XOXO_08


8.


ジュリエンヌ、は千切りにすること。ラペ、は食材をすりおろすこと。コンカッセ、は粗みじん切りのこと。ココット、はハンバーグの付けあわせでよく見る、フットボールのような形をした、あの切り方のこと。このココットが難しくて、いつもヘンテコになってしまう。
それがわかっている不二さんは、いつもじっとわたしの手元を見つめて、いよいよ形を整えるぞ、と包丁を入れたところで声をかけてくる。

「伊織さん、それは僕が変わろうかな」
「う……だ、ダメですか?」
「ふふ。うん、全然ダメ」

ガーン。
不二さんはいつもとても優しい人だけど、やっぱり現場では厳しかった。『アン・ファミーユ』でホール係をしているときはまったく気づけなかった本気モードを、この1週間で目の当たりにして、わたしのなかの不二さんの印象はガラッと変わった。

「いい? この真っ直ぐに入っている切り目のところから、丸みをつくってカットしていくんだ」
「はい……」すでに7回目くらいの説明なのだけど、まったくできない。
「こうしてずらしていけば、必ず丸くなっていないところがあるでしょう? そこを見つけて、湾曲に、こう……ね?」不二さんが持つピーリングナイフがロボットのように規則的に動く。しかも、早い。
「すごい……あの、頭では、わかっているんですけど」
「そうだよね。調理師学校に通っている学生でも、これに泣かされている人は結構多いんだ。だから、大丈夫だよ」

おこがましくもわたしが調理補助を立候補したものの、こんなことではいけないと思ってフレンチ用語だけは必死に覚えたけど、技術は短期間では追いつかない。最高級の料理なんて、何年もかけてものにする技術なのだからあたりまえなのだけど、こんな不器用で、よく職人を名乗っているなと、自分でもなかなか恥ずかしい。

「それにしても不二さんは、怪我してるのに、よくそんなにうまく切れますよね」
「まあ、ほとんどもう治ってるようなものだからね。だから僕、調理補助は必要ないって言ったでしょう?」
「そう、ですけど……でも洗い場とかはまだ、必要ですよねっ?」と、強気に出る自分が虚しい。
「うん。だから伊織さんが来てくれて、助かってるよ。ありがとう」

だけど不二さんは優しく笑ってくれる。
独りよがりな押し付けだったんだなということは、この1週間でよくわかっていた。てっきり不二さんの力になれると思っていたのに、どう考えてもわたしは足手まといだ。手が濡れるとすぐに傷を保護しているパッドが取れてしまうから、そういった作業だけはわたしが積極的にやっているけれど、たぶんそんなの、不二さんはひとりでもなんとでもするだろうレベルのことだった。

「うん、今日もバッチリだね。毎日ありがとう、伊織さん」
「いえ、なんというか逆に……お手数をかけてしまっている気がします。すみません」
「ねえ、最近、どうしたの? あんなに張り切ってたじゃない」
「いまだって張り切っているつもりです。でも気持ちだけじゃ、技術には追いつけません。わたし、ずっと職人でやってきたので、うまくいかないのが歯がゆいんです」

申し訳なさでまともに不二さんの目を見ることができずに俯くと、ふんわりとした優しいぬくもりが頭の上に落ちてきた。不二さんが、手のひらを乗せてきている。
あたたかさに思わず反応して顔をあげると、不二さんはにっこりと微笑んでいた。

「伊織さんには、感謝してるよ? 僕」
「不二さん……」
「だからこうして、お弁当つくっちゃうんだから。はい、今日のぶん」
「う……もういいって、言ったじゃないですか」
「僕の気が済まないんだから、好きにさせて?」

お弁当箱を差し出される。わたしが意地でもお金を受け取らないからなのか、不二さんは初日から、わたしにお弁当をつくってくれていた。
「朝食のあまりものだから気にしないで」と言っていたけど、そんなレベルのものじゃないおかずばかりで、余計に申し訳なくなっているわたしの気持ちには、不二さんは鈍感なフリをしている。
これなら、お金を受け取っちゃったほうがいいのかな、と少し思う。でもお金となると、このお弁当よりは高くついちゃうだろうし。

「ねえ伊織さん」
「え、はい」
「喜んでくれなきゃ、僕、悲しくなっちゃうんだけどな」本当に悲しそうな顔をして、不二さんはわたしを覗き込んだ。
「よ、喜んでますよ! 毎日すごく美味しくて、どうしようかって思うくらいで」
「本当?」

つまり最近のわたしは、「いったい、なにをしにここに来ているんだ」と迷走中だ。なのに来てしまう。三ツ星シェフにお料理を教えてもらえて、お弁当までつくってもらえて、しかも「感謝してる」なんて優しくされて、不二さん、いつも笑って見送ってくれるから。
ああ、なんて利己的な人間なんだろうわたし。嫌になる。

「ほん、本当です! 本当にいつも幸せです」
「そっか……うん、僕も幸せ」
「え、不二さんも?」
「あ、ほら時間。今日もお仕事、頑張ってきてね」
「あ、はいっ! あの、不二さんもお気をつけて! あ、千夏さんにもよろしく!」
「うん、いってらっしゃい」

時計を見ると7時半だったので、慌てて不二さんのマンションをあとにした。
お互いが幸せだと言い合って、頑張ってね、気をつけてねと声をかけあって、いってらっしゃいと見送られる。この新婚さんみたいな状況が……「幸せ」だって、思ってる気がする。その困惑は、この数日ずっとつづいていた。





ほかの職人たちには見られたくない。
1週間前から、わたしのランチはあの廃れた公園のベンチだった。3週間前に不二さんとふたりで話して、不二さんのお弁当を口にした、あの公園。
そっとお弁当箱を開くと、小さい手まりのような色とりどりのおにぎりが3つ、菜の花のおひたし、しいたけの肉詰め、アスパラとパプリカのマリネ、そして、卵焼きが入っていた。不二さんがつくるお弁当は、日本食でもうっとりするほど美しい。見るたびに顔を覆ってニヤけてしまう。なんだかんだいっても、このお弁当は嬉しくてたまらなかった。

「佐久間」
「えっ!?」

突然、うしろから声をかけらて跳ね上がるほど驚いた。香椎くんが、逆にぎょっとした顔をしてわたしを見ていた。

「なに、そんな驚いてんだよ、お前」
「あ、ごめん、びっくりして……」

慌ててお弁当を隠すように自分の横に置く。これは、香椎くんに見られるわけにはいかなかった。わたしは不二さんの調理補助をしているということを、香椎くんには内緒にしている。いや香椎くんだけじゃなくて、みんなに内緒にしているけど、誰にバレても香椎くんにだけはバレたくなかった。

「最近、佐久間ずっとここで食べてるよな。たまには俺とも一緒に食べようぜ」と、となりに腰をおろしてきた。「え、なんで弁当、隠してんの」その鋭さに、ギクッとする。
「いや、なんか、お弁当見られるの恥ずかしいっていうか、なんていうか……」そそっと、距離を取ってみた。
「えー、いいじゃん見せろよー」
「いや、でもあのっ」
「うわっ……すっげえ、佐久間って料理うまいんだ?」

カピン、と固まってしまう。あっさり見られてしまったこともそうだけど、どちらかというと、香椎くんの発言に固まった。
わたしが、料理がうまいわけがない。でも不二さんに作ってもらったとは言えない。だって変な誤解されたくないしっ。

「さ……最近、勉強中なんだよね、はは」嘘は、ついてないよね。
「へー、いやめっちゃ上手にできてる。なにこれ? 超うまそう」
「あ、アスパラとパプリカのマリネだと思う」
「だと思う?」
「あいや、あのー、マリネです、たぶん」
「たぶん?」
「うんあの、適当だから、なんて名前つけるのが適切なのか、ちょっと……」なんて名前かなんて、聞いているわけもないし。
「へえ? そういうもん? ちょっともらっていい?」
「えっ」
「俺のからあげ、1個やるから」

と、香椎くんはコンビニでよく売っているからあげを、わたしのお弁当箱の蓋に1つ置いた。そして、「あ」と口を開けている。
こ、これは……食べさせろということなのか。わたしがこれから口をつけるこのお箸で!?
手が震えそうになるのを懸命に抑えながら、わたしはマリネをとって香椎くんの口に放り込んだ。ああ、どうか……バレませんように!

「ん……うわ、めっちゃうま。なにこれ」
「だ、だよねー? このソースがなんか、ネットのレシピにあって、それがまあ美味しくて、それで、癖になっちゃってるんだ」ついに、嘘がなんのためらいもなく飛び出していった。もう、罪悪感もなかった。
「へえ! 今度教えてよ、このレシピ」
「え……」
「あとで送っといて。URL。俺も作ってみたいからさ」

頭を抱えずにいられなかった。レシピ教えてと言えば不二さんは教えてくれるだろうけど、そのへんに売ってる材料で作れるものなのかもわからない。しかも、URLは存在しない。
とにかく忘れたフリをして、なんとか乗り切ろうと心に誓いつつお弁当をいただく。その美味しさに、歓喜で顔がふにゃふにゃになりそうなのを必死でこらえた。自分で作ったお弁当に感動しすぎていたら、変なヤツになるからだ。

「ところでさ、佐久間。ちょっと話があって」
「うん? どうかした?」

ガラスの技術系の話だろうと思って、なんの疑いもなく聞いたものの、香椎くんの口から飛び出した言葉は、思いもよらないものだった。

「今週の日曜、不二さんのお店に行かない?」

飲みかけていたお茶を、吹き出しそうになる。香椎くんから不二さんの名前が出てきたことにも、わたしを誘ってきたことにも、ダブルでつんのめりそうになった。

「な……な、んで」
「不二さん、キッチンカーをオープンしたんだろ? たぶん値段も手頃になってるよな?」
「それは、そうだけ……そうだろうと、思うけど」危ないとこだった。メニューや値段もそれなりに把握しているから、断定するところだった。「あ、でも不二さんのところ、日曜はお休みだよ?」

不二さんは、「日曜日を店休日にすることにしたんだ」と言っていた。毎朝の仕込みにやってくるわたしのお休みに合わせてくれているのではと思い、「悪いです」と返してみたものの、「オフィス街だからちょうどいいんだよ。夜も人は少ないから。だから、伊織さんのためじゃないよ」と笑っていたけど……。思い出して、胸がじんわりとあたたかくなる。
このところ、不二さんはわたしを甘やかしすぎだと思う。でも、それが心地よくなっちゃっている自分がいた。お手伝いしてるのはわたしのほうなのに、不二さんに癒やされている自分が情けなかった。

「そうなんだ? よく知ってるな?」

現実に引き戻されて、はっとした。そういえば別れた彼氏の職場に誘う香椎くんも香椎くんだけど、別れた彼氏の情報をこんなに知っているわたしも、ちょっとおかしくないだろうか。
せっかくいろんなつじつまを合わせてきているのに、頭痛がしてきそうだ。やっぱり最初から、わたしに嘘は向いていない。

「じゃあ、土曜は? 夜もやってるだろ? 仕事帰りに」
「あの、香椎くん」
「うん?」
「なんでその、不二さんのとこ……わ、わたし気まずいじゃん?」嘘の上塗りをするしかなかった。
「え、気まずくなんかないだろー。こないだだって、ここでふたりで話してたじゃん」

不二さんが店をたたむと打ち明けてきた、3週間前のあの日のことだ。そんな前のことを言い出す香椎くんの言葉に、少しだけからかいにも似た嫌味のようなものを感じた。

「それは……そうなんだけど、さ」
「別れてたって仲いいじゃん、不二さんと佐久間」
「いや、仲いいってわけじゃ……」そもそも付き合ってません。もう何回目なの、この心の叫び。
「ていうか、だからあえて、なんだけど」
「へ?」
「……だから、佐久間と行きたいんだよ、不二さんの店」

ドックン、と心臓が動いた。
不二さんとわたしが、別れてるのにまだ仲がいいから、あえて一緒に行きたいってこと?
それは、香椎くんとわたしが二人でいるところを、不二さんに見せたいってこと?
聞きたいことが頭のなかには浮かんで消える。声に出して質問することは、勇気がなくてできなかった。
香椎くんは、まっすぐ正面を向いている。なんともないような顔をして、おにぎりを頬張っている。でもその視線が、わざとわたしを見ないようにしている気がした。不二さんのお店に行った日の帰り、家まで送ってくれたときにも思ったけど……もしかしてこれって、「いい感じ」なのかな……。

「あ、でも、姉ちゃんと義兄さんも、一緒に、なんだけど。いい?」

と、ようやくわたしに顔を向けた。目が合ってまたドキッとしてしまったせいか、一瞬、なにを言われているのかわからずに「え?」と聞き返してしまった。

「こないだの義兄さん。ほら、ヤクザ捕まえてくれた」
「あ、ああ。うん。え?」一緒に? なんで?
「あのとき義兄さんさ、厨房とかも見て、すっげえ美味そうだなって思ったらしくって。キッチンカーやるらしいって話したら、人生で一度でいいからあんないいもの食ってみたいってきかなくってさ。あの店で出てたようなものは出ないと思うって言ったんだけど、それでもいいから連れて行けってうるさいんだよ」

あの店で出てたほどの素材は使っていなくても、味はまったく衰えてないよ、と言いそうになるところだった。
また、不二さんの料理が、ひとりの人の心をつかんだのだ。わたしは、それがとても嬉しかった。
それまで頭のなかにあったモヤモヤしたものが、一瞬で吹き飛んでしまうほどに。

「そうなんだ! あ、じゃあぜひ行こうよ! 案内するよわたし!」

舞い上がった気持ちを抑えられずにそう言うと、香椎くんは、じっとわたしを見つめた。そのおかしな間に、「へ?」と、また問い返すと、香椎くんは複雑な笑みを浮かべた。

「うん、じゃあ決まりな」
「あ、うん!」

デート、というわけではなさそうだと、妙な気分になっている自分がいる。デートだったら嬉しいけど、不二さんの店というのは変な感じになる。前はそんなこと思わなかったのに、なににうしろめたさを感じているのか、よくわからない。
これがもし、場所も違う二人きりのデートだったら、わたしは喜んでいただろうか。それがわからなくて、妙な気分だった。香椎くんからデートに誘ってくるなんて、夢にまで見た瞬間なんだけど。

「じゃ、俺、そろそろ行くわ」
「あ、うん。わたしはもう少し、ゆっくりするね」
「おう」

本当に用件はそれだけだったんだろう。香椎くんはビニール袋にゴミを入れながら立ち上がった。
その足が、2歩進んだところで、ピタ、と止まる。不思議に思ってその背中を眺めていると、香椎くんはそっとわたしに振り返って言った。

「でも、デートだから」
「え……」
「デートに誘ったつもりだから、俺」

作業着のポケットに手を突っ込んで、真面目な顔をして、わたしを見た。息が、止まりそうになる。デートに誘った……それは、わたしのことが、気になっているってことだよね?

「……香椎く」
「今回のは姉ちゃんたちも来るから、ダブルデートみたいになるけど。次は二人きりのデート、誘うつもりだから」

ザッザッという足音が、やけに早く過ぎていく。香椎くんはそう言って、去っていった。
胸にわきあがってくる高揚感は、たしかにあった。当然だ。ずっと好きな人だった。学生時代からずっと、わたしの目は、香椎くんだけを見つめていた。この歳になるまで、慰めでほかの人とも付き合ったけど。香椎くんに再会した瞬間に、また恋をした。
それなのに……胸の奥が、これまでとは違う痛みを伴っていることに、わたしは困惑するしかなかった。





わたしは、どうしちゃったんだろうか。
頭が爆発してもおかしくないほどのことを香椎くんから言われたのに、変に切なくなっている。これどういう状況!? と相談したくても、高卒から職人をやっているわたしに、そんなことを相談できる女友達は、ひとりもいなかった。
だからってこんなこと、不二さんにも相談できないし。恋のアドバイザーに相談できないのは、なんでだろう。不二さんに言えば、あっさりと「いい感じだね、その調子だよ」とか言われそうなのを予感して、そんな想像にモヤモヤしていた。
わかんない、わかんないと思いながら、わたしはわかんないままに土曜日を迎えた。
仕事を終えて、自宅に帰って支度する。今朝、不二さんに会ったときに、すでにお店に行くことは伝えてあった。

「あの警察の人? そうなんだ。僕の料理、気に入ってもらえるといいなあ」
「気に入ってもらえるに決まってるじゃないですか! 不二さんの料理は世界一です!」
「ふふ。伊織さんがそう言ってくれるから、僕は強くなれるよ。ありがとう」

柔らかい不二さんの笑顔を見ていると、わたしも一緒に嬉しくなる。本当に綺麗な顔で、本当に綺麗に微笑む人だと気づいたのは、最近のことだ。
会ったときは、もっと顔が強張っていた。あの状況下だったのだから、仕方ないかもしれないけど。このところの不二さんは憑き物がとれたように穏やかで、明るくなっていた。

駅前で待ち合わせて、香椎くんのお姉さん夫妻に会った。お義兄さんは相変わらずの超強面で、電車に乗っても街を歩いても、数人がぎょっとした顔で彼を見る。そのたびにお義兄さんは困ったような照れ笑いを浮かべて、髪の毛が1本も見えないスキンヘッドを整えるように撫でていた。とても、チャーミングな人だった。

「おおー、結構でかいトラックなんだなあ」
「ホントだあ。すごい、人も賑わってるねー!」

お姉さん夫婦が嬉しそうに先頭を切って歩いていた。近くからピアノの伴奏に乗せた美しい歌声が聴こえてきて、土曜の夜の街をロマンティックに演出している。不二さんがこの場所でやると決めたことに、ものすごい納得感があった。

「やあ、いらっしゃい香椎さん、伊織さん」
「こんばんは、お久しぶりです不二さん。すごい人気ですね!」香椎くんが気さくに話しかける。不二さんはいつもの笑顔を崩さずに言った。
「いまちょうど、落ち着いたところです。先日は、すみませんでした」
「そんな! 不二さんが悪いんじゃないですよ!」
「でも、せっかくのデートが台無しになってしまいました。僕の責任でもあります」と、頭をさげたあと、不二さんは香椎くんの後ろに立つお姉さん夫妻にも頭を下げた。「このあいだは、お世話になりました」
お義兄さんが、また自分の頭を撫でた。「不二さん、うちにとっちゃアレが仕事です。しょっぴかせてもらって、こう言っては不謹慎ですが、感謝している部分もあります」
「ちょっと、本当に不謹慎!」と、お姉さんがすばやくツッコんでいる。

場が和んで、少しの談笑をしたあと、不二さんはテーブルに案内してくれた。リザーブサインをテーブルの上から取り上げて、「少しお時間をいただくので、よかったら周辺を歩いていてもいいですよ」とコックコートの襟を正した。

「千夏ちゃん、お願いね」
「はい!」不二さんから言われて、元気に返事をする千夏さんは相変わらずだ。
久々の再会に、わたしは遠慮がちに声をかけた。「千夏さんこんばんは」
「こんばんは伊織さん。お仕事帰りなんですか? いつもよりも綺麗にしてらっしゃるけど」

ずっとそうだけど、千夏さんはわたしにちょっぴりツンケンしている。千夏さんは誰がどう見ても不二さんのことが好きだから、その不二さんの元カノ、ということになっているわたしには冷たい。わかっていても、もう勘弁してほしいと、目が線のようになってしまう。

「わざわざシェフのお店に来るなんて、伊織さんも人が悪いですよね」
「え?」
「シェフの気持ち、わかってるくせに」千夏さんは、ぼそっとわたしだけに聞こえるように言った。
「は、はい?」

ぷいっと、背中を向けてトラックに戻ってしまわれた。シェフの気持ちって、なに。わたしの質問には答えてくれなかった千夏さんの言いぶんに、またモヤモヤとしてしまう。
このところ、ずっとモヤモヤとしているのに、またモヤモヤを増やされてしまって、首を傾げるしかなくなった。
そうしてお料理を待っているあいだのことだった。お義兄さんがゆっくりと席を立つ。なにかに気づいたように、ピアノの演奏者に向かっていった。お義兄さん、あんなふうに見えて音楽が好きなんだろうか、と思う。それとも、あの歌声に魅了されたんだろうか。たしかに素晴らしい歌唱力なのは、素人が聴いてもすぐにわかるほどだった。

「わたしも近くで聴いてこようかな」千夏さんにいびられるのも、嫌だし。
「そう? じゃ俺らはここで待ってるよ。誰もいなくなるのもなんだし」
「そうしよ一成。先に飲んじゃお」
「だなー!」

仲のいい姉弟に笑いながら、わたしはお義兄さんのあとを追いかけた。ちょうどそこで、演奏が終わってしまった。「ああ、残念」と声を漏らすと、わたしに気づいたお義兄さんが「いや、ちょうどよかった」とつぶやいて、演奏者の女性に近づいていった。
ぎょっとする。声をかけるつもりだろうか。

「すみません、お姉さん」
「はい?」

突然、背中から声をかけられた演奏者の女性が振り返る。とても美しい人で、思わず息を飲んだ。女優さんかと見間違えたほどだ。あの声にその顔で、しかもあの歌唱力なんて、天は二物を平気で与えることがあると思い知らされる。

「私のこと、覚えておいでですか?」
「……え」

お義兄さんの言葉には、その女性だけでなくわたしも固まった。まるでナンパの口ぶりに、奥さん、そこにいるんですけど!? と言いたくなる。でもまさか、こんないきなり警察官がナンパはしないだろうとその様子を見守っていると、女性はじーっとお義兄さんを見た。

「あなたのお父さんの、担当をした……」
「あっ……あのときの警察の方!?」
「そうです、お久しぶりです」
「いえ、逆にわたしを覚えてくださっていたんですか? それにびっくりしちゃった!」
「ははっ。あー、警察は、そういうのが得意ですから」

どうやら、お義兄さんの仕事でお世話になった、過去の関係者だとわかった。こんな美人だから、ヤクザに絡まれてもおかしくはない、とやけに納得してしまう。ところでわたしは、ここに居てもいいのだろうか。

「あ、すみません、わたし、席を外したほうがいいですよね?」お義兄さんと彼女、二人に視線を向けて言うと、
「ああ、いいんですよ」と、彼女は微笑んだ。笑顔も抜群に美しい。本当に女優さんみたいだった。「もうずいぶん昔のことですから、気にしないでください」

若干の気まずい思いをしながら、わたしはその話を聞いていた。こういうミーハーな気持ちはあまりよくないけど、この美人な彼女の過去になにがあったのか、少し知りたくなってしまったせいだった。
話を聞いていると、どうやら彼女の父親が職場で亡くなってしまったらしい。お義兄さんは当時、組織対策班ではなく、別部署でその死亡現場を確認したということだった。

「その節は、失礼をしました」
「いえ、お気遣いいただいたことは、わたしも母もわかっていましたから。でも、結果的によかったと思っています。やっぱり父の体を切られるのは、抵抗があったので」
「しつこくして、すみません……」
「いえ、違うんです。あの直後に、うちに父の職場での状況を知らせに来た人がいたんです。それまではわたしも母も迷ってたんですけどね。でもその人の話で、父は過労だったんだって、わかりましたから。それでお医者さんもそうだろうって、納得されたので」
「籠沢建設の人間が、状況を知らせに来た……?」

『籠沢建設』は有名な建設会社だ。彼女の父親はそこで働いていたということだった。お義兄さんが首をひねっているあいだに、わたしは勝手に頭のなかで彼女の身に起きたことを想像した。
身内が突然に亡くなるというのは、どういう気持ちだろう。経験がないことをいくら想像しても、その計り知れない悲しみには追いつけない。語弊がある言い方になりそうだとは思いつつ、だから彼女はこんなに美しくて、あんなにうまく声で表現できるのかもしれないと、心のなかで思った、そのときだった。

「のせ……のじま、じゃなくて……。のきた、……ああいや、のせ、じま、だったかな」
「え?」

ぼんやりと聞いていた話の途中で、思わず、声が漏れ出てしまった。お義兄さんが、「その人の名前、覚えてますか?」と聞いたあとの、彼女の返事に。
いま、「野瀬島」と言わなかっただろうか。

「うん、野瀬島、だ。そんな名前だった気がします。めずらしい名字だなって思ったんです。ただ名刺とかもらわなかったので、口頭でしかわからないんですけど」
「野瀬島……ですか。ふむ。お父さんの同僚だと、言っていたんですね」
「ええ、作業着だったので、そうなんだろうなと」

ビリビリと、全身に電流が走ったような感覚だった。
なんでここで、「野瀬島」の名前が出てくるんだ。

「あの、すみません!」
「えっ、はい?」
「この、この人じゃないですか!?」

わたしは不躾にもスマホを取りだして、野瀬島の顔写真を検索し、それを彼女に見せた。
彼女はわたしの手元を覗き込んでじっとそれを見ている。首をひねって考えている彼女から発する言葉を、ジリジリと待った。そのあいだ、お義兄さんもスマホを覗き込んでいた。

「有名なの? この人」と、お義兄さんが聞いてくる。
「一部界隈では、有名です。ときどき、テレビにも出ているそうです」最近はレストラン経営に忙しいようだけど。憎たらしい。
「うーん、すみません、顔をあんまり覚えてないんです。本当に一度きりくらいだったので。でも……たしかにこんな感じ、だったような。もう少し細かった気がしますけど」

確証が得れない。それでもわたしは、得体の知れない気味悪さを感じていた。
おかしなことが起こる場所に、野瀬島の名前が出てくる。
あの男はいったい何者なんだと、わたしの全身が、訴えかけてきていた。





「伊織さん? あの、今日はお休み……」
「すみません不二さん、お休みの日に。どうしても話したいことがあって。だけど昨日は話せなかったから」
「そう。いいよ、入っておいで」

不二さんはマンションのロックを解除して、わたしを部屋に入れてくれた。
あのあとのわたしは、ぎこちない笑顔で食事をとる、ただそれだけしかできなかった。機械的な動きをくり返し、ただお腹を満たして、頭のなかは「野瀬島」のことでいっぱいだった。不二さんの、絶品の料理だったというのに、だ。
曖昧なことを香椎くんのお義兄さんに伝えるわけにもいかない。香椎くんに言えば、きっとそれはそのままお義兄さんにも伝わる。だからこの話は、わかってくれそうな人にしかできないと思っていた。

「昨日、香椎くんのお義兄さんがピアノを弾いていた女性に話しかけたんです」
「ああ……あの人」眉をあげて、不二さんはうんうんと頷いた。その表情に、わたしは少し驚いた。
「あの、もしかして不二さん、知ってる方ですか?」
「うん、友だちの……知り合いっていうのかな」ちょっと複雑そうなんだ、と苦笑いしている。「その人が、どうかしたの?」

淹れてくれた紅茶を差し出してから、不二さんは首を傾げた。
わたしは、昨晩に聞いた話の一部始終を伝えた。
過去に、彼女の父親が突然死を遂げたこと。当時その現場を担当したのが、香椎くんのお義兄さんだったこと。お義兄さんだけが現場判断にしっくりこずに解剖の希望を出してみてはどうかと遺族に相談したこと。遺族は悩んだが、そこに「ひどい職場環境だった」と言いに来た、父親の同僚と名乗る男が来たこと。
そしてその男の名前が、「野瀬島」だったと彼女が記憶していること。
すべてを話し終えたあと、不二さんは黙ってカップに口をつけた。喉が、ゆっくりと動いている。逡巡しているようだった。

「解剖って、希望がないとしないものなのかな?」
「調べたんですけど、不審な点がなければしないそうです。その判断は警察に委ねられています。あと行政解剖というのがあって、それは死因が特定できない場合にするそうですが、監察医がいないとできないそうです。でも監察医は、東京23区などの限られたエリアにしかいない。現場は23区外でした。だから、お義兄さんは遺族に希望を出すこともできると言ったらしいんです」

――だけど希望だとお金もかかるので。わたしと母だけでは、生活が苦しくなるのは目に見えてたから。警察の方も、事件性はないだろうっておっしゃってたし。

あの女性は、そんなふうに言っていた。お義兄さんは当時、いわゆる下っ端だったらしく、まったく取り合ってもらえなかったらしい。だから遺族に、こっそりと解剖の希望について話したということだった。

「それで、野瀬島の顔写真を見せた反応は?」
「はっきりしませんでした。あとで聞いたんですけど、10年前のスポーツクラブ建設中のことだったらしいです。10年前の野瀬島は、まだ料理批評家としても動きはじめていませんから、そこで働いていた可能性があります」
「うん……でも全国に、『野瀬島』さんって何人いるのかな」
「ネットで調べてみたんですけど、ひっかかりませんでした。そんなめずらしい名前の人が、妙な場所に何人も出てくるとは思えません」
「伊織さん、もうそこまで調べたの?」

不二さんが顎を引いた。だってこれが、冷静でいれるだろうか。わたしには嫌な予感しかしていない。あの男は暴力団とも絶対につながっている。わたしのなかで、もうそれは確信に近いものだった。
あの美人な女性の父親とのあいだにだって、過去になにかあったのかもしれない。

「不二さんは、おかしいと思いませんか?」
「ん……少し、気持ちが悪いとは思う。実は彼、このあいだ僕の店に来たんだ。偶然って感じだったけど」
「え、そうなんですか?」
「うん。近くの治療院から出てきて、僕の前にその領収書を落としたんだよね。その宛名が」

『アスピア商事』だった、と不二さんは言った。
アスピア商事は、誰もが名前を知っている、超大手の商社だ。

「実はさっき言った、あの女性の知り合いの、僕の友だちが、そこで働いているんだ」
「えーっと、はい、あの女性の、知り合いで、不二さんのお友だちですね」
「うん、ふふ。ごめん、複雑だね。彼は跡部という男なんだけど、アスピア商事で執行役員をしていて、最近になって会社から野瀬島のバックアップをするように頼まれているらしいんだ。あ、ごめん、これは言ってはいけないことかもしれないから、ここだけで留めてくれる?」

もちろんです、とわたしは頷いて、つづけた。止まらなかった。

「でも治療院の領収書をアスピア商事の宛名でもらうって、変じゃないですか? だって取引先になるんですよね? バックアップということなら、野瀬島の会社のほうが、なんていうか、下請けのような形に」
「うん、そうだよね。だから僕も、ちょっとそれがずっと引っかかってて。そこに、伊織さんからそんな報告が来たものだから……」

うーん、と、わたしと不二さんはお互いに頭をひねった。
確実に、なにかあの男が怪しいということだけは、わたしも不二さんも同意見だ。怪しいなんて、こんなことがわかる前から感じていたことではあるのだけど。

「まいったな……跡部からは止められているんだけど」
「なにが、ですか?」
「うん……もう野瀬島には、手を出すなってね」だけどなあ……と不二さんはぼんやりとつぶやくように、わたしをじっと見つめて、つづけた。「伊織さん、どうせまだ調べるつもりなんでしょ? 野瀬島のこと」

と、不二さんは困ったように言った。

「当然です。ここまできて、なにもせずにいられません」
「はあ……伊織さんってそういう人だよね。おかしいなあ。僕のなかではガラス職人のはずなんだけど」これじゃまるで探偵だよ、と不二さんは苦笑した。
「わたしはガラス職人です、間違ってませんよ?」
「うん。でもやっと、いつもの伊織さんが戻ってきた気がするよ」
「え……いつものわたしって……」
「最近、伊織さんなんだか元気がなかったから。僕のお弁当も、残念そうに受け取るし」
「そんなっ! 残念なんてことないです! とっても美味しくて、いつもバカみたいに笑顔になってますよ!」
「本当? じゃあその笑顔、ずっと見ていたいから、行こうか」

胸がうずいた。さらりととんでもないことを言ったあとに、不二さんがなにくわぬ顔をして席を立つ。声が、うわずった。

「行こうって、どこに」
「野瀬島が当時働いていた建設会社。なにかわかるかもしれないでしょう?」
「え……いいんですか不二さん?」
「だって伊織さんをひとりにしておけないじゃない。言ったでしょう?」

立ち上がったわたしの目の前に、不二さんが一歩、近づいた。
その距離の短さに、また、わたしの胸がうずいた。どうしよう、なにこの感覚。おかしい。だってわたしの好きな人は、香椎くん、だよね?

「僕は伊織さんのことが、いちばん心配なんだよ」





平気でああいうことを言う人なのだ、不二さんは。欲求を満たすためのキスの件を考えたって、そうに決まってる。
だから、こんなに動揺しちゃいけない。と、思っているのに、考えれば考えるほど、不二さんの目を見れなくなっていた。

「見事に、振られちゃったね」
「です、ね……」

籠沢建設で、「野瀬島克也という人物が10年前に働いていなかったか」と聞いても、まったく取り合ってはもらえなかった。相手は大手のゼネコンだ。当然といえば当然なのだけど、あっさりと「お答えできません」と返されたことには、いささかのショックがあった。同じ人間なのに、お金がたくさんあるというだけで足蹴にされる世の中だ。
それをいいことに、不二さんの目を見ないようにして話していても、不自然じゃない。正直、ほっとしていた。

「さてと、じゃあここに行ってみるしかないね」
「孫請けの会社ですね」
「うん。跡部グループからの建設依頼は全部この孫請けの業者が扱っているみたいだし、10年前に建設していたスポーツクラブは、ここしかない」

わたしと不二さんは、それでも籠沢建設でねばってねばって、10年前に建設した建設物の一覧を閲覧させてもらった。
そのなかに、跡部財閥のグループ会社がはじめたテニススポーツクラブがあったのだ。不二さんはすぐに、そこに目をつけた。

「跡部グループは大きな会社だから、ここだけとは限らないけど、可能性は高いと思うよ。とくにテニススポーツクラブというのが、ちょっと引っかかるな」
「不二さんのお友だちの、跡部さんと関係あるんですか?」
「伊織さんは知らないかもしれないけど、跡部はプロテニスで一時期活躍していたんだ。僕と跡部のつながりも、お互いがテニスをやっていたからなんだよ。学生時代からの友人なんだ」

不二さんがテニスをやっていた、ということに驚いた。あまりにも儚げな雰囲気の不二さんだから、スポーツマンの印象がなかったのだ。
しかしその孫請け会社に行っても、わたしたちはあっさりと足蹴にされてしまった。

「野瀬島克也という人が以前、こちらで働いていていなかったか、覚えていませんか?」

そこは小さな事務所だった。社長と呼ばれた人はあからさまに面倒くさそうな顔をして、わたしたちが事務員さんに案内されたソファにも座らず、「勘弁してくれよ」とぼやき、首を回しながら言ったのだ。

「誰が働いていたかなんて、いちいち記憶してませんよ」
「つまりそれは、誰でも働けるということでしょうか」不二さんが、なるべく失礼のないような口調で、鋭い質問をした。
「どう受け取ってもらってもいいですけどね、こっちは人を選んでる暇なんてないんですよ。おたくら、綺麗な格好してるからわからないでしょう。うちは土木業者ですよ。どんなヤツでも働きたいと言えば、働かせます。体が動けば十分なんだ」

帰ってくれ、と言わんばかりの態度にわたしたちは事務所をあとにするしかなかった。

「僕たちがどれだけ頑張っても、ここまでみたいだね」
「はい……仕方ないですね。これ以前の野瀬島のことは、わからないですもんね。不二さんすみません、貴重なお休みを……」
「ううん。伊織さんもお休みじゃない。でも、もう少しなにかわかるかと思ったけど……ね」

顔を見合わせて、お互いが苦笑した。
張り切りすぎてしまったわたしが感染したのか、不二さんも少し張り切っていたんだとわかる。結局、不二さんにとっては野瀬島は恨んで当然の人間なら、それはわたしも同じ気持ちだった。でも素人にできることなんて、ここまでしかない。
あきらめて、不二さんの車に戻っているときだった。
「あの」と、控えめな声がわたしたちの後ろから聞こえてきた。振り返ると、ひどく険しい顔をした40代くらいの男性が、わたしたちを見ていた。辺りを見渡しても、わたしと不二さんしかいない。
わたしは即座に「はい?」と返事をしていた。

「野瀬島のこと、聞いてましたよね」

不二さんと、顔を見合わせた。お互いが目を丸くしたまま、1秒は固まった。

「……野瀬島さんのことを、知っておられるんですか?」不二さんが、控えめに問い返す。
「野瀬島、なんかあるんですか」

質問には答えず、男性はぶっきらぼうに答えた。その目が、あきらかに事務所のなかを気にしている。
スマホで時計を確認すると、午後を回ったところだった。ちょうど、お昼休みなのかもしれない。職人はだいたい同じ時間に食事をとる。少なくとも、うちの工房はそうだった。

「あの、野瀬島さんのことで知っていることがあれば、なんでもいいので教えてほしいのですが」と、わたしも不二さんと同じように、控えめに問うた。控えめにしたつもりだったけど、もう一度言った。大事なことだから。「なんでもいいんです」
「……前にも、野瀬島のことを尋ねてきた人がいて」
「え……?」
「あなたたちで、2回目です」

ゾクゾクと、背中に汗が垂れた。夏場だから、さっきから垂れてはいる。だけど、ただ暑いだけじゃない汗の予感が、わたしの喉を鳴らした。
男性はあきらかに、話したがっている。不二さんがわたしを制するように、男性に近づいた。

「あの、僕たちはただの一般人です。だからお話を伺っても、ただの共有にしかなりません。それでもよければ、少しお時間いただけませんか?」

不二さんの言っていることは、逆説だった。
だからなにを言っても、あなたを面倒には巻き込まない。その意図を、はっきりと彼に伝えていた。

孫請け会社から車で2分ほどのところに、こぢんまりとした喫茶店があった。店内は、老人がひとりだけ座っていた。人が少ないのをいいことに、そこに入店した。

「だいたい、同い年くらいだったと思います。10年前にテニススポーツクラブの建設が決まって、そのとき、うちの会社は大量に人を雇いました。そのなかにいたのが野瀬島です」

男性は41歳だった。10年前だから、当時は31歳だ。野瀬島は年齢非公表だった。男性ではめずらしいが、おそらく40代前後だということは、見ていてわかる。そこからしても、わたしたちが追っている野瀬島と、彼の記憶のなかの野瀬島は同一人物だと感じた。

「この写真の男性で、間違いないですか?」と、わたしはスマホを見せた。
「ああ、最近ちょっと、メディアに出てますよね。間違いないです。こんなふうに出世するとは当時は思いませんでしたけど」

男性は苦笑していた。注文したカレーライスを勢いよく口のなかに放り込んでいる。不二さんが「ごちそうします」と言ったせいか、量は大盛りだった。

「僕たちに話しかけてきた理由が、あるんですよね?」
「ええ……野瀬島はとっつきにくい男でした。誰ともつるまないし、誰とも必要以上のことは話しませんでした。そういう新人の男に、しかも三十路そこそことなると、うちの人間は厳しいんです」

なんとなく、わかる気がした。わたしの職場もそうだ。職人業界では、わたしのような若い人間が何人ものおじさんたちを率いていることを快く思わない人間は多い。わたしは女だから、とくに見下されている。だからこそ、男の嫉妬には慣れていた。

「現場では班が作られます。自分と野瀬島は同じ班でした。で、そこのリーダーが、とにかくプライドの高い男で、野瀬島より年下だったこともあって、かなり威圧的に野瀬島とよく揉めていました」

日常茶飯事でした、と男性は付け加えた。でもある日、とんでもないミスを野瀬島がやらかしたらしい。

「その日のうちに済ませていなきゃいけない作業を、野瀬島は終わらせることができなかったんです。ほとんど嫌がらせに近い作業だったので、野瀬島も気の毒といえば気の毒でした。でもうちのリーダーは許さなかった。野瀬島をその日、ボコったんですよね、自分のいうことをきく連中を集めて」

不二さんが険しい顔をしていた。不二さんも職人だ。理解できる部分があったのかもしれない。

「その翌日です。リーダーが、死にました」
「えっ」

唐突な言葉に、わたしは口に手をあてて声を漏らしていた。不二さんはスマホを取りだして、なにかを打ち込んでいる。
わたしは全身が脈打っていくのを感じていた。やっぱりあの男のもとで、不穏な出来事が起きすぎている。

「リーダーは、すごく健康に気を使っている人でした。けど、心臓麻痺で処理されて」つまり、急性心不全だ。「まあ、うちは死ぬほど働かされるんで、そういうこともあるかなって思ってたんですけど……野瀬島が、前に自分に言っていたことが、それからずっと気になっているんです」

――俺は、この世に存在しない人間なんだ。だからなにもしても、誰も知らないまま。

「気味が悪くって。もしかしてあいつが、殺したんじゃないかって」自分はその日から、うまく笑えないんです、と言った。

不二さんとわたしは、ゆっくりと顔を見合わせた。お互いの呼吸が乱れているのを、お互いの顔を見て整えるように。
そして、不二さんがつぶやいた。

「跡部に……話しておくべきことかもしれない」

それはほとんど、うわ言のように響いていた。






to be continued...

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