Up to you_10


10.


忍足のことを伊織に伝えてから、1週間が過ぎた。
今日は、クリスマスイブだ。
学校自体はすでに、冬期休暇に突入していた。そのあとは1ヶ月もしないうちに、俺らの学年は自由登校になる。無理やり用事でもつくったりせん限り、伊織に会えなくなることを考えると、胸が切なく痛んだ。
つい先月には、今日という日に伊織と結ばれようと約束したことが苦く思いだされた。それを苦いと思う自分が、未練がましくて嫌になる。まあ、それもいまさらか。
バッグに忍ばせてきた伊織へのプレゼントをそっと確かめて、ふうっと呼吸を吐いた。
わかっていたことだが、伊織のこととなると、俺は堪え性がない。
伊織だって別れを告げる直前に俺にマフラーをわたしてきたわけだから、俺が今日、「前から買っていたから、どうしてもわたしたかった」と言えば、おあいこだ。
だが……それにしては、やりすぎか? そう考えても、買ったもんは仕方ないし。

「なにを悩んでいるのですか、仁王くん」
「っと! びっくりさせなさんな」

バッグをしつこく覗きこんでいた俺に、柳生が背後から声をかけてきて、俺の肩が大げさに動いた。わざとじゃろ、お前。と、言いたくなる。が、柳生はからかうでもなく、怪訝な表情をして、俺をじっと見てきた。

「あなたが勝手に驚いているだけで、私はさっきからここにいましたよ」
「気配を消しなさんなって言うちょるんじゃ、俺は」
「消してなどいませんよ……失敬な」

ぶつぶつと言いながら、柳生はご丁寧にサンタの帽子をかぶっていた。別に義務になっているわけじゃないサンタ帽だが、参加者全員に配られていたから、せっかくだと思ってかぶっているんだろう。似合わんわけじゃないが、笑いそうになった。

「少し、落ち着いてきたようですね」
「おう、そうやの」

まるで海原祭のように賑わう会場を見渡しながら、俺は頷いた。
本来ならこの会場で、吉井と盛り立て役とかいう、よくわからない役目をせんといかんところだったが、彼女はいつのまにか代役を立てて、ことを進めていた。
その報告も俺には一切ないままだが、それはそれで、吉井なりのけじめなんかもしれん。
ぼんやりとそんなことを思っていると、柳生が困った顔をして、そうではありません、と言いだした。

「なにがじゃ?」
「落ち着いてきたというのは、仁王くんのことを言っているのですよ、私は」
「俺?」
「はい。2週間前よりも……少しだけですが」

眉を八の字にしている柳生の優しさに、しんみりしそうになる。

「そうか。……だとしたら、お前のおかげじゃ」
「いえ、私はなにも」

柳生には世話になったからこそ、その後のことも打ちあけていた。
実は忍足は最初から伊織が好きだったこと。俺は最初から、蚊帳の外だったこと。俺も伊織も知らなかった事実だから仕方がないとはいえ、俺にとっては、かなり惨めな事実だった。
その惨めをさらにいたぶるかのように、すべてを伊織に話したこと。
あの日と同じく、柳生は「つらかったですね」とつぶやいた。
そのあと、二人で久々にテニスをした。なにも言わんでもわかりあえる存在が、俺にはありがたかった。

「ところで、教室にはいらっしゃいませんでしたよ」
「ん?」
「それ、その中身……なにかは聞きませんが、佐久間さんにあげたいのでしょう?」
「お前……」

やっぱり見られちょったか、と思ってげんなりする。
こいつ、気配は消してないと言いながら、しっかり消して様子を伺っていたんだと思うと、感謝はあるとはいえ、いささか腹が立ってきた。

「改めて、想いを伝えるのですか?」いちいち口に出さんでほしい。が、あれだけ世話になった柳生に、この件に関しては強く出れない。
「まあ……しばらく、会えんようになるからの」
「いいと思いますよ。今日だからこそ、という理由も頷けます」
「誰もそんなこと、言うちょらんじゃろ」
「言わずともわかります。私もお見かけしたら、仁王くんに連絡するようにします」
「……頼んじょらん」
「素直じゃないですねえ」

軽く手をあげて、柳生は去っていった。俺がこれから伊織を探すことがわかったからだろう。他校の生徒だけじゃなく、中等部や大学生まで参加している立海のクリスマスパーティーは、人でごった返していた。探すのもひと苦労する。
連絡をすれば済むことだが、昨日メッセージを送ってみたものの、それは既読にならないどころか、電話もつながらなかった。
クリスマスパーティーは伊織も楽しみにしていたはずだ。だが強制参加じゃないぶん、ひょっとしたら来ていない可能性もある。そのときは、家に寄ろうと決めていた。
……こんな想いを伝えたところで、どうにもならないのは、わかっていた。それでも伊織があの日、俺に告げた言葉が、いちばんしっくりくる。

――どうしても、今日、これをあげたかったんだ

どうしても、もう一度。結ばれようと約束した日だからこそ、伝えたい。
どれだけお前がほかの男のことで頭がいっぱいになっていようと、俺は、お前が好きだ。3年前から、ずっとそうだった。それが、もとに戻っただけだ。
好きだ、伊織……。たぶんこれからも、お前を好きなままだ、俺は、ずっと……。

だがその日、遅くまで待っても、伊織は学校には現れなかった。
望みをかけて帰りに寄った家には、電気がひとつもついていなかった。
俺のクリスマスイブが、最愛の伊織に会えないまま、終わっていこうとしていた。





立海ではクリスマスパーティーが行われているはずだった。だけど今日は、わたしは立海には行かないと決めていた。本当は楽しみにしていたし、高校最後の思い出にもなると思っていたのだけど、今日はほかに、行くところがあると決心したからだ。
1週間前に、雅治が勇気をだして伝えてきてくれた真実について、雅治が「まるまる1週間、ずっと悩んどった」と言っていたように、わたしもそこから1週間、本当に、まるまる考えさせられることになった。
家族に話しかけられても、ずっとぼうっとしていたように思う。雅治とは廊下ですれ違っても軽い挨拶をする程度で、一方の予備校には、顔も出さなかった。あれから、スマホもずっと放置している。
余計な情報を入れない状態で、自分の頭のなかをまっさらにして、きちんと向き合いたかったからだ。1週間、テレビも見ずに、音楽も聞かずに、静かな部屋のなかで、まるで瞑想修行にでも出たように。わたしはひたすら、この3年間のことを考えつづけた。
そして、決断した。
実際はあの夜にひとしきり泣いて、翌日にはぼんやりと答えが出ていたように思う。この1週間のほとんどは、それを確かめる期間だった。
雅治が伝えてくれた真実が、この2ヶ月ずっと曖昧に揺れ動いていたわたしの気持ちを、ようやくはっきりとさせてくれた。
傲慢だと思う。自分ではっきりさせなきゃいけなかったのに、最後まで、わたしは雅治と侑士に頼りっぱなしだ。そんな自分が、当然、醜いとも思う。
いろんなことを考えながら電車に乗って、クリスマスで混雑する都心の人ごみをかき分けながら歩いているうちに、目的の場所に到着していた。
氷帝学園だ。はじめて、この場所に来た。
侑士はこの学校に通っているんだなと当然のことを考えつつ、学生たちの制服姿を見て、不思議と懐かしくなった。氷帝の制服は、侑士にとてもよく馴染んでいたから。
今日は氷帝もクリスマスパーティーの真っ最中だということは、ずいぶん前から学生たちのSNSを見て、知っていた。
今日が侑士に会う、今年最後のチャンスだった。
受験シーズンに本格的に突入した予備校を、付属校生であるわたしは、1月には辞めることになっていた。そしてほとんどの学校がすでに冬期休暇に入り、新学期からは間もなくして自由登校に入る。
なにより、すべてを知ったあとで、いろんなことをうやむやにしたまま年を越すのが嫌だった、というのもある。
閉会間近の時間を選んだのは、気持ちの整理をつけるためでもあったし、人が極力少ないほうがいいと思った。それでもまだ人はまばらにいたけれど、わたしは校舎に足を踏み入れてから、侑士に電話をかけた。

「もしもし? 伊織?」
「侑士? いま、どこにいる?」
「どこって……学校やけど。どないかしたん?」
「よかった。学校にいるんだね。……わたしね、侑士の学校、来てるんだ、いま」
「えっ」

ほどなくして、侑士が慌てるように正門に向かってくるのが見えた。氷帝の大きな入口はここしかないから、わかったんだろう。すぐ近くにあるテニスコートから、侑士は駆け出してきていた。

「はあ……な、伊織……どうしたんや?」
「あ……なんかごめん、驚かせちゃって」
「いやいや、ええんよ。ちゅうかお前、ここんとこ連絡もつながらへんし、予備校にも来うへんし、心配しとったんやで、俺」
「そう……そうだよね、ごめん。スマホ、放置してたから」
「そうなん? はあ……なんで女の子って、急にそんなことするん」

嫌んなるわ、と、悪態をつきながらも、会場を行き交う人たちの肩がぶつかりそうになるのを、侑士はそっと避けるように守ってくれた。
さりげない優しさが、侑士らしい。

「場所、変えよか? ここちょっと人通り多いで」

こっち、と言いながら、木陰に案内してくれた。
歩いているあいだに、空が暗くなってきたせいか、学園中のライトがつぎつぎと点灯していった。
その目を奪われるようなクリスマス仕様に、うっかり大きな声をあげそうになる。

「うわあ……すっごい綺麗だね。さすがお金持ち」
「ん。毎年すごいお祭り騒ぎや。ま、全部、跡部の金やけどな」と、呆れたように笑う。
「あははっ。そうなんだ。でも……いい人だよね、跡部って」
「へ? 伊織、跡部のこと知ってんの?」

漏れでた言葉に、侑士が目を丸くした。
本当は噂でしか知らない人だし、会ったこともないけれど……雅治の話を聞いていたら、いい人なんだろうということは、なんとなくわかった。
侑士のことを、大切に思っている。だからこそ、彼は雅治に真実を伝えたんだろう。

「ん、間接的に……まあ、跡部の名前は、みんな知ってるよ」

わたしのごまかしに、まあ、せやんな、と侑士は笑った。
優しい笑みだなと、いつも思う。いつだってこの人の笑顔が好きで、好きで、たまらなかった。

「そんで今日は、どないしたん? 俺に用があるんやろ?」
「うん」

わたしは大きく頷いた。

「ものすごく遅くなっちゃったけど、返事、しに来た」
「え……返事って……」

察したのか、侑士の瞳が揺れて、その顔が、真剣になった。
大きな背と、大きな肩。こんなふうにまっすぐ侑士と向き合ったのは、わたしが告白した以来のような気がする。わたしと侑士はいつも、どこかゆらゆらとした流れのなかに身を任せていた。いまだからなのか、そんな気がした。

「侑士とは、付き合えない」

きっぱりと、そう告げた。
言った瞬間、涙が出てきた。ああ、最後までずるいなと思いながらも、これがわたしの感情なんだから、しょうがないと開き直る自分もいる。
でもこの涙は、恋心からくる未練じゃない。思い出がありすぎる人との、別れの涙だ。

「……伊織」
「ごめんね、侑士」
「それは……これまでのと違う返事? もう、完全にあかんってこと? 仁王がおるから?」

侑士の目も、じわじわと潤んでいた。
クリスマスカラーのライトに照らされて、その目の奥が、きらきらと光っている。
そんな侑士を直視するのは、とてもつらかった。だけど、わたしは絶対に、ここから目を逸らしちゃいけないんだ。

「ううん。雅治とはね、ホントはもう、ちょっと前に、別れてたんだ」
「え……」その目が、大きく見開かれた。それなのに? という疑問が、そのまま投げかけられているようで、わたしはすぐに、つづけた。
「うん。それでも、侑士とは付き合えない」

もう一度、きっぱりと言った。
沈黙が、苦しかった。校舎から、クリスマスソングがずっと流れている。
そろそろパーティーもお開きなのか、どこか切なさをただよわせるメロディだった。

「伊織……なんで? いまさらやったから? 俺に、愛想が尽きた?」

懇願めいた口調に、あなたはなにも悪くないと、言ってあげたくなる。
わたしがいけなかった。今日までのことは全部、わたしの、自分勝手でどっちつかずの気持ちのせいだから。

「侑士が好きだったのは、本当だよ。わたしが告白したあのとき、もし侑士が受け止めてくれていたら、きっとわたしたち、いまも一緒にいたと思う」

こんなことを言うのは、残酷だってわかってる。でも言わないと、きっと伝わらない。

「いまや、あかんの? 俺、伊織のこと、いまも」
「でも、そうじゃないよね?」
「え……?」
「実際は、そうじゃなかった。流れていった時間は、戻せないよ、侑士」

戸惑う侑士の視線に、胸が張り裂けそうになる。

「あのとき侑士はわたしを振って、わたしは振られた。そのあとわたしは雅治と付きあいはじめて、わたしは侑士を振った」
「……でもいま、仁王とは」
「お互い、相手がいたんだよ、侑士」

そう伝えると、侑士は、口をつぐんだ。困惑したその目から、一筋の涙が流れていく。
侑士の涙に手を差し伸べることが、わたしにはできない。
こらえきれなくなって、わたしも、また涙を落とした。
その沈黙をやぶったのは、侑士だった。

「知っとったん……なんで?」
「……雅治がね、教えてくれたの。侑士がずっと抱えてた問題のこと、教えてくれた。そのあいだ、ずっと侑士が、わたしのことを想ってくれてたことも。全部、全部、教えてくれた」
「なんで……あいつが」

侑士は、静かに目を伏せた。雅治がどうやって知ったのかもわからないまま、それをわたしに伝えた事実に、また、戸惑いを見せていた。

「ねえ、侑士。どうにもならないって気持ちって、たしかにあると思う。わたしそれを実感してた……この、2ヶ月間。実際、雅治も好きで、侑士も好きだった。だけどね……だけどもしも運命なんてものがあるんだとしたら、それは侑士とじゃないんだと思う」

伏せていた目を、侑士がゆっくりとあげていく。
黙ったまま、わたしたちは見つめ合った。わたしは、なんとか笑おうとした。

「だって、あまりにも最初から、わたしたちを引き裂こうとしてるよね、神様って」

――俺の入る隙なんか、本当はなかったんやの。それがどういうわけか、いろんなタイミングが重なって、こうなった

雅治が言ったことが、頭のなかでくり返された。
そう……どういうわけか、いろんなタイミングが重なって、わたしと侑士は、想いを重ねることができなかった。

「わたしと侑士は、結果的に、お互い違う人の傍にいることを選んでる」
「……」侑士の目から、ぽろ、と涙が落ちていく。
「それがわたしたちの答えだったんだよ。最初から、そうだった」

雅治の入る隙が、「本当はなかった」わけじゃない。
そのタイミングこそ、出会いで、偶然で、必然だったんだ。
そういったものを、人は「運命」と呼ぶ。
わたしはそのタイミングで、雅治の気持ちを知った。そのタイミングで、雅治を好きになって、愛した。
すべての人と人とのつながりは、そういった奇跡の連続で……その奇跡こそが、本当の愛なんじゃないかって。

「……かも、な」

侑士が、はっと白い息を吐いた。
長い、長い沈黙のあと、彼はまた、あの優しい微笑みで、わたしの目を、しっかりと見つめてきた。

「ん……せやな。ホンマ、そう思う」

自分に、言い聞かせるように。侑士は、何度も頷いていた。
お互いがボロボロと泣きながら、静かに笑いあった。無理して、二人で笑った。
侑士とのこんな時間が、わたしは大好きだった。侑士もそんな時間を、大切にしてくれていたんだと思うと、嬉しくてたまらない。
全部、覚えてる。全部、忘れない。
はじめて会ったとき、戸惑うわたしに声をかけてくれた、優しい侑士。いつだって、笑わせてくれた。泣いていたら、慰めてくれた。わたしの気持ちを、いちばんに考えて。
ずっとずっと、あなたが好きだった。でももう、過ぎた時間は、戻せない。
ここで、切り上げよう。きっと、侑士にも伝わったから。

「ありがとうね侑士。会えてよかった。侑士を好きになったこと、わたし、誇りに思う。そんな優しい侑士が、わたしを好きでいてくれたことも、誇りに思う。……男を見る目、あるじゃーんって」
「ははっ……。アホ……そんなん、俺かて一緒や」

お互いが手の甲で涙を拭いながら、笑いあう。
ちゃんと、いつものわたしたちの空気に戻そうと、お互いが努力していた。
それじゃ、そろそろ行くね、と声をかけると、侑士は黙って、こくりと頷いた。
背中を向けると、空から、ちらほらと雪が降ってきた。
これだって、なんてタイミングなんだろうと、また涙があふれそうになる。

「せや、ひとつ聞かせてくれ、伊織」
「え、なに?」

雪を見あげて立ち止まったわたしに、侑士が声をかけてきた。
体の半分だけで振り返ると、侑士はすっかり、涙を拭き取っていた。
まだ少し、目が赤いけど……。

「仁王、お前のこと笑わせてくれる?」
「え……?」
「俺以上におもろいこと、言えるんやろかあいつ。無理やろなあ、いっつも気取っとるからなあ」

思わず笑ってしまった。ああ、この人って、本当に最後まで、優しい。

「……こんなことなら、キスのひとつくらい、しとくんやったわ」

本気とも冗談ともつかない、いつもの侑士の言葉に、もう、揺さぶられない自分がいる。

「また、バカなこと言って……」
「もうちょいやったのに。惜しいことしたわあ」
「ふふ。けどわたしも、キスしたかったよ、あのとき」
「あ、お前な、そういうこと言うか、普通!」けったいなやっちゃな! と、自分から振っておいて怒っている。
「でもね、侑士」

わたしの涙も、しっかりと乾いていた。まだ、目は赤くなっているかもしれないけど。

「もっと、キスしたい人がいるの。侑士にもきっと現れるよ、わたしみたいに。それまで、我慢して」

優しい笑みのまま頷いてくれた侑士に、今度こそ、わたしは背中を向けた。

「さよなら、伊織」

侑士のかすれた声が、聞こえた気がする。それでもわたしは、振り向かなかった。
静かに降り落ちる雪が、わたしの肌の涙に埋もれて、溶けていった。





夜8時を過ぎた。
エアコンをガンガンに効かせた自室で、俺は伊織にわたすはずだったクリスマスプレゼントを開けて、中身を手のひらに乗せていた。
今日じゃないと、意味がないと思っていた。俺と伊織の、ペアリング。わたしたところで受け取ってもらえたかは、わからんけど。
だが付きあっていたときに買ったものだから、それくらいお前を想っていると、その気持ちが伝わればいいと、思っただけだった。
ふたりでこれをつけて抱きあえば、最高の夜になると思っていた過去の自分と、完全に失恋しているこの状況に、もう笑うしかなくなってくる。
まさか自分が、こんなものを買うほど人を好きになるとは思ってもいなかった。が、もう振られたも同然なら、捨てるべきなんだろう。
それでも決心がつかんまま、じっとそれを眺めていると、突然、部屋のドアがノックも無しに開け放たれて、俺は慌ててそれをパンツのポケットにしまい込んだ。

「あれー? 雅治いるんだ。じゃ鍵は閉めなくていいのか」

姉ちゃんだった。やけに着飾っていて、テンションが高い。
どう考えても、これからデートなんだろう。甘い香りがこっちにまでただよってきた。

「人の部屋に入るときは、ノックをしんしゃい」
「なに慌ててんのあんた? ヤラしいことでもしてたの?」

ごく冷静に振り返ったつもりじゃったっちゅうのに、なんでこの女には慌てていたと気づかれるのか。
なんでも見透かすその能力が、いまだに不思議でならん。

「そういう場合もあるかもしれんから、しろって言うちょるのに」
「バカだよねあんたってホントに。てか、彼女とデートじゃないの?」
「……ほっちょけ」
「うわー、振られた?」
「ほっちょけって言うちょるんじゃけど?」
「あたし、いまからデート!」
「言われんでもわかる、早う行けばええじゃろう、なんの用じゃ」
「すっごいイライラしてる。マジで振られんだ……」

しつこい姉ちゃんに頭にきて、俺は黙って扉に向かった。「うわ、キレてる」とまったく怯えもせん様子でずけずけと言い放つ。
さらに頭にきて乱暴に扉を閉めようとすると、今度は弟が顔を覗かせてきた。こいつもまた、こないだ買ったばかりの服を身にまとって、爽やかな香りをさせていた。

「あー兄ちゃん、オレ、いまからデート」どいつも、こいつも……。
「……お前ら、二人とも消えろ」
「え……姉ちゃんなに? なんで兄ちゃんキレてんの?」

こそこそと、女に振られたらしいだの、男の生理かな? だの、くだらん会話が目の前でくり広げられる。
そろそろ限界だった。

「お前ら、殺されたいんか、俺に」
「うへえ、機嫌わるー」と、弟が舌をだす。
「ね、父さんと母さんから連絡あってもごまかしといてよ雅治。あんたそういうの得意でしょ?」

うちの両親は、忘年会シーズンはいつも翌日の昼に帰ってくる。
だが、それでもときどき家の固定電話に、監視のように電話を入れてくることがあった。
じゃから最初から、俺がこの家で伊織と過ごそうと決めちょったっちゅうのに……。思い出して、またムカムカとしてきた。

「オレもね兄ちゃん。たぶん、帰らないからさ。親が明日帰ってきたら、遊びに行ったことにしといて」
「お前のう、未成年がええ加減に……」
「自分が振られたからってケチくさいこと言うなよな。じゃ、行ってくる!」
「あ、駅まで一緒に行こ! じゃ、あたしも帰らないから、雅治! ひとりんなっても泣くなよ!」

今度こそ乱暴に、派手に音をたてて扉を閉めた。そんなことで、あの姉弟がビビるはずもないが。ったく、誰が泣くか。
うんざりして、俺はテレビをつけた。今日は特番も多い。うまく笑える気もせんかったが、適当にバラエティ番組を選択した。それを眺めても、結局は笑えなかった。
ぼんやりと、窓の外を眺めた。夕方ごろから降り出した雪が、まだちらほらと舞っている。
このくらいの静かな雪じゃ積もりはしないだろうが、こんな綺麗なクリスマスイブを、やっぱり伊織と過ごしたかったと思うと、胸がしめつけられた。
そのときだった。
スマホが着信を知らせてきた。見ると、伊織からの電話で、俺は跳ね上がるほどに驚いた。

「伊織っ?」
「あ……雅治、ごめん、なんか急いでた?」
「あ……いや、急いじょらん、大丈夫だ」

勢い余って出たせいで、前のめりに声をあげた自分が、恥ずかしくなった。
心臓がバクバクと音を立てる。今日、伊織から連絡があったことに、舞い上がっている自分がいた。
たまたま、用があっただけかもしれんのに……自惚れもほどほどにせんと、また自分を傷つける。

「どうしたんじゃ? なんか、あったか?」
「ううん。とくに、用はなかったんだけど……ごめんね、用もないのに」
「ええんよそんなの。気にせんでいい」用もなくかけてきてくれたことに、また期待をしてしまう。
「その……ほら今日、約束してたから。だから、なんていうか」

伊織から告げられる言葉が、どんどん俺のなかで肥大していく。
今日だからこそ……俺に電話をかけてくれたのか。体中の熱が、一気にあがってきた。
一方で、ためらいがちなその声と、寒そうに鼻をすする音に、違和感がした。

「伊織、外におるんか?」
「あ、うん」

その電話の奥のほうから、バイクの音が聞こえた。それと同時に、俺の部屋の窓からも、バイクが通りすぎていく音がした。
俺の両耳に、まるで右から左へ通りすぎていくように。
すでに高鳴っていた鼓動がさらに強くなって、俺は急いで窓際に立って、外を見た。

「伊織……っ」

伊織が、雪のなか、俺の部屋を見あげていた。その目が、しっかりと合う。

「あ、気づいてくれた」

ハンガーにかけてあったコートをもぎ取って、俺は急いで階段を駆け下りた。





ちょっぴり恥ずかしくて、おどけてみせるしかなかった。
付き合ったその日に雅治がしてくれたことを、わたしは真似るようにして、雅治に電話をかけた。
あのとき雅治が言った言葉と、同じ気持ちだったからだ。

――どうしても、伊織に会いたかったんよ……許して

わたしも、どうしても雅治に会いたくなった。本当はもう少し心を落ち着けてから、会いにこようと思っていた。
そのときには、1週間悩んで決断したわたしの想いを、雅治に受け止めてほしかった。……だけどもう、待てなかった。最後まで、勝手すぎるけれど。
12月24日の夜は想像以上に寒くて、凍えてしまいそうだった……それでも雅治がわたしを見つけてくれたことに、やっぱりわたしと雅治は通じあっているんだと思うと嬉しくて、雅治の姿を見た瞬間に、泣いてしまった。

「傘もささんで、なにしちょる!」

そう言いながら駆け寄ってきた雅治は、わたしの涙に気づくと、強く抱きしめてくれた。
あたたかくて、柔らかい。ああ、わたしの居場所は、やっぱりここなんだ。
久々に感じる、雅治の匂い。わたしをいつも見守って、ずっと大切に想ってくれていた、大好きな雅治のぬくもりが、こんなに、愛しい。

「雅治だって、傘さしてないのに……怒られた」
「そんなことに頭が回らんかった。伊織……来て、くれたんか」

回された手に、ぎゅっと、力がこめられた。
ゆっくりと背中に手を回すと、雅治の背中が、少しだけ震えていた。
どうしてこんな人を、ひとりにしてしまったんだろう。ずっとわたしを待ちつづけてくれていた、最愛の人なのに。

「別れようって、自分から言っておいて、もうこんなことして、ごめんね雅治」
「来てくれただけでいい……正直、俺も、もう限界じゃった」
「雅治……ちょっと痩せた?」触れる背中が、少しだけ骨ばっている。
「誰のせいじゃと思っちょる……っ」

わたしの頭を胸に押し当てたまま、雅治は動かなかった。何度も、わたしを確かめるように体をなでて、抱きしめる力が、強くなる。
そのたびに、愛しさがこみあげていった。こんなに大好きな人を苦しめてしまった自分が、憎らしい。
でもわたしにはその時間が、必要だったんだと思う。こうして、誰がいちばん大切か、愛しい人なのか、きちんと理解するために。

「雅治……そのままでいいから、聞いてくれる?」
「……ん」
「侑士に、ちゃんと伝えてきたの、今日」

雅治が、ようやく抱きしめる手の力をゆるめて、目を合わせてきた。
少しだけ困惑した表情のまま、わたしの頬に、手があてられる。切ない瞳に、息が詰まりそうだった。
雅治はまだ、怖がってる。だから早く、伝えたかった。

「わたし、侑士とは付き合えないって、言ってきた」
「……忍足に?」切ない瞳が、少しだけ開かれる。
「雅治が、教えてくれたでしょ、侑士のこと。わたし、それで雅治のこと、もっと好きになった」
「伊織……」
「最初は、冷静じゃいられなかったんだけど……でもわたしもしっかり、考えたの。どれだけ考えても、やっぱり雅治が好き。わたし、あのときの雅治の言葉、ずっと、忘れられなくて」

――死んでもいいと思うくらい好きな女なら、いっそのこと、死ぬほど傷ついてもかまわん。

「すごく嬉しかった。それで、思ったの。わたしも、そう思うって」
「え……?」

本当に、思った。わたしも雅治のためなら、死ねる。
それほどわたしを愛してくれている人に、ずっと愛されたいと思った。そう思うことこそが、同じだけ愛してるんだってことに、気づかされた。そんなことに気づくのに、2ヶ月もかけた自分が、情けない。

「雅治のためなら、死ねるよ、わたし」
「伊織……本気で、言うちょる?」
「嘘だと、思う?」

それには答えないまま、雅治がわたしの頬をなでる。
ぐっと頭を引き寄せられて、熱い唇が、わたしの唇に重なった。
何度も重ねてきた唇だけど、これまでとは違う意味をもって、溶けあっていく。

「……好きだ、伊織」
「嬉しい……ごめんね、いっぱい傷つけて」
「俺も傷つけた……じゃから、おあいこじゃろ?」

何度も重なる唇に、涙が伝っていく。もうわたしは、絶対にこの人を手放したりしない。
これほどまでの愛を、ずっと届けていてくれたのに、わたしは平気で、彼を傷つけてしまった。
もうあなただけだと、わたしは何度も、心のなかで誓った。

「伊織、泣きすぎじゃ……」

少しだけ唇を離して、雅治はやっと微笑んだ。
わたしが泣きすぎているから、笑うしかないと思ったのかもしれない。
頬を包んでいた手の親指で、優しく涙を拭ってくれた。

「だって……わたしすごい勝手なのに、雅治、受けとめてくれるから」
「あたりまえじゃろ……まだわからんのか? 俺がどれほど、お前のことが好きか」
「わたしも、好きだよ雅治……大好き」

雅治が、頬をなでて、またキスを落としてきた。
わたしも同じように、雅治の頬を両手で包んだ。
離れていた時間を取り戻すような長くて甘いキスが何度も交わされて、わたしも次第に、笑顔になった。

「伊織……」
「うん?」
「ちょうどよかった。わたしたいもんがあるんよ」

そう言うと、雅治がポケットのなかをまさぐって、なにかを取りだしてきた。
目の前に、握りこぶしを掲げられる。首をかしげると、ふっと雅治が笑った。

「ここに、キスして」
「え?」
「ええから、早うして」

よくわからないまま、わたしは唇を近づけて、そのこぶしにチュッと音を立ててキスをした。
雅治がその手をゆっくりと開く。なかから出てきたふたつの指輪に、わたしは口を開けたまま固まった。

「……よい、なんとか言いんさい」

ぽつ、ぽつ、と降る雪が、ふたつの重なる指輪の上に落ちていく。
手のひらの熱で水になった雪が、シルバーに埋め込まれた小さなブルーの石を、涙のように見せていた。

「これ、ペアリング、だよね?」
「そうじゃ」
「雅治……これ、いつ……」
「クリスマスプレゼント。前から用意しちょったんよ。どうしても今日わたしたかったから、伊織のこと学校でずっと待っちょったんじゃけどの」
「あ……」
「学校には来んし、スマホには連絡がつかんし、家にいっても真っ暗じゃし」

はあ、と、わざとらしくため息をついて、雅治がいじわるに笑う。
氷帝学園に行ったあげく、わたしの気持ちの整理をつけるためにスマホを放置していたとは、いまはちょっぴり、言いにくい。
そして今日、母と妹は映画を見たあとに二人で食事に出ているはずだった。
なんだか、彼氏にとてつもなく悪いことをしてしまった気分になる。いや、してたのか、実際……。

「てっきり、もう完全に振られたと思って、ラッピングを解いてしもうてのう」

雅治の指が、ピンクシルバーの指輪を、手にとった。
わたしの左手を持ち上げて、そっと薬指にとおされる。

「俺を選んでくれて、ありがとの、伊織」
「ごめん、いつも……」

手の震えが、止まらない。
薬指の輝きが、せっかく笑顔になったわたしの視界を、また歪ませていく。
こんな愛情、これまで一度だって、受けたことがない。

「お前には振り回されてばっかりじゃ。それでも、好きでしょうがない」
「ごめんね……もう、振り回さないって、誓うから」

わたしはお返しのように、雅治の手のひらに残されたシルバーの指輪を、手にとった。
そのまま手のひらをひっくり返すように触れると、雅治の手が、少しだけぎゅっとわたしの手を握る。

「振り回されてもええよ、伊織なら」
「そんな……あんまり甘やかしちゃ、ダメだよ。おかげでつけあがっちゃったんだから」
「ははっ。ちゅうても伊織が相手じゃと、俺、たぶん甘やかすんよ。懲りてないんかのう?」
「ふふっ。それはそれで、なんか嬉しい」

そっと薬指につけてあげると、その手をそのままつかまれて、引き寄せられた。
優しいキスが、頭に、こめかみに、頬に、瞼に、鼻先にと落ちて、最後は唇に、しっとりと降り注がれた。
真冬の空の下だというのに、体が、どんどん熱くなっていく。

「のう、伊織」
「ん?」
「今日、ずっと一緒におりたい」

唇が触れあったままされたその告白に、ドキン、と心臓が跳ねた。
もちろん、その約束を忘れたわけじゃなかったけど……。ちょっとロマンチックな復縁を望んでいただけのわたしとしては、予定していなかったことでもある。
考えが、甘すぎただろうか……でも、帰宅しないままここに来てしまったから、着替えもなにも、持ってきていない……。

「そ……もう、夜も遅いよ?」
「遅いからええんじゃろ、なにを言うちょる」

さっきまでの、切ない目をした雅治は、すっかり消えていた。
まただ。また、いつも突然に現れる、熱をもった目が、鋭くわたしを見つめている。
スイッチを、入れてしまったらしい……。

「俺に抱かれてくれるっちゅう約束は? それが、伊織からのクリスマスプレゼントじゃろ?」
「え、あいや、そんなつもりはなかったよ!?」
「ほう? じゃあ、ほかになにか用意でもしてくれちょるんか?」
「いや、それは……」してない。なにも。「でもほら、約束したときよりいろいろ、予定も狂っちゃったし」
「狂わせたのお前じゃろ?」
「う」

そうなん、ですけど……。
間髪入れずにポンポンと言葉を返してくる雅治に、わたしは圧倒されていた。
わたしだって雅治とは、そうなりたいって思うけど……ちょっと、怖いし。

「今日は家には誰もおらんし、誰も帰ってこん。雪に打たれて体も冷えたし、風呂でも入って、ゆっくりせんか?」

大丈夫、覗いたりせんから。と、ニヤリと笑って、雅治はわたしの手を引いた。
ドキドキと高鳴っている胸が、全然、落ち着かない。まだ、心の準備もできてない。
だけど、こんなにうっとりする夜だからこそ、雅治はこの日に決めたんだったと、わたしは思い出していた。

「……雅治」
「ん?」

振り返った雅治の目がうまく見れないまま、わたしは顔を俯かせて、言った。

「……優しく、してくれる?」

少し待ったものの、返事が戻ってこないので、そっと雅治を見る。
雅治はわずかに身を引くようにして、なぜか斜め右上を見ながらふーっと呼吸を吐いていた。

「雅治……?」
「……ちと、それは反則じゃき」

顔が、赤くなっているような気がした。
あの、雅治が……。さっきまであんなにがっついておいて、こっちが反則だと言いたくなる。
おかげでわたしの熱も、容赦なくあがっていった。

「あの……よろしく、お願いしま……ひゃあ!」

丁寧にお辞儀をしたわたしに、雅治が思い切り抱きついてきた。

「好きすぎる、伊織……もう、今日は俺のもんになって」
「……うん。わたしも、好き」

小さくうなずくと、ぎゅっと手が握りしめられて、もう一度、キスが落ちてきた。

戻ってきた居場所なのに、わたしたちふたりの時間は、今日からはじまったような気がしていた。
抱きあって、微笑みあって、助けあって、愛しあって。
そうしてふたりだけの時間を、しっかりと築いていこう。
わたしたちの出会いも、これまでの関係性も、起こった出来事も、いろんな遠回りをしたけれど、だからこそわかったことだって、きっとある。
あなたを傷つけて、あなたに守られて、あなたに救われた。
それは、ここにはいない彼も、一緒だ……。
すべては必然だったのだと、いつか誰もに祝福される、ふたりになろう。

そのすべてのために……わたしはもう、二度とこの手を離さない。
ふたりが紡いでいく未来は、きっと、輝いているはずだから。





fin.



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