初恋_02


2.


「ごめん、今日はこのあとすぐに家族と出かけるんよ。もうすぐガッコまで迎えに来るから」

それが、伊織の二言目やった。
勇気を出して「久々やし、一緒に帰らん?」と俺が言った、その返事や。

「あ……そう、なんや。ほな、しゃあないな」少し……いやかなり、惨めな気持ちになる。惨めが顔に出る前に、さっと背中を向けると、
「あ、でも侑士!」と、伊織は俺を呼び止めた。
「ん?」

平静を装ったけど、呼び止められただけでガックリさがっとったテンションが急激に頭から飛び出すほどあがって、俺の精神状態はフルでおかしくなっとった。
伊織は振り返った俺に、ちょこちょこと小走りで近づいてきた。それがもう、めちゃめちゃかわいくて、クラクラする。
周りのA組連中は、「忍足くんの知り合い?」と言いながら様子を見ていた。知り合いどころやないねん、俺の初恋の人やねん。いやもう、好きな子。なんせ7年も大好きやから!

「連絡先、交換しない?」
「お、おう、そやんな!」いつもより声が2トーンくらい高くなった。「伊織なにがええ? ID、ふるふる、QR、いろいろあるでな」早口になりそうなのを、なんとか抑える。
「あははっ。そうやんね。せっかくだから、ふるふるしよっか? 最近したことない」
「せやんな! 俺、いっぺんもしたことない」
「え! そうなん? ほなしようよ!」

天にも昇る心地やった。伊織から連絡先を聞いてくれたことで、ものっそい体が熱くなった。アプリを起動してふるふる画面にする。伊織と笑いあいながらふるふる。はああ、もう、死んでもええ。いやあかん、死ねへん。やっと会えたんやから。
ふるふるー、とかわいい声で伊織はふるふるしたあと、スマホ画面を嬉しそうに見た。

「あ、交換でき……あれ?」
「ん? え……」

こっちもふるふるが終わってスマホを見ると、十数件近くの連絡先が表示されていた。伊織も同じやったようで、顔を見合わせてぎょっとする。ちらほらと知った名前を確認したところで、俺はバッと振り返った。

「やった、佐久間さんの連絡先ゲット!」
「俺もゲット」
「あたしもゲット! ついでに忍足くんのもゲット! ラッキー!」

伊織を囲んどったA組連中が、全員でスマホをふるふるしとった。口々に、俺も俺も、あたしもあたしも、と騒いでいる。
男8割、女2割。ちょお待てお前ら、ゲットゲットて、伊織はポケモンちゃうぞ! 伊織の連絡先は俺だけのもんやっちゅうねん! 俺のは好きにしたらええけど伊織のはあかん! おい男全員、そこに正座せえ!
せやけどそんな独占欲まるだしのことを口走るわけにもいかん、こいつらホンマあとで覚えとけよ!

「あ、はは。みんなの手間、省けたみたいやね?」伊織は苦笑した。
「……そう、みたいやな」

俺は素直に頷いた。
そうや、なんやかんや謙也にめっちゃ気持ち悪がられとる俺の恋心。7年もしつこく伊織のことを想いつづけて調べとったなんて、まるでストーカーやと思われてもしゃあない。
そんなん伊織にバレたら絶対に気色悪がられる。あくまで、再会してから好きになったってことにせんと。
と、そこまで考えて、俺はさっきまでぶち上がっとったテンションを、ごく普通にするように努める決心をした。するとそこに、連中のひとりが、笑みを浮かべながら俺と伊織に向かってきた。

「ねえ佐久間さんさ、彼氏いんの?」
「えっ」

近くで伊織の連絡先を「ゲット!」とか言っとったヤツが、いきなり直球を投げてきた。
そのままスコーンと俺がホームランしたろかと思ったわ。おい、それどういう意味で聞いてんねん、と言いたいのを、俺は渾身の力を込めてグッと堪えた。いつか俺が聞こうと思っとったことをあっさり聞かれたことには腹が立ちつつ、せやけどついでにこの質問の答えが聞けると思うと、ファインプレーやな、と褒めたくもなる。でもその質問をするってことは、お前、伊織にすでに気いあるやんけ! と思うと、やっぱり腹が立った。

「そんな、引っ越してきたばかりなのに、いるわけないじゃん」

よっしゃあ! と心のなかで叫びつつ、伊織はこっちの男としゃべるときは音も口調も標準語なんやな、と思った。
ちゅうことは、関西弁でしゃべってくれるん、俺だけ? わあ、特別やん。俺だけの関西弁やん。たまらん。どないしよう。

「いや遠距離とかの可能性もあるじゃん?」
「ないない。わたしそんなモテないよ」
「うっそだあ」

嘘や、絶対。それには賛同したる。
伊織は誰がどう見てもめっちゃかわいい。かわいいだけやなくて綺麗さもある。高3から氷帝に転入ってことは、頭もええはず。つまり聡明や。こんなわかりやすい「いい女」がモテへんわけがない。
せやけど謙遜なんかな……でもそういうとこもかわいい。全部、俺のなかに閉じ込めたい。
と油断しとったら、A組の男がとんでもないことを言い出した。

「じゃ、いないんだ? オレ、立候補してもいい!?」
「ええわけあるか!」

思わず飛び出た俺の声で、教室が、シン、と静まり返った。目を丸くしたA組の連中と、目の前の伊織。それは沈黙やというのに、耳を塞ぎたくなるような沈黙やった。
あかん……つい、めっちゃ、無意識に叫んでもうた。

「……ゆ、侑士?」
「あ……ああ、堪忍。関西ノリが抜けへんのよ。ついついツッコんでまう」

苦笑してそう言うと、「ツッコミ強すぎー」と伊織が微笑んで、空気がふわっと和んだ。
伊織が笑うと、いつもこうなる。一瞬で周りに花が咲いたみたいに、きらきらしだす。
そんな雰囲気に、おまけのように、なんだあ、という安堵のため息が、ちらほらと聞こえだした。なんとかごまかしきれたやろうか。立候補野郎も、笑顔を見せてきた。なに笑ろてんねん、殺すぞお前。

「あーびっくりした。迫力ありすぎだって、忍足」
「堪忍な。ちょお自分でも力みすぎたと思ったわ。ウケてへんかったもんな」本気やったけどな、俺。
「てか、忍足って佐久間さんと知り合いなんだ?」
「うん、侑士とわたし、小学校のときに一緒だったことがあるの、ね?」
「そやねん、な?」

首を傾げてきた伊織に、俺はデレデレんなった。ああ、もう。油断するとすぐこうなってまう。もっと、もっとカッコええ忍足侑士やないとあかんねん。「な?」って首傾げとる場合ちゃうど俺。うわあ、もう情緒不安定すぎて吐きそうや。

「へー! じゃあ偶然の再会なんだ?」いつのまにか、会話に女が割り込んできとった。
「うん。侑士に会えると思ってなかったからびっくりした。嬉しいね、こういうの」

嬉しい? ホンマ? いや、でも全然びっくりに見えへんかったで。伊織は昔もいまも落ち着いてるんやなあ。

「どおりで、忍足くんがめずらしく笑ってると思ったよー」
「ええ? 侑士って笑わないの?」
「だっていつもぶすっとしてるから。ねー忍足くん?」
「……え、ああ、そうかもな」ほかの女の声なんか全然、耳に入ってこうへん。なんて言われたかわからんかったけど、適当に返事をした。
「昔はよく笑っとったのに」

いまも笑うで、伊織になら。
ちゅうかさっき、嬉しいって言ったよな? 俺もめっちゃ嬉しいで伊織!
心のなかのミニ侑士がジタバタしとる。こんな気分、何年ぶりや! 5年ぶりやんな!

「侑士は、どないしてたん? 何年ぶりやっけ?」ミニ侑士とまったく同じ質問がきて、俺はだらしなく笑顔になった。
「5年やで。小学卒業んとき以来やから」
「そうやんね、懐かしい。侑士大きくなったなあ」
「伊織もなってるやんか」

顔を合わせて、くすくす笑い合う。このままずっと話してたい。俺も、伊織がどうしてたんか、めっちゃ気になる。想いが全身に沁みわたって、「どないしてたん?」の質問にもちゃんと答えんと、俺がどうしとったんか聞こうとしたときやった。
伊織の「どないしてたん?」に、側におった女が答えた。

「中学からの忍足くんはテニスやってて、モッテモテだよー! もう氷帝きてから女とっかえひっかえなんじゃないかって、もっぱらの噂」

伊織の目が大きく見開かれて、ぎょっとしとった。無言のまま、ゆっくり俺を見上げる。
お前もぶち殺すぞ! なに言うてくれとんねん! そら、俺には火もないのに煙たちまくっとるけどな! 童貞やねん俺は! 伊織以外、触れたことないんじゃボケ!
そもそも誰や、そんな根も葉もないこと言い出したんっ。なんや2年になってくらいから急におかしな噂が立ちはじめたで、どうでもええと思っとったのに、こんなときになって俺の黒歴史になるとかありえへん。って、そもそも事実ちゃうからな!

「そ、そうなん、侑士?」驚いた顔のまんま、伊織が顎を引いとった。
「そ、そんなわけないやん、冗談きついって」さっきツッコミという名の威嚇をしたもんやから、ごく、静かに答えた。
「冗談じゃないじゃん、モテてるじゃん」女は真顔で口を尖らせた。
「いや、冗談ってそっち、ちゃうくて……」伊織の前で、女に怒鳴り散らすとかできへん、絶対。
「こいつ、モテてんのはホントだよ佐久間さん」俺の静かな声をええことに、今度は立候補野郎が絡んでくる。嫌な予感がした。「オレ、中学んとき彼女とられたし」
「えっ」

伊織の目が、また大きく見開かれた。同時に、俺も心底、驚いた。
どういうこと!? 伊織がおるのになんでそんな恨みつらみをここで晴らそうとすんねん! そんでその話なに!? 俺って記憶喪失かなんかなん? 越前なんか俺は!?
それでも、さっきのツッコミのことがあったで、なるべく冷静に聞き返す。

「ちょ、おかしなこと言うなや。とった覚えなんかないやんけ」
「忍足にはなくてもさー。『忍足くんが好きになったの』って、振られたんだよ、オレは」ご苦労なことに、女の声真似までして、伝えてきた。
「せやけど俺、そんな女、知らんっちゅうねんっ」

はっとした。ちょっと声を荒らげてしもうたからや。
ああ、冷静になっとったのに……ここでムキんなったらなんかホンマのことみたいになるやんけ。あかんあかんあかん、伊織にそんな誤解されたない。伊織にずっと一途に恋しとった男って思われるんも、気色悪いってなりそうやから嫌やけど、プレイボーイみたいに思われるんも嫌やった。

「オレと別れてお前に告ったら振られたらしいぜー。まーどうでもいいけど」
「うわあ、侑士ひどいんやねえ」伊織が眉を八の字にして、俺を見た。
「ちゃうよ、ちゃう。俺なんもしてないって、ホンマに」
「あー佐久間さん、こいつ、俺の元カノとなにかしたわけじゃなくて、見ず知らずの女に惚れられたくらいにしか思ってないと思う」
「え、そうなん?」
「そうやって! だってホンマ、心当たりないねんもん」

最初からそう言えっちゅうねん! と叫び倒しそうになりつつ、やっと誤解が解けた、そう思った。それは間違いではなかった。せやけど、伊織は少しだけ残念そうに言った。

「ふうん。同級生やのに、見ず知らずなん? 侑士、なんかそれもひどいね」
「え……」
「そ、こいつ、すっげー女に冷たいの」
「侑士、小学校んときは優しかったのに」
「いや……ちょ、待って。俺、いまでも優しいつもりや」伊織にだけ……は。
「えー、忍足くん話しかけるなオーラすごいよ? だからなんか、こうやって佐久間さんと笑って話す忍足くん見るのって、新鮮だよねー」
「だよな! オレもそう思った!」

フォローになってないフォローをしながら、目の前のA組連中は意気揚々と、その後もしゃべりまくった。
伊織は優しいから、そいつの言うことにもいちいち反応して、笑顔を見せとった。
俺はふーふーと息を整えるように、伊織が帰っていくまでのその時間を、なんとか我慢した。





考えてもみてほしい。俺はずっと7年も伊織に恋してきとる。今日まで直接的に触れた女は家族以外なら伊織だけ。あの手をつないで帰ったのが最後。それきり俺は、告白はされても、女とは無縁の生活をしとる。
つまり、や。俺が伊織を彼女にしたいなら冷静にならんとあかん。恋愛偏差値が低すぎる俺としては、一瞬であがったりさがったりするこの感情の起伏をなんとかせんと、頭おかしいヤツと思われてジ・エンド……。とにかく、伊織にはカッコええって思われたい。
翌日、教師に見つからんように、そっとスマホを手にとった。メッセージアプリを立ち上げて、追加したばかりの伊織とのトーク画面を開く。「よろしくね侑士」と、伊織から送られてきたかわいいスタンプ。俺も「こちらこそ」と文字を打ち込んで、三国志のキャラが両手を合わせているスタンプを送ったまま、終わっとる。
昨日、家に帰ってから何度も開いた画面やけど、そこからの進展はない。なんでもええから他愛もないこと送ろうと思うのに、急にメッセージしまくる感じもきしょいんちゃうかと思うと、できへんかった。
当然のように、伊織からもなにも送られてきてない。三国志っちゅうスタンプの選択、間違ごうたやろかと悩んでしまう。せやけど滅多にスタンプなんか買わへんし、これやったら伊織も知っとるかなって思ったんやけど……よう考えたら別に知らんでもええんよな。
頭の整理がまったくつかんまま、俺は跡部とのトーク画面に切り替えた。

『なあ跡部、聞きたいことあんねんけど』

どうせ授業が終わるまで既読にならんやろうと思っとったら、あっさり既読になって驚く。こいつ根は真面目やから、授業中にスマホ見るとかせえへんはずやのに。

『お前な、授業中だぞ』
『自分かて見とるやんけ』
『こっちは数学の計算問題で電卓を使っていただけだ』スマホの電卓機能を使っていると言いたいらしい。どうでもええ。
『本題に入ってええか?』
『授業中だと言っているだろうが』
『伊織、どんな様子? 変な虫ついてへん?』

既読になったちゅうのに、そこから授業が2回終わっても跡部からの返信はなかった。いけずなやっちゃ。ああ、せやけど……もう4限目やのに。A組に行けばええんやけど、しつこい感じにも思われたないし。でも、昼めし一緒に食べたい。思い切って誘ったらええんかな。別に変なことちゃうもんな。昨日、思い切って下校デート誘ったんやから、ええよな。
散々悩んだあげく、わずかに震える指先で、俺はもう一度、伊織とのトーク画面を開いた。ゆっくり、間違えんように文字を打ち込む。

『伊織、今日よかったら、一緒にランチせえへん?』

送信ボタンを押すまでに、5分はかかった。モタモタしとったら4限目が終わってまうと思って、これでも焦ったほうやった。授業が終わるまで、伊織はひょっとしたらスマホを開かんかもしれん。
それでも淡い期待を胸に画面にじっと見入っとると、「既読」の文字がついた。心臓が飛び出そうんなる。そのままじっと犬が「待て」されとるみたいに尻尾ぶんぶん振りながら待っとると、1分もせんうちに返事が戻ってきた。

『ごめん侑士。先約があるんだ』

ゴツン、と鈍い音をさせて、俺は机に突っ伏した。振っとった尻尾も一気にさがった。
思った以上のでかい音に、周りのみんながこっちを見とる気配がした。

「こら忍足、なに寝てる!」教師が遠いところで叫んどる。
「……寝てんちゃいます、死にかけたんです」
「バカ言ってないでちゃんと授業を聞きなさい!」
「すんません……」

伊織……侑士、泣きそうなんやけど。俺が弱っとったら駆けつけてくれたあの日が恋しい。こんな、昨日も今日も断られるって、そんなんもう、脈はないってこと?

『ああ、ええんよ。俺もたまたま空いとったから、誘っただけやから』

思ってもない、カッコつけまくった内容を打ち込んで、そっと送信ボタンを押した。
そんで……先約って、誰や。





そうして、憂鬱な昼休みがやってきた。チャイムが鳴って1分もせんうちに、赤い頭が教室の外に見えて、俺は静かに目を閉じた。

「侑士! カフェテリア行かね?」
「……岳人、俺、今日はもう動きたないねん」
「は?」
「腹も減ってへんし」
「なに言ってんだよ、来週には部活はじまるってのに。体力つけとこうぜ! 今日はビュッフェの日だぞ! おまけにサービスデーで半額!」
「ええって」
「つべこべ言ってんなよ! 行こうぜ侑士!」

全然つべこべ言うてへんのに、岳人は俺の手をちぎれるんちゃうかと思うくらいに引っ張ってきた。めっちゃ重たい体が椅子ごと動く。いよいよそのまま教室の外に出るくらいになって、俺はようやく立ち上がった。

「わかったわ……もう、行ったらええんやろ」
「さっすが侑士!」

岳人の気合いに負けて、カフェテリアまでの道を鬱々と歩いた。どう見てもどんよりとしたオーラを身にまとっとるやろうに、岳人は昔から、そんなことちーっとも気にしやん。まあ、せやから俺とずっとダブルス組めとるところもある。そもそも心なんか閉ざす必要なんかないんやこいつには。心を読むっちゅう気遣いがないねんから。
カフェテリアに到着すると、サービスデーとビュッフェのおかげか、それなりに賑わっとった。テーブル席に座ってイチャイチャしとる連中もおる。俺かて伊織が誘いに乗ってくれとったら、今日ここに誘う予定やったのに。あいつらとかあいつらとかあいつらみたいに、俺も伊織とイチャイチャしたかったんに。

「ひょー! 今日もよりどりみどりだぜ!」
「せやな……」

よりどりみどりのなか、俺はバカみたいに皿に盛りつける岳人を無視して、地味にうどんの札を手にとった。ビュッフェの日はいろんな地方の食事がでる。関西風のうどんは俺にとっての癒しやった。調子が悪いわけでもないけど、食欲ないときはうどんに限る。
カウンターまで行ってそれを差し出すと、何秒もせんうちにうどんが出てきた。このスピードにも感心する。
どうせ岳人はまだまだ盛りつけるつもりやろうからと、俺は辺りを見わたした。空いとる席を早いとこ取ってしまわんと、座れんようになるかもしれん、と、思ったときやった。
視界に跡部が入ってきて、ぎょっとする。跡部は滅多にカフェテリアには現れんからや。こんなとこにおったら女子が群がってくるんちゃうかと心配して、その背中に近寄った。
そこで俺は危うく、うどんを落としそうになった。跡部の前の席に、昨日、目に焼きついて離れんかったサラサラなロングの黒髪が見えたから。
伊織やった。
ちょ、ちょお待って。跡部って俺の気持ち知っとるよな? 言うてないけど、依頼したときにもうわかっとったやろ? 今日もメッセージ送ったやん。せやのに、なんやこの、裏切り行為は。変な虫お前やんけっ! せやから俺のメッセージ無視したんか! 虫だけに!

「な、なにしてんの?」
「え? あ、侑士」
「アーン? なんだ、またてめえか忍足」

なんとかうどんをこぼさんように、それでも俺は、駆けよった。信じられへん。考えられへん。なんでよりによって跡部が、伊織と昼めし一緒に食うてんねん。跡部ファンクラブの連中が見たら、「跡部様に新恋人が!?」って号外出すくらいの大騒ぎやで。なあ伊織、これが、これが先約やったんか……? 俺より、跡部を選んだっちゅうこと?

「侑士、わざわざ、おうどん食べるん? こんなにたくさんいろいろ――

こんなときにまで、おうどん、という言い方がかわいいとか思う俺はおかしいんやろうか。それでも、無邪気な笑顔を向けた伊織の言葉を最後まで聞くことが、俺にはできんかった。

「なにしてんねんって」
「え……」

伊織が笑顔のまま、俺を見上げて固まった。自分でもわかる。口調がきつかった。
ダメや。責める立場になんかおらんのに、つい、責めてもうた。

「忍足、あのな」黙っとれ。お前の声はいま聞きたない。
「伊織、知っとる? 跡部ってな、こいつ、めっちゃ女にモテんねん」
「忍足……」黙っとれって。
「そうなん、だろうね?」伊織は不思議そうな顔して、俺に賛同した。
「そうやで。せやから女には困らんねん」

そうや、いまの跡部はフリーや。女には困らんから彼女を作ろうと思えばいつでも作れる。
せやからって、俺の伊織に手えつけんかったってええやろ。そら伊織は昨日から氷帝一の美人やけど、俺とお前の仲はそんなもんやったんか、跡部!

「やで伊織、こいつになに言われても信じたあかん、傷つくだけやから」
「えっ……いやでもいま、いろいろ」
「いろいろってなに? そんな簡単に男の言うこと信用したあかんねんで? 伊織は女の子やろ? もっと警戒せんとあか」

そこで、俺の頭がものすごい勢いではたかれた。ギッとその手の先を睨むと、立ち上がった跡部がめっちゃシラけた目で、俺を見据えとった。

「さっきから、なにわけのわかんねえこと言ってんだこのバカが」
「やって、お前が伊織に手え」

出そうとしとるから! という俺の言葉は放たれることなく、跡部が目の前にかかげてきたプリントに制止された。じいっと、そのプリントを見る。それは校内案内図やった。ところどころに、跡部の文字で注意書きがされてある。
そこまで理解したとき、俺の脳内にくり広げられとった、跡部と伊織のキャッキャウフフ状態が、違う景色としてようやく目に入ってきた。

「……えーと、校内案内図やな、これ」
「侑士、大丈夫? 目が点になってる」

もしかして……という俺の頭の高速処理と優しい伊織の声が、虚しく現実を伝えてきとる。跡部は黙って、もう1枚プリントをかかげた。そっちは年間の学校行事が書かれていて、やっぱり跡部の文字で注意書きやら付箋が貼られてあった。
うん、わかった……俺はどえらい、勘違いをしとったようや。

「忍足よ。俺は誰だ」
「……跡部景吾」
「肩書は?」
「生徒会長、テニス部部長、A組の学級委員、ボンボン、手塚バカ、丸坊主」そこまで言うたら、またはたかれた。「いったあ! 痛いやんけ!」

俺と跡部の様子を見とった伊織が吹き出した。それだけで、多少は救われた気分になる。

「佐久間は今年度に入ってきためずらしい転入生だ。これは担任に頼まれて」
「もうええわかった、説明しとったんやろ、学校のこと」

めちゃめちゃ恥ずかしくなって、俺は目を伏せた。要するに、担任が同じクラスメイトで生徒会長である跡部に、学校の説明を頼んだっちゅうことや。まあ、わかる。教師から聞くよりクラスメイトからいろいろ聞くほうがええやろし、それで学校の雰囲気にも馴染める。
俺はしつこくうつむいとった。いま、伊織の顔を見る勇気がない。ああ、なに口走ったっけ。なんか説教めいたこと言うてもうた気がする。全部、勘違いやったのに。
伊織、視界の隅では笑ってるけど、内心、怒ってへんかな……。

「……わかったんなら邪魔してんじゃねえよ」こっちは見るからに怒っとる。
「せやかてお前が女とおるとか……勘違いもするやろ」

めったにそんなん、見いひんし。ぶつぶつ言いながら、勇気を出してそっと伊織を見た。
俺を見上げとった伊織は、目が合った瞬間、ニコッと微笑んでくれた。
天使やんもう……はあ、助かった。いろんな意味で、助かった。

「侑士、おうどん、伸びちゃうよ?」
「ん、ほなここで食べよかな」

テーブルの上にいつ置いたんか覚えてもない、俺のうどんを指差して、伊織が気遣ってくれた。
おうどん……めっちゃかわいい。ええ響き。録音したいくらいや。
俺は黙って、伊織のとなりに座った。「は?」という跡部の声を無視する。どんな理由があっても、跡部と伊織がふたりで昼めし食べとるのを離れたところから見るのは嫌やった。

「あー、侑士やっと見つけた! あれ? 跡部もいんじゃん!」

そこに、すっかり忘れとった岳人の声が響いてきた。お前、今回ホンマに空気やな。登場する意味あったんかと思うくらいやわ。まあでも岳人が誘ってこうへんかったら、跡部と伊織の昼休みを見逃すところやった。ええ仕事したで、岳人。

「チ……向日まで来やがった。これじゃ話どころじゃねえな」
「お? しかも噂の転校生かよ!?」
「ふふ、はじめまして。すっごい量!」
「おう! 育ち盛りだからな!」

跡部は面倒くさそうに着席した。山盛りの皿を自慢した岳人は、跡部のとなりにガッツリと腰をおろした。ホンマに下品な皿になっとって、せっかくの料理も台無しに見える。せやけどそんな岳人の登場にも、伊織は気さくに笑顔を見せた。
結局、4人になった俺らはそのテーブルで食事をした。
誤解もとけてスッキリな俺は、その冷めて伸び切ったうどんのことも、なんも気にならんかった。真横で、伊織がずっと笑ってくれとったから。

「そろそろ時間だな」

跡部がカフェテリア内の時計を見上げた。
楽しい時間はあっちゅう間。邪魔が2人おったけど、俺はかなり満足した。

「やっべ、オレ次、体育だったから行くわ!」と、岳人が足早に消えていく。
「すごい食欲やったねえ、向日くん」
「ん、あいつ中学んときから、アホみたいに食いよんねん」
「そうなんや? でもお皿ぐっちゃぐちゃで、なに食べてるんかわからんくらいやったね」

伊織の皿は綺麗なもんやった。はじめてカフェテリアのビュッフェを目の当たりにすると、たいがい取りすぎて食べ切れんようになるもんやけど、伊織はちゃんとその調整もしとる。
食事したあとやのに、唇もリップ塗りたてみたいにぷるぷるに潤っとって、思わず吸いつきたくなる衝動を抑え込んだ。
はあ、こんな日常、夢みたいや。あと数日も一緒におれば、慣れるんやろか。

「それより佐久間、今日はすまなかったな。結局、あまり説明もできていない」
「あ、ううん。大丈夫」

そんな俺と伊織の時間に割り込むように、跡部は伊織にジェントルな声をかけた。
跡部、伊織はそんなことで怒らへんよ。めっちゃええ子やから。伊織が怒ったんなんか、俺がアホ3人組にどつかれとったときくらいやねん。せやからあの瞬間も、俺の特権なんや。
と、そんな俺の心の声が聞こえとるはずもなく、跡部は冷静に伊織を見て、つづけた。

「放課後、空いてるか?」
「うん、空いてる」
「じゃあ、説明のつづきはそのときにしよう。さっき説明した、生徒会室に来てくれるか」

生徒会室なら、まあええか、と思う。あそこには放課後、なんやかんやの委員長が何人も出入りしよる。ふたりきりにはならん。まあここも、ふたりきりちゃうんやけど。

「わかった。ありがとう、跡部くん」
「かまわない。このバカが邪魔さえしなけりゃ終わってたんだが……」

跡部はチラ、と俺を見た。悪かったって……と、心のなかで謝る。せやけど、さ。
考えてもみてほしい。跡部が女子とおるとこなんてホンマに1年に1回見れればええくらいで、彼女ができたってこいつは極力、彼女とふたりきりの姿を学校で見せるような真似をしやん。たぶん、いろんな女子を気遣ってのことやろうし、彼女を守るためでもあるんやろう。あげく俺なんかより100倍はモテる跡部景吾や。俺とは恋愛偏差値に雲泥の差がある。そんな男が伊織とふたりでランチとか、誤解もするし冷静でなんかおられへん。
そんな言い訳が頭のなかでぐるぐるめぐったところで、跡部はまた、誤解を招くようなことを言った。

「放課後に悪いな。帰りは俺が送ろう」
「はあ!?」
「うるせえなっ、てめえはいちいち!」

うるせえちゃうやろなんやその提案!? お前、そんなん、いままで誰にもしたことないやんけ! なんで伊織には!? やっぱりお前、悪い虫なんちゃうか!? やっぱり伊織に手え出そうとしてんちゃうんか!
全然、冷静になれへんかった。恋愛偏差値が違いすぎて、そのスマートな誘い方もちょっと勉強になると思ったくらい、冷静になれへん。

「あかんよそんなんっ」
「そうだよ跡部くん、悪いよ、そんなの」伊織も俺に加勢する。ええぞ伊織、断ったらええねんそんなの。
「いや、気にするな。俺の都合で帰宅が遅くなっちまうだろ」

ちゅうかな、今日こそ俺は伊織とふたりきりになりたいんや! そういう理由ならこっちやって考えがあるっちゅうねん!
落ち着け忍足侑士。冷静に、冷静にや。伊織にカッコええと思われなあかんねん、俺は。

「せやんな、遅くなったら心配や。それやったら跡部、俺が送るわ。お前めっちゃ忙しいやん? もうすぐ部活もはじまるやん? 練習メニュー考えなあかんやん? 新学期で委員会もめっちゃバタバタしてそうやし、な? な、跡部?」
「……」跡部がまた、シラけた目で俺を見据えた。その目、やめえ。
「跡部くん、忙しいなら、わたし、本当に大丈夫だから」

伊織が申し訳無さそうにそう言ったことで、跡部は深いため息をついた。その唇が、ほんのわずかだけ上にあがる。なんや? と思った瞬間、跡部はガタンと席を立った。

「わかった。それなら宣言どおり、お前が送ってやれ、忍足。部長命令だ」

そう言って、去っていた。
跡部からのメッセージが入っとることに気づいたのは、5限目の前やった。

『しっかりやれよ、忍足』

跡部……俺やっぱ、お前のことめっちゃ好き!





あいつ、仕向けてくれたんや……そう思うと、跡部がモテんのが、いまさらながら頷ける。
考えてもみてほしい。跡部はあれで女とも何人か付き合ってきとるし、中学ん頃からは考えられへんくらい、見た目も中身も大人になった。いまでも、頭わいとるんかと思うような言動はありつつも、男としては俺より成熟しとる。おまけに金持ちで頭がええ。あげく俺よりテニスがうまい。なにもかも俺より長けとる跡部。
そんな跡部に、焦る気持ちが抑えられるわけがない。俺みたいに、好きな子にどう接してええかわからん男とはわけが違う跡部と伊織がいま、一緒におるんやから。
もしかしたら、跡部に全然その気がなくても、伊織が跡部のことを好きになってまう可能性は捨てきれへんかった。ちゅうか跡部なんて、全然その気がないぎょうさんの女に好かれまくっとる人生や。伊織がそのひとりになる可能性なんか、捨てきれんどころか、吐いて捨てるほどある気がする。
そんなモヤモヤを抱えたまま、俺は伊織と下校していた。
きらきらとした夕日が伊織の黒髪を照らす。並んで歩いとると、春風と一緒に伊織からええ香りがたまーにただよって、俺の胸をずくずくとうずかせた。

「跡部の説明、どやった?」
「うん、わかりやすかった。氷帝のこともようわかったよ。あの人、なんかすごい人やね?」
「え? ああ、まあすごいよな、いろんな意味で」
「うちのクラスメイトもずっと騒いどるよ。イケメンで、頭もよくって、芸術方面もすごくって、テニスもめっちゃ強いし、ジェントルなんやって」そんな人、おるんやねえ、と感心したように付け加えた。

死にたい……伊織、頼むわ。そんな女子らの跡部ラブモードに煽られんとって。俺もめっちゃテニス強かったやん……それも小学生までやったけど。

「侑士もテニス、ずっと勝てへんってホンマ?」クラスの女の子が言うてた、と無垢に聞いてくる。
「……まあ、そ、やね」
「そうなんやあ。侑士が勝てへんなんて、ホンマにめっちゃ強いんやなあ」

グサッときた……跡部に勝てへんなんて、伊織には絶対に知られたくないことやったのに。まあそんなん言うてもしゃあないか。氷帝学園に来たら、すぐバレてまうことやしな。
伊織、幻滅した? 俺、お前の前ではずっとカッコええ忍足侑士でおりたかったのに。

「でも、侑士がテニスつづけてるん、わたし嬉しいよ」
「……そうなん?」
「うん。だって侑士がテニスしてるとこ、ホンマにめっちゃカッコええもん。よく覚えてるんよ、わたし。試合、いっぱい見に行ったから」
「カッコええ……?」
「うん! 侑士きっと、あのころよりもっと強くなってんやろね? 早く見たい」

ぱあっと、俺の視界が明るくなった。急に昼に戻ったかと思ったくらいやった。伊織の言葉に一喜一憂しとる俺は、完全に恋する乙女モードや。ラブロマンスやったら、この先どうするんやっけ? 急に手とかつないだら絶対にひかれるやんな?
ああもう、伊織んことが好きすぎて、どうしたらええかわからへん。誰か教えてくれ!

「伊織がそう言うてくれるだけで、もっと強くなれる気するわ、俺」
「えーホンマ? それやったら、いくらでも言うよ、わたし」

いまの結構よかったんちゃう?
どさくさに紛れて、告白めいたこと言うたつもりやった。けど、伊織は全然、気づいてない。
……まあ、こんな会話は、小学生のときもしまくったしな。
そんな屈託のない笑顔向けられたら、逆にこれ以上は攻めれん気分やった。

「侑士、うちそこやねん」
「おお。あれが伊織ん家? でかいなあ」
「ホンマ? 侑士の家のほうが大きそうやけど」
「いや、俺はひとり暮らしやから。一軒家にはかなわんで?」

そう言うと、伊織は目を丸くさせた。そやんな……あれからの俺のこと、なんも知らんもんな。俺も、伊織のことなんも知らん。もっと教えて? もっといっぱいしゃべって、俺、伊織のこと、もっと知りたいねん。

「そうやったん? 高校生でひとり暮らしってすごいね。なんで?」
「ん……話すと長いから、またにしょうや。また、こうやって一緒に帰ろうや」

めっちゃ思い切ってそう言うと、伊織はにっこり笑った。「そやね!」と両手を重ねる。あっかん……ホンマに、かわいすぎる。絶対、誰にもわたしたない。

「ほな、また、来週な」
「うん。またね」

ホンマはめっちゃ名残惜しくて離れたなんてなかったけど、カッコええ忍足侑士維持のために、俺はさらっとそう言った。
明日から連休やから、2日は伊織と会えなくなると思うと、寂しかった。それでもこの5年間のこと考えたら、たった2日なんやけど……。

「あ、ねえ侑士」
「うん?」

背中を向けようとしたところで、伊織が声をかけてくる。昨日の放課後がよみがえった。伊織は俺が帰ろうとしたときに、呼び止めてくれる。それがどんだけ嬉しいか。
せやけどその笑顔が、若干、強張っとった。心配になって、「どないした?」と聞くはずの声が、うまく出てこうへん。

「今日、さ」
「……うん?」
「ランチのとき、怒っとったよね?」

ドドドドド、と、俺の胸がうなりだした。伊織に変な誤解されたらたまらんと思う緊張感が、一気に全身をかけめぐる。極力怒ってないように見せたつもりやったのに、やっぱり冷静さを失いかけとったあの責めた口調があかんかったか!

「お、怒ったんちゃうくて、あれは」
「昔のよしみ、やから?」
「へ?」
「もしかして、守ってくれたんかなって……」

変なこと言うてたら、ごめんね、と、つづけた。
ドドドドド、と、今度は違う意味で、胸がうなりだす。俺から目をそらして、伏し目がちに、遠慮がちに、言うてる。よく見たら、伊織の顔が、赤くなっとる気がした。俺らに向かって照らされとる西日のせいやないとしたら、それは俺を、意識しとるってこと? これ……脈アリか?

「そら……伊織は幼なじみ、みたいなもんやん」昔のよしみなんかとちゃうって、言えへん弱い自分が、情けない。「おかしな男に引っかかるのなんか、見てられへんよ」
「ふふっ。跡部くんチームメイトなのに、そんなこと言うてええの?」
「ええねん、あんなヤツ」

跡部を好きになってほしくない感情が、俺に悪態をつかせた。テニスでは勝てへんけど、伊織の心の向かう先では、跡部に勝ちたい。ちゅうか、跡部だけの問題とちゃう。伊織を、とにかく俺だけのもんにしたい。

「大丈夫やのに」
「え……」
「侑士、わたしが強いの、覚えとるやろ?」

はにかんだようなその表情に、俺は確信した。心臓の音がすごいことになっとって、俺、このまま死ぬんちゃうかと思うくらいやった。
伊織は俺に訴えてきとる。はじめて俺たちが会った、あの日のことを。伊織も、覚えてくれてるんやって。

「でも、ありがとね。ちょっと、嬉しかった」

じゃあね、バイバイ! と、なにも言えずに立ち尽くした俺に、伊織は手を振って背を向けた。ぼうっと、その後ろ姿が扉の奥に消えても、見入ってしまう。
嬉しかった……? うそやろ。めっちゃかわいい。また、天にも昇ってしまいそう。
ジーンとする俺の心がその場から離れたがらんかった。
俺の横を、誰かが通り過ぎていく。俺に不思議そうな目を向けた男は、見て見ぬ振りをするように、数メートル先の正面の扉に向かっていった。
そんなんどうでもよかった……のは、その一瞬やった。
正面の扉は、伊織の家の扉や。
パタン、と扉が閉められる。待って。いま、伊織の家に入っていった? 男やったよな? 風貌からして、どう考えてもお父さんやない。若そうやったし、なんや顔、めっちゃ綺麗な感じの男やった。お兄さん? いやいや、伊織って、ひとりっこちゃうかったっけ。
あれこれ考えるより先に、体が勝手に動いとった。
走って玄関前の扉まで到着した俺は、周りから見たら完全に怪しまれるような行動を取った。扉に、思いっきり耳を押し当てた。

「待ってました!」

伊織の声が聴こえる。
男の声は、低いせいか聞き取れん。そして、伊織はつづけた。

「嬉しい、わたし頑張る」

晴れやかだったはずの空が、急に曇ってきた気がした。見上げると、雲が俺の頭上を通り過ぎていく。足元に影が落とされて、それはまるで、ブラックホールに見えた。
どういうこと? 待ってましたって、いま帰ってきたばっかりやん。ほんで、なに頑張るん? 嬉しいってなに? 俺とおるときより、そいつに会えたことのほうが嬉しいん? ちゅうか、その男、誰なん、伊織……。
あげて、落とされて、またあがって、落とされて。
紅白旗揚げゲーム状態の俺の心は、赤も白もさがったまま……それからしばらく、あがることはなかった。





to be continued...

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