XOXO_07


7.


退去勧告を受けた翌週の金曜日に、野瀬島のレストランはオープンした。
あの数日後には厳さんと千夏ちゃんに事情を説明して、お店は安全な平日のランチのみの営業に切り替えている。それも月末には、最終日を迎えることに決まった。

「シェフ、手伝えることがあれば、なんでも言ってください」
「ありがとう厳さん。でも厳さんには、レストランでのフレンチをつづけてほしいんです。ラ・シックに話はつけておきました。来月からでも、働けますよ」
「……私は、シェフの傍じゃないと、意味がありません」
「また、戻ってきますから」
「シェフ……」
「待っててください。必ず、僕がいつか厳さんを呼び戻します」

僕から離れることを納得してくれなかった厳さんをようやく頷かせることができたのは、昨夜のことだ。厳さんは独り身だからなのか、給料はいらないと言い張って、なにかやるなら一緒にと、僕についてきてくれようとした。それがなにより、僕は嬉しかった。
煌々とした野瀬島のレストランは、『アン・ファミーユ』の事務所からよく見えた。オープンして3日後。月曜日だというのに、ものすごい人気だ。きっとここの元スタッフも、いまごろ必死で働いているんだろう。
少し切なくなりながら、僕がその風景をぼんやりと眺めていると、控えめなノックの音が聞こえてきた。

「跡部!」
「よう、久しぶりだな、不二」

扉をあけると、そこにスーツを着た跡部がいて、僕は目を丸くした。大石の結婚式以来の跡部は、相変わらず自信満々に笑っていたけれど、どこか疲れているようにも見えた。それにしても……どうして突然、来たんだろう?

「どういうことなんだ? 不二」
「え?」
「お前の料理を酷評していた野瀬島が、あんなところに店を出してやがる」

窓から見える野瀬島のレストランを指差した跡部の眼光は、すべて知っている、と言わんばかりの鋭さを持っていた。
これまで、伊織さんや店の関係者以外には誰にも話していなかったし、誰からも聞かれなかったことを跡部がいまになって口にするのは、なにか深い理由があるんだろう。

「おまけにお前の店はランチ営業のみで、今月末に閉店だと? どう考えてもおかしいじゃねえか。あげくどうしたんだ、その右手は?」
「さすが、調べつくしてるね、跡部」思わず、笑みがこぼれてしまう。
「笑ってる場合なのか、不二」
「うん……もう、泣きつかれちゃったんだよ、僕」

こりずに苦笑しながらそう言うと、跡部はひどく切ない顔をした。優しい男だな、と思う。僕を気にする暇などないくらい忙しいだろうに、なにか嗅ぎつけると放っておけないんだ。

「実はな、不二」と、前置きして、跡部はソファに座った。紅茶を用意しながら、跡部の声に耳を傾ける。「金曜のオープン時、俺はあの店に行ったんだ」

意外な話だった。彼の食生活を想像するに、ほとんど外食なことはわかっていても、わざわざオープンしたての店に足を運ぶとは思えなかったからだ。

「食事をしに行ったわけじゃない。仕事の一環だった」
なるほど、そういうことかと思う。紅茶を出して、僕も着席した。「接待かなにか?」
「いや、そうじゃない。うちの会社のCEO直々に、あの野瀬島という男の協力をするよう頼まれた」

跡部の会社は大手商社だ。そのCEOとなれば、経済を動かすトップクラスの人間だと言っていい。そんな人間が協力をしたいと思うほど野瀬島は大きくなっていたのかと思うと、驚きを隠せなかった。

「で、来てみたら不二の店の近くじゃねえか。しかも閉店宣言の札つきだ。いったい、なにがどうなってる?」
「ん……まあ、ちょっとね」

跡部の仕事のことを考えると、気安く口にはできない問題を抱えているような気がした。
これまでに起きたことがすべて野瀬島の計画である証拠はない。唯一、事実としてあるのは、僕の料理を批判したこと。そして、スタッフのほとんどを引き抜かれたことだけだ。

「不二、俺はそんなにバカじゃねえよ」
「え?」

言いよどんでいると、跡部がニヤリとして、紅茶を口に運んだ。
また、僕が驚いた顔を見せたせいだろう、跡部はなにかを思い出すように、優しく微笑んだ。

「最近、演技指導ばかり見ているせいか、人の考えていることが前よりもわかるようになってきちまってな」
「演技指導?」
「ああ……だから、なにも心配はするな。俺も、CEOが突然言い出したことを不審に思っている。おそらく裏があるはずだ。俺は権力には屈しない。野瀬島がクリーンでないなら、たとえ会社をクビになろうがこの仕事を進める気はない」
「……すごいな。跡部らしいや」

出会ったときから、跡部という男にはかなわないと思っていた。それは彼の強さもさることながら、彼のこの誠実さに根づいている、跡部景吾という人間そのものの美しさに圧倒されたからだ。

「話すよ。ちょっと長いし、憶測ばかりだけど、いいかな? 僕の考えというより、僕の友人が、考えてくれたことなんだけど」
「かまわない。聞かせてくれ」

僕は跡部に、伊織さんがしてくれた、あくまで推測である野瀬島の件と、これまでの経緯を話した。僕を引き抜くためになされた計画だとしたなら、彼が暴力団とつながっている、ということになる。そしてこの店の退去勧告も、もしかしたら野瀬島が仕組んでいたことかもしれないと、僕は最後に付け加えた。

「ふむ……あながち、そのガラス職人が言っていることは間違ってねえ気がする」
「あれ? 僕、ガラス職人なんて言った?」
「アーン? 自分が話したことを忘れてんのか? お前の話のほとんどに、その女が出てきてるじゃねえか」

急に、恥ずかしくなってきた。無意識で伊織さんの名前を連呼していたのかと思うと、自分の想いに気づかされるのと同時に、跡部になにか、見抜かれてしまったような気がして。

「ふっ……そうか、その女に惚れてんだな、不二は」やっぱり、見抜かれてる。
「跡部……そんなことまでわからなくていいよ」いくら、演技指導を見てるからって。
「ま、わからなくもないぜ」ニヤニヤしている。英二と同じことを言うんだな、と、ふと思った。「お前に大切なことを教えてくれてるじゃねえか、その女」
「……大切なこと?」
「そうだろ? 料理さえ口にすれば不二だとわかるほど、お前はその女に感動を与えた。そうやって人の記憶に一生残る料理を出して、その一瞬だけでも笑顔にするのが、お前の本当の目的じゃねえのか?」

跡部の言葉に、強く胸を打たれた。
そうだ、僕は伊織さんに、その感動を与えてもらった。だからこそ、このお店を守りたいという気持ちは、より強くなった。だけど……お店じゃなくても、それはできる。伊織さんの笑顔を思い出して、僕はひらめいていた。

「料理の提供はどこでだってできる。そうだろ不二?」跡部も、同じことを考えていたみたいだ。「俺が必要になったらいつでも呼べ。なんでも手配してやる」
「跡部……」
「いまのお前は、遠慮なんかしてる場合じゃねえんだよ。プライドってのは、ときには弱さを認めて人に頼ることで、もっと高潔になっていくもんなんじゃねえのか?」

そう言って、そっと跡部はソファから立ち上がった。窓に向かっていく。その先に見える野瀬島の店を見ながら逡巡したあと、僕に振り返った。

「お前のそのプライドは、俺が守ってやる。だから野瀬島には手を出すな。その遺恨は、俺に預けろ」

泣いてしまいそうだった。弱りきっていた僕を知っていた跡部は、何度もいろんな提案をしてきてくれていたのに、僕はそのすべてを突っぱねていた。そのプライドが、跡部を悲しませていたのかもしれないといまさら反省して、それでもこうして手を差し伸べてくれる跡部に、胸が震えた。
彼に愛される女性は幸せだろうな……そんなことが、頭をよぎった。

「アーン?」

そのとき、跡部が窓の外を見て、お決まりの口癖を発していた。
不思議に思って窓まで移動すると、どうやら彼の視線は、コンビニ前で野瀬島の店をぼんやりと見ている女性に向けられていた。

「どうか、したの?」
「あのバカ女……」

と、跡部が言い終わらないうちに、女性はコンビニへと消えていく。
それでも少しだけ店内から見え隠れする彼女を、跡部はしつこく目だけで追いかけていた。

「知り合い?」
「……まあな。ったくなにしてやがんだ」

さっきとはまったくと言っていいほど違う視線で、じっと彼女を見つめる跡部に、僕は笑い出しそうになってしまった。
彼は、目の前にいる人間の考えていることがわかるようになっても、自分の頭のなかのことには、無頓着なんだろうか。口から出てくる言葉とは裏腹に、その瞳は揺れているのに。

「ねえ、跡部」
「なんだ?」
「食材、持って帰らない? すごく余ってるんだ。どうせ誰かに配ろうと思って、クーラーボックスに詰めておいたから、運ぶの手伝うよ」
「……そうか、悪いな。遠慮なくいただくとしよう」
「うん。早く、しなくていいの?」
「あ?」
「だって、早くしないと、彼女を追いかけられないでしょう?」

あの人、と、僕がコンビニを指差すと、跡部は怪訝な顔をして僕を見ている。
ああ、やっぱり。と思うと、また、笑ってしまった。

「なに笑ってんだ、てめえは」
「ねえ、跡部」
「なんだよ」
「君こそ、恋してない?」

跡部の目が大きく見開かれて、僕はついに、吹き出した。





月末、最後のランチ営業を早めに終えて、僕はお弁当をつくっていた。

「シェフ、なにつくっているんですか?」
「うん、ちょっとね」

店をたたむと告げてからしばらくは目を腫らして出勤していた千夏ちゃんも、この頃は元気を取り戻してきている。それでも今日、3人で「お疲れさま」と声をかけあったときは、泣き出しちゃったんだけど。

「お弁当……ですよね?」
「うん、そう」

僕の手元を覗き込んで、千夏ちゃんはじっと様子を見ていた。左手だとうまくフライパンが振れないけれど、僕はなんとかお弁当をつくり終えていた。

「ひょっとして、それ、伊織さんにつくってます?」
「……ふふ。秘密」

お弁当箱の大きさを見て、千夏ちゃんは女の勘を働かせた。嫉妬の入ったその口調に気づかないフリをしながら微笑んで見せたけれど、それは逆効果になってしまった。

「シェフ、もう別れたんじゃなかったですっけ!」
「やめないか。お前さんには関係ないと言っただろう」

厳さんの声に、千夏ちゃんはまったく怯む様子もなく、僕を睨みつけていた。
こういう困った日常も、今日で終わると思うと、ちょっぴり寂しくなる。かといって、千夏ちゃんに迫られたいわけじゃないんだけど。

「あ、千夏ちゃん。夕方は19時でいいんだよね?」
「そうですよ! そうやってシェフは、いっつも話を逸らすんだから!」

3人だけでする打ち上げの話をしてみたものの、これも逆効果。積極的な女の子に、僕はいつも面食らってしまう。伊織さんがこれほどヤキモチを妬いてくれたら、すごく嬉しいのに、なんて……千夏ちゃんが聞いたら激怒しそうなことを考えた。
質問攻めにあいながら、僕はそそくさとお弁当を包んで店を出た。伊織さんのお昼休憩はもう終わっているかもしれない。それでも夜に食べれるように、保冷剤をたくさん入れた。

「食べながらでいいから、聞いてくれる?」
「はい、美味しいです!」

久々に会った伊織さんは、相変わらず、すごくかわいかった。
なんとかお昼を食べる前の伊織さんに会えて、僕はとても満足していた。彼女の少しだけ暗かった顔が、僕の料理を口にした途端、まぶしいくらいの笑顔になる。
これなんだ。僕が彼女から教わったのは、この一瞬の幸せを確実に与えるために、僕は料理の道を選んだ、ということ。そのためにこれまで頑張ってきた。長い時間をかけて、技術をものにしてきた。それは疲弊していく日常のなかで、僕が忘れかけていたことだったのかもしれない。
ああ……その笑顔をこれから崩してしまうのかと思うと、少しだけ気が重いな。

「僕、店をたたむことに決めたんだ」
「……えっ?」

好きだと気づいてからというもの、彼女をとりまくものが、はっきりと見えるようになっていた。
すでに潤んでいきそうな目の奥と、不安そうに開く唇。どんな表情も、僕の心を強く惹きつける。それは、さっき会った香椎さんも同じなんじゃないかと、直感が伝えてきていた。

「伊織さん」
「……不二さん、ダメですよ、諦めないで」
「お願いだからいまだけは、突き飛ばさないで聞いてくれる?」

ダメです、と何度も僕に訴えかけてくる伊織さんの悲痛な声に、胸が傷んだ。お店の関係者でもないのに、知り合って2ヶ月も経っていないのに、どうして彼女はこんなに、僕に優しいんだろう。思わず抱きしめそうになる衝動を抑えて、僕は彼女の手を、強く握った。

「退去勧告されてから3週間、僕の料理を絶賛してくれた伊織さんのことを、ずっと思い出してた」
「ふ、不二さん……あの」

僕の熱に、伊織さんは戸惑っていた。お願い、どうか……少しだけでいいから、この手を離さないで。

「どんなことがあっても、僕の料理を美味しいって。今日みたいに、大好きだって言ってくれる人がいる。実はそれが、お店をつづけることよりも、僕が絶対に守っていかなきゃいけないことなんだって、気づいたんだ」
「え……」
「フードトラック、やることにしたんだ」

跡部には、あれから数日後に連絡をして、僕は思い切り甘えることになった。「フードトラックをやりたいんだ」とだけ告げたのに、それから1週間後には小さなフレンチレストランなみの設備が整ったトラックを「オープン記念だ」とプレゼントしてくれた。
本当はフードトラック販売のいい業者を紹介してもらおうと思っただけだったから、困惑したけれど……跡部から言われたことを思い出して、ありがたく受け取ることにした。

「僕は戦争に負けた。それは僕が弱かったからだ。でも、僕は同じ相手に二度負けない」

いつだか言ったようなことを、口走っていた。そうだ、僕はもう、絶対に負けない。この先、どんな困難が待っていても、伊織さんが教えてくれたことを、生涯、守り抜く。

「僕だけの力で、僕がたくさんの人を料理で幸せにする。それが本当に大切なことだって気づかせてくれたのは、伊織さんだよ。だからもう、ごめんね、は言わない。ありがとう」

手を離すと、伊織さんはやっと納得したかのように僕を見つめてきた。あふれそうになっていた涙は、なんとか踏みとどまって消えている。
ほっとした。好きな子の泣き顔には、弱いから。また勢いでキスしちゃったら、今度こそ本当に嫌われちゃう。
と、思い出したついでにキスのことを謝ったら、伊織さんは怒ったように口を尖らせた。

「そ……それは、もう、別に、いいですよっ」

顔を赤くしてかわいいったら。そういうのが僕を誘惑してるって、どうして気づかないのかな。

「それでね、伊織さん」
「まだ、なにかあるんですか?」
「うん。最後のアドバイス」
「え」
「香椎さん、伊織さんのこと好きになってると思う。だから、頑張ってね」

わざわざ自分が不利になることを伝えたのは、もう卑怯な手は使わず、きちんとフェアに伊織さんと向き合いたかったからだ。それくらい純真じゃないと、彼女に釣り合う男にはなれない。そんなふうに思った。
僕のその言葉を聞いて、伊織さんはなぜか目を伏せた。僕に言われるまでもなく、すでに気づいていたことなのか、それとも、もう発展している仲なのか。

「こんなときに、なに言ってるんですか」

意外な返答だった。そしてその語気は、強かった。このあいだまで、彼とどうにかなりたい一心で僕にあれこれ聞いてきた伊織さんとは思えないほど、やけにムキになっている。

「だって……僕は君の、恋のアドバイザーでしょう?」
「そうだけど……不二さんが大変なときに、そんなにのん気に恋なんてできませんよ」
「……嬉しく、ないの?」
「う、嬉しいですよそれが本当なら! だけど、それとこれとは別です!」

なんで怒っているのか、わからない。だけど、僕が大変なときに恋はできないという伊織さんに、深いため息をつきそうになった。だってすごく……思わせぶりだから。
もう……いま以上に好きにさせて、僕をどうしたいの?





その日、僕は朝まで厳さんと飲んでいた。
千夏ちゃんが終電を気にして帰ったあと、僕たちも帰るそぶりを見せつつ(そうしないと千夏ちゃんは果てしなく僕らに付き合いそうだったから)、彼女を見送ったあとに、示し合わせたようにバーに入った。
お酒を飲んだ厳さんは、饒舌になる。彼は僕についてきてくれているスーシェフだけど、人生の先輩だ。厳さんの話を聞くのは、とても楽しかった。
おかげで、目が覚めたときは午後になっていた。怠けきった体を無理に起こしてシャワーを浴びた。ひと切れのバケットとコーヒーを口にして、ノートを開く。
1週間後にはいよいよ、僕の新しい、小さなお店がオープンする。たったひとりきりの挑戦だけど、心躍る感覚はごまかしようがなかった。
ときどき休憩をとりながら、あらゆるメニューを考案しつつ、約4時間。暗くなりはじめたころに、マンションのチャイムが鳴った。
頼んでいた食材かな、と思いながらインターホンを確認すると、昨日会ったばかりの、伊織さんがそこにいた。

「……え?」
「不二さんですか? 開けてください!」
「あ、はい」

なにしに来たんだろう、と思う。それでもエントランスで会話をするのは気が引けたから、ロックを解除した。
まもなくして、家のチャイムが鳴り響く。扉を開けると、やっぱりそこには、伊織さんがいた。あたりまえのことだけど、あまりに突然すぎて、うまく反応できない。

「……なんで?」
「それは……お話が、あるからですよっ」

うーん、と思わず声がもれ出る。嬉しくてしょうがないのに、複雑さがうずまいて、考えてしまう。部屋にあげたとして、僕が我慢できなくなったら、どうする気なんだろう。

「ねえ、伊織さん。男の家に簡単にあがっちゃダメだって、僕、言わなかった?」
伊織さんは、ぷっと頬をふくらませた。「あがっちゃダメとは言われましたけど、押しかけてダメだとは言われてません」
「……同じことでしょう? 僕、今日、風邪もひいてないから、元気だよ?」

というか、このあいだ強引にキスしたこと、忘れた?
そういう、乱暴な部分があるのに、僕には。だからあまりに無防備な姿を見せられるのは、困るんだけど。

「どうせそんな手で、たいしたことできませんから。とにかく、お話があるんです!」
「はあ……わかったよ。じゃあ、あがって」

官能的なことを想像させる言葉に、また、面食らう。このあいだ「セックス」という言葉を聞いたときも面食らったけど、彼女、こういうところがすごく天然だ。
もう……我慢できなくなったら、本当に知らないんだから。

「話って?」
「はい、ご相談があります」

ソファに座らせて、淹れていたコーヒーをカップに注いだ。ご相談、という言葉にげんなりする。昨日は、恋なんてできないと言いながら、また香椎さんの話を聞かせる気ってことなのかな。
でも伊織さんの相談は、想像を超えたものだった。

「不二さん、わたしに調理補助をやらせてくれませんか?」
「は……え?」
「調理補助です」
「ちょ、ちょっと待って」

なにを言い出しているのかわからなくて、手をあげて制した。

「調理、補助?」なに言ってるの?
「はい、フードトラックのです」
「いや……あのね、伊織さん。補助、必要ないから。ほとんどつくったものを積むし……仕上げだけすればいいように」
「だから言っているんです。営業中のお手伝いはわたしも仕事があるからできません。でも仕込みなら、朝ならできますもん!」

またこの人は……なにかとんでもなく、おかしな方向に責任を感じている気がする。

「必要ないってば」
「でもそんな手で、どうやってお野菜とかお肉とか切るんですか? どうせフープロとか、切られたものとか使うんですよね? いんですか、そんなこだわりのないことで。ああいうのは、技術者が切らないといけないんじゃないですか?」

きっと最初から断られることをわかっていて、用意してきたような言葉をはいた。
その証拠に、伊織さんらしくもなく、早口に僕を責め立てている。だけど混乱しているのか、その矛盾にはどうやら気づいていないらしい。
まあ、そういうとこも、かわいいって思っちゃうから、僕もどうしようもないんだけど。

「伊織さん……技術者が切らないといけないなら、伊織さんでもダメだよね?」
「あ」
「ふふっ……どうしちゃったの? らしくないよ。なにかあるなら言って?」

伊織さんが、ひどく残念そうな顔をして、目を伏せた。純粋な人だから、なにかあると全部、自分で背負っちゃうのかもしれない。

「……心配すぎます。不二さん、そんなことしたことないのに。しかもまだ怪我がある状態で。わたしのグラスのせいなのに」

そんなこと、というのはフードトラックのことだろう。
思ったとおりの答えに呆れながら、含み笑いを浮かべてみる。

「そんなことだと思った。なんでそんなに人がいいんだろうね、伊織さんって」
「別に人はよくないです。でもなんか、じっとしてられないんです」

これだから、変な期待しちゃうのに。まいったなあ……君に片思いする男は、苦労するよ。
少しだけ頭を抱えそうになりながら、さて彼女をどう納得させようかなと思っていると、また、マンションのチャイムが鳴った。今度こそ、食材の配達かもしれない。

「あ、お客さん、ですね」
「うん、食材かもしれない。伊織さん、晩ごはんまだなら、なにか食べていく?」
「えっ! いいんですか!?」
「もちろん。食事でもしながら、ゆっくり話そう?」

少し、デートみたいだなと思いながら、押しかけた伊織さんが悪いんだからね、と心のなかで思った。
でもその安らぎにも似たときめきは、インターホンを押した瞬間に終わった。

突然に来た千夏ちゃんは、「シェフに提案があります!」と告げてきた。打ち上げでも泣きっぱなしだった千夏ちゃんを無下にするのも気がひけて、僕はあっさりマンションのロック解除をしたのだけど、それを見ていた伊織さんは「え、不二さん! どうして千夏さんは簡単に部屋にいれるんですか?」と非難した。

「彼女は、スタッフだったし……」
「わたしだってスタッフでしたよ?」
「伊織さんは無防備すぎるから、注意したんだよ」
「そ、千夏さんだって無防備じゃないですか!」

なんでわたしだけ……と、自分が子ども扱いされている気がしてるのか、むすっとしてつぶやいた。
じゃあ、なに? 千夏ちゃんをどうにかする気はないけど、伊織さんには我慢できなくなるかもしれないからって言えば、満足……?

「……別れたんじゃなかったんですか?」
「それはいいから、提案って?」

やがて部屋に来た千夏ちゃんは、玄関先で伊織さんの靴を見た瞬間にそう言った。やっぱり下手な嘘はつくものじゃないな、と反省する。

「お邪魔します!」
「え、千夏ちゃん……!」

というか、別れた人と僕が会ってたって、千夏ちゃんになにか言われる筋合いはないのだけど。千夏ちゃんは怒ったように部屋にあがっていった。
千夏ちゃんが入りたてのとき、スタッフを全員うちに呼んで歓迎会をしたことがある。もう、部屋にあがるときの遠慮は、どうやら失くしてしまったらしい。

「千夏さん、こんばんは!」
「あ、伊織さんこんばんは! どうしたんですかー? 奇遇ですね!」
「ちょっと、用があったんです」

女性というのは、表面的には仲よくできるからすごい。伊織さんは千夏ちゃんのことを嫌ったりはしていないけど、千夏ちゃんはいつも、ライバルを見るような目で伊織さんを見ていた。
おかしな三角関係状態に、全身が重くなるような動揺を覚えていたけど、今日は、いちばん重たい……。

「それはいいから……千夏ちゃん、提案ってなあに?」
「シェフ、トラックのオープンは来週の月曜でしたよね?」
「うん、そうだけど」
「その手じゃなかなかスムーズにオープンできないと思うので、あたし、補助をします! バイト代はいりません!」

めまいがしそうな展開に、静かに目を閉じた。誰にも聞こえないようなため息が体から自然とでていく。また、重くなってきた。

「あ……千夏さん、それはあの、わたしがやることになったので!」
「え?」
「伊織さん、やることにはなってないから」どうしちゃったの、本当に。
「そうですか。伊織さんも、そういう話をしに、ここにいらっしゃったんですね」千夏ちゃんの眉根が、ピクリと動いた。
「そうなんですよ。大変そうだなあって。やっぱり思いますよね、千夏さんも!」
「ええ。でも別れた彼女にわざわざ手伝ってもらうのって、シェフも気まずいと思います。あたしが手伝いますから、伊織さんは本業のお仕事をしっかりされたほうがいいんじゃないですか?」
「そ……それは、そうですけど。あ、でも職人の朝って早いので、仕込み時間にピッタリ、仕事とも時間はかぶりません!」
「だけど伊織さん、素人だし。料理の補助、大変だと思いますし。あたしはほら、パティシエですから! ある程度いろいろわかってることも多いんで!」
「はい、そこまで。いい加減にしようか、二人とも」

パン、とひとつ手を叩いてそう言うと、彼女たちはぎょっとしたように黙り込んだ。
そんなに脅かしたつもりはないんだけど、怖かったかな……。
とはいえ、このままこの不毛な争いをつづけてほしくもない。なんだか僕の取り合いみたいになっている状況は、男としては悪い気はしないのだけど、僕、こういうのすごく苦手……。
彼女たちが黙り込んだのをいいことに、しばらく考えた。このままじゃきっと納得しないだろうし、たしかにオープン初日はなにが起こるかわからない。伊織さんの言った、「そんなことしたことないのに」は、実は的を射ていると思っていた。
それに、この状況が、ものすごく面倒くさい……。

「……わかったよ。じゃあ伊織さんは朝の仕込みの調理補助、千夏ちゃんはトラック内での接客と補助。ただし、怪我が治るまで。それでどうかな?」

ぱあっと、伊織さんの顔が明るくなった。そうだね、きっとやらせなきゃ気が済まないよね、伊織さんは。これまでの彼女の行動からして、そういう人だ。
一方の千夏ちゃんは、あまり納得してはないようだけど……。

「朝だってあたしが……」
「名案です不二さん!」千夏ちゃんのつぶやきが聞こえなかったのか、伊織さんは両手を合わせて喜んだ。
「ふふ。でしょう? そのかわり、バイト代は安いからね?」
「いりませんよそんなの! あ、わたしは、という意味で」
「あたしだって……夜は別の仕事、週2ですけど、もう探しましたから。いいんです、お昼は。シェフのお手伝いさせていただけるだけでも、こっちがお金を払いたいくらいです!」

千夏ちゃんも、かわいいところがある。だからなんだか憎めない、妹みたいな子だ。

「ふふ。ありがとう。じゃあ千夏ちゃんも、ご飯、食べてく?」
「え! いいんですか!」

機嫌がすっかりよくなった千夏ちゃんに、僕と伊織さんは目を合わせて苦笑した。





当日。約束どおり、伊織さんは仕事前、僕の部屋にやってきた。彼女を部屋にいれるたびに緊張する。それでも今日は仕事だとわかっているから、このあいだよりは心の焦りは幾分かマシだった。

「伊織さん、そこにあるにんじんをジュリエンヌでお願い」
「じゅ……じゅ?」
「あ、ごめんえっと、千切り、ね」
「あ、千切り! はい!」

包丁を持つ伊織さんの手は、すごくあぶなっかしい。申し訳ないけど、それでよく調理補助を志願したな、と思ってしまう。まあ、気持ちだけで突っ走るところがある人だから、仕方ないのかもしれないけど。

「あっ! まずはスライサーを使って!」
「えっ……あ、そうなんですね。すみません!」

先が思いやられる……だけど、伊織さんとこうして毎日、一緒に料理をすることになるんだと考えただけで、浮き足が立っている自分もいた。
はるかに、僕ひとりでやったほうが効率はよさそうだけど……かわいそうだから、言わない。
仕込みは1時間半で終わった。いまから準備して出れば、許可をとっていたオフィス街には9時半には到着できて、11時にはオープンができそうだ。

「やった……終わりましたね不二さん!」
「そうだね。伊織さん、それ、味見してみて?」
「え、いいんですか?」
「もちろん。味見しないと、お客さんに出せないからね」

抑えきれないのか、にんまりとして伊織さんは近くにあるスプーンをとった。かぼちゃの冷製ポタージュスープを先端にすくって、口づける。目を閉じたまま「んー!」とさがっていく目尻が、とってもかわいかった。

「美味しい?」
「すっごくすっごく美味しいです! 不二さんもどうぞ!」
「あ、僕は……」

いいよ、と言い終わらないうちに、伊織さんは僕の口もとに同じスプーンを差し出した。
胸が、急に音を立てはじめる。少しだけ目を逸らしながら口づけると、無邪気な笑顔が僕を見上げていた。

「ね? 美味しいですよね!」
「うん、すごく……甘くて、美味しい」

何度もつくったことのあるスープだったから、味はわかりきっていたんだけど。伊織さんが口づけたスプーンで、伊織さんに、口まで運んでもらっている……それだけで。これまで何度もした味見よりも、それはとても、甘かった。
はあ……いい歳して、信じられないくらいドキドキしてる。このあいだは強引にキスしておいて、自分でも意味がわからない。でも……こんなに幸せな瞬間があるなら、この怪我、しばらく治らなくてもいいや。






「っていうか、シェフと伊織さんって、いったいどうなってるんですか?」
「うん?」

午前10時半。オープンの準備をしながら、千夏ちゃんはぶつくさと文句を言っていた。伊織さんの前では遠慮したんだろう、聞きたいことを今日こそは聞いてやろう、と思っていたのかも知れない。
怪我が治るまで、こうした質問をチクチクと受けるのは厄介だ。千夏ちゃんのお手伝いにはとっても感謝しているけど、そろそろはっきりさせておいたほうが、いいのかもしれない。

「だって、別れたって言ってたのに、お弁当つくったり、家で会ってたり。別れてないみたいですよ」
「付き合ってないのは、事実だよ」

過去ついた嘘をごまかすように、そう言った。相変わらず卑怯だなと、自分でも思う。

「でも、なんだか別れているように見えないですよ」
「うん……僕が、好きだからね」
「え?」
「僕が、一方的に伊織さんをまだ好きなんだ。きっと忘れられないと思う。だから彼女が会いに来てくれたら会うし、僕が会いたいと思ったら、会いにいっちゃうんだよ」

お弁当を口実に、ね。と付け加えると、千夏ちゃんの表情は、みるみる悲しみをまとっていった。
ごめんね。傷つけてると思うけど、それが本当の気持ちなんだ。

「そう、ですか……」
「ほら、そんなことはいいから、準備お願い」
「はい……はい!」

ぎゅっと強く目を閉じて、千夏ちゃんは覚悟を決めたように2回、返事をした。この子も本当に、いい子だと思う。つらくても頑張る、その基本が備わっているのがわかったから、僕はこの子を採用した。努力の人だから、きっともっと、いいパティシエになれるはずだ。
少しだけすっきりした気分で歩道を行き交う人たちを観察する。もしかしたらお客さんになってくれるかもしれない人たちの、平坦な表情。僕の料理で笑顔にできたら、すごく嬉しい。
そのときのことを想像して、信念がみなぎったときだった。いくつもの平坦な表情のなかに、思ってもみない顔を見つけた。

「越前……?」
「えっ……、不二先輩?」

越前は駆け足に、僕に向かってきた。ドキッとする。連日、ニュースで膝の報道を見ていたから。

「越前、走って大丈夫なの?」
「あ、膝は……はい、すっかり。当日にはもう、歩けるようになってたんで」
「え……本当? すごい回復力だね」
「いや……回復、させてくれた人がいただけッス」

さみしげな表情を浮かべて、越前はふっと微笑んだ。
どうしてだろう……越前が故障してからの1ヶ月を、なにも知らないけれど、テレビで見たあのときの越前より、人として、男として、ずいぶんと大きくなっている気がした。世界ランク1位のテニスプレイヤーとあれだけの死闘をくり広げたのだから、それも当然かもしれない。

「大変、だったでしょう? いつ帰国してたの?」
「今日、帰国したばっかです。ちょうど1ヶ月経ったんで。しばらく日本で休養になるんスよ」

検査やその後の入院、日本に戻ってくるいろいろな手つづきで、1ヶ月ほどかかったんだろう。それでも、今後はときどきこうして越前に会えるのかと思うと、素直に嬉しかった。

「不二先輩は? なにしてんスか?」
「ああ……うん。いろいろあってね。フードトラックをやってるんだよ」
「フードトラック? なんで不二先輩が?」
「うーん……話すと長くなっちゃって、オープン時間に間に合わない気がするな」
「え」
「今日オープンなんだ。よかったらサービスするから、1つどう?」
「いんスか? あの、何時までここいます?」
「在庫があるうちはいるよ。たぶん夕方くらいまで」
「じゃあ、あとで寄るんで。オレ、ちょっと行きたいとこあるから」
「へえ? そうなんだ?」

そのときだった。目線の先に、この世でいちばん見たくない男が鍼灸治療院から出てきていた。越前もそれに気づいたのか、同じ場所に目を向けた。

「もう開いてんだ……」
「え?」
「いまがチャンスかも。すみません不二先輩、またあとで来るんで」
「あ、うん」

目の色が変わった越前が、また走り去っていく。そして、野瀬島とすれ違った。入れ替わりのように僕に気づいた野瀬島は、あの嫌味な笑みを顔にはりつかせたまま、目の前までやってきた。

「ご無沙汰してますね、不二さん」
「こんにちは」

前に会ったときは、憤りでどうにかなってしまいそうだった。でもいまは、ごく冷静に彼を見返せる。予期していなかったその成長に、自分でも驚いた。

「キッチンカー、ですか。いやもちろん、小耳には挟んでいましたけど」オープンおめでとうございます、と、慇懃無礼に付け加えた。
「ありがとうございます。よかったらどうですか? 差し上げますよ」
「いやいや、結構。私はこれからランチが入っていますから。忙しいんですよ、なかなか」

なんとも思わない自分が、不思議だった。ああ、そうか、と気づく。跡部が忠告してくれたことをきっかけに、僕のなかにはいろんな思いが広がっていたんだ。
僕はひとりじゃない。応援してくれる仲間がいる。協力してくれる仲間も、大好きな人だって、一生懸命になって、僕を支えてくれようとしている。
だからこそ、こんな男にかまってる暇はないんだ。

「ああ、その前に不二シェフ」
「なんでしょうか?」

立ち去ろうと背中を見せた野瀬島は、またこちらに振り返った。小さなバッグからなにかを取り出す仕草と同時に、彼は言った。

「私のレストランからのオファーは、まだ有効ですから。あのとき、置いて帰られたでしょう。もう一度、差し上げます」と、名刺をわたしてきた。

すでにオープンしているから、シェフ・ド・キュイジーヌはいるはずだ。だというのに、どこまで貪欲で、薄情な男なんだろう。

「……ご丁寧に、どうも」

仕方がないので、名刺を受け取ろうとしたときだった。野瀬島のバッグから、僕の足元に一枚の紙がひらりと落ちた。
僕がそれを拾い上げようとしたとき、乱暴に上から手が伸びてきた。野瀬島の手だった。

「それでは、また」

焦ったように紙をしまいこんだ野瀬島は、やっぱり焦ったように背中を向けて去っていった。
僕には、その紙がなんだかわかっていた。さっきの鍼灸治療院の領収書だ。そんなことよりも、もっと気になったことがある。その宛名には、『株式会社 アスピア商事』と書かれていた。
それは跡部の勤める、大手商社の社名だ。





to be continued...

next>>08
recommend>>ビューティフル_07



[book top]
[levelac]




×