Up to you_08


8.


仁王から奪える? と聞いてきた侑士。奪い去ってほしいと思う一方で、雅治から離れたくないと強く願う自分もいた。矛盾しているような感情は、実は矛盾じゃないことも、わかりきっている。

「なあ、伊織……」

雅治の顔が、頭に浮かんでは消える。頬を伝う涙が止まらない。握りしめられた手の先には侑士がいて、ひどく切ない目をしてわたしを見つめていた。その目からも、わたしは目が離せない。

「好きなんよ、俺……ホンマに好きなんよ、伊織のこと」
「侑士……」

わたしが名前を呼んでしまったせいか、侑士がわたしの手を、ほんの少し引き寄せた。体がわずかに揺れる。距離が近づいて、侑士の頭が、ゆっくりとわたしの顔に近づいてきていた。
このまま、触れてしまいたい。そう思った。鼻の先が触れる。すぐそこにある侑士の唇が、そっと落ちようとしていた。
でも、その直前。わたしは顎を、ぐっと引いた。

「……伊織」
「ごめん……できない」

きっと傷ついている侑士の顔を見るのが怖くて、首を折り曲げて俯いた。わたしの手を握りしめていた侑士の手が、そっと離れていった。

「堪忍……、な」

ポンポンと、軽く頭に触れる侑士の手に、いつかの日を思い出す。わたしは甘えすぎてる、この人の優しさに。どうにかなってしまいそうな気持ちを落ち着かせたくて、何度も呼吸をした。

「大丈夫か……?」

頷いて、思い切って頭をあげた。侑士は少しだけ目を見開いて、すぐに困ったように笑う。
こんなときまで、侑士は笑ってくれる。だからこそ、わたしも笑わなくてはと思った。

「お店、見つけてくれてありがとう。買いに行かなきゃ」
「……せやな。伊織、ひとりで行ってき。俺ちょお、頭ひやすわ。ここで待っとく」
「うん、わかった」

侑士に背を向けて、お店に向かった。顔をあげたときには拭き取ったはずの涙が、また、こぼれていく。
お店に入る前に目をゴシゴシとこすった。パン、と両手で顔を叩いて、わたしは小さなブティックへと、足を踏み入れた。

雅治によく似合いそうなブルーグレーのコントラストが映えるマフラーは、小さなブティックらしいこだわりのあるラッピングに包まれた。お店を出て侑士に近づくと、「ええ感じやん」と微笑んでくれた。

「ありがとう侑士。喜んでくれると思う」
「ん。限定品やからか結構ええ値段やったし、喜ばんかったら別れたらええわ。おお、それがええな。めっちゃええシナリオやん!」
「もう、また……」

思わず、吹き出してしまう。冗談なのか本気なのかわからないことを、面白おかしく口にするのは、侑士の得意技だ。
彼はそんなわたしの顔を見て、安心したように言った。

「よっしゃ、ほな帰ろか。家まで送ったる」
「うん。ありがとう」

電車のなかでも、最寄り駅についてからの帰り道も、侑士はよくしゃべった。ついさっき起こった出来事なんてなかったかのように、くだらない話ばかり聞かせては、わたしを笑わせる。「伊織が泣いとるのが嫌やねん」と言った侑士の言葉が、何度も頭のなかでよみがえった。

「ほな明日、頑張りや」
「そうだね」

自宅前に到着して、侑士とわたしはいつものように、向かい合った。

「喜ばんかったら別れるんやで?」
「ふふふ。バーカ」
「くくっ。せやな……伊織にそんな尽くされて、喜ばんわけないか」

ときどき見せる哀しい瞳が、胸をしめつけた。わたしはバッグを開いて、まだ使っていないホッカイロを取り出した。懺悔のつもりだったのかもしれない。

「あげる。寒いから」
「またくれるん? 俺、伊織にホッカイロ代、いつか請求されるんちゃうか」
「あはは。かもねー」

袋をやぶって、中身だけわたすと、侑士は「遠慮なく」と言って、それを受け取った。
指先だけ触れた感触に、心が激しく揺さぶられた。

「気をつけて帰ってね、侑士」
「ん。ほなまた、予備校でな」
「うん、またね」

余韻を残さないように、くるりと振り返った。瞬間、また涙が浮かんだ。もうこの気持ちは、ごまかしようがない。
確信めいたものを感じながら家に入ると、そこに、父の靴があった。
すっかり単身赴任中の父が帰ってきている事実に驚いて、急いでリビングに入ると、父と母が、テーブルに座って向き合っていた。

「伊織……」何ヶ月ぶりかに聞く、父の声に嬉しくなった。
「父さん、帰ってきてたんだ! そんな予定あったっけ?」
「ああ……うん、ちょっと、こっちに急な仕事が入ったんだ」
「そうだったの。あ、ねえねえ、お願いしてたおみやげ」

買ってきてくれた? と言おうとしたわたしの声は、母の声に閉ざされた。

「伊織、悪いんだけど、夕食ちょっと遅くなってもいい?」
「え……うん、もちろん、いいけど……」

お風呂場から、シャワーの音が聞こえていた。妹が入っているのだろうと察しがつく。
さらにそれを察したかのように、母はつづけた。

「あの子がお風呂あがったら、2階に連れてって、二人で部屋で待ってて。ご飯できたら、呼ぶから」
「……あ、うん、わかった」

険悪なムードに、そのときになってようやく気がついた。母の顔が強張っている。同じように、父がわたしに投げてくる微笑みは、侑士の哀しい顔と、よく似ていた。
妹がお風呂からあがったのを見計らって、一緒に2階にあがった。彼女の大好きな動画サービスをテレビに映して、そこだけに集中するようにセッティングした。さっきからずっと、胸騒ぎが止まらない。
あれは、夫婦の会話をしていたんじゃないのか。夫婦の会話で険悪なムードになることが、いくつか頭をもたげる。子ども、お金、家族……そのどれも絡んでくる、重要な問題だけが、わたしの心を占領していた。「離婚」だ。
集中している妹にそっと背中を向けて、わたしは音を立てないように階段に足を伸ばした。うちの家も、そろそろ古くなってきている。20年近く前に建てられた家は、それなりに音がよく響いた。リビングの会話は、その扉の真横に位置する階段から、よく聞こえてきた。

「申し訳ないと、思っているよ」
「あなた、そればっかりね」
「どうしても、ダメなんだよ……彼女も、俺には必要なんだ」

急激な焦燥感が、心臓の音を激しくした。つばを飲み込むのもやっとなくらい、呼吸が荒くなっていく。父が、不倫をしていたということだろうか。
いつだったか、父の単身赴任先に行ったはずの母が家に帰っていたことを思い出す。父の大好きなハンバーグを、作っていた。もしかして、あの日に母は、なにかを知ってしまったんだろうか。

「じゃあ、あなたにとって私たち家族は、もう必要ないの?」
「必要だよ……だからこうして、話し合いに来ている。必要なければ、とっくに姿を消してるさ」

君のことも、愛しているから……と、つづけた父の声は、か細かった。それでも、はっきりとわたしには聞こえてきた。おそらくまだ父を愛している母に、そんなことを言う父は、卑怯だ。
でもその卑怯さに、わたしは残酷な共感を覚えていた。そんなことを言わせてしまうほど、父は相手の女性のことも、母のことも、愛しているのだ。

「同じように、娘たちのことも愛してる。でも彼女のことも、愛してる。それが本音だ」
「……どっちも手に入ると思うの?」
「……」入るわけがないのは、子どものわたしにだってわかる。
「どっちも好きで大切で、それがあなたの気持ちなんでしょうね。だけどね、あなたは人として、どちらかを選ばなきゃいけないの。そういう立場なのよ」

母の涙声に、つられて涙があふれでた。
そうだ……父はどちらかを選ぶなんて偉そうな立場に立って、人のことを平気で傷つけている。母も、相手の女性も、純粋に父だけを見ているはずだ。でも父は、どちらも愛していると、言い切った。それがどんなに残酷でも、父の本音だからだ。それが誠実さなのだと、勘違いをしているように。
そのとき、肩に手を置かれて、慌てて後ろを振り返った。真っ青な顔をした妹が、わたしを見おろして、そっと、となりに座ってきた。

「お姉ちゃん……」
「ごめん……」

わたしは謝った。妹のことを、とことん子ども扱いしていた自分への後悔だった。妹だって、感じ取ったはずだ。いくら小学生でも……いや、おさないからこそ、家族をとりまく不穏な空気には敏感なんだ。聞かせるべきじゃない話を、わたしの軽率な行動のせいで、聞かせてしまった。
わたしは妹を抱きしめた。胸のなかで、小さな泣き声が震えていく。

「お父さん、出てっちゃうの……?」
「……お姉ちゃんがいるからね。ごめん、大丈夫だよ。部屋に、戻ろう?」

ほとんど声を出さずにそう言うと、妹はこくりと頷いた。
そっと階段をあがっていくときに、父の、最後の言葉が聞こえた。

「耐えれないよな。だから、離婚も受け入れる。でも、ごめん……愛してる」

父は、わたしだ。





伊織に拒絶された俺は、絶望のまま、吉井を放置してきた旧校舎の第2教室に戻った。
吉井は制服をしっかりと着直し、ただ呆然と窓の外を眺めていた。その背中に近づくと、俺の気配に振り返った。

「仁王……ごめん、さっきは」
「いや……」

突然キスされて、告白めいた言葉を投げられた。吉井が俺のことをそんなふうに想っているとは、微塵も感じたことがない。いつだって女友達として接していた。こいつはたまに、伊織への想いを聞いては、励ましてくれていたはずだった。

「あたしのせいで……佐久間さんに変な誤解、されちゃったかな」

後悔を見せかけている目の色に、期待が見え隠れしているような気がした。俺の疑心がそうさせているのか、それとも事実、吉井は期待しているのか。それでも、あんな気持ちをぶつけられたあとでうがった見方をするのは、伊織が去っていった恨みを、この女に感じているからなのか。

「誤解なんて、伊織はせん」
「え」

はっきりさせておく必要がある。吉井と俺との関係性に嫉妬した伊織を、傷つけた過去の俺がいる。伊織は吉井の想いに、とっくに気づいちょったっちゅうのに。俺は、それを鼻白んで突っぱねた。

「……大丈夫だったって、こと?」
「大丈夫じゃったら、お前、残念なんか?」
「え……いや、そんなわけないよ。すごく、いまだって申し訳なく思ってるから。大丈夫なら、安心した」

嫌な想像をしてしまう。吉井がもし、今日のことをわざと見せたんだとしたら。そう考えると、疑問も解消されていく。伊織がなぜ、普段は立ち寄りもしないこの教室に来たのか。旧校舎から逃げるように出ていったあの男は、本当に吉井を犯したのか。
「助けて」と打ってきたメッセージは、ホームルーム終了のチャイムから、そう時間は経っていなかった。そんなに早く、嫌がる女を犯して逃げ去れるもんだろうか。
全部ぶちまけて聞いてしまいたかったが、俺はそのすべてを、心の奥にしまった。

「心配するな」
「え?」

はっきりさせておく必要があると、もう一度、強く思った。

「吉井」
「うん……?」目が、怯えている。
「俺と伊織は、心底、愛し合っちょるんよ」
「え……」
「お互いを、信用しきっちょる」
「……」黙り込んだその目が、大きく揺れていた。
「こんなことで崩れんから。お前は、心配せんでもいい」

涙をこらえるように、吉井はそっと俺から目を逸らし、唇を噛みしめて、俯いた。その仕草のひとつひとつが、失恋した女の哀愁だった。

「だから……お前のさっきの気持ちが本気でも、俺は応えることはできん」
「……そう、みたいだね」
「それと……そんなつもりは到底、ないじゃろうけど」

俺の前置きに、逸らされていた吉井の目が、俺をしっかりと見てきた。その視線を、俺はまっすぐに見つめ返した。吉井……これがいちばん、はっきりさせておきたいことだ。

「もし今後、伊織が傷つけられるようなことがあったら、相手が誰じゃろうと、俺は絶対に許さん」
「……どういう、意味」
「お前が相手でも、だ」
「……仁王、なんか勘違い」
「しちょると思う。じゃから、もしもの話だ」

そこまで言って、俺は教室を出ていった。
伊織と心底愛し合っていると言った自分が、こんなことで崩れないと言った自分が、滑稽だった。それは俺の、精一杯の強がりだ。

あれだけ拒絶されたにも関わらず、俺は伊織の自宅に行った。チャイムを押して、出てきたのは伊織の妹だった。

「……におーくんだ」
「え」

なんで、俺のことを知っちょる? と、声をかける手前で、余計な話はしたくなかったのか、伊織の妹はすぐに口を動かした。

「お姉ちゃんなら、まだ帰ってません」
「……そうか。ありがとう」

まだ帰ってないという情報を考えるよりも先に、妹と会ったことがあったじゃろうか? と、記憶をめぐらせる。残念ながら、よく覚えていない。だが、俺の名前を知っていることからして、伊織から聞いているんだろうとわかる。

「におーくん」
「ん?」

玄関から出ようとした俺を呼びかけて、伊織の妹は純粋な目をして見上げてきた。その顔が、伊織に似ていて、かわいい。

「お姉ちゃんの、彼氏なの?」
「……おう、まあ、そうじゃけど?」
「ふうん、ふうん!」

いかにも小学生のひやかしの顔で、妹は嬉しそうに笑った。そして突然、頭をさげてきた。

「うちの姉が、お世話になります。幸せにしてやってください」
「……ぷっ」
「へ?」
「ああいや、すまん。幸せにする。約束だ」

鬱屈とした気分が、ほんの少しだけ花ひらいた瞬間だった。妹に俺のことを話している事実も嬉しければ、伊織の家族の一員である妹から「幸せにしてやってください」と言われたことも、素直に嬉しかった。絶対に、幸せにする。そう、心に誓った。
だがその心地よさは、伊織が忍足と一緒に帰ってきたことで、俺のなかから消えていった。
近くの公園で待っているあいだ、伊織の母親と父親らしき人が、家のなかに入っていった。時間はすでに17時半を過ぎていて、辺りは暗くなっていく。寒さに耐えながら、俺はそれでも辛抱強く待った。こないだ俺を待っていた伊織も、こんなに心細かったのだろうかと思うと、胸が静かに傷んだ。二人の姿を見たのは、そんなときだった。
伊織の笑い声と一緒に、忍足の声が聞こえて、俺は身を隠した。伊織は忍足に笑顔を見せながら、なにかを手渡していた。どこからどう見ても恋人同士の雰囲気に、激しい嫉妬が襲ってきた。
俺を拒絶した日に、忍足と会っている伊織。ついこのあいだのように、そのまま乱入して怒鳴り散らすこともできたかもしれん。だが今日のことを考えると、とてもじゃないが、そんな気分にはなれんかった。
やがて、伊織が家のなかへ消えた。忍足はその姿を見送ったあと、しばらく閉じられた扉を眺めていた。名残惜しいのか、それとも伊織の残像を、胸に刻んでいるのか。
ようやく伊織の家を離れて歩き出した忍足に、俺は背後から近づいた。

「忍足」
「……仁王」

宿敵を見るような目で、忍足は俺を見た。その表情が、どんどん怒りに変わっていく。
足早に俺に向かってきた忍足は、まっすぐに俺を見ながら静かな声をあげた。

「お前、ホンマに伊織のこと好きなんか?」
「……どういう意味じゃ?」

ひょっとして、今日のことを相談でもしたのかと思う。だが、そんなことを忍足に話しているとは、なぜだか思えなかった。帰ってきた伊織の笑顔が、そう思わせる。

「伊織のこと、泣かせてばっかちゃうんか。なあ?」
「お前には関係のないことじゃろう」
「お前、えらい俺のことナメとるみたいやけどな、ホンマに容赦せんぞ」
「はっ……すごい自信じゃの、忍足」
「お前のその怯えた顔を見とったら、そら自信も出てくるわ。現に、ここで待ち伏せしとったんちゃうんか。それでも声かけれんかったのは、俺と伊織のあいだに割り込めんってお前が認めたからちゃうんか」

性懲りもなく、この男を殴りたくなる。そんなことをしようもんなら、また伊織から拒絶されるとわかっていても、忍足の挑発に冷静になれない自分がいた。
認めたわけじゃない。ただ、いまの俺には伊織を責める資格はない、それだけだ。それだけのことを、なんでここまで言われんといかん。よりによって、忍足に。

「ほたえなや忍足」
「なにがや? 図星やったんちゃうんか」
「伊織のことをなんも知らんと、ようそんなに自信があるのう?」
「はあ?」

いまの忍足に、俺が勝てるものは、ひとつしかない。
この想いだけは誰にも負けないと、確信している。伊織のことを俺以上に愛せる男が、いるはずがない。

「俺はな、お前が伊織のことを振って、どういう風の吹き回しか知らんが、急に好きになったとほざくそのずっと前から、伊織だけを見てきた。3年間、ずっとだ」
「ふっ、それがなんやっちゅうねん」忍足が、鼻で笑ってまた挑発した。
俺は、それでも冷静を装った。「最初の質問に答えてやっちょるのが、わからんのか」
「へえ? 俺の気持ちよりお前のほうが強いとでも言いたいんか。そんなもんわかれへんやろ」
「わかるんよそれが。お前とは年季が違う。気まぐれで伊織に恋するような男には、絶対に負けやせん。よう覚えちょきんさい」

それなのに泣かせているのか、と、反論されると決めつけていた。
が、忍足は黙った。色のない目をして俺を睨んで、「しょうもな」とつぶやく。自分の想いだけを一方的に語った俺に、忍足がどういうわけか、わずかに怯んでいる。
そのあいだ、妙な気分になった。お前……なにか隠しちょらんか?

「それでも伊織が俺のこと好きやったら、その想いの強さも意味ないやろ」

忍足への疑念は、そこで途切れた。ことごとく、挑発がうまい男だ。

「伊織は俺が好きなんよ、忍足。もう俺は、そこに不安はない」

だからこそ、泣かせてしまっている。伊織が泣いたのは、俺のことが好きだからだ。
だが……もう絶対に、泣かせたりせん。それを伊織に伝えに来たというのに、わざわざ忍足に因縁をつけてまで、やり場のない怒りを発散している俺は、いったいなんだ。
忍足は、また黙っていた。なにかを言いよどんでいるようなその顔に、溜飲の下がった醜い俺は、その場を立ち去った。

12月4日。誕生日だった。本当ならとなりにいるはずの伊織が、いない。「話したい」と、昨日の夜も、今朝になっても連絡したが、既読のまま返信は戻ってこなかった。
絶望的な気分になる。最高の日になるはずだった今日が、最悪の日になっていた。
仕方なく、自宅でそのまま過ごした。「でかける予定はなくなった」と家族に伝えると、「じゃあ誕生日のお祝いしちゃおう」と、母親が慣れない料理を、大量に作ってくれた。
18歳の祝いの席で家族全員が俺に笑顔を向けてくれたっちゅうのに、俺は表面的にしか笑えんかった。
そんな低迷した夕食を終えて、風呂からあがったころだった。家のチャイムが鳴った。
最終便の配達かと思っていると、今度は姉ちゃんが、俺の部屋をノックした。

「雅治ー。たぶん、彼女だと思うんだけど。佐久間さんって人」
「え?」
「部屋にあがってもらう?」
「……いや、外に行く」

濡れたままの髪で、俺は玄関まで駆け下りた。伊織が俺に、会いに来てくれた。それだけで、この最悪の日を乗り越えられる。そんな気がしていた。
急いで扉を開けると申し訳なさそうに、俺の伊織が、そこに立っていた。

「雅治……ごめん、また遅くに」
「来て、くれたんか」
「うん……あ、髪、濡れてるよ、雅治」
「かまわん、どうした?」
「……じゃあ、ちょっと、話せる?」

抱きしめたかった。だがこれから話すことを考えて、俺はそれをぐっと堪えた。吉井とのことをなにも話さないまま、ごまかしてしまうような気がしたからだ。
伊織が、そっと歩き出す。俺は黙って、その背中について行った。
近くにある遊歩道に入ってすぐのところで、伊織は立ち止まって、俺を見上げた。
体が熱をもっていく。伊織が好きすぎて、どうにかなりそうだ。

「一緒に過ごそうって言ったのに、連絡も無視しちゃって……ごめんね」
「ええんよ」無理もない。あんな場面に出くわして、心がかき乱されたはずだ。
「お誕生日、おめでとう」
「なあ、そんなんええから、話を聞いてほしいんよ」

懇願すると、伊織は優しく微笑んだ。吸い込まれそうな瞳に、息があがりそうになる。

「雅治、わたし、わかってるよ。なにも言わなくても大丈夫」
「俺が好きなのは、伊織だけだ」
「うん、だから……誤解だってわかってるよ、全部」
「伊織……」

一歩近づくと、ぎゅっと、唇を噛みしめるようにして、伊織は目を伏せた。

「ごめんね。見てすぐは、冷静になれなかった」
「当然じゃろ。伊織が謝ることは、なにも」
「雅治が、吉井さんとキスしてて、すごく、つらかった」

ごめん、責めたいわけじゃないの、と、目尻に涙が浮かんだのか、そっとそれをぬぐった。
なにも、言えなくなる。伊織の気持ちを考えただけで、後悔が堰を切ったように暴れだした。

「すまん伊織、俺が」
「それだけ、ね」俺の言葉を遮って、伊織はつづけた。「それだけ、雅治が好きなんだなって、思い知らされた」
「伊織……」
「それは、わたしだけじゃなくて、吉井さんもそうなんだって、同時に思い知らされた」

白い息が伊織の頬をかすめていく。伊織の立場なら、吉井を罵ってもおかしくない。だが伊織は、それをせんかった。俺が好きだという気持ちに共感した、と言わんばかりのその言葉に、急激に、胸が苦しくなっていった。

「何度も言うようじゃけど、俺が好きなのは、伊織だけだ」
「うん」
「油断しちょった、俺が悪かったんよ。もう、あんなミスはおかさん、じゃから」

言い終わる手前で、胸元に、伊織がなにかを押し付けてきた。
見ると、それは手提げ袋だった。突然のことに、困惑する。そっと受け取ると、なかからラッピングされた箱が見えた。

「これ……」
「どうしても、今日、これをあげたかったんだ」

そう言って、伊織は切なげに微笑んだ。





「別れよう、雅治」
「え……?」
「ごめんね、残酷だってわかってる。でもせっかく買ったし、雅治によく似合うと思ったから……やっぱり、あげたくて。わがままで、ごめん」
「ちと、待ってくれんか。なんでそんな話になる?」

雅治が、わたしの腕をつかんだ。さっきまで触れることをためらっていたように見えたのに、いまはすがるように、わたしの腕を、強くつかんでいた。
決心した心が、揺らいでしまいそうだ。その胸に強く抱きしめられたいと思うのに、もう自分の気持ちに嘘をつけない。

「正直に、言うね」
「なにを」
「わたし、雅治が好き」
「それじゃったら!」
「でも、侑士のことも好きなの」

雅治が、絶句した。わたしを見つめる瞳が大きく見開かれて、それが、ぐらぐらと揺れていた。こんな傷つけ方を、したくはなかった。だけど、いまの気持ちのまま付き合うほうが、きっと彼を傷つける。

「こんなの、最低でしょ」
「……伊織、待ってくれ」

絶対に、泣かないと決めていた。あふれだしそうになる涙を、もうこれ以上、雅治にも、侑士にも、見せるわけにはいかなかった。
わたしは、父と一緒だ。どちらも選べない。どちらも大好きで、愛してる。でも、どちらも手に入れるなんて傲慢なことは許されない。
人として……どちらかを選ばなきゃいけないのだと、母が言っていた。
一度は雅治を選んだ。それでも昨日は侑士に、奪い去ってほしいと思うほど、惹かれている自分にも気づいた。あのとき気持ちの上で、わたしは完全に雅治を裏切って、侑士を選んだんだ。

「雅治に、気持ちがあるうちは傍にいてほしいって言われて、そうしたいって思ってたけど」
「伊織、頼む」
「わたしが、嫌なの」
「俺から、離れんで」
「わたし昨日、侑士のキスを受け入れようとした!」

裏切りの感情をぶつけると、わたしの腕を強くつかんでいた雅治の手が、力をなくしていった。そしてゆっくりと、離れていく。

「それが、わたしの気持ちなの……だから、別れてほしい」

雅治はわたしのことを、よく知っている。どうにもならない感情がわたしを支配していることは、キスのことを打ちあけた時点で、雅治にはわかったはずだ。だからもうなにを言っても無駄だと、判断したのかもしれなかった。

「いま、こんな気持ちで、どっちも選べない。わたしにはそういう、ずるい気持ちがある。ずっと前から、あったんだと思う。それをずっと、ごまかしてきただけ」

だから、吉井さんはわたしから雅治を奪おうとした。侑士も、雅治からわたしを奪おうとした。あまりにも脆くて、簡単に崩れそうだったからだ。
黙り込んだ雅治の視線が、痛いくらいに突き刺さった。こんな女に、雅治は幻滅するかもしれない。それでも、やっぱりもう、嘘はつきたくない。

「だからちゃんと、けじめ付けなきゃって思ったの」
「……聞いても、ええか?」雅治が、ためらいがちに声を出した。「それ、いつかはどっちか、選んでくれるんか?」

雅治の想いに、胸が張り裂けそうだった。下手に期待させるようなことは言いたくないと思う一方で、雅治が「待ってる」と言ってくれることを、期待している自分もいる。
最低だ、と、もうひとりの自分が頭のなかにうずまいた。わかってる……いまだって別れると言いながら、雅治に触れられたいわたしは、最低だ。

「いつか、するのかも。でもね、もしもそのとき、雅治や侑士に誰かがいたらしょうがないって、思ってる」

本心だった。そしてもう、耐えきれそうになかった。どんどんせりあがってくる感情が、いまにも氾濫しそうだった。

「……伊織、俺」
「言わないで」

わたしを甘やかすような言葉は、聞くわけにはいかない。

「勝手な女で、ごめんね」

雅治に、背中を向けた。向けた途端、押し寄せていた感情が、あふれ出した。絶対に振り返らないように、わたしは背筋を伸ばして、立ち去った。
しばらくすると、足を踏み出すごとに、喉の奥につっかえていたような嗚咽がもれて、自分のそれに、耳を塞ぎながら歩いた。
すれ違う人が、ものめずらしそうにわたしを見て、くすくすと笑っていた。





to be continue...

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