Up to you_09


9.


なにも、やる気が起きなかった。
声をかけられても、振り返ることもうまくできん。校舎のなかで、伊織の姿をつい探してしまう自分がいる。だが、伊織が俺を避けているのか、そういう運命なのか、あの日から1週間が経とうとしているいまも、伊織の姿を目に映すことはできないままでいた。

「ちゃんと、食事は摂っているのですか?」

いつのまにか目の前に、柳生が立っていた。ぼんやりとその顔を見上げると、柳生はしかめっ面を見せて俺の前の席に座った。
なんでお前が、そんなに泣きそうな顔をしちょる? と、いつもなら笑うところだが、うまく笑えずにいた。
昼の休憩時間だというのに、賑やかなはずの教室の音は、まるで聞こえてこない。

「……食べちょるよ、ちゃんと」
「なんて状態ですか、仁王くん。そんな蚊の鳴くような声で」

ついこのあいだ、こうして柳生に叱咤されたことを思いだす。
あの日はまだ、伊織と俺は恋人だった。喧嘩はしていたが、たしかに付き合っていた。あれから仲直りをして、俺はすぐに伊織へのクリスマスプレゼントを買った。こんなことになるとは微塵も思ってなかった自分が懐かしい。
いまはもう別れているという現実を、柳生の出現だけで思い知らされた。

「なんでお前は、そんなに鋭いんかのう」
「すっかりふたりでいるところを見なくなりました。そうなってからもう5日が経っています。それに、仁王くんがどんどん憔悴していっています。わからないはずないでしょう」柳生らしくない、急いた聞き方だった。「いったい、なにがあったんです」

柳生にすべて話せば、伊織が戻ってくるやろうか。そんなわけないとすぐに答えが浮かんで、俺は自分をあざ笑った。伊織へクリスマスプレゼントをわたす勇気もなければ、伊織からもらったマフラーをつけることもできない臆病な自分に、伊織が戻ってくるはずもない。それでも、聞いてほしくなった。俺の、親友に。

「ちと、長くなるかもしれんが」
「かまいません。休憩時間はまだたっぷりありますから」

教室の隅で、周りに聞こえないように、静かに、淡々と語った。伊織との別れを思いだすだけで、喉がからみつくような窒息感を覚えた。
話しながら見える景色は、2ヶ月前よりも寂しくなっていた。黄みがかった葉がすっかり色あせて、それだけが際立った変化を見せている。まるで自分のようだと思った。ほかの風景は同じなのに、俺だけが塗り替えられている。
柳生は、「つらかったですね」とつぶやいた。俺の話を聞き終えた第一声が、それだった。

「ん……いまも、つらい」
「……吉井さんとは、それ以来?」
「会う気にもならん。俺が避けちょるし、あっちもそれくらい気づいちょるんじゃないかの」頭が回る女だ、もう俺に、合わせる顔もないんかもしれん。
「不安、なんですね? 仁王くん」
「ああ……不安だ。もう忍足とどうにかなっとるかもしれん。そしたら一生、伊織は俺のもとには戻ってこんだろうな」

声に出すと、その不安は心の奥にしまっているときよりも、体中を駆けめぐってきた。伊織は俺には会わないが、忍足とは相変わらず予備校で会っとるんだろう。
あの日のように、家まで送ってもらっている日常をくり返しているかもしれん。想像するだけで、全身からなにかが抜き取られていくように虚ろになる。
この季節のせいなのか、それとも教室のエアコンが効いてないのか、やけに寒かった。

「仁王くん、これから私が言うことは、至極非論理的です」
「……なんじゃ?」
「それでも聞いていただきたい」と、柳生は両手を組んだ。「私は、とくに忍足くんに恨みはありません。ですが、少し思うところがあります。いまの状況は、仁王くんにとっては非常に、一方的ではないですか?」
「柳生……」
「私は仁王くんの親友ですから、当然、仁王くんの幸せを願っています。忍足くんには申し訳ないですが、佐久間さんには、仁王くんを選んでほしい」

真剣な目で、柳生が熱心に語っている。だがそんな感情論を口にするような男じゃなかっただけに、俺は素直に驚いた。

「佐久間さんがいまも忍足くんと会っているなら、仁王くんとも会って然るべきだと思いますし、仁王くんが不安なら、忍足くんに会って、状況を確かめるのも手だと思うのです」佐久間さんに聞くのは、さすがに嫌でしょう? と、控えめに付け加えた。
「……えらい、お前らしくない提案だな」
「ですから、言ったではないですか。非論理的だと」しかしですね、と組まれた手に、力が込められた。「状況は、約2ヶ月前に戻っただけです。忍足くんと佐久間さんが交際をはじめていないと仮定するなら、そういうことになります。でしたら仁王くんも改めて、佐久間さんを口説く権利があります。チャンスがあるということです。それがいま忍足くんにだけある。その状態が、私は解せません」

その手が、わずかに震えていた。友情に熱い男だと、わかっていたようでわかってなかった自分が、情けない。俺はこうしていろんな人の気持ちや想いを、いつも見逃してきたんじゃないか。

「遠慮しているんです、あなたは。佐久間さんに言われたことがショックで、この状況になってしまったのも、自分のせいだと責めています」

――わたし昨日、侑士のキスを受け入れようとした!

「しかしそれは、間違った見解です。吉井さんの件がなくても、遅かれ早かれこうなっていたんです。佐久間さんは、それがわかったからこそ、仁王くんとの別れを決意したに過ぎません」

――だからちゃんと、けじめ付けなきゃって思ったの

「仁王くん、あなたはもっと、自分を取り戻すべきです。いまの仁王くんは見ていられません。死んでもいいと思えるほどの女性なら、なにがなんでも、手に入れようと奔走すべきです。それでたとえ嫌われても、死んでもいいなら、もういいじゃないですか」

――あいつのためなら俺、死ねるかもしれん

なにかに釣り上げられたように、俺は背筋を伸ばした。柳生の言葉に、まるで機能していなかった脳が、よみがえっていく。俺は自然と、笑みをこぼしていた。

「柳生」
「なにを、笑っているのですか」人が真剣に、話しているのに……と、不服な顔だ。
それでも俺は、また笑った。「やっぱりお前、論理的じゃの」
「はい?」

席を立った。驚いた柳生の顔を見て、満足する。確実に、俺は柳生に勇気づけられていた。

「仁王くん?」
「ありがとの柳生。お前は本当に、俺の大切な親友じゃ」

この男の親友である自分が、心の底から誇らしい。

伊織の教室に向かった。
柳生の言うとおりだ。俺はただ、格好をつけていただけだ。プライドが、邪魔をした。あんなふうに振られて、それでも未練を残してすがる自分が、どこか滑稽に感じたんかもしれん。
目的の教室にたどり着く前に、廊下を歩いている伊織を見かけた。伊織の目が、俺を見て止まる。慎重に歩いてくるせいで、その距離はゆっくりと縮まった。
距離が近づくにつれて、伊織はどんどん目を伏せていった。俺の横を、そのまま通り過ぎようとする。
俺は、その腕を強くつかんだ。

「……雅治」

息をのむ伊織の声が、耳に届いた。久々に聞くその愛しさに、俺の鼓動が早くなった。

「無視せんでも、ええじゃろ?」

伊織がもう一度、息をのんだ。無言のまま、ゆっくりと俺を見上げて、目を合わせてきた。

「忍足とは、まだ予備校で会っちょるんじゃろ?」
「それは……」
「いや、別に責めちょるわけじゃない。もう俺とは別れとるんじゃし、そんなのは伊織の自由だ。じゃけど……」もう、なりふりかまっとる場合じゃない。「俺のこと嫌いになったわけじゃないなら、フェアじゃないじゃろ、俺だけ避けられとるのは」

伊織の瞼が、何度も瞬きをくり返した。
震えるまつ毛も、切なげな瞳も、なにか言いだすのを我慢しているような唇も、すべてが、愛しい。この女のためなら、俺は死ねる。

「すまん、困らせただけじゃったか」
「……ごめん、そうじゃない」伊織は小さく、首を振った。まさか俺から接触してくるとは思わなかったのか、動揺が見てとれた。
「友だちに戻れんか? 俺ら」

思い切って、その言葉を口にした。

「雅治は……それで、いいの?」
「ああ。お前さえよければな」
「でもいつか、傷つけちゃうかも、しれないのに」

それは、忍足を選ぶっちゅうことか? そう聞きたいのを、俺は堪えた。

「もう十分すぎるほど傷つけちょるくせに、よう言うのう?」

俺は笑った。笑うことで、伊織が少しでも気が楽になるなら、それでいい。伊織から受ける傷は、俺の愛情の深さだ。俺はそれだけは、誰よりも自信があるんよ、伊織。それが逆に、お前を受け止める強さの糧になる。

「雅治……」
「ちゅうことで、もうこんな気まずい時間は、終わらせてくれ。決心がまだつかんなら、それまで待つ。じゃけど、せめて友情は取り戻させてくれ」

伊織は黙って頷いた。涙を必死に堪えるように、ほんの少し、微笑んだ。





その日の放課後、俺は氷帝学園に向かった。
本当になりふりかまっちょられんのだな、と、自分の行動力に多少は呆れるところもある。忍足に会ってどうしたいのかは、整理がつかんままだった。
柳生の言うように、単純に伊織とどうなっているのか聞きたい自分もいれば、また喧嘩を売ってしまいたくなる自分もたしかにいた。

「仁王じゃねえか、なにしてる?」
「ん? おお、跡部」

もう部活は引退しているはずだと思ったが、いちばんいそうなテニスコートに向かっている途中だった。聞き慣れた声に振り返ると、そこには跡部が立っていた。跡部がジャージを着ていない様子からして、やはりいないようだと理解した。

「忍足は、まだ学校におるかの?」
「アーン? 忍足ならもう帰ったはずだ」
「そうか、遅かったか」
「なんの用だよ、忍足に」

跡部のぶっきらぼうな口調はいつものことだ。だが俺はそこに、棘を感じた。俺にとっての柳生ほど、忍足と跡部が仲がいいとは思えん。それでも俺が知る限り、お互いがかなりの理解者だと中学のころから感じている。
跡部が俺のことを忍足から聞いている可能性は、十分にあるんじゃないか。

「ちと、聞きたいことがあってな」
「ほう。お前、忍足とずいぶん、ゴタついてるようじゃねえか」

当たりだ。この男は知っている。俺を見る目が、敵対していた。

「意外じゃのう跡部。お前がそんなに忍足と仲がよかったとはのう」
「当然、お前よりは仲はいいぜ?」
「ははっ。だろうな」
「だからお前は、忍足のことをなにも知らねえで吠えまくってるそうじゃねえか」

この男も友情が熱いタイプなのか。冷静に見せてはいるが、その目が俺を威嚇していた。

「お互いさまじゃろ。忍足も俺のことはなんも知らん」
「ただ一心に女にぶつかってるだけのお前なら、忍足は知ってるぜ? あいつはおめでたいところがあるせいか、お前のそのお気楽さ加減に、なんの文句もつけてねえみてえだがな」

引っかかる言い方だった。お気楽さ、という侮辱にたいしてじゃない。
忍足がおめでたい、という部分にたいして、釈然としない感情が残っていく。
だいたい、忍足は文句をつけてきている。このあいだも、その怒りをぶつけてきたばかりだ。

「……どういう意味じゃ、それ」
「ふん……俺から話すのは筋じゃねえよ」

だが、たしかにあの日の忍足にも、引っかかるところがあった。
あの男、どういうわけか俺に一瞬、怯んだ様子を見せてきた。あのとき、なにか隠していると思った。伊織から「キスを受け入れようとした」と聞いて、そのことだと思ったが……よく考えれば、それなら怯む必要もない。
なにを言ったあとだった……? 俺が、忍足に言ったことが、あの男を怯ませたんだとしたら。

「跡部、そこまで言うたなら、教えんさい。このまま黙って帰るほど、俺はお気楽じゃないんよ」

跡部は深いため息をついた。しばらく逡巡して、決心したかのように俺に向き直った。
俺は、伊織すら知らなかった忍足を、そこで知ることになった。





雅治と別れてから、2週間が過ぎていた。あと1週間もすれば、クリスマスイブがやってくる。わたしも人並みに、クリスマスイブに彼氏と過ごしてみたかったけど、どうやらそれは叶いそうもない。自分から手放したのだから、当然だ。
あんな気持ちのまま、雅治と付き合えるはずがなかった。あのままごまかして付き合っていれば、わたしは曖昧な気持ちのまま、雅治に抱かれることになっていた。心では雅治を裏切って、体では侑士を裏切って……そんな荒唐無稽な真似ができるほど、わたしは強くない。
この師走の忙しい時期に、両親は離婚を決断した。家はそのままで、子どもの親権は母親となり、ぽっかり父だけの空間が失くなった部屋を、わたしは呆然と眺めていた。

「大変やったな……伊織、大丈夫なん? なんやつらかったら、言うてな?」
「いまどき親の離婚なんてたいした話じゃないよ、侑士、おおげさー」

両親の離婚話をすると、侑士はとても心配そうに、わたしを気遣ってくれた。彼の優しさが発揮されまくる話だもんなあ、と、やけに納得した自分がおかしかった。そうやって侑士への想いに馳せる自分を、認識していた。

「そんな強がりいなや。伊織、お父さん大好きやったやん」
「ん。けど大丈夫。ときどき会うことも決まってるから」
「……さよか。でも、つらいときは言うてや? 慰めてくれるヤツはおるかもしれへんけど、俺にしかできへん慰めがあるはずや。うん、絶対ある」

侑士には、雅治と別れたことは言ってなかった。それを言わないのも、わたしなりのけじめだったように思う。
あれからの侑士も相変わらず、わたしを笑わせて、男友達として接してくれている。いまはそういう時間が、わたしには必要だと思っていた。

「お姉ちゃん、電話なってる」
「あ、ごめん、ありがと」

気がつくと、妹がうしろから声をかけてきていた。ブー、ブー、と震えているわたしのスマホを手にして、ちょこんととなりに座る。
あれから妹は、すっかりお姉ちゃんっ子になった。まだまだ寂しい心の傷が癒えないままでいる妹を、わたしはこれまで以上にかわいがった。

「におくんでしょ?」
「うん、そうだね、におくんみたい」

液晶に表示されている「仁王雅治」という文字に、妹はどういうわけかとても嬉しそうに微笑んだ。付き合っていたら聞かれたくないと思う会話も、いまだからこそ目の前でできる。
友だちに戻ってほしい、という雅治の願いを受け止めてから1週間後、彼からの電話は、はじめてだった。

「もしもし」
「おう。いま、大丈夫か?」
「うん。どうしたの?」

ごく、自然に流れていく会話。雅治の声は、いまも胸の奥で甘くうずいていく。いつだって心地よかった雅治の落ち着いた口調は、両親の離婚でわずかな傷心を残しているわたしには、すがってしまいたいほど優しかった。

「ちと、話したいことがあるんよ」
「あ、うん、いいよ」
「ん……なんじゃけど、できれば、会って話したい」

深刻そうな声でもなく、でもふざけて冗談を言っているようでもなく。ただ淡々と、雅治はそう言った。

「いいけど……これからご飯、なんだよね」
「おう、そうじゃろうな。俺の家もだ」
「あ、じゃあどうしようか? 月曜、学校で話す?」
「いや、夜にそっち行くから、近くの公園で話さんか。ちと静かなとこがええし。あんまり、人にも聞かれたくないんよ」

内容だけ聞けば、大事な話なんだろうことはわかった。友だちに戻りたいと言った雅治が「よりを戻そう」と言うはずもないのに、少しだけその予感で自惚れた自分を恥じながら、わたしは「いいよ」と返事をした。

「お姉ちゃん、におくんとデート?」
「え? 違うよ、ちょっと話があるだけ」
「ふうん。におくん、言ってたよ」

電話を切って突然しゃべりはじめた妹に、わたしは目を丸くした。というか、その口調からして、雅治としゃべったことがある事実に、かなり驚いた。

「え、会ったことあるっけ?」
「うん、前にうちに来た。お姉ちゃんいなかったけど。お父さん帰ってきた日」

それは、雅治の誕生日の前日だ……吉井さんの件があって、わたしが侑士と、雅治へのプレゼントを手に帰宅した、あの日。家に帰らずわたしが買い物に行っているあいだに、雅治はここに来ていたらしい。

「におーくん超イケメンだった」
「もう、なにその話」
「うん、お姉ちゃんのこと、幸せにするって。約束したの」
「え……」
「だから、におーくん大好き。お姉ちゃんのこと大好きなにおーくん、大好き」

愛情に飢えた無垢な妹。その妹の喜ぶ顔に、わたしは力なく笑った。

夜8時ごろ、雅治は誰もいない公園のブランコで待っていた。小さなブランコにはおよそ不釣り合いの長い足を放り出して、そこで砂をひっかきあつめて山を作っている。ブランコに座っている意味は、どこにあるのだろうか。彼らしいその姿に、わたしは思わず笑った。

「雅治、おまたせ」
「おう伊織、来たか。すまんの、夜遅くに」
「いいのいいの。あ……」

近くまで行くと、街灯に照らされた雅治の姿がよく見えた。彼は、わたしのあげたマフラーを首に巻いていた。その視線に気づいて、ふっと微笑む。

「肌触りもええし、あったかいのう、これ。ありがとの」
「あ、うん。カッコイイでしょ、それ」
「おう。俺、青が好きじゃし。結構お気に入りじゃ」
「うん、よかった」

つけてくれているという喜びが、穏やかにわたしを包んだ。こうして雅治とも侑士とも、また普通に友だちに戻って、わたしはきちんと問題に向き合えるだろうか。
いまは雅治と接しても侑士と接しても、まだ愛しさがこみ上げていく。
父は、どうだろうか……離婚によって、相手の女性だけを愛することが、できているんだろうか。

「俺もやっと、これをつけることができた」
「え……」
「ん。まあ、ちょっといろいろ考えての。俺も伊織みたいに、けじめ? みたいなもんがついた気がする」
「……そう、そっか」

わたしもブランコに腰をおろした。小さなブランコが、ギシ、と音を立てる。
それを合図にしたように、雅治は目の前で作っていた山を、足で水平に戻した。

「話っちゅうのは、忍足のことなんよ」
「侑士の、こと?」

そう、と雅治が、正面を見ながら頷く。いまの雅治から侑士の名前がでてくることに、わたしは少しだけ、身構えた。

「実はこないだ、氷帝に行った」
「……」その行動にどんな意味があったのか、聞くのは怖かった。
「忍足には会えんかったんやけどの。会うよりももっと、重要なことが聞けた」
「重要なこと……?」

しっかり聞いとってくれ、俺の話。
そう言って、雅治は侑士の親友から聞いたという話を、訥々と語りはじめた。





高校1年の秋から、俺には彼女がおった。
夏からつづいた猛アタックを受けて付き合うことになったその人は、栗色のショートカットがよく似合う、底抜けに明るい同級生やった。
氷帝のなかでも評判の美人でモテとったのに、誰に告白されても「あたし忍足くんが好きなの」と断っていた。そういう噂を自分で広めることで、遠回しに俺にアピールをしてきていた。そういう女に、俺は興味がなかった。
せやけどそんな性格で俺みたいなんを好きになったばっかりに、彼女に寄りつく男はおらんようになっとった。
考えてみれば、最初から「情」やったんかもしれん。とくに好きな子もおらんまま高校生活を過ごしとった俺にとって、根負けしたところもある。見た目もええし、性格も悪くない。付き合っていくうちに好きんなるかもしれへん。もちろん、思春期なりの下心もあった。

「侑士と付き合えるなんて、夢みたい」
「さよか。俺もなんか新鮮やわ。誰かと付き合うんはじめてやし」
「そうなの!? うわあ、初彼女だ。嬉しい」

かわいい、と素直に思った。抱きしめたときの柔らかい体も、キスするときに赤くなって伏せる瞳も、首筋からただよう女の子らしいコロンの香りも。
こういう恋愛もアリかと、最初の2ヶ月くらいは俺も楽しんどった。それが、年明けくらいから、急激に重くなっていった。たぶん、彼女を抱いてからやったと思う。彼女の満たされた欲求は、束縛と支配に変化した。

「侑士、今日も家まで送ってくれるでしょ?」
「あ、堪忍。昼間やし、駅前じゃあかんかな? 俺、このあと部活に行かなあかんねん。お前ん家まで送って戻っとったら、遅れてまうから」
「侑士……彼氏なのに送ってくれないの? あたしになにかあってもいいの?」
「いや……そら、なにかあったら困るけど、やな。でも往復で2時間はかかってまうやん。部活、あと1時間後には」
「なにもないって保証でもある? ていうか、そんなにテニスが大事?」
「そ……ああ、わかった。送るから、そない怒らんとって? な?」

そんなんしょっちゅうやった。前もって「送れん」って言うようにしたこともある。それでも納得してくれへんかった。彼女の家は俺の家から1時間はかかるとこやった。なんも予定がない日は文句なかったけど、あの日みたいに部活やら用事が入っとって、昼間やったときは、「ひとりで帰れるやろ」って責めたこともあった。

「なあ、次からそっちの家でデートしようや。それやったら時間の調整もいけるやん」
「うち、お母さんがいないときに人を家にあげるなって言われてるから、無理」
「ああ……そうなんや」
「そう。でもうちシングルマザーだから、ほとんどいないの。勝手だよね。勝手に離婚しといてさ」
「……そんな言いなや。お母さん、頑張ってはるんやろ?」
「侑士みたいないい育ちのおぼっちゃまに、あたしの気持ちはわかんないよ。見栄はって、わざわざ遠いところの氷帝に入れて、お母さんってなにしたいのか、全然わかんない」

自分が蔑まれたからやない。母親のことを平気で罵る彼女に、俺は傷ついた。当然、俺が知らん事情はたくさんあるやろう。せやけど底抜けに明るかったあの姿は、なんやったんやろうと思った。
彼女への不満は、それだけやなかった。女と話すな、毎日必ず電話しろ、どこでなにしてるか報告しろ……数え切れんくらいある。
それでも、俺はなるべく彼女を理解して、この関係をつづけていくのがあたりまえやと思っていた。それが、この女を彼女にするって決めた、俺の責任やと思っとったから。
でもそんなぐらぐらの気持ちがなんとか保てとったのも、伊織に出会うまでやった。

「あのわたし、佐久間伊織って言います。よろしくね」
「よろしく。俺、忍足侑士。仲良うしてね」

なんてことない伊織との出会い。話していくうちに、俺の癒やしになっとったのはいつからやったんか。なんてことない時間を、伊織とは山ほど過ごした。予備校でのちょっとした出来事を、いまでも思いだす。

「あ、待って侑士! 座らないで!」
「なっ、なんやっ……ええやろ座っても」
「ちょっと待ってってば……ほら、おいで?」
「え?」
「ふう。救出成功。やっと手のひらに乗ってくれた」
「ちょ、伊織、それなに……」
「蜘蛛です、蜘蛛。ちびっこちゃん」
「おま……女のくせにようそんな」
「よくないなあ侑士。こういうのは男とか女とか関係ないの。よかったね、ちびっこちゃん。侑士に重たいお尻につぶされないで。死んじゃうとこだったよ」
「お前なあ、そんなん助けとったらキリないやろ」
「それでも見つけたら助けなきゃ。この子たちだって、必死に生きてるんだから」

小さな蜘蛛ひとつの命を大事そうに眺めて、窓の外枠にそっと放した伊織の背中を、じっと見つめつづけた。そういう伊織のふとした優しさに触れるたび、俺の胸は高なった。
出会ってから1ヶ月後、いつのまにか一緒に帰るようになっとった伊織からの質問に、俺は自分でもびっくりするぐらいに舞い上がった。

「侑士は、彼女とかいないの?」
「え……」
「いや、なんかそういえば、そういう話したことないなあって」
「そういや、そうやな……え、伊織は?」
「いないんだよー。絶賛募集中」
「さよか。あー……俺も、おらん」

嘘をついた。付き合って半年になる彼女がおるのに。その瞬間、もう俺は確信したから。
薄々は気づいとった。好きになったあかん、好きになったあかん、と思えば思うほど、伊織のことを考えるようになっとった自分に。
その質問に嘘をついた時点で、俺はもう、とっくに伊織に惚れとった。
別れよう、そう思った。もうあいつに気持ちが無くなっとったことも、伊織が俺を気にしとることも、同時にはっきりわかったから。
でもそれは数日後、思ってもみん形で、俺の口をつぐませた。

「お母さんが、白血病になっちゃって……」
「そ……嘘やろ?」
「さっき、ご飯のとき、しばらく入院するからって……お母さんが……侑士っ、どうしよう」

泣きじゃくっとる彼女に、別れを告げることなんかできへんかった。彼女は間もなくして、離婚した父親の新しい家族のもとに引っ越した。肩身の狭い思いをして、学校からはさらに距離が離れた。大学進学はあきらめると言って、彼女はどんどん暗くなった。俺への束縛も強くなる一方で、「あたしには侑士しかないから」と、毎日すがるように泣かれた。
母親の闘病生活を見守る彼女は、翳りを帯びていって、俺への当たりも強くなった。

「どうして侑士は、こんなときに部活に行ったり予備校に行ったりできるの? あたしのこと、大事じゃないの? あたしには侑士しかいないのに! 侑士だけが、あたしの味方なのに!」

継母からいびられたり、父親に邪険にされたり、母親の壮絶な姿を見たり……そういうことがあった日は、必ず、俺に怒りをぶつけてきた。その姿はあまりにも、かわいそうやった。
もう、俺の知っとる彼女は、そこにはおらん。せやけどそんな彼女から手を離すことは、とてもやないけど、俺にはできへんかった。
俺は、伊織への恋心をしまいこむように努力した。何度も言い聞かせた。
好きになったらあかん、こいつには俺しかおれへんのに。
せやけどそう思えば思うほど、やっぱり伊織が好きになる。
俺の心が疲弊していくなかで、伊織は俺の癒やしやった。伊織とおるときだけは、嫌なことを全部、忘れることができた。伊織がおったから、俺は踏ん張れたようなもんやった。
それから1年後……、彼女のお母さんは亡くなった。

「……今日はずっと一緒におったるから」
「侑士……」
「堪忍。こんなことしか、俺、できへんくて」

俺は彼女を一晩中、抱きしめた。絶望に打ちひしがれとる彼女の姿が痛々しかった。あれだけ文句を言っていた母親だからこそ、彼女を襲った喪失感は、深い海の底に落ちていた。
伊織から告白されたのは、その矢先のことやった。

「侑士のこと、好き」

俺の目をまっすぐに見て。なんの汚れもない伊織の紅潮した頬が、俺の視界を歪ませた。
なんて言葉を返したらええんかわからんまま、絶句するしかなかった。熱を帯びているその目を見ていられなくて、俺は目を伏せた。

「あ、ご、ごめんっ」
「いや……なんで、伊織が謝るん」
だって……と、震える声で、伊織は言った。「……困らせてる、から」

伊織の涙に、心がかき乱されそうやった。
俺も好きやって言えたら、いますぐここで抱きしめて、お前が好きやって言えたら……それでも彼女と別れることもできん俺に、伊織と付き合う権利なんかない。好きやけど待っとってほしいなんて、そんな勝手なこと言えるわけもない。そんなんしたって、伊織を傷つけるだけなのはわかりきったことや。そう思ったら、もう、消えたくなった。

「その、伊織のことは……俺、友だちやって思とる」そうやって、言うしかなかった。
「うん……そ、だよね」
「ごめん。気持ち、めっちゃ嬉しいけど……っ」
「ううん、大丈夫」

それでも俺の気持ちは伊織にあって、それでも彼女を捨てるなんてことはできへんかって。けどやっぱり伊織との時間は、俺にとっての、唯一の癒やしやった。せやから絶対に、手放したくはなかった。振ったくせに友だちでおってほしいやなんて、めちゃくちゃ勝手なこと言うて。
伊織は俺に、「困らせてる」って言うたけど……ホンマに困らせてんのは、俺のほうやった。
けど伊織はホンマに、めっちゃ優しくて。その後も俺と普通に接してくれた。俺が前向きになれたのも、伊織のおかげやった。
俺はそんな伊織に、また惚れ直して。日が重なるごとに、伊織への想いは抑えきれんようになっとった。
一方で、彼女の喪失感は、長いあいだつづいた。俺はただ、時間がすぎるのを待った。「侑士しかいない」とくり返す彼女の悲痛な顔が、せめて微笑みをつくるまで。

「侑士、この花、かわいいよね」
「ん、せやな」
「うん、なんか、癒やされる」

彼女の母親の死から、半年が経つころやった。彼女はようやく、ほんの少しずつ、笑うようになった。
実際は俺も、伊織の気持ちを知ってからの半年……我慢の限界がきとるころやった。
よく笑顔を見せるようになった彼女を見守って1ヶ月後に、俺は、彼女に別れを告げた。

「俺、ほかに好きな人ができた。ごめんな……」
「……知ってた」
「え……?」
「侑士もう、疲れたよね。あたしも疲れた。侑士、ずっとあたしのこと、抱いてもくれないし。キスもしなくなった。だから、知ってた。侑士って、そういう人だもん。嘘が下手なくせに、優しいから、ずっと傍にいてくれたんでしょ。わかってる」
「……堪忍、ホンマに」

――うまくいくといいね、その人と。

それが、別れの言葉やった。俺と彼女の2年間が終わった日。俺が伊織に、告白した日。
最初から、決めとった。節操ないってわかっとる。せやけど、別れたらすぐにでも、伊織に想いを伝えたかった。

その翌日、俺は仁王に、打ちのめされた。





話し終えた雅治が、ゆっくりと立ち上がる。
ブランコがわずかに揺れて、錆びた音だけが風に乗った。
どのくらいわたしは、沈黙していただろう。途中、口を挟むこともできないほどの衝撃に、ただ胸が震えていく現実に、視界がぼやけていく。

「伊織」
「……そんな」
「わかったじゃろう? お前と忍足は、最初から想い合っちょった」

雅治が、そっとハンカチをわたしの膝に置いた。涙が流れていることに、そのときようやく気づいた。

「俺の入る隙なんか、本当はなかったんやの。それがどういうわけか、いろんなタイミングが重なって、こうなった」

告白するまで、わたしはたしかに自惚れていた。侑士もわたしのこと、想ってくれてるんじゃないかと思っていた。だけど振られて、そこからはまったく思いもしなかった。だから雅治と付き合うことになったとき、雅治の胸に飛び込んでいけたんだから。

「どうして、雅治、このこと……」

雅治からすれば、この真実はわたしに聞かせたくないはずだ。
なのにわざわざ電話をして呼び出してまで、雅治はわたしに伝えてきた。腑に落ちなかった。あんなに侑士との関係に嫉妬していた雅治が、わたしと侑士に背中を押すような行動を取っている。それが……雅治の言っていた、けじめ?

「悩んだんよ、俺も」
「……雅治」
「これ聞いたの1週間前じゃし。じゃからまるまる1週間、ずっと悩んどった」

覚えちょる? と雅治は首を傾げた。

「俺、お前と忍足が会っとるの見て、キレたことがあったじゃろ。あのとき、忍足とは徹底的にやりあうって決めたんよ。それは、いまも変わっとらん。じゃから、フェアじゃないとかお前に言うて、こうやって強引に友だちに戻らせた」
「でも、雅治……」この現実は、あなたにはつらいでしょう?
「だからこそ、このことを知りながら、黙っちょく気にはなれんかった」

言葉が出てこなかった。雅治の誠実さに、また、涙が流れていく。

「それこそフェアじゃない。ちゅうか、忍足と俺は、最初からフェアじゃなかったんよ。忍足が不利じゃった。俺は、あいつにハンデをもらっとったようなもんだ」

あの男のそういうところが、また余計にムカつくけどのう。
そう言いながら、雅治は笑った。ポケットに入れていた手を出して、両手に息を吹きかける。
夜の風が、ひゅるりと音を立てながらとおりすぎていった。

「でも雅治、わたし……こんなこと聞いて、冷静でいられないよ?」
「だろうな。俺も冷静じゃおれんかった。伊織はもっと、そうじゃろうと思う」
「それなら、なんで……」
「伊織、俺のう」

言葉を区切って、雅治がわたしを見つめた。

「お前に聞かせるわけでもないのに、柳生に言ったことがある。お前のためなら、死ねるかもしれんって」
「え……」
「傑作じゃろう。恥ずかしいにもほどがある。でも伊織と付き合えることになった翌日で、俺もかなり、舞い上がっとったらしい。ただ、嘘じゃない。その想いはいまも、変わらん」
「雅治……」
「それで、気づいたんよ」と、少し目を伏せた。「死んでもいいと思うくらい好きな女なら、いっそのこと、死ぬほど傷ついてもかまわん。それだけだ」

よう考えて、決めたらいい。そう言って、雅治は去っていった。
わたしはブランコにうずくまりながら、膝に落ちていく涙を見つめた。
心優しい人たちに甘えるだけの女にふさわしい、冷えた夜だった。





to be continue...

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