるテニスコートに移動した。
「ひゃあ、忍足先輩こっちきた」というギャラリーの声がちらほら聞こえる。なんか知らんけど、今日は見学が多い。俺がこっちに来たことのなにがそんなに嬉しいねん。
そんでもって目の前には見慣れた顔に見慣れた練習風景。別にそんなん文句ないけど、飽き飽きはする。ジローは寝とるし。あいつはなんで怒られへんねん。おかしいやろ。
ともかく……俺の日常には伊織が現れたはずやのに、これまでと変わらん日常に、俺はげんなりしとった。

「忍足さん! 今日もピリピリしてますね!」鳳が、爽やかに声をかけてきた。爽やかやけど、嫌味っぽい。こいつは昔から、天然や。
「宍戸の影響かそれ? 別にピリピリなんてしてへん」嘘やけど。
「跡部部長がすごい顔してこっち見てますよ! 今日は見学が多いので、忍足さんの様子が我慢ならないと言ってました」
「はあ、さよか」いちいち言わんでええことを報告してくる。悪いヤツやないんやけど、ときどきうっとうしいこともある。こんな機嫌の日には、とくに。
「女子も多いです。見てください、あの数」張り切っちゃいますよね、とつづけた。お前ええな、頭んなかが単純で。どうでもええやろ、女子の見学なんか。
「なあ鳳、練習しよ、もうええから」

と、鳳が指をさしとる先にチラッと視線を送った。そのぎょうさんおる女の数いうたらなかった。どうせほとんど跡部を見に来とる。
そんなんわかってる。せやけど、俺は、そこになにかを見た気がした。一瞬見て、目を逸して、「え?」と思ってもう一度ギャラリーに目を向けた。

「忍足さん、自分で言っておいて練習はしないんですか。たまには俺に付き合ってください」
「ちょお待て、黙っとけ」

目を凝らした。なんかめっちゃきらきらしてた、あの場所なに?
ギャラリーがざわざわしはじめた。俺が凝視しとるから、なにごとやと思っとるんやろう。
俺はきらきらに向かってさらに凝視した。そのとき、ようやく気づいた。前から3列目、右から5人目に、一段ときらきらしとる人を見つけた。

「伊織や……」
「え? なんですか? 声が小さいですよ。宍戸さんが、いつも忍足の声は小さいと言ってますけど、本当に」
「鳳……俺、お前に感謝すんのはじめてかもしれへん」
「えっ!? それはちょっと失礼な気がします。あ、どこに! 忍足さん!」

お前もな! と言いたいのを堪えて、俺は鳳の声にも耳を貸さず駆け出した。
猛ダッシュで向かっていく俺に、見学の女子たちが「え、なに、なに!? 怖い!」と言いながらパラパラと散りはじめる。せやけど、伊織は一直線に俺を見とった。
ああ、伊織は逃げんでおってくれるんやな! もう、俺それだけで感激やし!

「伊織!」
「ゆ、侑士……? そんな急いで、どうしたん? あの、練習、ええの?」

顔がものっそいびっくりしとった。その表情も、めっちゃかわいい。
2週間ぶりに俺の目に映した伊織は、2週間前より、一段とかわいくなっとった。なんで? 2週間しか経ってへんのに、なんでこんなにかわいくなれるん、奇跡やん。

「はあ、はあ……ええんやええんや。いま休憩中やから」嘘やけど、息を整えながらにこやかに接する。こんなダッシュはなんてことない。
「ほ、ホンマ? けど、1年生のサーブも、途中やった気が……」
「ええねんええねん、伊織は気にせんとき。伊織こそどないしたん? テニスの練習に見に来たん?」

ホンマは。
2週間ぶりの伊織に思いっきり抱きついて「久々やん!」って言いたかったけど、さすがにドン引かれると思ってやめといた。これでもめっちゃ堪えたほうなんや。ちゅうかそんな勇気はない。
周りがガヤガヤしはじめた。俺がこないしてテニス見学の女子に話しかけることなんかないからやろう。「誰?」「え、転校生?」「仲いいのかな」とかいう野次馬の声がちらほらと聞こえた。
仲ええで。俺と伊織はめっちゃ仲よしやねん。せやろ伊織? せやんな? あの男よりよっぽどええやんな? お願い、そういうことにさせてや。

「ん。今日、はじめて来た。侑士のカッコイイとこ見ようかなって思って」
「え、俺? 俺を見に来たん?」カッコええとこ……? うわあ、泣きそう。
「そうよー。見たいって言うたやん、わたし」
「言うてた、そやったな。俺、どやった? あ、いうて1年のサーブの相手しかしてへんけど」
「うん、やっぱりテニスしてる侑士、カッコイイね!」

しつこいようやけど、2週間ぶりの伊織の姿。ほんでその声。ほんでそのまぶしすぎる笑顔。しかも俺のこと、「カッコイイ」やって! この2週間の鬱憤が綺麗に吹き飛んで、俺は久々に笑顔になった。

「いや、全然」カッコつけてみる。せっかくカッコええと言われたのにカッコ悪いとこなんか見せられへん。デレデレんならんように努力した。
「でも1年生のサーブ、全部リターンエースで返してた。すごかった」
「いやもう、あんなのは」めっちゃ下手やもんあいつら。話にならんわ。ああ、顔がニヤけてまいそう。「まあ、でも1年も頑張っとるよ。ハンデのつもりやってんけど、うまくいかへんかったなあ」嘘も方便や。
「優しいね侑士。後輩思いなとこも素敵やね」

思ってもないこと口にすると、伊織が褒めてくれた。
こんなことなら跡部の言うとおり、しっかり指導しとくんやったわ。ああ、こうして伊織が毎日見学に来てくれたら、部活めっちゃ楽しいのに。いや、練習にならへんかも俺。それでもええか……いや、あかんか?

「そや侑士。ホンマに休憩中なら、ちょっと話、つづけてもいい?」

唐突に。遠慮がちにそう言うてきた。伊織との話なんて永遠につづけとってもええ俺は、顔が赤くならんようにポーカーフェイスを発動した。
これだけは得意や。ついでに心も閉ざせる。伊織にこんな内面バレたらかなわん。しかも伊織から話をつづけたいやなんて、なんや、口説かれてる気分になる。
俺も好きや伊織……ああいや、そんなん言われてへんかった。落ち着け、俺。
2週間という長い時間のせいか、俺の思考回路はショート寸前やった。なんかそんな歌あったな? どうでもええけど。

「ああ全然、気にせんでええよ。あ、コートくる? ここや話しづらい?」
「や、ええんよそれは! みんなに悪いやん……」

伊織がさっとギャラリーを見た。どうせ跡部を見に来とるくせに、近くにおる女子どもは、なんでやか俺と伊織をジロジロ見とるヤツらもおった。散れ散れ、邪魔じゃお前ら。
伊織も、そんなん気にせんでええのに。ホンマに優しいなあ。もう、ホンマにええ子……。

「さよか。ほんで、なに? どんな話?」
「うん。今度、遠足あるらしいんよ」
「え?」

高校3年にもなる学生の口から、「遠足」っちゅうワードが飛び出てきたことに、俺は少し、ポカンとした。そんなんあるわけない。俺ら今年18歳やで?

「びっくりやよね。わたしもびっくりしたんやけど、跡部くんから内緒で聞いたんよ」

2回目のポカン、やった。「遠足」についてはとりあえずええわ。ホンマにあるなら今度、ホームルームでプリントでも配られるやろう。
それよりなに? 跡部から「内緒」で聞いたって。なにその響き。なんやヤラしない?
内緒ってアレやんな? 耳元でコソコソ言うやんな? おい、跡部、まさかお前、伊織とそんな距離を縮めたんちゃうやろな。俺かてまだ50センチから先、距離は縮めてないねんで!?

「それでね……えっと」

伊織がなんや、モジモジしとった。言いにくそうに、目をキョロキョロさせとる。
待って、待って伊織……そこに入るまえにやな、「内緒」って、どういうこと? 跡部と内緒話したん? どんなふうに? その答えによっちゃ俺、跡部のこと殴るかもしれへん。せやけどこないだ責めたみたいな口調んなって伊織を固まらせたし……ええわ、それはあとで聞こう。

「どないしたん?」

なんでやか言いにくそうにしとる伊織に、俺はなるべく平静を装って首を傾げて促した。
モジモジしとる伊織もかわいいなあと思って見つめとると、伊織はじっと、俺を上目遣いで見てきた。……あ、あかん。これ、心臓止まるやつや。

「おやつ……一緒に買いに行かへん?」
「へ……」
「遠足、懐かしいやん。小学校んとき、1回あったし。最近、侑士と話してなかったし」

バックンバックンの心臓がそのまま口から飛び出そうになる。
小学校んとき、一緒におやつ買いに行った、たしかに! ほかにもクラスメイトがついてきとったから、ふたりきりちゃうかったけど……けどこれは、今回は、ふたりきりでデートってこと!? うわああああ……もうあかん、昇天してまう。ぶっ倒れそうや。

「そう、やな。ほな行こか、一緒に。遠足の前日にでも」

こうなったらもう、絶対に遠足あってくれと俺は願い倒した。
帰りに神社でも行って祈ったろかな。こういうときの神頼みやろ。あいつら普段、全然、願い叶えてくれへんで。テニスで全国優勝もできへんかったし、跡部には一向に勝てへんし。せやけどもうこの遠足さえ叶えてくれたらええわ!

「おや、忍足くんサボってるのかい?」

そのとき、聞き慣れん声がした。俺と伊織のめっちゃええ時間を邪魔した、どこからどう聞いてもおっさんの声に俺が勢いよく振り返ると、月間プロテニスの井上さんやった。なに邪魔してくれとんねんおっさん、とは言わんでおく。人生の先輩や、氷帝のこともめっちゃ取材してくれとるし、失礼があったらあかん。
俺は軽く井上さんに会釈をして、伊織に向き直った。……はずやった。

「……え」

向き直った先で、伊織はこつ然と姿を消しとった。めっちゃポカンとしてまう。
嘘やろ。さっきまでそこおったやん。俺、伊織に会いたすぎて幻でも見とったんか? それやったら重症やで。今日までも大概やって自分でもわかっとるけど、それにしてもヤバい。

「忍足くん?」
「あの、井上さん……ここ、人おりましたよね?」
「え? ああごめん、忍足くんの背が高いから見えなかったのかな。誰かいた?」

え、幽霊? いやいや伊織は死んでへん。俺の頭がトチ狂っとんやなかったなら、急に帰ったっちゅうことやろう。せやけど話の途中やった気がするし、跡部との内緒話の件、あの家に入っていった男の件、まだ聞いてないんやけど。

「忍足! てめえいつまでそこにいやがる!」

消えた伊織をキョロキョロ探しとる俺の頭に、激怒した平手打ちがお見舞いされたのは、その直後やった。





『侑士、話の途中やったのに、急に帰ってごめんね』

という伊織からのメッセージは、部活帰りに届いた。正直、ホッとした。さっき、伊織はあの場所に存在しとったんや、と確信が持てたからや。せやけどなんで急に帰ったんやろ、という疑問は残る。
メッセージには一緒に、かわいいくまが手を合わせて謝っとるスタンプがつけられとった。このスタンプチョイスもめっちゃかわいい。伊織がこれ使ってるんやと思ったら、俺の手は自然とそのスタンプを購入しとった。

『ええんよ、気にせんといて』

と、俺はシンプルにメッセージを返した。伊織のなかのカッコええ忍足侑士を維持したつもりや。昨日からずっとそのひと言だけのやりとりを眺めとる。単純なもんで、それだけでめっちゃご機嫌になった。なんなら急に帰った疑問なんて、ほぼどうでもよくなっとった、翌日のことやった。
懲りもせず、そのくまさんスタンプをずっと見つめとったホームルームで、ホンマに遠足の案内のプリントが配られた。
相変わらず、この歳になってなんで遠足やねん、とは思いつつも、どうやら遠足はクラス別で行くらしい。せやけどそのクラスが、2クラスずつの遠足で、A組とB組は一緒に行くことになっとった。日程は来週の金曜。ちゅうことは、来週の木曜日に伊織とおやつデートや!
おやつは金持ち校らしく、5千円設定になっとった。誰がそんなにおやつ食うねん、とは、いまの俺は思わへん。
ああもう、めっちゃ舞い上がる。ニヤける顔が止まらへん。伊織のおやつ、俺が金、出そうかな。おごるわ、とか言うたら少しはカッコええんちゃうか? いや、駄菓子程度でなにカッコつけてんねんて思われて終わりやな。却下。
授業と授業の合間の休憩時間、俺はそんなことばっかり考えとった。

「おい忍足」

伊織はどんなおやつ選ぶんかなあ? よっちゃんイカ、とか伊織には合わへんよな。いやいやそれもギャップ萌え。うまい棒は必須やな! 昔、一緒によう食べた。あれはめんたい味がいちばんうまい。そうや、チロルチョコとか、伊織らしいなあ。あのチョコをぱくんと口に入れる伊織……ああ、めっちゃかわいい。

「おい、忍足っ」

あっ、蒲焼さん太郎? 歯で引きちぎるんかな。うわあ、そういう伊織も見てみたい。ちょと豪快やん? ワイルドやん。そいやウメトラ兄弟とかもあるな! 食べたら酸っぱい顔するんやろか。はああああ、かわいい、もうかわいい。

「忍足!」

気づいたら、バシン、とまた、昨日に引きつづき頭をはたかれとった。まったく昨日と同じ場所でめっちゃジンジンする。現実に引き戻されて、めっちゃムッとした。せっかく伊織の妄想でええ気分になっとったのに! こいつホンマにいつか訴えたる!

「なんやねん跡部!」
「聞こえてんなら返事するなり、振り向くなりしやがれ」
「俺がめっさ気分がええか悪いときにしか来やがらんかって、いっつもタイミング悪いねんお前!」
「てめえの機嫌は、いつも0か100かだ。タイミングが極端なのはお前であって、俺じゃねえだろうが」

跡部はしれっと的を射たことを言いよった。
まあたしかに……最近の俺はそのどっちかや。せやけど言い返せんのも悔しい。
俺はなあ、跡部。さっきまで忘れとったけど、「内緒話」の件、忘れたわけちゃうからな……お前には結局、めっちゃ警戒しとんじゃ、いまでも。ちょっとA組におるからってええ気になって、コソコソ伊織に近づきよって。惚れさせたらホンマにお前とは絶交したる!

「そんで、なんの用や」機嫌の件については、無視したった。
「ああ、遠足なんだが、B組の引率を頼みたい」
「は……?」

なにかと思えば、「引率」という聞き慣れん音が耳に届く。
引率ってあの、幼稚園児つれとる保母さんがやっとるやつ? はーい、みんなこっちようー! とか言うとるアレ? いやいや、俺まったくキャラちゃうやろ。

「A組は俺がやる。B組の学級委員は当日法事があるので欠席らしい」
「ちょちょちょい待て、普通そういうの教師がやるやろ」
「アーン? お前プリントちゃんと読んでねえのか? 教師のための遠足なんだよ、これは」

ますます意味がわからんようになる。そうや、日程とおやつの金額しか見てへんかった。なんかほかにも注意事項あったんけ? 
活字は嫌いやないけどこういう活字は嫌い……仕方なく、俺はプリントをじっくりと見た。
『※担任教師は同行しません』と、そこには書いてあった。

「なんでや」俺らのこと信用しすぎちゃう? やりたい放題やでこんなん。
「5月に入ると中間考査があるだろ。試験問題をつくるのに教師は忙しい。そのための時間だ。教師も最近は働き方改革が血気盛んなようだ」

つまり、や。
試験問題をつくるのに、教師の時間が働き方改革のせいで圧倒的に足りん、ちゅうことなんやろう。1日でも邪魔な生徒たちを遠くに追いやって、授業をせんかわりに試験問題をつくる時間にあてるっちゅうこっちゃ。どんだけ自由な学校やねんここ。
せやけど、やからってなんで俺が引率……嫌や、面倒くさい。

「断る」
「アーン?」

やってせっかくの遠足やのに! いやこの歳になって遠足に向かってせっかくって言うのもアレやけど、その日は伊織を独り占めするんや俺は! 一緒に歩いて、ほんで一緒に昼めし食べて、「うわあ、佐久間さんと忍足ってめっちゃ仲ええやん、もう俺ら入る隙間ないな」って、A組B組の男子にまとめて思わせたんねん!

「ほう? いいのか断っても」っちゅうのに、跡部は意味深な笑みを浮かべた。なんやその顔。断るっちゅうたら断るぞ俺は。と、思った俺の思考は跡部がボソッと付け加えた言葉にショート寸前になった……セーラームーンやったっけ? 「佐久間とペア、なのにか?」
「え!?」

セーラームーンは一旦ええわ。いま、なんて言うた?

「引率は男女ペアで行う。A組とB組の引率ペアをシャッフルしてもいいと、俺は思ってたんだがな。うちのクラスは俺と佐久間だ」
「やる!」もちろん、そんなんやる!
「断るということだな、わかった」
「跡部! いじわるせんとって! やるって!」

めっちゃ勝ち誇った顔をして、跡部は俺を見た。そうか……ひょっとしてせやから、伊織に内緒で先に教えたんか、こいつ。
うう……跡部、お前はなんやかんや言うて、やっぱり俺の味方なんやな! さっきいろいろ悪口言うて堪忍な。俺もお前の味方やで!

「そうか、どうしてもやりたいか」
「どうしてもやりたい! 跡部、俺お前のことめっちゃ好き」
「気持ちの悪いことを言ってんじゃねえよ、うまくやれよ」ふ、と跡部が微笑んだ。
「うん、景ちゃんありがとう」
「気持ちが悪いと言ってるだろうが」

跡部が少し、後ずさる。いまならなにを聞いても、跡部のことを許せる気がしてきた。

「なあそれより聞いてもええ?」
「なんだ」俺が伊織とペアって聞いてニヤニヤしとるせいなんか、跡部はまた後ずさった。「いいか忍足、お前のその過剰な愛情は結構だが、もう少し冷静にならねえと愛想つかされて終わりだぞ」純情な感情みたいに言うとる。たしかに俺のこの想いは純情な感情やけど、それよりも、聞きたいことがあんねん。
「わかっとる。そこに関してはめっちゃ努力しとるから」
「そうは見えねえから言ってんだ俺は」
「それよりな跡部、伊織に内緒で先に遠足のこと教えたやろ?」俺は跡部ににじり寄った。
「そ、それがどうした。忍足、近い……」
「内緒ってどんなふうに? なあ? 耳元で言うてないよな? 俺それだけがめっちゃ気になってん。なあ、なあ、どんなふうに教えたんや」

ほとんど抱きつくような形でそれこそ耳元で話しかける。教えて。せやないと俺、夜も眠れへん。

「忍足、近いと言っている。ちょっと離れろ」
「嫌や。教えてくれるまで離れへん」
「忍足、ちょ……」
「なあ、はよ教えて」
「離れ……ちょ、やめろ、俺に手を回すな!」
「跡部ってえ」
「普通にメッセージを送っただけだ! 離れろ!」

豪快に跡部に突き飛ばされたところで、授業開始前のチャイムが鳴った。跡部はぷりぷりと怒って帰っていった。
なんや、メッセージか。それならそうとはよ言うてえや。跡部、俺、頑張るわ!




うららかな春の日差しが気持ちのええ午後、俺は伊織と近くのデパートに来ていた。都会にはあんまり駄菓子屋がないで、氷帝学園中等部の近くにはあるんやけど、あそこは絶対に明日の遠足のせいで、高等部の学生がようけおるに違いない。
「俺らはちょっと離れたところに行かへん?」と俺が提案したら、伊織もきゅっと笑って承諾してくれた。
ちゅうわけで、デパートのなかの懐かしのお菓子を売っとる駄菓子屋もどきで買おうっちゅうことになった。

「侑士、見て! こんなんもある。懐かしいねえ」
「ああ、ホンマやあ。え、こんな名前やったっけ?」

60円する指輪の形をした飴ちゃんを手に、伊織が目を輝かせとった。そういえば伊織、これ指にはめてよう舐めとったなあ。ホンマ、懐かしい。あのころの伊織もめっちゃかわえかった。

「ううん。昔はジュエルリングって名前やったと思う。30円やった」
「うっそお、値上がりしとるやん」

駄菓子の前でふたりでしゃがんで。顔を見合わせて笑い合って。伊織のええ匂いも、いつもよりしっかり香ってきた。
ホンマにデートみたいやん。距離もいつもより近いで、俺はもうドキドキしっぱなしやった。

「ね、高いよね。でもすごく好きだったなあ、これ」

選ばんかなそれ。見たい。いまこそ、その飴を舐める伊織が見たい。いやそんな変な妄想しようとかちゃう。でも見たいねん。これはもう男の性やろ。ああ、ゾクゾクしてくる。駄菓子屋もどきでなにを考えとるんじゃと思うけど、体がいうこときかへん。
やって伊織の腕、制服越しやけどときどき触れるんやもん。あと膝も。ああ、手え回して肩抱きたい。

「買うたらどない?」そっと促してみる。買うて、それ舐めて。それ舐めるとこ、俺に見せて。ああ、もう想像しただけで爆発しそう。
「うーん。でもこれだけ大きい飴ちゃんって、食べるん時間かかるから、やめとく」

と、伊織はあっさりとその選択肢を捨てた。はあ……ガッカリや。チュッパチャプスやなくて、指にはめとる飴ちゃんやからええのに。そこに手があるからええのにっ! くうう、でもそんなん力説できへんし。
ひとり、心のなかで悶絶する。……落ち着こう。わかっとったけど、伊織に再会してから、ほんでこの距離感に、俺、どう考えても頭おかしくなっとる。冷静やないといつか嫌われるで。

「ねえねえ、これ侑士が好きやったやつ、やんね?」
「ん? どれ?」

そうや。いまはふたりきりのデートやで。たかだが駄菓子買う数十分でも立派なデートや。ここでカッコええ彼氏ふうに振るまったら、伊織も俺のことめっちゃ意識しだすかもしやん。おかしなこと考えとる場合ちゃう。
そう考え直して、俺は伊織が差し出してきたおやつを見た。

「えいひれ。これ好きやったよね? カゴに入れとく?」

それは、まさかのえいひれやった。伊織、それおやつちゃう。おつまみや。いやでも駄菓子屋にあるってことはおやつでもええってこと?
いまも好きなえいひれやけど、よう考えたらめっちゃおっさん臭ないか俺。伊織が懐かしのかわいい駄菓子食べとる横で、えいひれなんて食べられへん。マヨネーズと唐辛子もないのに、そんなもんだけ食べとるってもう、公園でやさぐれて酒あおっとるオヤジそのものやないか。
けど覚えててくれてるんや……そう思ったら、複雑な気分で、またテンションがおかしくなりそうやった。

「ん、ああ、好きやけど……やめとこかな」
「そうなん? じゃこっちにする?」

今度は都こんぶを見せてきた。あかん。いやわかってる、俺の好みがどうかしとんねん。せやけどこんな色気のないもんばっかり好きやったって……でも伊織が覚えててくれてんのが、どうやっても嬉しい。

「ん、それも好きやった。伊織、よう覚えてるな?」
「侑士のことはなんでも覚えてるよ、わたし」
「え……」

駄菓子の前でしゃがんだままの伊織が、きゅっと目を細めて首を傾げてきた。
どわっは……あかん、ホンマにぶっ倒れる。鼻血でそう。本気、本気で言うてくれるそれ?
それ、俺、期待してもええの?
俺のことなんでも覚えてる→俺のことずっと考えてた→俺のこと好き! っていう都合のええ図式にしてもええ!?
と、急激に体温があがって汗が出そうになる寸前、俺の背後からのそっと影が出てきて、しゃがむ伊織の肩を、ポンっと叩く男の手が見えた。
はあ? 男の手やと? と、また思考がセーラームーン化していく。

「よ、佐久間っ! 久々っ!」
「うわっ、びっくりした! 大出くん!」

伊織がすぐさま名前を出して、立ち上がった。つられて、俺も立ち上がる。向き合うと、大出くんと呼ばれた男は俺が見上げるほどでかかった。胸板も分厚い、ごつい感じの男。見たところ氷帝の制服やないから学校のヤツとは違う。制服だけじゃ全然わからん大出くんは、俺をちらっと見て軽い会釈をしてきた。会釈の前に、伊織とどういう関係なんや、言うてみい。と、思いつつ、俺も会釈を返した。

「彼氏?」

と、大出くんはいきなり質問してきた。ドキッとする。伊織がなんて答えるんか、一瞬だけでも期待してしまった自分がおった。おったっちゅうのに、

「えっ、あっ、違う違う! 同級生!」伊織は即座に否定した。両手をブンブンさせて。

……わかっとったけど、かなり深い傷を追う。そんなに強う否定せんでもええやん? だったらいいんだけど、とかな。あるやん? いろいろ。あかん、泣きそう。

「ああ、そうなんだ。ども、大出です」

なんにも気にしてないような顔で、大出くんは手を差し出してきた。ごっつ分厚い手に、たくさんのテーピングが巻かれとる。スポーツマン、やろうな、どう見ても。

「どうも。忍足です」

俺の細い指が、なんや情けなく見えてきた。俺もスポーツマンなんやけど、一応。

「あ、大出くんはね、柔道やってたとき、警察教室の合同練習で一緒になった人なの」

俺と大出くんが軽い握手を交わしとるなか、伊織は大出くんを紹介してくれた。
なるほど、それでか。と合点がいく。たしかに大出くんは体格もええ。ブタとちゃう。がっしりとしたぶっとい筋肉って感じの、たくましい男に見えた。
ていうかちょっと待って。警察教室の合同練習で一緒になった? え、男子も女子も一緒にやんの?

「え、男女混合なん?」俺はそのまま聞いた。
「うん、それはしょっちゅうあるんよ」

伊織は当然のように答えた。
話を聞いとると、柔道稽古は男女混合、わりとあたりまえらしい。柔道着を着た伊織がめっちゃカッコええのをいまでも覚えとる。伊織は強かった。負けたとこはホンマにたまにしか見たことがない。
いつもニコニコしとる伊織の顔がものすごい闘争心をむき出しにして、その顔のままサクッと勝つ。試合中、声を張り上げるのは一瞬、技をかけるときに「やっ!」と言うて終わり。勝ったあとのガッツポーズもなければ笑顔もない。スン、として丁寧に頭をさげて終わる。
そのギャップたるや、なかった。冷酷さも感じさせるくらいの目で相手を負かす。相手が倒れた拍子に鎖骨を折ってしもたこともある。それでも伊織は試合中に情けをかけるようなことはせんかった。審判に手をあげて、「折れてます」と淡々と言って終わり。試合後に、「大丈夫でしたか、すみませんでした」と頭を下げには行っとったけど、その日、伊織は俺に言うた。

――武道に骨折はつきもの。同情してられへんのよ。あれは相手選手の気のゆるみ。その時点でわたしの勝ちや。

ホンマにめっちゃカッコええって、惚れ直したんや。テニスの賑やかさとは別世界のスポーツの美しさにも心酔したことを、俺は思い出しとった。

「東京に引っ越したって聞いてたから、また稽古で会えるかなって思ってたけど、お前、柔道やめたんだって?」
「ん、高2でやめたの。高3から転校だったし、氷帝の柔道部入ってもすぐ引退になるから」

伊織はケロリと言った。そうやったんか、と思う。あのときの伊織、めっちゃカッコよかったのに。いまの伊織が柔道をやる姿も、見たかった……ちょっと残念やな。

「残念だよ」と、大出くんが俺の心を代弁するように言って、顔を向けてきた。「あ、知ってます? 佐久間の寝技すごいんですよ」

気さくなええ人やってことはわかった。せやけど待って。その話。
いま、寝技っていうた?

「寝技……も、一緒に稽古するんですか?」おそるおそる、俺は聞いた。
「しますよ! 余裕で!」

ニカッと、大出くんは笑顔になった。なんの余裕や! とツッコむとこやった。
ぼわぼわぼわっと、伊織の試合やらテレビやらで見てきた寝技のシーンが頭のなかで再生される。
寝技って、寝技ってあの、なんか胸のへんを顔に押し付けたりする感じない!? いや実際は体重かけてはがいじめにするっていう技なんやってことはわかるけど、あとなんか、股間がめっちゃ顔にくることない!? いや実際はそういうつもりやないってこともわかるけど! め、め、めっちゃ抱きしめ合うやん!
それを、それを、男女混合やと!?

「侑士? 大丈夫? なんか顔色悪い……」頭が、ホンマにくらくらしだす。寝技て。寝技て……。
「え、大丈夫ですか?」
「あ、か、堪忍……なんやろ、ちょっとめまい?」
「ええ、あかんやん。もうお菓子も選んだし、帰ろう?」

伊織が心配そうに俺を覗き込んできた。うん、もう帰りたい……と心のなかでささやく。大出くんの顔も見たなくなってきたし、ひとりで帰って泣きたい気分や。
と、シュンとしとったら、伊織の手が、めっちゃ自然と俺の背中に触れた。

「明日、遠足やしね。安静にしてね侑士?」

ビクッと俺の体が揺れる。
そんなことには気づいてないんか、伊織はぴったりと、寄り添うように、俺の体ごと包むように、手を回してきた。
……俺の体が半分、伊織の半分に包まれとった。柔らかい体の感触が、俺の腕に伝わっていく。
このとき完全に、寝技のことが頭から吹き飛んだ。

「え、遠足?」大出くんが顔に似合わん、高い声を出した。
「うん。わたしら、もう帰るね。侑士、大丈夫? え、顔、今度は真っ赤んなってる、熱ある?」たぶんない、いやある。それは……伊織のせいやからっ。
「だ、だいじょぶや……あ、金、あ、俺、払ってくる」心臓が壊れそうで、口が回らん。
「あ、大出くんごめんね」
「いやいんだけど、え、遠足?」
「あはは、だよね。その話はまた! バイバイ!」

伊織は元気よく大出くんに手を振りながら、俺の背中を押した。
金を払っとるあいだも、家までの帰り道も、俺の背中を、伊織はずっとトントンしてくれた。俺はそのあいだ、ずっと顔が熱いまま、伊織の顔をまともに見ることもできへんかった。





昇天しまくった放課後から夜があけて、遠足当日。
昨日はもう、全然、寝られへんかった。寝なあかんし、おやつデートのこともあったで、我慢できへんかったからまた伊織を頭んなかで汚してもうた。せやけど、それでも寝れへんかって。汚したあとは虚しさすごいのに、あげく寝られんて、もう罪悪感でいっぱいになった。
ちゅうか、俺もどんだけや。遠足楽しみすぎて寝れへんって、マジもんの小学生やないか。せやけど楽しみなんは遠足やない。いや遠足やけど、伊織と一緒に引率して、昼めし一緒にするのが楽しみなんや。
どうせ寝れへんならと、俺はベッドのなかで虚しさの余韻が残るなか、質問事項を考えた。いっつもテンパってもうて、伊織に聞きたいこと、なんにも聞けてへんかったから。

その1:どんな寝技練習を大出くんとやったか 
その2:これまで彼氏とかおったことあるか
その3:家に来とるあの男は誰や

とりあえず今日はここまで聞けたらええやろ、と俺は眠たい目をこすりながら、ふんふんとスマホのメモ帳を閉じた。こんなん頭のなかで覚えれるけど、文字にすると課題みたいんなって、忘れたあかんことのリストに入る。せやからこの3つは、今日、絶対に聞くと決めとった。
遠足の目的地は氷帝学園から20キロ離れた、のどかな公園。のどかなんはええけど、えらい歩かせてくれるやん。自分たちが試験問題つくるのに勝手な予定を入れたあげく、20キロて。往復40キロ歩かせるんか。鬼かあの学校は。
せやけど、この距離は俺と伊織の時間にもなる。その行きの5時間のあいだ、俺は伊織を質問攻めにした。

「伊織、柔道はここにくるまでずっとやっとったん?」
「うん、やっとったよ。転校したから、いろんな柔道部見てきた」そうなんやろうなあ、と思う。俺が小学生んときも、いろんなテニスクラブを見てきたし。
「それでー、あの大出くん? にも会ったんや?」大出くんは、あの様子やと危険度は低いけど、一応、探りをいれることにした。
「そうそう。警察の教室ね。合宿で数日、ときどき行くんやけど、めっちゃ怖いんよ警察の柔道」

伊織はころころ笑いながら話してくれた。警察の柔道教室はどえらい稽古を行うらしい。まず受け身から入る準備運動で1時間、打ち込みという技をかける寸前までの動きを1時間、乱取りという技を掛け合う練習で1時間、そこから寝技の打ち込みに入るらしい。そんで試合形式の練習を2時間ほどやって夕飯になるらしいけど、練習がキツすぎて吐きそうで逆に食欲はなくなるらしい。それやのに、今度はホンマに吐くほど食べさせられるっちゅうことやった。

「なのに痩せていくんよ、怖いやろお?」
「ホンマめっちゃしんどそうやなあ、それ」

せやけど、その話で俺が怖いのは、そんなことちゃうで、伊織……。

「なあ伊織、そういや昨日、大出くんが言うとったけどさ」
「うん?」無垢な微笑みが俺に向けられる。そんなかわええ顔で……と思ったら、早口になりそうやった。
「寝技すごいんやろ、伊織って」ええぞ、自然な流れや忍足侑士。ここですかさず、その1や。「寝技の練習って、大出くんとどんなことしたん?」
「え……どんなこと?」
「やで、やから……上からこう、乗ったりとか」自分で言うてて嫌んなる。
「ああ、うん。口では説明しにくいね。あ、ちょっと待ってね」

と、伊織はスマホをとりだした。検索サイトでなにやら調べとる。たいした時間もかからず、そのスマホに表示されたイラストを俺に見せてくれた。

「これが抑え込み、これ関節技ね」
「……」どっちもめちゃくちゃ抱き合っとる。と、そこにあの、股間に顔がくっついとるみたいなイラストを見つけた。「こ、これなに!?」
「ああ、これは固め技で、崩れ上四方固めっていって」
「こここ、こんなん男女でやんの?」また、口が回らへんようになる。
「うん、ここにあるのは全部やるよ?」それがどうかした? と言わんばかりに首をひねっとる。全部やるやと……!?
「こ、これ大出くんとやったん? どっちが伊織で、どっちが大出くん?」
「どっちもやるよ? 練習やから」

どっちも!? あああああああああ! 叫び倒したい!
やって……おっぱいが! 絶対に! 大出くんの顔にあたっとるし! 大出くんのアレも、伊織の顔に当たっとる感じする! なんなら伊織のアレも、大出くんの顔の真上……うあ、ああああああ。し、し、死にそう、俺……っ。もうこれはソレやん! ヤラしい最中にする、そういう動画とかでよう見るアレやん! 俺の憧れの! あ、あかん、そんなん言うてる場合ちゃう!

「めっちゃ苦しいんよこれ。逃げられへん。わたしは逃さんようにするの得意……え、侑士? 大丈夫?」

逃げられへんってなに。そら伊織にあんなことされたら、男は逃げる気なんかなくすわ。ずっとこうしとってー! ってなるに決まってるやん。せやから寝技すごいんやろ伊織。
あっ、大出くんの「すごい」ってそういう意味か!? あのエロごつホンマ……!

「侑士……?」気づいたら、また伊織が心配そうに俺を覗き込んできとった。
「あ、か、堪忍……なんでもないんや」なんとか、笑顔をつくった。
「えーホンマ? なんかまた険しい顔しとるし。血色もようないよ? やっぱり昨日から具合、悪いんやないの?」
「いやいや、ええねん。大丈夫、ちょお歩きすぎかな……はは」ちゅうか、昨日から伊織のせいやからっ!
「あんないっつも大変な練習量こなしてるのに? 違うよきっと。具合が悪いんなら無理せんでよ? まだまだあるんやから」

伊織がまた、そっと俺の背中に触れて、トントンしはじめた。
あ……と体が反応する。昨日よりはビクつかんかったけど、俺が嫉妬でおかしくなるたびに伊織がトントンしてくれるのは、役得……せやけど複雑。嫉妬させられたないし。もう頭おかしくなりそうや(なっとるけど)。
そうこうしとるうちに、俺らは目的地についた。クラスメイト全員、死にそうな顔をしとる。金持ち連中が20キロも歩かされたんや、無理もない。死にそうなのはたぶん俺もやけど。
やがて、跡部の号令と同時に、自由時間がはじまった。

「……伊織、一緒に昼めし食べよ?」誰とも約束してへんよな?
「うん、そのつもりやったよ」

ぱあっと気分が明るくなった。その、つもりやったって!
嬉しくて、崩れ上四方固めのことが頭から吹き飛んだ。あとでぶり返すかもしれへんけど、とりあえずはええわ。

「でも侑士、大丈夫? 昨日から青くなったり赤くなったり、わたし心配やわ」
「大丈夫やって。なんか、ときどき妙な感じになるだけやから」いまはご機嫌やで!
「ホンマ? ちょっとええ?」
「ん? えっ」

伊織の手のひらが、俺の前髪をくぐって、額に触れた。
ぎゅーっと胸の奥が縮こまるような感覚が襲ってくる。昨日から、えらい触れてくるやん伊織……ああ、もう、俺をこんなにしてどうするつもりなんっ。

「んー、熱はないかなあ。侑士って体温が高いほうやしね、たぶん」
「う、うん」

まるで小学生に戻ったように、俺はこくっと頷いた。うん、とか言うてもうた。めっちゃ子どもに戻ってもうた、いま……。ああ、どうしょう……好きすぎて、どないしたらええかわからへん。なんか泣きそうやし。伊織……俺だけの伊織やってほしいねん俺。
あんなめっちゃごつい感じの男とシックスナ……いやちゃう、崩れ上四方固めとか、してほしないねん。もう柔道やめたからせんやろけど。

「伊織、さあ」
「うん?」
「変なこと聞くようなんやけど」
「えー、なになに?」

お弁当箱を開けながら、伊織がにっこりと視線を向けた。もうどうせ子どもに戻ったんやから、子どもの純真無垢さで、聞くしかない。やないといつまで経っても次の質問できへんし。
ええか忍足侑士……なにを聞いても傷ついたあかんぞ、ええな、覚悟せえ。

「これまで、彼氏とか、おらへんかったん?」

質問その2を投げた。聞くだけでめっちゃドキドキする。どんな答えが返ってくるんかと思ったらもう、気が気やなかった。
せやけどそのドキドキしたわずかな沈黙は、ものすごいモヤモヤに変化した。

「ふふっ……さあ、どうやろね?」
「え」
「なーいしょ。侑士が教えてくれたら、教えてあげんこともないけどー」

伊織が色気たっぷりに、いじわるな顔をした。そんな表情を見るんははじめてで、どこでそんな顔を覚えてきたんやろうと思う。
男? やっぱりこれまでの彼氏が教えてきたん? 伊織めっちゃモテるに決まっとるし、そんな経験あるんかなって考えたら、あたりまえっちゃあたりまえやけど……。

「そ、それやったら俺かて内緒やっ」
「あ、ずるーい。わたしが先に聞いたら答えてくれとったあ?」
「知らんよっ」
「なんか侑士、ムキんなってる? 多すぎて答えらへんのやったりして」
「そんなん、ちゃうって……」

めっちゃモヤモヤするっ。モヤモヤしまくったから乱暴に弁当を口になかに放り込んだ。せやけど伊織がぎょうさん彼氏歴あったとして、そんな伊織に俺が、「女との接触は、こないだ伊織に背中を触れられたのが、伊織と手つないだ以来やねん!」とか絶対に言えへんし。めちゃめちゃ気持ち悪いもんな?
ああでも、伊織がこれまで誰かとキスしたり、せ、せ、セック、ああ……しとったらもう、俺、たぶん泣く。
はっ……そうや、もうこの勢いで聞いてまえ。質問その3……あいつ、彼氏候補ちゃうやろなっ!?

「なあ、そういえばなんやけど」

と、俺が最後の質問にたたみ掛けるとこやった。こないだの駄菓子屋とまったく同じように、俺の背後から影がのっそりと降り掛かった。そしてその手は、やっぱり伊織の肩に置かれた。

「伊織ちゃん、奇遇だね」
「えっ! タクミさん!」

なんでこんなに声かけられるんやこの子……という思いだけで俺が振り返ったとき、その男の顔に、俺は確実に見覚えがあった。
タクミと呼ばれたその男は、どっからどう見てもあの日、伊織の家に入っていったあの綺麗な顔した男やった。

「どうしたんですか!?」
「うん、今日は友だちとサイクリング。伊織ちゃんは、学校行事?」
「はい、遠足で」

男の目が俺に向けられる。年上やってこともはっきりわかる。あと、正面からよう見たら、ホンマにめっちゃええ男で、そのようわからん芳しい色気が、俺に突き刺さってきた。
俺の頭のなかで、警報音が響きわたった。

「誰?」

無意識に、声に出してまう。こいつは、めっちゃ危険な気がする。
俺くらいの長身。爽やかな白いパーカーに紺のショートパンツ。ちょっとだけウェーブのかかった、ほどよい長さの黒髪。少しだけ垂れとる大きい目。ぼってりした唇が、色気をむんむんに出しとった。
こいつはあかん……こんなんが伊織の知り合いとか、俺もまだ入ったことのない家に入っとるとか、危険すぎる。頼むわ、親戚の兄ちゃんかなんかやってくれ。

「あ、えっと」
「こんにちは。君、こないだ会ったよね?」
「……そうでしたっけ?」

覚えとるんか、こいつも、俺のこと。それもめっちゃ、俺の嫉妬をかきたてた。
そして、俺が聞くまでもなく、その3の質問の答えが発表された。

「伊織ちゃんの家庭教師なんだ。タクミです。よろしく」

握手を求めてきた男の手は、こないだの大出くんよりも余裕をぶちかましとった。





to be continued...

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